三国志 陶謙2 『呉書』などから見えてくる陶謙の姿 張温相手にも揉め、左遷されてもまだ盾突く強情な人物
それによれば、陶謙は剛直で節義があったため、若くして孝廉に選ばれ、尚書令にとりたてられ、舒県の令に任命される。上司は父の友人で、陶謙と親しく付き合おうとしたのですが、陶謙は付き合いを拒否し、仲は険悪なものとなりました。 清廉な一方で犯罪を追求しようとはしなかったそうですので、この点は陳寿の本文と一致するところですね。羌族が侵入すると、討伐を命じられた皇甫嵩の要請に従って西方へ赴き、羌族を散…
三国志 陶謙1 三国志演義とは異なり、野心に満ちた梟雄としての顔も持つ陶謙という人物について
袁術にとって幸いなことに、曹操には袁術に関わってなどいられないようになります。すなわち、曹操の父で、かつて3公も務めた曹嵩が、陶謙の部下に殺害されたのです。 先に陶謙が袁術の求めに応じて劉備らと共に曹操を囲んだことから分かる通り、陶謙は袁術勢力に与していました。この1件について掘り下げる前に、まずは陶謙という人物について眺めておきましょう。 陶謙は字を恭祖といい、丹陽出身の人物です。若…
三国志 曹操の兗州入り4 召し出された毛玠、曹操に献帝擁立を説く
召し出された毛玠は、「現在、天下は分裂崩壊し、天子は都を離れて転々とされ、民は基金にあって流離しております。上には蓄えもなく、人民は気持ちが落ち着きません。この乱世にあって、袁紹や劉表は多くの士大夫や民を抱えて強力であるとはいいますが、いずれも将来を見通す思慮に欠け、国の基礎を固めることもしておりません。戦争は道義のある方が勝つものです。よろしく天子を奉戴し、天下に号令を発し、農耕を保護して…
三国志 曹操の兗州入り3 鮑信は戦死、曹操自身も重症を負うも、曹操軍は黄巾賊の残党を破って降伏させ、兗州と青州兵を手に入れる
戦いの最中、曹操は歩兵・騎兵合わせて1000程度しか連れずに巡視している際、不意に敵の陣営に遭遇します。黄巾賊は衆を頼みに攻撃をしかけ、寡兵だった曹操は数百人を失って引き返します。 長く続いた反乱ですから、黄巾賊には何年間も戦い続けた猛者が多数属していました。一方、曹操の軍には招集されたばかりで訓練も足りていなかったので、恐慌をきたします。 曹操は武装した格好で巡察し、明確な賞罰をもうけて…
三国志 曹操の兗州入り1 兗州の劉岱、黄巾賊の残党を討伐しようとするが逆に戦死、陳宮は曹操に主を失った兗州へ入ることを進言する
ただ、太史慈は孔融の下に留まることはなく、一度帰宅して母から労いを受けた後、同郷の劉繇のもとに赴きます。その顛末はまた少し後で見ることとしましょう。 太史慈の活躍と同時期に、無視し得ない大きな出来事も発生しています。 李傕と郭��が長安に入って、王允が殺され、呂布が東方に逃げたのと同じ頃、青州の黄巾賊の大軍が?州に侵入し、任城国の相の鄭遂を殺し、更に東平に侵入します。この黄巾賊はかつて…
三国志 孔融の危機3 太史慈は黄巾賊の包囲を脱して劉備に助けを求め、劉備が3000の援軍を送ったことで包囲は解かれる
賊が太史慈のたちのところに押し寄せようとすると、太史慈たちは城壁の周りに巡らされた壕に入ります。そして、部下の持ってきた的を立てると、壕を出てそれを射て、それが終わると城内に引き上げました。次の日も同じことを繰り返します。賊の一部は前日と同じように太史慈を攻撃しようとしましたが、多くの賊は動きませんでした。太史慈は同じことを繰り返し、城内に引き返します。 3日め、太史慈が城を出ても、賊は誰…
三国志 孔融の危機2 孔融は太史慈が遼東に逃亡していた際にその母の面倒を見ていたことから、太史慈は孔融のもとへ駆けつけた
