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    木曾海道六十九次細久手「細久手」細久手宿は大久手と御嶽の間が長かったため、間の宿として創られた当初から天保頃まで戸数が殆ど変わらなかった寒村である。細久手宿への入り口付近の坂の上から描いたもの......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 安房 小湊 内浦

    「安房」小湊小湊は、日蓮上人誕生の地で、上人に由来する、様々な場所がある。中央左上に一際大きな建物が見えるが、これは上人誕生を記念して建立された誕生寺である。画面中央では内浦湾に小舟が優雅に浮かんでいるが、帆を見れば風の方角が分かる。現在の千葉県鴨川市にある内浦湾は別名「鯛の浦」とも呼ばれ、世界有数の鯛の群生地として国の「天然記念物」に指定されている。六十余州名所図会安房小湊内浦

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    木曾海道六十九次大久手「大久手」大久手は大湫とも書く。この宿を過ぎると平坦な道が続き、左側には母衣岩・烏帽子岩など露出した岩石が数か所見える。美濃平野の平坦な野に松が、か細く立ち広々と感じさせ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 江戸 浅草市

    「江戸」浅草市浅草寺の境内で行われた歳の市の様子を描いている。歳の市は、毎年12月17、18日に行われ、注連飾りや蓬莱飾物などの年始の準備品が売られている。六十余州名所図会で最も画面内の人が多く、市の賑わいが一目でわかる。明治以降は、必需品などを売る「店」が日常的に数多く出来、「浅草市」は次第に廃れていった。六十余州名所図会江戸浅草市

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    木曾海道六十九次大井「大井」雨や雪を表情豊かに描き分ける事では広重に勝るものはいない。大井宿では、山間にしんしんと降り積もり、冠雪した松樹の合間を人馬がうつむいて歩む表情のため、古風な印象を......>続きを読む一年前のブログ

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    木曾海道六十九次中津川中津川(晴)重畳たる山間を縫う木曽路に別れを告げて、明るく開けた美濃路に入り、二番目の宿驛が中津川である。折り重なる木曽の山々や恵那山を背景に、平坦な野を描く。篠懸をつけ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 武蔵 隅田川

    「武蔵」隅田川現在では積雪が珍しい都心であるが、『江戸名所花暦』(1830年)には、隅田川は雪の名所として記されている。本図では、一面の雪景色に青く澄んだ隅田川が栄える作品である。また背景の赤く染まった空は、朝焼けを表現し、早朝の雰囲気を感じさせてくれる。画面中央を流れる隅田川に左手前からほぼ直角に合流しているのが「山谷堀」音無川の三ノ輪あたりから隅田川の今戸をつなぐように掘られた掘割で、水害対策とともに、灌漑の補助もかねていた。こういった堀は江戸にはたくさんあったが、堀といえば「山谷堀」を指すほど著名で、船宿や茶店が堀の両岸に並んだという。六十余州名所図会武蔵隅田川

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    木曾海道六十九次中津川(雨)中津川中津川の作品は、晴雨の両景二種類ある。中津川宿の遠方には晴れ間が次第に見えてきたのであろうが、まだここでは雨が重く冷たく降りしきり、雨合羽に身を包んだ旅人は、容赦な......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 相模江之嶋 岩屋ノ口

    「相模」江之嶋岩屋ノ口江ノ島は、相模湾岸の境川の河口にあり、境川によって運ばれた土砂でできた片瀬海岸とつながる、満潮時にはこの砂州が水面下に消えた。人々は渡し舟に乗るか、引き潮を見計らって歩いて渡っていた。その後、江ノ島大橋、江ノ島弁天橋が架橋され、干満の別なく渡ることが出来る様に成った。箱根・江ノ島方面への旅は、江戸から2~3日の近郊の旅行として人気があっただけでなく、足を伸ばせば富士詣、身延詣、にも行けるので、これらの参詣の流行とともに隆盛を極めた。本図では、富士山の左半分と江ノ島の右半分が枠外に消え、画面上にはそれぞれ半分しか描かれていない。此の事によって、横長に広がる景色を無理に縦の構図に入れ込むのではなく、左右に広がる構成をイメージでき、より広い空間を演出している。六十余州名所図会相模江之嶋岩屋ノ口

