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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • 西インド諸島の夢と光と風#12

    「ポルトプランスからは一晩かかります。かなりきついです」 "ヴェルティエールの戦い"という僕のリクエストにピトが言った。滞在期間4日の中では相当無理があるリクエストだ。 「Kap Ayisyenに一泊してでも行ってみたいな。無理かな?」ぼくがそういうとピトは笑った。 「叔父さんが言ってました。必ず行きたいと言うよって。でもカパイシャンに"ヴェルティエールの戦い"の痕跡は皆無だし、行っても街でお茶飲んで帰るだけになるって」 「でもモニュメントがあるような?Heroes Monument of Vertières」 「はい。取って付けたようなものですが、あります。5分見れば終わります。」

  • 西インド諸島の夢と光と風#11

    当時の欧州経済が、如何に新大陸のプランテーションによって支えられてきたか。1789年末、Gazette de Paris誌に掲載された「黒人の状態について」という記事から、一部を引用する。 「植民地が無くなるようなことになれば、フランスは20億ルーブルを失い、スェーデンのように銅貨を使わなければならなくなるだろう。瀟洒品製造業者や技術者や職人はフランスを去って他の所で生計を立てなければならなくなる。植民地が必要とする物産を供給してきた製品工場は全滅する。 プロバンスやギエンヌやサントンジュの葡萄栽培も半減するだろう。マルセイユ、ボルドー、ラ・ロシェル、ナント、ル・アーブル、ルーアンの街

  • 西インド諸島の夢と光と風#10

    その夜、ディナーの時に歴史博物館を案内してくれたピトが「マイクさんは西インド諸島の先住民の歴史に興味があるのですか?」と聞いてきたので、少しだけこんな話をした。 「そうだな・・うん。ある。本来は大地に拠って生きているはずの人々が、なぜ島嶼まで拡散していくのか‥その理由に強く興味を抱いてしまうんだ。カリブ海の島々にいた先住民は、主に4族、アラワク族・タイノ族・ルカヤン族とカリブ族だったんだよ。いずれも海洋民族で漁労によって生活していた人々だ。 彼らがカリブの島々に渡ってきた経緯は、残念ながら詳細は分かっていないんだけどね。それでも出自が、ブラジル・アマゾン川流域であることは間違いないよう

  • 西インド諸島の夢と光と風#09

    コロンブスは大西洋の西の奥に島嶼を発見した。しかしそこは予想していた黄金の島ではなかった。彼は、彼のスポンサーにまともな釈明できなかった。なので二回目の航海は、黄金を手に入れるため、大量の人間を連れて出帆している。 ところが最初に発見したサンセバスチャン島に到着してみると(キューバではない)前回の時に作っておいた城塞は焼き落ちて、残った部下たちは全員殺されていた。インディアンは従順なはずなのに? 「お前の家を襲ったのはカリブ族である。」通訳として使っていたアラワク族の若者が言った。そして「カリブ族は、村を襲い、女をさらった後、男と子供を焼いて食べる。」と説明した。 「お前の部下も、全員

  • 言われるがままに尻尾をふる犬

    防衛費肥大化させるキシダコメントを見ていて、暗い気持ちになるのは・・「防衛」とは何かについてのリアルな知見が「東大話法」でしかされてないことです。なにをもってして「防衛」とするのか?なぜその「防衛」のために、アメリカから兵器を買い増ししなければならないのか?その議論がごっそりと削ぎ落されていることです。 まさか本気で日本が独自で攻めてきた敵に、あるいは脅威に立ち向かえると思っているのか?そんなこと親方アメリカは認めていないことを忘れたのか?日本には「軍」はない。あるのは「隊」だけだということ。忘れたのか?? 鳥肌が立つ思いです。 ご存じでしょうか?あのとき戦負国になった日独伊には、

  • 西インド諸島の夢と光と風#08

    博物館の2階はキューバ革命(1959年)以前をテーマにした幾つかの部屋が有った。ピトは、現代から過去へというルートで僕をキューバ史の中を歩かせるつもりらしい。 「いまのキューバには先住民の血はありません。先住民はスペイン人によってすべて狩られ絶滅しました。欧州から持ち込まれた伝染病で滅んだという話が尤もらしく宣伝されていますが、そんなのはほんの少しです。先住民は、サトウキビプランテーション運営のために狩り出されて酷使され滅んだんです。その後釜をアフリカから連れてきた。いまキューバの最下層を構成している人種は、代替えで連れてこられた象牙海岸の黒人、スペイン本土イベリア半島の先住民、そして

