楚漢戦争 項梁の旗揚げ3 陳勝の部下の召平、ニセの勅令で項梁を上柱国に任命して秦討伐を命じる 長江北岸の状況
この時点で項梁が郡を1つ得たことは、後に項梁たちが反乱軍の中核を担うことになっていくことにつながっていきます。これがどれだけ大きかったかというと、反乱の口火を切った陳勝は1つの郡も手に入れることすらできなかったと言えば分かるでしょうか。 208年正月、項梁のところに召平なる人物がやってきます。召平は陳勝に命じられて広陵を攻めていたのですが、落とすことができずに項梁を頼ってきたのです。彼は功績を…
楚漢戦争 項梁の旗揚げ2 項羽の若かりし日のエピソード 呉の県令の殷道が乱に乗じようとするが、相談した項梁に殺され反乱は項梁が主導する
甥の項羽はかつて項梁から文字を教えられましたが、覚えられませんでした。続いて項梁は剣術を教えましたが、こちらもものになりませんでした。項梁が項羽を叱りつけると、項羽は「字は姓名が書ければ十分、剣術は1人しか相手にできないので習う価値はありません。私はそれよりも、万人を相手に戦う術を学びたい」と答えました。項梁が兵法を教えると、項羽は大喜びで学び、一通りを理解したそうです。 項羽は1つの目に2…
楚漢戦争 項梁の旗揚げ1 楚を最後まで支え続けた名将項燕の息子項梁と、その甥の項羽について 項梁は櫟陽で逮捕されたが許され、呉へ逃げる
もしこの時、雍歯が(これよりずっと後に国教となる)儒教的な価値観を発揮して、「仕えた主人を変えるなど士のやることではない」などと魏の誘惑を退けていたのなら、彼の名は歴史に埋もれていたかもしれません。歴史のめぐり合わせの面白さが感じられる事例です。 劉邦は雍歯を討とうとしますが、果たせず、沛に戻るしかありませんでした。 この頃、既に章邯の率いる秦軍は函谷関を出て反乱軍を蹴散らし始めていま…
楚漢戦争 劉邦の仲間2 劉邦に怪我をさせられても、劉邦を守ってだまり続けた夏侯嬰 下級役人の周昌や周苛、幼馴染の盧綰、樊噲や王陵、雍歯
ある時、劉邦はふざけて夏侯嬰に傷を負わせてしまったことがあります。これを訴えた者がいましたが、劉邦は無実を主張しました。夏侯嬰もまた、劉邦が正しいと証言します。 下級官吏を傷つけるのは重罪だったためか、偽証が許されない罪なのか、夏侯嬰は1年間も投獄され、鞭打たれること数百に及びましたが、証言を変えることはありませんでした。このあたりの行動を見ると、劉邦と仕事抜きで親しかった者の任侠気質が感…
楚漢戦争 劉邦の仲間1 下級官吏ながら能吏として秦中央にまで推薦された蕭何 獄の管理をしていた曹参と任敖、御者で劉邦の親友夏侯嬰
劉邦は亭のトップで、警察署長的な役割を果たしていたのでしたね。行政機構の末端に連なっていたことから、県、亭の役人とはつながりがありました。 その筆頭に挙げられるのが、蕭何です。蕭何は沛県豊の出身で、沛に勤務していることから分かる通り、県のトップではなく地元採用の下級官吏です(トップは中央から派遣されます)。蕭何は劉邦と早くから知り合っていたらしく、劉邦がまだ庶民であった頃にしばしば法律上の…
楚漢戦争 沛の反乱2 沛の人々は県令を殺して蜂起、蕭何や曹参は失敗した時の族滅を恐れ、劉邦がリーダーとなる
劉邦に近しいことが明らかな蕭何や曹参は殺されることを恐れて城を逃げ出し、劉邦集団に身を投じます。劉邦は帛に「天下の者は長く秦に苦しめられてきた。今、父老は秦のために城を守っているが、やがて諸侯の軍がやってきて城を落とすだろう。今のうちに県令を殺し、反乱に応じれば家を保つことができるだろうが、そうでなければ親子とも殺されてしまうことだろう」と認めて城中に射込みました。 暫くすると城門は開かれ…
楚漢戦争 沛の反乱1 陳勝呉広の乱が起こると県令は自分も乱に加わろうとする 蕭何と曹参は劉邦を呼び寄せさせるが、怯えた県令は城門を閉ざす
劉邦がどこに隠れても、呂后はいつでも見つけ出しました。不思議に思った劉邦が尋ねると、「あなたの居るところには常に雲気がありますから」と答えたそうですが、それなら他の人にも見つけられてしまいますよね。 この噂を聞いて沛の子弟が多く劉邦に従ったということなのですが、野盗としてそれなりに成功したから勢力を伸ばしたと考えるのが良いでしょう。なにせ、劉邦たちはこの頃には数百人にまで膨れ上がっていまし…
