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切り絵 浮世絵さんの新着記事

1件〜30件

  • 東海道五十三次 石薬師

    「石薬師」石薬師宿の名は石薬師寺にちなんで宿場名が付けられた。規模の小さい宿場で農化を営む人も多く、休憩をする旅人の多い所だった。一休禅師が「名も高き誓いも重き石薬師、瑠璃の光はあらたなりけり」と詠んでいる。働く農民や、刈り取られた藁山がのどかで、秋の風景と分かる。東海道五十三次石薬師

  • 一年前のブログ

    東海道五十三次藤澤「藤澤」藤沢は遊行寺の参詣者が多く、江ノ島への分岐点として賑わった。遠くに北条時宗の本山、遊行寺の伽藍が描かれ、その右手にある家並は道場坂の存在を示し、大鋸橋を挟んで、江ノ島弁......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 四日市

    「四日市」四日市宿には伊勢神宮へと向かう追分街道があり、伊勢へ行く人と東海道を進む人と両方の旅客で賑わっていた。宿の近くを流れる三重川(三滝川)のあたりの様子で、二人の旅人や柳枝のしなり具合からも、この地方の風の強さがわかる、又宮宿と四日市宿を結ぶ「十里の渡し」が運航されていて、宮宿と桑名宿を結ぶ「七里の渡し」と競合していた東海道五十三次四日市

  • 一年前のブログ

    広重行書版東海道五十三次程ヶ谷「程ヶ谷」初代広重の東海道物で「東海道」という文字が行書であることから、一般に行書東海道と呼ばれている。シリーズの内,程ヶ谷新町入口を描いたものである。此処でも帷子橋が描かれて......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 桑名

    「桑名」桑名は揖斐川の河口の港町として発展しており、港の入口には浮き城のように見える桑名城があった。木曽三川の河口の重要な港であった様子が、大型船の描写に偲ばれる。城下は、18世紀後半に幕府の許可のもと米市場が開設されて以来、江戸・大坂の相場を左右するほど商業の盛んな地となった。東海道五十三次桑名

  • 東海道五十三次 宮

    「宮」名古屋熱田神宮の門前町という事から、「宮」と云う地名になったと云われている。伊勢参りの旅人も集ったので、大変賑わい、東海道の中で最大の宿駅であった。馬には神が降臨されていると云われ,二頭駈けさせ,その年の豊作・豊漁などを占った様だ。東海道五十三次宮

  • 一年前のブログ

    東海道五十三次戸塚「戸塚」早朝に日本橋を発った旅人が、戸塚に到着する頃の夕景が描かれている。「こめや」の看板が目立つ茶屋は、米で作った餅菓子で有名な店で、軒下には伊勢参りをする講の名前を記した木......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 鳴海

    「鳴海」鳴海は鳴海絞り・有松絞りの産地として全国に名をはせていた。図は鳴海より約一里東に在る木綿に絞り染めをした浴衣の生地等を販売している有松の店を描いたもので、建物や樹木を暗く着色し、店の中に目が行くように描かれている。駕籠、馬、運搬人、女性の旅人が通る。東海道五十三次鳴海

  • 一年前のブログ

    広重名所江戸百景両国花火「両国花火」隅田川を挟んで武蔵と下総の二国に架けられた橋ということで両国橋の名が付けられ、その界隈を両国と呼ばれた。両国は江戸第一の繁華地として、見世物・芝居・辻講釈などに屋台......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 池鯉鮒

    「池鯉鮒」現在は「知立」と書きますが、知立神社の池には明神の使いの鯉と鮒が多く住んでいるところから「池鯉鮒」となったと言われている。街道に沿った細長い宿駅で、毎年4月末から5月初めには、東のはずれで馬市が催され、近郷近在から人々が集まり賑わったと。様々な姿の馬が描かれた野原に、夏草が生えわたり、爽やかな空気が感じられる。東海道五十三次池鯉鮒

  • 一年前のブログ

    広重東海道五十三次神奈川「神奈川」神奈川宿は現在の横浜の中心部より北東の台地に位置にある。宿場の街道沿いには景色を売り物にする茶屋が並び眺望の良いところであった。右の坂道には宿屋が並び、江戸からの旅人......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 岡崎

    「岡崎」岡崎の矢作川に架かる橋の名は矢矧之橋と云い、東海道中で一番長い橋で、208間(378m)ある。画面は曲線を用いて長さを強調している。大名行列が橋を渡っているところであり、向こう側には岡崎城が見える。徳川家康誕生の城を当時の人は特別の思いでみたであろう。豊臣秀吉(当時の名は木下藤吉郎)が蜂須賀小六と出会ったのはこの橋である。東海道五十三次岡崎