  • 西インド諸島の夢と光と風#07

    ハバナにある革命博物館(旧キューバ大統領府)旧市街アルマス広場から徒歩で15分くらいのところにある。 ガイドを頼んだピトが最初に案内してくれたのが此処だ。カバーニャ要塞の対岸にある。 ピトはホセ・マルティ大学の学生で、僕のNYCの仕事仲間の甥っ子だった。技術系の学生だが、自国の歴史については日本の同じ年代の若者より詳しかった。 彼が運転する古いビュイック(親戚の借り物だと言ってた)を博物館の前にある露天駐車場に置いて、入館した。なかなか荘厳な建物だ。入り口には旧市街の城壁の断片、1961年のピッグス湾侵攻作戦でカストロが使用したSAU-100戦車が展示されている。 「ここは革命前は大

  • 西インド諸島の夢と光と風#06

    スペイン王室とポルトガル王室が大西洋より向こうの世界を南北に二分して所有宣言をしたとき、ブラジルを新天地として熱く見つめたのはポルトガルのキリスト新教徒とユダヤ人だった。彼らがブラジルにおけるサトウキビの可能性を模索したのだ。 北アメリカでも同じように、正統からはみ出た人々がユートピアを求めて大西洋を渡ったが、ブラジルへ渡ったキリスト新教徒とユダヤ人たちは、もう少しビジョンとお金を持っていた。なので移植して、すぐさま飢えるという無様なことには陥らなかった。 サトウキビ プランテーションは、とても収益性が高いビジネスだが、同時に集約的技術と設備投資に費用がかかるビジネスでもある。個人で

  • 西インド諸島の夢と光と風#05

    1500年代に入り、バスコダ・ガマの探検に沿って、ポルトガルは多数のプランテーションをブラジル大陸に設営した。そして、そのすべてが巨大な産業に育っていった。一方、スペイン王国もポルトガルの二匹目のドジョウを狙ってカリブの島々を中心に、大陸側にも幾つかプランテーションを設営したが、こちらはそれほど大規模にはならないまま100年が過ぎた。 その違いはなにか? ビジネスモデル的な差異はそれほどない。 理由のひとつは、ポルトガル王国側では、モスレムとの戦い/レコンキスタが完全終焉しており内憂が何もなかったのに対して、スペイン王国はレコンキスタに勝利しながらも紛争が燻りつづけいたことが大きいだ

  • 西インド諸島の夢と光と風#04

    1492年8月3日。スペイン王女イザベルの支援を受けて、パロス港を出帆したコロンブスは、途中カナリア諸島に寄港した。当時、カナリア諸島はスペイン最大のサトウキビの生産地だった。彼はその隆盛を目のあたりにしたと考えられる。そしてサトウキビの栽培は儲かる。と彼は確信したと僕は思う。そしてこのとき、彼の脳裏に、カナリア諸島のサトウキビ畑の尾根が強く焼き付けられた・・と考えたい。 コロンブスは、カナリア諸島を出ると一気に西進した。まったく島影のない大西洋へと。彼はひと月程度で、インドへ達するだろうと彼は考えていた。リスボンで調べていた古地図から、そう予測していたのだ。しかし2か月を過ぎて

  • 西インド諸島の夢と光と風#03

    さて。このサトウキビという作物の伝播について、少し詳細に書きたい。 サトウキビは、ニューギニアが原産である。これがインドに持ち込まれ、紀元前には既に盛んに栽培された。 元前4世紀にアレキサンダー大王がインドへ侵攻したとき、武将の一人が「その摩訶不思議な甘き作物」を、インドの特産物として報告している。してみると、その時期には中東にも地中海東部にもサトウキビは存在していなかった・・ということになる。 サトウキビを西進させたのはペルシャ人だった。サザン朝ペルシャの時代には、盛んにメソポタミアでも栽培されるようになっていた。 地中海にサトウキビが広がったのは、イスラム帝国が同地を併合した頃か

