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石田明夫の「会津の歴史」さんのプロフィール

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ブログタイトル
石田明夫の「会津の歴史」
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https://blog.goo.ne.jp/aizu01
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全国的な視野で見た最新の会津の歴史です
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ブログ村参加:2018/05/04

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石田明夫の「会津の歴史」さん
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石田明夫の「会津の歴史」

石田明夫の「会津の歴史」さんの新着記事

1件〜30件

  • 戊辰・会津戦争39 娘子隊の戦い1

    娘子隊の戦い1会津古城研究会長石田明夫会津藩では、白虎隊と共に女子も会津戦争に加わっていたことはよく知られ、山本(新島)八重とともに、会津若松市神指町東城戸の湯川に架かる柳橋の北約600メートルの越後街道で戦った婦女子らを娘子隊(軍)(正式な隊ではありません)がいました。それらは、中野幸子(数え44歳)、子の竹子(22歳)・優子(16歳)、依田まき子(35歳)、水島菊子(18歳)、岡村すま子(咲子とも)(30歳)の6人でした。『会津戊辰戦争』のなかで、「籠城の6日目(8月28日)中野幸子さんが入城されたが、わたし(山本八重)を見て『何故娘子軍に加はりませんでした』と、わたしは『妾(わたし)は鉄砲にて戦(行くさ)する考えで居りました』」と山本八重は答えています。八重も娘子隊(軍)に誘われていたことが分かります。幸...戊辰・会津戦争39娘子隊の戦い1

  • 戊辰・会津戦争38 新選組・土方歳三会津を去る2

    新選組・土方歳三会津を去る2会津古城研究会長石田明夫旧幕府軍の大鳥圭介は、1868年8月21日(現在の新暦で10月6日)郡山市と猪苗代町の境目に位置する母成峠の戦いに敗北した後、裏磐梯の秋元原から桧原の雄子沢を経て大塩温泉に向かいます。『南柯紀行』には、道は悪く物資は乏しく困り果て、大塩宿に着くと、大きな家の内に入り、病人のために毛布を提供してもらおうとしますが、物資がなく、大鳥らが持参した毛布を出して貸して与える程であったという。8月24日、大鳥圭介は、米沢藩に入り弾薬を借りに行こうとしますが、米沢藩では、標高1100メートルを越す桧原峠を下った綱木宿近くを封鎖し、入国を断わり、早々に帰るようと言われます。夜も近いので、談判して綱木宿に1泊の許可を取りますが、宿泊場所や兵糧の確保に窮し、弾薬は無いと断られ、米...戊辰・会津戦争38新選組・土方歳三会津を去る2

  • 戊辰・会津戦争37  新選組・土方歳三会津を去る1

    新選組・土方歳三会津を去る1会津古城研究会長石田明夫慶応四年(1868)8月21日、母成峠の戦いで新選組の土方歳三と斎藤一は、最後まで戦いますが敗れ、新選組の半分は旧幕府の大鳥圭介とともに、猪苗代町の大原村から裏磐梯の秋元原を経て、北塩原村の大塩温泉を目指しました。齋藤一ら40人は、猪苗代湖岸から背炙り山を経て、東山天寧寺に向かいました。その後、斎藤一は城下の宿に宿泊しています。8月23日、二本松街道の大寺口を守っていた桑名藩は、若松城下北東入り口へ移り、蚕養口で戦い敗戦し、塩川を経て大塩温泉向かったのです。『戊辰戦争見聞略記』に、会津若松を発した桑名藩の松平定敬(さだたか)公一行は、夜になり大塩温泉に到着します。村人は逃げ去り、人影は見えなかったのです。食糧さえなく大変窮しました。桑名藩の石井勇次郎は、夜ある...戊辰・会津戦争37新選組・土方歳三会津を去る1