  • 東海道五十三次 藤川

    「藤川」棒鼻ノ図地方役人たちが土下座している。御弊をたてた駒と一緒に御馬献進の一行がゆく。幕府は毎年8月に朝廷に馬を献上することになっており、広重は天保3年にこの行列に参加した。藤川宿に差しかかる行列を迎える様子である。一行を迎えるのに犬まで座っていて、街道の脇に立つ棒鼻が宿場の外れを表わしている。東海道五十三次藤川

  • 一年前のブログ

    東海道五十三次川崎「川崎」川崎宿は当初宿場ではなかった、品川宿〜神奈川宿の間が長距離で負担が大きかったため、後から宿場として設置された。保永堂版では、川崎宿に入る川の渡しが描かれている。右奥には......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 赤坂

    「赤坂」〈夏の月御油より出でて赤坂や〉赤坂宿は西の藤川宿から約9km、東へ行けばわずか約2kmで御油宿に着く。赤坂宿と御油宿間は東海道五十三次で最も宿駅間が短く、夏に月が出でる短さを例えて松尾芭蕉はこの句を詠んだ。東隣の御油宿や吉田宿と共に飯盛女が多く置かれた宿場で、多くの男が足を留めて賑わいを見せた。中庭に大きな蘇鉄、化粧をする女たち、風呂から上がって来た客、慌ただしい人々の様子が描かれている。この絵のモデルとなった旅籠大橋屋は最近まで旅館業を続けていたが、2015年3月360年に渡る歴史に幕を閉じた。東海道五十三次赤坂

  • 東海道五十三次 御油 

    「御油旅人留女」御油は、浜名湖の北岸を迂回する姫街道の分岐点にも当たる交通の要地だった。次の宿場である赤阪の間が東海道中で最も距離が近く(1.7km)宿屋の客引が非常に強引であった。旅篭屋の店先に掛けられている定連の講中札を順番に読んでいくと、「竹之内板」「一立斎圖」「摺師平兵衛」「彫工治郎兵ヱ」「東海道贖畫」「三拾五番」となっている。35番は、御油が日本橋を除くと35番目の宿場という意味である。東海道五十三次御油

  • 東海道五十三次 吉田

    「吉田」吉田宿はかつて「今橋」と呼ばれた。画面の左側に大きく描かれている吉田大橋は、豊川に架かっている橋で、江戸から京都までの間にある四橋の1つである。豊川から伊勢へ行く早船が出ており、陸路を行くよりも三日も早く着くと、いつも満船だったと云われていた。戦国時代に、この地に城が築城されて城下町になり、後に譜代大名の努力もあって栄えた。修繕中の吉田城を描き、足場から職人が小手をかざして、その橋の方を眺めている。遠くに見えるのは鳳来寺山の様だ。東海道五十三次吉田

  • 一年前のブログ

    広重東海道五十三次日本橋「日本橋」江戸から京都へ向かう東海道の起点である日本橋。此処より京都までは124里半(492km)ある。明六ツに参勤交代の大名行列が橋を渡って来る。一方で魚を天秤棒で担いだ一団......>続きを読む一年前のブログ

  • 東海道五十三次 二川 猿ケ馬場

    「二川」猿ケ馬場二川宿は東海道五十三次三十三番目の宿場町で此れより三河に至る、江戸日本橋より72里余、宿場としては小規模で、町並の長さ東西12町26間、天保14年に家数328軒だった。副題の猿ケ馬場は次の白川宿に近いところにあったそうだが見当たらず広重の勘違いの様だ。三味線などを弾き、歌を唄いながら物乞いをする瞽女(ごぜ)三人と「名物かしわ餅」の看板をさげる茶店を描き、遠景に姫小松の野が描かれている。東海道五十三次二川猿ケ馬場

  • 東海道五十三次 隷書版 川崎

    隷書版「川崎」隷書東海道揃物の一つ川崎。六郷川の中程で大勢の旅人を乗せた渡し船がすれ違うところで、河口からは米や味噌などの生活物資を載せ、川上の山村からは薪炭や鮎などの産物を運んでくる帆掛船が見える。東海道五十三次隷書版川崎