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    木曾海道六十九次落合「落合」木曽路の嶮しい山道を難儀しながら歩いてきた旅人達は、馬籠宿の先の急な坂道を下り、前面に開けた平地の中に落合宿を見付けると、我が家に帰った気分になったという。恵那山......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 伊豆 修禅寺

    「伊豆」修禅寺湯治場修禅寺温泉は、807年に弘法大師が開いたとされる歴史ある温泉である。広重は本シリーズを描く際に『山水奇観』を参考に描いているが、例外的に気に入った場所を追加して描いており、本作品も広重が新たに加えて描いた場所である。画面中央の湯治場「独鈷(とっこ)の湯」の建物を細かく表現し、急流の川と共に賑やかな雰囲気が伝わってくる。六十余州名所図会伊豆修禅寺

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    木曾海道六十九次馬籠「馬籠」妻籠を出て蘭川を渡る手前、左へ行けば清内路越で飯田へ、右に妻籠橋を渡れば中仙道、京都へ道が江戸からの道程より三十四里(136km)も近くなっている。これから最後の......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 甲斐

    「甲斐」さるはし山梨県大月の猿橋は、長さ31mで桂川に架けられた小さな橋である。岩国の錦帯橋、木曽の桟橋に並び日本三奇矯に数えられ、独特の橋脚が魅力的である。本図でも橋の特徴をよく現すように低い視点から描かれており、上空の猿橋と下の桂川の荒々しい流れがバランス良く配置されている。六十余州名所図会甲斐

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    木曾海道六十九次妻籠「妻籠」山また山の険しい木曽路。右上の道と中央の道は、道が幾度も曲折している事を示している。又路面の凸凹もかなりあった様子が波線で表現している。現在の妻籠は隣の馬籠と共に......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 駿河

    「駿河」三保のまつ原三保の松原は、駿河湾に面して長くせり出した陸地で、白い砂浜に青い松の色彩が素晴らしい名所である。本図では、駿河湾に伸びる松原とその延長線上に見える富士のバランスが良い。また湾に浮かぶ小舟の帆が風を伝えてくれる。六十余州名所図会駿河

  • 六十余州名所図会 遠江

    「遠江」浜名之湖堀江舘山寺遠江は、京に近い湖の琵琶湖「近淡海」に対して、遠い湖・浜名湖「遠淡湖」を指した名称である。最大深度12メートルをこす陥没湖でしかも潮湖である。図では左側に舘山と舘山寺が見える。中央の浜名湖はS字に大きく迂回しながら描かれており、全体の構図が美しく構成されている。遠江国は静岡県西部に位置し、南は遠州灘に面し、北は信州天竜峡谷を控え、その間猪鼻湖とも繋がっている。六十余州名所図会遠江

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    木曾海道六十九次野尻「野尻」野尻宿の伊奈川を横切る伊奈川橋を描く。尾張藩が直々に修理にあたった木曽三大橋のひとつである。下方から見上げる橋は水量の激しさと桟の高さを表現している。...>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 三河

    「三河」鳳来寺山厳鳳来寺は、愛知県新城市の鳳来寺山にある古寺で、真言宗五智教団の寺院で建物はあまり主張せず、背後に見える壮大な山々に視点を向けている。特に雲間に隠れる山間の景色と、頂上に続く1425段の石段が気に入ったようで丁寧に表現されている。大宝2年(702年)利修の開山で、薬師信仰と山岳修験道の霊山として古くから信仰を集める。徳川家康の両親が天下人となる男子を祈願して家康を授かったと伝わったことから幕府の庇護を受けていた。六十余州名所図会三河

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    木曽海道六十九次須原「須原」上松から三里半の道程で須原宿に入る。宿の外れ野尻寄りに木曽義仲の菩提所、浄戒山定勝寺がある。。図の太い杉の木は定勝寺の境内のものだろう。激しい横なぐりの夕立に虚無......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 尾張

