三国志 袁紹の冀州領有2 弱気の韓馥に、部下は袁紹は窮しているので戦うべきだと説くが、韓馥は降伏を決める
荀�ェは公孫瓚と袁紹の双方から攻撃を受ける可能性があることを指摘し、公孫?と争うよりは同盟者である袁紹に譲渡するのが良いと説得しました。元来臆病な韓馥はその言葉を是とし、袁紹に下ろうとします。 韓馥の長史の耿武、別駕の閔純、治中の李歴らは韓馥を諌め、「冀州は田舎とは言え武装した兵士は100万を数え、10年分の穀物を蓄えております。片や袁紹は孤立無援で本拠地を持たず、軍勢は困窮状態にあります。いわ…
三国志 袁紹の冀州領有1 韓馥が公孫瓚、劉岱らから地位を狙われる中、袁紹陣営は公孫瓚をネタに韓馥を脅すことで冀州を奪取を図る
董卓は「袁家の2人の子を殺せば天下は取れる」と嘯いていました。それほど彼らの地位と名声は他者を圧倒していたのです。 君主は、広大な領域を支配するためには、豪族の支持により地域の支配を安定化させ得る名士の協力が必要であった。さらに名士は、自分たちの人的ネットワークだけで情報を握り、状況を分析することができた。(『三国志 演義から正史、そして史実へ』) 基本的には先述…
三国志 瓦解 反董卓連合軍の解散を命じる使者の胡母班、義兄の王匡に処刑される 反董卓連合軍は完全に瓦解した
胡母班は王匡の妹婿に当たるため、董卓は詔書を与えて袁紹たちに軍を解散するように命じたのでした。しかし、袁紹は王匡へ胡母班たちを捕えて処刑するように命じます。 獄に下された胡母班は義兄の王匡へ、「古より、地方で挙兵して中央に上った諸侯はおりません。器物の間にネズミが現れたとしても、器物の破損を恐れて何かを投げつけることはしないでしょう。まして、董卓は宮殿にあって天子を衝立としてその影にいるの…
三国志 反董卓連合軍の内紛 袁紹と袁術は勝手に部下を刺史に任命、袁紹の命じた豫州刺史の周昂と袁術の命じた豫州刺史の孫堅が争う
この一件で、元から仲の悪かった公孫瓚と劉虞の仲は険悪なものとなりました。 劉和は袁術の監視下を脱して父のもとへ戻ろうとしましたが、今度は袁紹に引き止められてしまい、戻ることができませんでした。後を考えると、この仕打ちは劉和にとっては幸運なものだったと言えそうです。 その間にも、反董卓連合軍は瓦解に向けてひた走ります。既に、反董卓連合軍の内部で勢力争いが始まっていたのです。 前述の…
三国志 忠臣劉虞 劉虞は自分を擁立しようとやってきた使者を斬り、献帝のもとに田疇を派遣して臣従を誓う 献帝は劉和を派遣する
韓馥は改めて劉虞に自分を尚書を兼ねるよう命じ、封侯して欲しいと頼みますが、劉虞は今回もまた天子にしか行うことのできない職務を摂ることを拒否します。そして、遂に使者を斬り、長安の献帝のもとに臣従を誓う使者を送ることとしました。 この重要な役割を担う者を誰にするか劉虞は悩みます。その劉虞に、周囲の人々はこぞって田疇(でんちゅう)を推薦します。 田疇は字を子泰または子春といい幽州出身です。読…
三国志 東西対立の背景 もともと東方と西方では人材の質が異なり、董卓体制でそれが顕著になった 袁紹は皇族の劉虞擁立を図るようになる
もともと、中国では「関西は将を出し、関東は相を出す」と言われてきました。この状況は西に基盤をもつ董卓が西方を、幾世にも渡って3公を輩出した袁紹や袁術、潁川の知識人グループに連なる曹操らが東方に分かれて睨み合ったのはまさにこの構図であり、西方で異民族相手に戦いを繰り広げてきた董卓軍に反董卓連合軍が及び腰だったことは不思議ではないのでしょう。 『
