雨がざあっと激しく降ったり、晴れ間が見えたりする。晴れている間に、この2ヶ月あまり、停滞していた大作の仕上げをする。雨の影響もあるが、突発的な神経痛の痛みで、筆が持ち上げられない日が続いていたのだった。それも少しずつ回復して、片付けや仕上がった絵の額装や、現場で描いたまま加筆を待っていた作品などを手掛けることが出来るようになったのだ。片付けの手を休めて、二階の窓から眺めてみる。これもまたいい気分。部屋からの眺め/森の中の絵のある部屋②【森へ行く道<166>】
日増しに暖かくなってゆく。一昨日、鶯の初鳴きを聞いた。その三日前までは笹鳴きを繰り返していたから、お嬢さんたちもこの陽気に誘われて、春の歌を歌いだしたものだろう。今日はまだ鳴いていないが、葉っぱの繁った裏藪で出番前の練習をしているのかもしれない。フィギュアスケートの女子選手たちが、控室で緊張した面持ちで、くるんと回ったり、両手を広げてまた畳んだりする練習光景を思い浮かべながら、次のひと声を待つ午後である。焚き火をしながら、本を燃やす。「焚書」というほど大げさなものではない。*続きは作業中。本を燃やす早春の一日[森へ行く道<99>]
鋸と鉈、一丁ずつを持ち、森へ行く。早春の陽射しが、暖かく木立ちの中に落ちている。倒木や枯れ木を伐る。チェンソーを使えば1週間ほどで片付く仕事だが、手鋸と鉈だけで作業すると一冬を要する作業となる。それで良い。20年前、由布院で運営していた「由布院空想の森美術館」を畳んでこの地に来た時には、鬱屈した心意を秘めてこの森に通った。ざっく、ざっくと挽く鋸の音や、どしんと倒れる大木の響きを聞き、枝を落とした丸太を担いで山を下ると、ほっと澄んだ心境になり、再起へのエネルギーが湧いてくるのであった。ここは、そうして整備し、育て上げてきた森だ。鬱蒼と茂り、鹿の寝ぐらがあった暗い森が、木々の成長とともに、明るく、散歩に適した場所へと変化している。小さな驚きと、気分を一新する新しい出会い。古来、山仕事の人たちは「山守<やまもり>」と...森へ行く、木の橋を補修する[森へ行く道<98>]
【空想の森別館/林檎蔵Gallary】というネーミング決定。延々5時間のアート論議にて[空想の森から<134>]
前日の雪が由布岳の山頂付近や遠い山並には残っていたが、里は、ぽっかりと晴れた暖かい一日。由布院空想の森美術館に隣接する施設の展示を終え、そのネーミングや利用法について議論するため、仲間たちが集まってくれた。初期の由布院空想の森美術館の設立・運営や当時の由布院アートなどに関わってくれた仲間たち、その空想の森美術館の閉館時に勤務してくれていたスタッフ、世界のアートマーケットを舞台に活動している画廊主、新進の画家、アートディレクターを目指して勉強中の若い女性などが顔をそろえたので、久しぶりの本格的なアート談義の場となったことが懐かしく、嬉しかった。猪鍋を囲んだ昼食をはさんで延々5時間に及んだのである。コロナ過で世の中全体が暗鬱な空気に覆われている感じだが、「こんな時こそ、アートの歩みを止めてはいけない」という言葉が、...【空想の森別館/林檎蔵Gallary】というネーミング決定。延々5時間のアート論議にて[空想の森から<134>]
一昨日(16日)、宮崎から由布院へ。大分市内で友人に会い、庄内を過ぎた辺りから、白くけむる山脈が見え、雪が舞い始めた。由布院の盆地に差しかかると、横殴りの雪が降り、視界がかすむほどだった。夜の寒さに耐えきれず、電気炬燵に布団をかぶせ、セーターを着たまま寝た。そして朝は、一面の雪景色。南国宮崎との気候の違いは、身体には厳しいけれど、雪の由布院を見られるのは悪くない。珈琲を飲みながら窓の外を眺め、新設されるギャラリーの展示を進めながら、また雪を見る。一日がそんな風に過ぎ、展示もほぼ終了。この町にある病院に入院していた頃、同病の患者をモデルにして描いた作品や退院し、この不思議で難解で美しい町に住み始めた頃に描いた油絵なども展示した。雪が、過ぎ去った年月を映している。最近、活動を共にした友人・知人たちの訃報が相次いで届...雪の由布院で過ごした一日[空想の森から<133>]
「道化荒神」が物申す/まつろわぬ民の残像、反骨の系譜[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-5>]
・日之影大人神楽の「座張」九州脊梁山地の神楽は、「荒神祭祀」が骨格をなしている、と把握できる。これまでに出ている情報・研究書などを総合すると、「宮崎の神楽は〝岩戸開き〟に象徴される国家創生の物語である」「記紀神話を演劇化したものである」となるのだが、現地に通い、詳細に取材を重ねるうち、その定義に違和感をもち、さらに「九州脊梁山地の神楽は先住神・土地神を祀る祭祀儀礼ではないか」という見方に立って見直すと、やはりそこには従来のテキストには書かれていなかった「土地神の物語・荒神の祭祀」が神楽全体の骨格を貫いていることがわかってきたのである。私はこの視点を獲得するまでに30年近い年月を要したことになる。神楽とは、それほどに奥行きの深い祭祀儀礼である。神事・神話・歴史・音楽・美術・演劇等のすべてを包括した総合芸術と捉えて...「道化荒神」が物申す/まつろわぬ民の残像、反骨の系譜[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-5>]
柳田國男の「山人論」を俯瞰する[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]