そこで、太史慈は「もし貴方が文書を手渡すようなことがなければ私が破ることはできなかった。2人はともに過失があったのだから、このまま黙って逃げよう。さすれば、死ぬべき命も永らえることができよう」と言い、結局、2人で逃亡することにしました。そして、州の役人と共に洛陽をでると、太史慈は密かに1人で引き返して郡の文書を提出したのでした。この1件で太史慈の名は上がりましたが、州からは恨まれることになったため…
三国志 孔融の危機1 北海の孔融、黄巾賊討伐に向かうも、賊軍に包囲されてしまう 同郷の太史慈が救援に向かう
同じ頃、袁術の求めに応じて、高唐に田楷を、平原に単経を、発干に陶謙を駐屯させたのですが、すべて袁紹の命令を受けた曹操に破られたとあります。公孫瓚は劉備を別部司馬に任命して、劉備に趙雲を随行させて青州方面の田楷の援軍に赴かせています。 先に、公孫瓚は有能な人物を取り立てず、凡庸な人物ばかりを重用したことを記しましたね。なぜ盧植のもとで学ぶ期間、博打や遊びにうつつを抜かしていた劉備がこのよう…
三国志 易京の戦い2 麴義は公孫瓚の騎兵隊を排除すると、公孫瓚の本隊をも打ち破る 油断した袁紹の思わぬピンチ
公孫瓚は麴義の軍が少数であることを見ると、ただちに騎兵を動かして粉砕しようとします。麴義の塀は楯の下に伏せて動かず、敵が数十歩の距離に迫ったところで一斉に立ち上がって前進し、正面から受けるのと同時に、大量の弩が放たれます。至近距離からの攻撃に、矢に当たった者は次々と打ち倒されました。 麴義は騎兵を排除すると、敵陣に向かい、公孫瓚の任命した冀州刺史の厳綱を斬り公孫瓚の本陣を落とします。…
三国志 易京の戦い1 勢力を伸ばし、袁紹を包囲しようとした公孫瓚に対し、袁紹は鉅鹿の動揺を押さえて直接対決に撃って出る
こうした考えもあり、公孫瓚が取り立てるのは凡庸な者が多かったとあります。中でも、元占い師の劉緯台、絹商人の李移子、商人の楽何当とは義兄弟の契りを結び、公孫瓚が長兄で「伯」、3人が「仲」、「叔」、「季」と呼んでしました。あるいは、これが劉備、関羽、張飛が義兄弟を名乗ったという三国志演義のベースとなっているのでしょうか。 全体的に、公孫?が袁術派に与していることが見て取れる上奏ですね。興味深い…
三国志 袁紹が非難されるべき10の理由 公孫瓚は10の理由を挙げて袁紹を避難するが、自身は有能な人士は陥れて昇進させないようにしていた
1.何進に仕えた際、媚びへつらうばかりで正しい人物を推挙せず、丁原に孟津を焼き払わせて董卓を招き寄せ、戦乱のおおもとを作ったこと 2.董卓が洛陽に入って皇帝を人質にしたのに袁紹は皇帝を救うこともせず、割符を放置して逃げ出し、爵位任命の誓約に背いて皇帝の期待を裏切り忠節を尽くさなかったこと 3.袁紹は渤海太守となると、密かに戦馬を集め、董卓を攻撃する際に親族に連絡しなかったため太傅袁隗と太僕袁…
三国志 李傕郭汜政権樹立 張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李傕、郭汜、樊稠が長安に残る 東方では公孫瓚と袁紹の争いが激化
9月、李傕が車騎将軍、郭��が後将軍、樊稠が右将軍、張済が鎮東将軍となります。もちろん、皇帝が望んだのではなく、彼らが自ら名乗ったわけですが、それをはねのける力は既に失われていました。漢帝国は董卓の頃から完全に有名無実化しており、その状況は王允政権で覆される可能性があったのですが、李傕・郭��政権の樹立に伴い、その可能性は潰えたことになります。 彼らのうち、張済は東方に備えて弘農に駐屯し、李…
