chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構 https://blog.goo.ne.jp/mementosmori

日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!

国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。

ぼ輔
フォロー
住所
藤沢市
出身
藤沢市
ブログ村参加

2018/05/31

arrow_drop_down
  • 鎌倉城西側防衛線 稲村より大仏切通

    新田義貞の攻めた鎌倉城の防衛線は「鎌倉城の特徴」に書かれた赤いラインで、その下は鎌倉城の城壁の切岸です。現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見える。眺望の有るべき源氏山は、街並みも見えず海も望めない。下図は、樹木と建物を排除し、稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、赤ラインの下の崖です。下図は更に建物の現状の下の図。仮想図で樹木の厚みは表示してない。切岸の傾斜が強い場所...鎌倉城西側防衛線稲村より大仏切通

  • も く じ

    中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。写真は、古代道の特徴を持つ藤沢市の道路遺構。もくじは書いた順で表示してあります。カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。●初めての方へ、古代駅路の特徴----2006-05-13●鎌倉街道七口------------2006-05-23●鎌倉街道?これは東山道武蔵路----2006-05-27●大仏切通し1~6-----------2006-06~●梶原口から化粧坂へ---------2006-06-29●朝比奈切通し1~10---------2006-06~●続・朝比奈峠東の小切通し------2006-07-24●東山道武蔵路------...もくじ

  • 世界一大きな城は何処?5

    一般的な城の例外は、権力者を守る天守閣を持つ城の他に、防塁の中に町があり総構えと呼ばれる。初期は小田原城3.6㎢(東西2.7㎞南北2㎞)で、その当時は日本一で在ったと考えられる。小田原城が、ドレだけ凄かったのか?秀吉は正面から戦う事をセズ、持久戦で開城させたのです。江戸城総構え16.6㎢(南北4.7㎞東西5.6㎞)京都御土居堀は21㎢(南北8.2㎞東西3.5㎞)鎌倉城は、91.9㎢(東西16km南北10km)大宰府羅城96㎢(南北14㎞東西10㎞)現時点では、鎌倉城よりも大きい。そのわけは、鎌倉北の横浜山手迄、南は横須賀の浦賀迄を考慮に入れると、鎌倉城は更に大きく成ります。城の概念を根底から覆した鎌倉城の記事を見て、出鱈目記事だ!ナンてね、、、地方の勢力争いの小さな城では無く、海外国との戦いはこの規模の城...世界一大きな城は何処?5

  • 世界一大きな城は何処?4

    「日本城郭大系」には、多数の天守閣を持つ城が紹介されている。当然天守閣の無い山城も載っているのだが、城の象徴的な天守閣に目が行くと思います。しかし天守閣は城と言う防衛施設の付属物で、本質は別です。漢字の「城」の意味は[壁]が主体です。「城」は土偏に成(=戊)を組み合わせた会意文字です。「戊」は「人」と「戈」との会意で、戈は「武器としてのホコ」又は戦争の意味で防衛活動を指す。結果は「城」の意味は、土塁を作り人が武器を持って戦う状況を示します。一般常識の「天守閣がある城!」と言う概念は城の本質では無い訳です。そうでないと、大宰府羅城や鎌倉城は理解できないし、、「鎌倉には城が無い!」と言う説を鎌倉市の生涯教育講座で講演許可を与えた人を非難できないですね!■■広大な羅城空から実感大宰府政庁をぐるり防御■■筑紫野市...世界一大きな城は何処?4

  • 世界一大きな城は何処? 3

    九州には大宰府と言う場所がある。元寇で博多湾に中国の船が押し寄せた。一回目の元寇で、妨塁の備えは無く一時期武士は水城に逃げ込んだと有る。水城とは??大宰府には、、城が在るか?その疑問に「日本城郭大系」にどの様に答えて居るでしょうか??水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城等の紹介が有ります。しかし、太宰府羅城の話は無いと思いますが、、、、鎌倉城でも、、、それが羅城である!なんて言う発想は皆無で、、、藤沢、鎌倉、横浜、逗子、横須賀等の広域に切岸が在るのに、、、鎌倉市内ですら目立った一部しか調べなかった。お猿畑の名越切通を城だと紹介したが、その過剰に切り立つ切岸に思えるのは、近世の鎌倉石を切り出した場所と判明。挙句は、日本城郭大系の「お猿畑の名越切通」が単なる石切り場と証明されたら、反動で「鎌倉には城が無い!」...世界一大きな城は何処?3

  • 鎌倉城東側防衛線 朝比奈切通より六浦港

    朝比奈を抜け六浦へ古代東海道が有った痕跡が在り、六浦から海路で上総へ渡る経路です。六浦は鎌倉時代の外国と交易する港でもあります。元寇が鎌倉に攻め寄せたら当然攻め込む拠点にもなる場所とも考えられます。恐らく、波の荒い外海の由比ヶ浜や七里ヶ浜は上陸困難で、元寇は六浦側から朝比奈峠へ攻め込んで来ると考え、鎌倉城東側防衛線を強固にしたのではと考えます。すると、、、鎌倉城は更に巨大な大きさに修正する必要が考えられます。青色線は鎌倉市街を守る防衛線ですが、桃色の線は、六浦を取り囲む様に切岸が作られています。更に、橙色の半ば住宅地に破壊された切岸が確認できます。問題は、切岸の痕跡を根拠に鎌倉城を考えると、鎌倉城の縄張りはコンナモンじゃない!鎌倉城東側防衛線朝比奈切通より六浦港

  • 鎌倉城西側防衛線 長窪砦と鎌倉城

    注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。鎌倉の市中には古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で現地を見た時の理解に成ります。鎌倉と言えば「イザ鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する...鎌倉城西側防衛線長窪砦と鎌倉城

  • 鎌倉城東側防衛線 朝比奈切通 名越切通

    朝比奈から、古代東海道が六浦まで通り、六浦港より海路になり上総へ渡る経路です。六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港は、当然攻め込む目標になる場所とも考えられます。元が六浦港に船を入れ鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。青色線が鎌倉城の切岸=城壁で有り、黄色線は朝比奈切通...鎌倉城東側防衛線朝比奈切通名越切通

  • 鎌倉城北側防衛線 小袋切通より八幡宮北側

    鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。赤色地図の白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。山の赤い場所は傾斜強い場所で、黒っぽい場所は崖状態に成った場所=切岸です。更に防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な防御態勢とこの張り出した峰を使い谷の奥を攻める敵を背後から襲える構造でもあります。この状態で、樹木の茂った峰を見たら、単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。=「三方を山に囲まれた天然の要塞!」っと通常言われるが実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、、、見破れない!鎌倉市内を囲...鎌倉城北側防衛線小袋切通より八幡宮北側

  • 世界一大きな城は何処?2

    江戸城の話です。通常は下の図を江戸城と考えると思います。天守閣がお城と考えるのは、筋が違います。天守は権力を誇示する為の建築で、そこ迄攻められたら中で自決する為の時間稼ぎの場所です。外敵が襲ってきた時に防禦する堀や壁(土塁)に囲まれた範囲が古来よりの城です。その想定で江戸城を考えると、、、上図を見ると、、、江戸の下町迄堀が囲い巻貝を連想する構造です。外堀の防御に対し、、一番攻めやすい場所が芝口見付けと考えられますが、その脇には「浜大手門」現在の浜離宮が有ります。品川、銀座と攻め入り、城の周囲を一周して虎ノ門、日比谷に行き着き江戸城の核心を攻撃できる訳です。上掲載の古地図はWikipediaより引用。上のgoogle地図より、江戸城総構えの面積は16.6㎢外堀の距離は16km南北4.7㎞東西5.6㎞と言う規...世界一大きな城は何処?2

  • 世界一大きな城は何処?

    このタイトルの意味は、、、鎌倉城が世界のベスト10に入る規模の大きな城と思えるからです。Googleで「世界一の城」と探すと、一位マルボルク城(0.14㎢)ポーランド二位メヘラーガル城塞(0.081㎢)インド三位プラハ城(0.066㎢)チェコ四位ウィンザー城(0.054㎢)イギリス等と表示されますが、、上記の順位は権力者が自身の身を守る為の城と考えられます。守る主体は何か?の問題です。守る種類は、権力者、一般の住人、街等の構造物、土地、生活空間等があります。日本の城は、権力者の命と身分を守る城と考えられます。自分の屋敷=天守閣=権力の誇示結果は城=立派な天守閣っと言うイメージが有ると思います。しかし、城を趣味にする人は天守閣に目が行くし、権威を示す見た目が重要と成る。その様に設計されたのが日本の城です。城...世界一大きな城は何処?

  • 鎌倉城西側防衛線 大仏より小袋切通

    鎌倉城の切岸に就いては、、、■鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8(2016/02/24)■鎌倉に城は無かった!なんてね、9~12(2016/02/24)■日本城郭大系(2015/06/22)■日本城郭大系2(2015/06/26)■鎌倉城の成り立ち(2015/06/15)■武家屋敷跡(2014/10/10)以上に書かれていますが、これ等の切岸をどの様に感じるか?と言う問題がある。城としての実感を持感じたくても、樹木に隠された現風景と、60年前の景観は別なモノで、当時の景観を再現したら巨大な防禦施設を実感できます。モットも巨大過ぎて視野に入るのは城全体の数パーセントですから、後世の城郭研究者の常識で鎌倉城を見た時には単なる山に見える為に、鎌倉城を語る文献は無いも同様です。権威の有る「日本城郭大系」が地方の...鎌倉城西側防衛線大仏より小袋切通

  • 鎌倉城西側防衛線 稲村ケ崎より大仏2

    稲村ケ崎より大仏切通迄の防衛線(鎌倉城城壁の上)のブルーのラインで描いた場所、この部位はハイキングコースでは無いので歩行は困難と思います。仏法寺の有る霊仙山の峰は、江ノ電極楽寺駅を始点として登る道があり検証記事をご覧ください。この鎌倉城城壁の峰にある道は、防衛の兵員移動の道で踏み跡程度の道幅と下からは切岸で登れ無い構造にしてあり、登れる場所は特定な場所で、登って来る敵を攻撃し易い場所に成って居ます。①稲村路が海岸より登れる場所。②仏法寺へ行く参道(極楽寺坂入口の墓処より入るが震災で崩壊し一部残あり)。③極楽寺駅より入る。等が有ります。鎌倉城西側防衛線稲村ケ崎より大仏2

