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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんのプロフィール

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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
更新頻度(1年)

360回 / 365日(平均6.9回/週)

ブログ村参加:2015/01/12

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活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜

活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんの新着記事

1件〜30件

  • 原因・結果1

    「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ」というお示しがあります。過去にどういう因縁があったかということを知ろうと思う人は、今の結果を見てごらんなさいということです。必ず過去の原因に因って今の自分の状態が現れているということです。そして現在のことが原因になって将来の結果を生む訳です。私たち衆生は呼吸をする際に、吐いたままで吸うことが出来ないと死んでしまいます。ですから、「私たち衆生の命は吐く息と吸う息の間だけに在る」ということです。従って人間(にんげん)は何時でも生まれ変わっている訳です。原因・結果1

  • 因縁・縁起説について2

    おシャカ様は「苦しみの根源」というものが「何か有(在)るだろう」という考えから修行に入られたのです。ところが、「自己の正体」を見極められ、「苦しみの根源」になるようなものは何も無かったことに気が付かれたのです。即ち「一切のものは縁に因って滅する」ということに気が付かれたのです。それを「縁起の法」というのです。そして、そのことを説明していくことに仮の城「仮城(けじょう)」を建てられたのです。その仮の城のことを「空」と名付けられたのです。因縁・縁起説について2

  • 因縁・縁起説について1

    「因縁・縁起説」とは、ものの有(在)ることを説明したものではありません。「もともとものの認めようがないこと」を説明したものです。もともと「私」という存在は有(在)りません。あるときから「私」を認めたのです。これを「自我」といいます。「自我」というものだけが「生死」を繰り返しているのです。ですから、「自我の正体」さえ自分ではっきり見極めることが出来れば「生死」を超越したところで、私たちは「今」、日常生活を営んでいると確信出来ると思います。「覚者のいう自己」というのは、中心のない、何処にもつかみ所の無いそういう「自己」のことです。因縁・縁起説について1

  • 「縁」について2

    おシャカ様はご自身が非常にご苦労をなさったものですから、後進の「法(道)」を求める私たち衆生のためにいろいろ方便を巡らして経典を残しておいて下さったのです。「こういう道さえ間違えなく一歩一歩確実に歩いて行きさえすれば必ず道に到達しますよ」ということです。おシャカ様だけではありません。歴代の覚者といわれる方々は、私たち衆生にあまり苦労をかけないように、この道が分かるようにと、いろいろ方便をお示しになったのです。しかし、私たち衆生が「私」というものを差し挟んで読んだり聞いたり修行するものですから「縁」に突き当たったとしてもそのことが自分のものにならないというもどかしさが有(在)る訳です。「縁」について2

  • 「縁」について1

    「仏教の言葉なり、あるいは色々な教典に書かれていることを知(識)らなければとても解脱など出来ないだろう」というふうに考える方が居るかもしれません。しかし、おシャカ様は「星」を見られて身心脱落されました。石が竹に当たった「その音」を聞いて脱落された方もいます。決して仏教の経典の一字一句をよく理解して、そうして悟られたのではないと思います。みんな、「縁」に因って脱落しておられるわけです。ですから、仏教の言葉というものを知らない人でも「正しい修行」をしさえすれば「縁」に当たって必ずそういう解脱があるということです。「縁」について1

  • 個について3

    ものの本体本質というものは、「時間的”差別(しゃべつ)」に於いても、「空間的(平等)」に於いても同一のものです。そして「因縁果の法則」に従っていろいろ「差別(しゃべつ)の相(すがた)」が出て来ているのです。「末法」に入り何時の間にか知らず識らずのうちに「差別(しゃべつ)」の語が消え、「差別(さべつ)」の語が世の中を席巻するようになってしまいました。今一度「差別(しゃべつ)の意味」を理解してもらいたいものです。「世の中”人間(じんかん)”は平等界という絶対の真理の世界と、差別界(しゃべつかい)という現象世界」で成り立っていることを再確認する必要があるのではないでしょうか。「温故知新」から「知故建新(故きを知って新しきを建てる)」へ。個について3

