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勝鬨美樹
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2020/12/27

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  • ウヤムヤに向かって進む安倍さんへの狙撃

    なぜ「いま、暗殺しなければならなかったのか?」あるいは、なぜ「いまさら、暗殺しなければならかったのか?」 JFKの場合、ドルの発行権をロックフェラーから取り上げて国有化すると明言した事だった。その発言後、三か月後に殺されている。 山下が撃った2発の手製ショットガン2.6秒の間隙を縫って2発の狙撃がされた。首元に開いた二つの銃孔がそれだ。おそらく、すぐ傍のビルの屋上から狙撃されたに違いない。それにしても熟達した狙撃手である。そんなもんを手配できる組織はそうはない。 山下は「元海上自衛官で、過激派や右翼団体などへの所属は確認されていない。警察にとって完全にノーマーク(警察幹部)の人物だっ

  • 「疑惑の弾痕」シーズン2のイントロ"

    「疑惑の弾痕」シーズン2のイントロ"前回までは"の部分。今回はスクリプト風になっていない。 https://www.youtube.com/watch?v=avLkGQbMx3E 「奈良市で街頭演説中だった安倍晋三元首相(67)が銃撃されて死亡した事件で、山上徹也容疑者(41)=殺人容疑で送検=が手製銃から撃った流れ弾とみられる金属片が13日、発射地点から約90メートル離れた立体駐車場の壁に食い込んだ状態で見つかった。奈良県警は山上容疑者の手製銃が十分な殺傷力を持っていたことを裏付ける物証とみて、詳しく調べる。 県警は13日早朝から、捜査員約50人態勢で、事件現場となった近鉄大和西大

  • 東京散歩・本郷小石川#23/本郷坂道夏散歩#03

    嫁さんと娘が二人で出かけちゃった。だから今日の坂道夏散歩は僕独りとなる。 雨が消えて、少し曇気は立っているけど気温は26℃。少しはラクだ。相変わらず間欠性跛行は少しずつ悪化しているけど、逆に言えば僕の持ち時間が少なくなってきているということだから、歩けるときは歩けるだけでかけたほうがいいということだろうな。‥そう思った。 本郷三丁目の春日通りを白山へ降りていくと、春日町の交差がある。丸の内線後楽園駅の傍だ。今回の始点はここから。 春日町交差点の先に礫川公園がある。もともとは水戸徳川家の屋敷だったが、明治の御代に召し取られて陸軍の砲兵工廠になっていた。戦後、都営住宅/中央大学/戦没者慰

  • 東京散歩・本郷小石川#22/本郷坂道夏散歩#02

    昼はふらりと、その辺にあった店に入った。揚げ物と焼き魚しかない店。スタンダードな日本らしい定食だ。 すべて食材は半加工品の出来もので、それを焼いて揚げて並べただけなモノ。嫁さんは不満そうだったけど、僕は存外楽しんだ。 「このあたりはな、下宿屋と小さい戸建て持ち家が入り組んで成り立ってる町だ。白山上あたりは戦災で丸焼けになったが、この辺は戦火を逃れた。だから街並みも住民も古いままなんだ」 「そうね。ちいさな、マンガにでも出て来そうなナントカ荘みたいなアパートがいっぱいあるからびっくりしたわ。まだこの辺だけ昭和のままみたい」 「時間が停まっちゃったのは、地方都市のシャッター商店街ばかりじゃ

  • 東京散歩・本郷小石川#21/本郷坂道夏散歩#01

    前回、ふと思い立って白山にある「八百屋お七の墓」を訪ねた。そしてそのまま本郷通りへ出て右へ古本屋通りを歩いた。今回は、大江戸線で本郷三丁目に出てみようと思った。店が定休だったので嫁さんが同道してくれた。気温32度快晴なれど風強しだからね、ウロウロ歩いていて倒れたりして、皆さんに迷惑かけるといけないから、付き合ってくれた。「 何か用事あるの?」と嫁さん。 「ない、あの辺りの坂を歩いてみたいんだ。とりあえず金魚坂行きたい。」 「なにそれ?」 https://www.facebook.com/pages/%E9%87%91%E9%AD%9A%E5%9D%82/102247858444213