  • 戊辰・会津戦争36 若松城下への乱入 

    若松城下への乱入会津古城研究会長石田明夫戊辰戦争のあった1868年8月23日の天気は、明治天皇昭憲(しょうけん)皇太后のロシア語とフランス語の通訳だった山川健次郎の姉操(みさお)が、明治42年『婦人世界』七月号に「その日は朝から雨が降って、何となく肌寒いやうな日でございました。」と雨が降る寒いひとあり、そして城に入る時間は「まだ朝飯前でございました」とあります。会津藩士の妻、間瀬みつは、若松城の鐘が鳴ったのが「朝六ツ半頃」とあることから朝七時過ぎのことでした。新島(山本)八重は『婦人世界』十一月号の「男装して会津城に入りたる当時の苦心」で「着物も袴も総(すべて)男装して、麻の草履を履き、両刀を把(たば)さんで、元籠七連発銃を肩に担いで参りました。他の婦人は薙刀(なぎなた)を持っておりましたが、家が砲術師範で、私...戊辰・会津戦争36若松城下への乱入

  • 戊辰・会津戦争35 蚕養口の戦い 

    蚕養口の戦い会津古城研究会長石田明夫桑名藩の藩士石井勇次郎が、青森で謹慎中の書き残した『戊辰戦争見聞略記』によると、1868年8月23日、会津藩の滝沢本陣から退却した松平容保公と弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)公は、若松城の大手前(甲賀町郭門)まで来ると「両公馬ヲ止メ、暫ク談セラル」と話し込み、容保公は入城し、定敬公は、援軍を頼みに米沢に赴くこととなったという。その時、桑藩士らは、なぜ兄弟共に籠城しないのか不思議がったという。桑名藩本隊は、会津藩家老の萱野権兵衛とともに磐梯町大寺にいたことから、西軍が若松城下に乱入したことを聞くと、急遽兵を引き上げ、致人(しじん)隊、雷神隊、神風隊が大寺口へ向ったのです。すると、蚕養口では、偶然西軍の後ろに出たため激しく戦うこととなります。弾薬が尽き死者やけが人が出たので、定敬...戊辰・会津戦争35蚕養口の戦い

  • 戊辰・会津戦争34 若松城下侵入

    若松城下侵入会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日『会津史』によると、早朝から猪苗代湖西岸の戸ノ口原で戦闘が開始されます。白虎隊などの会津藩兵を打ち破り、午前8時には一箕町滝沢の堂ヶ作山に到着し、そこから会津盆地を見て、侵入経路を確認し、9時には甲賀町口郭門、10時には北出丸大手口近くまで西軍は進攻したのです。若松城下の町にある木戸口には、町民が殺到し、折り重なって亡くなった者が多数いました。また、大雨で大川(阿賀川)が増水し、舟で渡りきれず水死したもの数百人いたという。市街戦の戦死者は460余人、藩士家族の殉死233人におよび、一般町民は多数で正確には不明。約千戸が焼失。白虎隊士16人が飯盛山で自刃したのです。同日、南会津の那須岳西側の三斗小屋でも戦闘があり激しい戦いでした。これは、期日を決めて、会津領...戊辰・会津戦争34若松城下侵入

  • 戊辰・会津戦争33 白虎隊の自刃2

    白虎隊の自刃2会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、白虎隊の飯盛山での自刃については、飯沼貞吉が残した『顛末記』によると「篠田儀三郎曰(いわ)く、最早(もはや)斯(か)くなる上は策の講ずべきなし、進撃の計、城に入る謀(はかり)、元より不可と云うにあらざれども、迚(とて)も十有余士の能(よ)く為し得(え)るべき所にあらず。誤って、敵に擒(とりこ)にせられ縄目(なわめ)の耻辱(しじょく)を受る如(ごと)き事あらば、上は君に対して何の面目(めんもく)やある、下は祖先に対し何の申訳やある。如(し)かず潔きよく茲(ここ)に自刃し、武士の本分を明にするにありと。議論爰(ここ)に始めて定まり、徐(おもむろ)に用意を為し、慶応四年戊辰八月廿三日巳(み)の刻(午前十時)過ぎなりき、一同列座し西方(正しくは南西)鶴ヶ城に向...戊辰・会津戦争33白虎隊の自刃2

