「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
「負うた(背負った)子に教えられて浅瀬を渡る」(日本の諺)謙虚な気持ちになってどんな人からでもいつも学ぶ態度を持てば、あらゆる人から学ぶことができるという意味です。「三人で旅をすると必ず先生になる人がいる」といいます。旅先のさまざまな場面でなるほどと感心することがあります。本当に回りの人はすべてが先生です。今日も謙虚な気持ちで学びましょう。学び
「風土とはその土地の特徴です。」日本の風土は四季がある事です。その地に根を育むのには、雨、風、太陽…が必要です。人もその風土によって育って来ました。私は最近、いつも以上に神の声を聞く事があります。「日本は地球の風土を守る唯一の国となる。」世界は日本によって救われるだろう!という声が聞こえます。何となく分かる気がしませんか?沢山の災難から復興した奇跡の国として世界は日本に救いを求めるだろう!この声はあらゆる神様からのメッセージです。皆様と共にそれを伝えるのが言葉の力です。ブログしか出来ない。それは地球は言葉から生まれたからです。言葉は力
「天を屋根とし、大地を踏み、月の明かりに大志を抱く。」(私)壮大な夢を抱き歩んでいます。皆様も夢を諦めずに、もっと大きくしてください。壮大な夢
「身口意(しんくい)」という言葉があります。身とは行動。口とは言葉。意とは思考(知恵)。自分の持っているものを他者の為に出すこと。いわゆる他者支援のことです。ボランティアとか、お布施ともいいます。人を助けることはお金だけではないのです。私は「言葉のお布施」で支援していきたいと思います。言葉のお布施
『賢い人は金持ちにならない』つつましく生きて、決して威張らない。たくさんの財産を持たず、世の中で贅沢をしないのがいいことだ。昔から賢い人で金持ちになったような人は滅多にいない。(徒然草・第18段)吉田兼好は中国の昔話にある「清貧の生き方」をしている人を2人紹介している。許由(きょゆう)という人の話。彼は財産も道具もないので、手で水をすくって飲んでいた。それを見た人が気の毒がって、ひょうたんをくれた。しかし、彼はそのひょうたんが風に吹かれて立てる音がうるさいと捨ててしまい、前のように手で水をすくって飲んでいた。二人目は、孫晨(そんしん)という人の話。彼は冬でも掛け布団がない。ひと束のワラの上で眠り朝に片付けていた。吉田兼好はこの二人に対してすがすがしいと賛辞を送っている。「自分にとって必要なもの以外は持たな...清貧の生き方
コマーシャルで「消しゴムはものを消すものでなく、周りを照らすものだ」そんな言葉かな。色彩学の用語に捨(す)て色があります。ある色をひときわ鮮やかに見せたり、より効果的に印象付けたりするために使う目立たない色のことです。ベーシックカラーといいます。すべての色が、自己主張をしていては、お互いの良さを消してしまいます。目立つ色に比べると、その存在に気づきにくいことはあります。しかし、なくてはならない色の事を捨て色といいます。ここでも皆様の捨て色に徹しようと思いますす。ありがたく感謝しています。捨て色
「この世の美しきもの天の月と星、地の花、人の愛、そして神の匂い。これ神からの贈り物なり。」(私)子どもの心のように純粋でいれば神の声や匂い(聖霊匂)までも感ずることができます。神が近づくと地から湧き出るように何千種類の花の香りを合わせた重厚な香りがします。神社仏閣でも神様の香りを感じる子どももいるでしょう。大人も子どもの心を持てば感じます。いろんな意味で気づきになれば。神の匂い
「君は苦しむために生まれてきたんじゃない。苦しみから抜け出し生きることの素晴らしさを知るために生まれてきたんだ。苦しみの中に喜びがあるんだ。人生はイチゴの味さ。」(私)甘酸っぱい味がする。だから皆イチゴケーキが好きなんだ。イチゴの味
今年良く感じる言葉があります。「愛しなさい」という言葉です。「愛せなければ、通り過ぎるしかない。愛するならば、生き方を伝える必要がある。」(私)喜びに満ちている人にはあまり神を必要としません。心に悩み苦しみを抱いている人には助けやアドバイスが必要です。私は神の愛を感じています。この愛を届ける使いになりなさいと。皆様にも注がれている神の愛を強く感じるようになりますようにと祈っています。ここは生きる力が湧く「愛の泉」です。ひと休みしてまた歩み始めてください。愛の泉