    「尾張」津嶋天王祭り尾張津嶋の天王祭りは、旧暦の6月14、15日に行われ、日本三大川祭りの一つとして賑わった。現在でも7月の第4土曜日に行われ、提灯が飾られた車楽船が闇夜に浮かび上がり華やかな風景が見られる。船上の提灯は半球状に1年の日数の365個(現在は400個)の提灯と真柱には一年の月数12個、旧暦の閏年には13個が点灯される。これは旧暦の閏年は13ヶ月あったことに由来している。(広重の原画では船の中央に伸びる真柱の飾り提灯が14~16と適当に描かれていることから広重本人は天王祭りに詳しくなかった様だ)。六十余州名所図会尾張

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    木曽海道六十九次福し満「福し満」中山道は藪原を過ぎ福島宿に入る。江戸と京のほぼ中間に位置する福島は木曽谷十一宿の最も農作物の豊かな地であった。全国五十余か所あった関所中、碓氷、新居、箱根の関と......>続きを読む一年前のブログ

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    木曽海道六十九次上松「上松」上松宿に至る橋上の人物、落下する滝に向かって突き出た岩崖その上に小祠がある。小野の滝は木曽の名瀑で、元は木曽川に垂直に落下していた。...>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 志摩

    「志摩」日和山鳥羽湊志摩は三重県の東端部に位置し、多くの島嶼と多くの港が雑然と散在する。江湾が極めて多く、船の出入りは頻繁で、左面に見える、答志島・菅島などあって外洋を遮断し、停泊の安全性をもつため、天候が悪く風波激する時、この湊へ寄港した。特に鳥羽港は天然の良港をなし、古くから待避港や風待港として栄えた。画面手前への日和山は鳥羽湾を望める標高68mの小さな山であるが山頂から太平洋の島々が一望でき絶好の展望台として知られていた。鳥羽湾は江戸と大阪を行き来する船の寄港湾でもあり、往来船が多く描かれている。六十余州名所図会志摩

  • 六十余州名所図会 伊勢

    「伊勢」朝熊山峠の茶屋伊勢と鳥羽の間にある朝熊山は、「あさまやま」と読み、伊勢市南部に位置する山で標高が555mの山頂には臨済宗南禅寺派の金剛證寺がある。伊勢神宮の鬼門を護る寺として、伊勢志摩最大の寺として多くの参拝客が訪れた。図は朝熊山の頂上近くの茶屋と伊勢湾の風景である。お伊勢参りの人々の行き交う画面下に、峠の茶屋からの眺望は雄大で、富士山が見える事もあったと云います。六十余州名所図会伊勢

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    木曽海道六十九次宮の腰「宮の腰」木曽山中の、宮の腰には「谷中狭きゆえに、田畑まれにして村里少なし、寒気激しきゆえ土壁無く、みな板壁なり、竹と茶に木まれなり寒甚だしきゆえ栽ふれど枯る」気候寒冷に......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 伊賀

    「伊賀」上野伊賀の町は忍者と芭蕉で有名だが、広重も感じ入るところがあったようで本図で名所として描き残している。奥に見える伊賀城に向かって田舎道が伸び、茶屋や橋が描かれている。旅人などが描かれているが、皆伊賀城から出掛けているように手前に向かって歩いていることから、奈良(伊賀)街道を歩いて京都方面に向かう人が多かったのではないかと想像できる。六十余州名所図会伊賀

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    木曽海道六十九次藪原「藪原」英泉藪原は木曽路最大の難所ともいわれた。頂上からの眺めは最高。西に御嶽山、南に駒ケ岳、そして眼下に木曽川の清流。柴を刈り里へ下る女人二人、これから難所を越えてや......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 摂津

    「摂津」住よし出見のはま住吉は古くは墨江といわれ、重要な港があった。中央左に綺麗な反り橋が架かり松原から浜に出る人が描かれている。浜には茶屋が並び、住吉神社への参詣の賑わいが感じられる。中央では航行の安全の為に高燈籠が建てられている。現在でも住吉公園の西約三百米の処、十三間堀の東岸にその跡が残されている。六十余州名所図会摂津

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    木曽海道六十九次奈良井「奈良井」英泉木曽の御岳を遠方の望んだ奈良井宿の「名物お六櫛」と看板をさげた店先である。奈良井の名物は曲物や塗り物で、蕎麦屋が使用する蒸篭や湯桶などが売られていた。「お......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 和泉