楚漢戦争 劉邦の盗賊暮らし 咸陽での賦役に人々を送る途中、肝心の人夫が逃亡してしまう 劉邦は諦め、逃げて盗賊ぐらしを始める
この時とは別の機会にも、劉邦は徭役の人々を咸陽に送る仕事をすることになりました。ところが、今回は様子が違いました。人夫が次々と逃亡してしまって、送り届けるべき人数に大きな穴が空いてしまったのです。このままでは咸陽に着くまでに誰も居なくなってしまうと考えた劉邦は、西沢に止まって皆で酒を飲み、「お前たちは好きなところに去れ。俺もここから逃げる」と言って解散を命じました。もちろん故郷には戻れません。…
楚漢戦争 劉邦の結婚2 人相見をするという呂公、劉邦を貴相と見抜き、妻の反対を押し切って娘を劉邦と結婚させる
酒宴が終わって皆が引き上げようとする時、呂公は劉邦に目配せして残るように促しました。劉邦はそれを悟り、酒を飲んで離席を遅らせました。 2人きりになると、呂公は「私は若い頃から人相を見るのが好きで多くの方の人相を見てきましたが、あなたの人相に敵う方は誰もいませんでした。どうか御自分を大切になさってください。私には娘がおりますので、あなたの家の掃き掃除でもさせてやってはもらえませんか」と言って…
楚漢戦争 劉邦の結婚1 仇を避けて沛にやってきた呂公の歓迎会で、劉邦は「1万銭進呈」とホラを吹いて上座に座る
長じても家の仕事はやりたがらず、壮年になってから沛県の東にある泗上という亭(一番小さな行政単位)の長になります。おまけに酒と女を好んだというのですから、真面目な勤め人タイプとは正反対であることが分かります。 仕事熱心には見えないプロフィールではありますが、寛容で施しを好み、物事にこだわらないために多くの人と親しく付き合いました。 飲みに行くとツケで酒を飲み、酔えばその場で臥して寝ていた…
楚漢戦争 劉邦という男2 劉邦のおかげで漢では「邦」の文字が使えなくなり、国家という言葉が生まれた 劉邦の出生伝説について
劉邦の名が怪しいのは、彼の両親からも覗えます。父の名は「身分の高い人」の意味である大公、母は「劉家のばあさん」を意味する劉媼と、まともに名前や字を持っていない階級であったことが明白です。劉邦の名が見えるのは、後漢末の荀悦の『漢紀』に見えるのが最初ということですから、ここまでのどこかで作られた名前かもしれません。『
楚漢戦争 劉邦という男1 貧しい農家の4人兄弟の3番め(字の「季」は末っ子を意味するのに)に生まれた劉邦
改めて項羽と劉邦について触れていくことに致しますが、秦の滅亡とはどうしても重複が避けられない点があります。秦の項からご覧頂いている方には冗長と思われるかもしれませんが、お付き合い頂けると幸いです。 秦末の状況を軽く振り返ります。 始皇帝が死んで2世皇帝が即位すると、始皇帝陵や阿房宮の建設に大勢の人夫を借り出しました。その厳しさだけでも大変なものだったでしょうが、関中の収穫だけでは胃袋を…
秦 秦の滅亡 子嬰が即位した頃には反乱軍が既に咸陽に迫っていた 即位46日で子嬰は劉邦に下り、その数日後に項羽が子嬰を殺し咸陽を焼く
どちらにしても、皇帝制度では異常に若かったり無能だったりする皇帝を頂くリスクが常にあるという問題を晒しているように思います。 話を趙高死後に戻します。 趙高が殺されて子嬰が後を継いだわけですが、既に秦は滅亡の瀬戸際にまで追い詰められていました。劉邦の軍が武関を破り、咸陽郊外の覇上にまで至っていたのです。即位して僅か46日後、子嬰は組紐を首にかけ(命じられればいつでも自殺するという姿勢)、…
秦 2世皇帝は何歳で死んだか? 史記は胡亥即位を21歳とするが、秦時代の歴史書『秦記』は12歳と記す
ここでも子嬰は胡亥を諌めていますが、結局李斯は殺されてしまいます。そして胡亥は趙高を丞相とするのですが、趙高が胡亥を殺し、さらに将軍の章邯(趙正書では張邯)が秦を滅ぼし、趙高を殺害しました。 最後にまとめとして、「胡亥は諌めを聞かなかったため、即位4年で身は死して国は亡んだ」とあります。どこまで史実に近いのか 趙正書に関しては、入手しやすい本として『
秦 『趙正書』の意外な内容 近年出土した『趙正書』には史記とは全くことなる秦末の事情が語られていた