もうすぐ私の出番だ!観客がたくさん待っている。暗くなったステージにスポットライトが私の前を照らした。それに導かれステージ中央に立った。私の自作の歌「隣り合わせの花」を歌った。みんな泣いていた自作の詩を披露した「永訣の日」を歌った。拍手喝采浴びステージを去った。舞台裏に来たらたくさんのスタッフからお疲れ様の言葉を掛けられた。ありがとうとみんなにお礼して回った。目が覚めた。みんな亡くなった人達だった。懐かしくて嬉しかったありがとう。まだ皆とつながっているのだね。勇気がでたよ。舞台裏
「両親を幼い時に亡くし、祖父母に育てられ体が不自由で寝たきりの私(女性)にも未来はあるのですか?」というメールを頂きました。本当に苦しい日々を送っていると思います。私はこの世もあの世も続いていると思っています。いずれ両親とも好きな人にも会うことができます。また、あなたから生きる力をもらっている人もいます。「苦しみ悲しみを背負う人は皆の代わりになっている。広島、長崎の人は平和の為に世界の代わりになっている。」(マザー・テレサ)赤い花は赤く咲け白い花は白く咲け青い花は青く咲け花は自分の色で咲くありのままで生きる姿は何よりも美しい。自分らしく今を生きてください。生きる力になれば。皆の変わりなんだ
「つひに行く道とはかねて聞きしかときのふけふとは思はざりしを」(伊勢物語・在原業平)死というものは誰でも最後に行かねばならない道であるとは前から聞いていたが、昨日今日にさしせまっていたこととは思いもしなかったなあ。私は駿河路にある高草山(1000m)の麓に住んでいた時に、雪が降る前にと登山道ではない道なき道を登ってしまった。昼なお暗く完全に道に迷ってしまった。その時、雅楽の笛の音が聞こえてきました。その人に道を聞こうと歩きましたがいっこうに縮まらない。美しい笛の音は急坂なのに乱れない?すると山道に出たのでした。そこにあった碑が在原業平の句でした。江戸に赴任となり残した妻に京都に行く知り合いの僧に出会った場所。僧に妻への手紙を託したのでした。あの笛の人は在原業平に違いないと手を合わせてお礼しました。在原業平との出会い
「悲心(ひしん)」という言葉があります。真心をもって一人の本当に苦しんでいる人を救うことは、大地のように大きい。どんなに多くの星が輝いても、その光りは一個の明月の光りにおよばない。「悲心」とは「深い思いやりの心」のことです。自分で味わった苦しみ、悲しみの体験を、人には味わわせまいとする真実の思いやりの心のことをいいます。自分が体験した悲しみを他人には味わわせたくないという心。その温かい心で他人の苦しみを少しでも軽くしてあげることを「悲心抜苦(ひしんばっく)」といいます。母親のような心。お地蔵様、観音様、聖母マリア様を感じています。悲心の心、大切にしたいと思います。悲心抜苦
歴代首相の指南役で漢学者、「平成」の元号の発案者といわれる安岡正篤(やすおかまさひろ)はこういっています。「歴史は繰り返す。たいていのことは古典の中にある。何千年もたっているのに、人間そのものの根本は少しも変わっていない。自分が創意工夫し真理を発見したと思っているが、それは大変な錯覚で、すでに古典にのっていることを知らないのだ」。私も人生の迷いがあったときは、古典を読み救われていますからこの言葉に同感しています。人の悩みは万葉の時代と何にも変わっていないからです。徒然草より「どんなに複雑な心境の時も、月を見つめていれば心が落ち着くものだ。ある人が、月ほど面白いものはないと言い、別の人が、露(つゆ)のほうがもっと素敵ですよと言って争ったのは興味深い。どんなことだって素敵に変化していくのだ。風もいいねえ。水も...喜寿
