三国志 劉虞の死3 公孫瓚は劉虞の軍を火攻めによって追いつめ劉虞を捕える 公孫瓚は劉虞を斬り、部下もまた公孫瓚を罵倒して処刑される
逆に、公孫瓚は精鋭数百人を選別すると、風に乗じて火を放ち、劉虞軍を攻撃しました。劉虞は大いに破れ、北の居庸へ逃げこみます。公孫?は劉虞を囲むと、わずか3日で城を落としたのです。公孫瓚は劉虞と妻子を捕え、薊に戻り、なお州の文書を扱わせました。 ところが、朝廷は段訓を使者にして劉虞の封邑を増して6州を監督させ、公孫瓚を前将軍に任じて幽州、并州、青州、冀州を監督させようとしました。これでは、公孫…
三国志 劉虞の死2 劉虞は遂に公孫瓚攻撃を命じるが、公孫瓚以外は傷つけるなとの無茶な命令により、不意を衝かれた公孫瓚すら攻略できない
劉虞は公孫瓚を除こうと考えて魏攸に諮ります。しかし、魏攸は「今、天下は首を伸ばし、公に期待を懸けております。謀臣や将軍が必要で、公孫瓚は文武の才は頼むに足ります。彼に小さな問題はありますが、どうか赦して我慢なさいますよう」と答えたため、劉虞は攻撃を取りやめましたが、問題は解決していないのですから、時が流れるにつれて緊張は高まっていくばかりでした。 遂に、劉虞は10万の兵を率いて公孫?を攻撃…
三国志 劉虞の死1 公孫瓚と劉虞の対立は深まり、両者は何度も朝廷に互いを非難する上奏を行う
しかし、同じ時期に李?が太尉周忠と尚書賈詡の策により朱儁を入朝させようとします。もちろん、賈詡の策とは東方諸侯の切り崩しのことです。 朱儁の部下はみな、函谷関に入らずに陶謙らに応じるよう説得しましたが、朱儁は「天子の詔で臣を召したのだから、従わないわけにはいかない。かつ、李?や郭��は小童、樊稠はぼんくらに過ぎず、他に深慮遠謀があるわけでもない。彼らの戦力は同じ程度で、必ずや変事が起こる。…
三国志 劉備、徐州へ 陶謙は公孫瓚配下で斉に駐屯していた田楷に助けを求める 田楷は劉備と共に徐州に向かう
この時の大虐殺は曹操の生涯最大の汚点となり、少なからぬ名士が徐州での蛮行を理由に曹操に失望します。例えば、?州の名士の辺譲は曹操を批判しています。曹操は失策を分かっていたのか、あるいは批判されたことを不快に思ったのか、辺譲を殺してしまいました。 曹操は攻撃を続けたかったのかもしれませんが、兵糧が切れたために撤退します。 陶謙は、公孫瓚配下で袁紹や曹操に圧力をかけるために斉に駐屯していた田楷…
三国志 徐州侵攻 曹嵩の死についての異説 曹操は後事を信頼する張邈に託し、徐州に侵攻する
曹嵩は息子からの迎えだと思って彼らを迎えたところ、陶謙の兵はまず曹操の弟の曹徳を殺害してしまいます。曹嵩は恐れ、裏の土塀に穴を開けると、まず妾を外に出そうとしました。レディーファーストはお見事と思いますが、しかし、これは裏目に出ます。妾は太っていたため、抜け出すことができなかったのです。曹嵩は脱出を諦めて便所に逃げ込みましたが、そこで妾と一緒に殺されました。顛末を知った応劭は曹操に殺されること…
三国志 笮融 陶謙が用いた狂気の仏教徒、笮融について 笮融は殺人、略奪を好き勝手にし、集めたカネで巨大な寺院を建立した
陶謙の性格が現れているのではないかと思われるのが、彼が用いた笮融という人物の為人です。 笮融は丹陽出身で、この時代にはまだ少数派だった仏教徒だったことで知られています。彼は数百人を集めて長江を北に渡り、陶謙に身を寄せ、広陵や彭城の物資運送を任せられると、人を殺したり貢納品を自分のものとしたりするなど、好き勝手なことを行います。 どこが仏教徒かと疑問に思ってしまうような行動ですが、彼は…
三国志 陶謙2 『呉書』などから見えてくる陶謙の姿 張温相手にも揉め、左遷されてもまだ盾突く強情な人物
それによれば、陶謙は剛直で節義があったため、若くして孝廉に選ばれ、尚書令にとりたてられ、舒県の令に任命される。上司は父の友人で、陶謙と親しく付き合おうとしたのですが、陶謙は付き合いを拒否し、仲は険悪なものとなりました。 清廉な一方で犯罪を追求しようとはしなかったそうですので、この点は陳寿の本文と一致するところですね。羌族が侵入すると、討伐を命じられた皇甫嵩の要請に従って西方へ赴き、羌族を散…
三国志 陶謙1 三国志演義とは異なり、野心に満ちた梟雄としての顔も持つ陶謙という人物について
袁術にとって幸いなことに、曹操には袁術に関わってなどいられないようになります。すなわち、曹操の父で、かつて3公も務めた曹嵩が、陶謙の部下に殺害されたのです。 先に陶謙が袁術の求めに応じて劉備らと共に曹操を囲んだことから分かる通り、陶謙は袁術勢力に与していました。この1件について掘り下げる前に、まずは陶謙という人物について眺めておきましょう。 陶謙は字を恭祖といい、丹陽出身の人物です。若…
三国志 曹操の兗州入り4 召し出された毛玠、曹操に献帝擁立を説く
召し出された毛玠は、「現在、天下は分裂崩壊し、天子は都を離れて転々とされ、民は基金にあって流離しております。上には蓄えもなく、人民は気持ちが落ち着きません。この乱世にあって、袁紹や劉表は多くの士大夫や民を抱えて強力であるとはいいますが、いずれも将来を見通す思慮に欠け、国の基礎を固めることもしておりません。戦争は道義のある方が勝つものです。よろしく天子を奉戴し、天下に号令を発し、農耕を保護して…
三国志 曹操の兗州入り3 鮑信は戦死、曹操自身も重症を負うも、曹操軍は黄巾賊の残党を破って降伏させ、兗州と青州兵を手に入れる
戦いの最中、曹操は歩兵・騎兵合わせて1000程度しか連れずに巡視している際、不意に敵の陣営に遭遇します。黄巾賊は衆を頼みに攻撃をしかけ、寡兵だった曹操は数百人を失って引き返します。 長く続いた反乱ですから、黄巾賊には何年間も戦い続けた猛者が多数属していました。一方、曹操の軍には招集されたばかりで訓練も足りていなかったので、恐慌をきたします。 曹操は武装した格好で巡察し、明確な賞罰をもうけて…
三国志 曹操の兗州入り1 兗州の劉岱、黄巾賊の残党を討伐しようとするが逆に戦死、陳宮は曹操に主を失った兗州へ入ることを進言する
ただ、太史慈は孔融の下に留まることはなく、一度帰宅して母から労いを受けた後、同郷の劉繇のもとに赴きます。その顛末はまた少し後で見ることとしましょう。 太史慈の活躍と同時期に、無視し得ない大きな出来事も発生しています。 李傕と郭��が長安に入って、王允が殺され、呂布が東方に逃げたのと同じ頃、青州の黄巾賊の大軍が?州に侵入し、任城国の相の鄭遂を殺し、更に東平に侵入します。この黄巾賊はかつて…
三国志 孔融の危機3 太史慈は黄巾賊の包囲を脱して劉備に助けを求め、劉備が3000の援軍を送ったことで包囲は解かれる
賊が太史慈のたちのところに押し寄せようとすると、太史慈たちは城壁の周りに巡らされた壕に入ります。そして、部下の持ってきた的を立てると、壕を出てそれを射て、それが終わると城内に引き上げました。次の日も同じことを繰り返します。賊の一部は前日と同じように太史慈を攻撃しようとしましたが、多くの賊は動きませんでした。太史慈は同じことを繰り返し、城内に引き返します。 3日め、太史慈が城を出ても、賊は誰…
三国志 孔融の危機2 孔融は太史慈が遼東に逃亡していた際にその母の面倒を見ていたことから、太史慈は孔融のもとへ駆けつけた
