白虎隊の自刃1会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、会津藩白虎隊の篠田小隊は、飯沼貞吉が書いた『顛末記』によると、戸ノ口原で西軍に敗北したあと、北側に後退し、前日夕方までいた新選組と交代した菰土山の陣地跡に寄りますが、戦死者のみで誰もおらず、さらに、上強清水の集落に行くと、会津藩の戦死者が多数横たわっていたという。そして、強清水から食糧基地だった会津若松市湊町赤井の小坂を目指したのです。白河街道の赤井の一里塚を通り、食糧基地の小坂に行ったものの、誰もおらず、食糧もなかったのです。そのため、城に戻ろうと広場のある小坂地区南の地蔵前にあった芝の広場で休んでのです。時間は8時から9時頃。そこで、16人であることを確認しました。そして、地蔵の前にあった石の窪みに誰かが持っていたおにぎりを置き、水を加えて皆で食べ...戊辰・会津戦争32白虎隊の自刃1
戸ノ口原の戦い時の会津藩主会津古城研究会長石田明夫1868年8月23日、現在の10月8日、会津若松市一箕町の滝沢峠下に国指定重要文化財、国史跡の滝沢本陣では、松平容保公らが、敗走して滝沢峠を下る会津藩兵を見て驚いたのでした。桑名藩兵が残した『戊辰戦争見聞略記』によると「会ノ佐川官兵衛、直ニ援刀進テ、退兵ニ向テ曰」「両君是ニ在テ自ラ令ヲ下サル。是ヲ叛キ公ヲ捨テ退ハ、何人ソヤ、不忠不義ナル者」「速ニ斬ント乱兵ノ中ニ飛入ル。」「其勢ヒ雷ノ如、刀ヲ振フ電ノ如シ。兵大奮ヒ進ヒ戦フ。」と、戸ノ口原での総指揮官のはずであった佐川官兵衛は、前日二十二日夜、滝容保公と桑名の松平定敬(さだあき)公と、酒を酌み交わし、二十三日朝は戸ノ口原には行かず滝沢本陣にいたのでした。そして、滝沢峠を下ってくる会津藩兵を見て、「不忠不義なる者」と...戊辰・会津戦争31戸ノ口原の戦い時の会津藩主
戸ノ口原の戦い6会津古城研究会長石田明夫白虎隊で生き残った飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日、篠田隊は、高さ二尺から三尺ある溝に隠れて撃ち「敵弾を受けたる者は、いずれも胸部以上であり、「即死者が最多く、屍は累々と堆積し」と、二本松裏街道北側の篠田小隊は、銃撃戦で西軍の銃撃を受け、弾は胸より上にあたり、複数の即死者もいたのでした。街道南側の原田・山内小隊は新四郎堀から銃撃し、『懐舊談』に、「左軍(篠田隊)では、激しく戦う音が聞こえ、鉄砲の弾が、ピュツピュツと耳を掠めますので、なに糞と思って当方(原田隊)も暫く夢中になって対戦いたしていましたところ、隊長の声で『引上げろ』と聞こえるのです。見ると誰も怪我をしていらんので、又味方は負けてはいらん様なので、何だか訳も分かりませんが、隊長の命令で仕方...戊辰・会津戦争戸ノ口原の戦い6
戸ノ口原の戦い5会津古城研究会長石田明夫飯盛山で蘇生した白虎隊の飯沼貞吉が残した『顛末記』によると、1868年8月23日早朝、隊長の日向内記は、隊に戻らなかったことから、「一同顧みてあ然たり。この時、早くも教導の一人なる篠田儀三郎、揚言すらく、吾は教導の首席なるを以って、代わりて隊長の任務を執らんと。直ちに気を付けの号令を発し、人員点呼を行えり。その点呼終わらずや否や進めの号令を発せり」と、篠田が、ざんごうを出で「進め」と号令を発しました。すると、銃声が次第に間近く聞こえたのです。「既に戸ノ口の味方を打ち敗り、若松街道をまっ直ぐに発射しつつ進み行けり」と、白虎隊より前線にいた奇正(勝)隊や敢死隊との戦いが始まり、それらの隊を難なく撃ち破り西軍が進攻して来たのです。その時の戦死者墓が、戸ノ口原戦奮戦の地碑がある東...戊辰・会津戦争29戸ノ口原の戦い5
戸ノ口原の戦い4会津古城研究会長石田明夫慶応四年(1868一)8月23日、現在の暦では10月8日、戸ノ口原の戦いが早朝から開始されます。『戊辰戦争実歴談』によると、前日は「大暴風雨」で雨が降り、長州藩士が残した『陣中日記』によると23日は、朝から少し雨で、後に晴れたという。夜が明け切らない真っ暗な朝四時頃『若松記』によると、西軍本隊が猪苗代を出発したという。前日には、すでに戸ノ口村の丘陵に土佐藩と薩摩藩、大垣藩兵の先鋒が陣取っていました。会津藩最前線の奇勝(正)隊は、戸ノ口村の南の丘陵に後退して対峙し、夜明けを待っていました。夜が少し明るくなった暁、5時30分頃、戸ノ口の十六橋をから、大小銃で激しく攻撃され、西軍本隊が十六橋に板を掛けて進攻して来たのです。白虎隊は、旧街道を北と南に分かれ、挟み撃ち作戦を取ります...戊辰・会津戦争28戸ノ口原の戦い4
戸ノ口原の戦い3会津古城研究会長石田明夫戸ノ口原から生残って城に入った白虎隊の酒井峯治が残した『戊辰戦争実歴談』によると、1868年8月22二日夕方、四時頃、強清水を過ぎ、約一丁半(実際は、清水から1千メートル、上強清水集落からは約200メートル)行った左側の小山・菰土(こもつち)山に登り、そこに穴を掘り胸壁(ざんごう)を築いたという。菰土山には、その時掘られた塹壕跡が、丘陵山城のように三段の平場が街道を見下ろすように残されています。西軍を防戦する策として、日橋川にかかる十六橋の防御があり、『若松記』によると奇正(勝)隊が、しきりに橋を壊そうとしたが、僅かに橋板を取るに過ぎず、後退して戸ノ口原に布陣したという。西軍方の戦没五十年祭にまとめられた『維新戦役実歴談』には「十六橋は、石橋にて、幅三尺に長さ一間半くらい...戊辰・会津戦争27戸ノ口原の戦い3
戸ノ口原の戦い2会津古城研究会長石田明夫1868年8月22日『若松記』によると、「日向内記、兵引率シテ申刻ノ(午後四時)大野原ニ出張、丘陵ニオイテ要害(ざんごう)ヲ構ヒ」とあり、白虎隊は、戸ノ口原ですぐにざんごうを構築したようです。さらに、会津藩の急ごしらえの部隊奇勝(正)隊の上田新八郎らは、猪苗代から出る唯一の日橋川出口にかかる十六橋へ向かいます。会津藩の唐沢八四郎らも戸ノ口原で胸壁(きょうへき)を構築し、藤沢内蔵之丞らも大野原に胸壁を築造したという。現在、国道49号の北側に残るざんごうが大野原のざんごうを指すものと見られます。会津藩の『原田勝吉談』によると「御本陣に着くと半隊だけ戸ノ口へ向かえと命令があった。強清水に着いたのは日のくれぐれであった。津田を斥候に出した。人影のあるらしければ、ほふくして偵察した...戊辰・会津戦争26戸ノ口原の戦い2
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