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  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会安房小湊内浦「安房」小湊小湊は、日蓮上人誕生の地で、上人に由来する、様々な場所がある。中央左上に一際大きな建物が見えるが、これは上人誕生を記念して建立された誕生寺である。画面中央で......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 伊豫

    「伊豫」西条西条は、松平家が藩主となり明治までの200年間、松平3万石の城下町として栄えた。図では、中央左に三層の城が建ち並んでいるが、実際にはこのような立派な城ではなく、陣屋のような規模のものだった様だ。背景に一際大きく描かれている山は、標高1982mで西日本最高峰の石鎚山である。画面手前に帆を描くことで、舟からの景色であると想像できると同時に、西条までの遠近感を表現している。六十余州名所図会伊豫

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    六十余州名所図会江戸浅草市「江戸」浅草市浅草寺の境内で行われた歳の市の様子を描いている。歳の市は、毎年12月17、18日に行われ、注連飾りや蓬莱飾物などの年始の準備品が売られている。六十余州名所......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 讃岐

    「讃岐」象頭山琴平山は、象の頭を模したような形態から象頭山と呼ばれる。琴平山の山腹には、金刀比羅宮の社殿が建ち並び、伊勢参りと同じように一生に一度は金比羅参りをしたいと言われるほど有名な場所であった。本図では、山登りをする旅人が描かれているが、白装束の参詣者がいることから金比羅参りの一行であると想像できる。六十余州名所図会讃岐

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    六十余州名所図会武蔵隅田川「武蔵」隅田川現在では積雪が珍しい都心であるが、『江戸名所花暦』(1830年)には、隅田川は雪の名所として記されている。本図では、一面の雪景色に青く澄んだ隅田川が栄える......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 阿波

    「阿波」鳴門現在の鳴門海峡は、1985年に開通した大鳴門橋により、難なく淡路島へ行くことが出来る。本図では、鳴門の大渦を描いているが、当時からこの地域の海流が激しかったことが分かる。この大渦を表現する為に、葛飾北斎の『冨嶽三十六計神奈川沖浪裏』を参考にしていると言われている。六十余州名所図会阿波

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    六十余州名所図会相模江之嶋岩屋ノ口「相模」江之嶋岩屋ノ口江ノ島は、相模湾岸の境川の河口にあり、境川によって運ばれた土砂でできた片瀬海岸とつながる、満潮時にはこの砂州が水面下に消えた。人々は渡し舟に乗るか、......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 淡路

    「淡路」五色濱淡路国は現在の兵庫県の一部で淡路島と沼島にあたる。五色島は淡路島の西岸、播磨灘に面した津名郡五色町にあり、現在は海水浴場や夕陽の名所として知られている。本図では、五色浜で行われる漁を主に描かれている。漁は海面に張った網を両端から引っ張る振網漁と呼ばれるもので、両端の漁師たちが服の色で分けられているなど漁の様子が描かれている。六十余州名所図会淡路

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    六十余州名所図会伊豆修禅寺「伊豆」修禅寺湯治場修禅寺温泉は、807年に弘法大師が開いたとされる歴史ある温泉である。広重は本シリーズを描く際に『山水奇観』を参考に描いているが、例外的に気に入った......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 紀伊

    「紀伊」和歌の浦和歌浦は大阪に接する和歌山市南部にある。本図では、和歌浦の入江から、遠景の小島までが中心に描かれている。小島は妹背山と呼ばれ、三断橋で内陸と結ばれており、対岸には紀三井寺の拝殿である観海閣と海禅院の多宝堂が建てられている。上空を優雅に飛ぶ鶴は、万葉集の歌人山辺赤人の歌に因んで描かれている。六十余州名所図会紀伊

  • 六十余州名所図会 長門

    「長門」下の関山陽道の西端にある下関は、関門海峡を挟んで九州に繋がる。古くから海上交通の要として機能し、輸送船の寄港地として「西の浪華」と呼ばれるほど繁栄していた。本図でも、停泊中の輸送船とそれを珍しそうに近づく小舟が描かれている。また、中央上の小島は、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をしたことで有名な巌流島である。六十余州名所図会長門

  • 六十余州名所図会 周防

    「周防」岩国錦帯橋周防(すおう)は山口県の東南部にあって防州(ぼうしゅう)とも呼ばれていた。岩国市を流れる錦川にかかる錦帯橋は1673年岩国藩主吉川広嘉によって創建された木造の橋で、1950年の台風で流されるまで実に270年以上も耐え抜いた頑強な橋です。当初架けられた橋が再三流されてしまったことから、強固な橋が必要になり、石造の橋脚を持つ5連アーチの錦帯橋が架けられた。中央3つは懸垂曲線のアーチで、その美しさから観光の名所としても知られる。六十余州名所図会周防