そこで、太史慈は「もし貴方が文書を手渡すようなことがなければ私が破ることはできなかった。2人はともに過失があったのだから、このまま黙って逃げよう。さすれば、死ぬべき命も永らえることができよう」と言い、結局、2人で逃亡することにしました。そして、州の役人と共に洛陽をでると、太史慈は密かに1人で引き返して郡の文書を提出したのでした。この1件で太史慈の名は上がりましたが、州からは恨まれることになったため…
三国志 孔融の危機1 北海の孔融、黄巾賊討伐に向かうも、賊軍に包囲されてしまう 同郷の太史慈が救援に向かう
同じ頃、袁術の求めに応じて、高唐に田楷を、平原に単経を、発干に陶謙を駐屯させたのですが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に破られたとあります。公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせています。 先に、公孫瓚は有能な人物を取り立てず、凡庸な人物ばかりを重用したことを記しましたね。なぜ盧植のもとで学ぶ期間、博打や遊びにうつつを抜かしていた劉備がこのよう…
三国志 易京の戦い2 麴義は公孫瓚の騎兵隊を排除すると、公孫瓚の本隊をも打ち破る 油断した袁紹の思わぬピンチ
公孫瓚は麴義の軍が少数であることを見ると、ただちに騎兵を動かして粉砕しようとします。麴義の塀は楯の下に伏せて動かず、敵が数十歩の距離に迫ったところで一斉に立ち上がって前進し、正面から受けるのと同時に、大量の弩が放たれます。至近距離からの攻撃に、矢に当たった者は次々と打ち倒されました。 麴義は騎兵を排除すると、敵陣に向かい、公孫瓚の任命した冀州刺史の厳綱を斬り公孫瓚の本陣を落とします。…
三国志 易京の戦い1 勢力を伸ばし、袁紹を包囲しようとした公孫瓚に対し、袁紹は鉅鹿の動揺を押さえて直接対決に撃って出る
こうした考えもあり、公孫瓚が取り立てるのは凡庸な者が多かったとあります。中でも、元占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当とは義兄弟の契りを結び、公孫瓚が長兄で「伯」、3人が「仲」、「叔」、「季」と呼んでしました。あるいは、これが劉備、関羽、張飛が義兄弟を名乗ったという三国志演義のベースとなっているのでしょうか。 全体的に、公孫?が袁術派に与していることが見て取れる上奏ですね。興味深い…
三国志 袁紹が非難されるべき10の理由 公孫瓚は10の理由を挙げて袁紹を避難するが、自身は有能な人士は陥れて昇進させないようにしていた
1.何進に仕えた際、媚びへつらうばかりで正しい人物を推挙せず、丁原に孟津を焼き払わせて董卓を招き寄せ、戦乱のおおもとを作ったこと 2.董卓が洛陽に入って皇帝を人質にしたのに袁紹は皇帝を救うこともせず、割符を放置して逃げ出し、爵位任命の誓約に背いて皇帝の期待を裏切り忠節を尽くさなかったこと 3.袁紹は渤海太守となると、密かに戦馬を集め、董卓を攻撃する際に親族に連絡しなかったため太傅袁隗と太僕袁…
三国志 李傕郭汜政権樹立 張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李傕、郭汜、樊稠が長安に残る 東方では公孫瓚と袁紹の争いが激化
9月、李傕が車騎将軍、郭��が後将軍、樊稠が右将軍、張済が鎮東将軍となります。もちろん、皇帝が望んだのではなく、彼らが自ら名乗ったわけですが、それをはねのける力は既に失われていました。漢帝国は董卓の頃から完全に有名無実化しており、その状況は王允政権で覆される可能性があったのですが、李傕・郭��政権の樹立に伴い、その可能性は潰えたことになります。 彼らのうち、張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李…
三国志 王允政権崩壊 長安に入った李傕らは王允を一族もろとも殺す 裴松之は賈詡の判断を非難
李傕らは「董卓は陛下に忠誠でありましたのに、故もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀反を起こしたのではございません。事が終わりましたら廷尉のもとへ出頭し、処罰を受ける所存です」と答えます。王允は進退窮まり、李傕らのもとに赴いたところを殺され、その妻子一族10人余りもまた、同様に殺害されました。 王允政権は2ヶ月も経たずに崩壊したことになります。 裴松之は長安が失…
三国志 長安防衛戦 王允は李傕と交渉を図るも失敗、呂布は郭汜と一騎打ちをするなど奮闘するも衆寡敵せず敗北する
董卓伝に引く『九州春秋』によれば、王允はけかねてより不仲だった涼州の名門出身の胡文才と楊整脩を呼びつけ、「関東のネズミは何をするつもりなのか。お前達、呼んでこい」といって、李傕たちとの仲を取り持たせようとします。もしこの記事が本当だとすれば、王允の思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。案の定、彼らは李傕たちと合流して長安に向かってきたのでした。 呂布は長安城の北に郭��の姿を認めると、…
三国志 賈詡の智謀 李傕らは軍を解散して故郷に帰ろうとするが、賈詡は軍を集めて長安へ進撃することを主張する
賈詡は孝廉に挙げられて郎になったのですが、病気となって官を退き、故郷に帰ろうとします。ところが、その帰途において?族の反乱に出くわし、その帰途において氐族の反乱に出くわし、同行の数十人と共に捕えられてしまいます。賈詡は「私は段熲の外孫である。私を殺したら、他の者とは別に埋めるように。さすれば、家の者が十分に礼をして引き取るだろう」と伝えます。 段熲といえば、涼州3明の1人で、異民族相手に…
三国志 牛輔の死 牛輔の軍は鎮圧に赴いた李粛こそ敗走させたものの、朝敵となったことに動揺が走り、牛輔は逃亡中に殺害される
牛輔は董卓が長安に都を移す際に、東方への備えとして陝に残されていましたね。そして、その配下の李傕や郭��たちは中牟の朱儁を攻撃し、打ち破っていたのでした。李傕らはまだ牛輔のもとに戻っていなかったので、誕生したてでまだ力のない王允政権にとっては絶好の機会ではありました。 王允と共に新政権に参加した呂布は李粛を陝に派遣し、勅命によって牛輔を捕え、処刑しようとします。当然、勅命だから死ねと言われ…
三国志 蔡邕の粛清 蔡邕は董卓の死を告げられて声を上げて嘆いたことから王允に処刑される 次いで、王允は董卓の女婿の牛輔排除を図る
処刑された文官の中で最も高位にあったのは、蔡邕です。射承の『後漢書』によりますと、董卓が誅殺された際、王允の席に列していた蔡邕は、暗殺成功の報告を聞いて嘆き、声を上げます。王允はこれを聞き咎め、「董卓は国家の大逆臣、主君を殺し臣下を虐殺した。だから天地もこれを助けず、神も人も共に憎む者である。君は朝臣として代々漢の恩義を受けながら、主君が危難に遭ったときにも董卓を討伐しようとせず、むしろ董卓…
三国志 王允政権成立 西方出身の兵士たちは新たに軍のトップとなった呂布を恨み、王允は董卓派を粛清することで恨みを買う
董卓について、陳寿は「董卓は心ねじけ残忍で、暴虐非道であった。記録に遺されているかぎり、おそらくはこれほどの人間はいないであろう」と評しています。また、裴松之は「董卓の場合、政権を盗みとってから、失墜して死ぬまでの歳月を計算すると、わずか3年にもみたない。にもかかわらず、その禍は山よりも高く、害毒は四海の内に流れた。彼の残忍きわまりない性格は、実際山犬よりはなはだしい」(『三国志1…
