未完成七口を結ぶ切岸と呼ばれる城壁ですが、この範囲で東西南北6✖6㎞です。新田義貞が攻めた時に、幕府勢は兵力が少ないので最低限の守備をした範囲です。青い丸は、出入り口で七口と言われていますが、重要な稲村路を記入して八口に成っています。下は、切岸を観察し易いように、立体図と地図を対比出来る様にしました。取り敢えずは稲村ケ崎より極楽寺周囲です。鎌倉を囲む切岸7口を結ぶ切岸
日本最大の鎌倉城とその遺構。頼朝に封印された古代東海道遺構の紹介!
国内の勢力争いの為の城郭とは異質な、、 日本の存亡を賭けた、フビライハンのモンゴル帝国襲来に対抗する為の鎌倉城です。 世界最大の国力に対抗した 世界有数の巨大な城跡となり、当然全国の武士を総動員して守る城となった。
2025年4月
未完成七口を結ぶ切岸と呼ばれる城壁ですが、この範囲で東西南北6✖6㎞です。新田義貞が攻めた時に、幕府勢は兵力が少ないので最低限の守備をした範囲です。青い丸は、出入り口で七口と言われていますが、重要な稲村路を記入して八口に成っています。下は、切岸を観察し易いように、立体図と地図を対比出来る様にしました。取り敢えずは稲村ケ崎より極楽寺周囲です。鎌倉を囲む切岸7口を結ぶ切岸
2025年4月
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未完成七口を結ぶ切岸と呼ばれる城壁ですが、この範囲で東西南北6✖6㎞です。新田義貞が攻めた時に、幕府勢は兵力が少ないので最低限の守備をした範囲です。青い丸は、出入り口で七口と言われていますが、重要な稲村路を記入して八口に成っています。下は、切岸を観察し易いように、立体図と地図を対比出来る様にしました。取り敢えずは稲村ケ崎より極楽寺周囲です。鎌倉を囲む切岸7口を結ぶ切岸
鎌倉には城が無いという間違った結論が出て来た理由について述べましょう!太平記より、攻防する兵の数は、新田総勢六十万七千余騎に対する鎌倉総勢二十四万騎粧坂に向かう新田勢五十万七千余騎に対する鎌倉勢三万余騎化粧坂の周囲で戦われたのは、鎌倉勢三万余騎に対し、16倍の新田勢五十万七千余騎でした!鎌倉城の切岸と砦は、16倍の新田勢が正面突破できなかった!それが城と言う事です。稲村ヶ崎から極楽寺坂、大仏切通、化粧坂、亀ヶ谷、小袋坂迄4㎞ですが、、その間に切岸の城壁から鎌倉市街にはいり込む場所は無かった!唯一稲村路の街道を塞いだ場所が切岸の無い場所でした。その場所でも、波打ち際を通るのが「稲村路」で海より船の上から横矢を射って攻撃する手筈が、、、潮が引き海底の岩盤が浮き上がり、船は沖に出されてしまった。「稲村路」より1...鎌倉城は無い④本丸の無い城
自然地形の川を挟んで対峙した戦いは洲崎迄です。洲崎では、柏尾川を挟み新田軍と鎌倉軍がニラミアイとなり、新田軍は橋を架けて洲崎に乗り込み、鎌倉軍の攻撃は60回以上挙句は鎌倉軍の指揮者は自害した。一日で決着が付く戦いです。城が在ると簡単に決着しません!洲崎を越えれば即化粧坂の上の葛原ヶ岡を南から攻める。更に倉久保の谷より台峰を攻めれば化粧坂の道台の堰堤橋を攻めれば化粧坂の道の大手道。瓜ヶ谷より攻めれば葛原ヶ岡の北を攻める話。太平記には、「化粧坂を攻める」と有っても、、、、葛原ヶ岡から攻め入る鬨の声が挙がったとあり、戦った場所は化粧坂ではない。■同十八日から二十二日に至るまで、山内、小袋坂、極楽寺の切通しなど、鎌倉中の口々で合戦が続き、鬨の声、矢叫び、人馬の足音がしばしも止むことがなかった。梅松論の記述でも、、...鎌倉城は無い③城の在る戦い!