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    六十余州名所図会遠江「遠江」浜名之湖堀江舘山寺遠江は、京に近い湖の琵琶湖「近淡海」に対して、遠い湖・浜名湖「遠淡湖」を指した名称である。最大深度12メートルをこす陥没湖でしかも潮湖であ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 安藝

    「安藝」厳島祭礼之図日本三景の一つである厳島神社の鳥居は、神社と共に足元が海に晒されていることで有名である。度重なる災害に耐え抜き、現在では世界遺産として観光の名所とされている。本図では、旧暦6月17日に行われる「夜船管弦」と呼ばれる祭礼の一幕を描いている。鳥居は三本に分かれた足元の大柱がメインに鳥居の半分だけが描かれ、全体図は想像で補完されるという広重が得意とした手法で描かれている。六十余州名所図会安藝

  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会三河「三河」鳳来寺山厳鳳来寺は、愛知県新城市の鳳来寺山にある古寺で、真言宗五智教団の寺院で建物はあまり主張せず、背後に見える壮大な山々に視点を向けている。特に雲間に隠れる......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 備後

    「備後」阿武門観音堂本図は、福山市の南方、沼隈町にあって、阿伏兎の瀬戸と呼ばれる田島との間にある幅500mの海峡である。潮流が速く、航行の安全を祈願する為に阿伏兎岬の突端に盤台寺が立てられた。画面内でも分かるように非常に不安定な岩肌に建てられている為、それ建物自体も素晴らしいが、観音堂からの景色は絶景と称えられた。六十余州名所図会備後

  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会尾張「尾張」津嶋天王祭り尾張津嶋の天王祭りは、旧暦の6月14、15日に行われ、日本三大川祭りの一つとして賑わった。現在でも7月の第4土曜日に行われ、提灯が飾られた車楽船が......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 備中 豪渓

    「備中」豪渓岡山県総社市の近くで槇谷川の高梁川に合流する地点より上流5kmほどにある豪渓である。激しい川の流れが両岸を侵食し、荒々しく抉られた奇岩を作り出した。行き交う人は物珍しそうに急流を眺めたりしているが、秋には紅葉の名所としても有名だった。六十余州名所図会備中豪渓

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    六十余州名所図会志摩「志摩」日和山鳥羽湊志摩は三重県の東端部に位置し、多くの島嶼と多くの港が雑然と散在する。江湾が極めて多く、船の出入りは頻繁で、左面に見える、答志島・菅島などあって外洋......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 備前

    「備前」田の口海浜瑜伽山鳥居備前の国(岡山県南東部)児島郡にある田の口は日比浦西にある海村で名産の組紐や真田織を売る店が多く並び賑わっていた。田の口より北に瑜賀山があって、此処には蓮台寺がある。瑜賀山下には宿屋が五、六十軒ほど両側に立ちならび、坂路には鳥居等がある。六十余州名所図会備前

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    六十余州名所図会伊勢「伊勢」朝熊山峠の茶屋伊勢と鳥羽の間にある朝熊山は、「あさまやま」と読み、伊勢市南部に位置する山で標高が555mの山頂には臨済宗南禅寺派の金剛證寺がある。伊勢神宮の鬼門......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 美作

    「美作」山伏谷強い風を伴った横なぐりの雨を描き、笠は飛び、天地鳴動の瞬間をとらえている。きつい雨脚を太い条帛のような描写で行い、このシリーズで最も激しい風雨の景を描き、樹木のゆれ動くさまなどにも広重の力量をするどく見せて、気をひきしめる緊迫の画面をなしている。旅人達が雨笠を飛ばしながら行き交う様子を見れば、旅路の重要な場所であったこと、と同時に難所でもあったことが分かる。美作(みまさか)国は現在の岡山県北東部にあたり、宮本武蔵は美作の出身とのことです。六十余州名所図会美作

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    六十余州名所図会伊賀「伊賀」上野伊賀の町は忍者と芭蕉で有名だが、広重も感じ入るところがあったようで本図で名所として描き残している。奥に見える伊賀城に向かって田舎道が伸び、茶屋や橋が描かれてい......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 播磨