  • 鎌倉城西側防衛線 稲村より大仏

    稲村ケ崎より大仏切通迄の防衛線(鎌倉城城壁の上)をブルーのラインで描いてあります。この部位は、ハイキングコースでは無いので歩行は困難と思います。仏法寺の有る霊仙山の峰は、江ノ電極楽寺駅を始点として登る道があり検証記事をご覧ください。この峰の道は、防衛の兵員移動の道で踏み跡程度の道幅と下からは切岸で登れ無い構造にしてあり、登れる場所は特定な場所で、登って来る敵を攻撃し易い場所に成って居ます。この図の中では、稲村路が海岸より登れる場所。仏法寺へ行く参道(極楽寺坂入口の墓処より入るが震災で崩壊し一部残あり)。極楽寺駅より入る。等が有ります。鎌倉城西側防衛線稲村より大仏

  • 鎌倉城西側防衛線 稲村ヶ崎より大仏切通

    鎌倉城の城壁をご覧になり、如何でしょうか?注目点は、自然地形のハズが、、都合よく鎌倉山の峰で囲えたものだ!そんな好都合な山の峰が本当に有ったのか?奇跡です。キット人工的に塞いだ場所も有ったでしょうに、、、(そこ迄調べた事は無いが、出来過ぎた城壁です。)新田義貞は陸上より攻めたが、鎌倉軍の防衛線としては、兵を配置す為の峰通し道となり、その下は鎌倉城の城壁である切岸になっている。現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり...鎌倉城西側防衛線稲村ヶ崎より大仏切通

  • 鎌倉城の城壁

    鎌倉の街を囲む城壁が有ります。城壁に出入りするには鎌倉七口とも称し中身は切通しと坂です。その他に、新田義貞が鎌倉攻めに使った稲村路と逗子の披露山から逗子市新宿へ下りる古代東海道と間違えられた道が在ります。ブルーのラインがその城壁の上で在り、下は城壁として切岸と成っている。敵の想定は、陸地の外側から攻められた時にもその峰の下は切岸で有り、海岸から船で攻められた時には、砂浜の処で防塁が有り、其処が破られたら山に避難し、切岸に守られ攻撃を再開できる構造です。この構造を、歩いて観察し易いように地図と起伏図を併用して紹介しようとおもいます。鎌倉城西側防衛線はその為に書き始めたのですが、、、書き換えるつもりです。鎌倉城の城壁

  • 鎌倉城の特徴

    赤いラインは、鎌倉の市街を守る防衛ラインで、その下は切岸です。青いラインは鎌倉七口の切通。緑ラインは稲村路鎌倉城を解説した研究書は殆ど無い。在っても断片的で有ったり、全体の城としての構造や機能迄の解説は無い。鎌倉終焉の時に、この城の特徴が示された。関ヶ原の戦い-Wikipedia西軍8万人対東軍9万人の戦い。関ケ原の戦いより規模が大きい、鎌倉の戦いでは、推定新田軍25万人対鎌倉幕府5,5万人太平記は新田軍六十万七千騎対鎌倉幕府十五万騎攻撃新田軍の圧倒的な人数に対し、鎌倉軍は少ないが、3日持ち応えてた。新田軍は正面突破が出来ず、城壁の途絶えた稲村路より、干上がった海より鎌倉に侵入出来た。それ程強固な鎌倉城の実態を調べた研究書を私は知らない。現代の研究は、参考文献を調べて研究書を作る訳ですが、鎌倉城を示す研究...鎌倉城の特徴

  • 頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 2

    頼朝落馬の地の碑がJR東海道辻堂駅の近くに在るそうです。>2022年4月市民センター開館記念講演にて、>辻堂在住の郷土史家・大石静雄さん(98)が地域の歴史について語った。>小学5年生の時に、地元の高齢者から「この場所で昔頼朝が落馬した、よ>く覚えておいて」と教えられた。.これが根拠で碑が造られた様です。.文献の(北条九代記)と(保暦間記)には、義経の亡霊は「八的ヶ原」にあらわれたと書かれており、、、その場所は藤沢市辻堂だという説がある。.物的根拠は無いようです。この周囲は砂地の土地で鎌倉古道を確定するには、発掘で路面の硬化が見つかれが良いのですが、、取り敢えず伝承が在ります。.更に、古代東海道の引地川辺りからの分岐と成れば、、橋脚遺跡に向け妥当な京鎌倉往還の鎌倉道と考えられます。赤丸が頼朝落馬地点の碑で...頼朝落馬の地、「八的ヶ原」2

  • 稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

    .由比ヶ浜から霊仙崎より稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。.現在は「googleEarth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。.そんな「googleEarth」の画像です。.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。.再度訪れて写真を取るつもりでしたが、、緑の繁茂が年々ヒドクて現場にたどり着くにも草刈道具が必要な状態となり、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない状態が現状です。.下図は、一番右に由比ヶ浜...稲村崎成干潟事のマトメ4googleEarth

  • 稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

    この手の空中写真は、思い道理に写しだされる事は少ない。下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)トテモ条件が良く崖を横切る稲村路がトラバースする状態が写っています。PCの画面を基準に作図しているので、スマホでは確認が難しいかもしれません。興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。古い映像は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。垂直に近い崖は真上から撮ったら殆ど写らない!季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!緑が侵食し始めたら道路痕跡は隠れ...稲村崎成干潟事のマトメ3空中写真

  • 稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

    誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」それって本当???根底にその疑問が有るので実証しよう!!っと徒渉実験が行われた。引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は腰までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏刀1㎏)を着けたら身動きできない!稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。その様な観点から、、稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず太平記や梅松論の...稲村崎成干潟事のマトメ2干潮の時刻

  • 稲村路のマトメ 1

    「稲村路」と言う記載が古典には有ります。●海道記(1223年頃)「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」(ぼ助訳)高い岩(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)。●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」(ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」(ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。稲村路の特徴は、、、「梅松論」より石高く道細くして=石の高い場所を通っている。「海...稲村路のマトメ1

  • 稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

    ―――干潟の状態―――●【太平記・稲村崎干潟事】誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。【渺渺】広くはてしないさま。遠くはるかなさま●【梅松論】「北条氏の滅亡」爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。干潟=干潮の時・・土地が現れる現象古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が...稲村崎成干潟事干潟の状態は、、、

  • 稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、、、

    ■記2010年08月07日稲村崎成干潟事9異常潮位に就いては、上記に記した有ります。その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??その時刻を正確に科学的に解説したって、、根本が間違っている。その日時が干潮であろうと、無かろうと、、、如何でも良い事!!何故なら、、、『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!と書かれている。要は、「潮の時刻」を問題にする事は古典を読んだにしても、文章の読解力が無い訳です。新田義貞が黄金の太刀を海に入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!更に梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれて...稲村崎成干潟事干潮の時刻は、、、

  • 『現』稲村ケ崎 新田伝説検証。

    明治の迅速図です。ご覧の通り、稲村ケ崎の海に出た処は記載されていません。そんな細かい処迄明治政府は調べる余裕が無かった事がウカガエます。下図は現代の詳細な地図で、海際の桃色に示した場所は平場です。この桃色の平場が鎌倉街道の痕跡の様に誤解した人が居り、挙句は胸まで漬かりながら渡渉を試みたのが明治の話で、渡れたので「新田伝説は単なる伝説では無い!」有り得る話となり、碑迄作られて今日に至ります。上図の桃色の平場は、数か所で途切れており、これ等岩場の波浪侵食は数千年を要する侵食ですから、千年後程度で変化は微小です。この平場は古典に書かれた一般的老若男女が通行できる稲村路では無いと証明できます。稲村路はこの場所とは別な処に存在します。さて、下の稲村ケ崎の航空写真ですが、海底の岩場には、進行方向を邪魔する様な溝が多数有り、...『現』稲村ケ崎新田伝説検証。

  • 稲村伝説!【稲村崎成干潟事】

    2022/5/9前後のテレビで「鎌倉殿の13人」絡みの解説が在り、現稲村ケ崎を新田義貞が渡渉した話を肯定した解説をしたと知人から聞きました、、、歴史的根拠となる「太平記」「梅松論」や「吾妻鑑」の根拠を無視した話です。それらの反論は、既に書き散らかしていますが、、、カテゴリーを「稲村伝説」として、読み易いように纏めました。◆稲村ガ崎の古道を検証上巻(2014年11月19日 切通し〇記2006/11/02稲村ガ崎の古道を検証1〜5◆稲村ガ崎の古道を検証下巻(2014/11/18)〇記2006/12/04稲村ガ崎の古道を検証7〜10◆稲村崎成干潟事上巻(2014年11月28)〇2010/07/01記稲村崎成干潟事序〜5◆稲村崎成干潟事中巻(2014年11月28)〇2010/07/18記稲村崎成干潟事6〜10◆稲村崎成...稲村伝説!【稲村崎成干潟事】

  • 頼朝落馬の地、「八的ヶ原」

    頼朝落馬の地、「八的ヶ原」(野﨑幸夫)様、コメントを読ませて頂きました。断片的には知って居ましたが、頼朝落馬の地が在ったのは初めて知りました。史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html源頼朝落馬の地https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。極楽寺坂の切り開かれた時代は、深沢(現・鎌倉市西部)にあった寺院を1259年に、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた極楽寺に...頼朝落馬の地、「八的ヶ原」

  • 鎌倉の味わい方!

    小学生の頃、藤沢駅前から自転車に乗って鎌倉を探索して走ったのが始まりで1950年代の話です。当時は、江の島の華やかな賑わいとは違い、鎌倉は異質で静かで落ち着いた別世界でした。単なる山道では無く人手が加わり、行く先々に意外性がある景観の山道でした。鎌倉は、深緑の細い土道で、薬研堀の道や切通の道を好奇な目で楽しめました。今思えば、その道は、崖=切岸坂道切通し等の造形の変化が面白さの一部で在ったし、思いがけない場所のお寺で在った訳です。今でもその山道の風情は色濃く残って居ます。鎌倉市街は新田義貞の鎌倉幕攻めで、焦土と成り残った建築は円覚寺の舎利殿のみで、鎌倉時代を偲ぶ建物は消えました。それ程に、鎌倉時代を偲ぶ建築物は消え、明治初頭の市街は大半が畑でした。絵図の如く、鎌倉市街は八幡様の参道、長谷、極楽寺下の坂ノ下辺りに...鎌倉の味わい方!

