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ぼ輔さんのプロフィール

住所
藤沢市
出身
藤沢市

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ブログタイトル
鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/mementosmori
ブログ紹介文
日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!
更新頻度(1年)

22回 / 365日(平均0.4回/週)

ブログ村参加:2018/05/31

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ハンドル名
ぼ輔さん
ブログタイトル
鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構
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鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構

ぼ輔さんの新着記事

1件〜30件

  • 篠窪から関本へ7

    静岡の曲金から古代東海道の道路遺構発掘、平塚東中原より道路遺構発掘。そして、学者が古代東海道では無いと否定する下大槻の道路遺構。私の見た痕跡は、富士裾野の十里木峠より東富士演習場にある直線遺構。足柄峠のU字遺構、栃窪のZ字道路遺構、更に朝比奈峠の道路遺構。これ等の遺構に共通するのは、直線的なライン上に在るのです。その一直線上にある痕跡の富士見塚下の道路遺構の話です。この写真は2020年正月です。これでは単なる野原です。上記部位の2017年です。「子宝」の表示が在る場所です。土手で一段仕切られた上も下も古代道路の遺構と考えられるのですが、、、整然とした平らで幅の在る斜面に成っています。頼朝の「富士の巻狩り」で使われたと考えられるの鎌倉より一直線な古代東海道です。古代の遺構がそのまま残っている訳では有りませんが、、...篠窪から関本へ7

  • 篠窪から関本へ6

    明けてから、、大分経ちました!暖冬で、彼方此方と歩き回っています。さて、秦野から大磯丘陵越えの話です。古代東海道の話ですから、ナダラカな坂と直線的な道路並びに路幅9mの道路が、どんな経路を通っているか?大宝元年(701年)の駅制・伝馬制から1300年も経った道路に痕跡は有るのか?栃窪のZ字道路の切通状の道は、軟弱な赤土(富士噴火灰と考えられている)が1300年の雨水で作り上げたモノと考えられますが、その際に本来の古東海道が有ると想定しています。その道路に対応する道路跡が富士見塚の脇にある。①から⑤迄は、写真の位置です。①富士見塚とその脇にある矢倉沢街道と呼ばれる2〜3m幅の道です。この状態ならば、9m幅の道は、即作れそうな余裕のある場所です。②富士塚の脇を降り、振り返った写真です。道のわきに在る赤いのは車で、そ...篠窪から関本へ6

  • 篠窪から関本へ5

    篠窪の富士見塚を矢倉岳に向かい降りていく場所ですが、、、この四角く青で囲った場所の話です。この地図は明治15年の作図で、江戸時代から引き継いだ矢倉沢裏街道と考えられます。国土地理院の空中写真と傾斜地図の合成です。赤丸の場所が富士見塚で薄く紫色の点線で示したのが裏街道です。おなじ画面を傾斜の強い場所が黒っぽく示してあります。これが傾斜地図で富士見塚と、裏街道を示してあります。更に、古代東海道の痕跡と思われる幅広の帯状の平坦地を青と緑の点線で示しました。考えられる道が二筋有る訳です篠窪から関本へ5

  • 篠窪から関本へ4

    近代的な信頼のできる明治15年に作成された迅速図です。ほぼ江戸時代の状態を示した地図と考えられます。未だ小田急線や246号道路も無い時代です。問題は、紫色に示した矢倉沢街道です。江戸時代はこのルートと考えられます。赤色に示した道は栃窪の古老に聴くと大住郡の郡道で在ったと説明されました。地図の中央は渋沢村で、矢倉沢街道は四十八瀬川に降りていきます。この周辺の街道の道幅は、当時は一間程と伝え聞いています。渋沢村から四十八瀬川に降りる道は、途中に車止めがありその後は本来の道幅と考えられる一間幅の道と成ります。この川沿いの道の現状は小田急の路線上でったり、藪の中となる。更に四十八瀬川に降りる痕跡も消える廃道となります。地図の方位は、上が北です。次の図は、鎌倉方面から矢倉岳方面の西を向けた図面と成ります。詳細を解説すると...篠窪から関本へ4