    和泉高師のはま元は「泉」という国名であったものを和銅6年(713年)「和泉」となったが「和」は読まず、「いずみ」と読み方は変わらない。高師は高志、高石とも言われる。現在の高石市は大阪湾に面し、熊野街道と高野街道に通じたことから古くから人の行き来が多かった場所である。本図でも広大な大阪湾が一望でき、右背景には兵庫県方面の山々も続いている。手前に見える社殿と鳥居は地名の由来ともなった高石神社である。紀州街道に面していたため高野山詣での旅人も多く立ち寄ったようだ。六十余州名所図会和泉

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    木曽海道六十九次贄川「贄川」贄川宿の路に面した玄関先を描き、馬から荷駄を降ろす馬子、上がり框で煙管をくわえる駕籠舁、土間で草鞋を脱いで足を濯いでいる客、客に挨拶する番頭、茶を運び食事を二階へ......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 河内

    河内牧方男山河内国(大阪府)は東南に山岳を擁し、淀川が西北を、そして大和川がその中央を流れて、交通の利便さにより発展をみせていた。枚方は淀川の水駅として名高く、徳川幕府はここに船番所を置き、上下の舟をきびしく監視して、伏見と大坂の間の航行を掌握していた。男山は河内と山城両国の境を接する海抜百四十米、この北方に淀川を臨み京師への関門となっている。有名な石清水八幡宮の西にある。淀川の曲がった川筋には悠々として水が流れ、それに応ずるがごとく男山が泰然と上空を圧している。六十余州名所図会河内

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    木曽海道六十九次本山「本山」本山宿から奈良井にかかる、これより南は木曽路に入る、路はますます山深くなる。路を横切る大木は意表を突く。焚火の煙と大木を支える杭が、それに交互して画面を構成してい......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 大和

    「大和」大和国は、現在の奈良県全域を領している。龍田川は法隆寺や中宮寺のある斑鳩町まで流れて大和川と合流する。龍田神社や龍田公園は現在でも紅葉の名所として親しまれている。本図大和でも川を挟んで対岸の竜田社本宮、周辺の山々まで描かれているが、紅葉を描き加えることで文学的情趣を加えている。六十余州名所図会大和

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    木曽海道六十九次洗馬「洗馬」洗馬(せば)宿の西にある太田の清水は今でも湧き出している、この水は犀川より千曲川に流れてゆくが、此の辺りは奈良井と呼ばれ、塩尻から.一里三十町、木曾路の山が一層深......>続きを読む一年前のブログ

  • 六十余州名所図会 山城 あらし山 渡月橋

    「山城」嵐山は京都の西に位置し、平安時代より貴族たちの遊び場になった名所・旧跡が点在している。桜が咲き誇る嵐山を背景に渡月橋が描かれている。細かく見ていくと、山の中腹に戸無瀬滝が見え、渡月橋の先には法輪寺に続く街道が見える。六十余州名所図会山城あらし山渡月橋

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    木曽海道六十九次塩尻「塩尻」塩尻峠は塩尻宿と諏訪湖の中間にあって海抜1,000m峠の頂上では眼下に岡谷と下諏訪の町が見える。二つの町の間に楕円形の諏訪湖がある。北アルプスの連峰を始め南には中......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 大津

    「大津」大津宿は中山道69番目、東海道53番目の宿場で、宿場町としての機能と琵琶湖を使った物資の集散地機能を併せ持っており、中山道、東海道の中でも最大規模の宿場町であった。今も街道沿いで「ばったり床机」がある家を見る事ができた往時の面影残る街道である。大津宿は琵琶湖水運による物資の集散地としての賑わいの他に、三井寺の門前町として、また北国海道との追分でもあったこと等から、その賑わいは江戸・日本橋にも匹敵するほどだったという。次回から六十余州名所図会木曾海道六十九次大津

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    木曽海道六十九次下諏訪「下諏訪」中山道と甲州街道の合流点で繁華な宿場であった。下諏訪は、信濃国一の宮の諏訪大社の門前町としても栄えた。当時の旅籠では例外なく沸かし湯で、温泉は野外の浴場へ行った......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 草津追分