    「播磨」舞子の濵舞子の浜は、神戸市の南西部、垂水区にある浜で、海岸を覆う松樹の美しさが有名な場所である。現在では、明石海峡大橋が架橋され昔とは様子が変わっている。本図では、荒々しく伸びた松の木が海岸線を覆い尽くしている。画面中央に人が描かれているが、松と比較するとどれほどの巨木だったかが分かる。六十余州名所図会播磨

  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会摂津「摂津」住よし出見のはま住吉は古くは墨江といわれ、重要な港があった。中央左に綺麗な反り橋が架かり松原から浜に出る人が描かれている。浜には茶屋が並び、住吉神社への参詣の賑......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 隠岐

    「隠岐」焚火の社焚火の社とは、(現在の島根県の隠岐諸島)焚火神社のことで焼火山の頂上近くにあり、古くから舟人の目標となっていた。本図では、焚火神社への献灯の儀式の様子が描かれている。焚火神社は鳥居と参道までしか見えない。右側の帆船は画面に収まらないほど大きく、本シリーズでは最大の船だと思われる。船の舳先をクローズアップし、そこで御幣を左右に振る船子を描いている。六十余州名所図会隠岐

  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会和泉和泉高師のはま元は「泉」という国名であったものを和銅6年(713年)「和泉」となったが「和」は読まず、「いずみ」と読み方は変わらない。高師は高志、高石とも言われる。現在......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 石見

    「石見」高津山2007年の世界遺産登録で「石見銀山」は一躍注目をあつめた。石見国は現在の島根県西半部にあたり、万葉集・柿本人麻呂の生地、終焉の地として古くから知られている。画面左側に山が描かれ、その麓にある鳥居は柿本人麻呂が祀られている人丸社のものである。題名の高津山は、此の地方には見あたらないが、高角山の音読みに文字をあてたものだと思われる。津和野藩は海と接していたことから塩業が盛んであった、中央の人々が塩焼きをしている様子が描かれている。六十余州名所図会石見

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    六十余州名所図会河内河内牧方男山河内国(大阪府)は東南に山岳を擁し、淀川が西北を、そして大和川がその中央を流れて、交通の利便さにより発展をみせていた。枚方は淀川の水駅として名高く、徳川幕......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 出雲

    「出雲」大社‶ほとほと″とは、小正月に神が人々を祝福するために来訪するという信仰から生まれた行事で、正月14日の夜に顔を隠した若い人が各戸を訪ねて、お供え物を受け取ると云うものである。図では、お供え物を貰いに若い女性たちが出掛けている姿が描かれ、手には注連飾りが握られていることから、既に何軒か回っているのが分かる。六十余州名所図会出雲

  • 六十余州名所図会 伯耆

    「伯耆」大野伯耆(ほうき)の国は現在の鳥取県の西部にあたり、その中央に座す大山(だいせん)は、標高1,711mの中国地方最高峰の山で、古くから信仰の霊場としてとして崇められていた。出雲富士または伯耆富士とも呼ばる。降り続く雨の中、村の人総出で田植えに勤しんでいる。六十余州名所図会伯耆

  • 一年前のブログ

    六十余州名所図会大和「大和」大和国は、現在の奈良県全域を領している。龍田川は法隆寺や中宮寺のある斑鳩町まで流れて大和川と合流する。龍田神社や龍田公園は現在でも紅葉の名所として親しまれている......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 因幡

    「因幡」加路小山小山とは、鳥取県鳥取市湖山町にある千代川河口西岸の湖山砂丘(鳥取砂丘の一部)周辺の地名である。図にも見えるように湖山池には青島、猫島などと呼ばれる無数の島が浮かび、周囲16kmにもなる日本最大の池で手前には、松と楓の木が大きく描かれるという大胆な構図である。六十余州名所図会因幡

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    六十余州名所図会山城あらし山渡月橋「山城」嵐山は京都の西に位置し、平安時代より貴族たちの遊び場になった名所・旧跡が点在している。桜が咲き誇る嵐山を背景に渡月橋が描かれている。細かく見ていくと、山の中腹に戸......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 但馬 岩井谷

    「但馬」岩井谷本図は、『山水奇観』を参考に描かれており、実際に描かれた岩井谷の場所は2つの説がある。一つは、但馬の国と県境の牛ヶ峰山の峡谷付近とする説。もう一つは兵庫県朝来市の渓谷辺りであるという説。しかし朝来市には、行者岳があり、山中には岩屋観音があることから、朝来市であるというのが有力視されている。本図内でも切り立った岩肌と長い階段の上にある観音がしっかりと描かれている。六十余州名所図会但馬岩井谷