  • 篠窪から関本へ3

    篠窪には、丘陵乗り越えの直線道造りには無理な地形ですが、どの様に対処したのか??その様な山間部に於ける駅路のケースです。人里離れた富士の裾野等は比較的平坦地で直線道路を作り易いのですが、篠窪は凹凸があり困難な地形です。取り敢えずは、Z路の遺構が在りました。その次は、峰通しの緩いカーブが在ります!広めの道幅が確保できる峰ですが本当にこの経路であろうか?◎道幅を確保できる峰通しの有力な場所である。◎他に代わる谷へ降りるルートが造れない。と言う根拠でこの場所となる。右の黄色いZ字道路遺構の場所から、薄い赤点を通り左の端迄峰を通り、その端から、峰を降りる。その後三島神社の前を通り、富士見塚までが考えられる。っと言う事は、この古代東海道の道路遺構は、鎌倉時代にも使われていたと考えられる。何故なら、曽我の五郎十郎の話にもあ...篠窪から関本へ3

  • 篠窪から関本へ2

    平地では、直線的に作られた古代駅路ですが、、残念ながら山間地ではどの様にカーブを描き作られたのか?その様な道路遺構は発見されていない。もし在るとすれば、このブログが唯一扱っているだけです。例えれば、鎌倉朝比奈の道路遺構、富士十里木峠を越える足柄道の道路遺構、そして、今回の平塚道路遺構から下大槻道路遺構を通り、関本に抜ける道路遺構です。上記の遺構に文献は有りません。しかし、、足柄の矢倉岳から金沢八景の六浦港迄の直線に上に存在する合理性を持っています。更に、道路が直進しない場合は、曲がるだけの合理性のある理由を持っており、全体から見れば直進に造られています。何が何でも直進と言う訳ではなく、程度の問題を含む直進です。(google地図)右の黄色いマークは、Z路でその後尾根道(赤い点)を通ると考えられます。理由は、篠窪...篠窪から関本へ2

  • 下大槻から関本へ14 補足

    2019-05-0522:25:39写真8赤い車の有る場所が登り口です。脇にある二本の石塔は、栃窪神社の案内です。戦前に郡道で在った更に以前、、江戸時代は小田原道として栄えたとの事です。写真9登り口から道に入ると、軽四が一台通れる道ですが通り抜けは不可の道です。問題は、この道の狭さを街道と認識するか?田舎の農道と思うか?鎌倉時代以降大正時代まで作られた道は国道1号線以外は、幅2m程の道でした。箱根の石畳の東海道でも、その程度の道幅であるのを、歩いて確認してください。現代の道路基準ではなく、、70年前の道路基準が必要なのです。更に、幅9mの道と言えば、当時は見た事の無い巨大な街道となる訳です。困難な地形を避け出来る限り、直線的な9m幅の道を作る事が使命として有った道造りです。現代の重機を使い橋脚や土手の構造物を手...下大槻から関本へ14補足

  • 栃窪より篠窪へ2

    Z字遺構より尾根の赤点を辿る訳ですが、この道のイワレは、明治、大正の時代は「郡道」で有ったそうです。同様な道に、関本から秦野までの道は、矢倉沢街道が存在合いますが、、当時は道幅や険しさを比較すると、こちらの「郡道」が格が上で有ったと思えます。更に鎌倉時代を考えれば、頼朝の時代に「富士の鷹狩り」が盛んであった様で、「曽我の五郎十郎」の話があり、その時に使われた道との事です。鎌倉より一直線で富士に向けて作らた古代東海道が、平安時代を経て鎌倉時代も使われていた根拠がこの話と考えて居ます。前回の西方向の図とは違い、北向きの図と成ります。右手の黄色いピンマークがZ字道路遺構です。更に広い範囲の図を示します。これ等の場所は、関東大震災(1923年)の震源地で断層を生じた場所が秦野であり、当然地形のが影響さてたと考えて居まし...栃窪より篠窪へ2