  • 個について2

    「活かして生きる道」というのは「今の世界、今の事実、差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば、「個もなければ差別(しゃべつ)もなければ全体もない」ことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と言語学者の田中克彦氏は述べております。「差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変える(変えた)のは人なり」と私は思います。個について2

  • 個について1

    欧米の個人主義の社会では「個」が尊重されています。この「個」というのは仏教でいう「差別(しゃべつ)」ということです。「差別(さべつ)の裏」には必ず「平等」ということがなければなりません。「真の平等」とは「個に成り切った時、差別(しゃべつ)に成り切った時」をいいます。これを「そのまま」ともいいます。「そのまま」とは「只(ただ)」という言葉で表現しています。これは「個に成り切った時、差別(しゃべつ)に成り切った時」のことをいっています。個について1

  • 自由な生活2

    ところが何時の間にか知らず識らずに「自分自身」でないものを認めて「これは私の考えですが・・・・」というようなことをいって、こんなに自由に「無いものの中で様々な生活」をしているのに、わざわざ「我」を拵えて狭い処で生活をしているのが今の私たち衆生の現状ではないでしょうか。ですから、私たち衆生は「もともと無いものの中で生活している」ことをはっきり認識しなければなりません。「もともと無い」ということに気が付くということです。自由な生活2

  • 自由な生活1

    私たち衆生は「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の存在を意識しないで「自由な生活」が出来ています。即ち六根を意識しなくても、話が出来、ものが見え、音が聞こえ、匂いが嗅げ、歩くことが出来、ものを掴むことが出来ます。みんな無いものの中で「自由な生活」をしています。「般若心経」にいわれている「無の中での様々な生活」ということです。自由な生活1

  • 純粋な働き5

    ですから、こちらがきちんと解決さえすれば世の中はすべて平和になるのです。「どんな状態であっても無条件にそのまま納得出来る」ということです。私たち衆生の体もひとつひとつの機能がいつでもどこでも何をしていてもそれぞれの機能のままに働いているから迷わずに済んでいる訳です。問題は、私たち衆生は本来は「我見」というものでものを見ている訳ではありません。けれども、私たち衆生はどうしてもひとつひとつの働きを「自分の都合の善い方向」に持って行こうとするものですから、葛藤が起きるのです。それだけのことです。「本来は手の付けようがないものである」ということを分かってもらいたいところです。純粋な働き5

  • 純粋な働き3

    そこで指導者は「それぞれの働きのままにしておく指導」をしている訳です。自分の取り計らいさえ用いなければ、きれいなものも汚いものも、見たいものも見たくないと思うものでもきちんと「眼」に映しているではありませんか。それほどに「因縁生」はそのままの無自性なもの同士ですから遮るものが有(在)りません。遮るものは「私」の都合に因って本来の機能を失わせているだけなのです。純粋な働き3

  • 純粋な働き3

    ところが「此の身を認めて、自分だと思っているもの(自我)」がそういう「純粋な働き」をしているものの邪魔をするのです。そのために「素直に見えている(これから素直に見ようと思うのではありません、すでに素直に見えているのです)もの」をわざわざ「私の都合に因って」という見方をするのです。これはそのものの働き以外のものです。ものと自分との間にわざわざ「素直」などという邪魔をするものをつくって、見たり聞いたりするために構える姿勢が出て来てしまう訳です。そして、次から次へと「素直に受け入れよう」という考えを巡らしてしまうのが私たち衆生の日常生活の実態なのです。純粋な働き3

  • 純粋な働き2

    私たち衆生の内臓、器官を考えてみて下さい。それぞれの器官や機能はみんなそれぞれの働きをしています。私のためとか誰のためにということではありません。「純粋にそのような働きが有(在)る」だけなのです。また「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」も同様にどんなものでもそのまま見えるし、聞こえているのです。「純粋にそのような働きが有(在)る」ものなのです。純粋な働き2

