楚漢戦争 韓信という男1 劉邦もまた関中を目指して進発する その総大将となった韓信の若い頃のエピソード
田栄はこれを認め、趙へ軍を送ります。陳余は支配下の全軍を挙げてこれと合流して趙を攻撃しました。不意を衝かれた張耳は敗れ、逃亡します。陳余は代王に移されていた趙歇を趙王に迎えます。趙王は喜び、陳余を代王としました。 同じ頃、劉邦は漢中を発して関中を目指していました。 その前に、少々漢中の事情を見ておきましょう。 劉邦に付き従って漢中へ赴いたのは、基本的に東方の人々です。統一後の興奮ま…
楚漢戦争 崩壊の序章2 斉の田栄、項羽の封じた斉の3王を攻撃し、斉全土を掌握する 冷遇された陳余が田栄と結び、趙で反乱を企む
田栄は先の反乱の際に斉を握っていましたから、隠然たる勢力を誇っていました。斉の実権を握っていた田栄に敗れた田都は楚に逃げます。田栄を恐れた田市は彼の支配下を逃れて膠東に赴任しようとしましたが、田栄はこれを追って即墨で殺し、更に済北王の田安も攻め滅ぼして3斉を握りました。こうして田栄は項羽との全面対決を選んだのです。 こうして項羽体制は早々にほころびを見せました。 斉一国では項羽に対抗す…
楚漢戦争 崩壊の序章1 項羽は目障りな義帝を殺害させ、警戒していた韓王成も殺す 斉では田一族の実力者、田栄が斉王田都を攻撃する
項羽が劉邦を警戒していることは、間もなく別のことからも明らかになります。即ち、劉邦に従っていた張良が韓に向かったことを知った項羽は、自らが韓に封じた韓王成を封地に行かせなかったのです。 4月、項羽を始め多くの者が封地へと出発します。項羽は封地に着くと、義帝に使者を送り、「古の王は河の上流に居住したものです」として義帝を長沙に移します。そして、移動中の義帝を揚子江上で殺させてしまいました。汚…
楚漢戦争 功臣封君3 項羽の失敗 劉邦は関中から斜谷道を通って漢中へ行くと、張良に従って桟道を焼き、戻る気持ちの無いことを示す
些末な失敗は旧6国王家の内部争いや論功行賞の不平等感を満足させされらなかったことでしょう。もっとも、人事はどのようにやっても必ず不満分子を生みます。だからこそ、体制をひっくり返すことのできる力を持つ者が満足するようにしなければいけないわけですが。 後出しジャンケンを承知で言えば、論功行賞で項羽に従った者を偏重したことこそが火種となりました。例えば、韓広などは反乱初期に燕を落とす功績を挙げま…
楚漢戦争 功臣封君2 「覇王」という新しい称号の採用で秦体制拒否を鮮明に 旧体制に復するという意味では、悪くない対応に見える
リーダー格であった項羽は彭城を都に、9郡を得ています。これは諸侯の中では最も広い領域ではありますが、始皇帝が設置した36郡(それも随分と怪しいようですが)の1/4に過ぎません。春秋戦国時代のように封建制に戻したわけです。項羽が秦体制を引き継ぐ気が無かったことがはっきり分かりますね。 秦体制の拒否は、項羽が採用した「覇王」という号からも見ることができます。従来の称号である「王」でもなく、義帝と同格…
楚漢戦争 功臣封君1 東方への帰還を諌める者を煮殺し、楚に戻って論功行賞を行う 劉邦は関中ではなく漢中に封じられる
さて、項羽は咸陽を破壊すると、婦女と財宝を収めて東へ戻ろうとします。これに対し、ある者が「関中は四方を山河に囲まれているため守りやすく、土地が肥えているため都にすべきです」と諌めます。ところが、項羽は「富貴を得たのに故郷に帰らなければ、錦を着て夜に歩くようなものだ」と拒否しました。 諌めた男は「楚の人間(楚出身の項羽を指す)はサルが冠を着けただけと言う通りだ」と陰口を叩きますが、これを項羽…