    「草津追分」草津川の川越は東海道・中山道の2ヶ所あり、この作品は草津追分にあった中山道の渡し場の風景を描いている。草津宿の北を流れる草津川は、川床が民家の屋根より高いため「天井川」とも呼ばれていた。画面奥に民家の屋根の一部が見えるのはそのためです。普段はほとんど水の流れはなく、川を越える旅人は徒歩で草津川を渡っていた。しかし、ひとたび大雨が降ると氾濫する危険があり、草津宿は何度も洪水被害に見舞われた。平成に入り河川の付け替え工事が行われ、跡地は公園として整備された。木曾海道六十九次草津追分

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    木曽海道六十九次和田「和田」和田宿を過ぎると間もなく上和田で、かつては牛宿が在ったいう荒井を過ぎると和田峠が近い。坂が長く、上り九十町で、峠を上りつめると御岳遥拝所があった。冬季は積雪三米に......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 守山

    「守山」桜花爛漫と咲き乱れる弥生の春の、野洲川沿いの守山宿を描く。遠景には近江富士と呼称される三上山が見える。このシリーズで桜を取り上げたのは他には「大宮」宿があるだけで、この絵のように桜に囲まれた景色を描いたものは他にない。山また山の貧しい寒村を貫く中仙道もあと草津、大津を残すだけ、やっと愁眉を開いたといった感じで、解放感がみえる。木曾海道六十九次守山

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    木曽海道六十九次長久保「長久保」笠取峠を超えるとあとはなだらかな下り坂が続き、やがて長久保宿に入る。夕暮れ時の依田川に架かる和田橋を中心に描かれたものだ。馬上の客は首を深くうなだれ、長い旅路の......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 武佐

    「武佐」中仙道は近江路にはいいて。近江盆地の緑野を進み、足取りも軽やかになる。此処まで来ると琵琶湖に流れ込む水を描く事が多くなる。武佐宿を出て暫く行った処の日野川が描かれている。この川では川舟を杭で固定して板を置いた舟橋を作り彼方の小屋で渡り銭を取っていた。木曾海道六十九次武佐

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    木曽海道六十九次あし田「あし田」芦田宿の近辺になると、突起の激しい地形に成り、此処から長久保宿に至る街道は、笠取峠を越さなければ成らない。右辺の頂にある出茶屋と、左下の出茶屋の二つ在った事は明......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 恵智川

    「恵智川」「むちんはし」「はし銭いらず」の標柱が橋の畔に立っている。橋の修理費などは徴収されるが此処は仮橋の為に銭は取らなかったようだ。恵智川宿は高宮宿でも分かる様に、此の辺りは水害によく遭うようだ。牛を牽く女に道を尋ねている虚無僧二人を描かれている。虚無僧は雨露をしのぐため薦(こも)を持ち歩いた為、薦僧とも言った。僧侶とは言え僧衣をつけず有髪で、天蓋と云う深編笠を被っていた。恵智川は現在、愛知川と書かれている。遠景に見えるのは繖山である。木曾海道六十九次恵智川

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    木曽海道六十九次望月「望月」望月宿から東へ向かい中山道の瓜生坂から松並木越に浅間山を描いている。この宿場の東北にある御牧ヶ原は馬の飼育が盛んで,8月15日満月の日に優良な馬が朝廷に献上されて......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 高宮

    「高宮」背丈にあまる大きな荷を背負っている二人の女性は、高宮宿の産物に関係のある高宮布が一杯に詰まっているのであろう。橋梁の残骸であろうか、橋桁だけが描かれているのは、河原が干上がり、流れがほんのわずかになった犬上川とみられる。木曾海道六十九次高宮

  • 木曾海道六十九次 鳥居本

    「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩した折、「望湖堂」と揮毫した書を残した。これよりこの茶屋を「望湖堂」と呼ぶようになった。中山道を往来する大名達も必ず「望湖堂」に立寄って行った。茶屋の内部は本陣風に造られていたという。広重は「望湖堂」で休息をとる大名の一行を描いている。茶屋の窓には絶景を堪能する大名や近習達の顔が見え、茶屋の前では従者達が手持不沙汰に休憩している。木曾海道六十九次鳥居本

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    「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩した折、「望湖堂」と揮毫した書を残した。これよりこの茶屋を「望湖堂」と呼ぶようになった。中山道を往来する大名達も必ず「望湖堂」に立寄って行った。茶屋の内部は本陣風に造られていたという。広重は「望湖堂」で休息をとる大名の一行を描いている。茶屋の窓には絶景を堪能する大名や近習達の顔が見え、茶屋の前では従者達が手持不沙汰に休憩している。木曾海道六十九次鳥居本