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    木曾海道六十九次大津「大津」大津宿は中山道69番目、東海道53番目の宿場で、宿場町としての機能と琵琶湖を使った物資の集散地機能を併せ持っており、中山道、東海道の中でも最大規模の宿場町であった......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 丹後

    「丹後」天橋立日本三景の一つである天の橋立。日本三景は元々、江戸時代の儒学者林春斎が全国を歩いて記した『日本国事跡考』に登場する絶景三カ所をあげたもの。天の橋立は、野田川と宮津湾からの押し返しによりできた全長3.6kmの砂州である。六十余州名所図会丹後

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次草津追分「草津追分」草津川の川越は東海道・中山道の2ヶ所あり、この作品は草津追分にあった中山道の渡し場の風景を描いている。草津宿の北を流れる草津川は、川床が民家の屋根より高いため......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 丹波 鐘坂

    「丹波」鐘坂鐘が坂は、谷深くの交通の難所として有名であったが、明治以降は整備されて、現在は国道が通る場所である。この場所には、「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩があり、大江山の鬼がこの橋を渡って京都まで行き来していたという逸話が残っている。画面右上にある二つの岩に架かる「石梁」と言われているのが、その場所である。旅人は、鬼の架け橋を横目に厳しい峠を越えるのである。六十余州名所図会丹波鐘坂

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次守山「守山」桜花爛漫と咲き乱れる弥生の春の、野洲川沿いの守山宿を描く。遠景には近江富士と呼称される三上山が見える。このシリーズで桜を取り上げたのは他には「大宮」宿があるだけで......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 佐渡

    「佐渡」金やま日本海に浮かぶ佐渡島の金山は金銀を産出し、幕府のあった江戸まで航路で運んで発展した。特に、金の産出は幕府の財政を助け、慶長6年が産出量の最盛期であったがその後も長く幕府を支え続けた。画面では、3つの坑道があり、右から風廻し口、四つ留口、大切口と呼ばれていた。坑道から流れる水は、湧き出た地下水で、この水を汲み上げて外に出すのは大変な重労働であった様だ。六十余州名所図会佐渡

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次武佐「武佐」中仙道は近江路にはいいて。近江盆地の緑野を進み、足取りも軽やかになる。此処まで来ると琵琶湖に流れ込む水を描く事が多くなる。武佐宿を出て暫く行った処の日野川が描かれ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 越後

    「越後」親知らず親不知は、新潟県糸魚川市青海から市振までの10kmに及ぶ海岸線にあり、断崖が海に落ちると形容されるほど高く険しい。旅人にとっては難所の一つであった。本図では荒れ狂う海を画面下半分、絶壁の岩肌を画面上半分に据えている。その間を旅人が通行しているが、何時、波にさらわれてもおかしくない緊張感が伝わってくる。六十余州名所図会越後

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次恵智川「恵智川」「むちんはし」「はし銭いらず」の標柱が橋の畔に立っている。橋の修理費などは徴収されるが此処は仮橋の為に銭は取らなかったようだ。恵智川宿は高宮宿でも分かる様に、此......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 越中

    「越中」富山船橋富山湾に続く神通川は、川幅が広く流れが急である。対岸に橋を渡すのが困難であったが、北陸街道の発展により橋の需要が高まり、船橋が架けられた。船橋は、数十隻の船を鎖でつなぎ両岸の大柱に縫い付けて造られる。鎖の真ん中には錠がしてあり、洪水の時には錠を外して橋を左右に分解させたと言われている。本図では、50を超える船が弧を描くように浮かび、両岸の巨岩に結び付けられてある。何とも珍しい橋であるが、力学的な美しい曲線(カテナリー曲線に近い)が見事です。六十余州名所図会越中

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次高宮「高宮」背丈にあまる大きな荷を背負っている二人の女性は、高宮宿の産物に関係のある高宮布が一杯に詰まっているのであろう。橋梁の残骸であろうか、橋桁だけが描かれているのは、河......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 能登

    「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登

  • 六十余州名所図会 能登

    「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登

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    木曾海道六十九次鳥居本「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 加賀

    「加賀」金沢八勝之内蓮湖之漁火蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟のことで、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれた。海水が浸入する気水湖であり、魚の種類が豊富で漁業が盛んであった。本図では、漁船が火を焚いていることから、夜の漁の風景である。陸路では小島へ小さな橋が架かっている。六十余州名所図会加賀