楚漢戦争 鴻門の会6 鴻門の会はどこまでが史実? 樊噲の活躍は孫の樊他行からの聞き取りかもしれないが、懐疑論にもまた疑問が残る
樊噲の伝には、太史公、恐らくは司馬談が樊噲の孫にあたる樊他広から聞いたとあります。『
楚漢戦争 鴻門の会5 劉邦はトイレを口実に酒宴を抜けると陣地に戻る フォロー役の張良が項羽たちを宥め、劉邦は虎口を脱した
一升も酒を飲んでから歩き続けた樊噲も不運ですが、それよりももっと不運なのは項羽に劉邦が函谷関を閉ざしたと告げた曹無傷でしょう。なにせ、劉邦が軍営に戻ると、直ちに彼を処刑してしまったからです。 史記が語る項羽の人望の無さは、かなりフィクションが混じっていると思います。しかし、この一件、項羽は決して曹無傷の名を出してはいけなかったと思わずにいられません。劉邦を赦したなら、曹無傷がどのような目…
楚漢戦争 鴻門の会4 樊噲が酒宴の席に乗り込んだことで暗殺計画は潰える 樊噲は肉を剣で切って食い、大量の酒を飲んで項羽に認められる
樊噲は「それは大変だ。私が沛公と生死を共にしよう」というと、剣を帯びたまま、幔幕に入ろうとします。護衛の兵士たちが樊噲の前に立ち塞がりますが、樊噲は盾で彼らを倒すと、帷をあげて入り込み、項羽を睨みつけました。怒りに髪は逆立ち、眼尻は裂けているかの如きでした。 項羽は剣に手をかけ、「何者だ」と問います。張良が「沛公の馬車に陪乗している樊噲という者です」と答えると。項羽は「壮士である。彼に…
楚漢戦争 鴻門の会3 項羽は素直に詫びを入れた劉邦を許すが、劉邦を警戒する范増は、酒宴にかこつけて劉邦暗殺を図る
翌朝、劉邦は項羽の待つ鴻門へ、僅かな部下だけを連れて赴きます。そして、「私と将軍は力を合わせて秦を攻撃し、将軍は北で、私は南に戦いました。まさか自分の方が先に関中に入って秦を破り、こうして関中で将軍と再会するとは思っておりませんでした。いま、下らぬ人物が中傷して将軍と私の間をさこうとしております」と弁明します。 項羽は、「これは沛公の左司馬の曹無傷が知らせてくれたからで、そうでなければこん…
楚漢戦争 鴻門の会2 張良に恩義のある項伯、恩人を救おうと夜中に漢の陣地を訪れる 話を聞いた張良は逃げず、劉邦と善後策を練る
困ったのは項伯です。彼はかつて殺人を犯して逃げている間、張良に助けられたことがありましたね。項伯にとって、張良さえいなければ劉邦軍が壊滅しようと知ったことではなかったのでしょうが、命の恩人を捨て置くことは、任侠気質を色濃く残す彼らには許されないことだったのでしょう。 項伯は早馬を飛ばして張良を訪ね、事態がのっぴきならない状況になっていることを伝え、逃げるように促します。しかし、張良にとって…
楚漢戦争 鴻門の会1 劉邦は函谷関を閉ざして項羽を防ごうとするが、項羽は英布に命じて函谷関を破る 両者の対決は避けられない情勢に
父老へ寛大な施策を約束する一方、劉邦は関中を掌握すべく、函谷関を閉ざしていました。その契機となったのは、ある人物が「秦は豊かで関に囲まれた堅固な土地です。項羽は章邯に雍王の称号を与えているとか。項羽が関中に入れば貴方はこの地を保てないでしょう。急いで函谷関を閉ざして項羽を関中に入れないようにするのが良いでしょう」と進言したことです。 劉邦は函谷関を閉じ、徐々に兵力を増強して項羽を防ぐ心づも…
楚漢戦争 法3章 付近の県の父老を集め、将来は自分が王になるだろうから、その際には法は3章だけにすると約束し、民の支持を集める
翌11月、近隣の父老を集め、以下のように宣言します。 「父老たちは長く秦の過酷な法律に苦しめられてきた。政治を批判すれば一族が滅ぼされ、詩書を学べば晒し首にされた。楚の懐王は最初に関中に入った者をその地の王にすると諸侯に約束されたので、私が関中の王になるであろう。その時には、法は3章のみとする。人を殺した者は死刑。人を傷つけた者、盗みを働いた者には相応の罰を与える。それ以外の秦の法律は廃止し…
