秦 反乱軍の内紛 趙に向かった武臣は蒯通の進言により趙を攻略すると、その地で王になる 武臣が燕に派遣した韓広は燕で自立し王になる
例えば、武臣という者は張耳と陳余を付けられて趙に向かいます。 武臣は蒯通という弁士の力も借りて趙攻略を成し遂げます。ところが、趙を攻略すると趙王を自称して独立してしまいます。陳勝は怒って陳に残っていた武臣の家族を殺そうとしますが、「秦が亡ぶ前に趙王やその臣下の家族を殺せば、新たに敵を作ることになってしまいます。それならばまだ王に立ててしまう方が良いでしょう」と諌められ、渋々独立を認めまし…
秦 陳勝呉広の乱5 勢力が大きくなりすぎた反乱軍が進撃をしなければ内部崩壊する理由
しかし、反乱軍の勢力拡大のスピードは余りに急に過ぎました。 少し前まで日雇いの農夫だった人物が、ほんの僅かな間に王となり、数十万もの軍(というよりもならず者たち)を束ねることなど、どだい無理な注文でしょう。 それでも反乱軍の規模が大きくなれば、一箇所に留まり続けることはできません。軍隊は生産力には寄与しませんから、彼らの分の食料を確保しなければなりません。大軍が町に居座れば、すぐに町か…
秦 陳勝呉広の乱5 陳勝、農民時代の仲間を殺してしまい人望を失う 2世皇帝は反乱を報告した使者を死刑にし、正しい情報を自ら断つ
陳勝は王となった後には傲慢になったようで、史記はこのようなエピソードを伝えています。 件の「燕雀安んぞ云々」と言われた相手が張楚の王となった陳勝を訪ねて来た際のことです。彼にとって、陳勝は偉大な王やら貴種やらという尊敬すべき相手ではありません。ただの農民仲間です。彼は宮殿に招き入れられると、誰彼構わず陳勝の昔の話を吹聴しました。それも、洗練されていない、下品な言葉遣いでした。不快に感じた陳…
秦 陳勝呉広の乱4 陳勝たちは近くの大沢郷の町を占拠 近隣から秦に不満を抱く人々が集まってくる
彼らは近くの大沢郷の町へ向かうと、難なく占領を果たします。反乱軍が町を占拠したことが周辺に伝わると、たちまち周囲から呼応した人々が集まってきて、数万人単位に膨らみました。 反乱が急速に拡大する背景について、『
秦 陳勝呉広の乱3 陳勝と呉広は労役夫を集めて反乱を起こし、それぞれ項燕と扶蘇を名乗る なぜ秦の皇子を名乗るのかという疑問
陳勝は男たちを集めると、こう演説します。 「きみたちは大雨に遭ったため、皆期限に遅れることになった。期限に遅れれば斬罪と決まっている。もし斬られることがなかったとしても、辺境の守備につけば10人のうち6、7人は死ぬことになる。死なずにいられるなそれでも良いが、どうせ死ぬなら名声を得て死ぬほうが良いではないか。王、貴族、将軍や大臣と俺達の間に違いなんて無いだろう!(王侯将相いずくんぞ種あらんや)…
秦 陳勝呉広の乱2 無名の貧農時代、「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」と格好良いことを言っていた陳勝、反乱を図り、引率の尉を殺害する
そんな陳勝には有名な逸話が残ります。日雇いの農民だったころ、一緒に働いている男に「偉くなっても互いのことは忘れないでいよう」と語りかけたことがあります。話しかけられた男はなにを莫迦なことを、と一笑に付しました。その時、陳勝 は「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」、つまり「ツバメやスズメのような小者には大鵬のような大きな鳥の心なんて分からんものだな」などと格好いい言葉を吐いたことになっています。 …
秦 陳勝呉広の乱1 長雨で北方への警備に遅れることになった陳勝たちは、期日に遅れれば死刑であることから反乱を決意する
裏にある意図が隠れていませんね。このようなことをすれば、趙高の権力のみが高まることなど、火を見るより明らかではありませんか。君主はアメとムチの権利を決して手放してはいけないと説いた韓非ならば激しく非難するような提案です。しかし、もともと政務などとりたくない2世皇帝は喜んでその提案を採用します。 2世皇帝がこの体たらくですから、暗殺、クーデター、反乱と何が起こっても不思議は無い状態でした。 …
秦 苛政 阿房宮建設のため労役はますます厳しくなり、税金は重くなり、農作物は農民の口に入らなくなる 2世皇帝、人前に出ないことを宣言
当意即妙の受け答えができる頭の回転の速さとユーモアと正義感を持ち合わせた人間が、適切なタイミングさえ得ることができれば2世皇帝を諌めることができたのかもしれませんが、そのような人材が多くいるわけがありませんね。当然、耳に痛いこと、つまりは本当に大切なことは耳に入らなくなります。 そうしておいて、建設途中だった阿房宮の完成に向けて工事を再開させます。これには膨大な人数を動員する必要があったわ…