  • 鎌倉殿の13人 の結末は?

    文献が少ない為に為に起きた「誤り」と言うのが有ります。研究テーマに沿った文献を調べ、不明な部分は憶測で書くのが鎌倉の歴史研究書です。理工科系統では、研究テーマに沿った文献を調べ、不明な部分は新たな研究対象と成ります。要は、鎌倉の歴史研究書は臆測を多く含み、非科学的な記述が多いと言うのがこのブログに書かれた事です。現地の地形や切岸の構造等を知って居れば、古文献の「誤り」はもっと少なかったと考えます。残念ながら、鎌倉の地形を熟知するのは広大過ぎて判りにくく、困難です。臆測で書かれた「誤り」は、研究者が鎌倉の地形を知らずに著述された。「鎌倉殿の13人」も古文献の根拠より、現代鎌倉研究書の引用が多いと思います。鎌倉終焉で鎌倉城の記述や、稲村ヶ崎の故事が在ると思います。どの様に話が展開するのか、、疑問がお有りでしたら、、...鎌倉殿の13人の結末は?

  • 鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、

    年明け最初の記事です。このブログも多数の方がご覧になられ、嬉しい限りです。現代の100年に渡る鎌倉研究の本は、憶測に満ちた研究が多数を占めます。鎌倉終焉にて、幕府の文書は灰塵と成った訳です。●軍忠状●十六夜日記●梅松論●太平記●吾妻鏡●関東御教書等が鎌倉を語る文献の主流と考えますが、、如何でしょうか?当方は、文献よりも鎌倉の現状の遺物、「切岸」「谷戸」鎌倉城の範囲を考察!その方向を優先し、文献は後回しと成っています。文献に詳しい方、反論の有る方、ご遠慮なく「コメント」を下さい!由比ヶ浜の元寇防塁等は、これ等の反論から見直された話です。当方は、文献よりも鎌倉の現状の遺物、「切岸」「谷戸」鎌倉城の範囲を考察!その方向を優先し、文献は後回しと成っています。鎌倉殿の13人が始まった様ですね、

  • 鎌倉時代の波打ち際 29

    由比ヶ浜に元寇坊提に相応する崖が存在した!逗子の海岸にも同様な元寇坊提に相応する崖が在り、更に七里ヶ浜にも元寇坊提に相応する崖が存在し、明治の時代まで残り、写真に捕らえられている。では、鎌倉城を外れた海岸はどの様でしょうか?江の島の砂州は片瀬川ですが、片瀬山迄切岸が存在する事から、片瀬川までが鎌倉城の範囲と考えられ、片瀬川西側の鎌倉城から外れた砂浜(鵠沼海岸)はどの様か?ご覧のように片瀬川一つ隔てると、普通の砂浜と成ります。結果は鎌倉城の範囲に防塁は造られたと考えられる。鎌倉時代の波打ち際29

  • 鎌倉時代の波打ち際 28

    由比ヶ浜の元寇坊提に相応する遺構は鎌倉考古学研究所に依ると由比ヶ浜南遺跡は「東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。」っと発掘状態を語っている。四角い鎌倉石で積み上げられたモノと考えられる。その土塁を西へ延長させると坂ノ下で、関東大震災で崩れた状態が下の写真です。四角い石材が散乱しているのが確認できる。同様に関東大震災で崩壊した七里ガ浜の道路と崖の状況は?下図の状態です!小動岬が写る崖が崩壊した写真です。如何でしょうか?四角い鎌倉石が散乱した状態は、由比ヶ浜(坂ノ下)の画面と同じ状態です。由比ヶ浜南遺跡と同じ考えで作られた「鎌倉石を使った大規模な土塁」と考える根拠の写真です。鎌倉時代に造られた道路は総て細い道です。広かった化粧坂の道も狭く作り直した痕跡が在り、朝比奈の切通お同様に狭く作り直した。七...鎌倉時代の波打ち際28

  • 鎌倉時代の波打ち際 27

    江之島には灯台(昭和20年代に建設)がありません。江ノ電は1910年(明治43年)開業。依って、この画像は明治43年から大正12年の間と考えられる。下の写真は、道路脇の崖の状態です。下の写真は江ノ電が無い時代ですが、注目は道の広さに有ります。・化粧坂より葛原ヶ岡神社に向かう旧道、・大仏切通より手広に下る道、・銭洗弁天から葛原ヶ岡神社に向かう山道(山崩れで通行禁止)、・名越の切通の道、これ等は、皆細い道です。例外は、化粧坂の道や朝比奈の道が広いのですが、、、鎌倉時代より以前の道と考えられます。これ等の道と崖の作られた時代は、、、これ等の重機の無い時代の道路整備は、鎌倉時代以外は考えられない訳です。更に、鎌倉時代には、広い道路を狭めて使う時代でこの広さは矛盾です。これは、道路として考えると矛盾しますが、、元寇防塁と...鎌倉時代の波打ち際27

  • 鎌倉時代の波打ち際 26

    鎌倉の由比ヶ浜には元寇防塁と考えられる遺構が在った。鎌倉城の切岸は、片瀬山にも存在するので、境川の際迄鎌倉城が存在すると考えられる。依って七里ガ浜に元寇が上陸する事を考慮すれば、元寇防塁が有るハズです。下の写真は江の島から見た七里ヶ浜で、砂浜は国道134号線の崖に囲まれています。ご覧のように国道134号線の崖が、元寇防塁状態です。下の写真は、その一部を拡大しました。写真に写るのは、国道のコンクリートの壁ですが、、国道が出来る前は、この崖の場所はどの様で在ったのでしょうか?下は「今昔マップ」と言うアプリケーションです。明治の地図ですが、既に江の島電気鉄道の文字が在り、七里ガ浜に道が在るだけでは無く鉄道が脇に在ったのです。この道路の記号は、一、道路の記号二、鉄道の記号緑色の枠内三、崖の記号赤色の枠内の三要素で依り成...鎌倉時代の波打ち際26

  • 鎌倉時代の波打ち際 25

    google地図に依る現在の逗子海岸です。海岸際に国道134号線の崖が延々と続いている。この崖の成り立ちは、、道路を作ったから??同じ様な写真ですが、、下の写真を見てください。同じアングルの絵はがきの写真で、海岸道路が無い時代のモノです。山の位置からほゞ同じ場所からの映像と考えます。道路が無くても、崖が在った訳です。由比ヶ浜と同様に、国道によりこの崖は隠されてしまった。元寇防塁の可能性が大であると考えます。次は、七里ガ浜です。鎌倉時代の波打ち際25

  • 鎌倉時代の波打ち際 25

    google地図に依る現在の逗子海岸です。海岸際に国道134号線の崖が延々と続いている。この崖の成り立ちは、、道路を作ったから??同じ様な写真ですが、、下の写真を見てください。同じアングルの絵はがきの写真で、海岸道路が無い時代のモノです。山の位置からほゞ同じ場所からの映像と考えます。道路が無くても、崖が在った訳です。由比ヶ浜と同様に、国道によりこの崖は隠されてしまった。元寇防塁の可能性が大であると考えます。次は、七里ガ浜です。鎌倉時代の波打ち際25

  • 鎌倉時代の波打ち際 24

    国道134号線脇の元寇防塁の現状です。当然の如く、鎌倉石は風化に弱く800年は持ちません!しかし石垣の基壇は地中ですから発掘すれば証明できるでしょうが、、、現状は関東大震災で崩れたモノを修復した石垣が現状と考えます。以下はgoogle地図から引用します。前回の道より国道134号に出た場所で、コンビニエンスストアが有ります。コンビニエンスストアの脇に石垣が有ります。国道に出る為に色々細工をします。坂ノ下の交差点です。この場所には、稲荷神社が有ります。この神社は、所詮関東大震災後に造られたモノでしょうが、、神社脇の道に特徴が有りその道の細さは現代では考えられない細さです。鎌倉の道の細さは特筆ものでして、この坂の下の町の古い路地はこのレベルの細さです。以前紹介した銭洗い弁天の古い参道も、路地道では無いのに細い道です。...鎌倉時代の波打ち際24

  • 鎌倉時代の波打ち際 23

    元寇防塁の現代の姿は、自前の写真が在りますが、Googleマップの方が良く写っている!先ずは霊仙山の下より国道134号に出あう間のストリート写真です。先ずは霊仙山を斜めに横切る白いガードレールの道です。新田義貞が鎌倉に攻め込んだ時の潮が引き出現した岩礁!関東大震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた時に使った道です。其処から東向きに元寇妨塁を見ると、下の写真です。下の写真道路の左側の石垣がその防塁です。下図は、国道134号線が先に見えます。下図は、国道134号線の出会いです。上図の白い建物は、コンビニのローソンで、その先に石垣が有ります。次回は、国道134号線脇の防塁です。鎌倉時代の波打ち際23

  • 鎌倉時代の波打ち際 22

    下図は「鎌倉時代の波打ち際21」の元画像で、関東震災以前(明治、大正時代)の絵葉書です。この山の岩崩(いわくえ、崖)ですが、萬葉集の防人に行く男が謳ったモノでかまくらのみこしのさきのいわくえのきみがくゆべきこころはもたじこの岩崩(いわくえ)の事で、由比ガ浜から見た時に絵に成る場所で、新田義貞鎌倉攻めで黄金の太刀を投げ込んだ海、潮が引き奇跡を起こし海蝕棚が水面から現れた!その海蝕棚上を歩いて攻め込んだ、、この故事に絡む古跡と成ります。その様な訳で由比ヶ浜から防塁を写す様な写真は、震災の崩壊の凄さを表した報道写真の時だけが興味の対象で、他には探しても無い!この写真は、稲村ケ崎に続く霊仙山を写した写真の脇にタマタマ写った物です。場所が判れば、写りは悪くても判別が付けられると考えたのが下の写真です。更にもう一枚以上の防...鎌倉時代の波打ち際22

  • 鎌倉時代の波打ち際 21

    1923年(大正12年)関東大震災があり、強震度と津波に鎌倉は襲われ、元寇防塁の石積は一部崩壊し写真にも写し取られていたのが「鎌倉時代の波打ち際20」でした。それならば、ヒョッとしたら震災前の鎌倉元寇防塁が写真に有るかも??その結果が下の写真です。二つの桃色の矢印の間なのですが、、、鎌倉時代の波打ち際21

