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三国志 劉虞の死3 公孫瓚は劉虞の軍を火攻めによって追いつめ劉虞を捕える 公孫瓚は劉虞を斬り、部下もまた公孫瓚を罵倒して処刑される
逆に、公孫瓚は精鋭数百人を選別すると、風に乗じて火を放ち、劉虞軍を攻撃しました。劉虞は大いに破れ、北の居庸へ逃げこみます。公孫?は劉虞を囲むと、わずか3日で城を落としたのです。公孫瓚は劉虞と妻子を捕え、薊に戻り、なお州の文書を扱わせました。 ところが、朝廷は段訓を使者にして劉虞の封邑を増して6州を監督させ、公孫瓚を前将軍に任じて幽州、并州、青州、冀州を監督させようとしました。これでは、公孫…
三国志 劉虞の死2 劉虞は遂に公孫瓚攻撃を命じるが、公孫瓚以外は傷つけるなとの無茶な命令により、不意を衝かれた公孫瓚すら攻略できない
劉虞は公孫瓚を除こうと考えて魏攸に諮ります。しかし、魏攸は「今、天下は首を伸ばし、公に期待を懸けております。謀臣や将軍が必要で、公孫瓚は文武の才は頼むに足ります。彼に小さな問題はありますが、どうか赦して我慢なさいますよう」と答えたため、劉虞は攻撃を取りやめましたが、問題は解決していないのですから、時が流れるにつれて緊張は高まっていくばかりでした。 遂に、劉虞は10万の兵を率いて公孫?を攻撃…
三国志 劉虞の死1 公孫瓚と劉虞の対立は深まり、両者は何度も朝廷に互いを非難する上奏を行う
しかし、同じ時期に李?が太尉周忠と尚書賈詡の策により朱儁を入朝させようとします。もちろん、賈詡の策とは東方諸侯の切り崩しのことです。 朱儁の部下はみな、函谷関に入らずに陶謙らに応じるよう説得しましたが、朱儁は「天子の詔で臣を召したのだから、従わないわけにはいかない。かつ、李?や郭��は小童、樊稠はぼんくらに過ぎず、他に深慮遠謀があるわけでもない。彼らの戦力は同じ程度で、必ずや変事が起こる。…
三国志 劉備、徐州へ 陶謙は公孫瓚配下で斉に駐屯していた田楷に助けを求める 田楷は劉備と共に徐州に向かう
この時の大虐殺は曹操の生涯最大の汚点となり、少なからぬ名士が徐州での蛮行を理由に曹操に失望します。例えば、?州の名士の辺譲は曹操を批判しています。曹操は失策を分かっていたのか、あるいは批判されたことを不快に思ったのか、辺譲を殺してしまいました。 曹操は攻撃を続けたかったのかもしれませんが、兵糧が切れたために撤退します。 陶謙は、公孫瓚配下で袁紹や曹操に圧力をかけるために斉に駐屯していた田楷…
三国志 徐州侵攻 曹嵩の死についての異説 曹操は後事を信頼する張邈に託し、徐州に侵攻する
曹嵩は息子からの迎えだと思って彼らを迎えたところ、陶謙の兵はまず曹操の弟の曹徳を殺害してしまいます。曹嵩は恐れ、裏の土塀に穴を開けると、まず妾を外に出そうとしました。レディーファーストはお見事と思いますが、しかし、これは裏目に出ます。妾は太っていたため、抜け出すことができなかったのです。曹嵩は脱出を諦めて便所に逃げ込みましたが、そこで妾と一緒に殺されました。顛末を知った応劭は曹操に殺されること…
三国志 笮融 陶謙が用いた狂気の仏教徒、笮融について 笮融は殺人、略奪を好き勝手にし、集めたカネで巨大な寺院を建立した
陶謙の性格が現れているのではないかと思われるのが、彼が用いた笮融という人物の為人です。 笮融は丹陽出身で、この時代にはまだ少数派だった仏教徒だったことで知られています。彼は数百人を集めて長江を北に渡り、陶謙に身を寄せ、広陵や彭城の物資運送を任せられると、人を殺したり貢納品を自分のものとしたりするなど、好き勝手なことを行います。 どこが仏教徒かと疑問に思ってしまうような行動ですが、彼は…
三国志 陶謙2 『呉書』などから見えてくる陶謙の姿 張温相手にも揉め、左遷されてもまだ盾突く強情な人物
それによれば、陶謙は剛直で節義があったため、若くして孝廉に選ばれ、尚書令にとりたてられ、舒県の令に任命される。上司は父の友人で、陶謙と親しく付き合おうとしたのですが、陶謙は付き合いを拒否し、仲は険悪なものとなりました。 清廉な一方で犯罪を追求しようとはしなかったそうですので、この点は陳寿の本文と一致するところですね。羌族が侵入すると、討伐を命じられた皇甫嵩の要請に従って西方へ赴き、羌族を散…