秦 2世皇帝を諌めた数少ない例外の優旃 当意即妙の諫言で、始皇帝も2世皇帝も諌めた役者
王族は一連の粛清で震え上がり、臣下は諌めようものなら処刑されるため敢えて諫言するような者は居なくなりました。これでは、裸の王様を生むだけです。苦労知らずのボンボンが絶大な権力を握り、しかも無知であるというのは考えうる最悪の事態のように思います。 2世皇帝を諌めることができた数少ない例外に、史記滑稽列伝に見える優旃という者がいます。 「優」は姓ではなく、役者の意味ですから、「役者の旃」く…
秦 大粛清4 皇帝一族もまた粛清からは逃れられず、多くのライバルが殺される 公子将閭(しょうりょ)の無残な死や絶望した公子高の自死
2世皇帝の粛清は親族にも向けられます。 例えば、公子の将閭は「臣下として欠けたところがあるので斬罪に当たる」との皇帝の命令を受けます。 将閭は「私は朝廷における儀式において、常に儀礼官の指示に従って礼を失ったことはなく、宗廟の儀式でも礼節を欠いたことがない。人と相対するときも、礼を違えたことはない。それなのに、どうして臣下として欠けていることがあるのか、理由を聞いてから死にたい」と抗弁…
秦 大粛清3 蒙毅粛清後、蒙恬にも死を命じる使者が送られる 蒙恬もまた抗弁するが死を迫られ、潔く毒を飲んで果てる
2世皇帝はまた、蒙恬にも使者を送り、「汝の過ちは多く、また弟の蒙毅は大罪を犯した。よって、そなたに法の裁きを与える」と伝えさせます。 蒙恬もまた、蒙毅同様に使者に反論を加えます。 「我が蒙家は祖父蒙驁、父蒙武から臣に至るまで3代、秦朝のために功績を立て、信頼を積み重ねてまいりました。例え体は牢に繋がれても、臣が命じれば背くには十分です。必ず死が待っていると分かっていながらそうしないのは…
秦 大粛清2 2世皇帝、趙高にとっての最大の邪魔者の蒙毅に死を命じる 蒙毅は抗弁するが、彼の死こそが最優先だったため、蒙毅は殺される
2世皇帝は提案に飛びつきます。斯くして、大粛清が始まりました。大臣が、諸公子が、高官たちが、次々と捕らえられては殺害されていきます。この一連の粛清で、多くの有力者が殺されました。 その筆頭は蒙一族です。 皇族の一員である子嬰は、趙王が名将の李牧を処刑して国を滅ぼしたことを例にあげ、しっかりした臣下がいなければ国が危ういと蒙一族粛清に反対しましたが、聞き入れられることはありませんでした。 …
秦 大粛清1 2世皇帝、短い人生なのだから遊び暮らしたいと趙高に相談、趙高は2世皇帝に心服しない公子や大臣の排除を進言する
趙高は、自分も卑しい出身で、先帝に引き立てられて貰ったから高官としての座を得ただけなので、功績を挙げて身を立てた大臣たちが自分を下に見ていることは知っている、と前置きをしてから、本題に入ります。それは、臣下たちに恐れさせるため、罪のある者を片端から処刑し、意に沿わぬ者を粛清する、という劇薬でした。 世の独裁者が苛烈な粛清による恐怖で全てを支配する、古今珍しくもない手法ですね。 上記は史…
秦 2世皇帝の巡行 2世皇帝、子を生んでいない側室は殉死させる デモンストレーションのため、東方へ
どうすれば良いのか困ることに、始皇帝に愛された女性たちをどうするかという問題もあります。2世皇帝は、考えられる最も非道な方法を選びました。則ち、「先帝の後宮の女性で子を生んでいない者を外にだすべきではない」として殉死させた、というのです。 殉葬は見つかっていないと書きましたが、それはあくまで始皇帝陵が発掘されていないためですので、あるいは始皇帝陵の調査が進んだ場合、ここで殺された女性の遺体…
秦 兵馬俑4 兵馬俑に先行するスキタイ系の墓から出土した鞍の遺物 盗掘を防ぐため、防護装置を考えた職人は墓に生き埋めにされる
両者の見ているポイントが全然違うところが面白いですね。 ここで名前の出てくるパジリクとはアルタイ山脈にある遺跡で、スキタイ系の民族が居たところです。前5世紀の遺跡から鞍の実物が出土しており、馬具発展の歴史を解明するのに注目されています。 匈奴が勢力を強める前、中国北方で力を持っていたのは月氏と東胡という騎馬民族だったと言われます。このうち、月氏はパジリクの主だった、という説が有力とのこ…
秦 兵馬俑3 兵馬俑1号坑以外から出土した興味深いものの代表、銅車馬と文官俑