三国志 暗殺その後 皇甫嵩はただちに郿を攻撃、董卓の弟の董旻や90歳になる母親を含め、一族は滅ぼされる
西施は春秋時代に越王勾践が呉王夫差に贈ったと言われ、夫差の死後は句践の謀将范蠡と行動を共にしたとされる(またはその美貌が新たな災厄を生むかもしれないと恐れられて川に沈められたともされる)伝説の美女、楊貴妃は唐の玄宗皇帝が寵愛した女性なのでこの2名が名だたる美女ということは間違いないでしょう。しかし、王昭君は後宮に入れられながら皇帝に幸せられることはなく、匈奴へ贈られたという経歴から、悲劇の主人…
三国志 董卓暗殺3 董卓は呂布を罵りながら斬られる 三国志演義における貂蝉のその後について
董卓は驚き、「呂布はどこだ」と叫びました。そこへ呂布が現れると、懐から詔を取り出し、「天子の命令により、逆臣を討つ」宣言しました。董卓は「イヌめ、どうしてこんなことを!」と罵りますが、呂布は答えず、董卓を戟で刺して車から転落させました。 呂布はすかさず周囲の兵士に命じて董卓を斬らせ、こうして暗殺計画は成就したのでした。 董卓は肥満していたため、その遺…
三国志 董卓暗殺2 董卓派参内を中止しようとするが、呂布に促されたため、鎧を服の内側に身につけて参内する そこに、李粛が立ち塞がる
童謡が社会批判・体制批判の武器として定着したのは漢代、正確には前漢末から後漢にかけての時期である。思想史的には、「童謡」は董仲舒(前179〜104)の災異説(天は自然災害や異変を下して統治者を監視するという考え方)を取りこんで飛躍的に広まった。童謡が児童に仮託して政治・社会への不平不満をうたいこむとき、だれが作ったか特定できないことこそが重要であった。それゆえ、「謡」に冠した童・民・百姓…
三国志 董卓暗殺1 192年4月23日、献帝が病から癒えたことを祝い、群臣が宮殿に集められる 董卓の周りでは次々と不吉なことが起こる
192年4月23日、病に臥せっていた献帝が快復したことから、臣下が未央殿に集まります。呂布は同郡出身の李粛らに命じて10名ほどの兵士を率い、全員に衛士の服を着せて掖門(大門の左右にある小さな門)を固めさせました。 董卓の周囲では不吉なことが次々と起こります。 この日、宮殿に向かう董卓は「千里の草なんぞ青々たる、十日卜するも、なお生ぜず」と子供たちが歌うところに出くわします。千里の草は重ねて書く…
三国志 朱儁の敗退 朱儁は董卓が長安に遷都すると、荊州に逃げて勢力を整え、中牟に進出するも、李傕らに敗れて撤退する
孫賁は字を伯陽といい、若いうちに両親を亡くして弟の孫輔を養い育て、郡の督郵となっています。そして孫堅が長沙で挙兵すると、役人を辞めて孫堅の配下となって従っていました。その経歴をみても、とても孫堅のような統率が取れたとは思えません。集団は求心力を失い、孫堅の部下だった桓階は曹操に鞍替えしていますが、それでも程普や朱治らは孫一族への忠誠を貫き、孫一族が三国時代の一角を担う存在へと飛躍する助けになっ…
三国志 孫堅横死 袁術と対立した荊州の劉表を攻撃した孫堅は襄陽を囲むが、寡兵で黄祖を追う中で狙撃され、戦死する
袁術は奢侈に溺れるのと並行して、勢力拡大のための軍事行動も起こしていました。その駒として使われたのが、孫堅です。 孫堅が反董卓連合軍に参加する際に、南陽太守と並んで殺害したもう1人の人物が荊州刺史の王叡でしたね。後任の荊州刺史となったのは、皇族でもあり、名士としても知られていた劉表です。南陽で勢力を拡大する袁術とこの劉表との関係は悪化し、劉表は袁紹と結んで袁術とは対決することになったのです…
三国志 王允2 硬骨漢の王允、上司に疎まれて殺されそうになるが救い出され、出世を重ねて皇帝からも董卓からも信頼される
劉瓆は獄中で命を落とし、王允は葬列を送って平原に至り、3年間墓を守って暮らします。その後に帰宅し、再び出仕します。その頃、太守の王球が路仏という、名声もなければ品行もない人物を役人としていました。王允は相手が嫌な顔をしても気にせずに固く諌めたため、王球は王允を捕えて殺そうとします。刺史の�ケ盛がこれを聞いて急使を派遣し、王允を救って別駕従事としました。このことから王允は名声を得、後に豫州刺史とな…
三国志 王允1 司徒の王允、董卓暗殺を計画する 三国志演義に見られる貂蝉は架空の人物だが、史書にも女性を巡るトラブルが記録される
ただ、呂布が董卓を殺したいと願うには、別の理由もあったようです。後漢書呂布伝には、呂布が密かに董卓の下女と情を通じていたため、露見したら大変なことになると恐れていたようなのです。 三国志演義で董卓と呂布の間を割く貂蝉は、この下女を元に作られた人物でしょう。残念ながら後漢書呂布伝に、下女の名前は記されておりません。 しかしながら、貂蝉がこの下女の名前であったとは少し考えにくいように思いま…
三国志 張温殺害 董卓は太史から「大臣の中に誅殺すべきものがいる」と言われると、張温を殺害する 過酷な刑罰に長安の人々は怯え慄く
董卓はこうした経緯もあって張温を嫌っていました。そのような中で、太史が気を読んで「大臣の中に誅殺すべきものがいる」と告げます。どう考えても斬られるべきは董卓ですが、董卓はこれを利用して、「衛尉の張温は袁術と密かに通じている」と難癖を付け、張温を市で死ぬまで鞭打たせたのでした。 孫堅は反董卓連合軍に参加する際、胸を叩いて嘆息し、「張公があの時私の言葉に従っておられれば朝廷はいまこのような災難…
三国志 董卓暗殺計画 議郎の鄭泰、荀攸や何顒らが中心となり、董卓暗殺計画が立てられる 荀攸について
この頃、黒山賊の于毒(うどく)、白繞(はくじょう)、眭固(すいこ)らが魏郡を攻撃します。東郡太守の王肱は守り切ることができませんでした。そこへ、曹操が軍を率いてやってきます。 曹操は濮陽において白繞の軍を打ち破ったので、袁紹は曹操を東郡太守とするよう上奏し、これが認められました。 董卓は見てきたとおり、咎のない少帝劉辯を廃位して殺してしまったり、貨幣の改悪で経済を破壊したり、好き勝手…
三国志 ハイパーインフレ 董卓が従来の銅貨を鋳潰して粗悪な硬貨を発行したため、貨幣価値は暴落し、民間ではほぼ貨幣が使われなくなる
同月、董卓は5銖銭を毀ち、小銭を鋳します。5銖銭とともに銅人を鋳潰して、従来よりも小さな小銭を大量に作りました。董卓小銭と呼ばれるこの貨幣について、『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳』はこう記します。 この小銭は、通常の鋳銭で使われる正・裏の2つからな…
三国志 袁紹の冀州領有3 従事の沮授は袁紹に冀州、青州、幽州、并州の領有と天子奉戴した上、洛陽で天下に号令すれば天下を取れると進言
袁紹に、従事の沮授が進言します。 「将軍は弱冠20歳で出仕され、名声を天下に響き渡らせ、廃立の時期に遭遇されては、忠義心を奮いたたされ、単騎出奔されては董卓を恐れさせ、黄河を渡って北に向かえば渤海郡が頭を下げて服従しました。渤海の士卒に加え、冀州の大軍を押さえ、その威光は黄河より北の地を震撼させています。青州を本拠地とする黄巾賊だろうと、黒山の賊がのさばろうとも、軍をさしむければ平定すること…
三国志 袁紹の冀州領有2 弱気の韓馥に、部下は袁紹は窮しているので戦うべきだと説くが、韓馥は降伏を決める