  • 栃窪より篠窪変人キャズ

    とても特徴的なZ字で、マサカ直線的な古代東海道がZ字をしていたなんて誰も言わなかった話です。急激な傾斜を登って行く時は、、電車のスイッチバックと同じ方式になる訳です。長く重い材木を峠越えさせる時、引っ張る人間も込みで考えるとこの坂の作り方になる訳です。更に、その先の道です。この尾根から、篠窪に降りると地形が複雑である事と広い道路を確保できる道が無い。セオリー通りに尾根を通る事を考えると、尾根がとても広く続いています。結果は、赤いラインが示すルートに成ります。栃窪より篠窪変人キャズ

  • 下大槻から関本へ19 栃窪Z路

    Cの地点は、U字遺構が在る場所ですが、問題は、BからC迄の坂の傾斜とCからDの坂の傾斜が同じでは無い!同じ傾斜で有って欲しいのですが、、CからDの傾斜が強く急です。考えられる事は、本来の道から水はけの為の水が新しい掘割を作ってしまい、それが現在の道に成った為!そんな推測をしました。では、本来の道は??上の図にある様に、CからEに向け傾斜のラインがあり、空中写真にもその様なラインが見えます。よって、本来の道はA―B―C―E―Dのラインを辿ると考えられます。資料から考えると、この様な結果と成ります。確認はしていませんので、、よろしく!更に、古代道が急坂の場所を通過する時は、S字状ではなく、Z字状に作られる事が、足柄峠の事例と伴に判明したのですが、、、この道の延長である西側の坂見られるのです。このZ字坂D―E―C―B...下大槻から関本へ19栃窪Z路

  • 下大槻から関本へ18 栃窪Z路

    先ずは、この画像ですが、場所は足柄峠の「誓いの丘」下にある場所です。上の青いラインは、ブログ「鎌倉街道上の道」の作者が偶然見つけた写真が在り、私はこの様な積み石状に成った後しか知りません。著作の問題で公表出来ないので、現状の上書きを青いラインで記入しました。上の写真から100m弱先の場所が下の写真です。私が見つけた場所で、この写真の話の延長で上の写真の元画を見せて貰いました。更に、足柄峠の近くに在る場所です。以上のU字型の道路断面は、9m幅の両脇が崩れればこの様な形に成ると考えられる形と規模です。その様なラインと大きさの道が、考えられる場所に存在する事は必然性の有る話で、偶然とは思われない。必然的な話は、、それで終わりじゃない!この栃窪のU字痕跡と足柄峠の2枚目の写真はトンデモない共通点が在りました!それは、、...下大槻から関本へ18栃窪Z路

  • 下大槻から関本へ17

    このZ路は、特徴からして「古代道であろう!」っという、、、普通の道には無い構造が根拠で始めた調査ですが、、調べると、オリジナルな道路では無い事がスグに理解できる。〇雨水が逃げる場所が無く、路を侵食してV字型の切通状に成っている〇結果は底辺は人が歩く幅に成って古代道の道幅が無い。そんな訳で、本来の道は雨に侵食される以前場所=切通状の道の上の在るに違いない!そんな想像をしたのです。その様な訳で、千年の雨で削り取られた道が「堀切状に成っている」と考えた場所です。そして、「切通状の道の上の在るに違いない!」現行の道の上に在る古代道の遺構と思われるのがこの写真です。何故?この場所が古代道の痕跡なのか??この写真が示す、地形のU字ラインが根拠なのですが、、、下大槻から関本へ17