  • 西インド諸島の夢と光と風#02

    その最初のサトウキビ・プランテーションは、1650年バルバドス島で始まった。これが濫觴となって、瞬く間に彼処の島でプランテーションが作られていく。 プランテーションから作られる砂糖は、巨大な富となったからだ。 砂糖は、幻惑的な食材だった。 料理を根底から変えてしまった。これほどのショックをヒトの食べ物に与えたのは穀物以来かもしれない。砂糖は殆ど麻薬的な衝撃を人々に与えたのである。 じつはスペインには砂糖を利用した菓子が多い。それは最初に砂糖の魔性に染まったのがこの国だったからかもしれない。そしてイタリアである。イタリアは長い間スペインが支配する地だったからね。 黄金をもとめて大西洋

  • 西インド諸島の夢と光と風#01

    僕が知っているキューバは、今は新市街と呼ばれる地域がまだ未開のままだったころだ。空港で強制的に両替されるキューバドルは、市内の店では殆ど使えなかった。使えるのはホテルの中とそのレストラン/土産物売り場だけだった。 ガイドを頼んだのはホセ・マルティ大学の学生で、僕のNYCの仕事仲間の親戚だった。3日間の滞在中は彼がナビケートしてくれた。なので滞在中の市内での支払いは彼がすべて立て替えてくれた。 「どうしてキューバにいらしゃるつもりになったんですか?」と、最初の日に聞かれた。 実は、このときキューバにはメキシコ・カンクーンから入ったのだ。彼にしてみれば、なぜカンクーンから?という気持ちがあ

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#08

    永井荷風の『深川の散歩』を見る。 「清洲橋という鉄橋が中洲から深川清住町の岸へとかけられたのは、たしか昭和三年の春であろう。この橋には今だに乗合自動車の外、電車も通らず、人通りもまたさして激しくはない。それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方かたへと曲っているところから、橋の中ほどに佇立たたずむと、南の方かたには永代橋、北の方には新大橋しの横よこたわっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば、箱崎川の入口が見え、東の方、深川の岸を望むと、遥か川しもには油堀の口にかかった下の橋と、近く仙台堀にかかった上の橋が見え、また

  • 体内アルコールを瞬時に消す奇跡の治癒力の話

    粉末ピートの隠れたる能力。 アルコールを体内から数分で、大半を消し去ってしまう!! という実験。 ほんとだよ。びっくりなんだ・・これを最近夜な夜なやってる。 ほんとに効果絶大なのだ。 .類似市販品なんぞ、あっちへいけ!!という実力だ。 で、今夜もお試し吞み(^o^)b ロックで何も割らずにアブサン51度をグラス1/3ほど、ほとんど一気で飲む。数分後アルコール検知器で計ると0.6、まあアラートが高らかになる。すぐさまピートを3gほど飲む。 そして数分後にチェック。アルコールは0.2まで落ちてしまう。アラームはならない。なんどやっても結果は同じ。それでもう数分後、も一度計ると・・0.1。

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#07

    スーパーの大きな買い物袋をブル下げながら佐賀町河岸通りを永代橋に向かって歩いた。永代橋ふもとの鋼板の横を通って橋を渡った。本当は反対側の歩道を行きたかったが、ここの交差点は信号がない。橋を渡ったら鍜治橋橋通りを我が家に向かって歩くつもり・・ 「日本橋側から佐賀町へ橋がかけられたのは1698年(元禄11年)だ」 橋を渡りながらしゃべった。 「それが永代橋・・というわけ?」 「うん、橋は相川町・・いまより150mにくらい上流に架けられた。猛烈な利権だったに違いない。しかし架橋技術そのものは未だ未発達だったため、出来上がった橋は20年は持たなかった。隅田川に架けられた橋としては4番目のものだ

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#06

    もうひとつ注目すべきは大島町である。 大島町の祖型は徳川入城前に成立していた。おそらく地元の漁師が漁船を係留したり漁の捌きなどに利用していた小島だったようだ。そのため、大島には名主がいなかった。 前述相川家・家伝『寛永録』にも「元禄七戌年十二月十七日、当名主助之丞九代以前助右衛門え支配付被仰付」とある。1694年になってようやく黒江町の名主である斎藤助右衛門の支配付きとなったことがわかる。 寛永録 深川猟師町8か町のひとつ相川町の名主であった相川家に伝来した江戸期の古文書で全7巻からなっています。猟師町の沿革を知る貴重 www.city.koto.lg.jp

