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セルフコラボレーション、この趣味とあの趣味をコラボ https://blog.goo.ne.jp/idealblog2

日本の城、写真、ダートレース等の趣味を相互に関連づけて趣味を深く追求!

三重県を中心に徹底訪城、伝えて残したい山城遺産。時々ダートレースで若さを保ちつつ、セルフコロボレーションを試みる。

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  • 岩出城

    古地図昭和23年、米軍空中写真現代岩出城の移り変わり城名岩出城読みいわでじょう住所玉城町岩出築城年、築城者延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法又は、天正3年(1575)田丸中務少輔直息(直昌)形式平城遺構消滅、石碑規模150×130m標高16m比高6m歴史この地、岩出は往古(平安中期)の、神宮祭主大中臣氏岩出祭主家の500年にわたる館跡とも伝えられる。一説には延徳元年(1469)岩崎長官左近大夫安法が築城ともいわれる。又は、天正三年(1575)、織田信雄が田丸に三層の天守閣を築き入城の際、城主田丸中務少輔直息はこの岩出台地に城を築いて移ったのが岩出城の最初とされる説もある。その後、牧村兵部大輔利貞、稲葉蔵人道通が城主となった。慶長5年(1600)、家康は関が原の論功で2万石を加増して道通を田丸城主に取り立て...岩出城

  • 白山ヶ鼻城

    城名白山ヶ鼻城読みはくさんがはなじょう(桑名市遺跡包蔵地検索より)住所桑名市東方形式平山城遺構壊滅城主近藤右京進標高18m(改変前は25m程と考えられる)比高(東側)10m(改変前は17m程と考えられる)歴史北廻城の出城。信長により落城。経緯日本城郭大系に「室町期、近藤右京進の居城。小学校で遺構不明」とある。書籍三重の中世城館日本城郭大系(その他の城郭一覧)現地桑名市立大成小学校地図白山ヶ鼻城

  • 尾野山城

    城名尾野山城読みおのやまじょう別名小野砦住所桑名市東方字岸西形式平山城規模100m×130m城主尾野山正斎坊(小野神社の別当)標高25m比高19m歴史永禄天正のころ、織田信長勢によって滅ぼされた。一説には、永禄年中に建部(又は渡部)掃部介が居城したともいわれる。(勢陽五鈴遺響)経緯城域の北側が道路改良に伴う対象となるため、三重県埋蔵文化財センターにより、平成4年に地形測量、同6年に試掘調査が行われている。書籍尾野山城跡発掘調査報告三重の中世城館現地現在は、小野神社の裏山になり、土塁が部分的に残存し、壇もみられる。地図尾野山城

  • 桑名城

    城名桑名城住所桑名市吉之丸9築城年永正10年(1513)築城者伊藤部左衛門形式当初は不明-水城遺構石垣、堀規模400×550m城主本多忠勝系統伊藤氏は北勢四十八家標高1m歴史永正10年(1513)に、関東より伊藤氏の伊藤部左衛門実房がこの地に城館・東城を築いた。天正2年(1574)織田信長が征し、滝川一益が配下に置いた。天正19年(1591)に一柳右近が桑名を領し、築城をはじめた。文禄4年(1595)伊勢神戸城から天守閣を移築した。豊臣秀吉の時代には、神戸信孝以降目まぐるしく支配者が入れ替わった。慶長6年(1601)、本田忠勝を桑名10万石に封じた。4重6階の天守をはじめ51基の櫓、46基の多門が立ち並んだ。元和2年(1616年)に忠勝の孫である忠刻は徳川家康の孫娘である千姫と結婚し、千姫は桑名城内に住んだ。元...桑名城

  • 大井田城

    城名大井田城読みおおいだじょう住所いなべ市大安町大井田築城年永禄年中か形式平山城(居館の集合体の行きついた結果の城)遺構土塁、空堀、井戸、虎口規模主郭70×50m全体350×240m城主栗田(粟田)左衛門佐(員弁雑志)又は、印道信入道(桑名志)標高76m比高17m書籍三重の中世城館三重の山城ベスト50を歩く環境北の宇賀川を防御にしている。現地梅林公園となっている。居館に重きをおいた造りに伺える。地図大井田城

  • 山ノ城城

    城名山ノ城城読みやまのしろじょう住所桑名市下深谷部字山ノ城形式平山城城主深谷部監物標高38m比高23m歴史永禄年中、織田信長の攻撃により滅ぼされた(伊勢名勝志)のち、飛鳥寺がおかれ現存している。書籍三重の中世城館現地立地は丘陵で、地目は畑となっている。土塁が部分的に残存し、壇もみられる。地図山ノ城城