  • 戊辰・会津戦争32 白虎隊の自刃1

    白虎隊の自刃1会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、会津藩白虎隊の篠田小隊は、飯沼貞吉が書いた『顛末記』によると、戸ノ口原で西軍に敗北したあと、北側に後退し、前日夕方までいた新選組と交代した菰土山の陣地跡に寄りますが、戦死者のみで誰もおらず、さらに、上強清水の集落に行くと、会津藩の戦死者が多数横たわっていたという。そして、強清水から食糧基地だった会津若松市湊町赤井の小坂を目指したのです。白河街道の赤井の一里塚を通り、食糧基地の小坂に行ったものの、誰もおらず、食糧もなかったのです。そのため、城に戻ろうと広場のある小坂地区南の地蔵前にあった芝の広場で休んでのです。時間は8時から9時頃。そこで、16人であることを確認しました。そして、地蔵の前にあった石の窪みに誰かが持っていたおにぎりを置き、水を加えて皆で食べ...戊辰・会津戦争32白虎隊の自刃1

  • 戊辰・会津戦争31 戸ノ口原の戦い時の会津藩主

    戸ノ口原の戦い時の会津藩主会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、現在の10月8日、会津若松市一箕町の滝沢峠下に国指定重要文化財、国史跡の滝沢本陣では、松平容保公らが、敗走して滝沢峠を下る会津藩兵を見て驚いたのでした。桑名藩兵が残した『戊辰戦争見聞略記』によると「会ノ佐川官兵衛、直ニ援刀進テ、退兵ニ向テ曰」「両君是ニ在テ自ラ令ヲ下サル。是ヲ叛キ公ヲ捨テ退ハ、何人ソヤ、不忠不義ナル者」「速ニ斬ント乱兵ノ中ニ飛入ル。」「其勢ヒ雷ノ如、刀ヲ振フ電ノ如シ。兵大奮ヒ進ヒ戦フ。」と、戸ノ口原での総指揮官のはずであった佐川官兵衛は、前日二十二日夜、滝容保公と桑名の松平定敬(さだあき)公と、酒を酌み交わし、二十三日朝は戸ノ口原には行かず滝沢本陣にいたのでした。そして、滝沢峠を下ってくる会津藩兵を見て、「不忠不義なる者」と...戊辰・会津戦争31戸ノ口原の戦い時の会津藩主

  • 戊辰・会津戦争 戸ノ口原の戦い 6

    戸ノ口原の戦い6会津古城研究会長石田明夫白虎隊で生き残った飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日、篠田隊は、高さ二尺から三尺ある溝に隠れて撃ち「敵弾を受けたる者は、いずれも胸部以上であり、「即死者が最多く、屍は累々と堆積し」と、二本松裏街道北側の篠田小隊は、銃撃戦で西軍の銃撃を受け、弾は胸より上にあたり、複数の即死者もいたのでした。街道南側の原田・山内小隊は新四郎堀から銃撃し、『懐舊談』に、「左軍(篠田隊)では、激しく戦う音が聞こえ、鉄砲の弾が、ピュツピュツと耳を掠めますので、なに糞と思って当方(原田隊)も暫く夢中になって対戦いたしていましたところ、隊長の声で『引上げろ』と聞こえるのです。見ると誰も怪我をしていらんので、又味方は負けてはいらん様なので、何だか訳も分かりませんが、隊長の命令で仕方...戊辰・会津戦争戸ノ口原の戦い6