  • 下大槻から関本へ16

    このZ路3Dの場所は、栃窪と言う場所です。画面の手前は東方向で鎌倉方面へ、上は西方向で関本より足柄峠へ向きます。道の特徴は、地質は赤土(富士山の火山灰)であり、堀切状に成っている。場所としても、道路のZ状の配置にしても通常の道とは思えない。問題は道幅の狭さと坂の傾斜が強く、不自然な処です。この周囲に古代道らしい痕跡が在るとすれば、、、、その周囲を観察する必要がある。下大槻から関本へ16

  • 忘れ去られた鎌倉 城編8

    前回は、海蔵寺南側の十六井戸の周囲の紹介でしたが、以下は、海蔵寺北側の切岸です。これより先は、進入禁止と書いてあるのですが、、私道に付きとは書いてない。後ほど、お寺の方に其処には登らないでください!っと言われた場所です。海蔵寺北側の切岸の状況でした。更に先には、大堀切が見える場所が在りますが、植生が繁茂して写真は無し。この様に人を寄せ付けない為の一貫した構造と成っています。自然の山では無く、故意に手を加えた証拠として、紹介しました。「鎌倉は土地が少ない為に、土地の所有者が切り崩した!」そんな話が在りますが、そんな財力の在る造成を誰がやるのか?更に、一貫したやり方で広大な鎌倉周囲を総て同じ基準でやった事を、屋敷の周囲を一個人の財力でやった様な書き方をしないで欲しい。更に、石切り場の痕跡等言うのはモッテノホカです。...忘れ去られた鎌倉城編8

  • 忘れ去られた鎌倉 城編7

    鎌倉城の城壁の話ですが、、別名「切岸」と呼ばれています。城の意味では、生活空間を守る囲いと言う考え方をすると、、、、国内の幕府反抗勢力から守る意味で、三方山に囲まれもう一方は海の城と言え、立派に鎌倉の街を守る城の構造に成ります。そして、鎌倉終焉の「新田義貞の鎌倉攻め」では、この切岸は立派に持ちこたえ城の役割を果たした。敗因は、自然現象が始まり稲村の海が干上がった事で、この無防備な場所から鎌倉に入り込めた。城でなければ、、何だ!となれば、、元寇対策では、蒙古軍が海から押し寄せる訳です。ですから、直接鎌倉の街が攻撃対象に成ります。街の守りを捨ててでも蒙古軍に勝利する必要が有ります。それが、今回紹介している山の内側に在る切岸であり、生活空間を守る事は放棄して、蒙古軍をせん滅するする為の砦となる訳です。砦と城の違いをご...忘れ去られた鎌倉城編7

  • 忘れ去られた鎌倉 城編6

    ⑧の場所は東は横須賀線西は切岸です。英勝寺の敷地内の様です。そして英勝寺の先ですが、、⑨は、今小路から離れて西側に入った場所の切岸です。鎌倉の山はこの様な特徴が在ります!なんてね、、これで木が無ければ、人手で造成した崖なんでしょうが、、鎌倉の周囲の山裾は総てこの様な状態でマトモに山の上に上がれない!其処から「故意にこの崖を作った」意味を問われるのです。土木の重機が無い時代に、この様な大掛かりな土木を誰がやったのか?権力が無ければこの様な土木はできない。忘れ去られた鎌倉城編6

  • 忘れ去られた鎌倉 城編5

    このトンネルの寿福寺側です。この非常に狭い峰を登り、源氏山に行く道が在ります。手前に一人、中程に三人、そして上に一人!上の一人は異常に狭い道を通ります。更に上から弓で狙い撃ちをされたら、、、大人数で攻めても、困難な訳です。この道の他に源氏山に登る道は??基本的にはこの周囲には無い。忘れ去られた鎌倉城編5

