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  • 本を燃やす早春の一日 [森へ行く道<99>]

    日増しに暖かくなってゆく。一昨日、鶯の初鳴きを聞いた。その三日前までは笹鳴きを繰り返していたから、お嬢さんたちもこの陽気に誘われて、春の歌を歌いだしたものだろう。今日はまだ鳴いていないが、葉っぱの繁った裏藪で出番前の練習をしているのかもしれない。フィギュアスケートの女子選手たちが、控室で緊張した面持ちで、くるんと回ったり、両手を広げてまた畳んだりする練習光景を思い浮かべながら、次のひと声を待つ午後である。焚き火をしながら、本を燃やす。「焚書」というほど大げさなものではない。*続きは作業中。本を燃やす早春の一日[森へ行く道<99>]

  • 森へ行く、木の橋を補修する [森へ行く道<98>]

    鋸と鉈、一丁ずつを持ち、森へ行く。早春の陽射しが、暖かく木立ちの中に落ちている。倒木や枯れ木を伐る。チェンソーを使えば1週間ほどで片付く仕事だが、手鋸と鉈だけで作業すると一冬を要する作業となる。それで良い。20年前、由布院で運営していた「由布院空想の森美術館」を畳んでこの地に来た時には、鬱屈した心意を秘めてこの森に通った。ざっく、ざっくと挽く鋸の音や、どしんと倒れる大木の響きを聞き、枝を落とした丸太を担いで山を下ると、ほっと澄んだ心境になり、再起へのエネルギーが湧いてくるのであった。ここは、そうして整備し、育て上げてきた森だ。鬱蒼と茂り、鹿の寝ぐらがあった暗い森が、木々の成長とともに、明るく、散歩に適した場所へと変化している。小さな驚きと、気分を一新する新しい出会い。古来、山仕事の人たちは「山守<やまもり>」と...森へ行く、木の橋を補修する[森へ行く道<98>]

  • 【空想の森別館/林檎蔵Gallary】というネーミング決定。延々5時間のアート論議にて[空想の森から<134>]

    前日の雪が由布岳の山頂付近や遠い山並には残っていたが、里は、ぽっかりと晴れた暖かい一日。由布院空想の森美術館に隣接する施設の展示を終え、そのネーミングや利用法について議論するため、仲間たちが集まってくれた。初期の由布院空想の森美術館の設立・運営や当時の由布院アートなどに関わってくれた仲間たち、その空想の森美術館の閉館時に勤務してくれていたスタッフ、世界のアートマーケットを舞台に活動している画廊主、新進の画家、アートディレクターを目指して勉強中の若い女性などが顔をそろえたので、久しぶりの本格的なアート談義の場となったことが懐かしく、嬉しかった。猪鍋を囲んだ昼食をはさんで延々5時間に及んだのである。コロナ過で世の中全体が暗鬱な空気に覆われている感じだが、「こんな時こそ、アートの歩みを止めてはいけない」という言葉が、...【空想の森別館/林檎蔵Gallary】というネーミング決定。延々5時間のアート論議にて[空想の森から<134>]

  • 雪の由布院で過ごした一日[空想の森から<133>]

    一昨日(16日)、宮崎から由布院へ。大分市内で友人に会い、庄内を過ぎた辺りから、白くけむる山脈が見え、雪が舞い始めた。由布院の盆地に差しかかると、横殴りの雪が降り、視界がかすむほどだった。夜の寒さに耐えきれず、電気炬燵に布団をかぶせ、セーターを着たまま寝た。そして朝は、一面の雪景色。南国宮崎との気候の違いは、身体には厳しいけれど、雪の由布院を見られるのは悪くない。珈琲を飲みながら窓の外を眺め、新設されるギャラリーの展示を進めながら、また雪を見る。一日がそんな風に過ぎ、展示もほぼ終了。この町にある病院に入院していた頃、同病の患者をモデルにして描いた作品や退院し、この不思議で難解で美しい町に住み始めた頃に描いた油絵なども展示した。雪が、過ぎ去った年月を映している。最近、活動を共にした友人・知人たちの訃報が相次いで届...雪の由布院で過ごした一日[空想の森から<133>]

  • 「道化荒神」が物申す/まつろわぬ民の残像、反骨の系譜[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-5>]