楚漢戦争 秦の降伏 秦王子嬰、劉邦に降伏する 劉邦は咸陽に入るが、財宝や女性には手を付けず、封じて覇上の陣に戻る
そのような中で反乱は拡大し、東で章邯の軍は項羽に降伏し、南からは劉邦の軍が武関を抜いて咸陽に迫るという国家危急存亡の危機が迫っていました。 流石に隠しきれなくなった趙高は、誅殺を恐れて2世皇帝を殺してしまいます。 そして自ら皇帝になろうとしますが、それは流石に支持を得られず失敗、代わりに子嬰を擁立しようとしますが、2世皇帝暗殺の経緯を知った子嬰が張良を暗殺したのです。 恐らく、咸陽に…
楚漢戦争 劉邦、西へ2 宛を落とした劉邦、武関から関中に入ろうと、使者を送って降伏させる
劉邦は陳恢の言葉を認め、宛の守を殷侯、陳恢を1000戸に封じると、宛の兵を率いて西に向かいました。 宛への寛大な扱いが功を奏し、降伏する者も現れたために劉邦はかなりの速度で関中に迫ります。 趙高が2世皇帝を自殺に追いやったのはこの頃のことです。その詳細については秦の項をごらんください。 趙高は劉邦に使者を送り、関中を分け合おうと提案します。しかし、劉邦はこれを信じず、自力での関中突入…
楚漢戦争 劉邦、西へ1 開封を抜けず、放置して宛を囲む 宛の太守は敗北は必至と自殺を図るが、従者は上手く劉邦に降伏を受け入れさせる
しかし開封を抜くことはできず、放置して西に向かい、穎陽(後の許昌)を攻略します。そして、張良に命じてかつての韓の大都市轘轅を回復させました。張良は韓で代々重きをなしてきた一族の生まれですから、韓を復活させるのは彼にとっても悲願だったのです。 張良は轘轅を破り、劉邦の下に戻ります。劉邦は南陽の守を攻撃して破りますが、守は宛に逃げて立て籠もりました。劉邦は宛を囲みましたが、戦況ははかばかしく…
楚漢戦争 酈食其 老儒者の酈食其、女に足を洗わせている劉邦のところに案内され、劉邦を諌める 劉邦が身なりを改めると、酈食其は陳留攻略を進言する
陳勝が反乱を起こした時、既に60歳近くにもなっていた酈食其は仕えるべき人物を見極めようとします。諸将で留を通った者が多くいましたが、酈食其のお眼鏡には叶わず、隠れてやり過ごします。そのような中で劉邦がやってきました。 酈食其は劉邦を気に入って、兵士を伝手に劉邦と会おうとします。その兵士は「劉邦は儒者を嫌っていて、やって来ようものなら冠を剥ぎ取ってその中に小便をする程です。そして大声で罵る…
楚漢戦争 彭越の挙兵 元々アウトローだった彭越、陳勝呉広の乱に乗じて反乱を起こす 劉邦は彭越と合流して秦の城を攻めるも、敗退
項羽の強さはこの容赦の無い果断にあるわけですが、同時にこうした行為は彼の敵を生むことにもつながっていきます。 翌前208年2月、劉邦は盗賊の首領の彭越と出会います。 彭越は陳勝が反乱を起こすより前に、既に秦の社会からはみ出した存在でした。沼沢地で漁をしたり追い剥ぎをしたりといった生活でしたから、陳勝たちが反乱を起こすと部下たちは機に乗じて自分たちも反乱に加わろう、と唱えます。しかし、彭越は…
楚漢戦争 秦の降兵の虐殺 虐待を受けた秦の兵士たちは関中に近づくと動揺し、それを知った項羽は章邯たち以外の秦兵を虐殺する
項羽にとって、章邯は叔父項梁の仇に当たります。それなのに降伏を許したのは何故でしょうか。1つは、上に記した通り、楚が長く続いた戦いのために糧食不足に苦しんでいたことが挙げられます。もう1つの理由として『