荀�ェは公孫瓚と袁紹の双方から攻撃を受ける可能性があることを指摘し、公孫?と争うよりは同盟者である袁紹に譲渡するのが良いと説得しました。元来臆病な韓馥はその言葉を是とし、袁紹に下ろうとします。 韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴らは韓馥を諌め、「冀州は田舎とは言え武装した兵士は100万を数え、10年分の穀物を蓄えております。片や袁紹は孤立無援で本拠地を持たず、軍勢は困窮状態にあります。いわ…
三国志 袁紹の冀州領有1 韓馥が公孫瓚、劉岱らから地位を狙われる中、袁紹陣営は公孫瓚をネタに韓馥を脅すことで冀州を奪取を図る
董卓は「袁家の2人の子を殺せば天下は取れる」と嘯いていました。それほど彼らの地位と名声は他者を圧倒していたのです。 君主は、広大な領域を支配するためには、豪族の支持により地域の支配を安定化させ得る名士の協力が必要であった。さらに名士は、自分たちの人的ネットワークだけで情報を握り、状況を分析することができた。(『三国志 演義から正史、そして史実へ』) 基本的には先述…
三国志 瓦解 反董卓連合軍の解散を命じる使者の胡母班、義兄の王匡に処刑される 反董卓連合軍は完全に瓦解した
胡母班は王匡の妹婿に当たるため、董卓は詔書を与えて袁紹たちに軍を解散するように命じたのでした。しかし、袁紹は王匡へ胡母班たちを捕えて処刑するように命じます。 獄に下された胡母班は義兄の王匡へ、「古より、地方で挙兵して中央に上った諸侯はおりません。器物の間にネズミが現れたとしても、器物の破損を恐れて何かを投げつけることはしないでしょう。まして、董卓は宮殿にあって天子を衝立としてその影にいるの…
三国志 反董卓連合軍の内紛 袁紹と袁術は勝手に部下を刺史に任命、袁紹の命じた豫州刺史の周昂と袁術の命じた豫州刺史の孫堅が争う
この一件で、元から仲の悪かった公孫瓚と劉虞の仲は険悪なものとなりました。 劉和は袁術の監視下を脱して父のもとへ戻ろうとしましたが、今度は袁紹に引き止められてしまい、戻ることができませんでした。後を考えると、この仕打ちは劉和にとっては幸運なものだったと言えそうです。 その間にも、反董卓連合軍は瓦解に向けてひた走ります。既に、反董卓連合軍の内部で勢力争いが始まっていたのです。 前述の…
三国志 忠臣劉虞 劉虞は自分を擁立しようとやってきた使者を斬り、献帝のもとに田疇を派遣して臣従を誓う 献帝は劉和を派遣する
韓馥は改めて劉虞に自分を尚書を兼ねるよう命じ、封侯して欲しいと頼みますが、劉虞は今回もまた天子にしか行うことのできない職務を摂ることを拒否します。そして、遂に使者を斬り、長安の献帝のもとに臣従を誓う使者を送ることとしました。 この重要な役割を担う者を誰にするか劉虞は悩みます。その劉虞に、周囲の人々はこぞって田疇(でんちゅう)を推薦します。 田疇は字を子泰または子春といい幽州出身です。読…
三国志 東西対立の背景 もともと東方と西方では人材の質が異なり、董卓体制でそれが顕著になった 袁紹は皇族の劉虞擁立を図るようになる
もともと、中国では「関西は将を出し、関東は相を出す」と言われてきました。この状況は西に基盤をもつ董卓が西方を、幾世にも渡って3公を輩出した袁紹や袁術、潁川の知識人グループに連なる曹操らが東方に分かれて睨み合ったのはまさにこの構図であり、西方で異民族相手に戦いを繰り広げてきた董卓軍に反董卓連合軍が及び腰だったことは不思議ではないのでしょう。 『
三国志 荀爽の死 不本意ながらも董卓政権を支えることになっていた荀爽が死去 李膺とも面会した清流派の名士
5月、荀爽が世を去ります。 荀爽は潁川郡の名族荀家の中でも優秀さで知られていました。8人兄弟で、兄弟は皆優秀だったことから、「8龍」と呼ばれており、その中でもとりわけ荀爽が優秀と評価されました。党錮の禁の際、党人の中心にいた李膺とも面会し、馭者を任されたたことがあります。荀爽は家に帰って「李先生の馭者を務めたぞ」と自慢したそうなので、どれほど李膺の名声が高かったかが伺い知れます。 この経…
三国志 徐栄に大敗 曹操らは徐栄の軍と戦いとなるが、衛茲や鮑信の弟の鮑韜が戦死し、曹操もウマを失う大敗を喫する
勇躍、徐栄のを攻撃した曹操たちでしたが、たちまち董卓軍に粉砕されます。 張邈の部下で5000の兵を率いて曹操と行動を共にしていた衛茲や鮑信の弟の鮑韜が戦死し、曹操自身も矢傷を負ってウマを失うという絶体絶命の危機に陥りました。それを見た従弟の曹洪は「天下に私がいなくても構いませんが、あなたがいないわけには参りません」といってウマを譲り、徒歩で曹操を守って逃げるほどでした。 曹操たちは卞水の…
三国志 太傅袁隗の後任 董卓は長安に残っていた袁紹・袁術の一族を滅ぼし、太傅袁隗の後任に劉虞を据えようとする
董卓は袁隗の後任の太傅に皇族の劉虞を任命しようとします。これより前、董卓が政治をとるようになると、劉虞は使者を送って劉虞を大司馬とし、襄賁侯としていました。ところが、今回は道が塞がり、勅使は劉虞のもとへ行き着くことができませんでした。 幽州は辺境の地で、税収も少なく、青州や冀州からの税収の数億銭も幽州から援助を受けていました。ところが道が塞がってしまったことで幽州は資金不足に陥ります。それ…
三国志 伝国の玉璽 孫堅が見つけたとされる伝国の玉璽と、忠臣ではなく野心に溢れた顔も持つ孫堅にちて
玉璽は「形は上が円く下が四角で4寸の大きさ、上の紐をかける所には5匹の龍がわだかまっていて、そのうち1つは角が欠けていた」(『三国志6』)そうです。角が欠けているのは、王莽が前漢を簒奪した際、玉璽の引き渡しを要求された伯母の王政君が激怒して玉璽を投げつけたために生じたとされているものです。玉璽は後漢に受け継がれていましたが、何進が殺された直後に袁術らが宮中に入り宦官を攻撃した際に、少帝の側…
三国志 孫堅上洛 董卓は長安遷都を強行し、洛陽を焼く 洛陽に入った孫堅は墳墓を修復、この際に伝国の玉璽を発見したとも言われる
これを受け、董卓は長安への移動を決定します。太尉の黄?と司徒の楊彪、それに司空の荀爽は董卓のもとを訪れます。彼らに対し、董卓は『石苞室讖(せきほうしつしん)』なる予言書を引いて、「漢の高祖が長安に都して11代で洛陽に移った。光武帝から現在までまた11代である。『石苞室讖』を調べた結果、再び長安に都を戻すべきである」と主張しました。楊彪は洛陽遷都の事情を語り、『石苞室讖』のような信用できない書物に従…
三国志 袁術の疑心暗鬼 洛陽に向けて快進撃を続ける孫堅を袁術は恐れるようになり、兵糧を制限する 董卓派李傕を派遣して切り崩しを狙うも拒否される
なお、潘鳳や兪渉は架空の人物で、先に見たとおり華雄を斬ったのは関羽ではなく孫堅ですから、このシーンは関羽の超人ぶりを見せつけるために華雄が噛ませ犬になっていることになるわけです。三国志演義は少なからぬところで他の者の功績を劉備たちのものとしてします。ここもその1つです。 胡軫が破れたことで、反董卓連合軍、とくに孫堅らの軍にとっては洛陽への道が開けたことになります。 ところが、思わぬ横や…
三国志 華雄 一度は敗北した孫堅、兵を集めて梁へ進出、胡軫の軍を破って華雄を斬る 三国志演義における華雄について