人間が持っている「業(ごう)」とは、欠けているものを埋めたいと思う強い欲望やないものに対する不満をいいます。男性は出世欲、金、名誉等。女性は美貌、宝石や衣裳、愛情等。手に入らない苛立ちや思い通りにならない環境に不満、不安、憎しみ、悲しみ、怒りで心を乱します。自ら苦しみを作ってしまいます。反面私はお金はないけど、「健康」という体を持っている。私は美人やイケメンではないが「明るさ」という心を持っている。出世はできないが「安らぎの家庭や仲間」がいる。幸せとは欠けているものを埋めるという欲望ではなく、欠けているものを認めて生きるエネルギーだと思います。ないものを求める「青い鳥」ではなく、あるものを育て、欠けた生き方もあるのです。今の自分を受け入れれば心も安らぐと思います。私はどじで間抜けですが天真爛漫自然児だから...欠けた生き方
【度胸と愛嬌】私のお手本の推移。昔は「男は度胸女は愛嬌」今は「女は度胸男は愛嬌」明日は「女も男も度胸と愛嬌」と書くでしょう。男は位や勲章、戦争を好む。女性にそんな物欲しがる人はいない。度胸とは平和を愛する力です。愛嬌とは子供に優しい心です。その様な世になっていると信じて書きます。度胸と愛嬌
「醍醐(だいご)は最上なり。若(も)し服すること有る者は衆病皆除く」(涅槃経・ねはんきょう)味は最上、しかも服用すればどんな病気にも効く。これから、万能薬のことを醍醐と呼ぶ。また、心から楽しめることを醍醐味というようになりました。(牛乳を煮つめたもので、チーズやバターオイル、ヨーグルトのようなもののようです。)どんな悩みもここに来れば醍醐を味わうことができますよ。醍醐味
美しくすぐれた詩や文章のことを「詞華(しか)」といい華になるのです。言葉のもとは「言の端(ことのは)」と呼びました。事柄の切れ端ということから言の端と書いていたといいます。その後「葉」を当てるようになったのです。今日も皆様の言葉の花束に元気を貰っています。感謝言葉の花束
今日はニーチェの成る程と感じた言葉を紹介します。『矜持(きょうじ)を持て』ほとんどの孔雀は、人前ではその麗しい尾を隠す。これは、孔雀の矜持と呼ばれている。孔雀のような動物でもそうなのだから、わたしたちは人間として、一層の慎みと矜持を持つべきであろう。(221)矜持(きょうじ)とは、自分の能力、誇り、プライドの意味があります。人前では自分の優れたものをひけらかさないで、しまって置きなさい。それが誇りというものだよ。となるのでしょうか。新橋の小料理屋の若い女将が、議員バッチ付けて偉そうに話していたり、周りの人を見下したりしていた客にそんな客はうちでは要らないと追い出しちゃった。正にこんなことかも。一人酒でカウンターで飲んでた僕は、この気っ風の良さに惚れてよく通ったものです。四季のお品書きを書かされてしまいまし...矜持
青草が芽ぐむころ野遊びや野山のそぞろ歩きをすることを古代「踏青(とうせい)」と呼びました。踏むには麦踏み、異国の土を踏む、お百度を踏むのように足に渾身の力を加える精神的な意味合いもあります。幼子と何時までも青春の志を抱いて私達も青き大地を踏みましょう。踏青
「人生は心ひとつの置き所」(諺)人生で失敗してもこれですんで良かったと考えることで乗り越えられるものだ。心の置き所
「老いたる馬は道を忘れず」年をとったものは経験が豊富で、何でもよく心得ているという意味。昔、中国に管仲という人があって、竹を切りに山に行った。春に出かけて、冬に帰ろうとすると道が分からなくなって帰る事ができない。そこで老いた馬はよく物を覚えているものであるから、老馬を放しそのあとについて行ったら帰り道が分かったという。そこで私は「老いたる人は人生の道を忘れず」道に迷ってる人を導く老人になろう。道を忘れず
「苦とは」生きていくこと。老いること。病にかかること。死から逃れられないこと。苦とは誰も逃れることができないことなのです。ですが、私はこの世で苦を癒してくれる力があるのは、神と自然と救いの言葉だと思っています。『わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのみこむことができます』(宮沢賢治・注文の多い料理店)今日を精一杯に生きましょ。コロナの苦を皆で乗り越えたのですから。朝陽を飲みましょう。朝陽を飲む