三国志 荀爽の死 不本意ながらも董卓政権を支えることになっていた荀爽が死去 李膺とも面会した清流派の名士
5月、荀爽が世を去ります。 荀爽は潁川郡の名族荀家の中でも優秀さで知られていました。8人兄弟で、兄弟は皆優秀だったことから、「8龍」と呼ばれており、その中でもとりわけ荀爽が優秀と評価されました。党錮の禁の際、党人の中心にいた李膺とも面会し、馭者を任されたたことがあります。荀爽は家に帰って「李先生の馭者を務めたぞ」と自慢したそうなので、どれほど李膺の名声が高かったかが伺い知れます。 この経…
三国志 徐栄に大敗 曹操らは徐栄の軍と戦いとなるが、衛茲や鮑信の弟の鮑韜が戦死し、曹操もウマを失う大敗を喫する
勇躍、徐栄のを攻撃した曹操たちでしたが、たちまち董卓軍に粉砕されます。 張邈の部下で5000の兵を率いて曹操と行動を共にしていた衛茲や鮑信の弟の鮑韜が戦死し、曹操自身も矢傷を負ってウマを失うという絶体絶命の危機に陥りました。それを見た従弟の曹洪は「天下に私がいなくても構いませんが、あなたがいないわけには参りません」といってウマを譲り、徒歩で曹操を守って逃げるほどでした。 曹操たちは卞水の…
三国志 太傅袁隗の後任 董卓は長安に残っていた袁紹・袁術の一族を滅ぼし、太傅袁隗の後任に劉虞を据えようとする
董卓は袁隗の後任の太傅に皇族の劉虞を任命しようとします。これより前、董卓が政治をとるようになると、劉虞は使者を送って劉虞を大司馬とし、襄賁侯としていました。ところが、今回は道が塞がり、勅使は劉虞のもとへ行き着くことができませんでした。 幽州は辺境の地で、税収も少なく、青州や冀州からの税収の数億銭も幽州から援助を受けていました。ところが道が塞がってしまったことで幽州は資金不足に陥ります。それ…
三国志 伝国の玉璽 孫堅が見つけたとされる伝国の玉璽と、忠臣ではなく野心に溢れた顔も持つ孫堅にちて
玉璽は「形は上が円く下が四角で4寸の大きさ、上の紐をかける所には5匹の龍がわだかまっていて、そのうち1つは角が欠けていた」(『三国志6』)そうです。角が欠けているのは、王莽が前漢を簒奪した際、玉璽の引き渡しを要求された伯母の王政君が激怒して玉璽を投げつけたために生じたとされているものです。玉璽は後漢に受け継がれていましたが、何進が殺された直後に袁術らが宮中に入り宦官を攻撃した際に、少帝の側…
三国志 孫堅上洛 董卓は長安遷都を強行し、洛陽を焼く 洛陽に入った孫堅は墳墓を修復、この際に伝国の玉璽を発見したとも言われる
これを受け、董卓は長安への移動を決定します。太尉の黄?と司徒の楊彪、それに司空の荀爽は董卓のもとを訪れます。彼らに対し、董卓は『石苞室讖(せきほうしつしん)』なる予言書を引いて、「漢の高祖が長安に都して11代で洛陽に移った。光武帝から現在までまた11代である。『石苞室讖』を調べた結果、再び長安に都を戻すべきである」と主張しました。楊彪は洛陽遷都の事情を語り、『石苞室讖』のような信用できない書物に従…
三国志 袁術の疑心暗鬼 洛陽に向けて快進撃を続ける孫堅を袁術は恐れるようになり、兵糧を制限する 董卓派李傕を派遣して切り崩しを狙うも拒否される