以上が史記に基づいたストーリーですが、近年になって新たに出土した史料には別の話が展開されています。 2009年に北京大学に寄贈された、3346枚の竹簡の中に『趙正書』と言われるものがあります。この竹簡は書体や記述された年代から、漢の武帝から宣帝までの4代(前141年〜前48年)時代のものと考えられています。もちろん、偽物である可能性もあるわけですが、それでも折角なので紹介しておきましょう。 『趙正書…
秦 趙高の死 子嬰は自分も殺されることを恐れ、儀式をボイコットすることで趙高をおびき寄せ、暗殺する
2世皇帝は始皇帝の末子でしたね。なぜ2世皇帝がライバルを粛清した際、年長であった子嬰が生き残ったのでしょうか。私は子嬰の母が始皇帝の夫人の中でも位が低かったためではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。 さて、趙高は子嬰を立てるに当たり、「秦はもと王国で始皇帝が天下を統一したため帝と称するようになったが、今では6国が再び興って秦は再び小さくなったので、帝と称するのは相応しくない。元のよう…
秦 2世皇帝の死2 2世皇帝は平民に落としてくれて構わないからと命乞いをするが許されずに殺され、趙高は子嬰を担ごうとする
座所の帳を射られた2世皇帝は周囲の者を呼びましたが、誰も戦おうとはしません。2世皇帝は、常に侍っているただ1人の宦官に、「なぜお前はこのようなことになる前に注進しなかったのか」と詰ります。宦官は「わたくしは注進しなかったからこそ、今まで生きてこられたのです。もし注進しようとしていたなら、とっくの昔に殺されていたことでしょう」と、恐らくは無意識に、最大の批判を返しました。 閻楽は2世皇帝に対し、…
秦 2世皇帝の死1 皇帝の見た悪夢 反乱が収まらないことで窮地に陥った趙高、2世皇帝暗殺を謀る
2世皇帝は白虎が馬車の左の副え馬を噛み殺す夢を見ます。占わせたところ、「��水の神が祟をなすであろう」との卦が出たため、��水の近くにある望夷宮で斎戒し、��川に白馬を4頭沈めて��川の神を祀りました。それと並行し、盗賊がいつまでも鎮圧されないのは何故かと趙高を責めます。 咸陽内で趙高が権力闘争に邁進する間にも、反乱軍は咸陽に迫ってきていました。反乱は群盗と言い換えられてはいましたが、未だ収まっ…
秦 李斯の死3 李斯は次男と共に咸陽の市で腰斬に処される 全ての権力を握った趙高、2世皇帝にシカを献じてウマと言う
腰斬は読んで字のごとく、斧で腰部から切断することで苦痛を長引かせる処刑方法で、本人だけではなく一族が滅ぼされることは既に紹介した通りです。秦代はそれに加え、刑が執行される前に肉体を損傷する罰もありました。漢と同じであるのなら、「顔に入れ墨をし、鼻をそぎ、両足をくるぶしから切り、笞うって殺し、その首や塩づけにした肉・骨を史上でさらしものにする」(『史記列伝』)というものですが、殺してしま…
秦 李斯の死2 趙高が握りつぶしたはずの李斯の上奏文は何故残った? 皇帝の派遣した取調官にも李斯は偽の自白を繰り返し、腰斬と決まる
罪を数えるというスタンスを取りながら、実際には功績を数え上げて無罪を訴えるものですね。そして、この文章は李斯の功績は確かに大きなものであったと感じさせるものです。 しかし、2世皇帝への情報ルートを趙高が独占している状態で、趙高に気づかれないように皇帝へ所管を届けるなど不可能でした。李斯の文書を見た趙高は、「囚人に上書など許されるものではない」と言って文書を握りつぶしてしまいました。 は…
秦 李斯の死1 捕らえられた李斯、激しい拷問に耐えかねて罪を自白する一方、皇帝に上書して潔白を訴える
項羽は章邯を雍王とすることを約束し、司馬欣を上将軍として秦軍を率いさせました。 函谷関より東で行動していた秦の軍が消滅したことにより、それまで項羽を後方から支援するかのように動いていた劉邦は南下し、武関を目指すようになります。そして、項羽は西進し、函谷関へ向かいました。 この間に、咸陽でも動きがありました。丞相の李斯が処刑されたのです。 経緯を追うため、李斯が獄に繋がれたところに話…