  • 鎌倉時代の波打ち際 20

    こんな写真が在ったとは!写真の題は「坂ノ下海岸海嘯跡」鎌倉市中央図書館蔵。写した場所の想定は、国道134号線坂ノ下信号したの砂浜。山の形と極楽寺坂の切れ込み及び、V字に切れ込んだ切通から見える陣鐘峰より、、この場所が特定される。問題は、砂浜から急に四角い石が散乱する土塁の光景が見える。四角い鎌倉石で作られた元寇防塁が地震で崩壊した状態と考えられる。更に現状の同じ場所です。新田義貞が、極楽寺坂攻めで陣鐘峰に陣を置いた意味が理解できるでしょうか?七口の峰の外から唯一鎌倉の中を見れる場所がこの陣鐘峰で有り、浜に雪崩れ込む新田軍を鐘で指揮できる場所で有った訳です。私は、鎌倉の花火をこの場所で「高見の見物」の予定でしたが、、今では木が生い茂り見れないでしょう。マサカ、、、崩壊した元寇防塁の写真が在ったとは、、思いもしませ...鎌倉時代の波打ち際20

  • 鎌倉時代の波打ち際 19

    鎌倉の元寇妨塁は現状ではどの様なのか?下図は、google地図です。ピンクのマークが元寇妨提と想定する場所で、石垣の有るが場所は黒ずんで写っています。ピンクマークは土塁の切れている場所です。道路から車で出入りするには邪魔な土塁ですから、当然撤去の場所が在る訳です。その様な場所をピンクの丸で示しています。アップするとこの様です。更にその先は、基本的には、元寇防塁と思われる石垣は統一したラインとなり、個人の力でやった個々の都合で凸凹したラインとは異質です。更に防塁の高さもほゞ同じ高さです。以上はgoogle地図からの情報です。鎌倉時代の波打ち際19

  • 鎌倉時代の波打ち際 18

    大正12年の関東大震災の坂下の惨状です。震災の津波に洗われても、それなりに土塁のラインが黒く写っています。浜辺は1m程浮き上がり砂浜は広くなり、新田義貞の攻め込んだ岩礁も浮き上がり埋め立てられ戦後には稲村ケ崎を切通し国道134号線が開通した。震災前とは違い、土塁の際迄民家が造られています。その土塁の段差は、段差を強調した下図と見比べれば理解できると思います。桃色の矢印の間の点線が国道に侵食されて無い、、、元寇防塁の想定部位です。A点は国道と別れた場所で、B点は元寇防塁の終わる場所です。次回は、稲瀬川とA、B点の現状を見てみましょう。由比ヶ浜に「元寇防塁」が存在する事は、、2017年では考えもしなかった。その状況は「コメントより、」2017年02月記載その様な訳で、このブログの主張は決して「結果を記載した。」訳で...鎌倉時代の波打ち際18

  • 鎌倉時代の波打ち際 17

    先ずは、明治15年作図の迅速図です。トテモ農地が多いのが目立ち、寂れた観光地の雰囲気です。更に鎌倉に入り込むには道路が貧弱で、街並みの様子から出入りには極楽寺坂経由が定番で在った様です。下図は大正10年の地図で、地図の作図は丁重で土塁も記録されています。この土塁の状況を写した画像が有ります。成就院の高みから写した写真です。山の上からの写真なので真っ白い砂浜に対して、土塁は黒いラインとして写っています。土塁と家屋の間は広い空き地となっています。よって、家屋を保護する土塁では無いと考えられます。稲瀬川の先には家屋が無いのに土塁が在る。住居民には、、意味の無い土塁と言う事から存在理由は「元寇妨塁」と考える訳です。これが震災前の状況です。鎌倉時代の波打ち際17

  • 鎌倉時代の波打ち際 16

    由比ガ浜を滑川、稲瀬川で区切ると、、、東より材木座、滑川、由比ヶ浜南遺跡、稲瀬川、坂ノ下に分けられる。材木座、由比ヶ浜南遺跡の土塁は、国道134号線に埋もれた状態です。国道134号線に埋もれて無い土塁があるとすれば、、、、稲瀬川より極楽寺坂間の坂ノ下が在ります。下図は、現代の地図で、海際に国道134号線が在り、その山側に傾斜地を示す黒い線が在る。これは国道が出来る前から存在する段差と考えられる訳です。上図で国道134号線が急に南に向け曲がる場所は、震災で浮き上がった岩礁を埋め立てた場所で、新田軍がこの岩礁の上を攻め込んだ場所です。埋め立て前の関東大震災以前は海で在った場所で、本来の砂浜は元土塁の段に沿って浜が在った訳です。その当時はヘリコプターも無く、民間人が乗る様な飛行機も無い時代で、鳥観図は、想像で描く時代...鎌倉時代の波打ち際16

  • 鎌倉時代の波打ち際 15

    明治29年作図の鳥観図で、由比ガ浜が描かれています。由比ガ浜には砂浜を囲む土塁が描かれています。「相模国鎌倉名所及江之嶋全図」とあり「早稲田大学」で検索できます。拡大して見ると、単なる崖では無く、ある部分は石組みらしき処も有り人工的な土塁が由比ガ浜を囲む様に描かれており、人家の無い場所にも在る事から個人的資産で造られた土塁とは考えられません。図面は他にも有ります。この図は、大正4年の作図で、江ノ電が記入されています。砂浜を囲う土塁が描かれ大正12年震災以前の作図です。大正12年震災後の写真は津波でも土塁は残った訳です。上記の図版にも土塁が描かれています。一般民衆には、土塁を作る財政や労力は無いし自分の土地なら財力が在れば土塁を作るでしょうが、浜全体を囲む土塁は政治力を使わないとできない話です。図面左端の坂ノ下の...鎌倉時代の波打ち際15

  • 富士山中 に東海道 十里木 2021

    「富士山中に東海道十里木」其の現在のgooglemapの3D画像です。誰でもこれを再現できる!更に詳細に拡大もできる!画像下のGoogleから上に直線的な痕跡が在ります。その方向は、箱根の外輪山「長尾峠」方向であり、画像ではゴルフ場が写っています。途中から折れ曲がり足柄の尾根根元に向かいます。判り易い様に、画面下のGoogleの場所に池を入れました。足柄向けは痕跡が薄いのですが、、良く見れば有ります。現地での確認は視認するのはトテモ困難と思いますし、私も確認していません。上空から大きな視野でならば、、、確認できますよ!っと言う事です。GPSの性能が良く、荒野でも位置が確定できれば、可能と思います。何方かチャレンジして欲しいと思いますが、、、やる方が居られたら、、是非レポートしてください!!富士山中に東海道十里木2021

  • 鎌倉時代の波打ち際 14

    下図は、大正十年の地図です。渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。何故数百年の間なのか?鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。ほゞ、、鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図...鎌倉時代の波打ち際14

  • 鎌倉時代の波打ち際 13

    傾斜が強い処は黒く強調した国土地理院の地図です。砂浜に沿って黒いラインがあり、一段高い崖が現在の国土地理院の地図から読み取れます。これが現今の由比ガ浜の段差です。元寇対策の土塁が存在すれば、この様な段差が地図より読み取れるで有ろう!その思惑道理に段差が存在した訳です。由比ヶ浜南遺跡、材木座防塁の黒いラインは、現在は道路絡みですが、1940年代の空撮では、国道134号が無い時代でも段差は確認でき、道路の為の段差だけでは無い事が確認できます。鎌倉時代から在ったと思われる段差は、国道134号で隠れてしまいました。では、今では元寇土塁と思われる段差は、道路で消滅したのでしょうか??元寇土塁は、消えたのでは無くて道路に隠されてと考えるのです。戦前の状態はどの様だったのか??問題は、由比ヶ浜の歴史と時代の経過の変化です。明...鎌倉時代の波打ち際13

  • 鎌倉時代の波打ち際 12

    >有鄰第430号H15/9/10発行>以下は記事の抜粋です。>[座談会]中世鎌倉の発掘仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって>前略>屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。>この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかって>いる屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。由比ヶ浜南遺跡の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地の遺構が発掘された。この土塁か築地は、屋敷の東西(海岸線に沿っている)にある。この海岸線に沿った防禦土塁が有るとなれば、海から侵入する敵に対応した土塁と考えられる。海からくる敵を想定したならば、由比ガ浜全域に土塁が在ったと想定でき、「由比ヶ浜南遺跡」はその一部と考えられます。由比ガ浜全域に在った土塁は、由比ヶ浜南遺跡の他は何の資料もありません。...鎌倉時代の波打ち際12

  • 鎌倉時代の波打ち際 11

    「鎌倉時代の波打ち際10」の立体写真で写しだされた崖ですが、、未だ海岸際の国道134号が出来る以前の写真ですから、古来より崖の存在が有った訳です。滑川河口の西には、由比ヶ浜南遺跡の崖の防塁と考えられる遺構が在り、滑川河口東の材木座にも崖が存在し、この防塁の延長と考えられる。元寇対策の防塁となれば、由比ヶ浜を囲むように防塁が存在するはずです。青い色の4mと水色の6mの境界が極楽寺坂の下の坂の下から材木座迄由比ガ浜を囲う様なラインが検出できます。このラインは、道路の為の段差では無く、坂の下の町の段差で有る訳です。稲瀬川の周囲は、津波の為にこの段差が流されたと、考えられます。博多湾の防塁の場合、長垂海岸から小戸海岸にかけての約2.5kmの間、海への傾斜面に幅1~1.5m、残高1.8mに石を積み上げ、その後ろを粘土で補...鎌倉時代の波打ち際11

  • 鎌倉時代の波打ち際 10

    現在由比ヶ浜は国道134号が通っており、浜辺の古来からの景観を想像したくても、国道134号の構造物で遮られた状態です。では134号の出来る前の空中写真を見てみましょう。国土交通省の終戦直後の空中写真です。昭和30年代の写真と考えられます。赤点のある写真は立体写真です。右の写真は、崖をオレンジ色のラインで書き込みました。写真の右は北で、八幡様の方向です。川は滑川でその上に在る砂山から防塁が出土した場所です。滑川の下は材木座です。このオレンジ色の砂丘の崖が注目して欲しい地形です。鎌倉時代の波打ち際10