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    「鳥居本」番場から摺針峠を越えてから鳥居本へ入った,この峠から西方の眼下には琵琶湖の景色が広がっていて、中山道第一の景として有名であった。朝鮮通信使の一行がこの茶屋で休憩した折、「望湖堂」と揮毫した書を残した。これよりこの茶屋を「望湖堂」と呼ぶようになった。中山道を往来する大名達も必ず「望湖堂」に立寄って行った。茶屋の内部は本陣風に造られていたという。広重は「望湖堂」で休息をとる大名の一行を描いている。茶屋の窓には絶景を堪能する大名や近習達の顔が見え、茶屋の前では従者達が手持不沙汰に休憩している。木曾海道六十九次鳥居本

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    木曽海道六十九次八幡「八幡」千曲川を間にはさんだ塩名田と此の八幡の両宿は、中仙道のなかでも最も距離が短い。約3kmの道程で、歩いても50分程度である。描かれている場所は八幡から望月へ行く途......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 番場

    「番場」入り口左辺に土塁があり、番場宿の入り口になる。「一膳めし」「酒さかな」「そばきり」などの釣り提灯が見える。看板には、山形に林の商標と「いせや」と書かれているが、版元の伊勢屋利兵と絵師の広重の「山に林」商標が書かれている。宿場の家並みを正面から描いた作品は少ない。宿場の家や樹木が遠景になるにしたがい小さくなる遠近法が無理なく描写されている。劇作の「番場の忠太郎」の宿名は此処である。木曾海道六十九次番場

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    木曽海道六十九次塩なた「塩なた」秩父山地に源を発して、浅間山麓を囲繞し、小諸を中心とする佐久盆地と上田盆地を経て、長野盆地で犀川と合流する千曲川の河畔にひらけた塩名田宿の渡し場を描く。渇水期の......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 酔ケ井

    「酔ケ井」近江路は伊吹山麓の南をかすめて、間もなく琵琶湖畔に向かう。山又山の路をたどった中仙道の旅人は、平らな街路を軽やかに歩み進めていく。琵琶湖は次の宿場を過ぎたころ、ようやく見えてくる。醒ケ井は古くから旅人の渇を癒した処でもあった。木曾海道六十九次酔ケ井

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    木曽道中岩村田「岩村田」岩村田は現在の長野県佐久市に成る。シリーズ随一の異色作で盲人の喧嘩場を描き、英泉の体臭を最も発散させている作品である。七人の顔は百面相を見る様で、仁王のようなご......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 柏原

    「柏原」江戸を発って近江路はじめての宿場柏原の名産は、伊吹もぐさである。昔から灸に使われる「艾」のことで、原料はヨモギの葉である。亀屋は、現当主五十三代によって健在である。店の右端に福助像、中央に伊吹山の盆景、左端に金太郎像があり、奥底を見させての「酒さかな」「金時もちや」を営業させ、当時の繁栄ぶりを忠実に描いている。木曾海道六十九次柏原

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    木曽海道六十九次小田井「小田井」追分宿のはずれ、北国街道といわれる小諸・上田経由で善光寺へと通ずる、広々とした原野がつづく小田井宿。遠く浅間を望み、すすきの生い茂る無人の荒野を「本堂造立」の旗......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 今須

    「今須」関ケ原から一里で今須宿に至る。さらに柏原の方へ行くとこの絵の長久寺の集落に出る。「江濃両国境」「寝物語由来」「不破之関屋」などの字が見え、此処が近江と美濃の国境であることがわかる。不破の関は越前の愛発、伊勢の鈴鹿とともに日本三関の一つといわれ、近江と美濃の国境地点に近く、古代、近江朝廷を守る中仙道上の要地であった。木曾海道六十九次今須

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    木曽街道追分「追分」追分宿は中仙道と善光寺道の分かれる所で、中仙道で最も高い地点にある宿駅である。上信国境に裾を広く拡げた美しい山をもつ浅間山は、三重式活火山で那須火山帯に属す。標高......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 関ケ原

