「山下白雨」「山下白雨」は「神奈川沖浪裏」及び「凱風快晴」とともに富嶽の「三役」と呼ばれ、北斎版画の中でもっとも人気の高い作品である。題名の「山下白雨」とは、富士山の裾のほうで白雨が降っている様子を表している、白雨とは明るい空から降るにわか雨のことだが、北斎はその雨の様子を稲妻で表現している。富嶽三十六景山下白雨
「山下白雨」「山下白雨」は「神奈川沖浪裏」及び「凱風快晴」とともに富嶽の「三役」と呼ばれ、北斎版画の中でもっとも人気の高い作品である。題名の「山下白雨」とは、富士山の裾のほうで白雨が降っている様子を表している、白雨とは明るい空から降るにわか雨のことだが、北斎はその雨の様子を稲妻で表現している。富嶽三十六景山下白雨
六十余州名所図会越中「越中」富山船橋富山湾に続く神通川は、川幅が広く流れが急である。対岸に橋を渡すのが困難であったが、北陸街道の発展により橋の需要が高まり、船橋が架けられた。船橋は、数十隻......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会能登「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇......>続きを読む一年前のブログ
「凱風快晴」凱風快晴は「赤富士」とも呼ばれるが、それは赤く染まった富士を描いていることから来る。富士が赤く染まるのは、実際に起る現象で、夏の早朝に起りやすいという。それも甲州側(山梨県)から見られるそうだ。甲州側からだと、朝日を逆光に浴びた富士が赤く染まって見えるのだという。北斎はそんな言い伝えを意識しながら、赤富士の美しさを表現したと思われる。富嶽三十六景凱風快晴
六十余州名所図会加賀「加賀」金沢八勝之内蓮湖之漁火蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟のことで、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれた。海水が浸入する気水湖であり、魚の種類が豊富で漁業......>続きを読む一年前のブログ
「神奈川沖浪裏」欧米では、北斎と言えばまずこの絵が言及されるほど有名な絵だ。北斎の絵が初めてヨーロッパに渡った時から、北斎の代表作として受け取られた。クロード・モネはこれをアトリエの壁に架けて常に楽しんでいたと言うし、音楽家のドビュッシーは、交響曲「海」の楽譜の表紙に採用した。北斎の、この絵は大胆な構図と力強い線だと思う。逆巻く波を前景いっぱいに配置し、それとの対比で静かな富士の姿を遠景に配している。動と静、自然と人間のダイナミックな対比が大胆な画面構成のなかで強調し表現されている。富嶽三十六景神奈川沖浪裏
六十余州名所図会越前「越前」気比ノ松原敦賀は、敦賀湾を擁し天然の良港が造られた。古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、使節を迎える為の「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地であっ......>続きを読む一年前のブログ
「対馬」海岸夕晴対馬は、南北82km、東西18kmと細長いリアス式海岸で形成されており、風光明媚な景色が魅力的であった。又、晴れた日には目視できるほど朝鮮半島と近く、大陸との交流で重要な役割を果たしていた。本図では、対馬の入り組んだ海岸に無数の船が描かれており、海路が賑わっていたことが分かる。「六十余州名所図会」最終に相応し、虹を天空高くかけた快晴の対馬を描いている。次回より「富嶽三十六景」の投稿予定六十余州名所図会対馬
六十余州名所図会若狭「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都......>続きを読む一年前のブログ
「壱岐」志作長崎県壱岐市は、玄界灘およそ20kmの沖に位置する。朝鮮半島との要路にあたるため、古くから知られ、「いき」または「ゆき」と呼ばれていた。壱岐という字が定着するまでは一支、伊伎、伊吉、伊岐、等の表記が中国の史書などに記録されている。このあたりは暖流の対馬海流が流れているため、比較的暖かく、図のように雪が積もることはめったにない。古名の「ゆき」に関係しているのかも知れません。壱岐に行ったはずのない広重が「ゆき」という言葉もふまえ、雪景の壱岐を描いた様です。副題に「志作」という言葉が包まれているが壱岐には志作という地名も字名もないとのことです。六十余州名所図会壱岐
六十余州名所図会出羽「出羽」最上川月山遠望「五月雨をあつめて早し最上川」と芭蕉が句を詠んだことで有名だが、句でもあるように日本三大急流に数えられる。本図では山形城下に近い場所から西北......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会陸奥「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端......>続きを読む一年前のブログ
「薩摩坊の浦」双剣石鹿児島県の西南端に位置する坊津は、東シナ海に面し、古くから中国との交易の拠点として栄えた。江戸時代は貿易が長崎のみに制限されたが、ひっそりと貿易が続けられていたが徐々に衰退していった。本図では、海に山々が迫るリアス式海岸の風景が描かれている。名物の「双剣石」は、画面のように小舟で遊覧して見て回る人がいたようだ。六十余州名所図会薩摩
「大隈」さくらしま桜島は大正3年の大噴火による溶岩流によって大隅半島と陸続に成ったが、それまではまさしく「島」であった。これは桜島がまだ島だった頃の図です。桜島を画面左端で切ることによってその大きさを強調したのでしょうが、後世の我々からすると、四方を海で囲まれた桜島を見たかったところです。常に噴煙を上げ猛々しい桜島なのですが、この作品では煙もなく、閑かな春のたたずまいの桜島が描かれている。六十余州名所図会 大隈