三国志 陶謙1 三国志演義とは異なり、野心に満ちた梟雄としての顔も持つ陶謙という人物について
袁術にとって幸いなことに、曹操には袁術に関わってなどいられないようになります。すなわち、曹操の父で、かつて3公も務めた曹嵩が、陶謙の部下に殺害されたのです。 先に陶謙が袁術の求めに応じて劉備らと共に曹操を囲んだことから分かる通り、陶謙は袁術勢力に与していました。この1件について掘り下げる前に、まずは陶謙という人物について眺めておきましょう。 陶謙は字を恭祖といい、丹陽出身の人物です。若…
三国志 曹操の兗州入り4 召し出された毛玠、曹操に献帝擁立を説く
召し出された毛玠は、「現在、天下は分裂崩壊し、天子は都を離れて転々とされ、民は基金にあって流離しております。上には蓄えもなく、人民は気持ちが落ち着きません。この乱世にあって、袁紹や劉表は多くの士大夫や民を抱えて強力であるとはいいますが、いずれも将来を見通す思慮に欠け、国の基礎を固めることもしておりません。戦争は道義のある方が勝つものです。よろしく天子を奉戴し、天下に号令を発し、農耕を保護して…
三国志 曹操の兗州入り3 鮑信は戦死、曹操自身も重症を負うも、曹操軍は黄巾賊の残党を破って降伏させ、兗州と青州兵を手に入れる
戦いの最中、曹操は歩兵・騎兵合わせて1000程度しか連れずに巡視している際、不意に敵の陣営に遭遇します。黄巾賊は衆を頼みに攻撃をしかけ、寡兵だった曹操は数百人を失って引き返します。 長く続いた反乱ですから、黄巾賊には何年間も戦い続けた猛者が多数属していました。一方、曹操の軍には招集されたばかりで訓練も足りていなかったので、恐慌をきたします。 曹操は武装した格好で巡察し、明確な賞罰をもうけて…
三国志 曹操の兗州入り1 兗州の劉岱、黄巾賊の残党を討伐しようとするが逆に戦死、陳宮は曹操に主を失った兗州へ入ることを進言する
ただ、太史慈は孔融の下に留まることはなく、一度帰宅して母から労いを受けた後、同郷の劉繇のもとに赴きます。その顛末はまた少し後で見ることとしましょう。 太史慈の活躍と同時期に、無視し得ない大きな出来事も発生しています。 李傕と郭��が長安に入って、王允が殺され、呂布が東方に逃げたのと同じ頃、青州の黄巾賊の大軍が?州に侵入し、任城国の相の鄭遂を殺し、更に東平に侵入します。この黄巾賊はかつて…
三国志 孔融の危機3 太史慈は黄巾賊の包囲を脱して劉備に助けを求め、劉備が3000の援軍を送ったことで包囲は解かれる
賊が太史慈のたちのところに押し寄せようとすると、太史慈たちは城壁の周りに巡らされた壕に入ります。そして、部下の持ってきた的を立てると、壕を出てそれを射て、それが終わると城内に引き上げました。次の日も同じことを繰り返します。賊の一部は前日と同じように太史慈を攻撃しようとしましたが、多くの賊は動きませんでした。太史慈は同じことを繰り返し、城内に引き返します。 3日め、太史慈が城を出ても、賊は誰…
三国志 孔融の危機2 孔融は太史慈が遼東に逃亡していた際にその母の面倒を見ていたことから、太史慈は孔融のもとへ駆けつけた
そこで、太史慈は「もし貴方が文書を手渡すようなことがなければ私が破ることはできなかった。2人はともに過失があったのだから、このまま黙って逃げよう。さすれば、死ぬべき命も永らえることができよう」と言い、結局、2人で逃亡することにしました。そして、州の役人と共に洛陽をでると、太史慈は密かに1人で引き返して郡の文書を提出したのでした。この1件で太史慈の名は上がりましたが、州からは恨まれることになったため…
三国志 孔融の危機1 北海の孔融、黄巾賊討伐に向かうも、賊軍に包囲されてしまう 同郷の太史慈が救援に向かう
同じ頃、袁術の求めに応じて、高唐に田楷を、平原に単経を、発干に陶謙を駐屯させたのですが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に破られたとあります。公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせています。 先に、公孫瓚は有能な人物を取り立てず、凡庸な人物ばかりを重用したことを記しましたね。なぜ盧植のもとで学ぶ期間、博打や遊びにうつつを抜かしていた劉備がこのよう…