日本民俗学の創始者・柳田國男は、「山人論」でも優れた論考を残している。柳田の山人論がなければ、日本列島の「先住民」たる山人の存在は、注目されることなく忘れ去られ、歴史の中に埋没していたかもしれない。だが、柳田が把握した山人は、大和民族=農耕民から見た「先住民=まつろわぬ民」の残像であり、「異人」「妖怪」の類であった。そこに柳田民俗学の限界があったのだが、そのことを承知したとしても、柳田のまなざしは、山人と山の文化に対する憧憬と、浪漫主義に裏打ちされた美学に貫かれており、我々の胸に響くものを有し続けており、柳田自身がさらなる考察と研究の上積みを後進に託しているのである。以下に柳田國男の山人論を概観しておく。柳田民俗学における「山人<やまびと>」の解釈は鮮烈である。柳田は言う。『山人すなわち日本の先住民は、もはや絶...柳田國男の「山人論」を俯瞰する[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]
日向市東郷町坪谷神社の境内で、ヒラタケをいただいた。梅の花が満開のこの時期にヒラタケとは稀な例だが、この冬は雨が少なかったため、晩秋に発生したヒラタケが乾燥した状態で、溶解せずに残ったたため、このような珍事が発生したものである。神社の森の手入れをしていた氏子総代で坪谷神楽の伝承者でもある寺原正さんがFBに情報を上げていたので、近くに出かけたついでに立ち寄ったのである。見事な株。私は躊躇なくいただく。皆さんは半信半疑のようだったが、これは100%間違いなくヒラタケである。何度も言うが、キノコで冒険をしてはいけない。勇気だどか度胸なども無用。もしも猛毒のキノコを食べた場合、これら状態になって三日以内に死ぬ。細胞が分解されるので治療の方法がないのである。植物でも動物でもないこの「菌類」が、有機物を無機物に変換する役割...春の里山でヒラタケを採集[森へ行く道<97>]
以下は、高見剛緊急入院のドキュメント。病名は「急性心膜炎」とのこと。☆2月11日。由布院空想の森美術館を運営している弟・高見剛が緊急入院中の模様。連絡はとれていないが、本人がレポートしているので、まだこの世に存在しているということ。2月11日正午頃。本人と電話連絡がとれ、無事を確認。明日12日(土曜)に退院できるとのこと。2月12日正午。無事退院の報。 闘病記・20222月6日、前日から風気味で、市販薬の風邪薬を飲んで寝た。7日、起床と共に今まで経験したことの無い体の異常を感じた。上半身の関節が痛い。呼吸をすれば痛みが増幅する。朝食を終えて、風邪薬を飲み、コロナウイルスに感染したのかとの不安がよぎる。前日の午前中にコロナが蔓延している大阪から帰ってきた女性と会っていたからだ。10時すぎ、彼女に電話をして、異常...異界から見た景色[空想の森から<132]
古記録にみる「山人」の民俗誌[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]
平安時代以降の記録書に現れる「神楽歌」に、「山人」「杖」「榊」などが詠み込まれた詞章がある。民間に歌われていたものが、宮中の神事儀礼として取り込まれ、そこからさらに民間の芸能へと変化を重ねながら普及していったものである。諸塚村・戸下神楽の「山守」は、その古式の儀礼を良く伝える神楽であろう。 我妹子が穴師の山の山人と人も知るべく山葛せよ(宮中の神楽歌) 纏向の穴師の山の山人と人も見るがに山かづらせよ(古今集巻第二十の、神遊びの歌) 大和三輪山の北方、山の辺の道の桧原神社から景行天皇陵へ向かう途中、少し北へ寄り道した所に相撲神社、兵主神社が鎮座する。この辺りの地名を穴師という。渓谷沿いの高台の見晴らしの良い場所からは、眼下に纒向遺跡を見下ろすことができる。兵主(ひょうず)とは、軍人・兵庫関係者の守護神であ...古記録にみる「山人」の民俗誌[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-3>]
森の奥から訪れる神/―椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」― [九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-2>]
九州脊梁山地の中央部に位置する椎葉村は、一村が四国の香川県とほぼ同じ面積を持つという広大な面積を有し、村の面積の95%以上が山林である。標高1000メートルから1700メートル級の山々に囲まれた山岳の国といえよう。山脈は耳川、一ツ瀬川、小丸川等の源流域にまたがり、これらの大河川から分かれた幾筋もの支流は、清冽な水と空気を里に向かって送り出している。川沿いや、山の中腹域の緩斜面に点々と集落が存在している。古式の焼畑を伝える集落もある。トンネルが貫通し、国道が整備されて外界と結ばれる一昔前までは「日本の秘境」といわれた。この重厚な森の国・椎葉に、26座の神楽が伝わっている。平家の落人が伝えたという伝承もある。私は30年ほど前に、初めてこの村の神楽を訪れ、日本列島の古層というべき山と森の文化を伝えるこの村に魅了され、...森の奥から訪れる神/―椎葉・嶽之枝尾神楽の「宿借」―[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-2>]
そしてハルオさんは「山守」になった /古層の神「山守」とは――諸塚・戸下神楽―― [九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-1>]