  • Netfilix的「疑惑の銃弾」シーズン1#02

    自民党本部での説明会以来、なにも今回のことには触れなくなった警察。そのことをニュースにしようともしないメディア(ためいき)まったくぴたりと、統一教会叩き以外はNEWSにならなくなった。 旧統一教会と関係ある「安倍派議員35人」のリストがコレだ! 自民党内でも圧倒的な人数(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース 安倍元首相銃撃事件で再燃した「政治と宗教」への関心は高まる一方だ。〈#自民党って統一教会だったんだな〉がツイッターでトレ news.yahoo.co.jp 自民党本部での説明会では、警察は口に出さなかったが「体内の弾をなく

  • Netfilix的「疑惑の銃弾」シーズン1

    etfilix的「疑惑の銃弾」シーズン1/スクリプトです。#^o^# ①イントロ 奈良県北部の近鉄大和西大寺駅北側ロータリー。駅前は商業施設やオフィスビルが立ち並んでいる。 街頭演説の様子が写される。安倍さんの姿が見える。ロータリー前の交差点の中央付近に街頭演説用の演台があり、応援演説がされている。続いて安倍さんが登壇。ロータリーを背にして、商業施設前の歩道上に集まった聴衆に向かって演説を始めたる。周囲にはのぼりが立ち、党関係者のほか複数の身辺警護の警察官の姿がある。 そして銃撃音。 画像は止まる。同時にテロップ 「奈良県警は9日午前、街頭演説中に銃撃を受けて死亡した安倍晋三元首相(6

  • 甲州ワインの謎#16/薬師如来と葡萄

    柏尾山大善寺の薬師如来は薬壺ではなく葡萄の房を手にしている。葡萄の房を手にする薬師如来は国内にはこれ一像しかない。 薬師瑠璃光如来はBhaiajyaguruの訳だ。修行時代に 12の本願を立て,それが達成されないかぎり仏にならないと誓った菩薩である。観世音菩薩と共に、救済は現生利益にハイライトを当てているのが特徴で。経典「薬師経」は致福消災の経である。別名、大医王、医王善逝と云い病気治癒に関わる。そのため多くの薬師像は薬壺を手にしている。 柏尾山大善寺の薬師如来が薬壺ではなく葡萄の房を手にしているのは、その薬効を表しているといえよう。 漢方としての葡萄は蛇葡萄/蛇葡萄根などと呼ばれて

  • 黒海の記憶#28/ローマによるバルカン半島の支配

    バルカンケルトは、気質的に奉ろわぬ民だった。いまでもそうだ。最盛期のギリシャ諸都市は同地に幾つもの移植地を置いて交易と武力をもって支配していたが手を焼いていた。自分たちが東方との戦いで弱体化していくと、次第に各植民地も形骸化し武力による威圧も成立しなくなってしまった。バルカンケルトも無知粗暴な原住民ではなく、戦い方をギリシャから学んだ充分ギリシャ諸都市に対抗しうる勢力になっていたのである。 このバルカンケルトの出自だが、それを追うと、遥か旧石器時代にまで及んでしまう。 とても興味深い人々だ。 同地は、ヒトがヨーロッパ全体に拡散していくときに通ったルートである。山間部が多く、天敵が多い「

  • 石油の話#07/ノーベル兄弟産油会社

    台地から滲み出る黒い液が、生成すると鯨油植物油の代用物になり、尚且つ安価だという発見は瞬く間に欧州にも知れ渡った。 最も早くから注目したのは、のちにダイナマイトの発明者として知られるスウェーデンのノーベル兄弟(Robert Nobel、Ludwig Nobel)フランスのロスチャイルド家だった。 彼らは現アゼルバイジャン共和国にあるバクーに注目した。カスピ海西海岸北部である。ひたすら荒地が続く痩せた地域だ。なぜノーベル兄弟がその地に気が付いたか?とても興味深い。 実はアゼルバイジャン、バクーは馴染み深い。前職時代に何度も訪ねている。あるとき、食事をしながら僕がその話をすると、某政府高