  • 東富士演習場の立ち入り その後2

    この大化の改新後の駅路痕跡は、4㎞弱の距離があります。しかし、目前に有っても野原が見えるだけ!駅路痕跡の真上に立って、直線方向を見ただけ解る!簡単ではありません!この広大な東富士演習場の中で、特定地点の上に立つことは十分にGPSを使いコナセル事が必要条件!スマホの電波は届かず、アラカジメ地図を仕込む必要が有ります。若しくは、アラカジメこの地形を習熟し、道路の分岐点等を区別できる事が必要です。それですら、現地に立っても、、下草が伸び、雪が降り等の自然条件次第では、遺構の確認不可状態も考えられます。Googleマップの様に上空から条件良く見える訳ではありません。鎌倉城にしても、東富士演習場にしても、大きすぎる事で目の前に在る物が認識できないって事が在る訳です。ある意味、、物の見方考え方が無いと、目前に有っても判らな...東富士演習場の立ち入りその後2

  • 忘れ去られた鎌倉 城編3

    今小路から外れて、刃稲荷から寿福寺のトンネルを潜ります。先ずは、④の刃稲荷です。源氏山からこの峰の南側は、その昔は正宗谷戸と呼ばれ広大な谷戸は正宗所有の土地で有ったそうな!正宗谷戸の西は佐助隧道があり途中には正宗の使用した井戸があり、東の刃稲荷周辺では「たたら製鉄」で生じるカナ糞が多量に出土したそうです。次は、⑤の寿福寺のトンネル問題は、このトンネルの在る峰の不自然さに有ります。この峰は、一様な傾斜で八坂神社へ向かい、その方向は六浦道を向く。私が、古代東海道の痕跡と考え、道の境は不要になれば両側の地主の境界と成り、この様に削られた何て言う創作物語と憶測の世界に成る。その様に、この峰は人工的に作られている。更に、寿福寺のトンネルの右は下の写真に成り、その先端は八坂神社です。そんなに土地が欲しければ、この峰をすべて...忘れ去られた鎌倉城編3

  • 忘れ去られた鎌倉 城編3

    鎌倉の街から周囲の山を見て、どの様に感じるか?物の見方や考え方で感じ方は変わる。大概は、自分で考えずに常識や書かれた情報に依存する。それに従えば、鎌倉に城は無いという説を本や講習で習うと、、、「本当に無いのだ!」等と、本気で信用します。それが常識なのですが、、、物事の現象に、専門外の更に重大な要素を知らない事が有る。多種な理論、多様な考え方の組み合わせで世の中は動く。単純な理論で説得力のある研究をされても、広い見識が無い研究は現状と合わない。他のモット重大な要素を理解してない為です。頭で考えた理屈と、現実(遺構や古文献が証明するモノ)が合わないのを机上論と言います。鎌倉幕府を語るなら、古文献と鎌倉の地形を考慮に研究すべきとおもいます。>みうらサン>2015-03-1109:09:46>前略>すみませんが、初心者...忘れ去られた鎌倉城編3

  • 忘れ去られた鎌倉 城編2

    歴史には古代からの経過が在りますが、東山道の分岐が在る。新田郡衙の東山道(下新田ルート)は、武蔵路が分岐し鎌倉へ向けて痕跡が在る。その延長は、海蔵寺裏の大掘割(切通し)と続き、武蔵大路とも呼ばれ、今小路に名前を変えて鎌倉郡衙の在った御成小学校へと続く。今小路自体は歴史の片鱗も感じない道ですが、、、道の脇には、トンデモ無い遺構が在ります。駅を出て、四つ角を右に曲がると今小路です。昔の9m幅の駅路は、無駄に大きい為に平安時代は、6mや3m幅の道路に作り替えられた。そんな道を散策する訳です。しかし、この様な歴史を感じない道の脇を覗きながら歩いてみましょう。その①は古我邸です。①の古我邸は、武家屋敷としてそんな訳で、外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察を...忘れ去られた鎌倉城編2

