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kame710のブログ https://kame710.hatenablog.com/

55歳の時 胃がんと仕事中に頭部外傷、の人生の大きな転機があり、後遺症とつきあいながら まるで「カメ」のような歩みでここに至っています 出来ることは少ないけれど 日々の想いを書き連ねています

カメキチ
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2019/02/15

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  • 2024.5.31 『痴呆を生きるということ』(後)

    今日で終わりです。 (⑯から⑱まで) ーーーーーーーーーー 「⑯〈痴呆を抱えて暮らす困難〉 「わたし」が壊れる →単にこれまでできていたことができなくなったと感じるだけではなく、 「わたし」が壊れていく、と感じられる →(「わたし」が指揮者なのに「奏者をまときれない感じ」) … 認知の障害、情動反応性の保持 自分が引き起こしたつまずきに自己の責任で対処することの困難という認知レベルの障害と、 自分が遭遇している事態を危機と感じ取り、さらには適切に対処できないことに不安や焦燥を抱く という情動反応性の保持との間のズレが存在する。 →周辺症状を生む源になる ⑰〈妄想の成り立ち〉 新たな生き方への強…

  • 2024.5.28 『痴呆を生きるということ』(中)

    (前回は⑫〈徘徊の出現〉まで。 今日はその続き ⑬から) ーーーーーーーーーー ⑬〈時を駆けることができない〉 彼ら(認知症者、痴呆者)は「今・ここ」で暮らしていることを何となく居住まいが悪いと感じ… かつてこころ安らかに過ごし、プライドをもって生きていた時代に戻りたいのだろう。… 彼らが「帰る」「行く」とき、付き添って歩き、昔話に興じる。 そのとき彼らは、過去をもう一度生き直すのである。 … ⑭〈過去への執着〉 痴呆へのはじまりの時期にあって、痴呆を病むひとたちは未来への不安に怯えていた。 しかし、現在を生き生きと過ごせるようになれば、彼らの不安は消え、妄想は消える。 妄想を生み出さざるをえ…

  • 2024.5.24 『痴呆を生きるということ』(前)

    認知症。 私が若いときはいまほどいわれていなかった。 (昔は長生きする人が多くはなかった。 その昔は「痴呆」と呼ばれていた。そっちの方が私には馴染みぶかくピッタリくる。 どう呼ぼうと、頭、脳が「痴呆」状態になったから、結果として「認識」「認知」がむずかしくなった ということだ。 そういえば議員さんが「認識にございません」「記憶にない」と言うのは、よく考えれば 「自分は痴呆状態」だから理解できない、忘れたと表明しているようなものだろう。 だったら即刻、議員は辞めるべきだと思う。 「秘書が勝手にやった」というのも、管理能力がない、あっても衰えたということで、痴呆状態までは 至っていないにしても、や…

  • 2024.5.21 『人類学者…が森に入って考えたこと』⑤

    今日で終わりです。 「〈「贈与」ということ〉 ムラブリ…の間では「ある(持っている)人」がない(持っていない)にあげることは普通のこと 見返りを求めない… (たとえば「お米」の話)→ お米が太陽からの贈り物であるという視座、太陽の視座とでも言いますか、 ぼくらのコントロールできない存在によって全ての物事は存在するという感性からすれば、 みんなhave (持っている)であると同時に与えられるしかない点ではhave not (持っていない)… →(要するに平等)奢るとか奢られる(贈与するとかされる)は、特別なことではなくなる。 「あなたも私も太陽に生かされているんだから」 資本主義というのは、所有…

  • 2024.5.17 『人類学者…が森に入って考えたこと』④

    人間、自分、生きるということ、世の中のことについて、子どもから大人へ 成長するなかで、誰でもそれなりに思い、考える。 そういうときだけ「哲学者」になる。 私もそうだったけど、それは自分の知っている世界の中だけの「井の中の蛙」 だったことを、仕事をやめ、自由に読書できるようになった今、「人類学」を 知ってつくづく思う。 ーーーーー 同じ地球人でありながら、たまたま生まれたところが「先進文明」からは 遥かに離れた、「進歩」とは無縁、昔ながらの生活、暮らしを(それ以外はあり得ない かのように)続けているラオスのムラブリやインドネシアのブナンの人々。 そんな人々と現地での生活、暮らしをともにすることに…

  • 2024.5.14 『人類学者…が森に入って考えたこと』③

    前回は本の順番に沿って「パースペクティヴィズム」ということについて書いた けれど、ページの離れたところでまた言及されていた。 (とても大切なことがいわれていると感じ付箋でチェックしていたが、すっかり忘れていた。 あらためて何度か読み返し、また考えさせられた) 「〈パースペクティヴィズムと客観的事実〉 (「パースペクティヴィズム」にこだわれば) 人の数だけ世界があり、動物や虫など人以外の世界も無数にある。… パースペクティヴィズムを隙間なく適応すると、→「相手の立場にはなれない」 客観的事実がなくなり科学的基盤はなくなる→共通の言語の意味がなくなる … ーーーーーーーーーー 「パースペクティヴィ…

  • 2024.5.10 『人類学者…が森に入って考えたこと』②

    本は次に「パースペクティヴィズム」ということについて述べられる。 ここもとても考えさせられた。 (あるネットで検索するとこの言葉の出どころはニーチェとのこと。 「ニーチェのパースペクティヴィズムとは、見られるものからの視点や視座から、 見 ているものを捉える見方…。 しかし、視点や視座を管理し、自分の自らのものにしていると考える意識は、 ニーチェによると 「共同体的かつ群畜的な本性」に属しているので、いかに個人が視座を我が物としているように 考えようとも「共同体的かつ群畜的な本性」の ことに無自覚になっている…」) ーーーーーーーーーー 本には、 「他者の観点に立って、自分たちが見ている世界と…

  • 2024.5.7

    8回にわたって「ブルトシップ・ジョブ」の本を紹介し、思ったことを述べてきた けれど、少しほど前に 『人類学者と言語学者が森に入って考えたこと』 奥野克己 伊藤雄馬 ・著 というのを読んでいた。 奥野さん(人類学)伊東さん(言語学)というお二人が、それぞれ異なる場所 (奥野さんはインドネシア、伊東さんはラオス)に行き、一緒に暮らすという(頭で思考する 机上の学問としてではなく)フィールドワークを通して、「人間とは?生きるとは? 生活するとは?」と問い、見えてくるものを学ぼうとする。 その見えたこと、気づいたこと、学んだことが述べられていた。 (その本から刺激されたことが多くあり、「ブルトシップ・…

  • 2024.5.3 ブルトシップ・ジョブ⑧

    今日は最終の第8講 ブルトシップ・ジョブとベーシック・インカム です。 ーーーーーーーーーー 第8講 ブルトシップ・ジョブとベーシック・インカム 〈エッセンシャル・ワークとジェンダー〉 労働が主要にモノの生産にかかわるものとみなされ、女性はその生産過程から排除され、 「私的領域」つまり家庭内で、その労働力を生産(出産、いわゆる「生む機械」)し、 再生産する(養育し世話をする)役割へと還元されていく。… 「愛の名のもとに」無償化される … 〈「家事労働に賃金を」〉 家事労働に対して賃金を要求することによって、「家事」の意味は一挙に「労働」へと転換する (「家事労働」は家庭の問題であるけれど、ジェ…

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