なお、潘鳳や兪渉は架空の人物で、先に見たとおり華雄を斬ったのは関羽ではなく孫堅ですから、このシーンは関羽の超人ぶりを見せつけるために華雄が噛ませ犬になっていることになるわけです。三国志演義は少なからぬところで他の者の功績を劉備たちのものとしてします。ここもその1つです。 胡軫が破れたことで、反董卓連合軍、とくに孫堅らの軍にとっては洛陽への道が開けたことになります。 ところが、思わぬ横や…
三国志 華雄 一度は敗北した孫堅、兵を集めて梁へ進出、胡軫の軍を破って華雄を斬る 三国志演義における華雄について
この時、潁川太守の李旻は生け捕りにされ、煮殺されてしまいました。また、董卓は捕虜となった士卒を布に包んで倒立させ、熱した油を注いで殺したと伝えられます。 孫堅は再び兵をまとめて梁郡の陽人に進出、董卓軍がこれを迎え撃ちます。 孫破虜討逆伝に引く『英雄記』によれば、この時の董卓軍の陣容は、陳郡太守の胡軫が大督護となり、呂布が騎督として従う他、歩兵や騎兵を率いる将兵が多くいました。 陣容…
三国志 東方情勢 董卓は長安で郿に要塞を作って財宝を蓄える 東方では洛陽守備を委ねられた朱儁が荊州へ逃亡 孫堅が董卓軍の徐栄に大敗
董卓は長安で専権を振るうのと並行して、郿に長安城と同じ高さの城壁を持つ城を築きます。そして30年分の穀物を蓄えて、何かあってもここを守って一生暮らせば良いと嘯く始末でした。 郿を訪れるために公卿以下を揃えて送別の宴を催したことがあります。この時に董卓が見世物として準備したものは、酸鼻極まるものでした。乃ち、北地郡で反乱を起こして降伏した者数百人を幔幕の中に入れると、「まずその舌を切って…
三国志 長安遷都4 皇甫嵩は独立勢力となることを勧められるが拒否 董卓は長安遷都を強行し、自ら太師となる
しかし、皇甫嵩はこの忠言に従わず、招聘に応じて董卓のもと訪れ、そこで獄に下されてしまいます。董卓は皇甫嵩を誅殺しようとしますが、董卓とかねてから親しかった皇甫嵩の息子、堅寿が長安から逃亡して洛陽へ行くと、董卓を相手に涙ながらに正義を説いたことで命は助けられます。後に長安に董卓が戻ると、御史中丞以下文武百官に拝させます。その中に皇甫嵩の姿を認めた董卓は、「義真(皇甫嵩の字)よ、参ったか」と尋ねま…
三国志 長安遷都3 董卓の一存で長安遷都が決まる 洛陽では董卓が洛陽を逃げ出すことを嘲笑する「董卓逃げた」の歌が流行り、数千人が殺される
この伍孚の本籍と字は伍瓊と同じなので、あるいは伍瓊とはこの伍孚の事で、死の状況に異聞があって、三国志が記されるまでの間に別人のこととされるようになったのかもしません。 長安遷都はこのようにして、董卓の一存のみで決定されました。なお、この頃の洛陽で以下のような董卓を嘲る童謡が流行ったと『
三国志 長安遷都2 汝南の伍孚(城門校尉の伍瓊と同一人物か?)は董卓が見送りに来た機会に刺殺を謀るも失敗し、殺される
使者が朱儁を訪れましたが、朱儁は「国家が西に移るならば、必ず天下の望みに叛き、山東は乱れる。臣は認められぬ」と言って任官を拒否しました。使者は「あなたを召して重職につけようとしても拒否するのに、長安遷都については聞かれてもいないのに反対論をぶつ。なにをしようというのか」と詰ります。朱儁は「相国の副となるのは臣の耐えうるものではない。遷都は緊急に決めなければならないことではあるまい。耐えざること…
三国志 長安遷都1 董卓にとっての長安の意味合い 董卓は朝堂で長安遷都を諮るが、朱儁は反対する