人は煩悩に引きずり回されて過ちを犯してしまう弱い心を持っているものです。悪い事をしたらすぐに懺悔しなさいと神は教えています。親鸞上人(しょうにん)は有名な変な言葉を残しています。「善人(ぜんにん)なおもて往生(おうじょう)をとぐ。いわんや悪人(あくにん)をや」と言われました。善人でも極楽へいけるのだから、悪人はなおさらのことだ。変だな、逆じゃないかと感じませんか。善人とは、自分は過ちなどしないと思っている人。悪人とは、自分はすぐに過ちをおかしてしまう愚かな人間だと自覚している人の事です。小話に善人の家は争いばかりで、悪人の家は争いなど起こらない。というのがあります。善人の家は、みんな自分は正しい!悪いのはあんただ!といい争っている。悪人の家は、みんな自分が悪い、いや私の方が悪いというので争いにならないとい...懺悔
「伸びるとは地上だけではない地下に根を生やすことも伸びるというのだ」(私)地震に強い竹は地下に根を生やしている。地下で伸びたものが地上で強く育つことを忘れずに。伸びる
「筋肉を鍛練すれば手足が丈夫になる。生き通す信念こそが生きる力を強くする。」(私)生きる力
「青春とは70過ぎた時にやって来る。笑」(私)本当に自分のやりたかった事ができるから。神がくれた体に力をつけてまた外に出よう!神がくれた青春を楽しもう。青春とは永遠なり。(病院の待合室で)永遠の青春
私たちは常に心の波風とともに生きています。ときには嵐のように吹き荒れることもあるでしょう。世の中には思い通りにならないことはたくさんあります。思い通りにならないことがあるときこそ、他者を思いやり、これまでに受けたご恩を思い出して、周りの人や社会にお返しする気持ちを持ってみましょう。思いやる気持ちは心に平和をもたらします。これを「慈悲心」といいます。今までは自分に余裕がない時は人の悩み苦しみなど構っていられないと思っていました。しかし、それは神様から試されているのだと知ると、心に余裕が出て来てすべてが好転するのに気づきました。私への自戒の言葉です。一言大丈夫?の声掛けしてみましょう!心の波風
「人間の弱みは一人では生きていけないところ。人間の強みはお互いに助け合うところ。人間は神ではないから助け合うことで神の力を得るのだ。」(私)災害にあった人たちを自分のこととして、皆で助け合う心が神の力になるのです。世界の手本になるのです。神の力
「恋衣(こいごろも)」二月のお手本のひとつです。恋をしている人を優雅に言い表した言葉です。身も心も舞い上がってしまいそうな衣。「恋は来い」自分のそばに来て欲しい!こっちへ来い!そんな気持ちが恋なのです。冷めて恋衣を脱ぎ捨ててしまわないように。私は着飾らない普段着の者同士がいいですね。恋衣
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「旅に出よう人生の旅へその道は遠いそして気づくだろう自分自身の心の故郷に向かっていることを誰が風を見ただろう人生の風も見えはしないけれど草や木々が頭を下げるとき風を感じる人生の旅も感じるものだ魂よ故郷に帰れ。」(4年前弟への追悼文)私も死んだら故郷に帰ろう。それまでは旅人でいよう。私の旅は終わりのない旅だから。旅人
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。改心の情
ここにいる人達は生きる力を授かり、命のリンク(絆の輪)を持つのです。悩める人達を救いましょう。(私の天使より)命のリンク
私達の体はボディ、スピリット、マインドの三つからできています。ボディとは肉体、スピリットとは魂、マインドとは心。肉体と魂が活動するときに味わう感情、思い、感覚などを感じる機能をマインドといいます。心が穏やかな気持ちでいるとき、心は大きく開いています。これを心理学では「オープン・ハート」と呼ぶそうです。心を開くと物事に対して、優しい気持ちで接し、たくさんの事を受け入れる事ができるといいます。反対に憎しみや、恐怖を感じているときは心を閉じてしまいます。心を閉ざすと益々憎しみが増大してしまいます。オープン・ハートに一番大切なことは愛の注入といいます。愛は無限の力がある。愛されてる貴方はオープン・ハート!愛の注入
毎日お別れする人が続いています。なぜでしょうか?「桜咲き花散る里に帰ろうか」そんな気がしました。皆さん全身の病と戦っていたのですね。最後まで書道を楽しみにしていた顔が忘れられません。書道教師と介護士と言葉の伝道師をしていて良かったです。お別れ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