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    木曾海道六十九次番場「番場」入り口左辺に土塁があり、番場宿の入り口になる。「一膳めし」「酒さかな」「そばきり」などの釣り提灯が見える。看板には、山形に林の商標と「いせや」と書かれているが、版......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 越前

    「越前」気比ノ松原敦賀は、敦賀湾を擁し天然の良港が造られた。古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、使節を迎える為の「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地であった。本図は、敦賀湾の最も奥に位置する気比ノ松原が描かれている。六十余州名所図会越前

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次酔ケ井「酔ケ井」近江路は伊吹山麓の南をかすめて、間もなく琵琶湖畔に向かう。山又山の路をたどった中仙道の旅人は、平らな街路を軽やかに歩み進めていく。琵琶湖は次の宿場を過ぎたころ、......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 若狭

    「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭

  • 六十余州名所図会 若狭

    「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次柏原「柏原」江戸を発って近江路はじめての宿場柏原の名産は、伊吹もぐさである。昔から灸に使われる「艾」のことで、原料はヨモギの葉である。亀屋は、現当主五十三代によって健在である......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 出羽

    「出羽」最上川月山遠望「五月雨をあつめて早し最上川」と芭蕉が句を詠んだことで有名だが、句でもあるように日本三大急流に数えられる。本図では山形城下に近い場所から西北の方を描いた図である。最上川を航行する小舟が多く描かれているが、現在でも川下りが行われており昔から変わらない風景である。出羽の国名は、鳥の羽毛をこの国の貢物としたことより名づけられたという。出羽三山のなかで月山は一番高く、中央に聳える高山がそれであろう。六十余州名所図会出羽

  • 六十余州名所図会 陸奥

    「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥

  • 六十余州名所図会 陸奥

    「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥

  • 六十余州名所図会 陸奥

    「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥

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    木曾海道六十九次今須「今須」関ケ原から一里で今須宿に至る。さらに柏原の方へ行くとこの絵の長久寺の集落に出る。「江濃両国境」「寝物語由来」「不破之関屋」などの字が見え、此処が近江と美濃の国境で......>続きを読む一年前のブログ

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    木曾海道六十九次関ケ原「関ケ原」「名ぶつさとうもち」「そぼきり」「うんどん」と書いた提灯や看板が見える茶店は、内に草鞋や傘などもぶらさげている。蕎麦切りと云う言葉は慶長ごろから使われ、後に「......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 下野

    「下野」日光山裏見の滝裏見の滝は、栃木県日光市安良沢にある荒沢滝。落差は45m、幅2mの小さな滝であるが、滝を裏側より見れる事から「裏見の滝」と呼ばれるようになった。本図でも遠くより流れてくる水が勢いよく流れ落ちている中、物珍しそうに旅人が裏側を通っている。滝の流れる先に霞みをかけることで、滝壺が見えず延々と続くかのように描かれている。六十余州名所図会下野

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次垂井「垂井」松並木を通り大名行列が垂井宿に入る処だ。入り口の両側には土塁が築かれている。先導する蓑笠の二人は問屋場の下役達で、傘をさし手を出しているのは宿役人であろう。「お休......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 上野 榛名山

    「上野」榛名山雪中榛名山は群馬県群馬郡榛名町に位置する。有名な伊香保温泉がこの地から湧き出ており、現在も訪れる人が多い地域である。本図には雪中の榛名富士とその周囲が描かれている。特に目を引くのは中央の朱色の榛名神社であるが、橋は「神橋」、建物は十一観音像を安置したと伝えられる「東面堂」である。六十余州名所図会上野榛名山

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次赤坂「赤坂」赤坂と垂井の間にある青墓の里は、遠江の池田、駿河の手越と共に日本の三大遊郭に数えられ、平治の乱に敗れた義朝父子が身を寄せたのも此処であった。揖斐川を渡って赤坂に入......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 信濃 更科

    「信濃」更科長野県更埴市南西にある冠着山(かむりきやま)、俗称「姥捨山」、は標高1,252メートル。「田毎の月」とは、棚田に映る月の事であり、長野盆地の姨捨山を中心とする更科の地は田毎の月の名所である。画面中央に満月、右側に青い棚田と反射する月、左下には千曲川が描かれている。六十余州名所図会信濃更科

  • 一年前のブログ

    木曾海道六十九次みえじ「みえじ」この宿場の名は美江寺観音に由来するものである。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた。美江寺宿の近くの小高い堤防へ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 飛弾 籠わたし