  • 御園城

    城名御園城読みみそのじょう住所いなべ市員弁町御園字道南廃城年永禄12年(1569)形式平山城遺構不明。団地建設のため破壊とある。規模不明。城主渡辺八右衛門督標高66m比高10m歴史永禄12年(1569)に滅ぶといわれるが(員弁郡郷土資料)、くわしいことは不詳である。書籍三重の中世城館環境員弁川によって形成された河岸段丘の突出した縁に城はあったようだ。現地地目:宅地立地:台地御園住宅団地建設のため破壊されている。(三重の中世城館)地図御園城

  • 金井城

    城名金井城読みかないじょう住所いなべ市員弁町北金井字亀谷築城年永正2年(1505)築城者種村大蔵太夫高盛形式平城遺構土塁、空堀、宝篋印塔規模60×120m城主種村大蔵太夫高盛一族近江源氏の流れをくむ佐々木家の一統六角高成の孫。標高58m比高13m歴史永正2年(1505)に、種村大蔵太夫高盛が築いたとされる。大永2年(1522)、美濃の土岐大膳大夫が金井城に侵攻してきたが北勢諸家連合軍で撃退した。永禄11年(1568)、信長2度目の伊勢侵攻のとき抗戦したが、すぐ降服し配下となった。元亀3年(1572)、高盛死去。4男秀政、その長男秀信が継いだ。天正4年(1576)、秀信は滝川一益に不信を持たれ伊勢長島城へ出頭、切腹させられる。一族は城を放棄してちりぢりばらばらとなった。書籍三重の中世城館環境員弁川の河岸段丘を生か...金井城

  • 下笠田城

    城名下笠田城読みしもかさだじょう住所下笠田字旭1550築城年天正年間築城者多湖刑部左衛門か形式平山城城主多湖大蔵橘実元系統・家臣北西四十八家-北畠氏-織田氏標高比高歴史建武年間(北朝暦で1334年~1336年)南北朝のはじめころ、多湖刑部左衛門がこの付近を押領し、代代居住して付近に大きな勢力をもっていた。永正7年(1510)北畠氏が北勢地方に勢力を伸ばしたときは北畠氏に従う。永禄11年(1568)織田信長の北勢攻略(2回目)にあたっては織田に降服するなど、地方豪族の苦しみをなめている。天正17年(1589)11月、豊臣秀吉は小田原の北条氏に宣戦を布告し、諸大名に出陣を命令した。多湖大蔵介橘実元も小田原に出陣した。翌18年(1590)4月、秀吉軍は小田原城の出城を落として包囲網を完了したのであるが、この戦で多湖大...下笠田城

  • 上笠田城

    城名上笠田城読みかみかさだじょう別名笠田砦住所上笠田字城下263-2築城年永禄年間形式平山城遺構土塁、空堀規模53×65m城主多湖大蔵允標高72m比高10m歴史多湖氏、永禄年中;飯田佐衛門尉経緯多湖家は建武年間(1334~37)にこの池を押領し、代々居住して付近に大きな勢力をもっていた。永禄年中には、飯田佐衛門尉が上笠田城を守っていたが織田信長の侵攻の際に滅ぼされた。(勢陽五鈴遺響)書籍三重の中世城館現地地目:山林立地:丘陵南側に員弁川を臨む丘陵の端に位置しており、土塁、空堀も部分的に残存している。寛永年間に六把野用水路の掘割により城跡は分断されている。現在城山稲荷大明神が祀られている。地図上笠田城

  • 野尻城

    城名野尻城読みのじりじょう住所いなべ市藤原町西野尻字南谷築城年天正年間築城者不明形式山城遺構曲輪、土塁、竪堀、空堀規模100×130m城主城主は史料によって記述が異なる。西野左馬亮(勢陽五鈴遺響)塩谷兵部と西野左馬助(三国地誌)文治年中(1185~1189)輪田右馬允が居住し、そののち、白瀬家が六代続き、その後日置大膳、その子日向および塩谷兵部ら数代が居城したと記している。(伊勢名勝志)輪田右馬允、白瀬正司家が六代、その後日置大膳、日向親子、および塩谷兵部が居城した。(三重の中世城館)標高148m比高28m歴史塩谷兵部は1574年(天正2)滝川一益に不信を抱かれ、長島城に呼び出され切腹させられた。経緯書籍・資料三重の中世城館いなべに行こう(いなべ市観光協会)現地大字西野尻字南谷の丘陵の先端に位置する。北から東に...野尻城