  • 東京散歩・本郷小石川#20/白山花街の話

    白山花街の話をするには、R.A.A.の常務理事だった秋本平十郎の話をするしかない。 R.A.A.は、僕が20年来追いかけている終戦直後に立ち上がった米兵向け売春企業である。「特殊慰安施設協会」という。時の首相・幣原喜重郎の指示で作られており。創立運営資金は、内務省から日本勧業銀行を通して貸し付けという形でR.A.A.に渡された。担保となったのは既に紙切れ同然になっていた戦時火災保険金などの特殊預金だった。指導は警視庁が担当した。具体的には築地警察がその任にあたった。 R.A.A.の役員は理事長が宮沢浜治郎、副理事長は大竹広吉(闇の)と野本源冶郎そして常務理事は東京料飲組合の幹部が名前を

  • 東京散歩・本郷小石川#19/三菱村だった駒込の大和郷

    六義園を残した柳澤吉保は武川衆の裔だ。甲斐国北西部の在郷武士団だった武川衆は武田氏が滅ぶことで、その一部が徳川の幕臣として取り込まれた。彼は小人症(ISS: idiopathic short stature)だった。そのことで無為な差別を受けることが多々あったが、生来の聡明さと学識の深さで第5代将軍徳川綱吉は、彼を重用した。それを「綱吉への諂い」とも揶揄されたが、元禄時の頃には大老格にまで昇進している。しかし綱吉死去後は幕政から隠居し、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)へ移り、六義園の造営で晩年を過ごした。 吉保死後、柳澤家は大和郡山へ転封された。しかしそのまま六義園を下屋敷とした

  • 東京散歩・本郷小石川#18/良家大家が立ち並ぶ本郷小石川#02

    本郷小石川周辺は、江戸時代①寺社②大名屋敷③下級武士の地域とされた。江戸城を警護するためである。 明治の御代になると、幾つかの大名屋敷が明治の重鎮の手に渡った。幕下に在った下級武士は帰る郷もなく、幾ばくかの冥加金をもらっただけで武士という身分を失った。彼らの住まう地域はより貧しくなった。 それが、樋口一葉が赤貧のうちに暮らした地である。一葉は「うつせみ」をこう書きだす。 「家の間数は三畳敷の玄関までを入れて五間、手狭なれども北南吹とほしの風入りよく、庭は広々として植込の木立も茂ければ、夏の住居にうつてつけと見えて、場処も小石川の植物園にちかく物静なれば、少しの不便を疵(きず)にして他

  • 東京散歩・本郷小石川#17/良家大家が立ち並ぶ本郷小石川

    徳川慶喜が静岡から東京へ戻ったのは明治30(1897)年。明治天皇との会見のためである。二人はこのとき初めて会った。日清戦争が日本勝利として終わったのが明治27(1897)年。明治政府は膨大な賠償金を受け、漸う国家としての体裁が付き始めてはいたが、明治政府は相変わらず"徳川慶喜"というシンボルに対してナーバスな姿勢でいた。それでも慶喜を静岡に送り返さずに巣鴨へ隠棲のための仮住まいを置いたのは、慶喜が何の野望もなく飄々と趣味の世界に生きる事で日々過ごしていたからで、たとえ彼が周囲に担がれたとしても「眠れる虎」以上になることは、まず無いと見たからかもしれない。 いまの春日二丁目/小日向第六

  • 東京散歩・本郷小石川#16/荷風の小石川

    幼少期を小石川台地で過ごした永井荷風の小品には彼の地をテーマにしたものが散見する。何れも暖かい視線で己の故郷を語っている。 「礫川禍祥記」という小品がある。 「いつしか白山御殿町を過ぎ、植物園に沿ひたる病人坂に出づ。坂の麓に一古寺あり。門に安閑寺の三字を掲げたり。ふと安閑寺の灸とて名高き艾を售しはこの寺なり。われら稚いとけなき頃その名を聞きてさへ恐れて泣き止みしものをと心づけば、追想おのづから縷々として糸を繰るが如し。 その頃植物園門外の小径は水田に沿ひたり。水田は氷川の森のふもとより伝通院兆域に連り一流の細水潺々としてその間を貫きたり。これ旧記にいふところの小石川の流にして今はわづか

  • 東京散歩・本郷小石川#15/本郷小石川上野台地から浅草を見つめる#02

    古代のトンビな僕は、本郷小石川上野台地上空を飛びながら、東南の江戸湊の中に胡人によって開墾された「浅草」を視つめてしまう。胡人ら渡来人が跋扈する巨大な振興産業地だ。 草深い武蔵野の向こうに唐突に輝く・・マンハッタンのような地・浅草、である。 その隆盛ぶりを、鎌倉時代の真言密教の学僧だった金沢称名寺の僧剣阿(吉田兼好との交友で著名)は房総からの帰路、浅草寺に詣で「雁塔高く聳え・・・・・・香煙細やかに昇って・・・・・・仏閣これ浅草」と記している。 また「とわずがたり」後深草院二条(正応三年/1290)に「あさくさと申たうあり、 十一めんくわんをんのをはします、れいふつと申もゆかしくて、今