    「飛弾」(飛騨)籠わたし飛騨地方は、山奥にあり橋を架けることが困難な場所が多くある。そのため、渓谷の間に縄を渡し宙づりにした籠に荷物や人を載せる「籠渡し」が行われていた。図では「籠渡し」の風景が描かれ、縄のたるみが不安定な「籠渡し」を表現している。周りには茶屋があり、順番を待つ人の様子も見られる。この場所は現在の岐阜県飛騨市神岡町中山と富山県富山市猪谷の間の神通川の上に架けられた籠わたしで、「飛騨より加賀へ超える」のではなく「飛騨より越中に超える」というのが正しいとしている。六十余州名所図会飛弾籠わたし

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    木曾海道六十九次河渡「河渡」河渡(ごうど)は長良川を越す渡し場の宿であるが、京に上る旅人はすでに路銀も少なくなり、この宿は足早に立ち去る人が多かった。此処ではそのような宿場とは関係なく、長......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 美濃 養老の滝

    「美濃」養老の滝岐阜県南部にあたる美濃国。養老の滝は、孝行息子の孝心により滝の水が銘酒に変わったという言い伝えがある。本図では大きな滝に見えるが、実際の養老の滝は幅4m程度でそこまで大きくはない。垂直の滝が強調され、周囲の景観も必要最低限に抑えてあるなど、意図的に滝を大きく見せているような描き方である。当時の天皇が行幸され「養老の滝」と名づけ、さらに元号も「養老」と改めた。六十余州名所図会美濃養老の滝

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    木曾海道六十九次加納「加納」遠景に加納城が見られる、この城は一名沓井城といい、文安二年(1445),土岐氏の家臣斎藤帯刀左衛門利永によって築かれたが、天文(1555)頃廃城となっていた。しか......>続きを読む一年前のブログ

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    木曾海道六十九次加納「加納」遠景に加納城が見られる、この城は一名沓井城といい、文安二年(1445),土岐氏の家臣斎藤帯刀左衛門利永によって築かれたが、天文(1555)頃廃城となっていた。しか......>続きを読む一年前のブログ

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    木曾海道六十九次鵜沼「鵜沼」木曽川の河畔の小山の頂に建つ犬山城は松本城、彦根城、姫路城、松江城と並ぶ国宝五天守の一つで、築かれた年代は信長時代の最古(1537年)という天守である。木曽川を隔......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 近江 琵琶湖 石山寺

    「近江」琵琶湖石山寺近江の国は現在の滋賀県がそのままあてはまる。滋賀の象徴とも言える琵琶湖は楽器の琵琶をさかさまにしたような形からその名が付いた様だ。近景には茶屋の賑わう姿、遠景に瀬田の唐橋が描かれた満月の夜の琵琶湖の風景。近くの景色を細かく描き、背景には雄大な山々の連なりを描いているが肝心な石山寺が描かれていない。しかし画面左の断崖が石山寺へと続くことを暗示している。六十余州名所図会近江琵琶湖石山寺

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    木曾海道六十九次太田太田「太田の渡し」は、中山道の難所中の難所であった。この川を流れて行く筏は、尾張藩領の木曽山中で伐採した檜などの木材を尾張の熱田湊まで運んで行く筏である。客を乗せた渡し舟......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 常陸 鹿嶋大神宮

    「常陸」鹿嶋大神宮鹿嶋神宮は神武天皇の創建と伝えられ、武士からの信仰が篤かった。本図では、海に突き出した鹿島神宮の一の鳥居が描かれているが、鳥居の横木が飛び出ていない間違いがある。常陸(ひたち)国は関東平野の東北隅に位置して、西は下野(しもつけ)、南は利根川が流れる下総(しもうさ)、北は奥州へつらなる磐城の諸国があり、東は太平洋に面している。北は筑波の諸山であるが、南は原野広く、沼沢も多く、霞ヶ浦はその最大のものである。六十余州名所図会常陸鹿嶋大神宮

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    木曾海道六十九次伏見「伏見」木曽川の流れの変化などにより、渡し場が上流へ移動された。土田宿は廃宿となり、(1694年)上流に位置する伏見宿が誕生した。台傘・立傘を担ぐ奴二人を前に、杉の大樹の......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 下総 銚子の濵