  • 鎌倉時代の波打ち際 9

    戦前の滑川の由比ヶ浜へ注ぐ川口の状態は、、、その写真です。海岸より八幡様に向けた写真です。画像左には、、11mの砂山が有った訳です。滑川のこの状態の土手ならば、、元寇に対抗する効果が望めると考えます。これが現在の河口です。この新旧の比較からしても、鎌倉時代の波打ち際と現在は大差ないと考えて居ます。肩書を持って鎌倉の研究をされた方々が、、鎌倉の故事を自ら検証もせずに伝言ゲームの様に研究書を発表し、鎌倉の歴史を歪めてしまった!寂しい限りです。鎌倉時代の波打ち際9

  • 鎌倉時代の波打ち際 8

    現代の地図と明治初期の地図を重ね合わせてみましょう。上図重ね合わせた地図より、砂山の三角点11.53mの場所は、国道134号線に削り取られた状況を示します。下の写真は現代の状況です。写真で緑に写る公園が由比ヶ浜南遺跡となります。>有鄰第430号H15/9/10発行>以下は記事の抜粋です。>[座談会]中世鎌倉の発掘仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって>>由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。>この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。>>齋木氏:大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。>この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませ>んが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。>門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初...鎌倉時代の波打ち際8

  • 鎌倉時代の波打ち際 7

    「鎌倉時代の波打ち際6」を書いたのは2018年でした。古い時代のデーター探しですが、現代の地図データで納得してしまいます。例えば1970年代の地図これで、ある程度の地形は掴めますが、微妙な事は判らない近頃は、この微妙な高低差を示す地図が有ります。此れなら納得でしょ??こんな処で結論に成っていたのです。古い地図は明治15年に造られた迅速図と言うのが有ります。古い分、適当な地図と考えて居ましたが、、詳細な地図が存在し、今回見つかりました。如何でしょうか、見どころは、海に注ぐ滑川の脇に砂丘が明確に記載されている。三角点も有り、標高11.53mとなっています。等高線も5mと10mが描かれています。その価値は何でしょうか??高低差を示す現代の地図は、ドンナニ正確でも、過去の状態ではない。この場所は関東大震災で津波が押し寄...鎌倉時代の波打ち際7

  • 鎌倉城のマトメ 4

    上図は切岸の段差を黒く表示し。ご覧の傾斜表示となります。しかし、住宅地に占領された状態であり、緑地は樹木のベールに隠れて、単なる山に見えます。更に巨大でその様な自然地形か??等と考えるのでしょうね、、人手でこの様な地形を作った!とは思えない大きさですから、、下調べをして、確信的にこの段差は切岸痕跡として見ないと誤魔化されます。鎌倉城には二面性が有ります。一、国内の敵から、鎌倉の市街を守る城壁としての城。二、国外の侵略(元寇)対策としての砦。「鎌倉城の城壁5」2016/12月06記より「尾根の周りに真っ黒な縁取り」の様な切岸に新田義貞は鎌倉市内に入れなかった。太平記では新田総勢五十万七千余騎が『粧坂』に攻めよせた。鎌倉勢は三万余騎にて『粧坂』を堅めたり。新田勢を喰い止められた!鎌倉軍は『粧坂』で19倍の敵を相手に...鎌倉城のマトメ4

  • 鎌倉城のマトメ 3

    鎌倉城に対する認識は、研究者の調査不足、根拠の不明瞭等の経緯で鎌倉城の実体を語られる事が無い。城郭研究書「日本城郭大系」では、名越の石切り場を鎌倉城として紹介され、見るに耐えない記事となっている。(当ブログに記載:日本城郭大系1記2015-06-22)多くの鎌倉研究書が「日本城郭大系」を引用した為、内容が定番となり、調査不足の記述が常識となってしまった。下記の地図は、一般的な地図の上に急激な崖の部分を黒く表示した図です。山の裾は、総て黒くライン(急な傾斜)が入るのが前出の地図とは違う処です。この山の裾の黒い場所は切岸と呼ばれる城壁に相当する急激な傾斜部です。人力で掘削した崖で、周囲の山裾は総て崖に成っている。これが、鎌倉城を示す痕跡です。戦国時代、江戸時代を経ると「日本城郭大系」で記された一般的な構造の城になり...鎌倉城のマトメ3

  • 鎌倉城のマトメ 2

    このブログの基は、一般に鎌倉城の調査はされず、不完全なままに放置されている現状が有ります。自分なりに納得できる様な城探しをする羽目に成りました。元は、鎌倉を突き抜ける古代東海道の解析が目的だったのですがね、、、鎌倉研究書を読むと、地形を知らず現地を把握する事も無い研究内容と、その不完全で憶測に満ちた研究書を参考に現代の研究が積み重ねられた経緯がある。広大な鎌倉城に対し、調査もせずに憶測で本を書いた。臆測は憶測を呼び、根拠の薄弱な風評としての現在の鎌倉城論が出来上がった。「鎌倉を世界遺産に!」という目論みも、調査不足と思慮の浅さで無残にも崩れ去った訳ですが、世界にも稀な巨大さを誇る砦がこの鎌倉城であった訳で「世界遺産」を目指しても可笑しくない遺構です。鎌倉幕府にそんな力が有ったのか?九州の地方の武士を指揮して博多...鎌倉城のマトメ2

  • 鎌倉城のマトメ

    鎌倉城のマトメ12021年03月12日 大鎌倉城鎌倉に城が在る!石垣は何処?天守閣は何処?城の出入り口の門は?そんなイメージを浮かべるのがお城マニアでしょうが、、鎌倉の城は、元寇と言うモンゴル帝国の五代目フビライハンの攻撃に対抗する城として築かれた。そう考えられるのです。なんて言っても、鎌倉終焉により、資料は消え去った。資料は消えても、、遺構は現存する訳です。しかし、その遺構を総合的に調べた研究家は居ない。何故調べないのか?戦国時代から江戸末期の城郭研究家の知識、常識の通用しない規模の城であったわけです。何故その様な巨大な城を作ったのか?その理由は、元の情報は渡来した南宋の僧により、十分な量が鎌倉幕府に伝えられていた。当時世界一の軍隊を持つモンゴル帝国に対抗する城は、当然の如く世界一の規模に成った訳です。鎌倉城...鎌倉城のマトメ

  • 鎌倉城のマトメ 1

    鎌倉に城が在る!石垣は何処?天守閣は何処?城の出入り口の門は?そんなイメージを浮かべるのがお城マニアでしょうが、、鎌倉の城は、元寇と言うモンゴル帝国の五代目フビライハンの攻撃に対抗する城として築かれた。そう考えられるのです。なんて言っても、鎌倉終焉により、資料は消え去った。資料は消えても、、遺構は現存する訳です。しかし、その遺構を総合的に調べた研究家は居ない。何故調べないのか?戦国時代から江戸末期の城郭研究家の知識、常識の通用しない規模の城であったわけです。何故その様な巨大な城を作ったのか?その理由は、元の情報は渡来した南宋の僧により、十分な量が鎌倉幕府に伝えられていた。当時世界一の軍隊を持つモンゴル帝国に対抗する城は、当然の如く世界一の規模に成った訳です。鎌倉城のマトメ1

  • 台峰の砦 13

    基本が専守防衛の戦国時代の城とは違い、、鎌倉城は、攻撃の出撃基地的な考え方で作られているとこの台峰曲輪を調べて感じます。馬繋場はこの台村曲輪で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、1km先には長窪の馬繋場があり、2㎞先には笠間中央公園遺跡とその隣に切り立った平地があり、倉久保谷戸にも平地があり、同様な用途と考えます。当然他の七口にも馬繋場が考えられます。攻撃されれば、他の馬繋ぎ場から寄せ手の背後を騎馬隊が襲う連携が考えられる。現在の鎌倉城跡は住宅と、樹木が繁茂した山に成っているのが鎌倉です。でも、この様な城の状況を把握すれば、、、切岸は結構残り見るべき物は、貴方の興味の分だけ湧いて出るでしょうね、、、単なる物見遊山の観光ではなく、、宝探しのレベルです。台村の馬出曲輪は以上ですが、省略した部分も有りま...台峰の砦13

  • 台峰の砦 12

    鎌倉時代の戦は騎馬による攻撃主力ですが、台村の曲輪の、馬の出入りは、自由でないと戦力を発揮できない!「台峰の砦6」の明治迅速地図には、8ヵ所ほどの道が在りますが、オリジナルは、大手道の水堰橋側、北鎌倉女学園側、の大手道が2ヵ所と、戦闘時に騎馬の出入りに使った北鎌倉駅から光照寺脇の坂を上る切通と江の島へ向かう坂で、この坂の2ヵ所を使い騎馬の出入りをしたと考えられる。新田義貞が洲崎の戦いに勝ち、山崎に入った目的は、この台村曲輪を陥落し、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間に在る封鎖を突破し化粧坂を攻めるのが目的です。梅松論では、山内(台村曲輪下)で鬨の声が挙がったと書かれている。化粧坂の直近を攻撃すれば、南は梶原から入り葛原ヶ岡の攻撃となり、梅松論に記されています。更に、山崎は倉久保谷戸の有る場所で、台峰の大手道を側面...台峰の砦12

  • 台峰の砦 11

    大手道を水堰橋の土塁で塞がれた騎馬の出入り口の話です。大手道封鎖(北鎌倉女学園とグランドの間)場所の下ですが、台村曲輪との間を横切る道が在った!その道の詳細は、北鎌倉光照寺と言うのが有ります。(北鎌倉光照寺HPより)〉「光照寺の門前の通りは、往古の鎌倉街道であり、、〉高度経済成長期に道路の拡幅工事が行われるまで??〉光照寺のそばには小さな名も無き切通しがあった〉そうです。鎌倉時代、布教の為に鎌倉に入ろうと〉した一遍上人の一行は鎌倉につながる関所を守る〉武士達に拒絶され、やむなく、江ノ島に通じる街〉道筋に一夜の野宿をし、翌日江ノ島に至り、そこ〉で踊念仏を修したと伝えられています。その際に〉野宿した跡地に建てられたのがこの光照寺であり、〉一遍上人法難霊場となっております。」下図のオレンジ色ラインが江の島街道で卍印は...台峰の砦11