  • 東京散歩・本郷小石川#14/秩父氏豊嶋氏江戸氏の台頭

    律令時代「延喜式」に拠ると、武蔵国は久良・都筑・多麻・橘樹・荏原・豊嶋・足立・新座(新羅)・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛澤・那珂・児玉・賀美・秩父の21郡に分かれていた。 武蔵国は、広げた手指のような武蔵野台地にあった。 その東南端、本郷小石川に興った豊嶋氏は、秩父牧を開拓した秩父氏の支系だ。「秩父氏系役帳」や「米良文書」からそのことが窺える。秩父常将の次男秩父武常を開祖とする。本拠地は現在の東京都北区豊島あたり、平塚神社が豊島舘跡だろうと言われている。「平塚神社縁起絵巻」を論拠とする。 秩父氏からは、同じく畠山氏/稲毛氏/河越氏/江戸氏が支系として興こるが、江

  • 東京散歩・本郷小石川#13/武家台頭前夜#02

    「周礼」天官大宰職に「群臣ヲ馭シ、万民ヲ馭ス」とある。「馭」とは統治を指す。この言い回しに、僕ははっきりと遊牧騎馬民族の血を感じてしまう。 古来、中原(揚子江と黄河の間・漢」に王朝を立ち上げた人々の戦闘様式は歩兵戦だった。歩兵の員数と訓練が戦いの趨勢を決めた。しかし北方の匈奴(騎馬民族)が洗練化されていくと、漢民族は屡々その戦いに負けるようになった。・・それを大きく変えたのが漢の武帝である。武帝は自軍の中に匈奴(騎馬民族)と同じような騎馬軍団を組成した。これが漢に中原の軍事的統一をもたらしたのである。「漢書・礼楽志 」に武帝「宛馬(大宛国の天馬)を獲て作った郊祀歌」という一文がある。

  • 東京散歩・本郷小石川#12/武家台頭前夜

    武家を産み出した最も大きな要因は騎馬による戦闘形式だと云ってもいい。 騎射が戦闘法である。鐙によって姿勢を安定化し弓を射つ。武家とは、馬を能く操る戦闘集団のことだと言ってもいい。 この「馬を操つる」という技術だが・・遊牧民の中でしか生まれない。熟達もない。そうした人々がどんな経緯でどう日本に入ってきたかは、いまのところよく判らない。・・昔、江上先生の話には胸をときめかせたが・・ 馬そのものは弥生期(漠然としてる)ではないかと言われている。競走馬理化学研究所とネブラスカ大学のチームが、日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較したところ、モンゴル種が対馬を経由して輸入され全国に広が

  • 東京散歩・本郷小石川#11/豊島氏の台頭

    律令制時代「和名抄」によると、武蔵国豊島郡は日頭、占方、荒墓、湯島、広岡、余戸、駅家の7郷に別れていた。これらの郷が具体的にどのあたりか・・これはかなり策定が難しい。 ・日頭(ひのと)は、文京区小日向・新宿区戸塚町・高田町あたり。 ・占方(うらかた)は、浅草・下谷・小石川あたり。 ・荒墓(あらはか)は、日暮里・谷中あたり。あるいは文京区大塚たり、練馬区石神井あたり。 ・湯島(ゆしま)は、湯島・下谷・日暮里あたり。 ・広岡(ひろおか)は、板橋3丁目あたり。あるいは続日本紀の宝亀11年5月11日条に「新羅郡の沙良真熊らに広岡造を賜姓した」という記事があるので新座郡と隣接していたはずという

