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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 三世心不可得(さんぜしん ふかとく)

    「自我」という存在は絶対に有(在)るものでは無いのです。 「三世心不可得(さんぜしんふかとく)」というお示しが在りますが、私たち衆生の心の状態というものは、何処から起きて来るのか絶対に「分かりようが無い」のです。 今(現在)から後にはじめて「影を意識(認識)が認めて(理解して)有(在)るとか無いとか、言うだけ」なのです。 それほどに「意(心)」は「速い動き方(働き方)」をして有(在)ったり無かったりするものですから始末に負えないのです。 それが私たち衆生の「意(心)の本性」なのです、 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 独参2

    「熱」でも色々なものが集まって「ひとつの熱」に成ります。 決して「熱」という物が最初に有(在)ったはずではありませんから「熱」という物をバラバラにしたら、ものすごくたくさんの数の「熱の元」になるものが在ります。 人間(にんげん)でも同じです。 それを仏教では「因縁果」という言葉で表現しているのです。 ですから「自我の究明」が大事なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 独参1

    禅門に於いては「独参」が非常に大事にされていますが、「独参」というのは「師に参ずる」のではなく、或いは「独に参ずる」のでもありません。 「独参」は「独りで参ずる」のです。 ですから「参ずる人」はそこには居ません。 つまり話しかける側とそれに答える側は一緒なのです。 ですから「師」はいません。 「自分」という「自と他」を分けて考えがちですけれども、ありとあらゆる物は自分なのです。 自分でないものは、此の世には存在しないという事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 精進5

    大智度論の中に「初心後心 異相ある無し」と在ります。 「初心」は若い者の心、「後心」とは老人の心、共に異なる所は無いのです。 「只、唯(ただ)」努めて精進すれば「仏道を成ずる」のです。 「仏道を成ずる」とは若い者も、老人も、異なる所は無いのです。 一生(一所)懸命に修行(坐禅)さえすれば「仏に成れる」というのであります。 「成仏」とは「今の一心、今の事実」という事です。 その「一心」と「仏心」とは別のものでは在りません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 精進4

    華厳経(けごんきょう)に曰く、「心常に世心と和合せざるを名付けて精進となす」と。 「世心」とは世の中の心で、「世の中の心」とは「妄想」という事で「煩悩」といいます。 又、世の迷った働きを「世心」といいます。 そういう「世心」と一緒に成らない「精進」とは「専心一意」に成って始めて分かるのです。 それが「真心(まごころ)道心」です。 その心で聴き、その心で教える、その心が「聖人の心」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 精進3

    「おこたらず行かば千里の果も見む、牛のあゆみのよし 遅くとも」という道歌が有(在)るります。 それですから何でも出来る出来ないというのは、勉強の精進が足らないからです。 何事も「志」がなければ出来ません。 「為せば成る 為さねば成らぬ 成るものを 成らねば己が為さぬなりけり」 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 精進2

    「精進」の「精」という字は米が青いと書きます。 「米」は素は玄(くろ)いのです。 その玄い米を搗くと白くなり、更に搗くと青いような色になります。 それが「精」の字で、下の「進む」という字は米を搗き白くなって青くなるほど修行して進むという事です。 おシャカ様は「遺教経」の中で「若し勤めて精進すれば事として難きものなし」と。 「難きものなし」とは、出来ないものは無いという事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 精進1

    頑張るという事と結果というのは全く関係が有(在)りません。 一生(一所)懸命で頑張るだけです。 そうすれば結果は待たずとも、求めなくても必ずやってくるわけです。 「不断の精進」です。 思い出さずに忘れずに「只、唯(ただ)」務めていただきさえすれば、それだけで十分なのです。 「今、始めて修行(坐禅)」をする、何時でも何処でも何をしていても「今が最初だ」ということです。 本当にこれは「根気仕事」です。 止めてしまっては、此れはそれで終わりです。 「自ら菩提の芽」を摘み取るようなものです。 初心を忘れずに意義付け、意味付けの無い修行(坐禅)をするという事に務めていただきたいと思います。 哲学・思想ラ…