深い山の奥から、コーン、コーンと木を伐る音がきこえてくる。――ああ、ハルオさんが木を伐っているな・・・と村人の誰もが思う。その音に木霊(こだま)するように、神楽歌が聞こえる。――ハルオさんが歌っている・・・と、また嘆息する。そうだ、ハルオさん(綟川陽男さん当年60歳)は昨年の夏、山の事故で亡くなったのだ。そのことは村の誰もが知っているけれど、時々、こうして激しい風の吹く日などには、吹きすぎる風の音に混じって、「山守〈やまもり〉」が木を伐る音が聞こえる気がするのだ。――ハルオさんは山守になったのだ・・・と、誰もがまた、頷く。そこで私は目が覚めた。長い夢を見ていたのだった。 諸塚村に伝わる「戸下神楽」(毎年、1月の最終土曜から日曜にかけて開催)と「南川神楽」(2月の第2土曜~日曜へかけて開催)が終わると、「冬神楽」...そしてハルオさんは「山守」になった/古層の神「山守」とは――諸塚・戸下神楽――[九州脊梁山地・山人の秘儀と仮面神<4-1>]
穏やかな春の一日/Myコレクション展「春の森へ」始まりました。 [森へ行く道<96>]
・中畑美那「西海の教会」油彩SM梅の花が満開となり、穏やかな春の陽射しが古い教会を改装した「友愛の森空想ギャラリー」をあたためている。冬神楽のシーズンが終わり、展示も春の訪れを感じさせる作品へと入れ替える時期だ。旅先で出会った絵や、第一期の「由布院空想の森美術館」を運営していた時代に交流のあった画家たちの作品などを展示すると、過ぎ去った時の流れが甦り、かつて信者たちが敬虔な祈りをささげた空間に、しん、とした気配が漂う。大半が、天界の人となった作家の作品だが、そこから発せられるメッセージは、色あせてはいない。画家が、生涯をかけて負い求めたもの。それが何であるかを問う必要もなかろう。ここにこうしてたった一人の鑑賞者としての「私」がいる。それでいいのではないか。かつて、「わたくし美術館」運動を提唱した尾崎正教氏は、「...穏やかな春の一日/Myコレクション展「春の森へ」始まりました。[森へ行く道<96>]
春の陽射しがあたたかな森の道を歩く。蕗の薹が芽を出している。隣家の庭に有楽椿(ウラクツバキ)が満開である。有楽椿は、茶人であった織田有楽斎(織田信長の弟の一人)が愛でたことにちなむ名を持つこの椿が、米良の山中に点在する。樹齢600年を超える見事な株立もある。南北朝の争乱を逃れてに入山した武士が持ち込んだという伝承がある。この椿の分布地は、中世の絵巻を見るような神楽を伝える里である。作業中の森でヒラタケを見つけた。ヒラタケは播州の茸だが、この冬は雨が少ないため、溶解せずに残っているのである。早速に付けと鍋物でいただく。ヒラタケの隣で可憐な赤い実を付けているのは冬いちご。冬季の小鳥たちの数少ない食べ物である。甘酸っぱくておいしい。――取りつくさないように。小鳥たちのために少し残しておくように。古老たちは、村の少年・...春の森を歩く[森へ行く道<95>]
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雨がざあっと激しく降ったり、晴れ間が見えたりする。晴れている間に、この2ヶ月あまり、停滞していた大作の仕上げをする。雨の影響もあるが、突発的な神経痛の痛みで、筆が持ち上げられない日が続いていたのだった。それも少しずつ回復して、片付けや仕上がった絵の額装や、現場で描いたまま加筆を待っていた作品などを手掛けることが出来るようになったのだ。片付けの手を休めて、二階の窓から眺めてみる。これもまたいい気分。部屋からの眺め/森の中の絵のある部屋②【森へ行く道<166>】
25年間寝起きした部屋から、別棟の部屋へ引っ越した。別棟といっても、いずれも、かつて石井記念友愛社の子ども達と指導員の先生たちが住んだ部屋である。廊下を挟んだ棟続きの部屋だが、そこから見ると、真ん前に見える仮面美術館として使っている部屋も、自分が暮らした部屋も別世界のような、深い森に埋もれた建物である。ここからまた、新しい日々を開始しよう。まずは片付けと、書籍類の引っ越しである。壁面に絵を飾ると、そこはたちまち安住の空間となる。自分の入った部屋は、これまでは神楽取材の仲間などにゲストルームとして使っていたが、隣の部屋はまだ自然布や染色の素材、古布資料などが積み上げられたままだ。まだ、激しい動きをすると神経痛が再発する恐れがあるから、少しずつ、引っ越しを進めよう。古民家や空家などを片付けて、絵画作品や古美術...森の中の絵のある部屋【森へ行く道<165>】
*本文は作業中。 一枚の絵に逢いに行く/海老原喜之助・ポアソニエール【空想の森から<205>】
船が出ると、どこか遠い国へと旅立つ気持ちになる。別府からフェリーに乗り、八幡浜に着くと、九州から隣り合う島・四国に渡っただけなのに、もうそこは見知らぬ国である。二十歳代前半のころ、スケッチブックだけを持って私は一人で旅に出た。高校を出て故郷の市にある町工場に就職して、はじめて自分で稼いだ金を大半は家に入れたが、一部は自分のために使うことが出来た。何という目的はなかった。ただ、没落した家の、故郷の村にさえ居づらくなるほどの困窮から抜け出し、自立と自由という境遇が得られたことがうれしく、異郷に流れる清新な空気感にふれ、旅先の風景や出会う人々との交流などが、一つ一つ、清新な体験となって心に沁みてくるのだった。バスに乗り、岬の果てまで行ってまた引き返し、次の半島を目指した。岬を巡るバスが、曲がり角を曲がるたび、小...港町の栄光コーヒー/苦みの向こうにあるものは【珈琲游人の旅<第3回>】
朝、一杯のコーヒーを淹れる。至福のひととき。コーヒーの淹れ方は、故郷の町の画廊喫茶の店主の方法を習得した。そのオヤジは苦みばしった渋い男で、詩人で、元・左翼運動の闘士だということだったが、普段は物静かで、はにかんだような笑顔で若者たちに接してくれた。顔に刻まれた深い皺、肩まで垂らした長い髪、時々鋭い光を放つ眼などが、画廊と喫茶とが連結された空間によく似合っていた。まだ二十代前半だった私たちは、その店に通いつめ、絵のこと、文学のこと、音楽のこと、酒やコーヒーに関する薀蓄などを聞かされ、学んだ。豆は、市販の浅煎りの豆が入手できればそれでよろしい。手挽きミルが理想的だが、電動ミルでも、挽きながら目盛りを段階的に変化させ、粉が不ぞろいになるように加減して挽けばよい。紙フィルターに一杯の粉を入れ、その粉全体が漏斗状...詩人の珈琲【珈琲游人の旅<第2回>】