  • netfilix風「不可解な弾道」

    不謹慎にもnetfilixマガイのことをしてみます。 不快な方は読まないでくださぃ 題して、netfilix風「不可解な弾道」です https://www.youtube.com/watch?v=pkDffZCdSCE 県警は、詳細な現場検証をしないとのこと。ではでは勝手に経過を追ってみたいです。 先ずはセキュリティへの疑問。 銃弾に倒れた安倍さんをセキュリティが覆いかぶさっていない! なんで??警護の基本の基本でしょ?日本は違うのか?見た瞬間に思ったのはそのことです。みんなで犯人逮捕に行っちゃった。警護は警護が目的でしょう。犯人逮捕するのは警護ではない。 所詮日本の警察には「警護」

  • 東京散歩・本郷小石川#10/護国寺雑司ヶ谷台地

    さてさて。想像のトンビ、今度は小石川台地の上を飛ぶ。それほど高く飛ばなくても小石川台地が小日向台地と一本になっていることは判る。 見比べれば小日向台地の方が高い。2つの台地を分けているのは茗荷谷方面へ食い込んでいる小さな谷間だ。旧教育大学付近で標高30mあると、いま内緒で見てる地図に書いてある(トンビは地図見ない)小日向台地は起伏に富んでいる。海岸線に近いためだろうか、茗荷谷や窪(町)がはいり込む。 比して小石川台は比較的緩やかで標高は20~25mくらいで、突端に礫川公園がある。此処は陸軍砲兵工廠があったところで、今は何の累歴か(知ってる)東京ドームの一部になっている。それでも小石

  • 石油の話#07/ジョン・ロックフェラー率いるスタンダード・オイル社

    駆動力を得るための内燃機関が、機械として安定し始めると石油の需要はますます高まった。しかし価格競争は熾烈を極めた。なので自然発生的に、価格をコントロール目的で、同業種内にカルテル(プール)が組まれるようになっていった。それでもその戦いは容赦のないものになった。その中で、生き馬の目を抜くように生き残ったのがジョン・ロックフェラー率いるスタンダード・オイル社だ。 彼はRobber Baron泥棒貴族とよばれた。ラバーバロンとは中世イギリスで領内を通る旅人から通行料を取っていた貴族を指す言葉だ。強引な買収と、敵対する会社への徹底的な妨害で成り上がった男だったからだ。 20世紀に入ると、ガソ

  • 東京散歩・本郷小石川#09/白山三業地

    この本郷台地だが、西側は小石川谷の支谷がはいり込んで複雑な形をしている。・・太古を飛ぶトンビなら視える。だからトンビになった気分になる。 一番大きいのは指ヶ谷(さすがや)で、これによって白山台地がある。菊坂、西片あたりの支谷もそれだ。前述したように本郷台地は西の小石川谷に対して急斜面が多い。同じく小石川谷に向かう小石川台地との大きな違いだ。 江戸時代、今の白山上と白山下にかけて小役人屋敷が並んでいた。こうした屋敷を指ヶ谷(さすがや)と呼んだ。明治の御代になると、廃屋が増えたので、農業奨励とか言い出して明治政府が指定した東京府長によって葉ものを作る畑が多く作られた。この辺りは畑だらけに

  • 東京散歩・本郷小石川#08/本郷通りから視たもの

    円乗寺の境内を出て本郷通り歩いた。気温はまだ24℃というところかな。一瞬このまま三田線で戻ろうかなとも思ったんだけど・・どっかでお茶したくて本郷側に出てみた。最近、間欠性跛行が相当進行しており、脊柱管狭窄が酷いので、長時間の散歩はきつい・・ 弥生町の交差点を渡って赤門に向かって歩きながら思った。たまには本屋に寄るか・・でも大好きな泰雲堂が開いてなかった。結局「ルオー」まで椅子にありつけなかった。しかしどこも書店は元気ないなぁ~神田もそうだけど・・それでも何冊か無理やり買って「ルオー」に入った。 植草先生は本を買うと、それを喫茶店で破いた。要るページ以外はレッコしたんだ。んんん、あの勇気

  • 東京散歩・本郷小石川#07/60年ぶりの円乗寺お七の墓再訪

    いつものように、トンビになった気持ちで地下鉄三田線の中で地勢を視る。まあ穴倉をモグラみたいに走ってると、なかなか難しい曲芸でもあるが・・それでもトンビになる。 トンビになったついでに、地表にカビのように生えてるヒトの営み・・家屋をすべて取り除く。太古から引き継がれている台地を視る。 白山通りは谷間だ。右側か本郷の丘、左側が小石川の丘だ。昭和22年に小石川/本郷両区が合併して文京区になった。 合併時、民主的の追い風を受けて区名を東京新聞で一般公募したのだがイマイチ決まらず、両区職員対象に再募集し、小石川区の職員が提案した「文京」が採用されたという経緯がある。 この辺りは、関東平野の南側