  • 戊辰・会津戦争29 戸ノ口原の戦い5

    戸ノ口原の戦い5会津古城研究会長石田明夫飯盛山で蘇生した白虎隊の飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日早朝、隊長の日向内記は、隊に戻らなかったことから、「一同顧みてあ然たり。この時、早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、吾は教導の首席なるを以って、代わりて隊長の任務を執らんと。直ちに気を付けの号令を発し、人員点呼を行えり。その点呼終わらずや否や進めの号令を発せり」と、篠田が、ざんごうを出で「進め」と号令を発しました。すると、銃声が次第に間近く聞こえたのです。「既に戸ノ口の味方を打ち敗り、若松街道をまっ直ぐに発射しつつ進み行けり」と、白虎隊より前線にいた奇正(勝)隊や敢死隊との戦いが始まり、それらの隊を難なく撃ち破り西軍が進攻して来たのです。その時の戦死者墓が、戸ノ口原戦奮戦の地碑がある東...戊辰・会津戦争29戸ノ口原の戦い5

  • 戊辰・会津戦争28 戸ノ口原の戦い4

    戸ノ口原の戦い4会津古城研究会長石田明夫慶応四年(1868一)8月23日、現在の暦では10月8日、戸ノ口原の戦いが早朝から開始されます。『戊辰戦争実歴談』によると、前日は「大暴風雨」で雨が降り、長州藩士が残した『陣中日記』によると23日は、朝から少し雨で、後に晴れたという。夜が明け切らない真っ暗な朝四時頃『若松記』によると、西軍本隊が猪苗代を出発したという。前日には、すでに戸ノ口村の丘陵に土佐藩と薩摩藩、大垣藩兵の先鋒が陣取っていました。会津藩最前線の奇勝(正)隊は、戸ノ口村の南の丘陵に後退して対峙し、夜明けを待っていました。夜が少し明るくなった暁、5時30分頃、戸ノ口の十六橋をから、大小銃で激しく攻撃され、西軍本隊が十六橋に板を掛けて進攻して来たのです。白虎隊は、旧街道を北と南に分かれ、挟み撃ち作戦を取ります...戊辰・会津戦争28戸ノ口原の戦い4

  • 戊辰・会津戦争27 戸ノ口原の戦い3

    戸ノ口原の戦い3会津古城研究会長石田明夫戸ノ口原から生残って城に入った白虎隊の酒井峯治が残した『戊辰戦争実歴談』によると、1868年8月22二日夕方、四時頃、強清水を過ぎ、約一丁半(実際は、清水から1千メートル、上強清水集落からは約200メートル)行った左側の小山・菰土(こもつち)山に登り、そこに穴を掘り胸壁(ざんごう)を築いたという。菰土山には、その時掘られた塹壕跡が、丘陵山城のように三段の平場が街道を見下ろすように残されています。西軍を防戦する策として、日橋川にかかる十六橋の防御があり、『若松記』によると奇正(勝)隊が、しきりに橋を壊そうとしたが、僅かに橋板を取るに過ぎず、後退して戸ノ口原に布陣したという。西軍方の戦没五十年祭にまとめられた『維新戦役実歴談』には「十六橋は、石橋にて、幅三尺に長さ一間半くらい...戊辰・会津戦争27戸ノ口原の戦い3

  • 戊辰・会津戦争26 戸ノ口原の戦い2

    戸ノ口原の戦い2会津古城研究会長石田明夫1868年8月22日『若松記』によると、「日向内記、兵引率シテ申刻ノ(午後四時)大野原ニ出張、丘陵ニオイテ要害(ざんごう)ヲ構ヒ」とあり、白虎隊は、戸ノ口原ですぐにざんごうを構築したようです。さらに、会津藩の急ごしらえの部隊奇勝(正)隊の上田新八郎らは、猪苗代から出る唯一の日橋川出口にかかる十六橋へ向かいます。会津藩の唐沢八四郎らも戸ノ口原で胸壁(きょうへき)を構築し、藤沢内蔵之丞らも大野原に胸壁を築造したという。現在、国道49号の北側に残るざんごうが大野原のざんごうを指すものと見られます。会津藩の『原田勝吉談』によると「御本陣に着くと半隊だけ戸ノ口へ向かえと命令があった。強清水に着いたのは日のくれぐれであった。津田を斥候に出した。人影のあるらしければ、ほふくして偵察した...戊辰・会津戦争26戸ノ口原の戦い2

