鎌倉時代の波打ち際 14
下図は、大正十年の地図です。渚は、破線と実線で描かれて、破線は引き潮、実践は満潮時の潮位を示しますが、、問題は実践の他に、太線、破線、崖の線等、、色々な線が渚を取り囲んで一つのラインと成っているのですが、、数百年の間人工的な構造物が渚を囲っていたです。何故数百年の間なのか?鎌倉終焉の後、経済活動もママならない地方の寒村となった鎌倉です。戦国時代は、各領主が武力を競い合う時代で、公共事業をやる余裕は無い時代!江戸時代は地方の寒村の鎌倉は、水戸黄門の鎌倉紹介で物見遊山のマイナーな観光地と成った訳です。ほゞ、、鎌倉終焉の後は政治から離れ放置された状況です。交通は、徒歩で鎌倉に入り込む状況で道路もマトモに補修できない指導者に「何の利益にもならない渚の土塁」を作るハズが無い。上図は未だ海岸道路ができない前の大正4年に作図...鎌倉時代の波打ち際14
2021/09/30 06:28