この時、潁川太守の李旻は生け捕りにされ、煮殺されてしまいました。また、董卓は捕虜となった士卒を布に包んで倒立させ、熱した油を注いで殺したと伝えられます。 孫堅は再び兵をまとめて梁郡の陽人に進出、董卓軍がこれを迎え撃ちます。 孫破虜討逆伝に引く『英雄記』によれば、この時の董卓軍の陣容は、陳郡太守の胡軫が大督護となり、呂布が騎督として従う他、歩兵や騎兵を率いる将兵が多くいました。 陣容…
三国志 東方情勢 董卓は長安で郿に要塞を作って財宝を蓄える 東方では洛陽守備を委ねられた朱儁が荊州へ逃亡 孫堅が董卓軍の徐栄に大敗
董卓は長安で専権を振るうのと並行して、郿に長安城と同じ高さの城壁を持つ城を築きます。そして30年分の穀物を蓄えて、何かあってもここを守って一生暮らせば良いと嘯く始末でした。 郿を訪れるために公卿以下を揃えて送別の宴を催したことがあります。この時に董卓が見世物として準備したものは、酸鼻極まるものでした。乃ち、北地郡で反乱を起こして降伏した者数百人を幔幕の中に入れると、「まずその舌を切って…
三国志 長安遷都4 皇甫嵩は独立勢力となることを勧められるが拒否 董卓は長安遷都を強行し、自ら太師となる
しかし、皇甫嵩はこの忠言に従わず、招聘に応じて董卓のもと訪れ、そこで獄に下されてしまいます。董卓は皇甫嵩を誅殺しようとしますが、董卓とかねてから親しかった皇甫嵩の息子、堅寿が長安から逃亡して洛陽へ行くと、董卓を相手に涙ながらに正義を説いたことで命は助けられます。後に長安に董卓が戻ると、御史中丞以下文武百官に拝させます。その中に皇甫嵩の姿を認めた董卓は、「義真(皇甫嵩の字)よ、参ったか」と尋ねま…
三国志 長安遷都3 董卓の一存で長安遷都が決まる 洛陽では董卓が洛陽を逃げ出すことを嘲笑する「董卓逃げた」の歌が流行り、数千人が殺される
この伍孚の本籍と字は伍瓊と同じなので、あるいは伍瓊とはこの伍孚の事で、死の状況に異聞があって、三国志が記されるまでの間に別人のこととされるようになったのかもしません。 長安遷都はこのようにして、董卓の一存のみで決定されました。なお、この頃の洛陽で以下のような董卓を嘲る童謡が流行ったと『
三国志 長安遷都2 汝南の伍孚(城門校尉の伍瓊と同一人物か?)は董卓が見送りに来た機会に刺殺を謀るも失敗し、殺される
使者が朱儁を訪れましたが、朱儁は「国家が西に移るならば、必ず天下の望みに叛き、山東は乱れる。臣は認められぬ」と言って任官を拒否しました。使者は「あなたを召して重職につけようとしても拒否するのに、長安遷都については聞かれてもいないのに反対論をぶつ。なにをしようというのか」と詰ります。朱儁は「相国の副となるのは臣の耐えうるものではない。遷都は緊急に決めなければならないことではあるまい。耐えざること…
三国志 長安遷都1 董卓にとっての長安の意味合い 董卓は朝堂で長安遷都を諮るが、朱儁は反対する
前漢が長安を、後漢が洛陽を首都にしたのはなぜだったのでしょうか。長安のある場所は関中と呼ばれる通り、山地に囲まれていて、数少ない街道には堅固な関所が設けられていましたから、守りに適しています。前漢成立時、東方には異姓の王国が林立していました。彼らはいつ反乱を起こすとも知れなかったので、守りの堅い長安が首都に適していました。 しかし、後漢はどうでしょうか。前漢の時点で異姓の王はほぼ滅んでおり…
三国志 少帝殺害 反董卓連合軍のうち、王匡がまっさきに董卓軍と戦うが、敗走する 董卓は邪魔になった廃皇帝劉辯を毒殺する
孫堅はその後、魯陽に軍を進めて袁術と会見し、孫堅に破虜将軍と豫州刺史とを兼任させました。袁術によって位を与えられたわけですから、ここに孫堅は袁術の幕下に加わったことになります。 反董卓連合軍全体の盟主となったのは、袁紹です。袁紹は先に記したとおり、何代にも渡って3公を輩出した名門中の名門出身で、霊帝直属の組織として設置された西園8校尉の実質的なトップの中軍校尉(上軍校尉は宦官で小黄門の蹇碩)…
三国志 孫堅の反董卓連合軍合流 孫堅はかねて恨んでいた荊州刺史の王叡、兵糧を渡さなかった南陽太守の張咨を斬り、袁術のもとへ赴く
せっかくの機会ですので、ここで孫堅が反董卓連合軍に参加する流れについて見ておきましょう。 孫堅が黄巾の乱鎮圧において八面六臂の活躍を見せ、西涼における韓遂らの反乱に際しては張温に従い、不遜な態度をとる董卓を斬るべきだと進言したことはすでに見てきましたね。その後、長沙において区星(おうせい)なる者が自ら将軍を名乗り、1万人あまりを集めて反乱を起こして町を攻撃していました。それに対応するため、…
三国志 反董卓連合軍の配置 反董卓連合軍は大別すると4つの軍に分けることができ、その勢力の忠臣は張邈のいた酸棗だった
三国志演義ですと孔融や公孫瓚、陶謙らも反董卓連合軍に参加したことになっていますが、実際には彼らは参加していません。公孫瓚が参加していないということは、演義において公孫瓚と行動を共にしていた劉備たちも参加していません。 また、これより後に張楊も加わります。張楊は并州に募兵に赴き、その後は同地に留まって賊を討伐したとのことですので、白波賊と戦っていたのかもしれません。その張楊は、匈奴単于の…
三国志 反董卓連合軍の面子 孔伷、劉岱、王匡、橋瑁、袁遺、鮑信らは、まだ平和な時代に高く評価され、出世した人びとだった
孔伷は字を公緒といい、陳留出身で清談高論が得意で息を吹きかければ枯れ木に花を咲かせ生木を枯死させることができると評された人物です。 劉岱は劉繇の兄に当たる人物で字を公山といい、侍中や兗州刺史を歴任しています。父母に対して孝行で、兄弟仲がよく、他人に対しても思いやり深くて人の意見を聞き入れたそうです。 王匡は字を公節といい、泰山の人です。罪過を軽んじ、施しが好きで、任侠をもって知られ…
三国志 酸棗軍団の蹶起 酸棗の集団では臧洪が盟主となり、董卓を討つことを誓う 一部参加者は積極的ではなく、失敗の萌芽が見える
劉岱らは壇を築いて誓約を行おうとしますが、互いに譲り合って盟主が決まりません。最終的に、彼らはみな臧洪を推薦したため、臧洪は血を啜って「漢の王室は不幸に見舞われ、賊臣董卓が悪行を行い、天子に危害を加えて人民を虐待しており、国家が破滅し天下が転覆しそうになっております。兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守橋瑁、広陵太守張超らは正義の兵を糾合し、困難に立ち向かおうとしている…
三国志 反董卓連合軍 張邈や臧洪、曹操らが集まって、連合して董卓を討とうとする
張邈は字を孟卓といい、若い頃から男伊達で知られていました。困っている者を救い、助けるためには家財を傾けても惜しまなかったので、多くの人びとが張邈を慕いました。党錮の禁の際に、宦官に迫害された知識人たちが互いの序列を付けた際、張邈は八廚にとして名前が挙げられています。党錮の禁が解除されると3公の府に召し出され、成績優秀だったことから陳留太守に栄転していました。 その人脈の中に、袁紹と曹操が…
三国志 少帝廃立 反対する者がいなくなったことで、董卓は少帝を廃して何皇后を殺害すると、自ら相国となる
盧植の去った朝廷で、もはや董卓に反論する者はありませんでした。董卓は少帝の廃位を強行し、陳留王劉協を皇帝につけます。これが献帝です。劉辯には弘農王の位が与えられました。劉辯は死後も諱を与えられることはありませんでした。そのため、光武帝や明帝、桓帝、霊帝のように諡号+帝ではなく、「少帝」と呼ばれます(諡号が与えられず、少帝と呼ばれる皇帝は他にもいますので、個人を特定する場合には「少帝辯」と呼ばれ…