誰にも教えたことのない秘渓に入り、沢辺に車を乗り入れる。途中で一度、小橋の上から覗いてみて、20センチ級の立派なヤマメが泳いでいるのを確認した。――よし、今日はあいつを釣ろう。と入渓地点を決定し、まずおにぎりを食べる。旨い。清流の水音を聞きながら食べるおにぎりこそ山旅の最高のご馳走である。世の中全体ではコメ騒動が続いているが、通り過ぎてきた棚田や谷沿いの小さな田んぼにまで、青々と稲苗が成長し、早場米は穂を膨らませているものもある。食料不足は農家の問題ではなく消費者すなわち都市生活者の問題なのである、とは、農民作家として半世紀前の農業の課題を提起した山下惣一氏が述べている。林間から摘んできた野生の茗荷の葉に乗せたおにぎりを食べながら、この国の農業政策の行き詰まりと、それを視野に置きながら、変わらずに「農」の...秘渓の沢辺で珈琲を一杯【珈琲游人の旅<第1回>】
全身を襲った神経痛に悩まされて二ヶ月ほど身体を動かせずにいたら、腕や足が細くなったような気がして心細くなった。――もう、冬の夜神楽探訪も、夏のヤマメ釣りもできないのではないか・・・この秋は何で年寄る雲に鳥松尾芭蕉最晩年の句が思わず浮かんで来たりするのである。人は皆、いつかは死ぬのである。人間にかぎらず、生きとし生けるものには寿命というものがあり、いのちが尽きれば土に還り、また新たな生命体が誕生する。その循環の法則の上に地球上の生物は存在するのである。そんなことは分かり切っているし、人類はその増えすぎた人口を戦争という殺し合いによって自ら減少させようとしている。漂泊の旅に生き、旅に死んだ芭蕉が上句を詠んだのは48歳の時である。それを考慮すれば私などはこの夏で77歳になるのだから、とっくに寿命は尽きていると考...夏のヤマメは釣れにくい/真夏の秘渓を歩いた極上の一日【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<25ー13>】
近隣の宮崎県西米良村でこの夏の最高気温38度超えを記録した昨日(7月6日)、中庭に神楽の絵の大作を持ち出して、仕上げをした。腰を屈めて物を取ったり、中腰で絵を描いたりすることは無理だが、前日まで作った即製のテーブルの上でなら、仕事が出来るところまで回復したのだ。思うように身体が動かせなかったこの二ヶ月の間は、もう、神楽の場に通って絵を描くことなどは無理かと思っていたのだが、これならば、養生すれば、使い物になるところまで回復できることが分かった。ありがたく、嬉しい。近隣地域で火山の活動が活発化し、地震が相次いでいるちょっと怖いぐらいの暑い夏、再起動できたことを、いまは心から喜んでおこう。カワトモ君が来て、草刈りをしてくれた。この暑い夏空の下、大汗を流して刈り続ける彼はまだ15歳だが、もう頼りになる青年の姿だ...「夏男」薬草山神が再起動した【九州脊梁山地・薬草山人の森へ<9>】
大好きな暑い夏がきて、少しずつ、活動を再開している。全身に出ていた神経痛から、劇的に回復している部分もある。昨日までの三日間を振り返っておこう。一日目(三日前)、中庭に出て、落葉を片付ける。まず、スコップで1杯、掬い取って一輪車(猫車ともいう、手押しの運搬車)に積み込む。そして2杯目を入れた所で休憩。そのあと、3杯、5杯と投げ入れ、家の前の広場に運んで、薬草の周りに敷きつめる。これを2回繰り返した所で、止めた。中腰になったり、しゃがみこんだりする時に痛みが出るのだ。無理は禁物。二日目、隣接する倉庫から建築廃材を運び出してきて、即製のテーブルを作ることにする。古材を乗り越えたり、分解された建具の部材を運び出したりする。かなりの回復度が認められる。鋸や金づち、釘などを持ち出して苦手の工作を始める。小学5年生の...薬草山人の夏/【九州脊梁山地・薬草山人の森へ<8>】
約20年間「祈りの丘空想ギャラリー」として運営し、その後約5年間「友愛の森空想ギャラリー」として引き継いできた旧・教会を改装したギャラリーを「友愛の森ギャラリー響界」と改名しました。企画や展示などは従来通りです。今後はこのネーミングと企画・運営方針で、参加してくれる人を待ちます。ただし、経済性は低く、来場者も多くはないのに、一年を通じて毎日朝晩、鍵の開け閉めをし、年間を通じた企画展を開催するなどの活動が必須となります。それでも、五月の鯉のぼりの頃からヒメボタルの舞う時期、晩秋の銀杏並木が黄葉する季節には多くの人が訪れてくれ、名所化しつつあり、石井記念友愛社出身の人などが「〇年ぶりに帰って来た」と言って立ち寄ってくれることもあります。大切な場として育てあげていきたいと思っています。現在、「武石憲太郎展」が開...緑陰のギャラリー「友愛の森ギャラリー響界」にて/「武石憲太郎展」始まっています。【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-32>】
二ヶ月余り続いていた身体中の痛みが、少しずつ軽減してきた。回復期に入ったと理解しよう。久しぶりに中庭に出て、冬の間に落ちて溜まった枯れ葉を燃やす。小山のような落葉の下部は、すでに腐葉土と化している。それを焚き火の灰と混ぜ合わせて、移植してある日向当帰や芽生えてきたばかりの決明子などの根元に蒔くのだ。これが山里の極上の肥料。ヒュウガトウキは、険しい岩場にも生えているから逞しい植物だと思われるが、水分や養分も欲しがる性質も併せ持っているらしい。心配されたリウマチのデータは出なかったがまだ健康体とはいえないから、今後は、野草と薬草の力を借りながら、気長に治してゆこう。まずは、毎年の夏の恒例になっているこのシーンの再現だ。冬の間に描き溜めた神楽のスケッチの大作が仕上げを待っている。これから書き込むべき文章も神楽の...薬草山人の庭で/回復期に入った体調のこと【九州脊梁山地・薬草山人の森へ<7>】