ぼ輔2014年07月17日14:43想定外の城それは、天守が無い城です。天守は戦国時代以降の城の象徴となった建造物の名称である。ヨーロッパの城の象徴的建築のkeeptowerと呼ばれる籠城する為の建物です。それが鎌倉城には、無い。鎌倉城は無いと、主張する人は『天守に相当する場所が無い=城が無い!』その様な思考法と想像するのです。それ以前は環濠集落と言う形態が有りましたが、堀の深さ、壁の高さ等防御のレベルが違います。日本城郭大系に書かれた城は、大半が天守に相当する場を持っています。鎌倉以前の城壁の資料を私は知りませんし『日本城郭大系』にも目ぼしい物は無いでしょう。城郭研究家の考えは、街も含めて城壁で囲う=総構えの城っと考える訳です。総構えですと、江戸城でも小田原城でも天守が有ります。ソレラとは違い、、鎌倉城...鎌倉城は無い②城の無い戦い
>◆世界遺産委員会日本政府代表団の稲葉信子さんに聞く◆>「イコモス(ユネスコ諮問機関)勧告について」>「武家の古都・鎌倉」のユネスコへの推薦書作成委員であり、>て筑波大学大学院世界文化遺産学専攻教授(元文化庁文化財調>査官)の稲葉信子さんに、イコ>モス勧告直後の5月2日に緊急>インタビューを行い、イコモス勧告について伺いました。>要旨をお伝えします。・・・・中略・・・・・・>山稜部の導入>鎌倉時代というものをどうやって語るのか。イコモスの結果を>見ても鎌倉時代という歴史上の価値はないとは言っていませ>ん。鎌倉時代を語る強い物証があれば、それで押していけるは>ずでした。その物証とは迫力があるもので、点の集合体ではあ>りません。国際専門家会議で航空写真を見ている中で、「物量が>あるものは山だよね」という意見が...世界遺産委員会日本政府代表団の稲葉信子さんに聞く
鎌倉城の考え方は、現在各地にある城跡の示す「専守防衛」の城では無く、当時最強の攻撃方法の騎馬隊が主題にあったと考えられる。赤橋相摸守は6万騎で出撃し、洲崎の新田軍50万7千騎に立ち向かった。結果は8倍の新田軍に敗北した。戦法を切岸を使い専守防衛で化粧坂を守ったのは3万の兵力で、鎌倉城の切岸と雛壇状の平場は強力な守備力を示し、16倍の新田軍を撥ね退けた。唯一の弱点は、切岸(城壁)が途切れた場所が有った。稲村路より海に降りる街道があり、唯一土砂で封鎖をセズ、逆木等のバリケードと道の上部から攻撃と海辺なので、船より横矢を浴びせる作戦で有ったのだが、、異常気象で海面から岩礁が浮かび上がり、船が沖に流され、横矢が街道脇の海水が引いた岩礁に届かない事であった訳です。新田軍は、頭上や船からの矢を受けることなく、岩礁の上...鎌倉城のマトメ5
中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。写真は、古代道の特徴を持つ藤沢市の道路遺構。もくじは書いた順で表示してあります。カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。●初めての方へ、古代駅路の特徴----2006-05-13●鎌倉街道七口------------2006-05-23●鎌倉街道?これは東山道武蔵路----2006-05-27●大仏切通し1~6-----------2006-06~●梶原口から化粧坂へ---------2006-06-29●朝比奈切通し1~10---------2006-06~●続・朝比奈峠東の小切通し------2006-07-24●東山道武蔵路------...もくじ
明治9年(1876)のことです。この年、明治政府は太政官通達によって全国の道路について、種類・等級・幅員などを定めています。すなわち道路の種類を国道、県道、里道の3種類とし、それぞれ一等、二等、三等に分けました。明治9年に指定された一等道路は東京から横浜港へ達する道路、二等道路は東京から伊勢皇太神宮へ至る道路です。しかし明治18年(1885)に、国道の級別が廃止され、東京~横浜港を「国道一号」、東京~大阪港を「国道二号」、東京~神戸港を「国道三号」としました。重複した名前が付けられていますが、これが「国道一号」と認定された最初です。ただし箱根の東海道だけは国道一号にはなりませんでした。というのは、箱根路も明治6年に一等道路に指定されましたが、その後新道が開削され、明治41年(1908)には新道が国道一号と...江戸東海道の道路拡張工事