  • 台峰の砦 10

    広い鎌倉城は、均等に守らせたら兵力が足りない。一ヵ所を集中して攻められたら困ります。ワザと弱そうな場所を作り其処に集中させて攻めさせれば効率良く守れる。何故なら関東武士が総出で作った城です。鎌倉城の構造を熟知していたと考えるのです。太平記に書かれた事は、新田軍は、十万余騎、極楽寺の切通十万余騎、巨福呂坂五十万七千余騎、粧坂その様な兵力の割り振りで、大半の兵力は化粧坂を目指し台峰曲輪を攻めた!梅松論や太平記を読み地形に語らせれば、、こんな結果に成りました。鎌倉終焉では、人数に誇張が有っても、攻め手の新田軍の五十万七千余騎、粧坂を目指して攻め込む。守り手の鎌倉幕府軍は三万余騎、粧坂を堅めた。鎌倉軍は約20倍の新田軍をこの砦で迎撃したが、新田軍は攻略できず、稲村ケ崎に転戦し詳細は太平記に記されている。鎌倉軍は、予備軍...台峰の砦10

  • 台峰の砦 9

    台村の曲輪ですが、「登ったら宅地造成された団地でした!」そんな感じの魅力の無い住宅地です。見方を変えれば鎌倉時代からこの平地が有る不思議を!地名として有るのは、地名が名付けられた時から平地で有った訳です。台村馬繋場の曲輪は、南北220m東西500mの平地です。江戸城の本丸は、南北570m東西に200mで似た広です。台村の曲輪を化粧坂に向け少し登ると、北鎌倉女学園の校舎とグランドの間が、傾斜が強く雛壇状でこの場所が街道封鎖の場所と考えられます。封鎖の外に台村曲輪の馬出構造が在る訳です。鎌倉城以降でも大手口の前に馬出曲輪を造る時が在る。「馬出曲輪」の名前からして台村の馬繋場と使い方は同じで、馬は無くとも鎌倉の城造りが基と考えられます。太田道灌が造った江戸城=江戸城本丸と同じ大きさの台村曲輪ですが、、、外部から観察し...台峰の砦9

  • 台峰の砦 88

    前回の台峰の砦7に書いたことは、〉水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。〉この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。〉この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。〉この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、〉水堰橋から登る道だけの様です。〉それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。っと言う事が、、全くの間違いで在りました。それは、大きな切岸の下に「防塁」を設けて在ったのです。残念ながら、総ては宅地となっており、その確認は困難ですが、国土地理院の傾斜量図を見ると、建築物に誤魔化されない防塁が検出できます。、台峰の砦88

  • 台峰の砦 7

    緑のラインは鎌倉の大手道で、中道として鶴ヶ峰に向かう鎌倉街道です。水堰橋(せいしくばし)から切岸を登って曲輪に出ます。この曲輪は、明治の地図では台村と書かれています。この周囲の地名「台」の基に成った場所と思われます。この平地の特徴は敵寄せ付けない切岸で囲われ、攻撃に対応するのは、水堰橋から登る道だけの様です。それ程に、この場所は戦いを避ける構造に成っており、違和感を感じます。水堰橋(せいしくばし)の伝承ですが、鎌倉城に出入りする際、この場所で隊列を整えた!と言う話です。この話が緑のラインの道が大手道であろうと考える根拠です。更に、何故この場所で出入りの際隊列を整えたのか?その必然性に迫る伝承は無い。結論から言えば、明治の初期には平地で在った地形は、鎌倉時代からの平地と考えられる。更に、北鎌倉女子学園の校舎とグラ...台峰の砦7

  • 台峰の砦 6

    明治の迅速図(明治16年程)で、未だ横須賀線は敷設されない時代。同じ地図のモノトーンです。問題は紫色に囲った部分で、台村(旧字体)に注目!同様に右上の紫は、、長窪の砦です。共通するのは、異常に広い平坦地です。現状は、魅力に欠ける造成された様な平坦な住宅地を如何に面白く見せるか!明治15年の地図ですから、江戸時代からの平坦地と考えられる。この場所は、鎌倉街道が通過する場所です。そして、台村に上がる手前には「水堰橋」と言う曰くある場所と成ります。吾妻鏡(奥州攻め)には「二品者大手自中路」とあり、この緑ラインの道が鎌倉城の大手道と考えられます。次回は、この状況を踏まえた台村と言われた平坦地の話です。台峰の砦6

  • 台峰の砦 5

    緑のラインは水堰橋より台峰を通り、葛原ヶ岡から化粧坂に向かう鎌倉城の大手道です。この大手道はどの様に守られて居たのか?「新田軍は化粧坂に4戦う砦跡」にこの台峰の曲輪を示してあります。(国土地理院の地図を再掲載)黄色で示したのが、平場(曲輪)の有る場所です。総ての曲輪は、峰通しの兵員輸送の道で繋がっている訳です。これが、鎌倉の山は自然の要害の地ではなく、人工的に切岸を作り、曲輪を作り、有機的に峰の道を使って兵員を補強できる機構が出来て居た訳です。基本は、垂直に近い切岸ですが、切岸の間にこの場所を攻めて下さいと言う曲輪が在ります。更に谷の奥にはやはり曲輪が在ります。在る時は枡形の虎口の様な曲輪であり、雛壇の様に切岸を攻めるより数段攻め込みやすい構造で在ったり!攻め手を誘惑して入り込ませる構造です。どの様な関連性を持...台峰の砦5

  • 台峰の砦4

    城門を「こぐち」と言い、城を攻める敵を少数入れて殺し、守備力の範囲を越さない様にした為です。広い曲輪に入り込んだ敵を三方から攻撃する構造(桝形)を造り、小口で人数制限をした訳です。「小口」の字を変えれば「虎口」となる訳です。例えば、江戸城の田安門ですが、武道館の出入りに使う門に成り、枡形虎口になっています。グーグルの地図より引用した田安門の写真で、図下に日本武道館の一部が見えます。攻撃の侵入者は堀を越えて真正面の門から曲輪に入る。正面の門から曲輪を見ると二方は石垣で、もう一方は田安門となり、三方は塞がれている。石垣や門から鉄砲や弓を射られる事に成る。守備が殺すのが早いか?攻撃する侵入者が多いか??そんな攻防となる。その様な砦構造は、既に鎌倉城考えられ、遺構として現存する訳です。倉久保谷戸や台峰を単なる緑化公園と...台峰の砦4

  • 台峰の砦3

    真中の縦が倉久保谷戸で右の細い緑のラインが堰水橋から化粧坂に行く大手道。写真の上は、西北西です。北鎌倉女子グラウンドの本来の砦遺構です。更にその東に在る砦遺構。更に東の水道局と隣接した場所です。三方山で守りやすい土地と言う考えの逆で、一方向から攻め込んだら、、、、三方の高見から囲まれる形で攻められる訳です。守る方は当然有利です。何故広場に成っているのか?攻める方は、仲間が無ければ攻め込みたくないでしょう!沢山集まれば勝機も在るかもしれない!っと言う「トラップです。」城の虎口特に「枡形虎口」等の広場を設けて、侵入する敵を三方から攻撃する!その原型は、この鎌倉城にて考えられた訳です。言い出したのは私でも、地形を見れば、誰でも想像が付く砦構造です。誰も言わずに、、「鎌倉城なぞ無い!」と講義されても、誰も反論をせず納得...台峰の砦3

  • 台峰の砦2

    倉久保谷戸に入り、北側を見れば、その場所は台峰の砦です。ですから、台峰を観察しましょう!っとは成らない。樹木が繁茂し、台峰のオリジナルな砦は緑のベールに隠されている。悲しいかな、、行政が緑地指定をしてる鎌倉の山中は、樹木が育ちすぎて根に依る岩の破壊が始まりだした。その昔、源氏山に登ると海が見えたのです。今の眺望は緑のベールで隠された。鎌倉の基本は、里山であり、古代より樹木は薪として使われ1000年の間山の地肌が隠れる様な事は無かった。自然保護を謳っているが繁茂した樹木で、昔から在った景観は消滅し、樹木の根は切岸を含めた岩壁は亀裂が進行し、北鎌倉駅脇のトンネルの例では、無残な状態で鎌倉駅のホームから見える。大仏切通は倒木と伴に破壊、2019の台風で朝比奈切通は倒木に埋まり、当然倒木と伴に根が岩を破壊する。海臧寺裏...台峰の砦2

  • 鎌倉城の範囲 10

    「世界最大の城」のキーワードでgoogleの検索をすると、1.マルボルク城(ポーランド)143591㎡【長さ1.5㎞程度】2.メヘラーンガル城塞(インド)81227㎡3.プラハ城(チェコ)66761㎡4.ウィンザー城(イギリス)54835㎡これは、ヨーロッパの城ばかりですね!情報に偏りが有り過ぎ!ネットの情報を単純に信用する訳にはいかない。上記の話なら、、日本の城の方が大きい。姫路城は、東西1.5㎞南北1.9㎞です。更に大きいのは、江戸城は、水道橋から隅田川まで5.5km水道橋より浜松町迄5.5kmその江戸城を上回るのが鎌倉城と言う訳です。中国で言えば、桁違いでして南京城は内城の面積は55㎢、外郭は248㎢です。(1368年元王朝が滅び、明王朝が建国した)北京城は60㎢で、南京城の1/4となる。約山手線の内側と...鎌倉城の範囲10

  • 鎌倉城の範囲 10

    60年前の事、藤沢に生まれた私の耳に、鎌倉には城が在る!っと情報が有りました。具体的に見たのは、村岡城で在ったり、玉縄城でした。鎌倉には城らしい痕跡は見つける事は出来なかった。50年前に仲間と源氏山にハイキングをして、現御成中学校の尾根を通ったが、尾根を通れても町に降りる脇道は一切無く、尾根の最先端に唯一降りる道が在った。これが、鎌倉の山に共通する特徴で有るのは後に知る事に成る。鎌倉七口が鎌倉を守る城である。と言う文章を見ました。以後切岸の配置も不明なまま、このブログを書くことに成ったのです。鎌倉城の範囲10