ここは良い言葉が満ちています。「良い地(心)に落ちた言葉は実を結びます。しかし、悪い地に落ちた言葉は根も実もつきません。」(天使からの声)良い言葉からすぐ身をひかせる悪魔の天使が来てしまうと地ではなく岩に落ちてしまうのです。どうか良い地に落ちますように。実を結ぶ
「万法帰一(ばんぼういちにきす)」苦しみや悲しみは絶対に続かない。という意味です。本当に辛くても辛抱していると周りが助けてくれるものですね。不思議と実感しています。苦しみ悲しみ
「人と神が出会うのは苦難に耐えている時」(私)神はいつもいるわけではない。困って苦しんでいる時に神は現れるものだ。昨日は神の存在を知った。奇跡のような事をしてくれた。感謝しています。神の存在
川面(かわも)の月。ゆったりと大河を流れる川。急流になって谷間を流れる川。月は流されずいつも川面に映っている。月はあなたの心です。流されることのない不動の心あなたはあなたでいいのです。(私)どんな世間の波がたとうとも、自分は流されない不動なのだ。あなたはあなたなのだから。少しの波でも心動揺する私です。こうなりたいと思って日々努力しています。川面の月
「道に迷うことこそ道を知ることだ。」(東アフリカの諺)「人生に迷うことこそ人生を知ることだ。迷わぬ者に悟りはない。」(私)本当に迷ってばかりです。申し訳ない。迷う
日本でつくられた言葉に「躾(しつけ)」があります。身につく美しさと書いて躾。長い間の行いで無意識に身についた姿をいいます。日本人の美意識です。世界に誇れるひとつです。ここもそんな美意識を育てています。躾
一昨日看取りの人が亡くなった。水だけを良く欲しがっていた。イエスも十字架で「私はのどが渇いた」と発言されたことを知りマザーテレサは泣いたといいます。たしか、誰か布にワインを湿らせて唇に付けたと聞いた。そこから浮かんだ言葉です。「渇いた者へ」生きるのに渇いた者はここに来なさい。誰でも心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになるから。(私の天使の言葉より)渇いた者へ
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所もまほろばという安らぎの場所です。まほろば
「仏教は二利(自利、利他・じりりた)に尽きます」(空海)唐留学から帰国した際の空海の報告書の言葉です。自分が修行して、悟りを得ること(自利)と、他の人の救済のために尽くすこと(利他)の二つを完全に行うのが理想で、自利と利他は相反するものではなく、大きな輪のようにつながっているのです。自分の幸福も他人の幸福も一つの輪の中にあると述べています。宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と述べています。ボランテイアや介護現場では、人を手助けすることで、実は自分が救われていたと気づくものです。幸せを考えたくなったら自分にできる「利他」の行いからやってみて下さい。空海の言う自利利他は幸福の始まりのキーワードです。幸せのキーワード
あと数日の命。看取りの可愛いおばあさん。神田の生まれと自慢していた。しかし、母親からいつもあんたはぐずだと叱られてばかり。妹はチャキチャキの神田っ子。私はだめだ。何やってもノロマ。今何考えているの?「いい思い出ばかり思い出しているよ。」僕なんかいい思い出なんてないよ。「私もそうだよ少ししかないいい思い出を何度も何度も思い出しているよ。」そうなんだね。だけどね悪い思い出もいい思い出になるんだよ。だからすべて思い出していいんだよ。「そうだね」と笑ってくれました。(もうすぐお別れだね)いい思い出
朝の散歩中に竹やぶからうぐいすの鳴く声がしました。平安時代前期の『古今和歌集』より、『世にふれば言のはしげき呉竹(くれたけ)の憂(う)き節ごとにうぐいすぞ鳴く』憂(う)き節とは辛いこと、悲しいこと。長く生きていると、いろいろと嫌な事が聞こえて来て、そうした、辛い折々を嘆くようにうぐいすが鳴いている。(詠み人知らず)今でも同感する歌です。古代の人も同じように感じて過ごしていたのだと分かると自分だけでないと元気が出ます。私は竹の節を人生の節と呼んでいます。この節が強い竹を作っているのです。人生もそうです。辛い節目があるから強くなっていくのです。異動で明日から職場を離れる人からの相談を受けました。新たなチャンスだと思って前向きにいけば次のステップアップになると励ましました。勇気が出たと帰っていきました。皆様も人...うぐいす