秦 章邯の降伏 章邯は戦況が思わしくないため援軍要請をするが、使者は城内にすら入れてもらえず、危機を感じた章邯は項羽に降る
馮去疾と馮劫は、「将軍や大臣は辱めを受けぬ」と言って自殺し、李斯は下獄しました。 史記と列伝とではとても同じ話とは思えないのですが、我々は何を正しいとすればよいのでしょうか。 右丞相の馮去疾の名前がこの後には見えず、趙高が権力を独占したことを考えれば、本紀が正しいようにも感じられます。あるいは、馮去疾と馮劫が自殺した経緯は本紀の通りで、彼らの死の時点で李斯は既に獄に繋がれていたのかもし…
秦 李斯失脚2 趙高の専権を諌めた李斯の書簡を、皇帝は趙高に見せてしまう 趙高は李斯が簒奪を企んでいるとし、尋問を進言する
「臣は『臣下が主君と見紛うほどになれば国が危うく、妻がその夫と見紛うほどになれば家は危うい』と言われます。こんにち、陛下のお側には賞罰を恣にする、陛下と何ら変わらない権力を握る権臣がおります。これはとてもよろしくないことでございます。斉を乗っ取った田氏のような例もございます。こんにちに趙高と何ら変わるところがありません。臣は、趙高が大事を起こすのではないかと恐れております」 しかし、2世皇帝は…
秦 李斯失脚1 反乱を憂えた李斯が皇帝に上奏しようとしたことを、趙高は李斯追い落としに利用しようと図る
李斯は反乱が放置して良いものではないと、何とかして2世皇帝に訴えようとします。それを知った趙高は李斯に会うと、「関東の盗賊ども(反乱軍のことです)が多くなるばかりなのに徴用が増えていることについて、私も訴えたいのではありますが、なにぶん卑しい身の上ですから難しゅうございます。これこそ丞相のお仕事でございます」と、李斯に直言を勧めます。李斯は「私もそれを言上したいのだが、拝謁する機会がないのだ」…
秦 皇帝隠遁 趙高は「皇帝が尊ばれるのは人前に姿を見せないからだ」と説き、2世皇帝への情報ルートを一手に握る
これでは反乱が収まるわけがありません。 また、趙高は郎中令となって権力を握ると、恨みのある者を罪に落として処刑してきました。権力の濫用を責められれば、趙高はいつ失脚してもおかしく無かったのです。そのため、趙高は、2世皇帝にこう言って、他の者を遠ざけようと図りました。 「天子が高貴でいられるのは、臣下がただ声を聴くことができるだけで、御尊顔を拝見することができないためでございます。だから…
秦 反乱の行方 章邯は魏と斉の連合軍を破って魏王を自殺させ、楚の重鎮項梁も戦死させる 咸陽では更に過酷な政治が行われ、人心が離れていく
懐王の下には劉邦を始めとした勢力が結集します。 同じ頃、陳を平定した章邯は軍を北に向けて魏を攻めます。斉の田儋は援軍に赴きますが、大敗して魏の将軍周市と田儋は戦死してしまいます。魏王を名乗っていた魏咎は追い詰められてしまい、民を巻き込まないよう降伏交渉を行って交渉が成立すると焼身自殺を遂げました。この時、魏咎の弟の魏豹は逃れ、楚に投じています。 楚軍は項羽と劉邦が秦の分遣隊を撃破、項…
秦 陳勝の死の影響 孔子の直径の子孫である孔鮒、陳勝と共に滅びる 陳勝の軍は瓦解するが、他の地域では反乱の機運は止まない
孔鮒は陳勝が反乱を起こすと、彼を王に推戴したメンバーの1人でした。そして、陳勝の下から多くの部下が去っていっても、孔鮒は陳勝下に留まり続けました。 陳勝は汝陰へ逃げ、更に下城父に至りますが、ここで御者の荘賈が陳勝を殺して秦に降伏しました。こうして、陳勝呉広の乱勃発から僅か6ヶ月で反乱は叩き潰されてました。そして陳勝は隠王と諡され、碭(とう)に葬られました。「隠」は、
秦 秦の反攻 9卿の末席を占める章邯、囚人を解放して反乱軍を攻撃、陳勝を敗死させる
9卿の末席である少府の章邯は、民を徴発してももう間に合わないので始皇帝陵建設に動員されている徒刑20万人を赦し、兵士として活用することを説きます。2世皇帝が裁可すると、章邯は自ら将軍となって迎撃に赴きました。 章邯は徒刑に「勝利を得れば残りの罰は免除する」と約束していましたから、兵士は必死に働きます。こうなると、急速に膨張した寄せ集め集団を軍事的に経験の浅い人物が指揮して勝利を得るのは難しくな…
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