遠い椎葉の山河と九州脊梁山地の山々を回想しながら、庭を歩く。庭と言っても、古墳や茶畑、農地などが広がる広大な茶臼原台地の東端の森に囲まれた一角だから、いろいろな野草や薬草が自生している。藪甘草(ヤブカンゾウ)の花が咲いていたので、少しだけ採集。周囲にいつのまにか姫檜扇水仙(ヒメヒオウギスイセン)が進出してきており、草藪一帯が華やかな緋色の花園となっている。ヒメヒオウギスイセンにも薬効があるが、今回は採集しない。・本文は作業中。薬草山人の庭を歩く/ヤブカンゾウ(藪甘草)の花が咲いた【九州脊梁山地・薬草山人の森へ<6>】
昨日(6月30日)、一週間前の検査をふまえた診察を受けるために病院へ行った。その結果、心配されたリウマチや膠原病など、厄介な病気のデータはなし、という結果を告げられた。とりあえず、すぐに死んだり、寝た切りになるという心配は消えたわけだ。リウマチの怖さは、祖母が5年近く病み、最後は手足の骨が曲がったまま、昼夜を問わず痛み続けるという苦しみの末に亡くなったから、知っているのだ。当時、私は小学生だったから、60年以上前のことになる。山仕事をして家計を支え、薬草や茸のある秘密の場所を私たちに教えてくれた山の女であった。詳しくは書かないが、家族で介護をした当時は、生き地獄を見た思いであった。それゆえ、家族に見守られ、静かに息を引き取った時、私は――これで家族も本人も楽になる・・・と、心底ほっとしたものだ。現代医学は...リウマチ・膠原病などのデータは無という検査結果/薬草「仙人」の呼称は撤回し薬草「山人」としたこと【九州脊梁山地・薬草山人の森へ<5>】
開催中の2025関西万博へ、由布院空想の森美術館と九州民俗仮面美術館の収蔵品から、30点の仮面を貸し出すことになり、先日、発送を終えました。そのイベントの趣旨は、『ウェルビーイング社会を実現する先端テクノロジーを、楽しみながら学び・体感するフェスティバルイベント。働く現場や生活シーンなどで、安全・健康をサポートする先進的なウェルビーイング・テクノロジーを紹介』となっています。要約すると「労働者の働く環境や権利を守るための国際会議」ということになるようです。このイベントの幕開けを飾る仮面舞踏「太陽の復活」に使われます。高千穂神楽の要素を骨格とした現代の舞踏家たちによる群舞です。楽しみにその日を待ちましょう。期日は7月18日。詳細は下記のホームページでご覧ください。https://gishw.com/ja/f...「九州の民俗仮面」30点が万博へ/7月18日・「労働者の働く環境や権利を守るための国際会議」のオープニングイベントとして。
*本文は作業中。「展示」という変異空間【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-31>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑦
静かな画家である。寡黙というのではない。語り始めると、一晩中でも話題が尽きることはない。それは、いまから40年も前に、第一期の由布院空想の森美術館に彼が200枚とか400枚というデッサンを持ち込み、二人で語り合った体験があるから、私にはわかっている。けれども、誰かと話す時でも彼はメモ帳か小さなスケッチブックを持ち、絶えずペンを走らせ続けているから、初めて対面した人などは、この人は気難しい人に違いない、とか、沈黙の画家である、“描きまくり三世”、などと形容するのである。上掲は画集「WORKSOFKUNIHIROTASIRO」(森と目黒者/2020)の一ページ目の写真。これをみれば、画家・田代国浩は孤独な人ではなく、街へ出たり、子供たちと一緒に描いたり、アトリエを開放した絵画教室で仲間たちと描く日常があったり...手練の技【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-30>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑥
田代国浩展の展示作品には題名が付いていない。それについては、作者の明確な意図がある。画集「WORKSOFKUNIHIROTASIRO」(森と目黒者/2020)から転載しよう。☆普段作品にタイトルはつけない。名付けると「遠くへ行く」ような気がするから。どうしても付ける必要がある場合は曖昧にしておく。作品1とかUntirledAとかIntrospection2020とか。ただ、名付けることで「近くへ来る」こともあるのかなとも思うようになった。これらはその試み。その数点を抽出してみよう。☆作品とタイトルが一致して、「詩」が生まれている。作品とタイトルを切り離してみると、一行詩のようである。別の作品と組み合わせることもできる。・その赤がこの絵を台無しにしている・銅の元は声、銀の元はささやき、金の元は無音・姉は空に...題名のない絵とは【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-29>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展⑤