この部隊は高機動力を活かして戦車後方を防御したり敵陣の背後に回り込んで包囲したりといった使い方だったのでしょう。騎兵を決戦兵力にしていたアレクサンドロス3世が思い出されますね。 3号坑は戦車が1台、衛兵俑が64体あり、指揮所とみられます。衛兵俑は「みな互いに向かいあい、道をはさむ形に整列している。陶俑は弓弩・戈・矛・戟など攻撃用の武器は持たず、儀衛用の武器の殳(しゅ)を持っており、3号俑坑内…
秦 兵馬俑2 兵馬俑の構成 第1坑に収められた俑の配置と、その構成から見える軍のあり方
当初見つかったのは4号坑までです。そのうち、写真でしばしば見られる、陶俑がずらっと並んでいるのは1号坑です。 1号坑には約6,000の兵士と戦車が交互に38列も配置されています。最も東側の先頭3列は南北に3列に68体の俑が合計204体並びます。これらは軽装で背中に矢箙を、手には弓を持ちます。その後方には軍の主力となる戦車と歩兵が配置されます。 軍同士が接近した場合、まずは先頭の弓矢部隊が遠〜中距離攻撃…
秦 兵馬俑1 歴史的な発見とされる兵馬俑坑、その発見のきっかけと8,000にも及ぶ俑の存在
始皇帝陵からは殉死者は見つかっていませんが、その代りになるものが1974年3月にひょんなことから発見されました。臨童県の農民が村の南に井戸を掘ろうとしていて、壊れた陶器の破片を見つけたのがきっかけです。 当初はまさか始皇帝関連の遺物とは思われず、たまたま記者が秦代のものと見抜いて記事にするといった偶然にも助けられ、一帯に調査の手が入ります。発掘を始めると、次から次へと大量の遺物が発見されました…
秦 始皇帝の墓3 始皇帝以前の秦の墓 前6世紀の景公の墓について 過去は殉死が見られたが、始皇帝の墓からは殉死者は見つかっていない
余談ながら、景公の墓からは182体もの殉葬者が見つかっています。勿論、彼らは死後も景公にかしずくことを期待されていたわけですが、墓が盗掘されていたところを見ると、どうも死者よりも生者の方が貪欲で恐ろしいもののようです。 脱線ついでに景公の時代の遺物について見ておきましょう。 景公存命中の秦は、まだ咸陽ではなく雍を首都にしていました。その遺跡は陝西省西部の鳳翔県で発見されています。東西3.3km…
秦 始皇帝の墓2 墓上部からは水銀が検出され、史記の記述が正しかったことが判明した 墳丘内部について
もっとも、墓をここまで目立つ存在にしたのは2世皇帝です。埋葬時、まだ墳丘はありませんでした。地下30メートルに遺体を葬っていたのです。 その墓は後に記す理由により破壊されていることが確実視されているため、発掘は行われていません。 しかし、1980年代に墓の表土の水銀含有量が測定され、墳丘の頂点が最高値の500ppb(1ppbは10億分の1)を示し、周辺からも水銀が検出されています。水銀で川を作ったという…
秦 始皇帝の墓1 驪山陵の建設には労働刑の人々が多く従事したようだ 驪山陵の規模について
古代中国人が理解していた世界の姿が地下に再現されていたのですね。 70万人もの奴隷や刑徒が働けば、当然、中には労働従事中に亡くなる者もでます。驪山陵の西方1.5キロメートルで見つかった共同墓地から100体ほどの人骨が出土しています。そのうち3体の女性、2体の少年のもの以外は全て20歳から30歳までの成人男子のものでした。特筆すべき事に、何体かの遺骨には四肢を切り離したり腰斬された跡があるそうで、その構成…
秦 沙丘の陰謀7 腐敗臭を誤魔化すため塩漬けの魚が備えられ、悪臭の中で宦官が執務を行う 始皇帝の墓
その腐敗臭を誤魔化すため、民衆から捧げられたとして護衛の車には塩漬けの魚1石が乗せられました。魚の異臭で遺体の腐敗臭を誤魔化したのです。 悪臭立ち込める轀輬車の中には目を掛けられていた宦官が潜み、通常と変わらず3度の食事を運び、臣下の上奏も行われました。通常であっても上奏は宦官が取り継ぎますから、臣下は異常を察知することはありません。 勿論、宦官たちをコントロールしたのは趙高以外にはあ…
秦 沙丘の陰謀6 胡亥たちは始皇帝の長子の扶蘇に偽の勅令を送り自殺させ、直道を通って咸陽に急ぐ
曰く、「朕は天下を巡察して神々を祀り、わが長寿を祈った。その間、汝扶蘇は将軍蒙恬と数十万の軍を率いて北方に駐屯すること10年余りであるが、進撃はできず士卒の損害ばかり増えるが寸尺の領土を広げたという功績もない。にもかかわらずしばしば上書しては我が為せることを謗った。元の職を解かれ、太子になれないのを恨んでいるのであろう。扶蘇は子として不忠である。剣を与えるので自決せよ。将軍蒙恬は扶蘇と共に外地に…
秦 沙丘の陰謀5 陰謀の実態は? 胡亥即位当初のブレーンが趙高と李斯であることの意味は?
