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探 三州街道  https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探

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2015/09/23

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  • 匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4)

    匝瑳の善龍寺?匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。さらに深堀する・・寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。しかして、開基であるが、・・・こ...匝瑳の善龍寺?(茂林寺4)

  • 「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

    「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」茂林寺:3(転記3)「保科御事歴」によれば、~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~>・保科正俊:永正8年(1511)-文禄2年8月6日(1593/9/1):異説・生:1509-没:1593年:正俊:保科正則の子:法名・月眞:>・保科正則:法名祥雲院殿**榮壽***・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。保科正則:法名祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)「天正十九年...「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」茂林寺:3(転記3)

  • 「消えた槍弾正の墓の行方探し?」 茂林寺 :2 (転記2)

    「消えた槍弾正の墓の行方探し?」茂林寺:2(転記2)さて、本願・ここに来た理由は、下記の文を目にしたからに他ならない。参照:----・天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。それぞれ上州館林の茂林寺や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わって・----・保科正則夫妻の墓飯高法華寺:▲大乗山法華寺の保科正則夫妻の墓・----(toKAZUSA)本当に、保科正俊」の墓が、茂林寺にあるのだろうか?と来てみたわけである。内藤昌月父子は、厩橋(高崎)の箕郷、--・箕輪城からも、保渡田城からも、案外遠い館林の地・・ここで、歴史好きにはある程度メジャーだが、普通は「知る人ぞ知る」ぐらいの「保科正俊」について概要を説明しておく。興味の薄い人は、・・ままに。保科正俊は--...「消えた槍弾正の墓の行方探し?」茂林寺:2(転記2)

  • 茂林寺 :1 (転記1)

    茂林寺:1(転記1)「蝶々の婦ハリととん多茶釜哉」一茶・・・>「蝶々のふわりと飛んだ茶釜哉」茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそ...茂林寺:1(転記1)

  • 雑記:保科正則と正俊 覚書:Ⅰ

    雑記:保科正則と正俊覚書1~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~しばらく、命題のテーマを休んでおりました。新たなる”史実の発見”がなかったこともあり、その時代の、「荒川家、保科家の周辺」の諏訪家や小笠原家の理解を深める作業を少し続けていましたが、違う方面が忙しくなり、忙しさにかまけて、”命題”の方は休んでおりました。ある時、北信濃・長野・若穂保科に”延命寺”という寺があることを知り、この開祖のことを知る機会があり、開祖保正の遠祖は、諏訪・長久保から北信濃・保科の里へ流れた、と記載されています。しかし諏訪には長久保という地籍は、調べたが、昔も今も存在しません。しかし、伊那・箕輪の北限の小河内の隣に久保という地籍は存在します。小河内は、おそらく保科正俊の室・小河内美作守女の出身...雑記:保科正則と正俊覚書:Ⅰ

  • 豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

    豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について参照:「再び、伊奈忠次の出自を追う。易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。」押すとコーナーが参照できます佐原諏訪神社(借用)以下の文章は、頂いたコメントに対しての私の考え方です。長くなったので、ブログ本文に掲載します。くましろ=神稲代、神稲の意味は、どこかで読んだ覚えがあります。明治五年、付近の数村が合併し、「神稲」の村名が選ばれたときの由来が気になっていました。・田村,林,伴野,福島,壬生沢の5つの村が合併してできた村名です。・しかしその中にもともとに江戸以前から使われていた「神稲」の名前はありませんでした。・「神稲」という意味深な名前が突然出てくるとは思えません。・なにか、その地方に伝わる呼び名があるのではないかと疑っておりましたのですが・・その一つが、神社の神領(荘園)です...豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

  • 小笠原家と六波羅探題

    小笠原家と六波羅探題六波羅探題の成立六波羅探題の成立は、「承久の乱の戦後処理」の必要から生まれた。したがって、時期は承久三年(1221)のことである。背景は、「承久の乱で、「後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった」。とはいえ、西国の豪族の勢力が、完全に削がれた訳ではなかった。何か事あらば、西国の豪族が、朝廷側と連絡を取りながら反抗に出ないとも限らない。承久の乱の戦後は、混乱のさなか、このような気運がかなり残った状況であった。そこで、「幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴める白...小笠原家と六波羅探題