楚漢戦争 章邯の降伏 項羽に押された章邯は咸陽に援軍を求めるが、使者は面会すら許されない 項羽は食料切れもあり、章邯の降伏を認める
一方の項羽は、王離こそ破ったものの、章邯率いる秦軍本隊はまだ健在でしたから、川を挟んで向かい合うことになります。 章邯は項羽と対峙しますが、食料も補給して意気上がる楚軍相手に戦わないまま後退していきます。また、小競り合いではしばしば秦軍が敗北を喫しました。 こうした状況を受け、2世皇帝は使者を送って章邯を責めさせます。 勝利には増援が必要と考えた章邯は司馬欣を咸陽に派遣して援軍を乞…
楚漢戦争 張耳と陳余 張耳は鉅鹿城を遠巻きに眺めていただけの陳余を疑って将軍の印綬を奪い、刎頸の交わりと言われた2人の仲は崩壊する
先に記した通り、陳余や張耳の子の張敖、それに燕や斉の軍は援軍に来たものの陣地を固めるばかりで何もできなかった中で、項羽は楚軍のみで秦を散々に打ち破ったのです。項羽の名は反乱を起こした諸国に鳴り響きました。 しかし、失われたものもあります。張耳と陳余の刎頸の交わりは、陳余が拱手傍観していたことから崩壊したのです。 張耳は陳余と再会するなり、助けに来なかったことを責め、2人の食客の行方を尋…
楚漢戦争 鉅鹿の戦い4 項羽はいつまでも戦おうとしない主将の宋義を殺害して軍を握ると川を渡り、秦軍に決戦を挑み、大勝利を挙げる
鉅鹿が孤立無援となってその命脈も付きようかとしている11月、宋義は息子の宋襄が斉の宰相に迎えられることになったため、無塩で宴会を開きます。この頃は大雨が続いて兵士は凍え、餓えていました。宋義は宴会を続け、終わると息子を送り出しました。 翌日もまた、宋義は何も命令を下しません。 項羽は「今年は不作で士卒は豆を交えて食事をし、軍には糧食がない。兵士は菜っ葉に豆を混ぜて食べているが、それでも…
楚漢戦争 鉅鹿の戦い3 項羽は宋義の副将として趙の援軍に向かい、劉邦は関中を目指すことが決まる 宋義、軍を留めて動かない
項梁の復讐に燃える項羽は関中攻撃を希望しますが、諸将は「項羽は城を落としてそこの住民を皆穴埋めにしたこともあるような残忍な人物です。これまでの将が敗れたのはしばしば無鉄砲に進軍したからですから、温厚な人物を派遣し、秦の父老を諭させるに越したことはありません。秦の人々は長く過酷な政治に苦しんで来ましたから、長者がやってきて乱暴しなければ、きっと降伏することでしょう。項羽を遣ってはいけません。寛大…
楚漢戦争 鉅鹿の戦い2 張耳の食客は陳余に戦うよう求めますが、陳余は拒否 楚では懐王が最初に関中に至った者をその地の王にすると宣言
食客たちは「事態は差し迫っています。死を共にして信義を立てるべきではないでしょうか」と言い返しますが、私には陳余の言い分が正しいように思えてしまいます。仲間を見殺しにした、という誹りは受けるかも知れませんが……。 陳余は「私には死ぬのは無益なことと思うが、君たちがどうしてもそうしたいのであれば5000の兵を与えよう」とし、一部の兵を食客たちに与えました。 秦軍に攻撃をしかけた食客たちでした…
楚漢戦争 鉅鹿の戦い1 章邯は王離に張耳らの立て籠もった鉅鹿城を囲ませる 援軍の陳余らは戦いを躊躇し、遠巻きに眺めるばかり
辛うじて逃げることに成功した張耳と陳余に、食客が「お二人は趙出身ではございませんので、趙の人々の忠誠は期待できないでしょう。趙王の子孫を立てて名分をもとにして立つ以外、成功することは難しと思われます」と進言します。彼らは旧趙王家の血を引く趙歇を探し出して趙王としました。 李良は陳余を攻撃しますが、敗北して章邯の下に逃げます。 これが、項梁が戦死した頃の趙の情勢でした。10月、章邯は趙の都…