六十余州名所図会下野「下野」日光山裏見の滝裏見の滝は、栃木県日光市安良沢にある荒沢滝。落差は45m、幅2mの小さな滝であるが、滝を裏側より見れる事から「裏見の滝」と呼ばれるようになった。......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会上野榛名山「上野」榛名山雪中榛名山は群馬県群馬郡榛名町に位置する。有名な伊香保温泉がこの地から湧き出ており、現在も訪れる人が多い地域である。本図には雪中の榛名富士とその周囲が描......>続きを読む一年前のブログ
「日向」油津ノ湊日南市の東部、日向灘に面する油津の港は、古くは大陸との交易の中継地として栄え、江戸時代には飫肥杉の積み出しで賑わった。本図では、油津港を一望しながら、港に入る交易船や建物、海岸線から山までの周囲一帯が描かれている。六十余州名所図会日向
「肥後」五ヶの庄五家庄とは、椎原、仁多尾、樅木、葉木、久連子の五集落の総称であり、現在の熊本県八代市泉町にあたる。1000mを越える山々に囲まれ、秘境と呼ぶにふさわしい場所である。本図でも、崖に生えた木がそのまま橋になった珍しい場所が描かれている。この風景は北斎の『北斎漫画』に出てくる「五かの庄」を参考に描かれている。六十余州名所図会肥後
六十余州名所図会信濃更科「信濃」更科長野県更埴市南西にある冠着山(かむりきやま)、俗称「姥捨山」、は標高1,252メートル。「田毎の月」とは、棚田に映る月の事であり、長野盆地の姨捨山を中心とす......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会飛弾籠わたし「飛弾」(飛騨)籠わたし飛騨地方は、山奥にあり橋を架けることが困難な場所が多くある。そのため、渓谷の間に縄を渡し宙づりにした籠に荷物や人を載せる「籠渡し」が行われていた......>続きを読む一年前のブログ
「肥前」長崎稲佐山肥前国は九州西北部に位置し、現在の長崎、佐賀の二県にまたがり、また前海という筑紫海は一大内海となって、肥前、肥後、筑後の三国に深く接入している。長崎港は土砂が堆積し、明治以降は埋め立てにより江戸時代の美しい海岸線は失われてしまった。海外貿易の象徴であった出島もこの時に周囲を埋め立てられた。本図では、海岸線にこそ船が描かれていないが、手前のマストでこの地が交易船で賑わっていたことが想像できる。六十余州名所図会肥前
六十余州名所図会美濃養老の滝「美濃」養老の滝岐阜県南部にあたる美濃国。養老の滝は、孝行息子の孝心により滝の水が銘酒に変わったという言い伝えがある。本図では大きな滝に見えるが、実際の養老の滝は幅4m......>続きを読む一年前のブログ
「豊後」蓑崎国東半島の南部に位置する杵築は、杵築城を中心に武家屋敷や豪商の家が多く、現在でも古い街並の面影を残している。その杵築城の前にある守江湾の東にある岬が蓑崎と呼ばれ、現在は美濃崎と表記される。守江湾を区切るように砂嘴が伸び、白浜に松原が続く風景は美しい。本図では、砂嘴に打ち寄せる波の白が、山まで続く灰色の陸地に対比し美しい。六十余州名所図会豊後
六十余州名所図会近江琵琶湖石山寺「近江」琵琶湖石山寺近江の国は現在の滋賀県がそのままあてはまる。滋賀の象徴とも言える琵琶湖は楽器の琵琶をさかさまにしたような形からその名が付いた様だ。近景には茶屋の賑......>続きを読む一年前のブログ
「豊前」羅漢寺下道中津市は、福岡県と大分県の境目に位置し、南部に名勝・耶馬溪を控える。羅漢寺下道とは、羅漢寺に至る道で、菊池寛の小説『恩讐の彼方に』の舞台になったことでも知られる。岩が削られたトンネルの様な道は、ノミと槌だけで工事され、完成まで30年かかったと言われる。その独特の景観を丁寧に描写し、行き交う旅人も描かれている。六十余州名所図会豊前
六十余州名所図会常陸鹿嶋大神宮「常陸」鹿嶋大神宮鹿嶋神宮は神武天皇の創建と伝えられ、武士からの信仰が篤かった。本図では、海に突き出した鹿島神宮の一の鳥居が描かれているが、鳥居の横木が飛び出ていない間......>続きを読む一年前のブログ
「筑後」簗瀬題名の簗瀬とは、漁法のことで、画面中央右のような竹で編んだ柵の仕掛けに魚を誘導するもの。川の全域に罠を張るのではなく、縦に2つに分け片方に罠を仕掛け、片方は船の通路にする為、図の様な土波を築いている。この地の伝統的な漁法が、景観の大事な要素になっていることが分かる。六十余州名所図会筑後
六十余州名所図会下総銚子の濵「下総」銚子の濵外浦題名に外浦とあるが、現在そのような呼称はなくなっている。画面右に屏風ヶ浦の奇岩(四角い岩)が描かれているので銚子港付近だと分かる。中央には千騎岩と......>続きを読む一年前のブログ
「筑前」筥崎玄界灘に突き出した砂嘴は、荒波を受け止め、穏やかな博多湾を作った。画面の上が博多湾、下が玄界灘で、二つの海を分ける砂州は長さ12kmにもなった。現在は、住宅や観光施設が多いが、当時は鳥居が置かれ志賀海神社の入口であった。六十余州名所図会筑前
「筑前」筥崎玄界灘に突き出した砂嘴は、荒波を受け止め、穏やかな博多湾を作った。画面の上が博多湾、下が玄界灘で、二つの海を分ける砂州は長さ12kmにもなった。現在は、住宅や観光施設が多いが、当時は鳥居が置かれ志賀海神社の入口であった。六十余州名所図会筑前
六十余州名所図会上総矢さしか浦「上総」矢さしか浦上総の国は現在の千葉県の房総半島の北部にあたる。伝承に拠れば「矢さしか浦」というのは矢指浦で、古名は玉の浦というが源頼朝の命令で1里ごとに矢を指したの......>続きを読む一年前のブログ
「土佐」海上松魚釣土佐の高知沖は、黒潮に運ばれてくる鰹が多く、鰹の漁獲量は日本屈指の地域であった。藩主山内氏が鰹節を贈答品として各所に贈ったことで土佐の特産物としても有名になった。本図では、小舟に乗った数人の漁師が勢いよく鰹を釣り上げる風景が描かれているが、揺れる波の表現と水面に顔を出す鰹の描写が漁の活気を伝えてくれる。六十余州名所図会土佐