  • 戊辰・会津戦争25 戸ノ口原の戦い1

    戸ノ口原の戦い1会津古城研究会長石田明夫1868年8月22日『薩軍出軍戦状』によると、西軍の薩摩藩は母成峠を出発し、猪苗代町の木地小屋で休息し、各隊は十六橋を越え戸ノ口まで進軍しています。城下では『史談会速記録』によると、22日の朝5時には、母成峠の敗戦の知らせが城内に届き、直ちに戸ノ口へ佐川官兵衛と白虎隊、奇正(勝)隊、回天隊、誠忠隊らを派遣、大寺口へは萱野権兵衛と桑名藩を派遣、背炙り峠東には西郷頼母と水戸兵を派遣することを決定します。その決定は、融通寺町にいた桑名藩兵にもすぐに伝えられました。それでも兵力が足りないことから臨時招集された敢死隊(かんしたい)がいて『懐旧談』によると、その兵力は町人農民が多く、百石で召抱えるとの約束で戦いに参加し、訓練や戦いの経験も無く、槍を持って行ったのです。城下では『若松記...戊辰・会津戦争25戸ノ口原の戦い1

  • 戊辰・会津戦争24 母成峠の戦い2

    母成峠の戦い2会津古城研究会長石田明夫1868年8月21日、旧幕府の大鳥圭介が残した『南柯紀行』に、「六つ半頃(7時)なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり。是れ敵来るなり」と、朝7時に西軍が進攻してきたのです。西軍は、南の石筵(いしむしろ)から本道を進み、他方は北の山上、勝岩(かついわ)から進行して来たのです。大鳥圭介は、北の勝岩方面へ移動し、勝岩の下には旧幕府軍第一大隊と新選組がいたのです。「敵群り至り、弾丸雨よりの甚だしく」と、激しい銃撃戦でした。『北原雅長の史談会速記録』によると、会津藩一番総頭の田中源之進が峠の頂上にいて、石筵川を隔てた立岩に大鳥圭介がいて、立岩の下に新選組の土方歳三が戦争をしていたという。その時間は、午前11時頃だったという。会津藩では、三段構えに陣地を築き、中軍山と八幡山、峠頂上には...戊辰・会津戦争24母成峠の戦い2

  • 戊辰・会津戦争23 母成峠の戦い1

    母成峠の戦い1会津古城研究会長石田明夫1868年8月4日、新潟県では、新発田藩が裏切り、五泉市の村松藩(三万石)が落城しました。6日には、相馬中村藩(6万石)が降伏、11日には、新潟県の村上藩(5万石)が降伏しました。そこで、会津藩の松平容保は、8月1日、から8月14日まで、福島県西会津町の野沢に出向き、越後方面のテコ入れに当たっていましたが、会津藩の東側、福島県の中通り方面の攻撃が激しくなったことから若松城へ戻ります。14日『山岡義昭日記』によると、猪苗代湖の湖南にある会津藩と郡山との境となる御霊櫃(ごれいびつ)峠では、大砲での砲撃戦がありました。17日には、猪苗代湖湖南の舟津にいた新選組の土方歳三らは、猪苗代城に向かい、旧幕府軍の大鳥圭介と合流します。西軍の進攻作戦は、御霊櫃峠や国道49号の北にある中山峠を...戊辰・会津戦争23母成峠の戦い1

  • 戊辰・会津戦争22 会津藩魔の7月29日

    会津藩魔の7月29日会津古城研究会長石田明夫会津藩の戦いは、東の白河城と二本松城の戦いが良く知られていますが、西の越後でも激しい戦いがありました。そのなかで、7月29日は、東と西で、会津藩を左右した激しい戦いがあり大きな敗北をしたのです。7月28日『会津戊辰戦史』、西軍は、西軍に寝返った新発田藩預り沼垂港と海上の摂津艦ら三隻から、新潟港を守備する会津藩、米沢藩、仙台藩の六小隊(約300人弱)に砲撃をしたのです。『若松記節略』29日には、西軍300人が川上から押寄せ、信濃川西側の白山神社付近にあった会津藩陣地と新潟港は陥落したのです。この戦いで、米沢藩総督の色部長門が戦死し、米沢藩は、以後戦意を喪失し会津藩を裏切ります。また、同日長岡城は、『牧野忠毅(ただかつ)家記』に、西軍に再び攻められ「我兵遂ニ支持スヘカラサ...戊辰・会津戦争22会津藩魔の7月29日