三国志 王允政権崩壊 長安に入った李傕らは王允を一族もろとも殺す 裴松之は賈詡の判断を非難
李傕らは「董卓は陛下に忠誠でありましたのに、故もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀反を起こしたのではございません。事が終わりましたら廷尉のもとへ出頭し、処罰を受ける所存です」と答えます。王允は進退窮まり、李傕らのもとに赴いたところを殺され、その妻子一族10人余りもまた、同様に殺害されました。 王允政権は2ヶ月も経たずに崩壊したことになります。 裴松之は長安が失…
三国志 長安防衛戦 王允は李傕と交渉を図るも失敗、呂布は郭汜と一騎打ちをするなど奮闘するも衆寡敵せず敗北する
董卓伝に引く『九州春秋』によれば、王允はけかねてより不仲だった涼州の名門出身の胡文才と楊整脩を呼びつけ、「関東のネズミは何をするつもりなのか。お前達、呼んでこい」といって、李傕たちとの仲を取り持たせようとします。もしこの記事が本当だとすれば、王允の思い上がりも甚だしいと言わざるを得ません。案の定、彼らは李傕たちと合流して長安に向かってきたのでした。 呂布は長安城の北に郭��の姿を認めると、…
三国志 賈詡の智謀 李傕らは軍を解散して故郷に帰ろうとするが、賈詡は軍を集めて長安へ進撃することを主張する
賈詡は孝廉に挙げられて郎になったのですが、病気となって官を退き、故郷に帰ろうとします。ところが、その帰途において?族の反乱に出くわし、その帰途において氐族の反乱に出くわし、同行の数十人と共に捕えられてしまいます。賈詡は「私は段熲の外孫である。私を殺したら、他の者とは別に埋めるように。さすれば、家の者が十分に礼をして引き取るだろう」と伝えます。 段熲といえば、涼州3明の1人で、異民族相手に…
三国志 牛輔の死 牛輔の軍は鎮圧に赴いた李粛こそ敗走させたものの、朝敵となったことに動揺が走り、牛輔は逃亡中に殺害される
牛輔は董卓が長安に都を移す際に、東方への備えとして陝に残されていましたね。そして、その配下の李傕や郭��たちは中牟の朱儁を攻撃し、打ち破っていたのでした。李傕らはまだ牛輔のもとに戻っていなかったので、誕生したてでまだ力のない王允政権にとっては絶好の機会ではありました。 王允と共に新政権に参加した呂布は李粛を陝に派遣し、勅命によって牛輔を捕え、処刑しようとします。当然、勅命だから死ねと言われ…
三国志 蔡邕の粛清 蔡邕は董卓の死を告げられて声を上げて嘆いたことから王允に処刑される 次いで、王允は董卓の女婿の牛輔排除を図る
処刑された文官の中で最も高位にあったのは、蔡邕です。射承の『後漢書』によりますと、董卓が誅殺された際、王允の席に列していた蔡邕は、暗殺成功の報告を聞いて嘆き、声を上げます。王允はこれを聞き咎め、「董卓は国家の大逆臣、主君を殺し臣下を虐殺した。だから天地もこれを助けず、神も人も共に憎む者である。君は朝臣として代々漢の恩義を受けながら、主君が危難に遭ったときにも董卓を討伐しようとせず、むしろ董卓…
三国志 王允政権成立 西方出身の兵士たちは新たに軍のトップとなった呂布を恨み、王允は董卓派を粛清することで恨みを買う
董卓について、陳寿は「董卓は心ねじけ残忍で、暴虐非道であった。記録に遺されているかぎり、おそらくはこれほどの人間はいないであろう」と評しています。また、裴松之は「董卓の場合、政権を盗みとってから、失墜して死ぬまでの歳月を計算すると、わずか3年にもみたない。にもかかわらず、その禍は山よりも高く、害毒は四海の内に流れた。彼の残忍きわまりない性格は、実際山犬よりはなはだしい」(『三国志1…