六十余州名所図会安房小湊内浦「安房」小湊小湊は、日蓮上人誕生の地で、上人に由来する、様々な場所がある。中央左上に一際大きな建物が見えるが、これは上人誕生を記念して建立された誕生寺である。画面中央で......>続きを読む一年前のブログ
「伊豫」西条西条は、松平家が藩主となり明治までの200年間、松平3万石の城下町として栄えた。図では、中央左に三層の城が建ち並んでいるが、実際にはこのような立派な城ではなく、陣屋のような規模のものだった様だ。背景に一際大きく描かれている山は、標高1982mで西日本最高峰の石鎚山である。画面手前に帆を描くことで、舟からの景色であると想像できると同時に、西条までの遠近感を表現している。六十余州名所図会伊豫
六十余州名所図会江戸浅草市「江戸」浅草市浅草寺の境内で行われた歳の市の様子を描いている。歳の市は、毎年12月17、18日に行われ、注連飾りや蓬莱飾物などの年始の準備品が売られている。六十余州名所......>続きを読む一年前のブログ
「讃岐」象頭山琴平山は、象の頭を模したような形態から象頭山と呼ばれる。琴平山の山腹には、金刀比羅宮の社殿が建ち並び、伊勢参りと同じように一生に一度は金比羅参りをしたいと言われるほど有名な場所であった。本図では、山登りをする旅人が描かれているが、白装束の参詣者がいることから金比羅参りの一行であると想像できる。六十余州名所図会讃岐
六十余州名所図会武蔵隅田川「武蔵」隅田川現在では積雪が珍しい都心であるが、『江戸名所花暦』(1830年)には、隅田川は雪の名所として記されている。本図では、一面の雪景色に青く澄んだ隅田川が栄える......>続きを読む一年前のブログ
「阿波」鳴門現在の鳴門海峡は、1985年に開通した大鳴門橋により、難なく淡路島へ行くことが出来る。本図では、鳴門の大渦を描いているが、当時からこの地域の海流が激しかったことが分かる。この大渦を表現する為に、葛飾北斎の『冨嶽三十六計神奈川沖浪裏』を参考にしていると言われている。六十余州名所図会阿波
六十余州名所図会相模江之嶋岩屋ノ口「相模」江之嶋岩屋ノ口江ノ島は、相模湾岸の境川の河口にあり、境川によって運ばれた土砂でできた片瀬海岸とつながる、満潮時にはこの砂州が水面下に消えた。人々は渡し舟に乗るか、......>続きを読む一年前のブログ
「淡路」五色濱淡路国は現在の兵庫県の一部で淡路島と沼島にあたる。五色島は淡路島の西岸、播磨灘に面した津名郡五色町にあり、現在は海水浴場や夕陽の名所として知られている。本図では、五色浜で行われる漁を主に描かれている。漁は海面に張った網を両端から引っ張る振網漁と呼ばれるもので、両端の漁師たちが服の色で分けられているなど漁の様子が描かれている。六十余州名所図会淡路
六十余州名所図会伊豆修禅寺「伊豆」修禅寺湯治場修禅寺温泉は、807年に弘法大師が開いたとされる歴史ある温泉である。広重は本シリーズを描く際に『山水奇観』を参考に描いているが、例外的に気に入った......>続きを読む一年前のブログ
「紀伊」和歌の浦和歌浦は大阪に接する和歌山市南部にある。本図では、和歌浦の入江から、遠景の小島までが中心に描かれている。小島は妹背山と呼ばれ、三断橋で内陸と結ばれており、対岸には紀三井寺の拝殿である観海閣と海禅院の多宝堂が建てられている。上空を優雅に飛ぶ鶴は、万葉集の歌人山辺赤人の歌に因んで描かれている。六十余州名所図会紀伊
「長門」下の関山陽道の西端にある下関は、関門海峡を挟んで九州に繋がる。古くから海上交通の要として機能し、輸送船の寄港地として「西の浪華」と呼ばれるほど繁栄していた。本図でも、停泊中の輸送船とそれを珍しそうに近づく小舟が描かれている。また、中央上の小島は、宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘をしたことで有名な巌流島である。六十余州名所図会長門
「周防」岩国錦帯橋周防(すおう)は山口県の東南部にあって防州(ぼうしゅう)とも呼ばれていた。岩国市を流れる錦川にかかる錦帯橋は1673年岩国藩主吉川広嘉によって創建された木造の橋で、1950年の台風で流されるまで実に270年以上も耐え抜いた頑強な橋です。当初架けられた橋が再三流されてしまったことから、強固な橋が必要になり、石造の橋脚を持つ5連アーチの錦帯橋が架けられた。中央3つは懸垂曲線のアーチで、その美しさから観光の名所としても知られる。六十余州名所図会周防
六十余州名所図会遠江「遠江」浜名之湖堀江舘山寺遠江は、京に近い湖の琵琶湖「近淡海」に対して、遠い湖・浜名湖「遠淡湖」を指した名称である。最大深度12メートルをこす陥没湖でしかも潮湖であ......>続きを読む一年前のブログ
「安藝」厳島祭礼之図日本三景の一つである厳島神社の鳥居は、神社と共に足元が海に晒されていることで有名である。度重なる災害に耐え抜き、現在では世界遺産として観光の名所とされている。本図では、旧暦6月17日に行われる「夜船管弦」と呼ばれる祭礼の一幕を描いている。鳥居は三本に分かれた足元の大柱がメインに鳥居の半分だけが描かれ、全体図は想像で補完されるという広重が得意とした手法で描かれている。六十余州名所図会安藝
六十余州名所図会三河「三河」鳳来寺山厳鳳来寺は、愛知県新城市の鳳来寺山にある古寺で、真言宗五智教団の寺院で建物はあまり主張せず、背後に見える壮大な山々に視点を向けている。特に雲間に隠れる......>続きを読む一年前のブログ
「備後」阿武門観音堂本図は、福山市の南方、沼隈町にあって、阿伏兎の瀬戸と呼ばれる田島との間にある幅500mの海峡である。潮流が速く、航行の安全を祈願する為に阿伏兎岬の突端に盤台寺が立てられた。画面内でも分かるように非常に不安定な岩肌に建てられている為、それ建物自体も素晴らしいが、観音堂からの景色は絶景と称えられた。六十余州名所図会備後