    「関ケ原」「名ぶつさとうもち」「そぼきり」「うんどん」と書いた提灯や看板が見える茶店は、内に草鞋や傘などもぶらさげている。蕎麦切りと云う言葉は慶長ごろから使われ、後に「そばは江戸、うどんは上方」と云われたが、此の様に一緒に売り出すようになった。関ケ原宿は北に伊吹、南から鈴鹿の山が迫り、平地の最もくびれたところで、昔は中仙道きっての大宿であった。関ケ原は石田三成(豊臣方)と徳川家康が戦い、徳川家が天下を取る契機となった古戦場である。木曾海道六十九次関ケ原

  • 木曾海道六十九次 垂井

    「垂井」松並木を通り大名行列が垂井宿に入る処だ。入り口の両側には土塁が築かれている。先導する蓑笠の二人は問屋場の下役達で、傘をさし手を出しているのは宿役人であろう。「お休み処」「御ちや漬」などの看板をあげる二軒の茶屋には、美人画や風景画の版画が飾られている。日中軽い雨が降っている。垂井宿には天保十四年(1843)家数が三百十五軒だった。木曾海道六十九次垂井

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    木曽海道六十九次軽井沢「軽井沢」軽井沢宿の風景で浅間山を背景に、馬上の客と馬子が煙草の火を付けあっている。腰を屈めて焚火から煙管の火を取る旅人の姿には、侘しさが漂う。小田原提灯や焚火の灯りが光......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次赤坂

    「赤坂」赤坂と垂井の間にある青墓の里は、遠江の池田、駿河の手越と共に日本の三大遊郭に数えられ、平治の乱に敗れた義朝父子が身を寄せたのも此処であった。揖斐川を渡って赤坂に入ると、東側に杭瀬川が流れる。此の絵はその川を描いた物で、橋のたもとには宿名や里程を標す長い角材の表示杭が立っている。木曾海道六十九次赤坂

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    木曽海道坂本「坂本」刎石山を借景に坂本宿を俯瞰して旅人達で賑わう街道と、その北側の家並みを描いている。この宿場内の街道の長さは392間あり、道の中央には往来する馬の飲み水や防火用に4......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 みえじ

    「みえじ」この宿場の名は美江寺観音に由来するものである。美江寺という名は、「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた。美江寺宿の近くの小高い堤防へ登る坂道で、旅人が地元の人に道を尋ねていて、通りがかった行商人が話を立ち聞きしている。日没間近になって地平線の上空を赤く染めはしめたころであろうか。高くのびた竹藪がゆれ動き、それに伴って雀が飛び交い、囀る声が静寂に響く。右辺の椿の花の色がことさら美しさを添えている。木曾海道六十九次みえじ

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    木曽海道松井田「松井田」大きな松を中心に、緩やかに曲がる坂道を描く。往き来する人もまばらで、荷を積んだ馬ものんびりと歩む、道の傍らに小さな祠があり、それにふさわしい小さな幟が二つ立ち、......>続きを読む一年前のブログ

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    木曽海道六十九次安中「安中」両側に迫る丘の間に緩やかな坂が伸びる。路の先は下り坂のようだ。蓆(むしろ)を広げて何か仕事をしている老女らしき農家の人に、杖を突き、笠をかぶった旅人が話しかけてい......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 河渡

    「河渡」河渡(ごうど)は長良川を越す渡し場の宿であるが、京に上る旅人はすでに路銀も少なくなり、この宿は足早に立ち去る人が多かった。此処ではそのような宿場とは関係なく、長良川の鵜飼の有様を描く。鵜匠が鵜を使うのは鎌倉時代から行われたが、徳川時代になり隆盛になった。使う鵜は海鵜で、一人で十二羽まで操作して、魚を捕えた鵜の姿がシルエットで描かれ、手に檜縄を握る鵜匠、船中には鵜籠があって、当時の風俗を窺わせている。木曾海道六十九次河渡