  • 東富士演習場の立ち入り その後

    東富士演習場の立ち入りから5年が過ぎました。とりあえず、、、誰でもgoogle地図で確認が出来る「富士山に人手を加えた古代の巨大遺構を紹介しました。」考古学の特異な分野ですが、、一般人でも検証できる遺構です。2014年のgoogleマップは解像度に優れて優秀です。(10年前は解像度が劣り使えなかった。)更に5年経ちgoogleマップも国土地理院のマップも精度が上がって見やすくなっています。その様な訳で現在のGoogleマップで古代駅路と思われる遺構はどの様に見られるか?と言う検証です。上図画面上は足柄峠の峰であり、左下は十里木峠です。今回の画像は、十里木と、折れ曲がった交点の間の画像です。画面中央を下から上にラインが有ります(赤矢印の間)が、十里木峠に登って行く状態です。上図は、同じ道を逆に下って行く状態です。...東富士演習場の立ち入りその後

  • 忘れ去られた鎌倉 城編

    新田軍を防御する為に七口を塞いだまま、明治近くまで放置され通行不能の鎌倉街道ですが、、それでも朝比奈峠など、江戸時代に封鎖された切通しは現状の様に、通り易く工事をしたと石碑に記録されている。大仏切通しは、文献によると初めから封鎖を解かずに脇道を作って人力車を通したが、すれ違いが不可の為に道幅を広げた記録が有る。現在は途中の道路が地滑りで通行不可の場所を観光の為に道を作りオリジナルとは違ってしまった。古代は、北から東山道が入り、東西に東海道が貫く交通の要所で在り、産業は古代から鉄で栄え、政治的には東北を鎮圧する軍を置いたと考えられる鎌倉群衙の在る場所です。東海道や、東山道は路面幅9mの巨大な道でその痕跡の場所はこのブログに示した通りで、このブログを調べ直すのは温暖化の植生繁茂で結構困難な状態になりました。特に市営...忘れ去られた鎌倉城編

  • 鎌倉城と蒙古襲来 8

    投稿日時:2017-07-0109:15:57修正2019-01-16国土地理院の全国傾斜量区分図を参照しましよう。甘縄神明宮、日本文学館等の在る見越しの嶽を見た図です。この峰の部分は緑色に塗ってあります。急激な傾斜の部分は赤くなっています。私が画像を操作する事も無く、国土地理院の資料を見れば即、、急激な傾斜で緑の峰上には登れな事が理解できると思います。他の峰も同様です。鎌倉の全山も人工的に手を加えた訳で、決して「自然の要害」では無い上に、、海上から由比ヶ浜に押し寄せた敵に対応する砦構造が鎌倉市街の内側に存在します。ですから、、、三方を山に囲まれて「鎌倉は要害の地!」そんな発想は消えて、蒙古せん滅の為ならば、、「都を捨ててでも日本を守る!」その様な幕府の考えと私は理解します。博多湾に20㎞に及ぶ「元寇防提」を作...鎌倉城と蒙古襲来8

  • 旧東海道の道幅 コメントより7

    話は藤沢宿の道幅です。視覚に訴えるなら、大正時代の藤沢宿の写真が有ります。此れが私の知る藤沢宿の一番古い写真です。ですから、此れが江戸東海道藤沢宿の道幅である!なんていう話には、、ならないのです。先ずは、明治の迅速図(明治15年発刊)の図面に狭い道幅が描かれています。迅速図の発刊は15年として、測地を行ったのは、更に数年前と思われます。その事を踏まえた上で、、藤沢宿の災害史に、明治12年、13年、18年と大火があった。明治三大藤沢宿の大火事と言われています。明治政府命令の東海道の拡張工事と火災で商家が消失の兼ね合いで簡単に道路拡張が行われ道路幅が広がった状態が上記の大正時代の写真と考えるのです。更に、大正12年の関東大震災後に、さらに拡張したのが現在の2車線と歩道が付いた私が70年前から知る道路と考えられます。...旧東海道の道幅コメントより7