六十余州名所図会尾張「尾張」津嶋天王祭り尾張津嶋の天王祭りは、旧暦の6月14、15日に行われ、日本三大川祭りの一つとして賑わった。現在でも7月の第4土曜日に行われ、提灯が飾られた車楽船が......>続きを読む一年前のブログ
「備中」豪渓岡山県総社市の近くで槇谷川の高梁川に合流する地点より上流5kmほどにある豪渓である。激しい川の流れが両岸を侵食し、荒々しく抉られた奇岩を作り出した。行き交う人は物珍しそうに急流を眺めたりしているが、秋には紅葉の名所としても有名だった。六十余州名所図会備中豪渓
六十余州名所図会志摩「志摩」日和山鳥羽湊志摩は三重県の東端部に位置し、多くの島嶼と多くの港が雑然と散在する。江湾が極めて多く、船の出入りは頻繁で、左面に見える、答志島・菅島などあって外洋......>続きを読む一年前のブログ
「備前」田の口海浜瑜伽山鳥居備前の国(岡山県南東部)児島郡にある田の口は日比浦西にある海村で名産の組紐や真田織を売る店が多く並び賑わっていた。田の口より北に瑜賀山があって、此処には蓮台寺がある。瑜賀山下には宿屋が五、六十軒ほど両側に立ちならび、坂路には鳥居等がある。六十余州名所図会備前
六十余州名所図会伊勢「伊勢」朝熊山峠の茶屋伊勢と鳥羽の間にある朝熊山は、「あさまやま」と読み、伊勢市南部に位置する山で標高が555mの山頂には臨済宗南禅寺派の金剛證寺がある。伊勢神宮の鬼門......>続きを読む一年前のブログ
「美作」山伏谷強い風を伴った横なぐりの雨を描き、笠は飛び、天地鳴動の瞬間をとらえている。きつい雨脚を太い条帛のような描写で行い、このシリーズで最も激しい風雨の景を描き、樹木のゆれ動くさまなどにも広重の力量をするどく見せて、気をひきしめる緊迫の画面をなしている。旅人達が雨笠を飛ばしながら行き交う様子を見れば、旅路の重要な場所であったこと、と同時に難所でもあったことが分かる。美作(みまさか)国は現在の岡山県北東部にあたり、宮本武蔵は美作の出身とのことです。六十余州名所図会美作
六十余州名所図会伊賀「伊賀」上野伊賀の町は忍者と芭蕉で有名だが、広重も感じ入るところがあったようで本図で名所として描き残している。奥に見える伊賀城に向かって田舎道が伸び、茶屋や橋が描かれてい......>続きを読む一年前のブログ
「播磨」舞子の濵舞子の浜は、神戸市の南西部、垂水区にある浜で、海岸を覆う松樹の美しさが有名な場所である。現在では、明石海峡大橋が架橋され昔とは様子が変わっている。本図では、荒々しく伸びた松の木が海岸線を覆い尽くしている。画面中央に人が描かれているが、松と比較するとどれほどの巨木だったかが分かる。六十余州名所図会播磨
六十余州名所図会摂津「摂津」住よし出見のはま住吉は古くは墨江といわれ、重要な港があった。中央左に綺麗な反り橋が架かり松原から浜に出る人が描かれている。浜には茶屋が並び、住吉神社への参詣の賑......>続きを読む一年前のブログ
「隠岐」焚火の社焚火の社とは、(現在の島根県の隠岐諸島)焚火神社のことで焼火山の頂上近くにあり、古くから舟人の目標となっていた。本図では、焚火神社への献灯の儀式の様子が描かれている。焚火神社は鳥居と参道までしか見えない。右側の帆船は画面に収まらないほど大きく、本シリーズでは最大の船だと思われる。船の舳先をクローズアップし、そこで御幣を左右に振る船子を描いている。六十余州名所図会隠岐
六十余州名所図会和泉和泉高師のはま元は「泉」という国名であったものを和銅6年(713年)「和泉」となったが「和」は読まず、「いずみ」と読み方は変わらない。高師は高志、高石とも言われる。現在......>続きを読む一年前のブログ
「石見」高津山2007年の世界遺産登録で「石見銀山」は一躍注目をあつめた。石見国は現在の島根県西半部にあたり、万葉集・柿本人麻呂の生地、終焉の地として古くから知られている。画面左側に山が描かれ、その麓にある鳥居は柿本人麻呂が祀られている人丸社のものである。題名の高津山は、此の地方には見あたらないが、高角山の音読みに文字をあてたものだと思われる。津和野藩は海と接していたことから塩業が盛んであった、中央の人々が塩焼きをしている様子が描かれている。六十余州名所図会石見
六十余州名所図会河内河内牧方男山河内国(大阪府)は東南に山岳を擁し、淀川が西北を、そして大和川がその中央を流れて、交通の利便さにより発展をみせていた。枚方は淀川の水駅として名高く、徳川幕......>続きを読む一年前のブログ
「出雲」大社‶ほとほと″とは、小正月に神が人々を祝福するために来訪するという信仰から生まれた行事で、正月14日の夜に顔を隠した若い人が各戸を訪ねて、お供え物を受け取ると云うものである。図では、お供え物を貰いに若い女性たちが出掛けている姿が描かれ、手には注連飾りが握られていることから、既に何軒か回っているのが分かる。六十余州名所図会出雲
「伯耆」大野伯耆(ほうき)の国は現在の鳥取県の西部にあたり、その中央に座す大山(だいせん)は、標高1,711mの中国地方最高峰の山で、古くから信仰の霊場としてとして崇められていた。出雲富士または伯耆富士とも呼ばる。降り続く雨の中、村の人総出で田植えに勤しんでいる。六十余州名所図会伯耆
六十余州名所図会大和「大和」大和国は、現在の奈良県全域を領している。龍田川は法隆寺や中宮寺のある斑鳩町まで流れて大和川と合流する。龍田神社や龍田公園は現在でも紅葉の名所として親しまれている......>続きを読む一年前のブログ
「因幡」加路小山小山とは、鳥取県鳥取市湖山町にある千代川河口西岸の湖山砂丘(鳥取砂丘の一部)周辺の地名である。図にも見えるように湖山池には青島、猫島などと呼ばれる無数の島が浮かび、周囲16kmにもなる日本最大の池で手前には、松と楓の木が大きく描かれるという大胆な構図である。六十余州名所図会因幡