  • 純粋な働き1

    私は「因縁生」ということをよく申し上げていますが、一切全てのものは因縁に因って生じて(出来て)おり、実体は有(在)りません。これは決して人間(にんげん)が創造したものではありませんし、私たち衆生自身も因縁に因って生じた(出来た)のです。ものがどうして出来た(生じた)ということは誰も知(識)りません。知らず識らずに生じた(出来た)のです。「不知不識生(ふちふしきしょう)」なのです。それほど実体の無いもの同士が世活している訳です。ですから、誰が創ったものでもないし、何時何処で何のように生じた(出来た)のか誰も分からないのです。本当に中心のないものですから見たら見たものと一つ、聞いたら聞いたものと一つに成れているということなのです。隔てをつくるもの、区別をつけるものは何にも無いのです。純粋な働き1

  • 直指人心見性成仏4

    「楞伽経(りょうがきょう)」に「四十九年一字不説」とあります。おシャカ様の四十九年の説法は「菩提心を発動させること」「一発心(いっぽっしん)」を促すに過ぎなかったのです。それは自分で見てとるより外にありません。おシャカ様在世の時は「九十六の外道」があって心外(しんげ)に「法」を求めて大苦悩大顚倒(だいてんどう)していたのです。「迷悟」に陥っていたのです。それを転じて「この道」に向けしめんが為に、縦説横説したのです。直指人心見性成仏4

  • 直指人心見性成仏3

    「外道」は心の外に「法」を求めたから「我見」があるのです。「この仏語(直指人心見性成仏)を「実」にするのが「坐禅の特徴」です。元来「心そのもの」は説くに説かれぬものです。しかし、おシャカ様はこれを説いてその内容を渇仰するように上手に説いたのです。直指人心見性成仏3

  • 直指人心見性成仏2

    その「実」とはどんなものかと言えば、時間、空間、「三世十方(さんぜじっぽう)」「過去、現在、未来と東西南北、上下四維(天と地、西北、西南、東南、東北)」が自在になります。これを禅語では「宝剣手に在り、殺活(せっかつ)自在」といいます。実に楽しく心地よいものではありませんか。自己の持っている「心」を自己が知らないとは、実に浅ましいことだと思います。そのことをおシャカ様は「心外(しんげ)に別法無し」と、道元禅師は「萬法唯心(まんぽうゆいしん)」とはっきりとお示しになっております。直指人心見性成仏2

  • 直指人心見性成仏1

    達磨大師は「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」と言われました。「性」とは私たち衆生の「本具(本来具有の略)の心」をいいます。「この心」は、”コロコロ”で自在を意味するのです。眼を開けば天地は眼中に在り、思いをめぐらせば、古今は私たち衆生の「方寸(心)」にあります。そのことを「觸處元来不二(そくしょがんらいふに)といいます。「辺量」のないものが「心」です。それで方寸といい、眼というのです。「無限」に即ち「絶対」です。「この性が我が手に入れば(見性すれば)」これこそ「成仏」と見るべきもので世にこれを「見性悟道」と言われています。直指人心見性成仏1

  • 四十九年一字不説11

    「真実(事実、法、道)」というものは「考え方(認識)」の先にあって「考え方(認識)」を起こした時は、「真実(事実、法、道)」というものはなくなってるのです。・誰も皆我がものと見てとってそっと程よく扱へよ君・尋ねても尋ねあてぬぞ道理なり尋ぬる人が尋ねらるる人四十九年一字不説11

  • 四十九年一字不説10

    それからそれを「土台」にして「発展(生長)」して「生活(活動)」しているのが私たち衆生なのです。それが今になってから「真実(事実、法、道)」に対して「迷い(疑問)」が生じて、それを考え方をもって、「解決(解消)」しようとするから、ますます分からないようになるのです。何故ならば「真実(事実、仏、道)」は「体感の次元」であり「考え方(認識)」は「思考の次元」だからです。四十九年一字不説10