  • 田辺城

    田辺城城名田辺城住所いなべ市田辺北山築城年天正14年(1586)築城者木造左衛門左具康(長政)形式平山城遺構郭、土塁、空堀、土橋台地南側の先端に方形の本丸を設け、同一平面上北側に家臣団の居館を配した典型的な戦国城館の形式は、関東地方を中心に行われた丘陵城郭と呼ばれるものである。規模210m×450m主郭は50m×50mの空堀と土塁に囲まれた方形のもので3か所に虎口がある。ただ西側の入口は土塁の崩れた状態から見て、後世に造られたものと思われる。城主木造氏一族北畠一族標高240m比高30m歴史木造具康の築城。具康は天正12年(1584)小牧長久手の戦いで父の隠居所・戸木城を増強し、秀吉方の蒲生軍と対峙し、6か月籠城しよく戦った。同14年信雄、秀吉の和睦により戸木城は開城され、具康は信雄より与えられたこの田辺に城を築...田辺城

  • 大島城

    城名大島城読みおおしまじょう住所桑名市長島町大島(長良川)築城年天正年間遺構消滅規模不明城主大島新左衛門標高不明歴史長島の西南隅の出城で兵2000人、長島一向一揆の拠点。経緯明治の河川改修で水没。書籍三重の中世城館現地桑名市教育委員会文化財「遺跡包蔵地検索」によると、護岸から西200m位の長良川の水中を示している。大島水門が付近にある。地図大島城

  • 小田御崎砦

    城名小田御崎砦読みおだみさきとりで住所桑名市長島町西外面(長良川)築城年天正年間遺構消滅規模不明城主梅戸高実-高資一族田光氏の後裔。北勢四十八家(八風街道の抑え-六角氏と縁組)の一家。歴史長島の西の守備砦。ウィキペディアでは、1568年(永禄11)織田信長に攻められて滅亡した、とある。三重の中世城館(桑名史)では、1574年(天正2)7月落城とある。上記1568年は、織田信長第2回目の伊勢侵攻の時、下記1574年は、一向一揆3回目討伐の時である。書籍・参考資料三重の中世城館・他現地桑名市教育委員会文化財「「遺跡包蔵地検索」によると、光栄寺の西250m位の長良川の水中を示している。付近にある大智院には長島増山家六代藩主正賢(号雪斉)による、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅後、大智院訪問百年を記念して、自筆による「蕉翁信...小田御崎砦

  • 願証寺

    寺名願証寺(願證寺)読みがんしょうじ住所桑名市長島町又木434築造年1492年(明応10)ごろ(中郷杉江地区)1537年(天文6)へ移転(南郷西外面)1574年(天正2)織田軍3回目の一揆討伐1596~1615年慶長年間に復興築造者連淳(蓮如の6男)形式平寺遺構石碑規模50m×60m寺主連淳-実恵-証恵-証意-顕忍宗派山号浄土真宗本願寺派長島山願証寺標高-0.1m歴史信長に敗れた斎藤龍興が逃げ込む。経緯戦乱の世で明日の生活もわからず、頼るもののない民衆や農民の中には、来世に救いを求めて、浄土真宗に帰依するものが多く、願証寺にはたくさんの人々が寄ってきた。尾張や美濃で織田信長に反抗する土豪や戦いに敗れた戦国武将・国侍なども数多く願証寺に寄った。書籍三重の中世城館環境現代では当時の輪中の長島の様子を見ることは出来な...願証寺

  • 伊勢長島城

    城名伊勢長島城読みいせながしまじょう住所桑名市長島町西外面2188築城年文明年間築城者伊藤重晴形式平城遺構移築大手門(蓮生寺)、移築奥書院(深行寺)、堀跡規模230m×310m城主伊藤重晴-滝川一益-原-福島-菅沼-増山標高1m歴史1245年(寛元3)藤原道家が居住する。1482年(文明14)伊藤重晴が築城。1561年(永禄4)服部左京進が伊藤重晴を追放して、願正寺に属した。1567年(永禄10)織田軍第1回伊勢攻略1568年(永禄11)織田軍第2回伊勢攻略服部左京進が没して、下間三位頼且が守護した。1569年(永禄12)織田軍第3回伊勢攻略1571年(元亀2)一向一揆討伐(1回目)で柴田勝家負傷、氏家卜全討死、岐阜へ撤退。1573年(天正元)一向一揆討伐(2回目)織田軍は大垣から南下する隊と八風峠超えする隊に...伊勢長島城