安倍晴明嵯峨墓所1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれる。“公式”の墓所が定められて居り、場所は京都の嵐山、長慶天皇陵の脇の寿寧院に葬られたと伝えられている。この場所以外にも以外にも伝承は有る様です。陰陽師は宮廷の御用達ですが、鎌倉に招いたのは、大江広元で在ったと考えられる。長野県木曽郡木曽町は大江広元が育った場所の縁が有るわけで、安倍晴明の墓所が有る。長野県木曽郡木曽町新開清博士これは地名ですが、地元民は此処にある二基の五輪塔を晴明様と呼んで祭っています。その他にも墓所が有る様でどの墓が本来の墓かは不明の様です。安倍晴明が鎌倉幕府の結界を張っただけでなく、建長寺の結界を張り場所は第六天社に建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護と成る。道路の突き当りが建長寺と成ります。第六天社に建長寺...陰陽師安倍晴明3
大江広元(ウィキペディアより)-朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。その様な訳で鎌倉幕府に絡む重要人物の大半が武人ですが、中で唯一人大江広元だけが官人であり、宮中に絡む陰陽師と関連すると思われる。更に、大江家の領地の木曽福島には、安倍晴明の墓が存在するのです。陰陽師の安倍晴明を鎌倉に呼び寄せたのは大江広元であろう!っと推察する理由です。大江広元の話は更に後の時代に影響していきます。その後の戦国時代は、毛利家に秀吉が水攻めをやっている最中に、信長が本能寺で死んだ話となり、鎌倉攻めに間に合わなかった薩摩は、江戸時代に迄生き残る。更に幕末には薩長連合長州と成る元がココにある。此処を上がると立派な墓が3ヵ所...陰陽師安倍晴明その2
鎌倉に城がある。中国では、城主や市民の生活の場を壁で囲い、城と呼ぶ。頼朝は千葉氏の助言もあり、自然の要害の山が有る鎌倉を幕府の地と選んだ。初期の城としてやった事は、前の時代に、古代東海道と古代東山道分岐道が鎌倉在った為、この巨大な道を塞ぐ(痕跡は海蔵寺の裏の大堀切)事で城の体裁を整えた。依って出入りは困難に成った。次に、出入りを出来る場所を七口とし、外部に向けて切岸と言う名の崖をり、鎌倉城は完成した。明確に守る幕府と市街地が有る城です。初期の鎌倉城は、反幕府勢力に対抗する為に鎌倉の市街地と幕府を守る目的で外に向けて切岸を作ったと考えられ、古代東海道と古代東山道分岐道を封鎖する事と、朝比奈峠の様に道幅を狭くし敵を迎撃出来る砦構造に改造した。その後、時代は変わり、蒙古襲来=元寇があり、博多湾には全長20㎞の元...鎌倉城の沿革
陰陽師と鎌倉「鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8」(2016/02/24)に纏めた中の5番目の記事です。下の写真は晴明石です。5番目の記事に安倍晴明の呪術の痕跡が在る事を記載しました。何故陰陽師が鎌倉幕府に関わったのか?それが不明でした。モッパラ、武人は精神面を南宋の僧侶から学び、特に建長寺は禅を主体に自身を作り上げる臨済宗です。更に南宋の僧侶から、モンゴル帝国である元の侵略情報を得てモンゴル侵略の対応を真剣に考えて居た様です。武力で事を解決する鎌倉武士に何故陰陽師が関わったのか?ドチラかと言えば、武力を持たない宮人が呪術で事を解決するのが陰陽師の役目と考えるのですが、、、実際は、鎌倉に結界を張り、防御した安倍晴明の痕跡として、北鎌倉駅近くの鎌倉街道に晴明石がある。北鎌倉駅前を通る鎌倉街道の西側130m...陰陽師安倍晴明