    「下総」銚子の濵外浦題名に外浦とあるが、現在そのような呼称はなくなっている。画面右に屏風ヶ浦の奇岩(四角い岩)が描かれているので銚子港付近だと分かる。中央には千騎岩と称される反り立った大岩があり、この二つの奇岩と打ち寄せる大波の迫力が魅力である。六十余州名所図会下総銚子の濵

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    木曾海道六十九次御岳「御岳宿」障子には「きちん宿みたけじゆく」とあり、御嶽山の御神灯を軒に吊るしている。木賃宿は自炊をして木賃すなわち燃料代だけで泊まれる所との意で、普通の宿屋より安く泊ま......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 上総 矢さしか浦

    「上総」矢さしか浦上総の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したので矢指浦の名が付き、またその矢が99本に達したことから「九十九里浜」と呼ばれるようになった。このあたりは地引き網が盛んで、鰯漁で栄えた。海上で網を降ろしていく漁師達、画面手前には揚がってくる魚を待つ魚屋や商人たちであろうか活気にあふれている。六十余州名所図会上総矢さしか浦

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    木曾海道六十九次細久手「細久手」細久手宿は大久手と御嶽の間が長かったため、間の宿として創られた当初から天保頃まで戸数が殆ど変わらなかった寒村である。細久手宿への入り口付近の坂の上から描いたもの......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 安房 小湊 内浦

    「安房」小湊小湊は、日蓮上人誕生の地で、上人に由来する、様々な場所がある。中央左上に一際大きな建物が見えるが、これは上人誕生を記念して建立された誕生寺である。画面中央では内浦湾に小舟が優雅に浮かんでいるが、帆を見れば風の方角が分かる。現在の千葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されている。六十余州名所図会安房小湊内浦

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    木曾海道六十九次大久手「大久手」大久手は大湫とも書く。この宿を過ぎると平坦な道が続き、左側には母衣岩・烏帽子岩など露出した岩石が数か所見える。美濃平野の平坦な野に松が、か細く立ち広々と感じさせ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 江戸 浅草市

    「江戸」浅草市浅草寺の境内で行われた歳の市の様子を描いている。歳の市は、毎年12月17、18日に行われ、注連飾りや蓬莱飾物などの年始の準備品が売られている。六十余州名所図会で最も画面内の人が多く、市の賑わいが一目でわかる。明治以降は、必需品などを売る「店」が日常的に数多く出来、「浅草市」は次第に廃れていった。六十余州名所図会江戸浅草市

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    木曾海道六十九次大井「大井」雨や雪を表情豊かに描き分ける事では広重に勝るものはいない。大井宿では、山間にしんしんと降り積もり、冠雪した松樹の合間を人馬がうつむいて歩む表情のため、古風な印象を......>続きを読む一年前のブログ

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    木曾海道六十九次中津川中津川(晴)重畳たる山間を縫う木曽路に別れを告げて、明るく開けた美濃路に入り、二番目の宿驛が中津川である。折り重なる木曽の山々や恵那山を背景に、平坦な野を描く。篠懸をつけ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 武蔵 隅田川

    「武蔵」隅田川現在では積雪が珍しい都心であるが、『江戸名所花暦』(1830年)には、隅田川は雪の名所として記されている。本図では、一面の雪景色に青く澄んだ隅田川が栄える作品である。また背景の赤く染まった空は、朝焼けを表現し、早朝の雰囲気を感じさせてくれる。画面中央を流れる隅田川に左手前からほぼ直角に合流しているのが「山谷堀」音無川の三ノ輪あたりから隅田川の今戸をつなぐように掘られた掘割で、水害対策とともに、灌漑の補助もかねていた。こういった堀は江戸にはたくさんあったが、堀といえば「山谷堀」を指すほど著名で、船宿や茶店が堀の両岸に並んだという。六十余州名所図会武蔵隅田川

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    木曾海道六十九次中津川(雨)中津川中津川の作品は、晴雨の両景二種類ある。中津川宿の遠方には晴れ間が次第に見えてきたのであろうが、まだここでは雨が重く冷たく降りしきり、雨合羽に身を包んだ旅人は、容赦な......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 相模江之嶋 岩屋ノ口