田代国浩展の展示を終え、久住・阿蘇・高千穂の草原を走り抜けて帰って来た。緑一色の草っぱらが風になびき、時折、霧が湧いた。霧は、峠を越える時には雨となった。無色の風景のただ中に、無数の線が走り、色と色、色と線とが交錯して奏でる音楽が交響した。田代国浩作品の残像が、広大な自然の中で躍動しているのであった。本人の「ことば」を画集の中から転載しておこう。☆テーマを決めてから描き始めることはまずない。エスエスキースをつくることもまれである。たいていはそういったことなしにキャンバスに向かう。もちろん私の脳が指令を出しているわけだから、何かしら考えてはいるのだろう。だが画面構成等、ああしようこうしようと思わないことの方が多い。置いてみたい絵の具を筆につけた瞬間に始まり、手の勝手な動きに身を任せて描いているうちに、絵は「...線が走り色彩が歌う【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-28>】熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展④
【“描きまくり三世”の熱量】田代君がそれらの偉大な先人たちの作風や人生観に影響されたり、追いかけたりしているわけではない。それは彼の一貫した作風と地域の子ども達や仲間と楽しく遊び、描く生活を続けてきたことでもわかる。彼は、人と会う時でもいつも手帳とペンを持ち、何かを描き続けているという。それが“描きまくり三世”という呼称を冠せられる由縁であろう。では描きまくり一世と二世は誰とだれであるか、という問いは棚上げするとして、今春、開催された福岡アジア美術館での個展では、なんと、大作・デッサン・オブジェや書など、1万点あまりの作品が展示されていた。ここにも“描きまくり三世”の面目躍如たる世界が開陳され、その膨大な作品群からは、「筑豊」の熱い地下水脈に熱せられた強烈なエネルギーが奔っていたのである。由布院空想の森美...熱量の基底―描きまくり三世の仕事/田代国浩展③【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-27>】:始まりました。
田代国浩展/展示進行中です。その様子は追ってお知らせします。描きまくり三世の仕事/<明日から>田代国浩展②【第四期:空想の森アートコレクティブ企画<´25-26>】
梅雨が明けた。からりと晴れ渡り、遠い山の峰に真っ白な雲が浮かぶ南国の夏がきた。照りつける日差しは熱いけれど、木陰に入れば涼しく感じる風が吹いている。麦わら帽子をかぶり、短パンをはいて外に出よう。大鎌や鉈鎌、草刈り用の手鎌を研ごう。ついでに斧も研いでおこう。草刈りと、梅雨の間に荒れた道の修復を終えたら、中庭の楠の大樹の下にパネルを敷き詰めて、冬の間に描き溜めた神楽の絵を仕上げよう。刈り取った萱や蓬などの夏草は、焚き火の上に重ねて置くと、火勢を緩和し、蚊遣りの役目を果たす。煙が、楠の大枝と葉の間を漂い流れ、夏空へと立ち昇ってゆく。それを眺めながら、ヤマメ釣りに行く源流域の沢と太古の森の行程に思いを巡らす。南の国の夏は、身体の奥底に眠っていたエネルギーが覚醒するときだ。夏が来た【森へ行く道<139>】
五ケ月をかけて、各地を巡ってきた「空想の森アートコレクティブ展」が、第一期の終着地点となる「藝術新社:漂泊」へと帰ってきた。この建物は、津軽(青森県)の古い林檎蔵を移築したもので、2年ほど前から「空想の森別館:林檎蔵ギャラリー」として運営してきたものである。北の国の豪雪に耐える設計による構造美は、南国にはみられない魅力があり、それ自体がアートと呼べるような建造物なのである。ここに、昨年から米子(旧制・廣瀬)凪里さんが参入してきてくれた。凪里さんは、由布院駅アートホールの事務局兼アートディレクターとして赴任してきて、企画や運営の主力として活動していたのだが、3年前に「大阪中之島美術館」のミュージアムショップ部門に抜擢され、関西での活動も目覚ましいものがあったのだが、いくつかの経緯を経て湯布院へ帰ってくること...漂泊するアート「空想の森アートコレクティブ展《第一期》」の最終地点/由布院空想の森美術館&芸術新社:漂泊にて②[空想の森アートコレクティブ展<VOL:4>]
今年(2024年)の3月から始まった「空想の森アートコレクティブ展」が第一会場「友愛の森空想ギャラリー(宮崎県西都市)」、第二会場「欅邸(宮崎県日向市東郷)」、第三会場「小鹿田焼ミュージアム渓声館(大分県日田市)」と廻り、場所・空間・展示作品・展示の手法などを変え、参加作家・作品も加わりながら第一期の終着地点「由布院空想の森美術館&藝術新社:漂泊(大分県由布市湯布院町)」へと辿りつきました。これは文句なしに面白い。主として古民家を修復・再生しながらアートスぺスとして運営している施設が会場となることから、行く先々の環境や風景、建物の空間構造などとどのように出会い、馴染むかということから作品選定が始まり、会場主・スタッフやアーティストとミーティングを重ねながら展示が開始される。その時点で、新たな鑑賞者や表現者...「空想の森アートコレクティブ展《第一期》」の最終地点/由布院空想の森美術館&芸術新社:漂泊にて[空想の森アートコレクティブ展<VOL:4>]
本日、高千穂・阿蘇・日田を経由して由布院空想の森美術館へ。日田では「小鹿田焼ミュージアム渓声館ギャラリー」での展示替え。昨夜から生暖かい風が吹いて、今朝は雨。強い雨風の中を出発。 風の野を越えてゆく【空想の森から<180>】