六十余州名所図会山城あらし山渡月橋「山城」嵐山は京都の西に位置し、平安時代より貴族たちの遊び場になった名所・旧跡が点在している。桜が咲き誇る嵐山を背景に渡月橋が描かれている。細かく見ていくと、山の中腹に戸......>続きを読む一年前のブログ
「但馬」岩井谷本図は、『山水奇観』を参考に描かれており、実際に描かれた岩井谷の場所は2つの説がある。一つは、但馬の国と県境の牛ヶ峰山の峡谷付近とする説。もう一つは兵庫県朝来市の渓谷辺りであるという説。しかし朝来市には、行者岳があり、山中には岩屋観音があることから、朝来市であるというのが有力視されている。本図内でも切り立った岩肌と長い階段の上にある観音がしっかりと描かれている。六十余州名所図会但馬岩井谷
木曾海道六十九次大津「大津」大津宿は中山道69番目、東海道53番目の宿場で、宿場町としての機能と琵琶湖を使った物資の集散地機能を併せ持っており、中山道、東海道の中でも最大規模の宿場町であった......>続きを読む一年前のブログ
「丹後」天橋立日本三景の一つである天の橋立。日本三景は元々、江戸時代の儒学者林春斎が全国を歩いて記した『日本国事跡考』に登場する絶景三カ所をあげたもの。天の橋立は、野田川と宮津湾からの押し返しによりできた全長3.6kmの砂州である。六十余州名所図会丹後
木曾海道六十九次草津追分「草津追分」草津川の川越は東海道・中山道の2ヶ所あり、この作品は草津追分にあった中山道の渡し場の風景を描いている。草津宿の北を流れる草津川は、川床が民家の屋根より高いため......>続きを読む一年前のブログ
「丹波」鐘坂鐘が坂は、谷深くの交通の難所として有名であったが、明治以降は整備されて、現在は国道が通る場所である。この場所には、「鬼の架け橋」と呼ばれる奇岩があり、大江山の鬼がこの橋を渡って京都まで行き来していたという逸話が残っている。画面右上にある二つの岩に架かる「石梁」と言われているのが、その場所である。旅人は、鬼の架け橋を横目に厳しい峠を越えるのである。六十余州名所図会丹波鐘坂
木曾海道六十九次守山「守山」桜花爛漫と咲き乱れる弥生の春の、野洲川沿いの守山宿を描く。遠景には近江富士と呼称される三上山が見える。このシリーズで桜を取り上げたのは他には「大宮」宿があるだけで......>続きを読む一年前のブログ
「佐渡」金やま日本海に浮かぶ佐渡島の金山は金銀を産出し、幕府のあった江戸まで航路で運んで発展した。特に、金の産出は幕府の財政を助け、慶長6年が産出量の最盛期であったがその後も長く幕府を支え続けた。画面では、3つの坑道があり、右から風廻し口、四つ留口、大切口と呼ばれていた。坑道から流れる水は、湧き出た地下水で、この水を汲み上げて外に出すのは大変な重労働であった様だ。六十余州名所図会佐渡
木曾海道六十九次武佐「武佐」中仙道は近江路にはいいて。近江盆地の緑野を進み、足取りも軽やかになる。此処まで来ると琵琶湖に流れ込む水を描く事が多くなる。武佐宿を出て暫く行った処の日野川が描かれ......>続きを読む一年前のブログ
「越後」親知らず親不知は、新潟県糸魚川市青海から市振までの10kmに及ぶ海岸線にあり、断崖が海に落ちると形容されるほど高く険しい。旅人にとっては難所の一つであった。本図では荒れ狂う海を画面下半分、絶壁の岩肌を画面上半分に据えている。その間を旅人が通行しているが、何時、波にさらわれてもおかしくない緊張感が伝わってくる。六十余州名所図会越後
木曾海道六十九次恵智川「恵智川」「むちんはし」「はし銭いらず」の標柱が橋の畔に立っている。橋の修理費などは徴収されるが此処は仮橋の為に銭は取らなかったようだ。恵智川宿は高宮宿でも分かる様に、此......>続きを読む一年前のブログ
「越中」富山船橋富山湾に続く神通川は、川幅が広く流れが急である。対岸に橋を渡すのが困難であったが、北陸街道の発展により橋の需要が高まり、船橋が架けられた。船橋は、数十隻の船を鎖でつなぎ両岸の大柱に縫い付けて造られる。鎖の真ん中には錠がしてあり、洪水の時には錠を外して橋を左右に分解させたと言われている。本図では、50を超える船が弧を描くように浮かび、両岸の巨岩に結び付けられてある。何とも珍しい橋であるが、力学的な美しい曲線(カテナリー曲線に近い)が見事です。六十余州名所図会越中
木曾海道六十九次高宮「高宮」背丈にあまる大きな荷を背負っている二人の女性は、高宮宿の産物に関係のある高宮布が一杯に詰まっているのであろう。橋梁の残骸であろうか、橋桁だけが描かれているのは、河......>続きを読む一年前のブログ
「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登
「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登
木曾海道六十九次鳥居本「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩......>続きを読む一年前のブログ
「加賀」金沢八勝之内蓮湖之漁火蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟のことで、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれた。海水が浸入する気水湖であり、魚の種類が豊富で漁業が盛んであった。本図では、漁船が火を焚いていることから、夜の漁の風景である。陸路では小島へ小さな橋が架かっている。六十余州名所図会加賀
木曾海道六十九次番場「番場」入り口左辺に土塁があり、番場宿の入り口になる。「一膳めし」「酒さかな」「そばきり」などの釣り提灯が見える。看板には、山形に林の商標と「いせや」と書かれているが、版......>続きを読む一年前のブログ