人は重荷を背負って坂道を行くがごとし。(徳川家康)私は毎日10キロのリュック背負って出掛けてる。墨や絵筆や半紙が結構重いから。50年続けたら120トン。「私の人生120トン雨の日も長靴はいて120トン雪の日も足跡残して120トン風の日も帽子飛ばされ120トン心の重さだ120トン泣いて笑って120トンソーレソレソレ120トン」120トン
古典の中に、「静中の静、楽処の楽は真実ではない」という言葉があります。静かな環境の中での、静かな心は本当の静かさではない。騒がしい環境の中で、心を静かにすることができて始めて本当の心境という。また、楽しい環境の中での楽しい心は本当の楽しさとは言えず、苦しい中で心を楽しくすることができて、本当の心境だと言えようという意味の言葉です。皆様も今までの自粛生活の苦難の中でも小さな楽しみを見つけて来ましたね。私は物を補修する楽しみを見つけました。苦しい、悲しい、体中痛い毎日の中で楽しみを見つけた時、この言葉が浮かんで来ました。苦中の楽
「人間は死を約束された動物である。人は死んでもその人の影響は消えない。自分は何を残せるだろうか。」聖路加病院故日野原先生生きる力になる言葉をたくさん残した!と自信もっていいましょう。何を残すか
「大和(やまと)は国のまほろば、畳(たた)なづく青垣(あおがき)、山籠(やまこも)れる大和し美(うるわ)し」(日本書紀)大和は国の中で一番良いところである。幾重にも重なりあった青い垣根のような山々に囲まれた大和は本当にうるわしいところであります。「まほろば」とはすぐれた良いところのこと。また、その人にとってかけがえのないこの世でただ一つの気持ちが安らぐ場所や心の中という意味があります。皆様といるこの場所も、まほろばという安らぎの家でありますように。まほろばの家
蛍は遠い故郷を思い出させてくれます。ある古典の中から素敵な言葉を思い出しました。《恋の蛍》です。「あまひこよ雲のまがきにことづてん恋のほたるは燃えてはてぬべし」(平祐挙・たいらのすけたか)「恋にこがれて鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身をこがす」鳴かない蛍は光ることで想いを表し、まるで身を焦がしているようだ。なんと素敵でロマンチックな言葉でしょう。私なら「燃え尽きて夜空をこがす遠(とお)花火鳴かぬ蛍も身をこがす」遠くに見える花火は音は聞こえないが夜空を焦がしている。暗闇を音もなく1匹の小さな蛍がほんのり照らす姿は秘めた思いで身を焦がし、みんなの願いを叶える光明蛍のようだ。私もそんな蛍になろう。蛍になる
今朝の新聞記事より、日本外科学会定期学術集会の「人にない武器をどう身につけるのか?」というテーマに特別講演を行った元プロ野球選手の松井秀喜さんは元巨人監督の長嶋茂雄さんから誰にも負けない素振りの武器を作ってもらったと披露して、医療関係者1500人を沸かせました。私の武器は誰にも負けない鈍感でドジ。努力しなくて身につけた。皆様の武器はどう身につけましたか。あなたの武器は
「道とは遠くからははっきり見えるけれど近づいたら消えた幻のようなもの。」「晴れた天気に外に出たら急に雨が降る。喜びの歌がまだ終わらない内に悲しみの歌が聞こえて来る。それを道と呼ぶのだ。」(私)退院して来たお年寄りを喜びの拍手で迎えた。その時、心臓が苦しいと、救急車で搬送されたおばあさんが亡くなった。「喜びも悲しみも同時にあるのが道なのだ。」すべてが幻のように去っていく。今の時期を「土(つち)休み」という。春の花が枯れたから、夏の花を植えましょう。土を休めてから。素敵な言葉です。土も生きているのだ。仕事を変える時、迷った時、人も休みましょう。ひと(人)休みひと休み。土やすみ