  • 努力3

    私たち衆生は努力に於ける「瞬間の真意義」を了得し、此の人生をして果無き成功」より免れて意義のある人生にしたいものです。 此れが私たち衆生が世に生まれて来た「必然の目的」ではないでしょうか。 古人曰く「失望することなかれ 失望することなかれ 失望は必ず病人の夢なるべし」と。 また曰く「努力せよ 努力せよ 努力して得ざるは困窮のみ」と。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 努力2

    努力に依って永久の生命が得られ、無我の真理の「証明」が出来るのです。 これが「大説法」です。 先般申し上げました通り「己れ無き時 己れならざるはなし」で何時でも何処でも何をしていても全体と共に有(在)るのです。 先に「成功の定義」として「成功は何時でも同分量」なのです。 「成功」は「時と所と位(くらい)に因って変わってはいけないのです。変化するものではないのです。 「永久成らざる可からず」なのです。 この「三つの条件(同量・不変・永久)が「努力の瞬間」に発見されるのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 努力1

    古人曰く「己れ無き時 己れならざるはなし」と。 この意味は「努力の瞬間」に己れ其の物が全体に行きわたり、全自己となって現成(げんじょう)するという事です。 「我れニなれば 他のハはニに包容される」という事です。 何時も分量は同じなのです。 これが即ち「無我の価」なのです。 努力に依って己れを忘ぜる物の価なのです。 この事が「成功の真意義」なのです。 努力其の物の価が分かったら、努力其の物に依って一生の目的も立ち、人間(にんげん)の権利、義務も果たし得られるのです。 生産力、即ち、能率が増し、世を救って罪より免れる事が出来るのは「只 此の努力」のみなのです。 「道(法)は近きに在り」然もこれを遠…

  • 如覚本覚2

    生まれたままの者は「本覚」ですから、それを「如」と名付けるのです。 「起信論」には此の「覚る」というのを四通りに説いてあり、先ず凡夫の一番分かる様に「前念の起悪 これを覚」と書いてあります。 「前念の起悪」とは前に思う事は大変間違っていて悪かったと覚って、その時に「来」という字になるのです。 即ち始めて「覚り」が出て来たのを「来」というのです。 この事は即ち私たち衆生が修行すれば「始覚」という時節が来るのです。 円覚経に「始めて知る 本来成仏なることを 生死涅槃 猶(なお)昨夢の如し」と。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 如覚本覚1

    「覚る」とは「事実これである」という事が胸に現れ、なるほどと能く合点が出来るという事です。 しかもこれは皆、出来る事でありますが、そこの処まで辛抱する人が無いのです。 「始覚」を来(らい)と名付け、「本覚」を如(にょ)と名付く、というお言葉があります。 皆、自分に具わっていますが捨てておいては駄目なのです。 一生(一所)懸命に修行するとそれが現われて来るのです。 「本覚」は「本来の面目」で、誰もが持っているものです。 それは修行する事に依って悟る事が出来るのです。「看る事」が出来るのです。 此の時を「始覚」といいます。 これを「来」ともいうのです。 「来」とは既に逃亡してしまった者が戻って来た…

  • 水因三昧2

    「只(ただ)」お湯の中に入ったのです。 そうしたら自我も何も無いから「只、入ったら」入ったその温度の通りに成ったのです。 此れを「自己を忘ずる」といいます。 それですから「法(道)」というものは遠方に在る事を教えているのではないのです。 手元に有(在)って、自分に何時でも具わって動いているものを皆、捨てて他へ他へと求めるから何年修行しても分からないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 水因三昧1

    お風呂に入ると、温かいと思うから温かいのではありません。 入った途端に「只(ただ)温かい」のです。 この様に「此の物」は何なりと直ぐに「一如に成る」ように出来ているのです。 昔、お風呂に入った途端、悟ったお方が居られました。 それを「水因三昧(すいいんざんまい)」といいます。 水の因縁に依る三昧という事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 真如とは2