前漢が長安を、後漢が洛陽を首都にしたのはなぜだったのでしょうか。長安のある場所は関中と呼ばれる通り、山地に囲まれていて、数少ない街道には堅固な関所が設けられていましたから、守りに適しています。前漢成立時、東方には異姓の王国が林立していました。彼らはいつ反乱を起こすとも知れなかったので、守りの堅い長安が首都に適していました。 しかし、後漢はどうでしょうか。前漢の時点で異姓の王はほぼ滅んでおり…
三国志 少帝殺害 反董卓連合軍のうち、王匡がまっさきに董卓軍と戦うが、敗走する 董卓は邪魔になった廃皇帝劉辯を毒殺する
孫堅はその後、魯陽に軍を進めて袁術と会見し、孫堅に破虜将軍と豫州刺史とを兼任させました。袁術によって位を与えられたわけですから、ここに孫堅は袁術の幕下に加わったことになります。 反董卓連合軍全体の盟主となったのは、袁紹です。袁紹は先に記したとおり、何代にも渡って3公を輩出した名門中の名門出身で、霊帝直属の組織として設置された西園8校尉の実質的なトップの中軍校尉(上軍校尉は宦官で小黄門の蹇碩)…
三国志 孫堅の反董卓連合軍合流 孫堅はかねて恨んでいた荊州刺史の王叡、兵糧を渡さなかった南陽太守の張咨を斬り、袁術のもとへ赴く
せっかくの機会ですので、ここで孫堅が反董卓連合軍に参加する流れについて見ておきましょう。 孫堅が黄巾の乱鎮圧において八面六臂の活躍を見せ、西涼における韓遂らの反乱に際しては張温に従い、不遜な態度をとる董卓を斬るべきだと進言したことはすでに見てきましたね。その後、長沙において区星(おうせい)なる者が自ら将軍を名乗り、1万人あまりを集めて反乱を起こして町を攻撃していました。それに対応するため、…
三国志 反董卓連合軍の配置 反董卓連合軍は大別すると4つの軍に分けることができ、その勢力の忠臣は張邈のいた酸棗だった
三国志演義ですと孔融や公孫瓚、陶謙らも反董卓連合軍に参加したことになっていますが、実際には彼らは参加していません。公孫瓚が参加していないということは、演義において公孫瓚と行動を共にしていた劉備たちも参加していません。 また、これより後に張楊も加わります。張楊は并州に募兵に赴き、その後は同地に留まって賊を討伐したとのことですので、白波賊と戦っていたのかもしれません。その張楊は、匈奴単于の…
三国志 反董卓連合軍の面子 孔伷、劉岱、王匡、橋瑁、袁遺、鮑信らは、まだ平和な時代に高く評価され、出世した人びとだった
孔伷は字を公緒といい、陳留出身で清談高論が得意で息を吹きかければ枯れ木に花を咲かせ生木を枯死させることができると評された人物です。 劉岱は劉繇の兄に当たる人物で字を公山といい、侍中や兗州刺史を歴任しています。父母に対して孝行で、兄弟仲がよく、他人に対しても思いやり深くて人の意見を聞き入れたそうです。 王匡は字を公節といい、泰山の人です。罪過を軽んじ、施しが好きで、任侠をもって知られ…
三国志 酸棗軍団の蹶起 酸棗の集団では臧洪が盟主となり、董卓を討つことを誓う 一部参加者は積極的ではなく、失敗の萌芽が見える
劉岱らは壇を築いて誓約を行おうとしますが、互いに譲り合って盟主が決まりません。最終的に、彼らはみな臧洪を推薦したため、臧洪は血を啜って「漢の王室は不幸に見舞われ、賊臣董卓が悪行を行い、天子に危害を加えて人民を虐待しており、国家が破滅し天下が転覆しそうになっております。兗州刺史の劉岱、豫州刺史の孔伷、陳留太守の張邈、東郡太守橋瑁、広陵太守張超らは正義の兵を糾合し、困難に立ち向かおうとしている…
三国志 反董卓連合軍 張邈や臧洪、曹操らが集まって、連合して董卓を討とうとする
