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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
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藤沢市
出身
藤沢市
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2018/05/31

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  • 鎌倉時代の波打ち際 14

    下図は、大正十年の地図です。渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。何故数百年の間なのか?鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。ほゞ、、鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図...鎌倉時代の波打ち際14

  • 鎌倉時代の波打ち際 13

    傾斜が強い処は黒く強調した国土地理院の地図です。砂浜に沿って黒いラインがあり、一段高い崖が現在の国土地理院の地図から読み取れます。これが現今の由比ガ浜の段差です。元寇対策の土塁が存在すれば、この様な段差が地図より読み取れるで有ろう!その思惑道理に段差が存在した訳です。由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒いラインは、現在は道路絡みですが、1940年代の空撮では、国道134号が無い時代でも段差は確認でき、道路の為の段差だけでは無い事が確認できます。鎌倉時代から在ったと思われる段差は、国道134号で隠れてしまいました。では、今では元寇土塁と思われる段差は、道路で消滅したのでしょうか??元寇土塁は、消えたのでは無くて道路に隠されてと考えるのです。戦前の状態はどの様だったのか??問題は、由比ヶ浜の歴史と時代の経過の変化です。明...鎌倉時代の波打ち際13

  • 鎌倉時代の波打ち際 12

    >有鄰第430号H15/9/10発行>以下は記事の抜粋です。>[座談会]中世鎌倉の発掘仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって>前略>屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。>この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって>いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。由比ヶ浜南遺跡の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地の遺構が発掘された。この土塁か築地は、屋敷の東西(海岸線に沿っている)にある。この海岸線に沿った防禦土塁が有るとなれば、海から侵入する敵に対応した土塁と考えられる。海からくる敵を想定したならば、由比ガ浜全域に土塁が在ったと想定でき、「由比ヶ浜南遺跡」はその一部と考えられます。由比ガ浜全域に在った土塁は、由比ヶ浜南遺跡の他は何の資料もありません。...鎌倉時代の波打ち際12

  • 鎌倉時代の波打ち際 11

    「鎌倉時代の波打ち際10」の立体写真で写しだされた崖ですが、、未だ海岸際の国道134号が出来る以前の写真ですから、古来より崖の存在が有った訳です。滑川河口の西には、由比ヶ浜南遺跡の崖の防塁と考えられる遺構が在り、滑川河口東の材木座にも崖が存在し、この防塁の延長と考えられる。元寇対策の防塁となれば、由比ヶ浜を囲むように防塁が存在するはずです。青い色の4mと水色の6mの境界が極楽寺坂の下の坂の下から材木座迄由比ガ浜を囲う様なラインが検出できます。このラインは、道路の為の段差では無く、坂の下の町の段差で有る訳です。稲瀬川の周囲は、津波の為にこの段差が流されたと、考えられます。博多湾の防塁の場合、長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補...鎌倉時代の波打ち際11

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