  • 東京散歩・本郷小石川#06/はじまりは僕の古傷から#03

    万引きをした。中学2年の時だ。何人かで組んで近所の文房具屋で製図の道具などを盗んだ。 当時西仲を仕切っていた悪ガキ集団がいた。地元のテキヤの倅がボスだった。そいつらの庇護下に入るための通過儀礼だった。文具店は何回も被害に遭っていたらしい・・僕らは待ち伏せした警察官に補導された。 すばしっこく逃げた奴もいたが、オロオロしていた僕は逮捕された。 迎えに来たのは母と担任の教師だった。 終始無言だった母は、帰宅すると台所から柳包丁を持ってきた。そして「あんたを殺して、あたしも死ぬ」と云った。激高していなかった。僕は殺されると思った。土下座をして何度も謝った。命のやりとりだった。母は言った「お前

  • 自国民労働者の非正規雇用化は、国を亡ぼす#02

    国家を維持するための経費を国民へ均等に分配するならば、単純計算してそれぞれの人々が年収700万円程度ないといけない。均等に支払うには、そのくらいの年収を国民全員が得なければいけないのだ。 つまり・・実は、年収700万以下の人々は、"出"よりも多くの"入り"を施政者から受け取っている・・このことは意外に正鵠に理解されていない。 なぜそれでも不満が高額年収者から出ないのか? 人々の間に際立った給与格差が無かったからだ。考えてみてもらいたい、社長と新入社員の給与格差が20倍しかない国・・他にありますか?いま、それが壊れた。 日本国の施政者は30年かけて、国民を年収200万円台(非正規雇用

  • 東京散歩・本郷小石川#05/町内神輿の渡御ばか話

    僕が知っている白山通りは低層階の商屋が並ぶ都電通りだ。今から半世紀も前の風景だ。記憶に残っているのは夕景ばかりで、後ろから西日が追ってくる電車道だった。そして陽が沈むと、今度は後楽園から神保町の交差点から神田橋を渡ってお堀端へ向かう道は光に満ちて、右側に鬱蒼とした皇居が来るまでは華やかな通りだった。そして日比谷の駅で乗り換えた。今は同じ道を地下鉄が走る。バスはない。 今朝、朝一番に地下鉄有楽町線に乗った。で有楽町で都営地下鉄三田線に乗った。三田線は当時の都電35番線をなぞるように走っている。日比谷-巣鴨間が開通したのは1972年(昭和47年)。僕が大学生の頃だ。都電35番線が無くなっ

  • 自国民労働者の非正規雇用化は、国を亡ぼす

    第三次安倍政権の可能性を完全に握りつぶしたのが、未来を失った男・・だったことを後世の史家は語るだろう。 自国民労働者の非正規雇用化は、国を亡ぼす。少子化の最大要因は「あまりにも低い収入」なために結婚して家庭がもてないからだ。結婚している女性の出産率は変わっていない。変わったのは出産する女性が激減したことなのだ。 自国民労働者の非正規雇用化は、民の生活を変えた。包丁を持って電車の中で暴れるもの、ビルに火を放って巻き込み自殺を図るもの、病的な犯罪を繰り返すものの多くが未婚者あるいは離婚者であることを見つめるべきだろう。自国民労働者のうち非正規雇用者は、20歳代23%/30代19%/40代

  • 石油の話#05/灯のための石油から駆動力を産み出す石油へ

    ドレイクの石油の井戸はセンセーショナルだった。まるで噴水のように石油が吹き上がったのである。その様子は同じくオイルクリークで石油を採取する人々に衝撃を与えた。即日、ドレイクの方法を模倣する人々が現れた。ドレイクは自分の成功に有頂天だったため、その模倣が何をもたらすかにまで頭が回らなかった。気が付いたときは特許化できないほど広まっていたのだ。彼が破産したのは1863年である。石油の発掘に成功して4年しか経っていない。 ドレイクの油田は当初25バレル/日だった。ところがドレイクの方法を模倣する人々によって、翌年にはオイルクリーク全体で5.9千バレル/日に達した。オイルブームが全米を席巻した