表記の企画展が始まります。まずは展示途中の様子を公開。この企画はこの「森の空想ブログ」に連載した、詩人・伊藤冬留氏のエッセイと高見乾司の絵画のコラボレーションシリーズから抜粋し、「展示」としたものです。画面で文字と絵だけで観賞した時から、一歩進んで、「観る」に加えて「読む」という行為が生まれました。大げさに構えるつもりはありませんが、インターネットで手軽に情報を入手できる現代において、実際の作品の前に立ち、「観る」「読み取る」「思索する」などという行為が縮小してきているのではないか、それは五感で感じとる能力のを孕んでいるのではないか。この展示がそのような現代の「観賞」を考える機会になればありがたいと思っています。(企画者・高見乾司)伊藤冬留氏の「白い花の咲くころ」を転載しておきましょう。☆[白い花の咲くこ...伊藤冬留のエッセイと高見乾司の絵画による白い花の咲くころ①【友愛の森空想ギャラリーにて<風と森のアート´24-7>】
夏の草原を吹き渡る風の色/「クララ」で染めるワークショップ日程:7月15日(月曜・祭日)時間:10時~15時まで場所:森の空想ミュージアム/西都市穂北5248-13☆参加費3000円☆お申込み・お問い合わせは担当高見tel090-5319-4167メールtakamik@tea.ocn,ne.jpへお願いします。☆別途染色素材のシルクストール代1500円~4000円(お好みのストールをお選びください。)☆今回は絹糸とウールの糸も染めます。染めた糸で冬から秋へ向けてウールのマフラーや着尺を織ります(別途申し込みが必要)。☆前日(14日)から糸染めや黄色+藍の重ね染めへの参加を希望する方は別途お申込み下さい。(2日間で参加費5000円となります)。*宿泊のご案内も致します。☆ストール購入+ハンカチや薄手のシャツ...草原を吹き渡る風の色/「クララ」で染めるワークショップ≪ご案内≫[空想の森の草木染め<108>]
*前回の続き。本文は作業中。「仮面」はうそをつかない/門外不出の神面を拝観②―16年ぶりに奉納された湯之像<ゆのかた>神楽にて―【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-11】
「尾八重神楽」は、米良山系・旧東米良の山中に伝承されてきた。米良山系は古くは秘境・米良の荘と呼ばれ、外界と孤絶した村々を抱く深い山脈であった。南北朝時代末期、北朝と足利幕府連合軍との決戦に敗れた南朝の遺臣とそれを支持した肥後・菊池氏の一族は、米良の山中に逃れた。米良の山人は「神」として王家の一族を迎え、菊池氏は米良氏と名を変え、この地を治め、善政を布いた。下って明治維新後の廃藩置県により人吉県となり、明治22年の町村合併により東米良村・西米良村に分割され、さらに東米良村は昭和36年に西都市に吸収合併され、西米良村は自立の道を選ぶという激動の歴史を経て現在に至っているのである。米良山系の神楽は、南朝の遺臣と菊池氏の一族によって流入し、伝えられたという。村所、小川、銀鏡、尾八重、中之又という地域ごとに伝わり、...門外不出の神面を拝観した【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-10】
最近、耳の中で音楽が鳴り響く状態が続いている。そのきっかけとなったのは、ヤマメを追って渓谷を遡行している時だった。三筋に分かれた谷の出会いの地点が小さな滝になっており、その滝の水音が青葉に覆われた渓流に響いて爽やかな音楽を奏でているのだったが、それに混じって、聞こえてくるメロディーがあった。最初は、神楽笛の旋律のように思えたが、それに水の音や谷を渡ってゆくホトドキスの声などが交響し、西洋の音楽や青年期に親しんだ日本のフォークソングや流行歌などが混じった。いつの間にか、私は旅の歌・坊がつる讃歌や知床旅情、アンデスの民謡・コンドルが飛んで行く、ハンガリージプシーのダンス音楽・チェーラダーシュなどを脈絡もなく口ずさみ、それが日常生活の中にまで延長されてきているのだった。そしてその現象に、先日、45年ぶりに訪れた...45年ぶりのブラックコーヒー/由布院「亀の井別荘・喫茶天井桟敷」にて【空想の森から<179>】
6月23日、カワトモ君と二人で大分・日田を由布院へ行く旅に出た。宮崎市の自宅から電車で来たカワトモを高鍋駅で迎え、一路北へ。都農から広域農道尾鈴グリーンロードに入り、耳川を越える。雨は降っていなかったが、川は増水し、濁っていた。上流部の諸塚・椎葉の山脈に降雨があったのだろう。角川インターで東九州道に乗り、高千穂方面へ右折。高千穂の中心部から高森方面へ右折し、途中の無人販売所で野菜を買う。地元の人が自分の畑から採れた野菜を置いているなじみの寄り道。波野、産山を通り過ぎて九州横断道路に出る。ここを右折し由布院へと向かう。日田地方が豪雨のため、この日の予定を変更した。標高1330メートルの九州最高峰の牧ノ戸峠は深い霧雨の中。風も強く、九重連山は見えなかった。由布院空想の森美術館に到着。カワトモ君は見るものすべて...カワトモ君と由布院へ/作家・夢枕獏氏の取材を受けました【空想の森から<178>】
宮崎市生目神社の「神武」演目をカムヤマトイワレヒコの国造りの様子と読む解くことは可能と思われるが、では、その演目はいつから神楽の中に存在していたのか、神楽そのものの起源がいつの時代なのかは、不明である。しかしながら、同神社には、掲示の神面二点が伝わっており、下記のような墨書があることが確認されている。『1、寶治2年銘の面は、1248年(鎌倉時代)の作であり、縦51.2cm、横31.1cmの大きさで、裏側に「土持右衛門尉田部通綱寶治二年五月日」の墨書があり、現在確認されている有銘仮面の中では県内最古である。2、天文五年銘の面は、1536年(室町時代)の作であり、縦62.1㎝、横44㎝の大きさであり、「生目八幡宮奉寄進大台面・・・・」とあり、生目神社に寄進した面であることが窺える。』この二面は、南九州に多くみ...宮崎の神武伝承と神楽の「“神武”演目」を読み解く*補足資料【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-9】