    植物に花の咲くのは「真如」が在るからです。 この本心(真如)が在って初めて、人間(にんげん)と生まれ、犬と生まれ、猫と生まれるのです。 ですから、われわれ人間という身体に現われたという事は、余程悦ばなければならないのです。 「形」も「真如」に成り、「心」も「真如」に成らなければなりません。 「真如」の「真」は「誠(まこと)」、「如」は「変わらない」という事です。 人は「真実の生き如来」に成らなければなりません。 皆、自分に具わっている事です。 捨てておいては駄目なのです。 一生(一所)懸命に修行すれば、それが現われて来るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 真如とは1

    「真如」とは人の本心をいいます。 この真如とは「仏性」といって、その「真如仏性の中(うち)」より相互目鼻の付いた身体という所の物が出来たのです。 「心」というものが在ったから人間(にんげん)という身体が出来て、ちゃんとそうして歩き、また物思う事が出来、誠に都合の良い物が出来たのです。 これは即ち「真如」という「本心」が本(もと)に成って現れたのです。 天地万物、皆そうなのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 不妄語戒

    「不妄語戒(ふもうごかい)」とは「五戒」並びに「十重禁戒」の中に在る「戒法」です。 「妄」という字には ”ウソ” という意味が在りますから「不妄語戒」を字のままに読むと「ウソをついてはいけない」という事になります。 しかし仏法では「実相は無相なり」と説いているように、此の世には実相(本当)も無相(ウソ)も存在しません。 その意味からすると、現在の世の中で「真実」とされる事、即ち「今の自分の様子・今の事実」を「そうだ、其の通りだ」と受け取ってはいけないし、まして ”ウソ” とされる事はもっと受け取ってはならないという事になります。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 飲食欲9

    私たち衆生は「成道の為め」に健康に十分注意しながら「道を成じる・自己の正体を見極める」べく努力していかなければならないのです。 「今此の食を受く」の「今」とは「生死を離れた今」という事です。 全て「仏道を成ぜんが為め、自己の正体を見極める為め」に私たち衆生は飲食(おんじき)をし、諸々の日常生活をするという事なのです。 了尽

  • 飲食欲9

    私たち衆生は「成道の為め」に健康に十分注意しながら「道を成じる・自己の正体を見極める」べく努力していかなければならないのです。 「今此の食を受く」の「今」とは「生死を離れた今」という事です。 全て「仏道を成ぜんが為め、自己の正体を見極める為め」に私たち衆生は飲食(おんじき)をし、諸々の日常生活をするという事なのです。 了尽

  • 飲食欲8

    「五観之偈」の第四番目に「四つには正(まさ)に良薬を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為めなり」と示されています。 ここでいう「形枯を療ぜんが為めなり」というのは「道」を聞く為に生を保てば善いという事です。 「五観之偈」の第五番目に「五つには成道の為めの故に今此の食(じき)を受く」と示されています。 此れが一番大切な事です。

  • 飲食欲8

    「五観之偈」の第四番目に「四つには正(まさ)に良薬を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為めなり」と示されています。 ここでいう「形枯を療ぜんが為めなり」というのは「道」を聞く為に生を保てば善いという事です。 「五観之偈」の第五番目に「五つには成道の為めの故に今此の食(じき)を受く」と示されています。 此れが一番大切な事です。

  • 飲食欲7

    生きる事も死ぬことも同じ「道」です。 決して生まれる事が目出度くて、死ぬ事が不幸という事ではありません。 「道」から外れた生活は一時もありません。 善業悪業、共に「道」ですから何方にも楽しく身を任せていく必要が在ります。 嫌な仕事でもやるべき事はやらなければなりません。 それしか「道」は在りません。 それが「道」というものです。