万葉集に「涙で曇り目も見えぬ」という歌がたくさんあります。空の雲でなく、目の雲を指しているのです。日本人は涙好きな国民と言われています。涙の語源を調べると、「な」は泣く。「み」は水。「だ」は垂れる。泣くと水が垂れてくる。そこから、涙ができたようです。「瞳の中にも空がある澄みきった空がある晴れ渡った空がある時折涙雲になり涙の雨が降るそのあとはまぶしい空がやってくる涙雲のあとは瞳の空が晴れ輝きを取り戻すのだ。」もう少ししたら晴れますから頑張りましょう。泣いてるあなたへの励ましの言葉です。涙雲
仏教の目的は『成仏』。すなわち「仏に成る」ことです。その方法の一つに「行い」「言葉」「考え方」という三つの活動において、仏さまの真似をするというものがあります。「皆が手伝ってくれたから無事に行事ができた」とか、「落ち込んでいた時に掛けてくれた言葉で頑張れた」とか、「上司の冷静な考え方があったから、窮地を乗り越えられた」といった経験ありませんか。「みんなが健(すこ)やかになれる」ような活動を通して、私たちは少しずつ仏さまに成っていきます。「行い」「言葉」「考え方」のどれか一つで結構です。「こんなとき仏さまならこうするんじゃないかな」そんなことを意識してその日を送ることができたならば、その一日はいつもと少し違った一日になるかもしれません。(真言宗・長寿院住職)素敵な説法ですね。このお話の根本にあるのは、思いや...神の子
14日間飲まず食わず。最期に残した言葉。耳元で『良く頑張ったねお疲れ様僕のこと忘れないでね』すると「忘れぬものか」と言って亡くなりました。この言葉を発する力に感動して涙が出ました。「生涯最期の言葉」皆様と共有しましょう。ありがとうの言葉返しで。忘れぬものか
「命は鉛筆さ思い出書き残して減っていくんだ」「体の重さはみんな違うけど命の重さはみんな一緒魂の重さだって一緒なんだ」「母さんがいない里帰りはつまらないふる里って母さんのことなんだ」「人に言えない苦労が本当の苦労さそれがあったから今の自分がいるんだな」「幸せって苦労した分しか来ないんだよ」「泣いた涙は人を思う優しさになるんだね」「死ぬことは誰かの心に生きることなんだ」皆さんもいろんな悩み抱えているでしょうね。みんな一緒ですよ。心配しないでお互い力あわせて生きましょう。私達がそばにいますからね。そばにいるよ
あわてるな、落ち着きなさい。という意味の「且緩々(しゃかんかん)」。若いお坊さんが、師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったら、「且緩々」と言われた。『どの道も、急いで極めることはできません。まずはお茶でも飲んで落ち着きなさい』。という時に使います。人生も同じです、ふと立ち止まって、これで良いのかとゆっくり考える時間が必要ですね。「且緩々」緊張した人を見たらこの言葉を掛けてみましょう。まずは一服
昨日緊急出勤のため7:00に家を出た。道路から離れた道をチャリで行くと竹やぶが燃えているのを発見。人がいるようないないような?風が吹く朝、すると消防車がやって来て道路に止まり隊員があたりを走り始めていた。私は掛けより竹やぶが火事と伝えた。わき道の奥だから分からないと思ったから。私はその場を去った。帰りに現場に行ったら竹やぶが綺麗な更地に変わっていた。地面は水の跡が染み込んでいた。きっと誰かがたき火(焼き畑)をして竹やぶに火が回り通報したのだと思った。外車の並ぶ販売店の裏だから大事にならないで良かったです。神のお告げか不思議な火事
「神の国は君たちの中にあるんだよ」(聖書ルカ17-21)神の国はいつ来るのかとパリサイ人に尋ねられた時、イエスは答えて言われた言葉。神の国とは、神の思いが実現するところ。それは、夢のような特別の場所にあるのではなく、私たちの中にもうすでにあるんだよ。苦しむ人、悲しむ人、助けを求める人に自分ができることをしていくこと。お互いのあやまちを許し、受け入れてそれぞれみんな中にいる神の存在に気づくこと。その時そこにもう神の国はあるんだよというメッセージです。空海も同じような事を言ってました。「仏は外にいるのではなく、丹田(たんでん)にいる」と。丹田とはへそ下で気力が集中する所です。神の国はあなたの中にあるのです。神の国