    ・日之影大人神楽の「座張」九州脊梁山地の神楽は、「荒神祭祀」が骨格をなしている、と把握できる。これまでに出ている情報・研究書などを総合すると、「宮崎の神楽は〝岩戸開き〟に象徴される国家創生の物語である」「記紀神話を演劇化したものである」となるのだが、現地に通い、詳細に取材を重ねるうち、その定義に違和感をもち、さらに「九州脊梁山地の神楽は先住神・土地神を祀る祭祀儀礼ではないか」という見方に立って見直すと、やはりそこには従来のテキストには書かれていなかった「土地神の物語・荒神の祭祀」が神楽全体の骨格を貫いていることがわかってきたのである。私はこの視点を獲得するまでに30年近い年月を要したことになる。神楽とは、それほどに奥行きの深い祭祀儀礼である。神事・神話・歴史・音楽・美術・演劇等のすべてを包括した総合芸術と捉えて...「道化荒神」が物申す/まつろわぬ民の残像、反骨の系譜[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-5>]

  • 柳田國男の「山人論」を俯瞰する[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]

    日本民俗学の創始者・柳田國男は、「山人論」でも優れた論考を残している。柳田の山人論がなければ、日本列島の「先住民」たる山人の存在は、注目されることなく忘れ去られ、歴史の中に埋没していたかもしれない。だが、柳田が把握した山人は、大和民族=農耕民から見た「先住民=まつろわぬ民」の残像であり、「異人」「妖怪」の類であった。そこに柳田民俗学の限界があったのだが、そのことを承知したとしても、柳田のまなざしは、山人と山の文化に対する憧憬と、浪漫主義に裏打ちされた美学に貫かれており、我々の胸に響くものを有し続けており、柳田自身がさらなる考察と研究の上積みを後進に託しているのである。以下に柳田國男の山人論を概観しておく。柳田民俗学における「山人<やまびと>」の解釈は鮮烈である。柳田は言う。『山人すなわち日本の先住民は、もはや絶...柳田國男の「山人論」を俯瞰する[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]

  • 春の里山でヒラタケを採集 [森へ行く道<97>]

    日向市東郷町坪谷神社の境内で、ヒラタケをいただいた。梅の花が満開のこの時期にヒラタケとは稀な例だが、この冬は雨が少なかったため、晩秋に発生したヒラタケが乾燥した状態で、溶解せずに残ったたため、このような珍事が発生したものである。神社の森の手入れをしていた氏子総代で坪谷神楽の伝承者でもある寺原正さんがFBに情報を上げていたので、近くに出かけたついでに立ち寄ったのである。見事な株。私は躊躇なくいただく。皆さんは半信半疑のようだったが、これは100%間違いなくヒラタケである。何度も言うが、キノコで冒険をしてはいけない。勇気だどか度胸なども無用。もしも猛毒のキノコを食べた場合、これら状態になって三日以内に死ぬ。細胞が分解されるので治療の方法がないのである。植物でも動物でもないこの「菌類」が、有機物を無機物に変換する役割...春の里山でヒラタケを採集[森へ行く道<97>]

  • 異界から見た景色[空想の森から<132]

    以下は、高見剛緊急入院のドキュメント。病名は「急性心膜炎」とのこと。☆2月11日。由布院空想の森美術館を運営している弟・高見剛が緊急入院中の模様。連絡はとれていないが、本人がレポートしているので、まだこの世に存在しているということ。2月11日正午頃。本人と電話連絡がとれ、無事を確認。明日12日(土曜)に退院できるとのこと。2月12日正午。無事退院の報。  闘病記・20222月6日、前日から風気味で、市販薬の風邪薬を飲んで寝た。7日、起床と共に今まで経験したことの無い体の異常を感じた。上半身の関節が痛い。呼吸をすれば痛みが増幅する。朝食を終えて、風邪薬を飲み、コロナウイルスに感染したのかとの不安がよぎる。前日の午前中にコロナが蔓延している大阪から帰ってきた女性と会っていたからだ。10時すぎ、彼女に電話をして、異常...異界から見た景色[空想の森から<132]

  • 古記録にみる「山人」の民俗誌[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]

    平安時代以降の記録書に現れる「神楽歌」に、「山人」「杖」「榊」などが詠み込まれた詞章がある。民間に歌われていたものが、宮中の神事儀礼として取り込まれ、そこからさらに民間の芸能へと変化を重ねながら普及していったものである。諸塚村・戸下神楽の「山守」は、その古式の儀礼を良く伝える神楽であろう。 我妹子が穴師の山の山人と人も知るべく山葛せよ(宮中の神楽歌)      纏向の穴師の山の山人と人も見るがに山かづらせよ(古今集巻第二十の、神遊びの歌) 大和三輪山の北方、山の辺の道の桧原神社から景行天皇陵へ向かう途中、少し北へ寄り道した所に相撲神社、兵主神社が鎮座する。この辺りの地名を穴師という。渓谷沿いの高台の見晴らしの良い場所からは、眼下に纒向遺跡を見下ろすことができる。兵主(ひょうず)とは、軍人・兵庫関係者の守護神であ...古記録にみる「山人」の民俗誌[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]