  • 飲食欲7

    生きる事も死ぬことも同じ「道」です。 決して生まれる事が目出度くて、死ぬ事が不幸という事ではありません。 「道」から外れた生活は一時もありません。 善業悪業、共に「道」ですから何方にも楽しく身を任せていく必要が在ります。 嫌な仕事でもやるべき事はやらなければなりません。 それしか「道」は在りません。 それが「道」というものです。

  • 飲食欲6

    私たち衆生は何の為、如何して食べるのか、是は大変大事な問題です。 この様な問題を投げかけると大抵「生きるため」という答えが返ってきます。 しかし、「食べて何時までも生きる訳ではないのに」という疑問が生じます。 何時かこの身は「死ぬこと」は決まっています。 そうすると「生きるため」というより「死ぬ為に食べる」と言った方がいささか合理的な気がします。 「無常の世の中で在る事」を忘れてほしくありません。

  • 飲食欲6

    私たち衆生は何の為、如何して食べるのか、是は大変大事な問題です。 この様な問題を投げかけると大抵「生きるため」という答えが返ってきます。 しかし、「食べて何時までも生きる訳ではないのに」という疑問が生じます。 何時かこの身は「死ぬこと」は決まっています。 そうすると「生きるため」というより「死ぬ為に食べる」と言った方がいささか合理的な気がします。 「無常の世の中で在る事」を忘れてほしくありません。

  • 飲食欲5

    「結果に至り得てみれば修行(坐禅)する事自体」求めなければ「不要」です。 かといって修行(坐禅)しなくても善いかというとそうはいかないと思います。 そこで「求心」を止めて「今の事実」に集中していただかなければならない理由が在るのです。

  • 飲食欲5

    「結果に至り得てみれば修行(坐禅)する事自体」求めなければ「不要」です。 かといって修行(坐禅)しなくても善いかというとそうはいかないと思います。 そこで「求心」を止めて「今の事実」に集中していただかなければならない理由が在るのです。

  • 飲食欲4

    「貪欲(とんよく)」から離れるというのは「求心(ぐしん)」を止めるという事です。 「求心」を止めるという事は、例えば苦しい痛い悲しいという「今の事実」に自己を介在させて、他に依って「解決」しようと思う事を止める事です。 自分の様子を振り返って「やっぱりこのようにやればこうなるんじゃなかろうか」と必ず「期待するもの」が出て来るものです。 一所懸命に成っている時こそ不思議なくらいにそれが出て来るものです。 修行(坐禅)をした結果というものを、知らず識らずの内に如何しても求めてしまうものなのです。

  • 飲食欲4

    「貪欲(とんよく)」から離れるというのは「求心(ぐしん)」を止めるという事です。 「求心」を止めるという事は、例えば苦しい痛い悲しいという「今の事実」に自己を介在させて、他に依って「解決」しようと思う事を止める事です。 自分の様子を振り返って「やっぱりこのようにやればこうなるんじゃなかろうか」と必ず「期待するもの」が出て来るものです。 一所懸命に成っている時こそ不思議なくらいにそれが出て来るものです。 修行(坐禅)をした結果というものを、知らず識らずの内に如何しても求めてしまうものなのです。

  • 飲食欲3

    美味しい物を食べたい飲みたいという思いは「人の天性(てんせい)」のようなものです。 昔からよく「食べる物に欲の無い人は衣、住や名誉の欲も無い」という事で淡泊という表現が使われています。 そのように貪欲というものは如何に離れられないかという事を善く善く理解して修行に励んでいただきたいと思います。

  • 飲食欲3

    美味しい物を食べたい飲みたいという思いは「人の天性(てんせい)」のようなものです。 昔からよく「食べる物に欲の無い人は衣、住や名誉の欲も無い」という事で淡泊という表現が使われています。 そのように貪欲というものは如何に離れられないかという事を善く善く理解して修行に励んでいただきたいと思います。