三国志 暗殺その後 皇甫嵩はただちに郿を攻撃、董卓の弟の董旻や90歳になる母親を含め、一族は滅ぼされる
西施は春秋時代に越王勾践が呉王夫差に贈ったと言われ、夫差の死後は句践の謀将范蠡と行動を共にしたとされる(またはその美貌が新たな災厄を生むかもしれないと恐れられて川に沈められたともされる)伝説の美女、楊貴妃は唐の玄宗皇帝が寵愛した女性なのでこの2名が名だたる美女ということは間違いないでしょう。しかし、王昭君は後宮に入れられながら皇帝に幸せられることはなく、匈奴へ贈られたという経歴から、悲劇の主人…
三国志 董卓暗殺3 董卓は呂布を罵りながら斬られる 三国志演義における貂蝉のその後について
董卓は驚き、「呂布はどこだ」と叫びました。そこへ呂布が現れると、懐から詔を取り出し、「天子の命令により、逆臣を討つ」宣言しました。董卓は「イヌめ、どうしてこんなことを!」と罵りますが、呂布は答えず、董卓を戟で刺して車から転落させました。 呂布はすかさず周囲の兵士に命じて董卓を斬らせ、こうして暗殺計画は成就したのでした。 董卓は肥満していたため、その遺…
三国志 董卓暗殺2 董卓派参内を中止しようとするが、呂布に促されたため、鎧を服の内側に身につけて参内する そこに、李粛が立ち塞がる
童謡が社会批判・体制批判の武器として定着したのは漢代、正確には前漢末から後漢にかけての時期である。思想史的には、「童謡」は董仲舒(前179〜104)の災異説(天は自然災害や異変を下して統治者を監視するという考え方)を取りこんで飛躍的に広まった。童謡が児童に仮託して政治・社会への不平不満をうたいこむとき、だれが作ったか特定できないことこそが重要であった。それゆえ、「謡」に冠した童・民・百姓…
三国志 董卓暗殺1 192年4月23日、献帝が病から癒えたことを祝い、群臣が宮殿に集められる 董卓の周りでは次々と不吉なことが起こる
192年4月23日、病に臥せっていた献帝が快復したことから、臣下が未央殿に集まります。呂布は同郡出身の李粛らに命じて10名ほどの兵士を率い、全員に衛士の服を着せて掖門(大門の左右にある小さな門)を固めさせました。 董卓の周囲では不吉なことが次々と起こります。 この日、宮殿に向かう董卓は「千里の草なんぞ青々たる、十日卜するも、なお生ぜず」と子供たちが歌うところに出くわします。千里の草は重ねて書く…
三国志 朱儁の敗退 朱儁は董卓が長安に遷都すると、荊州に逃げて勢力を整え、中牟に進出するも、李傕らに敗れて撤退する
孫賁は字を伯陽といい、若いうちに両親を亡くして弟の孫輔を養い育て、郡の督郵となっています。そして孫堅が長沙で挙兵すると、役人を辞めて孫堅の配下となって従っていました。その経歴をみても、とても孫堅のような統率が取れたとは思えません。集団は求心力を失い、孫堅の部下だった桓階は曹操に鞍替えしていますが、それでも程普や朱治らは孫一族への忠誠を貫き、孫一族が三国時代の一角を担う存在へと飛躍する助けになっ…
三国志 孫堅横死 袁術と対立した荊州の劉表を攻撃した孫堅は襄陽を囲むが、寡兵で黄祖を追う中で狙撃され、戦死する
袁術は奢侈に溺れるのと並行して、勢力拡大のための軍事行動も起こしていました。その駒として使われたのが、孫堅です。 孫堅が反董卓連合軍に参加する際に、南陽太守と並んで殺害したもう1人の人物が荊州刺史の王叡でしたね。後任の荊州刺史となったのは、皇族でもあり、名士としても知られていた劉表です。南陽で勢力を拡大する袁術とこの劉表との関係は悪化し、劉表は袁紹と結んで袁術とは対決することになったのです…