  • 森の奥から訪れる神/―椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」― [九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-2>]

    九州脊梁山地の中央部に位置する椎葉村は、一村が四国の香川県とほぼ同じ面積を持つという広大な面積を有し、村の面積の95%以上が山林である。標高1000メートルから1700メートル級の山々に囲まれた山岳の国といえよう。山脈は耳川、一ツ瀬川、小丸川等の源流域にまたがり、これらの大河川から分かれた幾筋もの支流は、清冽な水と空気を里に向かって送り出している。川沿いや、山の中腹域の緩斜面に点々と集落が存在している。古式の焼畑を伝える集落もある。トンネルが貫通し、国道が整備されて外界と結ばれる一昔前までは「日本の秘境」といわれた。この重厚な森の国・椎葉に、26座の神楽が伝わっている。平家の落人が伝えたという伝承もある。私は30年ほど前に、初めてこの村の神楽を訪れ、日本列島の古層というべき山と森の文化を伝えるこの村に魅了され、...森の奥から訪れる神/―椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」―[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-2>]

  • そしてハルオさんは「山守」になった /古層の神「山守」とは――諸塚・戸下神楽―― [九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-1>]

    深い山の奥から、コーン、コーンと木を伐る音がきこえてくる。――ああ、ハルオさんが木を伐っているな・・・と村人の誰もが思う。その音に木霊(こだま)するように、神楽歌が聞こえる。――ハルオさんが歌っている・・・と、また嘆息する。そうだ、ハルオさん(綟川陽男さん当年60歳)は昨年の夏、山の事故で亡くなったのだ。そのことは村の誰もが知っているけれど、時々、こうして激しい風の吹く日などには、吹きすぎる風の音に混じって、「山守〈やまもり〉」が木を伐る音が聞こえる気がするのだ。――ハルオさんは山守になったのだ・・・と、誰もがまた、頷く。そこで私は目が覚めた。長い夢を見ていたのだった。 諸塚村に伝わる「戸下神楽」(毎年、1月の最終土曜から日曜にかけて開催)と「南川神楽」(2月の第2土曜~日曜へかけて開催)が終わると、「冬神楽」...そしてハルオさんは「山守」になった/古層の神「山守」とは――諸塚・戸下神楽――[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-1>]

  • 穏やかな春の一日/Myコレクション展「春の森へ」始まりました。 [森へ行く道<96>]

    ・中畑美那「西海の教会」油彩SM梅の花が満開となり、穏やかな春の陽射しが古い教会を改装した「友愛の森空想ギャラリー」をあたためている。冬神楽のシーズンが終わり、展示も春の訪れを感じさせる作品へと入れ替える時期だ。旅先で出会った絵や、第一期の「由布院空想の森美術館」を運営していた時代に交流のあった画家たちの作品などを展示すると、過ぎ去った時の流れが甦り、かつて信者たちが敬虔な祈りをささげた空間に、しん、とした気配が漂う。大半が、天界の人となった作家の作品だが、そこから発せられるメッセージは、色あせてはいない。画家が、生涯をかけて負い求めたもの。それが何であるかを問う必要もなかろう。ここにこうしてたった一人の鑑賞者としての「私」がいる。それでいいのではないか。かつて、「わたくし美術館」運動を提唱した尾崎正教氏は、「...穏やかな春の一日/Myコレクション展「春の森へ」始まりました。[森へ行く道<96>]

  • 春の森を歩く [森へ行く道<95>]

    春の陽射しがあたたかな森の道を歩く。蕗の薹が芽を出している。隣家の庭に有楽椿(ウラクツバキ)が満開である。有楽椿は、茶人であった織田有楽斎(織田信長の弟の一人)が愛でたことにちなむ名を持つこの椿が、米良の山中に点在する。樹齢600年を超える見事な株立もある。南北朝の争乱を逃れてに入山した武士が持ち込んだという伝承がある。この椿の分布地は、中世の絵巻を見るような神楽を伝える里である。作業中の森でヒラタケを見つけた。ヒラタケは播州の茸だが、この冬は雨が少ないため、溶解せずに残っているのである。早速に付けと鍋物でいただく。ヒラタケの隣で可憐な赤い実を付けているのは冬いちご。冬季の小鳥たちの数少ない食べ物である。甘酸っぱくておいしい。――取りつくさないように。小鳥たちのために少し残しておくように。古老たちは、村の少年・...春の森を歩く[森へ行く道<95>]

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