楚漢戦争 項梁の死 定陶を囲んでいた項梁は章邯の急襲により戦死、項羽たちは彭城に引き返す 趙の武臣、姉の不始末がきっかけで殺される
李由を斬った項羽と劉邦は、少々東に戻って外黄を攻めますが、まだ城を落とせないうちに大ニュースが飛び込んできたため、撤退を余儀なくされます。すなわち、項梁が亡くなったのです。 項梁は定陶を囲んでいましたが、それまで2度に渡って野戦で勝利していたこともあり、驕る様子が見えるようになってきていました。将軍の宋義が諌めますが、改めませんでした。 将の驕りは、部下の油断を生みます。章邯はウマに枚…
楚漢戦争 斉の事情と項梁の進撃 県令を斬って自立した田儋は章邯に敗北して滅ぶ 項梁は章邯を破って西へ進み、定陶を囲む
この頃、下邳から北の斉でも秦から独立を図る動きがありました。 斉の独立化は、陳勝呉広の乱が起こった頃に遡ります。斉の王族に連なる田儋が、県令を殺して自立し、斉王を名乗ったのです。陳勝は斉を平定するために周市を派遣していましたが、田儋は周市も破り、斉に勢力を確立していました。 また、魏では周市によって魏王室に連なる魏咎が立てられています。 7月、陳勝を攻め滅ぼした章邯は、北に向かっ…
楚漢戦争 反乱軍の体制整備 范増の策を容れた項梁、楚王の末裔を探し、悲劇の王「懐王」の名を与えて反乱軍をまとめ上げる
この時点で既に数郡が項梁の下に入っています。領土が広がったことで、支配地をどう纏め、統治していくかという問題が出てきます。そして、その中心となるのは誰で、どのような立場なのか、です。 項梁に対し、奇計を好む范増という居巣出身の70歳の老人が策を献じます。 「楚は滅ぼされた6国の中で最も罪が無く、懐王が秦から帰ることができないまま亡くなったことを楚の人々は今も哀れんでいます。だから、『たと…
楚漢戦争 楚における反秦勢力の集結 王を名乗っていた景駒を項梁が滅ぼし、豊の回復に項梁の力を借りた劉邦も項梁の指揮下に入る
項梁たちが長江を渡り、北上してきたことは記しましたね。彼は下邳に駐屯しており、そこには英布や蒲将軍が参加しています。はっきり記録はありませんが英布の義理の父である呉芮も居た可能性がありそうです。また、まだ無名だった韓信も項梁の下に身を投じています。 張良もずっと下邳に居たわけですから、挙兵の動きが遅ければ、あるいは劉邦軍ではなく項梁の軍に参加することになっていたかも知れません。 こ…
楚漢戦争 劉邦と張良の出会い2 張良は陳勝に呼応しようとするが仲間が集まらず、景駒を訪ねようとして劉邦に出会う
太公望の兵法書を学びながら、張良は任侠とも付き合っていました。そうした人脈が無ければ始皇帝暗殺など図れませんね。人を殺して逃げてきた項伯という人物を匿ったこともあります。 張良が下邳へやってきて10年が経った頃、陳勝呉広の乱が起こります。もともと反秦である張良は若者を集めて蜂起に加わろうとしますが、100人ほどしか集められませんでした。単独の勢力としてはとても旗揚げなどできません。そこで、近場…
楚漢戦争 劉邦と張良の出会い 劉邦は秦軍に敗れて留に戻り、張良と出会う 張良の下邳時代のエピソード
しかし、そこへ陳勝を破った章邯軍の別働隊が碭へやってきます。劉邦と景駒の将とで迎撃するのですが、敗れて留に戻ります。この敗戦は、劉邦にとって極めて大きな影響を与えるものでした。留の地でブレーンを得たのです。その人物こそ張良です。 張良は始皇帝暗殺に失敗した後、下邳に身を隠していました。下邳時代逃亡時代の張良にはある逸話があります。 ある日、張良が散歩中に橋に差し掛かると、貧しい身な…
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