三国志 呂伯奢一家殺害事件 曹操は呂伯奢の家族を殺したとあるが、異伝を見ると話の流れがぜんぜん違う 何が正しいのか
『魏晋世語』 は裴松之が「記事は乏しく秩序もなく劣っているが、時に珍しい記事があるので、よく読まれている」(『三国志 演義から正史、そして史実へ』)と裴松之が記す、質の低いものです。 また、東晋の330年ごろの『異同雑語』には、呂伯奢の家人が食事の準備をしていると、皿の鳴る音を聞いて自分を始末しようとしていると思い込み、夜の内に彼らを殺して逃げる。「私が人を裏切ることがあっても、他人に裏切らせ…
三国志 曹操逃亡 曹操は董卓政権は失敗に終わると判断して洛陽を脱する 故郷への途中、恩人の呂伯奢の一族を殺す事件が起こる
それだけ袁一族の力が大きかったと考えるべきでしょう。実際、長安に残った袁一族はこの際に処刑されておりませんから。 曹操もまた故郷の陳留へ向けて逃げ出します。董卓は曹操を驍騎校尉に任じて参謀にしようとしたのですが、曹操は董卓が成功することはないと考えていたのです。 あるいは、曹操は袁紹と示し合わせて洛陽を脱出したのかもしれません。 曹操は姓名を偽って虎牢関を脱出することはできたのです…
三国志 盧植と袁紹の逃亡 董卓に反対した盧植と袁紹は董卓を止められず、後難を恐れて逃亡する 董卓は袁紹を渤海太守として懐柔を図る
私にはこのタイミングで劉氏を絶やして良いとまで董卓が言明したとは思えませんが……。 また、盧植は朝堂において堂々と少帝劉辯廃立に反対しました。史書は朝堂で反対したのは盧植ただ1人だったと記します。とすると、袁紹の反対は朝堂のことではなく、もっと内々の話だったのかもしれません。 盧植は「『尚書』を調べてみますと、殷王太甲は位についた後にでたらめであったために伊尹はこれを廃し、漢の昌邑王は即…
三国志 少帝廃立 董卓は少帝が暗愚であることを理由に廃立して劉協を立てようと諮るが、袁紹は反対する
蔡邕は董卓によって中央に戻される前、流刑に処されていました。それでも有能な学者だった蔡邕は流刑地で後漢の制度史についてまとめています。では、なぜ蔡邕は最終的に董卓の招聘を受けたのでしょうか。また、招聘を受けた後はそれなりに董卓に協力的だったのでしょうか。『三国志—演義か…
三国志 蔡邕 若き日の蔡邕は有能な学者として古文のテキスト校正に活躍 宦官を批判して死刑にされかかるが、宦官の硬骨漢呂強に救われる
出仕した蔡邕は、県長を皮切りに郎中、議郎へと昇進を重ねます。その中で、蔡邕は研究し続けた古文の6つの経書を校訂するよう進言して認められました。焚書坑儒等によって古より伝えられてきた文章は失われ、誤った文章が流布されていると考えられていたため、どのテキストが正しいのか判断する作業です。その成果は彼自身の記した文字として、洛陽の太学門外に石碑として立てられました。石碑とすることで、後世の者も正し…
三国志 名士招聘 董卓は政権を安定させるため、名士を招聘する 唯一董卓に協力的だった名士、蔡邕
呂布は字を奉先といい、五原郡九原県出身の人物です。勇猛さを認められて并州に仕えました。并州刺史の丁原は呂布を主簿に任じ、親愛していました。呂布が丁原の首を斬って董卓のもとへうやってくると、董卓は呂布を騎都尉に任じ、父子の関係を結びました。弓術と馬術に優れ、抜群の腕力を持つことから「飛将」と呼ばれたそうです。 軍事力を独占した董卓は、続いて天候不順を理由に司空の劉弘を免職にしてその後釜に座り…
三国志 董卓上洛3 執金吾の丁原を呂布に殺させてその軍を奪ったことで、洛陽で董卓に対抗できる者はいなくなる
洛陽には四方から軍勢が集まっていましたから、それでも董卓の軍は他を圧するとまでは言えません。そこで、董卓は一計を案じます。董卓は夜中の内に軍勢を洛陽城外に出し、翌日に鐘や太鼓を叩かせながら入城させ、「西方からの軍がまた洛陽に至りました」と言わせました。これを繰り返し、自分の軍を実際よりも多く見せかけたわけです。 もちろん、この詐術では他の軍に対して董卓の優位性を錯覚させる役には立ちますが、…
三国志 董卓上洛2 騎都尉の鮑信は袁紹に董卓排除を進言するも、袁紹は動けない 董卓の弟董旻は同僚の呉匡を追い払い、何進の軍を手中に収める
同じく三国志董卓伝の注に引く『献帝春秋』だと、駐屯地で皇帝が帰還するとの情報を得て軍勢を率いて迎えに行ったことになっており、同じく『英雄記』だと河南中部掾の閔貢(びんこう)が皇帝と劉協を助けたのを、董卓が迎えたことになっています。 宦官たちが皇帝と劉協を連れて逃げ、宦官は漢紀の記すように自殺したか、董卓(または『献帝春秋』に見える閔貢)の軍に滅ぼされたかで何れにせよ命を落とし、そして皇帝と…
三国志 董卓上洛 張譲や段珪らは少帝と陳留王劉協を連れて逃げる途中で上洛中の董卓と遭遇し、宦官は川に身を投げ皇帝兄弟は保護される
では、洛陽を出た少帝たちはどうなったのでしょうか。 三国志演義ですと、皇帝とともに洛陽を脱出した張譲や段珪たちは小平津に逃げたところで上洛中の董卓の軍勢に遭遇、川に飛び込んで自殺しました。董卓は徒歩で逃げ惑う皇帝と劉協を保護し、洛陽へ戻ることになります。 では、史実ではどうなのでしょうか。これが実に困ったことに、後漢書、三国志、さらに注として異説がいくつもあり、よく分からないのです。 …
三国志 何進の死 何進は何皇后に会うために宮中へ参内したところを斬られ、それを知った袁術らは宦官や何進の異母弟何苗らを殺害する
この重大局面で何進がとった行動は、甚だ理解できないものです。8月、何進は袁紹の忠告も聞かずに宮中へ参内します。嘉徳殿に至った何進を待っていたのは、中常侍の段珪と篳嵐(ひつらん)の率いる兵士たちでした。兵士に取り囲まれた何進の前に、張譲が現れます。そして、何進は張譲に罵られながら斬殺されたのでした。 宦官たちにとっても正念場です。ここで洛陽内の軍を少しでも多く押さえなければ、宦官には生き残る…
三国志 一触即発 何進は董卓に上書させて何皇后に圧力をかけ、袁紹は地方の宦官一族を逮捕するよう命令を下す
毌丘毅についてはその動向が詳しく分かりません。三国志先主伝によれば、毌丘毅は丹楊で兵を募集させたとあります。この際、劉備も同行し、下邳で賊軍を破ったことで下密の丞となったそうですが、だいぶ本筋から外れた話ですね。残った7名は、軍勢を率いて洛陽へ向かいました。 四方からの軍勢に加え、虎賁中郎将の袁術、典軍校尉の曹操は何進の命令で動くことは確実であり、加えて袁術は1000人からなる部隊を洛陽城…
三国志 軍隊呼び寄せ 何進は盧植や曹操らの反対を退け、各地から軍を呼び寄せる
董卓を懸念したのは盧植だけではありません。鄭泰もまた、董卓の名を挙げて危険性を説きました。鄭泰は尚書侍郎や議郎などを歴任し、高い評価を得て何進の目に止まり、側近とされていました。 なぜ盧植や鄭泰は董卓を恐れたのかと言えば、董卓は過去に何度も傲岸不遜な行動をとってきたからです。 反乱討伐に向かった張温に対する不遜な態度については既に記しましたね。他にも188年に董卓を少府に任じて彼が率いて…
三国志 宦官誅滅策 袁紹は何進に宦官誅滅を進言するも何皇后の許可が下りないため、各地から軍を呼び寄せて圧力をかけることとする