施設のカウンターに飾られている日本人形。彼女が私がケアマネになって戻って来たことに感謝している夢を見ました。「私の頭にかぶせている帽子は可愛いくないから取って欲しい!」翌日行ってとりました。笑ってくれました。髪を撫でると願いが叶うと教えてくれました。足元にそれを書きました。誰かが撫でたのでしょうか?髪が茶色になったり、前髪が数本伸びてきました。気のせいかな?魂が宿っている人形です。不思議なことだと感じて報告しました。みんな導きで今があるのだと納得して受け入れましょう。少しは気が楽になりますように。導きの今がある
今年も桜が咲いて私達を楽しませてくれました。桜の絨毯ができました。川面には花筏(はないかだ)となって桜の花びらが流れて行きました。「散る桜残る桜も散る桜」(良寛)咲こうとも散ろうともどんな桜も愛すべき桜なのです。桜を命に変えると「散る命残る命も散る命」どんな命も愛すべき命なのです。桜は痛み苦しみ乗り越えて精一杯生きよと教えています。残る命を精一杯生きましょう。残る命
再び皆様へ「刃物は物を切る言葉は心を斬る暖房は体を温める言葉は心を温める薬は病を治す言葉は全てを癒す言葉は生きる勇気の道標(みちしるべ)しかし、沈黙と傾聴を忘れてはならない言葉の力信じて共に歩もう。」言葉の力
この時期、樹木希林さんの会話を思い出しました。「死ぬときぐらい好きにさせてよ」「生きるのも日常、死んでいくのも日常」晩年の希林さんがたどり着いた境地に「うらを見せおもてを見せてちるもみぢ」(良寛)「裏から始まるところがすごい。年や経験を重ねても、人間は表裏を持ち続けているという本質を見抜いた人の句ね。こうありたい」また、良寛の次の句も好んだ。「散る桜残る桜も散る桜」誰にも等しく訪れる死に、人は一喜一憂するが、終わりが決まらないのに、そこに至る生き方が定まるわけがない。という意味に「そう考えると心強いわね。でも、死ぬことは誰かの心の中で生き続けることなんじゃないかしら」お釈迦様の弟子の一人に提婆逹多(だいばだった)がいる。釈迦にたてつき、困らせるので、みんなが彼を遠ざけた。だが釈迦は「役立つ人だけがいいので...生と死
古い言葉の教えに「四体の心」があります。一体の心に「惻隠(そくいん)の情」がある。「惻隠」とは、不幸な人をみて、痛ましい、気の毒だ、可哀想だと思う心のこと。二体の心に「羞悪(しゅうお)」がある。間違った言動を恥ずかしいとする心。三体の心に「辞譲(じじょう)」がある。人にへりくだり、謙虚に振る舞う態度の心。四体の心に「是非」がある。善悪を冷静に判断できる心。この「四体」の心をもたない者は、頭、身体、手、足のないのと同じである。この言葉に自信があると答える人はそうはいない。私はすべてが充分できません。いつも過ちを神に謝罪しています。もっと相手の気持ちにならねばと。そこで、常に「改心の情」を抱きなさいという教えだと思います。自戒の言葉にしています。四体の心
「人は神によって生命を与えられ、あらゆる人の愛を受け育まれる。」しかし、「人間は愚かな生き物。日々誘惑に惑わされ、悪や欲に染まってしまうこともある。そのまま悪の道を行く人もいる。」「弱い人間は日々我を顧み生んでくれた神に喜ばれる生き方をして終わりたいものだ。」(自戒の言葉)誘惑の罠
人生は順風満帆ばかりではない。明日の希望もなく苦難の日々ばかりで、逃げたくなる事もある。「成長とは華やかな地上だけではない。地下にだって根を生やす事も成長というのだ。」足踏みしたって、かかとは減るのだから。いま辛い人は地上に出る前に、強い根を生やしていると思えばいい。私は人生の2/3はそうだった。地下の女神が見守っていますよ。地下の女神
「無事に生きる」という言葉があります。禅語では不要なことに振り回されないこととあります。不要とは「三毒」のことです。1.何でもむさぼるように欲しがる欲望。2.ささいなことで怒ること。3.道徳心や常識にかけた愚かさのこと。この三毒を出せば何事にも振り回されなくて、無事に過ごせると説いています。皆様には関係ない言葉ですね。三毒
いろんな事情で急に亡くなった方の魂に語ります。「はかなく突然に散ったとしても大切なのはどんな夢見続けたかです。夢は散った後も生き続けると信じるから。決してあなたのこと忘れません。安らかにお眠り下さい。そして、私達を見守って下さい。」近くの小学生の女の子がトラックにはねられ亡くなりました。その子に送ります。夢は続く