  • 木曾海道六十九次 加納

    「加納」遠景に加納城が見られる、この城は一名沓井城といい、文安二年(1445),土岐氏の家臣斎藤帯刀左衛門利永によって築かれたが、天文(1555)頃廃城となっていた。しかし家康は、岐阜城を廃し、代りに南方を通る中山道沿いの加納宿を設けるとともに、加納城を築き,女婿の奥平信昌に10万石を与えて城主に据え、街道の管理掌握に当らせた。衣服や調度などを納めた長方形の挟箱を担いだ二人を先頭に、槍先の鞘に白毛の飾りをつけた毛槍を振る二人、続々と続く一行は参勤交代の大名行列である。木曾海道六十九次加納

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    渓斎英泉木曽海道板鼻「板鼻」板鼻宿は英泉が描いた物だが、広重が一貫して用いていた「木曽海道」が此処では使われている、不思議な作品である。板鼻宿本陣跡は板鼻公民館近くにある。現在もやや幅の広い用水路......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 鵜沼

    「鵜沼」木曽川の河畔の小山の頂に建つ犬山城は松本城、彦根城、姫路城、松江城と並ぶ国宝五天守の一つで、築かれた年代は信長時代の最古(1537年)という天守である。木曽川を隔てた対岸に鵜沼宿の家並みが見える,中山道の鵜沼宿は濃尾平野北端の交通の要衝に位置していた。犬山城は愛知県で木曽川を渡ると岐阜県の鵜沼に至る。木曾海道六十九次鵜沼

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    木曽海道高崎「高崎」高崎宿から三国街道が分岐しており、その起点の宿場である。現在の群馬県高崎市にあたる。中山道と三国街道の分岐点にあたり、幕府の佐渡金山からの人馬車など多くの旅人が横行して......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 太田

    太田「太田の渡し」は、中山道の難所中の難所であった。この川を流れて行く筏は、尾張藩領の木曽山中で伐採した檜などの木材を尾張の熱田湊まで運んで行く筏である。客を乗せた渡し舟では、流れに押し流されないようにと船頭が舟の舳先を懸命に川上に向けて漕いでいる。手前の堤防では、首から頭陀袋をかけた巡礼の親娘が、これから渡る木曽川と対岸の太田宿を眺めやっている。石に腰を下ろした旅人二人と、さらに堤防の下の川岸には旅人三人が、渡し舟の到着を待っている。大正二年に太田から犬山まで舟で下った地理学者志賀重昴は、その間の景観を讃え「日本ライン」と命名した。木曾海道六十九次太田

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    英泉木曽街道倉賀野宿烏川之図倉賀野(群馬県高崎市)烏川は利根川の上流で江戸との間に舟運が開けていた。倉賀野宿は商人ばかりでなく河川で働く船頭や、荷役、船大工、街道筋で働く牛方、馬方で賑わっていた。川縁に......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 伏見

    「伏見宿」木曽川の流れの変化などにより、渡し場が上流へ移動された。土田宿は廃宿となり、(1694年)上流に位置する伏見宿が誕生した。台傘・立傘を担ぐ奴二人を前に、杉の大樹の木陰で昼寝をする者、食を取る者等、極めて庶民的な感覚を満喫している。右側には三人の瞽女が描く。彼女達は全国の農村や漁村を数人でまとまって廻るのが常で、語り物や流行り歌・民謡等を、三味線を弾きながら昼は門付し、夜は宿で唄って物品や銭を稼いだ。左からは医者が近づいてくる等、登場人物も多彩である。木曾海道六十九次伏見

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    木曽海道新町「新町」新町宿の背景に富士山にも似た上州の赤城山が描かれており、伸び伸びとした広大な自然が広がってる。新町の温井川に架かる弁天橋を渡る荷を背負う二人を描く。此れから間もなく山......>続きを読む一年前のブログ

  • 木曾海道六十九次 御岳

    「御岳宿」障子には「きちん宿みたけじゆく」とあり、御嶽山の御神灯を軒に吊るしている。木賃宿は自炊をして木賃すなわち燃料代だけで泊まれる所との意で、普通の宿屋より安く泊まれた。大きな茶釜をかけた囲炉裏をかこんでいるが、笈摺姿の女巡礼も見える。御嶽山は富士山や白山などと並び古くから信仰の対象とされ、北は野麦峠を経て乗鞍岳に、西の裾野は高山盆地まで延び、日本三大美林に数えられ、藩政時代には特に林政に力が入れられた処である。木曾海道六十九次御岳

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