事実としては、始皇帝は巡幸前に後継者を定めていなかったこと、胡亥は公子の中で唯一始皇帝に随行することを許されていたこと、始皇帝が巡幸中に死んで胡亥が帝位を脅かしかねない他の有力な皇位継承権保持者を殺して権力を握ろうとした、ということです。 ほぼ確実なのは、胡亥の即位に趙高と李斯が関与した、ということです。趙高は先に見た通り、扶蘇が即位して蒙毅が最側近となれば比喩ではなく命が危ういので実に分…
秦 沙丘の陰謀4 子孫までの害を説かれた李斯、遂に趙高の陰謀に加担することを決める
李斯は趙高が説いたことなど先刻承知だったことでしょう。彼が最初に仕えた呂不韋がどのような最期を迎えたか、知らないわけがありませんから。趙高は言葉を続けます。 趙高「私は詔を頂いてより、胡亥様の教育に当たり、法律についてお教えして参りました。その間、落ち度は無く、慈悲深くて温和、財産に執着せずに人材を重んじるお人柄でございます。頭が良い一方で口数は少なく、礼を尽くして士に敬意を払われます。皇子の…
秦 沙丘の陰謀3 胡亥を説き伏せた趙高は、今度は李斯の説得にかかる
胡亥はため息を吐き、葬儀も終わっていないこのような時期に丞相に頼めるだろうか、と尋ねます。趙高は、「時機、時機でございます。事を図るに猶予はございません。恐れるのは、時に遅れることだけでございます」と畳み掛け、遂に胡亥の同意を取り付けます。 趙高は「丞相と共に謀らなければ成就は難しいでしょう。私が貴方様のために丞相と相談致します」というと、李斯のところへ向かいました。 趙高「天子様はお隠…
秦 沙丘の陰謀2 趙高は胡亥を訪れ、始皇帝が望んだ扶蘇ではなく、胡亥こそが即位すべきと説くが、胡亥は反対する
趙高は早速胡亥を訪れました。陰謀の始まりです。 扶蘇に送られるはずの玉璽の押された書簡を手にした趙高が、胡亥に語りかけます。 趙高「陛下はお隠れあそばしました。公子様方を王にするとのご遺詔はございませんが、扶蘇様にだけは書簡を準備されておられます。扶蘇様がお戻りになれば、ご即位されて皇帝におなりとなるでしょう。そうなれば、胡亥様には僅かな土地すら与えられません。これで良いものでしょうか」…
秦 沙丘の陰謀1 始皇帝に親任された趙高という男 寵臣の蒙毅はかつて趙高に死刑を宣告したことがあり、扶蘇即位は趙高には命取りだった
趙高は趙の王家に連なる出自ではありましたが、どうやら親が罪に触れたようで、兄弟ともども去勢されて宦官にされました。女婿がいることから、成人後のことであったと推測されます。 彼は極めて高い事務能力を有していたようで、裁判事務にも詳しかったこともあり、宮中の車馬を管理する中車府令に抜擢されます。 この中車府令の時期に、趙高は胡亥に接近し、その面識を得たようです。そして胡亥に裁判について教え…
秦 始皇帝の死 重体に陥った始皇帝、長子の扶蘇に自分の葬儀を取り仕切るよう命じた勅書を用意させるが、趙高は握りつぶす
ちなみに、「宦」には従来、宮刑の意味はなく、礼記に見えるという「人に仕える者を宦という」言葉通り、宮室で働く臣下のことを指す言葉でした。臣下=宦の事務を取り扱う中常侍は、最初は宦官以外も就いていましたが、やがて宦官が独占するようになり、臣下全般ではなく宦官を掌握するように職務内容も変化していきます。 後漢末期に暗愚な霊帝の下で権勢を振るった十常侍が、役職としては中常侍でした。 彼らは後…
秦 宦官4 性欲が回復した例、魏忠賢 刑罰として宮刑の誕生から、出世コースへと変わるまで
宦官たちは生殖機能を復活させようと、効果のあると信じられたものを好んで摂取しました。『
秦 宦官3 切除してもすぐに性欲がなくなるわけではなく、多くの宦官は宮中の女性と擬似的な夫婦となった 若年で切除した場合、回復することも
意外なことに、性器切除してもすぐに性欲が無くなるわけではないそうです。『
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