  • 松尾小笠原宗家の創立まで 第九話

    松尾小笠原宗家の創立まで第九話:だいぶ休んでいましたが再開します。ただし、このシリーズは今回で終了になります。:ここでは、小笠原家の初期の信濃における、とりわけ南信濃での”ポジショニング”を明確にする作業をしてみたいと思う。・まず初期の定義だが、七代貞宗は「信濃守護」として各種古書に記述が多いことから、曖昧な期間、長径(初代長清の子)長忠、長政、長氏、長宗(貞宗の前代・父)までとする。・1:この間の経済的基盤の地頭などの背景、・2:この間の地方自治としての税務・警察機能、・3:この間の隣接国への治安軍事の機能、・4:この間の幕府との関係性、・・・特に、幕府との関係性は、長宗・貞宗をもって鎌倉幕府との関係を清算し、貞宗をもって、室町幕府との関係を創出する。この関係は、足利尊氏との”盟友”の関係として特筆される。・...松尾小笠原宗家の創立まで第九話

  • 松尾小笠原宗家の創立まで 第八話

    松尾小笠原宗家の創立まで第八話松尾館と松尾城小笠原家の松尾館は、小笠原長径が隠棲して住み、以後松尾小笠原家の当主が住んだ館である。従って、松尾小笠原館の当主は、小笠原長径小笠原長忠小笠原長政小笠原長氏小笠原長宗小笠原貞宗へ続く。・小笠原長氏の時、佐久・伴野家が「霜月騒動」で没落し、小笠原宗家が松尾小笠原家へ移る。以後、松尾小笠原家が、小笠原宗家になる。・小笠原長宗の時、「建武の新政」で足利尊氏が鎌倉幕府を倒す。小笠原長宗、貞宗親子は、六波羅探題の信濃武士を束ねており、尊氏の要請で六波羅探題を、鎌倉幕府側から尊氏・後醍醐天皇の側につけて京都を制する。以後、小笠原長宗、貞宗親子は足利尊氏の盟友ととして活躍。・小笠原貞宗は信濃国守護になり、北条得宗家の味方が多い北信の鎮撫として府中(深志・現松本)に戦陣・陣屋を置く。...松尾小笠原宗家の創立まで第八話

  • 松尾小笠原宗家の創立まで 第七話

    松尾小笠原宗家の創立まで第七話小笠原長政:長忠の子・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。小笠原長忠、小笠原長政のことは資料が乏しく、考証しようにも手立てが思いつきません。確認してきたのは、小笠原に残る家系図と小笠原家から幕府に提出されて作成された寛政譜のみです。真偽のほども小笠原家系図だけで、小笠原家の当主として”名前”だけの記載になります。群書類従にも、小笠原家の系譜の記載があります。こちらを確認してみましょう。長忠の項:長径の子・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。・建保二甲戌二月十二於祖神社壇...松尾小笠原宗家の創立まで第七話

  • 松尾小笠原宗家の創立まで 第六話

    松尾小笠原宗家の創立まで第六話ここで、小笠原長径、長忠が、阿波国守護として阿波に居着いてしまえば、松尾小笠原家は生まれてこないことになります。ここでどんなドラマがあったのでしょうか?承久の乱の時、小笠原長径は43歳、父・長清は60歳、長男・長忠は19歳、次男・長房にいたってはまだ8歳です。・小笠原長房:生・没(1213-1276)(阿波国守護)・小笠原長忠:生・没(1202-1264)(豊松丸、又次郎、兵庫助、信濃守)・小笠原長径:生・没(1179-1247)(弥太郎、入道,阿波国守護)小笠原長径の生涯の再確認比企の乱までは、前文参照:建仁三(1203)年、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。承久三(1221)年、...松尾小笠原宗家の創立まで第六話

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