「越前」気比ノ松原敦賀は、敦賀湾を擁し天然の良港が造られた。古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、使節を迎える為の「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地であった。本図は、敦賀湾の最も奥に位置する気比ノ松原が描かれている。六十余州名所図会越前
木曾海道六十九次酔ケ井「酔ケ井」近江路は伊吹山麓の南をかすめて、間もなく琵琶湖畔に向かう。山又山の路をたどった中仙道の旅人は、平らな街路を軽やかに歩み進めていく。琵琶湖は次の宿場を過ぎたころ、......>続きを読む一年前のブログ
「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭
「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭
木曾海道六十九次柏原「柏原」江戸を発って近江路はじめての宿場柏原の名産は、伊吹もぐさである。昔から灸に使われる「艾」のことで、原料はヨモギの葉である。亀屋は、現当主五十三代によって健在である......>続きを読む一年前のブログ
「出羽」最上川月山遠望「五月雨をあつめて早し最上川」と芭蕉が句を詠んだことで有名だが、句でもあるように日本三大急流に数えられる。本図では山形城下に近い場所から西北の方を描いた図である。最上川を航行する小舟が多く描かれているが、現在でも川下りが行われており昔から変わらない風景である。出羽の国名は、鳥の羽毛をこの国の貢物としたことより名づけられたという。出羽三山のなかで月山は一番高く、中央に聳える高山がそれであろう。六十余州名所図会出羽
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
木曾海道六十九次今須「今須」関ケ原から一里で今須宿に至る。さらに柏原の方へ行くとこの絵の長久寺の集落に出る。「江濃両国境」「寝物語由来」「不破之関屋」などの字が見え、此処が近江と美濃の国境で......>続きを読む一年前のブログ
木曾海道六十九次関ケ原「関ケ原」「名ぶつさとうもち」「そぼきり」「うんどん」と書いた提灯や看板が見える茶店は、内に草鞋や傘などもぶらさげている。蕎麦切りと云う言葉は慶長ごろから使われ、後に「......>続きを読む一年前のブログ
「下野」日光山裏見の滝裏見の滝は、栃木県日光市安良沢にある荒沢滝。落差は45m、幅2mの小さな滝であるが、滝を裏側より見れる事から「裏見の滝」と呼ばれるようになった。本図でも遠くより流れてくる水が勢いよく流れ落ちている中、物珍しそうに旅人が裏側を通っている。滝の流れる先に霞みをかけることで、滝壺が見えず延々と続くかのように描かれている。六十余州名所図会下野
木曾海道六十九次垂井「垂井」松並木を通り大名行列が垂井宿に入る処だ。入り口の両側には土塁が築かれている。先導する蓑笠の二人は問屋場の下役達で、傘をさし手を出しているのは宿役人であろう。「お休......>続きを読む一年前のブログ
「上野」榛名山雪中榛名山は群馬県群馬郡榛名町に位置する。有名な伊香保温泉がこの地から湧き出ており、現在も訪れる人が多い地域である。本図には雪中の榛名富士とその周囲が描かれている。特に目を引くのは中央の朱色の榛名神社であるが、橋は「神橋」、建物は十一観音像を安置したと伝えられる「東面堂」である。六十余州名所図会上野榛名山
木曾海道六十九次赤坂「赤坂」赤坂と垂井の間にある青墓の里は、遠江の池田、駿河の手越と共に日本の三大遊郭に数えられ、平治の乱に敗れた義朝父子が身を寄せたのも此処であった。揖斐川を渡って赤坂に入......>続きを読む一年前のブログ
「信濃」更科長野県更埴市南西にある冠着山(かむりきやま)、俗称「姥捨山」、は標高1,252メートル。「田毎の月」とは、棚田に映る月の事であり、長野盆地の姨捨山を中心とする更科の地は田毎の月の名所である。画面中央に満月、右側に青い棚田と反射する月、左下には千曲川が描かれている。六十余州名所図会信濃更科
木曾海道六十九次みえじ「みえじ」この宿場の名は美江寺観音に由来するものである。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた。美江寺宿の近くの小高い堤防へ......>続きを読む一年前のブログ
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「山下白雨」「山下白雨」は「神奈川沖浪裏」及び「凱風快晴」とともに富嶽の「三役」と呼ばれ、北斎版画の中でもっとも人気の高い作品である。題名の「山下白雨」とは、富士山の裾のほうで白雨が降っている様子を表している、白雨とは明るい空から降るにわか雨のことだが、北斎はその雨の様子を稲妻で表現している。富嶽三十六景山下白雨
六十余州名所図会越中「越中」富山船橋富山湾に続く神通川は、川幅が広く流れが急である。対岸に橋を渡すのが困難であったが、北陸街道の発展により橋の需要が高まり、船橋が架けられた。船橋は、数十隻......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会能登「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇......>続きを読む一年前のブログ
「凱風快晴」凱風快晴は「赤富士」とも呼ばれるが、それは赤く染まった富士を描いていることから来る。富士が赤く染まるのは、実際に起る現象で、夏の早朝に起りやすいという。それも甲州側(山梨県)から見られるそうだ。甲州側からだと、朝日を逆光に浴びた富士が赤く染まって見えるのだという。北斎はそんな言い伝えを意識しながら、赤富士の美しさを表現したと思われる。富嶽三十六景凱風快晴