  • 石油の話#04/世界で初めて石油を発掘した男エドウィン・ドレーク

    石油が灯油として使用可能で、尚且つ安価に生産できることが判ると、サミュエル・マーティン・キアーの後を追って石油の採集/精製業者が誕生するようになった。サミュエル・キアーの先見性は、石油を使用するランプについて特許を敢えて取らなかったことだ。彼のランプは自由に製造され次々に改良されていった。結果としてそれが石油の販路を充実させて売り上げ向上に繋がると彼は看破していたのである。おそらく精製も早晩ニーズに間に合わなくなると彼は考えていたのではないか?新たらしい業界参入者を大いに歓迎する男だったのだ。自由競争=自由発展。たしかに彼の目論見は成功し、当初は炭坑内のランプでしかなかった石油を使用す

  • 石油の話#03/サミュエル・マーティン・キアー

    まずサミュエル・マーティン・キアーSamuel Martin Kier(1813年7月19日-1874年10月6日)から始めよう。 サミュエル・キアーはペンシルバニアで生まれた。迫害を受け続けたスコティッシュ・アイルランド移民の子だ。父は岩塩を掘る山師だった。サミュエル・キアーは父の後を継いだ。しかし父を越える商才をもつ男だった。成人すると彼は、岩塩掘だけではなく石炭の発掘や鉄道事業にも手を伸ばし、事業を拡大していった。 その彼の岩塩採集所は、父の代から大きな悩みを抱えていた。それは黒い台地の液・・石油(原油)である。岩肌から自然に染み出てくる石油(原油)が塩を汚染してしまうのだ。 汚

  • 石油の話#02/ペトロダラーの話

    エジプトのネコと日本のカツオブシの出会いを語っていた方がいた。文明は不可思議な出会いに満ちている。鉄の中に水蒸気を閉じ込めてこれを駆動に替えるという発想と、中部アメリカのインディアンたちが薬用に使っていた黒い油を繋ぐなんて偶然と挑戦がなぜ起き得たのか?驚くばかりだ。 ペトロダラーの話をしながら石油のことを考えていた。 中東の石油が大きく産業化されたのは戦後である。それは欧州植民地政策の一環として始まり、植民地民にはそれほどの利益をもたらさない仕掛けになっていた。 しかし内燃機関の急速な発展が石油に対するニーズを加速化させため、マーケットは巨大なものになっていた。そして先の大戦で疲弊

  • 石油の話#01/キッシンジャーのアイデア

    キッシンジャーのアイデア「石油の売買は必ずドルを使用すること」このアイデアが如何に秀逸だったかは論を俟たない。金と連動しなくなったドルを支えたのは、キッシンジャーの「ペトロダラー」というアイデアだったからです。売買がセブンシスターズで行われようがOPECでやろうが、それがドルで実行されるならばそれで良しという論法。それに異を唱えたフセインは、発言後2年で極悪人として処刑されています。 僕は、いつもこんな喩えをする。 「黄金狂時代。ゴールドラッシュで一番設けたのは誰か?恒久的に利益を上げ続けたのは誰か?」 だれだと思います?? リーバイス。幌馬車の幌からスボンを作り、これに虫よけのイン

  • 黒海の記憶#27/変転するアテネ/ギリシャ世界

    ペロポネソス戦争(BC431-BC404)をピークとする、仇敵スパルタとアテネの長く続いた確執/抗争は、両都市を著しく疲弊させていた。急伸するマケドニアの前でアテネがひとたまりもなかったのは、そのためだ。B338年カイロネイアの戦いでの敗北は、産業に結び付かない戦争が如何に無駄なものであるかを見事に象徴している。政治屋がする戦争は侭「益」を伴わないことがあり、それが国力を著しく削ぐのである。・・と言いつつ、僕の脳裏にはQTを始めない/さらにQEを続けるであろうアメリカが写っていることは・・余談。 疲弊しきったアテネとアテネの市民/商人にとって、彼らの支配者がマケドニアになったことは「