  • 四十九年一字不説9

    本当に「真実(事実、仏道)」に成ってしまえば、自分をも含めて何もないのが本当です。私たち衆生は何気なく日常生活を送っていますがその事に満足が得られないものです。何故、満足が得られないのかというと、「子供の時分に物心が付いた」からです。「物心がどうして付いたのかと言うこと」は誰一人として分かりません。「物心が付いた途端」にどんな人でも皆そうなるのです。これは「人間の本性(ほんしょう)」なのです。「法の働き」です。それを「認識」というのです。「識」を初めて認めたのです。子供自身には物心が付いたという「自覚」がありません。それですから「無明の煩悩」と言われているのです。四十九年一字不説9

  • 四十九年一字不説7

    私たち衆生は、「四十九年一字不説」というと、何かそれが「仏法(仏道)」の大意究極だと考えがちですけれども、「仏道(仏法)」ということを、思ったり考えたりすることでも既に「言葉(文字)」に囚われて迷いの元になるものです。「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」はあっても実体はありません。ですから「四十九年一字不説」という「言葉(文字)」を使った実体のない、その「事実」を自分のものにする以外にないのです。四十九年一字不説7

  • 四十九年一字不説10

    「仏法(仏道)」という「法(道)に従って究極に至らなければならないのです。既に、「仏(道)」の中に居りながら「法(道)」を探し求めるというのは「非常に矛盾した事」ですけれども、それを行わなければならないのです。実に「余分なこと」ですけれども、それを行わないと「真実(事実、法、道)」というものは本当に分からないのです。四十九年一字不説10

  • 四十九年一字不説6

    「四十九年一字不説」は別の言い方をすれば「不立文字教外別伝(ふりゅうもんじきょうげべつでん)」ということです。「不立文字」とは言葉や文字、知識を否定したり、更に考えることまでも否定しなければいけないように誤解している人がありますが、そうではありません。「不立文字」とは文字によって理解することがないということです。別の言い方をすればすべてのこと、一切のものが全部「文字に成った」ということです。四十九年一字不説6

  • 四十九年一字不説5

    従来仏祖は人の為にしないのです。是れが「人の為に説かざる底の法」です。人の為にすれば人の為にならないのです。自分のことは自分で「知(識)る」より外はないのです。道元禅師曰く、「この法は人々(にんにん)の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず證せざるには得ることなし」と。四十九年一字不説5

  • 四十九年一字不説

    「法(道)」を人のために説くのは世の常の事ですが、元来「真実そのもの(其物それ)」が説けるものでしょうか。「火」と言っても「口」は焼けません。この故に「楞伽経(りょうがきょう)」では、「四十九年一字不説」と言い訳をしているのです。いいえ、本当は説いて説くことを「知(識)らない」のです。行って行くことを「知(識)らない」のです。是れが「四十九年一字不説」の深意です。四十九年一字不説

  • 四十九年一字不説3

    真実は真実そのものを以てしか識ることは出来ないのです。別の言葉で言えば「真実は悟りに因ってのみ識り得るものなのです」ということです。「真実」はそれが人に伝えるために言葉や文字に置き換えられ、「人間(にんげん)」の思考によって把握された時点で、ひとつの制約された「観念」に変質しており、「真実」とは懸け離れたものになってしまうのです。四十九年一字不説3

  • 四十九年一字不説2

    これは何を意味しているかというと「四十九年間、余分なこと、必要の無いことを皆に話をしてきた」という意味です。全く余分なこと、必要のないことをして来たということの他に何も言いようがないという意味です。何故ならばおシャカ様の教典は真実を語っていません。これは事実そのものではなく事実の説明に過ぎません。仏教とは「四十九年一字不説」の語によって「妄想、我見、分別」から離れ、総ての苦悩から救われ、「方向指示という仏教本来の役目」を完全に演じていることになるのです。四十九年一字不説2

  • 四十九年一字不説1

    人類で一番最初に「道(法)」というものに目醒められたおシャカ様は最後に「四十九年一字不説」と言って四十九年間の説法を終えられています。仏教は「無常、無我、涅槃」という「道(法)の説明内容」のみで成り立っているのではなく「四十九年一字不説」という、そのものの否定をも含めて成り立っているのです。四十九年一字不説1

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