宮崎平野部から日南海岸へかけて分布する神武伝承と神楽の「“神武”演目」【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-8】
昨日は一日、からりと晴れた好天だったが、今日は朝から強い雨がふっている。災害を引き起こすような豪雨では困るが、梅雨どきの山や森や渓谷、里の田畑を潤すような雨ならば、それも自然界の摂理と観念し、静かに一日を過ごす。森に降る雨を眺めながら、冬の間に描いた神楽の絵を仕上げる。雨の中に神楽の景色が滲む。文人画に「胸中山水」という境地がある。書を読み、旅を続けて賢人を訪ね、画技の修練を重ねて練達の域に至り、画室にいながら旅先の山や渓谷や村里の風景が胸に浮かび、絵筆が動くという究極の領域である。*続きは作業中。 胸中の神楽を旅する【神楽を伝える村へ/宮崎神楽紀行2024-7】
先日、開催中の「友愛の森空想ギャラリー」へ向かう途中の出来事。茶臼原の道路を走行中、目の前で鳥が翼をバタつかせて動かなくなった。「車にぶつかったのかな。後続の車に轢かれるから道の端に寄せておこうか」と運転していた高見乾司さん。しかし、次の言葉に私と同乗していたフルートのK先生は即答した。「立派な雄のキジ。今夜はキジ鍋にしようか。キジは美味いよ」「食べましょう。ちゃんと食べてあげよう」ところが、その時、道路の向こうに雄を探し回っている様子の雌のキジの姿。「つがいの雌がいたか。このまま雄を連れ去ったら雌はずっと探すな。残念だけどキジ鍋は無し」高見さんは雄のキジを畑の隅に置き私達は教会ギャラリーを目指しました。6月の梅雨の晴れ間の出来事でした。「焼野の雉(きぎす)」とは、雉(キジ)が自分の巣がある野が焼けだすと...【南国の赤/水元博子展<3>】
*本文は作業中。梟谷の六月【九州脊梁山地ヤマメ幻釣譚<24ー9>】
ひさしぶりにからりと晴れた好天。「森の空想ミュージアム」の仲間・黒木彰子さんと「天の糸・森の色」の仲間たちの作品も出品されています。黒木彰子さんが三日間、会場につめています。お出かけ下さい。「つくりびとのカタチ」展宮崎県三股町武道体育館にて
画家は、若いころに情熱と才能のすべてを燃焼し尽くし、作品も、作家自身も消失する例と、晩年に至り、精進と修練の果てに幽玄の境地にまで達し、すぐれた作品を残す作家とに大別されるという。私は高校3年の夏に大分県日田市から福岡県久留米市までのおよそ50キロの道を自転車で4時間をかけて走りとおし、青木繁と坂本繁次郎の作品を見た経験がある。教科書にも載っている「海の幸」を実際に見た時の感動は今も忘れない。そして、坂本繁二郎の晩年の「月」もまた心に沁みる名作であった。この二例こそ、画家の素質と画業をあざやかに物語るものである。以後、私は旅も、勉強も努力も重ねてきたつもりだが、この二人の域に近づく作品を生み出し得ていない。天才と凡才というふうに単純に分けられるものではないと思うが、悩ましい命題である。別の角度でみてみよう...回帰する位置【南国の赤/水元博子展<2>】
梅雨入りの気象情報が出たけれど、降り続いていた雨が止んだ。自転車に乗って出かけよう。白いボディーの婦人用軽快車だ。ところどころ錆が出ているが、これは元の所有者の使用頻度が少なかったことによるもののようだ。毎年、山歩きや神楽取材に来ていた東京の人が、借りていたアパートを引き払ったため、家財道具一式と一緒に当方に寄付して下さった荷の中に、これがあった。自転車に乗るという行為は何十年ぶりかのことになるが、恐る恐るこぎ出してみると、案外、身体はそのコツを記憶していて、ママチャリとあまり的確とは思えない現代の呼称で呼ばれるその自転車は、颯爽と森の中へ走り出した。なかなかスポーティーでお洒落である。スピードも出る。昔の婦人用自転車は、ただ乗りやすいだけの簡略な構造で、デザインなどを考慮のうちに無かったような気がする。...風を切って緑の森を走り抜けること【森へ行く道<138>】
鎌を持って森へ行く。台所の生ごみを捨て、その上に刈草をかぶせ、さらに焚き火で出た灰をばら撒く。それがこの森の土を肥やし、野草や薬草や染料として利用できる植物、実の生る樹木などを育ててゆく。その生ごみに混じっていた切り屑や種子の中から芽を出すものがあり、なかには育って実を付ける野菜もあるのだ。それで、芽吹いた野菜の周りの草を払い、伸びすぎた木は間引きをして日当たりが良い環境を作ってやるのだ。自然農という農法には、私は抵抗感を持つ人間の一人だが、こうして自然界の中で育ってゆく作物を採集し、食べることができれば、縄文的採集農法と名付けてもいいかと思わぬでもない。上掲は4年前の写真だが、そうして育ったカボチャが、森の中へと蔓を伸ばし、大きな実をぶら下げていた。立派な黒皮カボチャであった。その風景は森になじみ、実は...森の菜園【森へ行く道<137>】
ケイタ君が帰って来た。旅の治療師・落合圭太君は、各地を旅しながら、理学療法士としての仕事をしたり、農家や林業家などで働いたりしながら、一年ほど前、当地へも立ち寄ってくれたのである。そして2ヶ月ほどの間に森のマドゥパンの手伝いをしたり、仲間たちの音楽イベントに参加したり、私と一緒にヤマメ釣りに行ったりした。そして実家のある神奈川県に帰り、そこで畑作りなどをして過ごしているという便りが届いていたのだったが、この春、家財道具など一切をまとめて、本格的にこの地へ移住してきたのである。ちょうど、一件、空家が出ていた時期だったから、そこに住み、我々の仲間として過ごすことになったのは好都合だった。他所の土地の人であり、旅人だったケイタ君が来た時、私たちはなんとなく、――帰って来てくれた。という感覚で迎えた。短期間での滞...ケイタ君の畑【森へ行く道<136>】