三国志 王允2 硬骨漢の王允、上司に疎まれて殺されそうになるが救い出され、出世を重ねて皇帝からも董卓からも信頼される
劉瓆は獄中で命を落とし、王允は葬列を送って平原に至り、3年間墓を守って暮らします。その後に帰宅し、再び出仕します。その頃、太守の王球が路仏という、名声もなければ品行もない人物を役人としていました。王允は相手が嫌な顔をしても気にせずに固く諌めたため、王球は王允を捕えて殺そうとします。刺史の�ケ盛がこれを聞いて急使を派遣し、王允を救って別駕従事としました。このことから王允は名声を得、後に豫州刺史とな…
三国志 王允1 司徒の王允、董卓暗殺を計画する 三国志演義に見られる貂蝉は架空の人物だが、史書にも女性を巡るトラブルが記録される
ただ、呂布が董卓を殺したいと願うには、別の理由もあったようです。後漢書呂布伝には、呂布が密かに董卓の下女と情を通じていたため、露見したら大変なことになると恐れていたようなのです。 三国志演義で董卓と呂布の間を割く貂蝉は、この下女を元に作られた人物でしょう。残念ながら後漢書呂布伝に、下女の名前は記されておりません。 しかしながら、貂蝉がこの下女の名前であったとは少し考えにくいように思いま…
三国志 張温殺害 董卓は太史から「大臣の中に誅殺すべきものがいる」と言われると、張温を殺害する 過酷な刑罰に長安の人々は怯え慄く
董卓はこうした経緯もあって張温を嫌っていました。そのような中で、太史が気を読んで「大臣の中に誅殺すべきものがいる」と告げます。どう考えても斬られるべきは董卓ですが、董卓はこれを利用して、「衛尉の張温は袁術と密かに通じている」と難癖を付け、張温を市で死ぬまで鞭打たせたのでした。 孫堅は反董卓連合軍に参加する際、胸を叩いて嘆息し、「張公があの時私の言葉に従っておられれば朝廷はいまこのような災難…
三国志 董卓暗殺計画 議郎の鄭泰、荀攸や何顒らが中心となり、董卓暗殺計画が立てられる 荀攸について
この頃、黒山賊の于毒(うどく)、白繞(はくじょう)、眭固(すいこ)らが魏郡を攻撃します。東郡太守の王肱は守り切ることができませんでした。そこへ、曹操が軍を率いてやってきます。 曹操は濮陽において白繞の軍を打ち破ったので、袁紹は曹操を東郡太守とするよう上奏し、これが認められました。 董卓は見てきたとおり、咎のない少帝劉辯を廃位して殺してしまったり、貨幣の改悪で経済を破壊したり、好き勝手…
三国志 ハイパーインフレ 董卓が従来の銅貨を鋳潰して粗悪な硬貨を発行したため、貨幣価値は暴落し、民間ではほぼ貨幣が使われなくなる
同月、董卓は5銖銭を毀ち、小銭を鋳します。5銖銭とともに銅人を鋳潰して、従来よりも小さな小銭を大量に作りました。董卓小銭と呼ばれるこの貨幣について、『貨幣の中国古代史 (朝日選書) - 山田 勝芳』はこう記します。 この小銭は、通常の鋳銭で使われる正・裏の2つからな…
三国志 袁紹の冀州領有3 従事の沮授は袁紹に冀州、青州、幽州、并州の領有と天子奉戴した上、洛陽で天下に号令すれば天下を取れると進言
袁紹に、従事の沮授が進言します。 「将軍は弱冠20歳で出仕され、名声を天下に響き渡らせ、廃立の時期に遭遇されては、忠義心を奮いたたされ、単騎出奔されては董卓を恐れさせ、黄河を渡って北に向かえば渤海郡が頭を下げて服従しました。渤海の士卒に加え、冀州の大軍を押さえ、その威光は黄河より北の地を震撼させています。青州を本拠地とする黄巾賊だろうと、黒山の賊がのさばろうとも、軍をさしむければ平定すること…
「ブログリーダー」を活用して、仲井 智史さんをフォローしませんか?