新田義貞の攻めた鎌倉城の防衛線は「鎌倉城の特徴」に書かれた赤いラインで、その下は鎌倉城の城壁の切岸です。現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見える。眺望の有るべき源氏山は、街並みも見えず海も望めない。下図は、樹木と建物を排除し、稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、赤ラインの下の崖です。下図は更に建物の現状の下の図。仮想図で樹木の厚みは表示してない。切岸の傾斜が強い場所...鎌倉城西側防衛線稲村より大仏切通
一般的な城の例外は、権力者を守る天守閣を持つ城の他に、防塁の中に町があり総構えと呼ばれる。初期は小田原城3.6㎢(東西2.7㎞南北2㎞)で、その当時は日本一で在ったと考えられる。小田原城が、ドレだけ凄かったのか?秀吉は正面から戦う事をセズ、持久戦で開城させたのです。江戸城総構え16.6㎢(南北4.7㎞東西5.6㎞)京都御土居堀は21㎢(南北8.2㎞東西3.5㎞)鎌倉城は、91.9㎢(東西16km南北10km)大宰府羅城96㎢(南北14㎞東西10㎞)現時点では、鎌倉城よりも大きい。そのわけは、鎌倉北の横浜山手迄、南は横須賀の浦賀迄を考慮に入れると、鎌倉城は更に大きく成ります。城の概念を根底から覆した鎌倉城の記事を見て、出鱈目記事だ!ナンてね、、、地方の勢力争いの小さな城では無く、海外国との戦いはこの規模の城...世界一大きな城は何処?5
「日本城郭大系」には、多数の天守閣を持つ城が紹介されている。当然天守閣の無い山城も載っているのだが、城の象徴的な天守閣に目が行くと思います。しかし天守閣は城と言う防衛施設の付属物で、本質は別です。漢字の「城」の意味は[壁]が主体です。「城」は土偏に成(=戊)を組み合わせた会意文字です。「戊」は「人」と「戈」との会意で、戈は「武器としてのホコ」又は戦争の意味で防衛活動を指す。結果は「城」の意味は、土塁を作り人が武器を持って戦う状況を示します。一般常識の「天守閣がある城!」と言う概念は城の本質では無い訳です。そうでないと、大宰府羅城や鎌倉城は理解できないし、、「鎌倉には城が無い!」と言う説を鎌倉市の生涯教育講座で講演許可を与えた人を非難できないですね!■■広大な羅城空から実感大宰府政庁をぐるり防御■■筑紫野市...世界一大きな城は何処?4
九州には大宰府と言う場所がある。元寇で博多湾に中国の船が押し寄せた。一回目の元寇で、妨塁の備えは無く一時期武士は水城に逃げ込んだと有る。水城とは??大宰府には、、城が在るか?その疑問に「日本城郭大系」にどの様に答えて居るでしょうか??水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城等の紹介が有ります。しかし、太宰府羅城の話は無いと思いますが、、、、鎌倉城でも、、、それが羅城である!なんて言う発想は皆無で、、、藤沢、鎌倉、横浜、逗子、横須賀等の広域に切岸が在るのに、、、鎌倉市内ですら目立った一部しか調べなかった。お猿畑の名越切通を城だと紹介したが、その過剰に切り立つ切岸に思えるのは、近世の鎌倉石を切り出した場所と判明。挙句は、日本城郭大系の「お猿畑の名越切通」が単なる石切り場と証明されたら、反動で「鎌倉には城が無い!」...世界一大きな城は何処?3
朝比奈を抜け六浦へ古代東海道が有った痕跡が在り、六浦から海路で上総へ渡る経路です。六浦は鎌倉時代の外国と交易する港でもあります。元寇が鎌倉に攻め寄せたら当然攻め込む拠点にもなる場所とも考えられます。恐らく、波の荒い外海の由比ヶ浜や七里ヶ浜は上陸困難で、元寇は六浦側から朝比奈峠へ攻め込んで来ると考え、鎌倉城東側防衛線を強固にしたのではと考えます。すると、、、鎌倉城は更に巨大な大きさに修正する必要が考えられます。青色線は鎌倉市街を守る防衛線ですが、桃色の線は、六浦を取り囲む様に切岸が作られています。更に、橙色の半ば住宅地に破壊された切岸が確認できます。問題は、切岸の痕跡を根拠に鎌倉城を考えると、鎌倉城の縄張りはコンナモンじゃない!鎌倉城東側防衛線朝比奈切通より六浦港