  • ESGのデメリット

    昨年12月、投資目標にESGを掲げる「サステナブル」なETFの運用資産は、世界で2兆7000億ドルを超えました。このうち81%は欧州のファンドで、13%は米国のファンドだ。2021年10~12月期だけでも、新たに1430億ドルもの資金が、このようなESGファンドに流れ込んでます。すごい潮流です。 https://assets.contentstack.io/.../Global_ESG_Q4_2021... もちろん、結果は芳しくない。それに相まって「グリーンウォッシュ」が横行しているのはご存じの通り・・ でもさ、ちょいと考えてください。 ESGへの投資は、商品生産性を上げるための投

  • 政府発行貨幣という選択肢

    僕は、貨幣のデジタライズは、本邦の場合マイナンバーと連動した銀行のデビットカードあたりからはじまるのではないか?とみています。アメリカは、SSNとの連動ですね。 既に上海閥が発行しているデジタル人民元は、銀行ネットワークと連動する形で動いています。 銀行の統合を巻き込んで、おそらくかなりの速さで、政府発行デビットカード/デジタル円は普及すると考えます。今すでにもう携帯端末があればお金のやり取り。できるわけですから。 https://scholar.princeton.edu/.../files/02c_digitalmoney.pdf 本邦の場合、国債の塩漬け後、再度国債に走るか、政府

  • 東京散歩・本郷小石川#04/都電35系統

    小石川にある叔父の製本所までは都電で行った。勝鬨から都電で日比谷まで行って、そこで35番線に乗り換えた。そのコースじゃないときは有楽町から山手線に乗って秋葉原で総武線に乗り換えて水道橋、そこで都電35番線に乗るという道筋だった。いずれにしても35番線に乗る。降りるのは初音町だ。 今は無くなってしまった八千代町の消防署の周囲には立派な瓦葺の商家が幾つもあった。ほとんどが酒屋か米屋か質屋だったと思う。街が燃え尽きなかったんだろう。古い佇まいの商家が僕の世代までは残っていた。おそらく八千代町から指ヶ谷町あたりにあった白山三業地を相手にしたんだろうな。今になるとそう思う。もちろん当時の僕は「三

  • 東京散歩・本郷小石川#03/荷風の小石川

    永井荷風は「伝通院」(明治43年)でこう書いている。 「われわれはいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。 もしそれが賑な都会の中央であったならば、われわれは無限の光栄に包まれ感謝の涙にその眼を曇らして、一国の繁華を代表する偉大の背景を打目成るであろう。もしまたそれが見る影もない痩村の端れであったなら、われわれはかえって底知れぬ懐しさと同時に悲しさ愛らしさを感ずるであろう。 進む時間は一瞬ごとに追憶の甘さを添えて行く。私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す」 荷風は小石川で生まれ育った。 父・久一郎は尾張藩の豪農の子で、青雲の志をもって上

  • 東京散歩・本郷小石川#02/はじまりは僕の古傷から#02

    僕が電気少年になったのは、その止まらない虐めのせいだと思う。ラジオ作りに夢中になった。鉱石ラジオから始まってスーパーヘテロダインに進むまではそれほど時間を要しなかった。小学校高学年から中学にかけて僕の遊び場は秋葉原駅前・・とくにラジオ会館になった。 はは♪云ってみりゃオタクの魁だね。いまでもそうだけど。 高度成長の追い風を受けて、大型の小売店が秋葉原ヤッチャ場の外に外に並び始めた時代である。家電製品が飛ぶように売れた時代だ。その追い風の隙間にラジオ会館があった。さまざまなパーツを売る小さな店舗の集合地帯である。まるで生き字引のようなオヤジがいて、買う気があれば忽ちどんな問題も解決してく

  • 東京散歩・本郷小石川#01/はじまりは僕の古傷から#01

    ウチの母は神田三崎町製本屋の娘だ。母は18歳まで神田で生きた。そして戦争のさなか中野の旧家へ嫁いだ。しかし終戦後出奔し神田へ戻った時、実家は焼失していたという。 9人兄弟のうち8番目だった母は小石川で仮住まいをしたらしい。何年か経ってその近くに長男だった肇叔父さんが家業を再興した。白雲堂という美術印刷中心の製本業だ。もともとは当時珍しい欧字の印刷を専門としていたのが、風雲が怪しくなると共に殆どニーズが無くなって、美術書へ転向したという話を聞いたことがある。 「おばあちゃんがモダンだったのはそのせいさ」と肇叔父さんが言ったことがある。 女学校出で英語を能くし、戦時中でもモンペなんぞは間違

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