  • も く じ

    中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。写真は、古代道の特徴を持ち、砂利トラ2台が並ぶ幅です。鎌倉街道上道と考えれば海老名国分寺と鎌倉の中間地点。もくじは書いた順で表示してあります。カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。●初めての方へ,古代駅路の特徴--2006-05-13●鎌倉街道七口---------2006-05-23●鎌倉街道?これは東山道武蔵路-2006-05-27●大仏切通し1~6----ーーー-2006-06-●梶原口から化粧坂へ-------2006-06-29●朝比奈切通し1~10------2006-06-●続・朝比奈峠東の小切通し----2006-07-24●東山...もくじ

  • 賀正

    あけましておめでとうございます!そんな訳で、多数の方がご覧に成っている訳で、お礼を申し上げます。反常識的な見解の書き込みが大半ですが、、、その割にご意見や質問が少ないのが不思議です。誹謗中傷非難等、何でも書き込んでください。面白くなければ、、、無視や削除も有ると思いますが、、、出来る限り対応したいと思います。その様な訳で、本年もよろしく!賀正

  • 鎌倉城 蒙古襲来の前後。

    コメントより、、、、2017-02-16>(英)さん>(個人的には、初期の記事から貫かれていた、頼朝による>大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)>(博多湾で津波の話はあまり聞かないですし。)そうです!初期の頃のブログは、鎌倉城は、朝廷対鎌倉幕府の為の城!その様に想定しました。実際に、源氏の時代の城はその想定で作られたと考えて居ます。城の縄張りも、七口周囲とその峰の登り口や中間に攻防に耐える、、寄せ手を攻撃する構造を作ったと考えられます。七口に登る峰に作られた砦と、最終的に七口の頂点に出入りを塞ぐ土壁を作ったのが、最終の「新田義貞戦」と考えて居ます。北条家の時代に成り、元寇対策に改造された鎌倉城は、新田義貞に対峙した時兵員不足の為、元寇対策の城より守備範囲を狭め、初期の朝廷対策の城(縄張り)に縮小さ...鎌倉城蒙古襲来の前後。

  • 戦う砦跡 鎌倉城の平場

    日本城郭大系2記2015年06月26日に記載の地図ですが、「まんだら堂」と書かれた北側に東平場と呼ばれる場所が有り、平場の状態を観察できる。左の上の柵に人がいるので大きさの参考にしてください。同じ場所の反対側です。一段下がった平場です。人工的に造成した土地ですが、個人資産で大規模な造成はやらないのは、現代の重機を使わない時代の常識です。農家ならば尚更の話です。地方の士族の城とは、、規模が全く違うのです。地方の小競合いの戦争とは規模が違う。当時世界最強の軍隊と、国の存亡を賭けた戦いをする城です。戦う砦跡鎌倉城の平場

  • 新田軍は化粧坂に 戦う砦跡

    この図より、戦闘に必要な鎌倉軍の平場を探そう!っと言う訳です。平場とその下にある崖が、鎌倉の戦う為の砦の証拠です。ドレだけ見つける事が出来ますか?緑のラインは、化粧坂から水堰橋に向かう鎌倉城大手の道です。大手道の正面は、北鎌倉女子高校の周囲で土壁で乗り越えられない工作をしたと思えますが、住宅地となりその証拠は不明です。更に瓜ヶ谷から直接葛ヶ原を北から攻める兵と、梶原から葛原に向け南から攻める軍が考えられますが、、、鎌倉軍が待ち構える平場(土地に傾斜が無いと白い。)を黄色でマークしました。如何ですか?谷底から攻め入る新田軍に対して、大手道に上がる場所には必ず平場が待ち構えている。この平場に対して、住居跡だ!とか畑の跡だとノタマウ方が居ます。日が射さない場所に畑は作らないのは承知でしょうね?そんな場所には家もつくら...新田軍は化粧坂に戦う砦跡

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