  • 戊辰・会津戦争21 越後長岡・会津藩の戦い3

    越後長岡・会津藩の戦い3会津古城研究会長石田明夫慶応4年(1868)5月19日『衝鋒隊戦記』によると、会津藩家老一瀬要人(かなめ)と旧幕府軍衝鋒(しようほう)隊の古屋佐久左衛門、ガトリング砲を操った長岡藩家老の河井継之助(つぎのすけ)ら僅か50人での奮戦もむなしく、西軍に長岡城は奪われました。6月2日、東軍は、新潟県見附市の今町の戦いで反転攻勢に出て、長岡城奪還作戦を開始します。なお、長岡城は、現在の長岡駅付近にあった平城で、遺構は戊辰戦争や第二次瀬下大戦の空襲で焼失したため残っていません。7月24日夕方『長岡藩戦争之記』によると、長岡藩は、西軍が攻めてこないと踏んでいた八丁沖の湿地を「深田沼川ノ中ヲ潜行シ」と進み、翌日長岡城を奪還したのです。この戦いで『河井継之助伝』によると、継之助は、腰掛けていたところを西...戊辰・会津戦争21越後長岡・会津藩の戦い3

  • 戊辰・会津戦争20 越後長岡・会津藩の戦い2

    越後長岡・会津藩の戦い2会津古城研究会長石田明夫慶応4年(1868)5月4日、奥羽列藩同盟に参加した長岡藩。それから北越戦争が開始されます。『北国戦争概略衝鋒隊之記』によると5月13日西軍は、長岡城進攻に欠かせなかった小千谷市の朝日山の確保を目指しますが、朝日山にいた会津藩の萱野権兵衛隊と桑名藩の立見鑑三郎と長岡藩兵約五千に対し、西軍は約一万で攻めますが、一週間戦闘が続いたものの落ちませんでした。麓の浦柄神社には、白虎隊士新国英之助と会津藩戦死者19人を含む墓22基があります。西軍の山県有朋は、南からの陸路攻めに手焼いていたことから、5月19日、西の与板から信濃川を渡河し、長岡城へ奇襲攻撃をかけたのです。長岡藩は、軍主力部隊を朝日山方面の守備へ回しており、城下には部隊がいなかったのです。そのため、城は半日で西軍...戊辰・会津戦争20越後長岡・会津藩の戦い2

  • 戊辰・会津戦争19 越後長岡・会津藩の戦い1

    越後長岡・会津藩の戦い1会津古城研究会長石田明夫白河城が慶応四年(1868)5月1日、西軍に奪われた翌日2日、越後にも西軍が迫っていました。『長岡藩戦争之記』によると当時会津藩領だった小千谷(小千谷市)において、長岡藩家老河井継之助は、「武装中立」を主張し、慈眼寺において山道軍軍監土佐藩岩村精一郎と会談し、進攻停止を訴えましたが、会津藩3千人が三条まで来ているとの情報を得たと話したことから、継之助の嘆願書は聞き入れられず会談は決裂したのです。越後長岡藩は、7万4千石の藩です。河井継之助は、佐久間象山などに学び、諸国を視察し、長年赤字だった長岡藩の財政を回復させました。戊辰戦争になると、財政改革の余剰金と、藩の家宝等を売却し、暴落した米を買い、それを箱館へ運んで売り利益を上げ、為替差益でも資金を増やしたのです。そ...戊辰・会津戦争19越後長岡・会津藩の戦い1

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