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#05

    江戸資料館を出た後、清澄通りを仲町に向かって歩いた。仙台掘川を渡って少し行くと千疋屋の配送センターがある。そこのファクトリー・ショップへ寄った。嫁さんが「清澄お土産よ」とか言って焼き菓子を買ってた。以前は同じ清澄通り沿い勝どきに文明堂の工場が有って、ここのファクトリーショップでも「勝どきお土産よ」とか言って、カステラの耳を買ってたことを思い出した。松崎煎餅も文明堂も今はもうない・・ 亀掘公園に向かって歩いていたらホームセンターがあった。「コーナン・ホームセンター」である。びっくりした。僕が知ってる佐賀町には無かった。「あらあら」吸い寄せられるように嫁さんが入って行っちゃった・・あのう、

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#04

    史料を漁っていると、千代田城の家康さんが召し上がっていた魚介類は、深川の漁師が納めていたという記録に出会った。 このとき、ふと思ったのは佃島である。佃島の漁師は摂津から家康の後を追って江戸港へ越してきた漁師たちだ。摂津佃島の漁師たちは、苦難の時代の家康に海運で仕えた人々である。家康を慕って遥々関東までやってきた彼らは地元の小魚を採っている連中より遥かに技術的に勝っていた。そのため、隅田川沿岸の漁撈利権は彼らが独占した・・という記録が残っている。 深川の漁師たちが家康さんに魚を納めていたならば・・やはり同じく関西から越してきた連中ではないか??そう思った。実は、この8人も摂津の人ではない

  • 必読/非道な大手塾産業業者と一介の塾講師との壮絶な戦い

    https://note.com/fine_llama238/n/n428bde97e075 ひとりの・・市井の普通の子供たちに教えたいという希望を持つ人が「教育産業」という名のアリジゴクの底に潜む巨大凶暴な「悪龍」と戦う。 どうして自らが血だるまになってでも悪龍に立ち向かおうと決意したのか?? とても感じるところがあります。 早速サポートさせていただきました。 戦いには兵糧が必要です。微力ですがお手伝いしたいと思います。

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#03

    「神田の山を切り崩して日比谷入り江を埋めたり、干拓開墾を重ねて、江戸湊がちっとずつ人の住めるとこになってくと、隅田川の向こう下総もだんだん開墾の話が出てくるようになったんだ。新川歩きの時に話したように、家康さんは「塩の道」の確保を最初に行った。行徳から小名木川を通って新川新堀を通るロジスティックルートを整備したんだ。それに肩を揃えて「新田」を求めた干拓開墾があっちこっちで同時並行的に進んだんだ。でも平地だからな、水田やるための水利の確保が至難だ。傾斜が無ければ水は流れない。そのために色々な工夫はされたんだが、まあしかし水田というより畑の方が手っ取り早かったに違いない。 それに畑で出来た

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#02

    清澄白川で大江戸線を降りて清澄通りから区役所通りに入った。 「いまは江戸資料館通りと云うんだ。前は区役所通りな。江東区役所は此処にあった。そのせいで今でも色んな出張所がこの辺に固まってる。・・入り口のところに"鶯の糞(ふん)"を売ってる店があった」 その店の前を通った。 「鶯の糞って、私の母親の世代だわ」 「そうでもない。いまでも売ってるよ。美容文化社の"うぐいすの粉"がそれだ」 「うぐいすの粉?糞じゃないでしょ??」 「いや、原材料は鶯の糞だ。乾燥して粉末状にしてる。糞という言葉が聞き難いから"粉"にしてるんだろうな」 日本化粧品技術者会は、こう書いている。 「ウグイスが排出した

  • 深川佐賀町貸し蔵散歩#01

    荒川から引き込んだ隅田川は江戸の町の真ん中を走っているように見える。しかし、これは後代からの目線だ。 実は地誌的には江戸市は隅田川までで、向う岸は下総・・というのが当時の人々の感性だった。江戸八百八町/江戸御朱引き線は、隅田川までである。もちろん家康はそう見ていなかっただろう。塩の道を行徳から敷いたとき彼の見ていた江戸は、いま僕らが見ている「江戸」と同じくらいのスケールだったと思う。 永代橋を渡りながら思うのは、この「向こう岸」という感性だ。我が家は佃島だった。築地側から見て「向こう岸」だ。中学時代に勝どきへ引っ越したが、これもまた「向こう岸」 母は仕事場が銀座だった。ホステスをして

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