注目は、鎌倉の街を継ぎ目なく囲った切岸です。自然の山を利用して、人工的な切岸を切れ目なく造り城壁にした。鎌倉の市中には古来からの巨大道路の東海道と東山道相模路が通っていたが、防衛上の理由で封鎖した痕跡もあり、ここで紹介した状態です。下の図は、鎌倉の都を囲む城壁(青線)と長窪砦より馬を降りて鎌倉の都に入る(緑線)ルートに成ります。この長窪の砦自体ででも、大きな城の規模です。因みに江戸城の大手門より半蔵門迄1.4kmで長窪砦は1.2kmと言う比較で如何に鎌倉城の規模が大きいかを考えて戴きたい。緑の樹木に隠された鎌倉城ですが、上の赤色地図が土壌の形状を示した図で現地を見た時の理解に成ります。鎌倉と言えば「イザ鎌倉」と言う言葉が示す様に、、、、鎌倉に事が起きたなら、日本国中の武士が先を争って鎌倉を目指して終結する...鎌倉城西側防衛線長窪砦と鎌倉城
朝比奈から、古代東海道が六浦まで通り、六浦港より海路になり上総へ渡る経路です。六浦は、鎌倉幕府が外国と交易する港でもあります。元寇が鎌倉に攻め寄せた時に海路案内人が行き慣れた六浦港は、当然攻め込む目標になる場所とも考えられます。元が六浦港に船を入れ鎌倉を攻め込むと考えた時に、最大の防御地点として朝比奈切通が存在する。古代東海道として平塚に9m幅の道路痕跡が在り、その方向は六浦に向かっています。更にその道路痕跡として、朝比奈切通は、鎌倉の切通としては破格の広さの7mと成って居り、これが古代東海道の痕跡である根拠です。この古代東海道を鎌倉時代に朝比奈氏が改造して4m幅にしたと考えて居ます。その改造の結果、古代東海道の痕跡が朝比奈切通のアチコチに残って居ます。青色線が鎌倉城の切岸=城壁で有り、黄色線は朝比奈切通...鎌倉城東側防衛線朝比奈切通名越切通
鎌倉城北側防衛線ですが、小袋切通しより大平山に向けた尾根道の状況です。赤色地図は、故意に峰の兵員移動の道を紫色破線にしています。赤色地図の白い処は、傾斜が少ない処で移動が楽に出来る場所です。山の赤い場所は傾斜強い場所で、黒っぽい場所は崖状態に成った場所=切岸です。更に防衛ラインより張り出した峰の下も切岸と成っており、複雑な防御態勢とこの張り出した峰を使い谷の奥を攻める敵を背後から襲える構造でもあります。この状態で、樹木の茂った峰を見たら、単なる山に見える訳ですが、、、人が登れない様に人工的に切岸は作られている。=「三方を山に囲まれた天然の要塞!」っと通常言われるが実態は、自然の山裾を切岸にして作り上げた人工的な城です。種々の城を見て詳しい人ほど、、、世界でも指折りの広大な城を、、、見破れない!鎌倉市内を囲...鎌倉城北側防衛線小袋切通より八幡宮北側
陰陽師と鎌倉「鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8」(2016/02/24)に纏めた中の5番目の記事です。下の写真は晴明石です。5番目の記事に安倍晴明の呪術の痕跡が在る事を記載しました。何故陰陽師が鎌倉幕府に関わったのか?それが不明でした。モッパラ、武人は精神面を南宋の僧侶から学び、特に建長寺は禅を主体に自身を作り上げる臨済宗です。更に南宋の僧侶から、モンゴル帝国である元の侵略情報を得てモンゴル侵略の対応を真剣に考えて居た様です。武力で事を解決する鎌倉武士に何故陰陽師が関わったのか?ドチラかと言えば、武力を持たない宮人が呪術で事を解決するのが陰陽師の役目と考えるのですが、、、実際は、鎌倉に結界を張り、防御した安倍晴明の痕跡として、北鎌倉駅近くの鎌倉街道に晴明石がある。北鎌倉駅前を通る鎌倉街道の西側130m...陰陽師安倍晴明
新田義貞の攻めた鎌倉城の防衛線は「鎌倉城の特徴」に書かれた赤いラインで、その下は鎌倉城の城壁の切岸です。現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見える。眺望の有るべき源氏山は、街並みも見えず海も望めない。下図は、樹木と建物を排除し、稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、赤ラインの下の崖です。下図は更に建物の現状の下の図。仮想図で樹木の厚みは表示してない。切岸の傾斜が強い場所...鎌倉城西側防衛線稲村より大仏切通