  • 鎌倉街道を探そう!をご覧いただきありがとうございます。

    このブログも、一日に200アクセスを超える日が多くなりました。私のその時の考えや情報を書いて居る為に、前後の繋がりが判りにくいと思います。当然のごとく、既存の歴史の定番から逸脱した事を書いて居ますが、、、此れだけ詳細に書くと、反論をし難い事は重々承知ですが、、、逆に突っ込み処も多く在ると思います。無責任な突っ込み、誹謗、、中傷等、、、、コメントにお書きください。歓迎します。面白ければ、、尾ヒレを付けて記事にさせて頂きます。多数の方がご覧の様で、ありがとうございます!鎌倉街道を探そう!をご覧いただきありがとうございます。

  • 鎌倉城の範囲 コメントより 2

    (うにゅー)サン>一方で同じNHKの「日本の城(最強の城?)」では、昇太師匠だったか千田先生だっ>たかが、地質による城の形態の違い(関東ローム層とシラス台地の違い)の様なこと>を語られていました。鎌倉の場合は、通常の土の山とは違い、岩山ですから、掘れば崩れず、、壁となる。その壁は、石垣の明確な工作とは違う、何処も彼処も鎌倉山は急で人もよじ登れない岩崖!当然、、その様な地質で、城壁では無かろう?なんて考える。山奥の霊山幽谷の切り立った崖の様な地質??何処にそんな水量の川が有るか?無い!!人手で切岸は作られた訳で、自然の要害!なんて、現地を調べて無い証拠です。ついでに丹沢の沢登りをやられると、何が人工的な壁で何が自然の崖かの区別も付くようになります。自然の急激な壁、、、例えば滝の直登でも手掛かり足掛かりを見つけて登...鎌倉城の範囲コメントより2

  • 鎌倉城の範囲のコメントより

    >鎌倉城の範囲(うにゅー)2020-07-3112:05:06>地質に関しては私はまったくの素人なんですが、先日の「ブラタモリ」においては、>葉山町域は葉山層群という独特の地質なのだそうで、紫のラインを境とした地形の見>た目の違いの要因の一つはそれなのかもしれません。三浦半島や千葉半島は、2,300万年前以降の地層ですが、特異な例で更に古い時代の地層が「葉山-嶺岡帯」です。葉山-嶺岡帯は、5,000万~4,000万年前にできたものが多い特徴を持つ。更に詳細に地図を見ると、紫ラインの北と南の山際は同じ地質の葉山-嶺岡帯!!縦縞の間に挟まれた灰色の部位が葉山-嶺岡帯です。依って、地質の違いではなく、、人工的なモノと考えます。三浦の山は、地質が一様ではなく、断層も多々在るのは解っていますが、、、本気で調べた訳じゃ無い...鎌倉城の範囲のコメントより

  • 横浜に飛行場!

    戦争直後には、横浜に飛行場が在った!その場所は??何処だ!それは、黄金町と日ノ出町の間に在ったそうな!5年程前にそんな話を聞きました。調べると、、その飛行場の滑走路は、、なんと、、、若葉町の通りで有りました!!横浜に飛行場!

  • クリスサイド、、

    今でも未練たらしく、、行く機会を狙っていますが、、年に数度のフルバンドをやっています。アマチュアバンドの様ですがね、、フルバンドなら踊れる!なんて甘い。大概は聞きに来るだけ!寂しい!50年前は、横須賀の自衛隊絡みの学校と女子学校の合同コンパなんて、、面白く最新鋭でした。クリスサイド、、

  • 打越橋

    異国情緒あふれる港町横浜(181)柏葉から山元町あたりトタン紀行(7)1928年8月9日に出来上がったそうです。最初はピンク色で在ったとな、高校生の時に競馬場脇の友達に行ったり、彼女を誘ってドルフィンに行ったり、、写真を見たら、久保山の脇の陸橋を思い出しました。打越橋

  • 鎌倉城の境界9

    城、又は要塞の大きさですが、、現北京城は8.5㎞×8,5㎞の大きさですが、元の時代は7.6㎞×6.8㎞の四角形でした。元の城壁は明の時代に代わった時点で破壊されたとの事です。「世界一大きい城、要塞」とググってもそれ以上の大きなモノは無い。鎌倉城は、東西13㎞南北12㎞の大きさで、面積は微妙ですが、当時の鎌倉城はある意味北京城より大きい。世界一大きい城と言えるのです。鎌倉城と当時の北京城を比較してみましょう。緑のラインが、鎌倉城の境界。ブルーのラインが北京城の大きさ7.6㎞×6.8㎞の四角形を想定した大きさです。北京城の外郭は、ほゞ取り壊されている様子で、古地図から確定する必要が有る。でもね、鎌倉城には未だ切岸の痕跡は大分残って居るし、宅地造成でも隠し切れない段差として存在し、上図を見れば確認できると考えます。鎌...鎌倉城の境界9

  • 鎌倉城の範囲 8

    万里の長城は、実質防禦するだけの兵員を揃える事は出来ず、形だけの塀です。「ギネスブック」によると、最も古くて大きい城は、プラハ城(チェコ)で、敷地の広さは東西430メートル、南北70~140メートルで細長い形をしており、長さは約570m、平均の幅は約130mである。鎌倉のこの広さでは、プラハ城は比較にならない狭さです。世界最大と考えられるのは、フビライ・ハンが北京に造った北京城と考えられます。北京城が鎌倉城と比較に成る大きさと考える訳です。上の図を見て、如何でしょうか鎌倉城の境界を理解できるでしょうか?申し訳ないが、私自身がこの境界を詳細に調べた訳では無いのです。部分的には知っています、、程度の理解の仕方です。現地を調べても、グリーンのベールに隠れたり、住宅地になったりしています。傾斜が強い部分は黒っぽく描かれ...鎌倉城の範囲8

  • 鎌倉城の範囲 7

    鎌倉城の北の範囲ですが、、、土地開発が進みご覧の状態です。大船駅から、笠間イタチ川沿いに上郷、朝比奈インターへ、、、その辺りが今判別できる境界と思われます。其れとは別に、金沢八景の海を囲む、釜利谷、能見台方面に切岸は伸びて居ます。更に北に向かい武相トンネル上より円海山に向けた峰が金沢八景の海より侵入した元軍の防衛線に成っていると考えます。例によって、赤は埋め立てた場所、青は山を削り取った場所です。巨大鎌倉城はこの様に宅地造成により破壊された訳です。さて、この鎌倉城の全体像は如何に?その前に、世界最大の城は何処にあり、どの程度の大きさなのか??各々調べて欲しいものです。鎌倉城の範囲7

  • 鎌倉城の範囲 6

    金沢八景の地図です。赤いラインは、朝比奈峠を通る六浦道です。六浦湾は、鎌倉時代の海外貿易に使用した港で在り、船で鎌倉攻撃をする時一番最初に船を乗り付けると考える場所です。ご覧の通り半円形の切岸が六浦を囲っています。更に海との間に切岸が在るようですが、大半は大規模宅地造成で平らにされています。更に、次は横浜側(鎌倉の北)です。鎌倉城の範囲6

  • 鎌倉城について考察の変遷

    ■■2018年09月16日に記載■■このブログは、、鎌倉に関しての古代道路と、それに絡む鎌倉城の記載です。確定したものを書いている訳ではなく、私自身の頭脳が理解し情報を積み重ねる過程を書いています。情報次第で、理解の中身が変わるのは、当然な話でs日付けが古いものは、情報量が少なく、考え方も狭小です。新しいものは資料も多くなり、考え方も範囲が広く考える事が出来ます。例えば鎌倉城ですが、書かれた時期により、情報量と頭脳の理解範囲や視点が段々に広がっていきます。初期は、頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に逃げた時に、千葉常胤氏が「鎌倉は、要害の地で源氏の因縁が有る場所です。其処に居を構えたら如何でしょうか?」から始まります。この時点では、源平合戦の延長である「要害の地」と考えられます。自然の要害の地とは、書かれていませんが、...鎌倉城について考察の変遷

  • 鎌倉城の範囲 5

    金沢八景の前に、、鎌倉城の範囲4の拡大図を!下図の海岸中央は葉山御用邸でその下の岬は長者が崎です。画面の中央から上の切岸の為山裾が黒く成っている状態と、中央から下の傾斜がナダラカナ山裾の違いをご覧ください。下の図は、横須賀駅から横須賀中央駅にかけての海岸です。これ等の境界も、宅地造成工事で不鮮明に成っているし、更に大きく作られていたのかも、、、それでも明確に区別できる範囲の線引きです。画面より上は、徹底して切岸が造られていますが、、、下方はマダラです。鎌倉城の範囲5

  • 鎌倉城の範囲 4

    私が城の境界と考える場所を紫ラインを引きましょう!例によって宅地開発された場所は、赤丸で囲ってみました。鎌倉城と便宜上呼んでいますが、その性格は、、、、総構えの城とも考えられますし、砦が集まり都市を囲んだ要塞ともかんがえられますし、、、城塞としては、要塞の部分が大規模で主体が要塞の様にも見えます。城郭都市の型をした要塞辺りが適当なのかもしれませんが、、、この様な巨大な防禦施設を備えた城郭都市は世界を探しても、希少でしょう。万里の長城は、実質防禦するだけの兵員を揃える事は出来ず、形だけです。北京城が比較に成る大きさだと考えられます。大きさは、縦横8㎞程度と考えられます。鎌倉城は、やはり同程度です。ヨーロッパにはそれに対応する大きさの防御施設は無いようです。世界的な巨大さの要塞と言えるのです。鎌倉城の範囲4

  • 鎌倉城の範囲 3

    鎌倉より南東の三浦方面の鎌倉城境界は何処か?その場所を、この地図から予測して欲しいのですが、、、傾斜を黒く強調した地図ですが、、、如何でしょうか??そんな訳で、次回は私の考えた境界を書き加えてみます。これ等から、何が判るか?鎌倉幕府に敵対するのは、世界最大の広い国土と兵力を持ったフビライハンの軍隊で、どの様に迎え撃つか?文献が一切無い鎌倉城の構成が浮かび上がり、幕府の覚悟が浮かび上がってくるわけです。国内の隣国との争いでは有りません!攻めてくる敵は、韓国、中国、イラン、イラク、アフガン、モンゴル等の国力を合わせた世界最強の軍隊が押し寄せるのです。日蓮が「国難」と叫ぶ以前に、幕府は中国渡来の禅僧より、モンゴル兵の話は聞いており、元の勅使首を切り、覚悟を決めると、、、、博多湾に関西の武士に20㎞に及ぶ元寇防塁を作ら...鎌倉城の範囲3

