人間とは誰しも疲労し疲弊するものだ。 私は普段「疲れた」という言葉を発しなかった。ある時からは発しないよう心がけてきた。 「疲れた」と言ってもよいのは“高度な仕事”をこなしている人や肉体労働やスポーツに励んでいる人々、思い切り心置きなく遊び倒した場合などに限ると考えたからだ。 私はそれらに該当しない。私は「疲れた」と言ってはいけない・私は疲れる「べきではない」と何年にも渡り思い込んでいたのだ。 視点を変えると、躁病相において私は「疲れる」ことを知らない体験をしている。 それは病状であったという知識は後から知り得たことだが、認識のどこかで「疲れない躁状態」を理想に感じる、あるいはごく当たり前のこ…