戊辰・会津戦争35 蚕養口の戦い
蚕養口の戦い会津古城研究会長石田明夫桑名藩の藩士石井勇次郎が、青森で謹慎中の書き残した『戊辰戦争見聞略記』によると、1868年8月23日、会津藩の滝沢本陣から退却した松平容保公と弟の桑名藩主松平定敬(さだあき)公は、若松城の大手前(甲賀町郭門)まで来ると「両公馬ヲ止メ、暫ク談セラル」と話し込み、容保公は入城し、定敬公は、援軍を頼みに米沢に赴くこととなったという。その時、桑藩士らは、なぜ兄弟共に籠城しないのか不思議がったという。桑名藩本隊は、会津藩家老の萱野権兵衛とともに磐梯町大寺にいたことから、西軍が若松城下に乱入したことを聞くと、急遽兵を引き上げ、致人(しじん)隊、雷神隊、神風隊が大寺口へ向ったのです。すると、蚕養口では、偶然西軍の後ろに出たため激しく戦うこととなります。弾薬が尽き死者やけが人が出たので、定敬...戊辰・会津戦争35蚕養口の戦い
2019/04/09 13:21