張邈は字を孟卓といい、若い頃から男伊達で知られていました。困っている者を救い、助けるためには家財を傾けても惜しまなかったので、多くの人びとが張邈を慕いました。党錮の禁の際に、宦官に迫害された知識人たちが互いの序列を付けた際、張邈は八廚にとして名前が挙げられています。党錮の禁が解除されると3公の府に召し出され、成績優秀だったことから陳留太守に栄転していました。 その人脈の中に、袁紹と曹操が…
三国志 少帝廃立 反対する者がいなくなったことで、董卓は少帝を廃して何皇后を殺害すると、自ら相国となる
盧植の去った朝廷で、もはや董卓に反論する者はありませんでした。董卓は少帝の廃位を強行し、陳留王劉協を皇帝につけます。これが献帝です。劉辯には弘農王の位が与えられました。劉辯は死後も諱を与えられることはありませんでした。そのため、光武帝や明帝、桓帝、霊帝のように諡号+帝ではなく、「少帝」と呼ばれます(諡号が与えられず、少帝と呼ばれる皇帝は他にもいますので、個人を特定する場合には「少帝辯」と呼ばれ…
三国志 呂伯奢一家殺害事件 曹操は呂伯奢の家族を殺したとあるが、異伝を見ると話の流れがぜんぜん違う 何が正しいのか
『魏晋世語』 は裴松之が「記事は乏しく秩序もなく劣っているが、時に珍しい記事があるので、よく読まれている」(『三国志 演義から正史、そして史実へ』)と裴松之が記す、質の低いものです。 また、東晋の330年ごろの『異同雑語』には、呂伯奢の家人が食事の準備をしていると、皿の鳴る音を聞いて自分を始末しようとしていると思い込み、夜の内に彼らを殺して逃げる。「私が人を裏切ることがあっても、他人に裏切らせ…
三国志 曹操逃亡 曹操は董卓政権は失敗に終わると判断して洛陽を脱する 故郷への途中、恩人の呂伯奢の一族を殺す事件が起こる
それだけ袁一族の力が大きかったと考えるべきでしょう。実際、長安に残った袁一族はこの際に処刑されておりませんから。 曹操もまた故郷の陳留へ向けて逃げ出します。董卓は曹操を驍騎校尉に任じて参謀にしようとしたのですが、曹操は董卓が成功することはないと考えていたのです。 あるいは、曹操は袁紹と示し合わせて洛陽を脱出したのかもしれません。 曹操は姓名を偽って虎牢関を脱出することはできたのです…
三国志 盧植と袁紹の逃亡 董卓に反対した盧植と袁紹は董卓を止められず、後難を恐れて逃亡する 董卓は袁紹を渤海太守として懐柔を図る
私にはこのタイミングで劉氏を絶やして良いとまで董卓が言明したとは思えませんが……。 また、盧植は朝堂において堂々と少帝劉辯廃立に反対しました。史書は朝堂で反対したのは盧植ただ1人だったと記します。とすると、袁紹の反対は朝堂のことではなく、もっと内々の話だったのかもしれません。 盧植は「『尚書』を調べてみますと、殷王太甲は位についた後にでたらめであったために伊尹はこれを廃し、漢の昌邑王は即…
三国志 少帝廃立 董卓は少帝が暗愚であることを理由に廃立して劉協を立てようと諮るが、袁紹は反対する
蔡邕は董卓によって中央に戻される前、流刑に処されていました。それでも有能な学者だった蔡邕は流刑地で後漢の制度史についてまとめています。では、なぜ蔡邕は最終的に董卓の招聘を受けたのでしょうか。また、招聘を受けた後はそれなりに董卓に協力的だったのでしょうか。『三国志—演義か…
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