三国志 易京の戦い2 麴義は公孫瓚の騎兵隊を排除すると、公孫瓚の本隊をも打ち破る 油断した袁紹の思わぬピンチ
公孫瓚は麴義の軍が少数であることを見ると、ただちに騎兵を動かして粉砕しようとします。麴義の塀は楯の下に伏せて動かず、敵が数十歩の距離に迫ったところで一斉に立ち上がって前進し、正面から受けるのと同時に、大量の弩が放たれます。至近距離からの攻撃に、矢に当たった者は次々と打ち倒されました。 麴義は騎兵を排除すると、敵陣に向かい、公孫瓚の任命した冀州刺史の厳綱を斬り公孫瓚の本陣を落とします。…
三国志 易京の戦い1 勢力を伸ばし、袁紹を包囲しようとした公孫瓚に対し、袁紹は鉅鹿の動揺を押さえて直接対決に撃って出る
こうした考えもあり、公孫瓚が取り立てるのは凡庸な者が多かったとあります。中でも、元占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当とは義兄弟の契りを結び、公孫瓚が長兄で「伯」、3人が「仲」、「叔」、「季」と呼んでしました。あるいは、これが劉備、関羽、張飛が義兄弟を名乗ったという三国志演義のベースとなっているのでしょうか。 全体的に、公孫?が袁術派に与していることが見て取れる上奏ですね。興味深い…
三国志 袁紹が非難されるべき10の理由 公孫瓚は10の理由を挙げて袁紹を避難するが、自身は有能な人士は陥れて昇進させないようにしていた
1.何進に仕えた際、媚びへつらうばかりで正しい人物を推挙せず、丁原に孟津を焼き払わせて董卓を招き寄せ、戦乱のおおもとを作ったこと 2.董卓が洛陽に入って皇帝を人質にしたのに袁紹は皇帝を救うこともせず、割符を放置して逃げ出し、爵位任命の誓約に背いて皇帝の期待を裏切り忠節を尽くさなかったこと 3.袁紹は渤海太守となると、密かに戦馬を集め、董卓を攻撃する際に親族に連絡しなかったため太傅袁隗と太僕袁…
三国志 李傕郭汜政権樹立 張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李傕、郭汜、樊稠が長安に残る 東方では公孫瓚と袁紹の争いが激化
9月、李傕が車騎将軍、郭��が後将軍、樊稠が右将軍、張済が鎮東将軍となります。もちろん、皇帝が望んだのではなく、彼らが自ら名乗ったわけですが、それをはねのける力は既に失われていました。漢帝国は董卓の頃から完全に有名無実化しており、その状況は王允政権で覆される可能性があったのですが、李傕・郭��政権の樹立に伴い、その可能性は潰えたことになります。 彼らのうち、張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李…
三国志 王允政権崩壊 長安に入った李傕らは王允を一族もろとも殺す 裴松之は賈詡の判断を非難
李傕らは「董卓は陛下に忠誠でありましたのに、故もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀反を起こしたのではございません。事が終わりましたら廷尉のもとへ出頭し、処罰を受ける所存です」と答えます。王允は進退窮まり、李傕らのもとに赴いたところを殺され、その妻子一族10人余りもまた、同様に殺害されました。 王允政権は2ヶ月も経たずに崩壊したことになります。 裴松之は長安が失…
三国志 長安防衛戦 王允は李傕と交渉を図るも失敗、呂布は郭汜と一騎打ちをするなど奮闘するも衆寡敵せず敗北する
董卓伝に引く『九州春秋』によれば、王允はけかねてより不仲だった涼州の名門出身の胡文才と楊整脩を呼びつけ、「関東のネズミは何をするつもりなのか。お前達、呼んでこい」といって、李傕たちとの仲を取り持たせようとします。もしこの記事が本当だとすれば、王允の思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。案の定、彼らは李傕たちと合流して長安に向かってきたのでした。 呂布は長安城の北に郭��の姿を認めると、…
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