  • 鎌倉城の範囲 2

    [鎌倉城の範囲1]の地図に境界の紫ラインを書きました。紫の鎌倉内側が鎌倉城想定域で、外側は城外です。その内外の違いは、鎌倉城には、切岸が在る事が前提です。地図に傾斜地を黒く強調させた地図ですから、山裾に在る切岸は黒い為ゲジゲジの様な山に見えます。紫ラインの外側にもそのゲジゲジ様な場所が有り、青丸で囲っていますが、その場所は、二伝寺砦、村岡城、玉縄城の在る場所であり、切岸に相当する傾斜が人工的に作られた場所です。紫ラインの内側にゲジゲジ様な場所が消えた場所が在ります。それは大規模な宅地造成が行われた場所で切岸は消えました。宅地造成箇所は、赤い丸で囲みました。鎌倉城の西側の地図ですが、この様に示せば、紫ラインの内外の差でハッキリと切岸の有無が理解できると思います。この範囲の切岸を確認するだけで調査の範囲や距離を考え...鎌倉城の範囲2

  • 鎌倉城の範囲 1

    通常考えられているのは、鎌倉七口を結ぶラインが鎌倉城の範囲と思われている。そうでは無いと主張するからには、証拠が必要です。鎌倉の城の特徴は「切岸」に在ります。城を離れた場所は、その切岸の特徴が無い訳です。上の地図は、国土地理院の地図に傾斜部分を黒く強調させた地図です。右側は、鎌倉の城で、切岸は急傾斜の為山裾は黒くなっています。右下は江の島~七里ガ浜~稲村ケ崎~由比ヶ浜があります。この図より鎌倉城の範囲を推定するのです。みぎ鎌倉城の範囲1

  • 台峰の砦

    以前紹介した長窪砦とは、軍事目的が別な砦です。鎌倉に侵入する敵軍を、化粧坂に入り込ませない為だけではなく、戦い殺戮する為の砦です。結果は、砦の真ん中=峰の道を守る構造と考えて居ます。それを実感で判りたくても、巨大過ぎる砦は、細かく見れば全体像が全く掴めず、、大きく見たくても、住宅地が視界を塞ぎ、宅地が無ければ樹木が砦を隠している。樹木も宅地も少ない時代の写真があり、砦の構造を観察する事が出来る。その時代は、70年前の終戦直後にUSAが撮った航空写真です。それが実体視写真俗に言うステレオ写真で国土地理院のHPにあります。年代は、1944年から1965年の間で撮られています。詳細は下記へ!http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1台峰の砦

  • 倉久保谷戸3

    コメントより、〉恐らく(坂)さん〉逆三角の地形は日当公園付近一帯と思われます。〉下記リンク先の「山崎・台峯緑地」の全体設計図で、〉「源流の森と里山の保全ゾーン」と書かれた所の下あたりです。〈https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koen/documents/dai-kihonsekkei03sekkei_04zentai.pdf〉コロナ騒動の中を倉久保谷戸に行きました。基本は2019暮の台風により、谷戸は通り抜け不可となり、新しく車が入る道迄整備されており、この谷戸も宅地に成るのか?っと思ったらこの情報でホッとしました。(坂)さんありがとうございます。祝!山崎・台峯緑地倉久保に在った土塁の場所は、今どの様に成っているでしょうか?特定しましょう!下は1960年代の写真です。下...倉久保谷戸3

  • 実体視練習

    実体視練習速い話がステレオ写真です。その扱い方のHPが国土地理院HPにあります。https://www.gsi.go.jp/bousaichiri/Photo_reading_00001.html宅地や、自然放置の森林により鎌倉城の実態が隠されてしまった。70年間の自然放置が鎌倉城をどれだけ判りにくくしているか??戦後間もない時にUSAにより、空中写真が撮影され70年前の実態映像が見られるのです。是非実体視を習得し異次元の鎌倉を体験してください。実体視練習

  • 倉久保谷戸2

    国土地理院蔵の1946年USA空中写真を使用したステレオ写真です。赤丸の間を7㎝以下にして閲覧してください。詳細は国土地理院「地図を立体視する」をご覧ください。https://teikokushoin.co.jp/journals/geography/pdf/200604/geography200604-01-04.pdfこの場所は60年代の宅地造成で地形が変わりました。更に倉久保谷戸は、台峰を含み大手宅地造成の手が入り始めた。消失するのは、時間の問題でしょうね、、、「住民は鎌倉に城は無い!」と講習会で吹き込まれ、信用をしている人が大半の様ですが、、広町緑地の様には成らないでしょうね。この、逆三角の堤防様な構造物は、土塁に相当するモノと考えて居ます。軍事的には、巨大道路は守備に不利となる為、道路を塞ぐ土塁です。...倉久保谷戸2

  • 倉久保谷戸1

    この地図は、東山道相模路11(2012/12/21)東山道~鎌倉に使用した地図の使いまわしです。注目点は、倉久保谷戸の奥で×印の有る場所、、、行き止まりに成っている訳です。これが鎌倉時代に使われた武蔵大路の痕跡と考える訳です。武蔵大路と言っても、鎌倉幕府以前の東山道相模路が海蔵寺裏の大堀切として有りましたが、その後継の座間の星谷寺を通る武蔵大路は、倉久保谷戸を通ると考えられるが、×印で行き止まりとなる訳です。問題は×印の先にある赤丸の場所です。下の写真は、国土地理院の立体地図に1960年代の写真を張り付けたモノです。赤丸の中に映し出された逆三角の堤防状構造物が問題の場所です。幾何学的な形と、同じ角度の斜面で人工的な構造物と考えます。こ存在理由は何でしょうか?これが、事の始まりです。鎌倉面は断崖絶壁で、外に向かっ...倉久保谷戸1

  • 篠窪から関本へ12

    ↓更に登ると、南側(写真左手下に道に沿った平場が現れる!)藪の中で写りが悪い。↓更に登ると、右手の平場は道路と同じ高さになる。車道に平場を加えると、古代駅路の道幅??↓本来の広い道幅を3m幅に作り替えた?等と思えるロケーションです。↓明治時代のこの地方で一番整備されていただろう、、と想像できる郡道の痕跡です。↓来た道を振り返るとご覧の通り、幅広の道と思われる道跡が!すると、、この堀切道は、栃窪のZ字型の道路と同じように、鎌倉以後800年の雨水でエグラレタ道路なのか?鎌倉道の定番の道幅とも思えるし、、、根拠が無い憶測の話ですが、幅広の痕跡は有る。この道幅は、古代東海道を考えられます。此れより下の道は雨水でエグラレたのか?鎌倉時代や江戸時代に作り替えられたのか?考慮する情報は無い。しかし状況証拠としては下大槻から足...篠窪から関本へ12

  • 篠窪から関本へ11

    車道の赤い車の後ろから切通に入ってみましょう。右側の端に赤い車が在ります。軽四一台が通れる道を右に折れて入ると、即S字状の道となり左見曲がる。左に曲がったのが下の写真です。土砂の掘れた状態が、栃窪のZ字道路と同じに雨水がこの道を作ったのでは??そんな感じの赤土(富士噴火の灰がこの赤土と言われている)です。上の写真の30m登った地点。そんな切通の古色蒼然とした雰囲気ですが、、、鎌倉時代以降の道ならば、この程度の道幅と思えます。しかし、、探しているのは、道幅9mの道です。篠窪から関本へ11

  • 篠窪から関本へ10

    さて、今回は「D」点です。このピンクの場所「D」点の場所は、、今昔マップをみると、地図の「D」地点の道路の作図は、明治の迅速図を踏襲している様子で現状に合わない。現状は空中写真が示しています。赤いラインが正しい。現代のネット上では、現地を見なくてもこの辺りまで下調べが出来てしまう。10年前では考えられない事です。自動車道路からこの赤ラインに入り込みましょう!この赤い車の後ろが入り口です。栃窪から、峠のトンネルの上の峰を古代東海道は通り、この場所の篠窪へ降りたと想定します。しかし、現状はどの様なのでしょうか?当然この入り口の道幅では江戸や明治の郡道レベルではよくても、古東海道の道幅には足りません。篠窪から関本へ10

  • 篠窪から関本へ9

    大磯丘陵と言う道路造りの障害をどの様に回避したのか?古代官路や、鎌倉街道の常套手段は、谷筋を使わず、峰通しに道を作る事が知られている。では、関本より秦野迄はどの道を通るのか?その解答は、鎌倉側より足柄峠に向けて、1、平塚の東中原の道路遺構。2、下大槻の道路遺構。3、秦野の「大道」と言う呼称の有る場所。4、栃窪のZ字道路「A」。5、富士見塚下の道路遺構「B」。6、今回の緑色丸印「C」とした場所に成ります。この緑色丸印「C」は、栃窪のZ字道路「A」と相対する、構造です。篠窪の滑らかな峰通しに登り降りする為に、急激な坂を登らなくてはならない。AとCは、急傾斜に造られた古代道路の特徴を持ったZ字型の道路と考えられる。もっとも、このZ字型の道路が古代道路その物と言う訳ではなく、古代道路の造りを継承した後世の道と考えられる...篠窪から関本へ9

  • 巨大鎌倉城

    「鎌倉街道を探そう!」2010-01-11記を御覧いただき、ありがとうございます。鎌倉周辺には、奈良時代に作られたであろう巨大駅路の痕跡が有るはず!!人は、古代の道跡を見ても、その現状を見て、??っと成る訳ですが、、目前に見えるのは鎌倉街道と呼ばれる道であったり、家が縦列に立ち並んでいたり、畑であったり、自然に晒されて侵食された切り通し状の場所に細い道があったり、、、、、その目前の景観から、千年前の古代の道を想像する事は難しい。目前の景観の情報を基に、その隠された裏の見えない情報を重ね合わせなければ、古代道を想像する事はない。古道跡の裏の情報が必須です。現状の周囲の地形から風雨に浸食された分を加味し、近代、江戸、戦国、鎌倉、平安時代に人工的に加えられたであろう地形を修正して、古代道の痕跡は浮かび上がる。古代東海...巨大鎌倉城

arrow_drop_down

ブログリーダー」を活用して、ぼ輔さんをフォローしませんか?

ハンドル名
ぼ輔さん
ブログタイトル
鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構
フォロー
鎌倉街道 を探そう! 鎌倉城と古代の東海道遺構

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用