六十余州名所図会加賀「加賀」金沢八勝之内蓮湖之漁火蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟のことで、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれた。海水が浸入する気水湖であり、魚の種類が豊富で漁業......>続きを読む一年前のブログ
「神奈川沖浪裏」欧米では、北斎と言えばまずこの絵が言及されるほど有名な絵だ。北斎の絵が初めてヨーロッパに渡った時から、北斎の代表作として受け取られた。クロード・モネはこれをアトリエの壁に架けて常に楽しんでいたと言うし、音楽家のドビュッシーは、交響曲「海」の楽譜の表紙に採用した。北斎の、この絵は大胆な構図と力強い線だと思う。逆巻く波を前景いっぱいに配置し、それとの対比で静かな富士の姿を遠景に配している。動と静、自然と人間のダイナミックな対比が大胆な画面構成のなかで強調し表現されている。富嶽三十六景神奈川沖浪裏
六十余州名所図会越前「越前」気比ノ松原敦賀は、敦賀湾を擁し天然の良港が造られた。古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、使節を迎える為の「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地であっ......>続きを読む一年前のブログ
「対馬」海岸夕晴対馬は、南北82km、東西18kmと細長いリアス式海岸で形成されており、風光明媚な景色が魅力的であった。又、晴れた日には目視できるほど朝鮮半島と近く、大陸との交流で重要な役割を果たしていた。本図では、対馬の入り組んだ海岸に無数の船が描かれており、海路が賑わっていたことが分かる。「六十余州名所図会」最終に相応し、虹を天空高くかけた快晴の対馬を描いている。次回より「富嶽三十六景」の投稿予定六十余州名所図会対馬
六十余州名所図会若狭「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都......>続きを読む一年前のブログ
「壱岐」志作長崎県壱岐市は、玄界灘およそ20kmの沖に位置する。朝鮮半島との要路にあたるため、古くから知られ、「いき」または「ゆき」と呼ばれていた。壱岐という字が定着するまでは一支、伊伎、伊吉、伊岐、等の表記が中国の史書などに記録されている。このあたりは暖流の対馬海流が流れているため、比較的暖かく、図のように雪が積もることはめったにない。古名の「ゆき」に関係しているのかも知れません。壱岐に行ったはずのない広重が「ゆき」という言葉もふまえ、雪景の壱岐を描いた様です。副題に「志作」という言葉が包まれているが壱岐には志作という地名も字名もないとのことです。六十余州名所図会壱岐
六十余州名所図会出羽「出羽」最上川月山遠望「五月雨をあつめて早し最上川」と芭蕉が句を詠んだことで有名だが、句でもあるように日本三大急流に数えられる。本図では山形城下に近い場所から西北......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会陸奥「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端......>続きを読む一年前のブログ
「薩摩坊の浦」双剣石鹿児島県の西南端に位置する坊津は、東シナ海に面し、古くから中国との交易の拠点として栄えた。江戸時代は貿易が長崎のみに制限されたが、ひっそりと貿易が続けられていたが徐々に衰退していった。本図では、海に山々が迫るリアス式海岸の風景が描かれている。名物の「双剣石」は、画面のように小舟で遊覧して見て回る人がいたようだ。六十余州名所図会薩摩
「大隈」さくらしま桜島は大正3年の大噴火による溶岩流によって大隅半島と陸続に成ったが、それまではまさしく「島」であった。これは桜島がまだ島だった頃の図です。桜島を画面左端で切ることによってその大きさを強調したのでしょうが、後世の我々からすると、四方を海で囲まれた桜島を見たかったところです。常に噴煙を上げ猛々しい桜島なのですが、この作品では煙もなく、閑かな春のたたずまいの桜島が描かれている。六十余州名所図会 大隈
六十余州名所図会下野「下野」日光山裏見の滝裏見の滝は、栃木県日光市安良沢にある荒沢滝。落差は45m、幅2mの小さな滝であるが、滝を裏側より見れる事から「裏見の滝」と呼ばれるようになった。......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会上野榛名山「上野」榛名山雪中榛名山は群馬県群馬郡榛名町に位置する。有名な伊香保温泉がこの地から湧き出ており、現在も訪れる人が多い地域である。本図には雪中の榛名富士とその周囲が描......>続きを読む一年前のブログ
「日向」油津ノ湊日南市の東部、日向灘に面する油津の港は、古くは大陸との交易の中継地として栄え、江戸時代には飫肥杉の積み出しで賑わった。本図では、油津港を一望しながら、港に入る交易船や建物、海岸線から山までの周囲一帯が描かれている。六十余州名所図会日向
「肥後」五ヶの庄五家庄とは、椎原、仁多尾、樅木、葉木、久連子の五集落の総称であり、現在の熊本県八代市泉町にあたる。1000mを越える山々に囲まれ、秘境と呼ぶにふさわしい場所である。本図でも、崖に生えた木がそのまま橋になった珍しい場所が描かれている。この風景は北斎の『北斎漫画』に出てくる「五かの庄」を参考に描かれている。六十余州名所図会肥後
六十余州名所図会信濃更科「信濃」更科長野県更埴市南西にある冠着山(かむりきやま)、俗称「姥捨山」、は標高1,252メートル。「田毎の月」とは、棚田に映る月の事であり、長野盆地の姨捨山を中心とす......>続きを読む一年前のブログ