  • 東海道五十三次 白須賀

    「白須賀」白須賀という地名の由来は、「白い砂州の上に開けた集落」であった為である。峠の上から遠州灘を一望できる潮見坂は、富士山が見える西方の限界といわれた場所で、反対に京都から江戸へ向かうと、此の汐見坂のあたりが初めて海を見下ろせる場所でもあった。この宿場は渥美半島の村々へ通ずる道の出発点でもあり、賑わっていた。大名行列の一行が黙々と坂を下って来る様子が道の勾配を感じさせる。東海道五十三次白須賀

  • 東海道五十三次 新居

    「新居」舞坂の今切の渡しから新居に向かう。遠くに見える向こう岸には箱根と並んで厳しい取締りが行なわれる新居関所が有る。ふき流しをはためかせ、二本の毛槍を高々と飾り立てた船は参勤交代の一行である。手前は旅人の船で間もなくのんびりとした短い船旅が終わる。題字は「荒井」になっているが現在は「新居」が使われている。尚「荒井」の町名は兵庫県と宮城県にある東海道五十三次新居

  • 東海道五十三次 舞阪

    「舞阪」舞坂から次の荒井までは舟渡しで、海上一里を行く。今までの徒歩での陸路の旅とは異なり、束の間の憩いの一時でもあった。明応七年(1498)の大地震で、浜名湖と海を隔てていた陸地が切れてしまい、「最近切れてできた渡し」ということから、「今切れの渡し」と云った。遠景には富士山が見える。東海道五十三次舞阪

  • 一年前のブログ 神田紺屋町

    名所江戸百景神田紺屋町「神田紺屋町」江戸時代同じ職種に属する職人たちは、一ヶ所に固まって住み、その職種を町名にしてた。染物の町神田紺屋町の風景である。紺屋町は、江戸初期より、幕府お抱えの職人が住み......>続きを読む一年前のブログ神田紺屋町

  • 東海道五十三次 濱松

    「濱松」東海道の半ばを越えた濱松。冬枯の原野は寂しい。一本杉の傍らでたき火を囲んで、たばこを吸いながら暖をとる農夫たちのところへ、旅人が冷えた体を暖めようと話しかけて来る。世間話に花が咲く。遠景の浜松城は、若き徳川家康が居城としていた所、その左右に町が広がっている。東海道五十三次濱松

  • 東海道五十三次 見附

    「見附」天竜川の東岸に見附の宿場がある、遠江国の国府であったこの地は、江戸時代以前東海道最も栄えた宿場町だった。京都から江戸へ向かうと初めて富士山が見える事から「見附」と言われた。信濃・諏訪湖を源にする天竜川は、荷役人よって川渡りをしていた。大水になれば川幅約1㎞を一気に渡る事も出来たが、渇水時はこのような光景になる。東海道五十三次見附

  • 東海道五十三次 袋井

    「袋井」袋井宿は東海道五十三次の東西どちらからも27番目の、真ん中の宿で東西文化の中間点として、物資と人々の往来や、秋葉山への参拝客などで賑わったといわれていた。四方を丘に囲まれた袋状の土地に大きな井戸があったので袋井といわれている。宿はずれにあった粗末な出茶屋の様子が描かれている。葦簀掛けの小屋で休息を取る飛脚や、茶屋の女房が茶を飲みながら楽しげに談笑するのどかな風景だ。東海道五十三次袋井

  • 東海道五十三次 掛川

    「掛川」掛川宿のはずれには橋がある。凧が画面からはずれるほど高く上がっている。遠景には険しい秋葉山がある。手前に描かれた御神灯は防火の信仰の秋葉権現への入口を示す。供を連れた僧侶が渡ってくる。旅の老婆とその連れの男。そして凧の糸が切れて叫びながら追いかける童子。田植えの農夫を描き、季節を表現している東海道五十三次掛川

  • 名所江戸百景 千駄木団子坂

    「千駄木団子坂」団子店が並ぶことから称される団子坂は、別名千駄木坂・潮見坂とも云い、現在の文京区千駄木にあたりで眺めの良さに多くの人が訪れた。坂の上に位置する紫泉亭はもと植木屋楠田宇平次の園で、種々の花が植えられ、花見の名所となった。下方の桜並木は、根津権現社境内とする説もあり、手前の水面は不忍池の様だ。名所江戸百景千駄木団子坂

  • 名所江戸百景 市ヶ谷八幡宮

    名所江戸百景市ヶ谷八幡宮「市ヶ谷八幡宮」手前に見えるのは,市谷御門に架かる橋。その橋上から一望した市谷八幡を見た図。JR市谷駅近くの市谷八幡社(現在の亀岡八幡宮)は太田道潅が鎌倉にある鶴岡八幡宮を勧請......>続きを読む名所江戸百景市ヶ谷八幡宮

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