    「相模」江之嶋岩屋ノ口江ノ島は、相模湾岸の境川の河口にあり、境川によって運ばれた土砂でできた片瀬海岸とつながる、満潮時にはこの砂州が水面下に消えた。人々は渡し舟に乗るか、引き潮を見計らって歩いて渡っていた。その後、江ノ島大橋、江ノ島弁天橋が架橋され、干満の別なく渡ることが出来る様に成った。箱根・江ノ島方面への旅は、江戸から2~3日の近郊の旅行として人気があっただけでなく、足を伸ばせば富士詣、身延詣、にも行けるので、これらの参詣の流行とともに隆盛を極めた。本図では、富士山の左半分と江ノ島の右半分が枠外に消え、画面上にはそれぞれ半分しか描かれていない。此の事によって、横長に広がる景色を無理に縦の構図に入れ込むのではなく、左右に広がる構成をイメージでき、より広い空間を演出している。六十余州名所図会相模江之嶋岩屋ノ口

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    木曾海道六十九次落合「落合」木曽路の嶮しい山道を難儀しながら歩いてきた旅人達は、馬籠宿の先の急な坂道を下り、前面に開けた平地の中に落合宿を見付けると、我が家に帰った気分になったという。恵那山......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 伊豆 修禅寺

    「伊豆」修禅寺湯治場修禅寺温泉は、807年に弘法大師が開いたとされる歴史ある温泉である。広重は本シリーズを描く際に『山水奇観』を参考に描いているが、例外的に気に入った場所を追加して描いており、本作品も広重が新たに加えて描いた場所である。画面中央の湯治場「独鈷(とっこ)の湯」の建物を細かく表現し、急流の川と共に賑やかな雰囲気が伝わってくる。六十余州名所図会伊豆修禅寺

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    木曾海道六十九次馬籠「馬籠」妻籠を出て蘭川を渡る手前、左へ行けば清内路越で飯田へ、右に妻籠橋を渡れば中仙道、京都へ道が江戸からの道程より三十四里(136km)も近くなっている。これから最後の......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 甲斐

    「甲斐」さるはし山梨県大月の猿橋は、長さ31mで桂川に架けられた小さな橋である。岩国の錦帯橋、木曽の桟橋に並び日本三奇矯に数えられ、独特の橋脚が魅力的である。本図でも橋の特徴をよく現すように低い視点から描かれており、上空の猿橋と下の桂川の荒々しい流れがバランス良く配置されている。六十余州名所図会甲斐

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    木曾海道六十九次妻籠「妻籠」山また山の険しい木曽路。右上の道と中央の道は、道が幾度も曲折している事を示している。又路面の凸凹もかなりあった様子が波線で表現している。現在の妻籠は隣の馬籠と共に......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 駿河

    「駿河」三保のまつ原三保の松原は、駿河湾に面して長くせり出した陸地で、白い砂浜に青い松の色彩が素晴らしい名所である。本図では、駿河湾に伸びる松原とその延長線上に見える富士のバランスが良い。また湾に浮かぶ小舟の帆が風を伝えてくれる。六十余州名所図会駿河

  • 六十余州名所図会 遠江

    「遠江」浜名之湖堀江舘山寺遠江は、京に近い湖の琵琶湖「近淡海」に対して、遠い湖・浜名湖「遠淡湖」を指した名称である。最大深度12メートルをこす陥没湖でしかも潮湖である。図では左側に舘山と舘山寺が見える。中央の浜名湖はS字に大きく迂回しながら描かれており、全体の構図が美しく構成されている。遠江国は静岡県西部に位置し、南は遠州灘に面し、北は信州天竜峡谷を控え、その間猪鼻湖とも繋がっている。六十余州名所図会遠江

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    木曾海道六十九次野尻「野尻」野尻宿の伊奈川を横切る伊奈川橋を描く。尾張藩が直々に修理にあたった木曽三大橋のひとつである。下方から見上げる橋は水量の激しさと桟の高さを表現している。...>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 三河

    「三河」鳳来寺山厳鳳来寺は、愛知県新城市の鳳来寺山にある古寺で、真言宗五智教団の寺院で建物はあまり主張せず、背後に見える壮大な山々に視点を向けている。特に雲間に隠れる山間の景色と、頂上に続く1425段の石段が気に入ったようで丁寧に表現されている。大宝2年(702年)利修の開山で、薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集める。徳川家康の両親が天下人となる男子を祈願して家康を授かったと伝わったことから幕府の庇護を受けていた。六十余州名所図会三河

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    木曽海道六十九次須原「須原」上松から三里半の道程で須原宿に入る。宿の外れ野尻寄りに木曽義仲の菩提所、浄戒山定勝寺がある。。図の太い杉の木は定勝寺の境内のものだろう。激しい横なぐりの夕立に虚無......>続きを読む一年前のブログ

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