戸ノ口原の戦い1会津古城研究会長石田明夫1868年8月22日『薩軍出軍戦状』によると、西軍の薩摩藩は母成峠を出発し、猪苗代町の木地小屋で休息し、各隊は十六橋を越え戸ノ口まで進軍しています。城下では『史談会速記録』によると、22日の朝5時には、母成峠の敗戦の知らせが城内に届き、直ちに戸ノ口へ佐川官兵衛と白虎隊、奇正(勝)隊、回天隊、誠忠隊らを派遣、大寺口へは萱野権兵衛と桑名藩を派遣、背炙り峠東には西郷頼母と水戸兵を派遣することを決定します。その決定は、融通寺町にいた桑名藩兵にもすぐに伝えられました。それでも兵力が足りないことから臨時招集された敢死隊(かんしたい)がいて『懐旧談』によると、その兵力は町人農民が多く、百石で召抱えるとの約束で戦いに参加し、訓練や戦いの経験も無く、槍を持って行ったのです。城下では『若松記...戊辰・会津戦争25戸ノ口原の戦い1
母成峠の戦い2会津古城研究会長石田明夫1868年8月21日、旧幕府の大鳥圭介が残した『南柯紀行』に、「六つ半頃(7時)なりしか、東方に当り砲声二発聞えたり。是れ敵来るなり」と、朝7時に西軍が進攻してきたのです。西軍は、南の石筵(いしむしろ)から本道を進み、他方は北の山上、勝岩(かついわ)から進行して来たのです。大鳥圭介は、北の勝岩方面へ移動し、勝岩の下には旧幕府軍第一大隊と新選組がいたのです。「敵群り至り、弾丸雨よりの甚だしく」と、激しい銃撃戦でした。『北原雅長の史談会速記録』によると、会津藩一番総頭の田中源之進が峠の頂上にいて、石筵川を隔てた立岩に大鳥圭介がいて、立岩の下に新選組の土方歳三が戦争をしていたという。その時間は、午前11時頃だったという。会津藩では、三段構えに陣地を築き、中軍山と八幡山、峠頂上には...戊辰・会津戦争24母成峠の戦い2
母成峠の戦い1会津古城研究会長石田明夫1868年8月4日、新潟県では、新発田藩が裏切り、五泉市の村松藩(三万石)が落城しました。6日には、相馬中村藩(6万石)が降伏、11日には、新潟県の村上藩(5万石)が降伏しました。そこで、会津藩の松平容保は、8月1日、から8月14日まで、福島県西会津町の野沢に出向き、越後方面のテコ入れに当たっていましたが、会津藩の東側、福島県の中通り方面の攻撃が激しくなったことから若松城へ戻ります。14日『山岡義昭日記』によると、猪苗代湖の湖南にある会津藩と郡山との境となる御霊櫃(ごれいびつ)峠では、大砲での砲撃戦がありました。17日には、猪苗代湖湖南の舟津にいた新選組の土方歳三らは、猪苗代城に向かい、旧幕府軍の大鳥圭介と合流します。西軍の進攻作戦は、御霊櫃峠や国道49号の北にある中山峠を...戊辰・会津戦争23母成峠の戦い1
会津藩魔の7月29日会津古城研究会長石田明夫会津藩の戦いは、東の白河城と二本松城の戦いが良く知られていますが、西の越後でも激しい戦いがありました。そのなかで、7月29日は、東と西で、会津藩を左右した激しい戦いがあり大きな敗北をしたのです。7月28日『会津戊辰戦史』、西軍は、西軍に寝返った新発田藩預り沼垂港と海上の摂津艦ら三隻から、新潟港を守備する会津藩、米沢藩、仙台藩の六小隊(約300人弱)に砲撃をしたのです。『若松記節略』29日には、西軍300人が川上から押寄せ、信濃川西側の白山神社付近にあった会津藩陣地と新潟港は陥落したのです。この戦いで、米沢藩総督の色部長門が戦死し、米沢藩は、以後戦意を喪失し会津藩を裏切ります。また、同日長岡城は、『牧野忠毅(ただかつ)家記』に、西軍に再び攻められ「我兵遂ニ支持スヘカラサ...戊辰・会津戦争22会津藩魔の7月29日
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