この袁紹が、何進に宦官誅滅を進言します。 何進にとって、甥が無事に即位して反対派の董太后や蹇碩は滅ぼされたことで1つの安定が訪れたはずでした。そして、何進が宦官と対立しなければならない理由など、既に失われていました。 ところが、復興しつつあった知識人たちと宦官との間には党錮の禁が対立の火種として存在し続けていたのです。何進は優秀な部下たちか、後宮の宦官たちか、どちらにつくかを選ばなけれ…
三国志 何進と袁紹 何皇后や何進の異母弟の何苗は宦官に親しい 一方、何進は幕下の名士たちよりも袁一族の若きリーダー袁紹を股肱と頼む
では大将軍何進の力は絶対のものになったのでしょうか?いえ、そうではありませんでした。何進体制にはかねてから存在した火種が燻り続けていたのです。その根源にあるのは、宦官が後宮を支配し、文書の上奏ルートを握っていたということです。 史書によれば、何皇后の家は屠者で、人口調査の際に係の者に金品を贈って何皇后を後宮に入れていれていました。その係というのが宦官だったとは思えませんが、何らかのルートで…
三国志 劉辯即位 霊帝の親任篤かった蹇碩は斬られ、霊帝と何皇后との間の子の劉弁が即位する
荀攸は潁川の名族である荀氏の出です。同じ一族には、既に名士として著名であった荀爽や、同世代の荀�ケがいます。荀攸の曽祖父が荀�ケの祖父と兄弟という間柄なので、荀�ケの曽祖父から数えると荀�ケが3代目、荀攸が4代目の子孫ということになります。そのため、歴史書では荀攸は荀�ケの「従子(おい)」であると書かれますが、年齢は荀攸の方が6歳年長でした。 話が長くなりましたが、党錮の禁がしっかり解かれていたこ…
三国志 何進配下の名士たち2 客人を守って家族で誰が死刑になるか争い有名になった孔融 若き曹操を評価した、清流派の名士何顒(かぎょう)
張倹は孔融がまだ若かったことから、孔家に来た理由を話すことはありませんでした。それでも孔融は困窮した様子の張倹を匿いました。ところが、張倹が孔家に逃げ込んだことが露見し、役人がやってきます。張倹は逃亡し、孔褒と孔融兄弟が逮捕されました。 孔融は「彼を匿ったのは私ですから、私が死刑になるべきです」と主張し、孔褒は「いや、彼は私を頼ってきたのだから、私が死刑になるべきだ」と言います。困った役人…
三国志 何進配下の名士たち 董皇后は蹇碩とは劉協擁立を図るが、その前に何進が立ち塞がる 何進配下の名士たち 孔融について
董皇后は蹇碩とも親しい間柄でしたし、甥の董重は驃騎将軍として軍を掌握していました。董皇后からすれば、権力を握ったと思ってもおかしくはなかったでしょう。「しかし、董皇后は何皇后の兄で大将軍の何進の実力をあまりにも甘く見すぎていたのである」(『実録三国志 - 于 濤, 鈴木 博…
三国志 霊帝の死 189年、霊帝が後継者を定めないまま34歳の若さで死ぬ 2人の皇子、劉辯と劉協のどちらが即位するかを巡る争い
189年の2月、皇甫嵩が陳倉で王国や韓遂を破り、王国たちは逃走しました。韓遂は王国を追放して自分が軍を握り、王国は混乱の中で命を落としました。 それだけではなく、反乱軍の中で血で血を洗う権力争いが起こった結果、集団としてのまとまりは失われ、反乱軍は瓦解しました。これで西方の反乱は落ち着きました。 更に3月には張純が殺害され、漁陽の反乱もまた幕を閉じます。 劉虞の温厚な政策により烏桓が漢に和親…
三国志 蜀の半独立 蜀に入った劉焉、張魯に桟道を絶たせ、蜀に中央からの干渉を受けない半独立国を作り上げる
賈龍の狙いがどう転んだのか、先に片付けてしまいましょう。 劉焉は蜀に入ると、綿竹に役所をおいて統治を開始します。反乱に加わった者たちを許し、寛容と恩恵を中心にした政治を行いました。治下では恩恵を施しながら、彼は密かに自らの野心を温めていました。そして、野心を実現させるために都合の良い人材も見つけていたのです。その人物の名を、張魯といいます。 張魯については、184年に(恐らくは)黄巾賊と…
三国志 劉焉 皇族の劉焉、刺史設置を提言し、「益州に天子の気がある」と言われたことを受け、益州刺史となる
この改革を献じた劉焉について触れておきましょう。 劉焉は字を君郎といい、江夏出身です。その祖は前漢景帝の第4子である劉余に遡るという皇室の生まれです。なお、同じく劉余を祖とする皇族に劉表がいます。 彼は中央での混乱を避けるため、中央から遥か離れた交阯への赴任したいとの希望を隠して「刺史や太守の多くが賄賂によってその地位を得て民を苦しめ、離反を招いています。清廉な臣下を地方の長とし、国内…
三国志 刺史の設置 劉焉の提言により、牧が廃止され刺史が設置される 刺史は牧と異なり軍事権、行政権も持つので、地方の軍閥化が進む
ただ、この経歴を見ると、184年に募兵に応じて3年後には征西将軍や征東将軍になって、更に反乱に参加していたというのは考えにくいように思います。187年に馬騰が反乱に参加したとの記録は後漢書のみに見えるのですが、187年には反乱に参加しておらず、もっと後のことかもしれません(もっと後の反乱については三国志にも記述があります)。馬騰の参加は眉唾ものと思いながら話を進めることにしましょう。 氐や羌も反乱を…
三国志 劉虞と公孫瓚2 劉虞が幽州牧となると、劉虞を慕う丘力居は降伏、張純は逃亡するも、食客に殺される 馬騰や王国の反乱
不祥事を起こして刺史を免じられましたが、黄巾の乱が起こると甘陵の相となり、荒廃した土地で民を慰撫し、質素倹約に努めながら民を指導していました。 この劉虞が幽州牧となったことは早速効果をあげます。丘力居は劉虞を慕っていたので、使者を送って恭順を示そうとしました。 公孫瓚はその動きを知ると、劉虞に手柄を奪われるのではないかと邪推して使者を殺害してしまいます。公孫瓚の嫉妬に始まった確執は、…
三国志 劉虞と公孫瓚1 公孫瓚は白馬義従と称する騎兵を率いて勝利を挙げるが、政治が過酷で民が懐かないため、朝廷は劉虞を送る
薊周辺を荒らし回り、本拠地に引き上げようとする張純らを、公孫?は300キロも長駆して追います。そして石門山で張純を攻撃して大勝しました。しかし、深追いし過ぎて糧道を断たれてしまったため、逆に烏丸によって遼西の管子城に包囲されてしまいます。包囲は200日余りにも渡って続き、窮した人々はウマを屠り、ウマが尽きれば弩に貼った革を煮て食べる有様でした。 このままでは全滅するだけです。公孫?は士卒たちと別れ…
三国志 公孫瓚 187年に張純が反乱を起こして幽州を攻撃し、公孫瓚が鎮圧に向かう 若き日の公孫瓚について
ただ、西園8校尉は、設置されはしたものの、組織として目立った活躍をすること無くその役割を終えています。 187年、今度はかつて中山太守を務めていた張純が烏丸の丘力居と結んで反乱を起こし、幽州の薊中を攻撃します。張純は185年に韓遂や辺章が反乱を起こした際に討伐軍を率いた張温に従軍を却下されたことに不満を抱いていました。そして、後漢の弱体化を見て後漢からの離脱を考えていた烏丸の丘力居らと結んで反乱…
三国志 西園8校尉 西方での反乱鎮圧作戦は、兵力を分散した漢軍の敗北に終わる 同年8月、霊帝に直属する組織として西園8校尉が新設された
数年後、間違いなく張温は孫堅の進言を取り上げなかったことを深く悔やんだことでしょう。 張温は一度は反乱軍に敗北しますが、踏み止まって陣を構築し、再び反乱軍と対峙します。11月のある夜、尾が10丈にもなる流星が落ちて反乱軍の陣を照らすと、兵士たちは不吉だと思って金城へ退却しようとします。それを知った董卓らは反乱軍を攻撃して数千の首を獲る大勝を得ました。 張温は軍を分け、董卓に先零羌を、盪寇将…