  • 柚井城

    城名柚井城読みゆいじょう住所桑名市多度町柚井廃城年1571年(元亀2)築城者梶田左馬亮形式山城遺構曲輪(10)、土塁規模130m×190m城主梶田左馬亮-梶田刑部浄-西松要人標高78m比高46m歴史長島一向一揆に加勢し織田信長と戦ったが永禄年中に敗れた。その後城主になった西松氏も1571年信長に敗れ廃城となった。書籍三重の中世城館現地掲示板現地独立丘町内で最大規模一部は昭和20年に軍部によって改変されている。地図柚井城

  • 松阪の城50選 第4刷販売中

    松阪の城50選が好評につき、3刷(1800冊)が7月末で売り切れとなりました。この度4刷目の販売を新たに開始しました。これまでの皆様のご支援に感謝申し上げます。松阪山城会の会員が総力を結集して完成させました珠玉の一冊です。ぜひ、お手元に一冊お買い求めください。松阪の城50選第4刷販売中

  • 松阪の城50選 4刷販売開始

    松阪の城50選が好評につき、3刷(1800冊)が7月末で売り切れとなりました。この度4刷目の販売を新たに開始しました。これまでの皆様のご支援に感謝申し上げます。松阪山城会の会員が総力を結集して完成させました珠玉の一冊です。ぜひ、お手元に一冊お買い求めください。詳しくは”松阪の城50選、入手方法”をご覧ください。👆52ページで紹介している#39赤桶城の遠景赤桶城はこの地方では珍しい2重の堀切があります。標高240m、比高70m。城への道案内や縄張図、写真で分かり易く案内を記述しています。松阪の城50選4刷販売開始

  • 長慶天皇の事蹟を追う

    ナゾの天皇と呼ばれる長慶天皇とは?【その所以】●即位の日が特定されず、式典の史料もない。●即位後、行在所が転々とし、明らかでない。●後亀山天皇への譲位の日も推定にとどまる。●譲位後、院政を敷いていたと考えられるが実態が明らかでない。●叔父の宗良親王の『新葉和歌集』にも、南朝の皇位は三代であるとの記事があって、後醍醐、後村上、後亀山天皇があてられている。三重県松阪市嬉野上小川町の花園地区に”御渡寺趾”らしき遺構が認められる。嬉野町史によると”御渡寺趾”は「長慶天皇が多気より下られたときの行在所であったと伝えられる」とある。この御渡寺跡に長慶天皇はいつごろ来ていたのだろうかという、素朴な疑問もある。以下に長慶天皇の生誕から崩御までの52年間に亘って、年ごとの事蹟を整理する。。文末の記号は参考資料を表す。*1国史大辞...長慶天皇の事蹟を追う

  • ヤマユリ

    2020年夏、上小川町に咲く花たち!ヤマユリ

  • 花園城

    👆花園城遠景👆曲輪👆土塁👆土塁👆堀切の痕跡か?城名花園城読みはなぞのじょう住所松阪市嬉野上小川町(大字花園小字鳥屋尾辺り)築城年不明築城者大久保佐兵衛督形式平山城遺構土塁曲輪規模20m×50m家臣北畠家臣(家臣帳に記載あり)標高385m比高15m環境松阪市嬉野上小川町花園集落のほぼ中央にあって、北、東、南を見下ろす台地の上にある。現地眼下の間道は南に向けて走るがいずれ白猪山系にぶつかり、更に南下することは出来ない。南北に延びる丘の上にある。北に登る山側にだけ土塁が施されている。堀切はない。曲輪の削平感は甘い。考察上小川城の西側が白口峠・多気方面であり、大手口である。反して花園側は搦手となる。上小川城の背後の間道であり、無防備であれば敵の攻勢に対して弱点になり得る。仮説花園側(搦手)の番人として中峠への入口辺りに...花園城

  • 御渡寺趾

    👆御渡寺のある山裾遺構名御渡寺跡読みぎょとじあと住所松阪市嬉野上小川町(大字花園小字中ノ平)築年築造者不明遺構削平地3段規模50m×50m標高380m比高23m参考書籍嬉野史・嬉野町史歴史長慶天皇(注1)が在所された時期があるという。御渡寺という名はそのことを現しているのかも知れない。経緯嬉野史文化財考証の項に御渡寺趾という一項がある。短いので全文を記す。『上小川、花園垣内にあり山の中腹の平地を云う。長慶天皇が多気より下られたときの御在所であったと伝えられる。』以上である。この場所を探索するにあたり、花園垣内という場所がキーポイントとなる。花園における小字名を確認するが”垣内”という名称を見出すことはできない。この記述における”垣内”の意味合いは小字名としてではなく”花園の地区内”という広義の意味で捉える方がふ...御渡寺趾

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