2020年11月
三国志 劉虞の死3 公孫瓚は劉虞の軍を火攻めによって追いつめ劉虞を捕える 公孫瓚は劉虞を斬り、部下もまた公孫瓚を罵倒して処刑される
逆に、公孫瓚は精鋭数百人を選別すると、風に乗じて火を放ち、劉虞軍を攻撃しました。劉虞は大いに破れ、北の居庸へ逃げこみます。公孫?は劉虞を囲むと、わずか3日で城を落としたのです。公孫瓚は劉虞と妻子を捕え、薊に戻り、なお州の文書を扱わせました。 ところが、朝廷は段訓を使者にして劉虞の封邑を増して6州を監督させ、公孫瓚を前将軍に任じて幽州、并州、青州、冀州を監督させようとしました。これでは、公孫…
三国志 劉虞の死2 劉虞は遂に公孫瓚攻撃を命じるが、公孫瓚以外は傷つけるなとの無茶な命令により、不意を衝かれた公孫瓚すら攻略できない
劉虞は公孫瓚を除こうと考えて魏攸に諮ります。しかし、魏攸は「今、天下は首を伸ばし、公に期待を懸けております。謀臣や将軍が必要で、公孫瓚は文武の才は頼むに足ります。彼に小さな問題はありますが、どうか赦して我慢なさいますよう」と答えたため、劉虞は攻撃を取りやめましたが、問題は解決していないのですから、時が流れるにつれて緊張は高まっていくばかりでした。 遂に、劉虞は10万の兵を率いて公孫?を攻撃…
三国志 劉虞の死1 公孫瓚と劉虞の対立は深まり、両者は何度も朝廷に互いを非難する上奏を行う
しかし、同じ時期に李?が太尉周忠と尚書賈詡の策により朱儁を入朝させようとします。もちろん、賈詡の策とは東方諸侯の切り崩しのことです。 朱儁の部下はみな、函谷関に入らずに陶謙らに応じるよう説得しましたが、朱儁は「天子の詔で臣を召したのだから、従わないわけにはいかない。かつ、李?や郭��は小童、樊稠はぼんくらに過ぎず、他に深慮遠謀があるわけでもない。彼らの戦力は同じ程度で、必ずや変事が起こる。…
三国志 劉備、徐州へ 陶謙は公孫瓚配下で斉に駐屯していた田楷に助けを求める 田楷は劉備と共に徐州に向かう
この時の大虐殺は曹操の生涯最大の汚点となり、少なからぬ名士が徐州での蛮行を理由に曹操に失望します。例えば、?州の名士の辺譲は曹操を批判しています。曹操は失策を分かっていたのか、あるいは批判されたことを不快に思ったのか、辺譲を殺してしまいました。 曹操は攻撃を続けたかったのかもしれませんが、兵糧が切れたために撤退します。 陶謙は、公孫瓚配下で袁紹や曹操に圧力をかけるために斉に駐屯していた田楷…
三国志 徐州侵攻 曹嵩の死についての異説 曹操は後事を信頼する張邈に託し、徐州に侵攻する
曹嵩は息子からの迎えだと思って彼らを迎えたところ、陶謙の兵はまず曹操の弟の曹徳を殺害してしまいます。曹嵩は恐れ、裏の土塀に穴を開けると、まず妾を外に出そうとしました。レディーファーストはお見事と思いますが、しかし、これは裏目に出ます。妾は太っていたため、抜け出すことができなかったのです。曹嵩は脱出を諦めて便所に逃げ込みましたが、そこで妾と一緒に殺されました。顛末を知った応劭は曹操に殺されること…
三国志 笮融 陶謙が用いた狂気の仏教徒、笮融について 笮融は殺人、略奪を好き勝手にし、集めたカネで巨大な寺院を建立した
陶謙の性格が現れているのではないかと思われるのが、彼が用いた笮融という人物の為人です。 笮融は丹陽出身で、この時代にはまだ少数派だった仏教徒だったことで知られています。彼は数百人を集めて長江を北に渡り、陶謙に身を寄せ、広陵や彭城の物資運送を任せられると、人を殺したり貢納品を自分のものとしたりするなど、好き勝手なことを行います。 どこが仏教徒かと疑問に思ってしまうような行動ですが、彼は…
2020年11月
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