六十余州名所図会飛弾籠わたし「飛弾」(飛騨)籠わたし飛騨地方は、山奥にあり橋を架けることが困難な場所が多くある。そのため、渓谷の間に縄を渡し宙づりにした籠に荷物や人を載せる「籠渡し」が行われていた......>続きを読む一年前のブログ
木曾海道六十九次恵智川「恵智川」「むちんはし」「はし銭いらず」の標柱が橋の畔に立っている。橋の修理費などは徴収されるが此処は仮橋の為に銭は取らなかったようだ。恵智川宿は高宮宿でも分かる様に、此......>続きを読む一年前のブログ
「越中」富山船橋富山湾に続く神通川は、川幅が広く流れが急である。対岸に橋を渡すのが困難であったが、北陸街道の発展により橋の需要が高まり、船橋が架けられた。船橋は、数十隻の船を鎖でつなぎ両岸の大柱に縫い付けて造られる。鎖の真ん中には錠がしてあり、洪水の時には錠を外して橋を左右に分解させたと言われている。本図では、50を超える船が弧を描くように浮かび、両岸の巨岩に結び付けられてある。何とも珍しい橋であるが、力学的な美しい曲線(カテナリー曲線に近い)が見事です。六十余州名所図会越中
木曾海道六十九次高宮「高宮」背丈にあまる大きな荷を背負っている二人の女性は、高宮宿の産物に関係のある高宮布が一杯に詰まっているのであろう。橋梁の残骸であろうか、橋桁だけが描かれているのは、河......>続きを読む一年前のブログ
「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登
「能登」瀧ノ浦能登半島は富山湾と日本海に挟まれた突端の半島で、富山湾側を内浦、日本海側を外浦と呼び、対称的な風景が見られる。本図は、日本海側の景色で、荒々しく浸食された奇岩が描かれている。奇岩の下は波に抉られて高さ15m、幅6mの洞門を作っており、非常にダイナミックな表情を見せている。六十余州名所図会能登
木曾海道六十九次鳥居本「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩......>続きを読む一年前のブログ
「加賀」金沢八勝之内蓮湖之漁火蓮湖は、金沢市と河北郡にまたがる河北潟のことで、広域で生息していた鬼蓮から蓮湖と呼ばれた。海水が浸入する気水湖であり、魚の種類が豊富で漁業が盛んであった。本図では、漁船が火を焚いていることから、夜の漁の風景である。陸路では小島へ小さな橋が架かっている。六十余州名所図会加賀
木曾海道六十九次番場「番場」入り口左辺に土塁があり、番場宿の入り口になる。「一膳めし」「酒さかな」「そばきり」などの釣り提灯が見える。看板には、山形に林の商標と「いせや」と書かれているが、版......>続きを読む一年前のブログ
「越前」気比ノ松原敦賀は、敦賀湾を擁し天然の良港が造られた。古代から朝鮮半島や中国大陸との交流が盛んで、使節を迎える為の「松原客館」が置かれるなど、海陸交通の要地であった。本図は、敦賀湾の最も奥に位置する気比ノ松原が描かれている。六十余州名所図会越前
木曾海道六十九次酔ケ井「酔ケ井」近江路は伊吹山麓の南をかすめて、間もなく琵琶湖畔に向かう。山又山の路をたどった中仙道の旅人は、平らな街路を軽やかに歩み進めていく。琵琶湖は次の宿場を過ぎたころ、......>続きを読む一年前のブログ
「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭
「若狭」鰈網若狭の小浜は日本海側では有数の漁港として栄え、若狭湾を中心に漁業が盛んな地域であった。古くから京都と陸路で結ばれていたため若狭街道は「鯖街道」と呼ばれ、京都へ魚を卸す重要な土地であった。本図では小舟から手繰網で鰈やカニをとっている場面が描かれている。鯖に並び鰈もこの地の特産であった。六十余州名所図会若狭
木曾海道六十九次柏原「柏原」江戸を発って近江路はじめての宿場柏原の名産は、伊吹もぐさである。昔から灸に使われる「艾」のことで、原料はヨモギの葉である。亀屋は、現当主五十三代によって健在である......>続きを読む一年前のブログ
「出羽」最上川月山遠望「五月雨をあつめて早し最上川」と芭蕉が句を詠んだことで有名だが、句でもあるように日本三大急流に数えられる。本図では山形城下に近い場所から西北の方を描いた図である。最上川を航行する小舟が多く描かれているが、現在でも川下りが行われており昔から変わらない風景である。出羽の国名は、鳥の羽毛をこの国の貢物としたことより名づけられたという。出羽三山のなかで月山は一番高く、中央に聳える高山がそれであろう。六十余州名所図会出羽
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
「陸奥」松島松島は、松島湾に浮かぶ260の島々からなり、海から突き出した様々な島が見せる風景は日本三景の一つに数えられる。奥州とも呼ばれた陸奥の国は六十余州の最北東端に位置し、山形・秋田以外の東北地方全域にあたる。陸奥は最初「道奥(みちおく)」と呼ばれ平安時代に「陸奥(みちのく)と呼ばれるようになったという。六十余州名所図会陸奥
木曾海道六十九次今須「今須」関ケ原から一里で今須宿に至る。さらに柏原の方へ行くとこの絵の長久寺の集落に出る。「江濃両国境」「寝物語由来」「不破之関屋」などの字が見え、此処が近江と美濃の国境で......>続きを読む一年前のブログ
木曾海道六十九次関ケ原「関ケ原」「名ぶつさとうもち」「そぼきり」「うんどん」と書いた提灯や看板が見える茶店は、内に草鞋や傘などもぶらさげている。蕎麦切りと云う言葉は慶長ごろから使われ、後に「......>続きを読む一年前のブログ
「下野」日光山裏見の滝裏見の滝は、栃木県日光市安良沢にある荒沢滝。落差は45m、幅2mの小さな滝であるが、滝を裏側より見れる事から「裏見の滝」と呼ばれるようになった。本図でも遠くより流れてくる水が勢いよく流れ落ちている中、物珍しそうに旅人が裏側を通っている。滝の流れる先に霞みをかけることで、滝壺が見えず延々と続くかのように描かれている。六十余州名所図会下野