三国志 孫堅と董卓 張温の招集を受けた董卓は遅れてやってきて、不遜な態度を取る 孫堅は董卓を斬るべきだと張温に進言
罪人を誅するという部分は、通常の犯罪者を考えるべきではありません。彼らには官吏が対応すれば十分ですから。軍を動かさなければならないような罪人として、他に反乱を起こした者が思い浮かびます。しかし、張弦の主張の結びにおいて反乱を破ることができるとしているのですから、反乱と考えると論旨が崩れます。反乱軍でもなく、犯罪者でもなく、かつ軍を動かさなければ対応できない存在。すなわち、宦官と対決せよと発破を…
三国志 西方の反乱 先零羌や王国(人名)らが湟中月氏の集団出身の北宮伯玉なる人物を擁立して反乱を起こす 辺章や韓遂の反乱参加
同じ185年には、黒山では張牛角なる者を始め、10余りの指導者が反乱を起こし、各地で略奪を繰り返します。張牛角は暴れまわり、そこに食い詰めた農家の次男三男などが合流、その兵は100万を号するほどに膨れ上がりました。張牛角はまもなく亡くなり、その死後は?燕が張燕と名前を変えて反乱を引き継ぎます。更に後の188年には黄巾を名乗る反乱が再び勃発し、黒山賊とも連携してしまいます。 185年に時間を戻しましょう。…
三国志 霊帝暗殺計画 暗愚な霊帝を除こうと暗殺計画が巡らされ、曹操らも声をかけられる
同じく『典略』によれば、黄巾の乱が鎮圧されると、まもなく張脩も滅んだとされるので、黄巾賊と五斗米道は各個撃破されたことになります。ただ、五斗米道は滅ぼされたわけではなく、後にまた歴史に顔を出すようになります。 さて、時期ははっきりしませんが、黄巾の乱鎮圧後しばらくして、冀州刺史の王芬や南陽の許攸らが霊帝を廃して合肥侯(史書は合肥侯と記すのみで、それが何者なのかははっきりしません)を立てよう…
三国志 五斗米道 黄巾の乱と同じ184年、西方では同じ道教系の宗教団体である五斗米道が反乱を起こしていた
それにしても、なぜ劉備は監査役に暴行を加えた挙げ句に職を捨てて逃亡したのでしょうか。盧植のように賄賂を要求されたのでしょうか?もしそうなら、督郵が面会に応じないのには矛盾があるように思います。ではなぜなのでしょうか。私は、劉備は働きが悪かったため、実力通りに悪い査定を付けられることを防ぐためにこっそり面会しようとして拒否されたのではないかと思います。劉備は勉強はサボっていましたし、県の尉となっ…
三国志 劉備下野 黄巾の乱または張純の乱で功績を挙げた劉備は県の尉となるが、ほどなくして督郵に暴行を加えて逐電する
話を劉備に戻しますと、黄巾の乱後に県の尉に取り立てられたということを考えれば、小部隊を率いて局地戦で活躍を見せた、という程度でしょうか。 『正史 三国志〈5〉蜀書 (ちくま学芸文庫) - 陳 寿, 裴 松之, 井波 律子』の先主伝では『典略』を引き、劉備が召されたのは張純が反乱を…
三国志 黄巾の乱前の「3兄弟」 黄巾の乱前の物語はほぼ全て創作だが、宦官の悪政や董卓の性格に触れている点で物語としては素晴らしい
張飛は字を益徳(演義は版によっては翼徳としますが、実際は益徳が正しいようです)といい、劉備と同じく涿郡出身です。関羽よりも数歳年下だったため、関羽を兄として仕えており、関羽と共に劉備に従うようになっていました。 三国志演義ですと、劉備と張飛が遭遇し、その縁で関羽と張飛が劉備の元にやってくることになるのですが、その筋書きは怪しいようです。 演義と正史の違いについて、少々次代を遡って見て…
三国志 関羽 読書を好まずドッグレースや音楽、服飾に関心を寄せた劉備の学生時代と、その頃から劉備に従った関羽について
もっとも、劉備は「読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた」とあります。犬というのは犬を愛でることではなく、ドッグレースのことですから、今風に言えば賭け事と音楽に熱中していたということで、勉強せずに遊び呆けていたことになりますね。 一方で、口数は少なく、よく人にへりくだり、喜怒を顔に出さず、好んで豪傑と親しんだため、多くのものが劉備に近づきました。中…
三国志 劉備 父を早くに亡くし、わらじを売ったりむしろを編んだことが史書に残る劉備の幼少時代 叔父の資金で同郷の盧植に学ぶ
まあ、中山靖王の劉勝といえば女色に耽ったことで有名で、子は50人を超えたという人物ですから、またなんとも都合の良い人物を先祖に設定したものだ、との見方も可能でしょう。これを劉備の欺瞞と見るか、何の後ろ盾も無い人物が窮余の策として権威付けに使ったとするかは意見が分かれるかもしれません。 劉備の祖父の劉雄は孝廉に推挙されて県令になったとのことですが、父の劉弘は早くに亡くなったため、劉備は母ととも…
三国志 反乱鎮圧の論功行賞 トップの皇甫嵩は左車騎将軍に任じられたのを始め、朱儁、曹操、孫堅らが功績に報いられる
しかし、皇甫嵩は自分が凡才であることを理由に閻忠の進言を退け、漢の忠臣として生きる立場を明確にしました。皇甫嵩の決意がどのような未来を彼にもたらすのかは、また後に見ることになるでしょう。 さて、黄巾の乱鎮圧の功績に報いられたのは2人だけではありません。 まずは孫堅を紹介しましょう。朱儁のもとで孫堅は獅子奮迅の働きを見せます。汝南から潁川にかけての賊が宛に逃げ込むと、孫堅は自ら城の一方の…
三国志 黄巾の乱の鎮圧 皇甫嵩らが広宗を囲む間に張角は病死、張宝が戦死、広宗は陥落し、反乱は終結する
皇甫嵩が広宗を囲んでいる間に、もともと病で体調を崩していた張角は病死しました。彼の神通力は自分には何の効果もなかったようです。反乱は、張角の弟で、地公将軍を自称した張宝が反乱を引き継ぎます。 しかし、皇甫嵩の猛攻により人公将軍を称した張梁は戦死し、10月には広宗が陥落して地公将軍の張宝も戦死しました。勝利した官軍は張角の墓を暴き、死体の頭を断ち、首を洛陽に送りました。こうして、黄巾の乱は幕を…
三国志 黄巾賊への反撃 皇甫嵩は曹操の援軍を得ると、各地で黄巾賊を破る
当時、こうした目利きによる人材評価は人材登用に絶大な影響を持っており、月旦評で称賛されたら出世は間違いないと言われるほどでした。 曹操は許劭から半ば無理やり「君は治世の能臣、乱世の姦雄だ」(三国志の注はそう記しますが、後漢書には「清平の姦賊、乱世の英雄」と記されます)との評価をもらい、哄笑したそうです。 評価の内容もさることながら、許劭に評価されたことはそれ自身が価値を持ちます。『
三国志 橋玄と曹操 出ては将、入りては相という文武両道のお手本のような橋玄の存在と曹操 許劭が許靖と共に行っていた人物評の月旦評
周景は橋玄の行動を良しとし、橋玄を望み通りに陳の従事とします。橋玄は勇躍陳に向かうと、羊昌の賓客をことごとく逮捕して厳しく取り調べ、遂に羊昌を収監して洛陽へ送りました。この間、梁冀は親交のある羊昌を守ろうと橋玄を召喚しようとしてましたが、橋玄は梁冀の意向を無視して見せたのです。 後に孝廉に挙げられ、上谷太守や漢陽太守を歴任しています。漢陽太守時代には上?県令の皇甫禎を収賄の罪で髪剃りと鞭打…
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