  • 飲食欲2

    「三毒」の中でも「貪欲(とんよく)」が一番防ぎ難いものです。 知らず識らずの内に生に対する執着(貪欲)が出て来ます。 それほど貪るというのは恐ろしく、怒りも貪りから起きて来るという事から、「貪等を宗とす(とんとうをしゅうとす)」と、貪りを主眼に説かれています。 「宗」とは主たる原因、或いは根本という事です。 食べ物や飲み物ほど貪りやすいものは在りません。

  • 飲食欲2

    「三毒」の中でも「貪欲(とんよく)」が一番防ぎ難いものです。 知らず識らずの内に生に対する執着(貪欲)が出て来ます。 それほど貪るというのは恐ろしく、怒りも貪りから起きて来るという事から、「貪等を宗とす(とんとうをしゅうとす)」と、貪りを主眼に説かれています。 「宗」とは主たる原因、或いは根本という事です。 食べ物や飲み物ほど貪りやすいものは在りません。

  • 飲食欲1

    仏教では五種の欲望が在るとされ、それを「五欲」といいます。 即ち、「財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲」です。 その中の一つに「飲食欲(仏教では”おんじきよく”と読みます)」が在ります。 食べ物や飲み物に対する欲です。 「五観之偈(ごかんのげ)」という食事の時にお唱えするお経の中の第三番目に「三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす」というお示しが在ります。 「心を防ぎ」とは「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」〔むさぼり・怒り・愚痴〕の三毒の放逸を防ぐという事です。 何故ならば、これは諸々の罪過の根源になるからです。 一般的にはそれを「無明(むみょう)」と…

  • 飲食欲1

    仏教では五種の欲望が在るとされ、それを「五欲」といいます。 即ち、「財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲」です。 その中の一つに「飲食欲(仏教では”おんじきよく”と読みます)」が在ります。 食べ物や飲み物に対する欲です。 「五観之偈(ごかんのげ)」という食事の時にお唱えするお経の中の第三番目に「三つには心(しん)を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす」というお示しが在ります。 「心を防ぎ」とは「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」〔むさぼり・怒り・愚痴〕の三毒の放逸を防ぐという事です。 何故ならば、これは諸々の罪過の根源になるからです。 一般的にはそれを「無明(むみょう)」と…

  • 六波羅蜜7(智慧)

    「智慧」とは、何時も縁と一つな成っている状態、一切自分の力を用いないという様子です。 自分が智慧を使うと「智慧に頼る」という事になります。 ですから「道」に至れないという事になります。 これは仏教の特色ですが、「六つの道の一つ」さえ完全に行じる事が出来さえすれば「あとの五つ」も必ず行じられるという事です。 此れが仏教でよくいわれる「一(ひとつ)は全てで在り、全ては一で在る」というお言葉の意味です。

  • 六波羅蜜7(智慧)

    「智慧」とは、何時も縁と一つな成っている状態、一切自分の力を用いないという様子です。 自分が智慧を使うと「智慧に頼る」という事になります。 ですから「道」に至れないという事になります。 これは仏教の特色ですが、「六つの道の一つ」さえ完全に行じる事が出来さえすれば「あとの五つ」も必ず行じられるという事です。 此れが仏教でよくいわれる「一(ひとつ)は全てで在り、全ては一で在る」というお言葉の意味です。

  • 六波羅蜜6(禅定)

    「禅定」とは静かに成るという事ですが、静かに成る状態があってはいけないのです。 仏様の別名に「不動尊」が在りますが、何時も動いておりながら動いていないという「仏様の名前」です。 「不動(動ぜず)」という事ですが、迷いが無くなって悟りが在るというのではなく「迷い其の物を悟りと自覚する」という事です。 「動いていない中に動いてるものを見つける」、此れが「禅定」です。

  • 六波羅蜜6(禅定)

    「禅定」とは静かに成るという事ですが、静かに成る状態があってはいけないのです。 仏様の別名に「不動尊」が在りますが、何時も動いておりながら動いていないという「仏様の名前」です。 「不動(動ぜず)」という事ですが、迷いが無くなって悟りが在るというのではなく「迷い其の物を悟りと自覚する」という事です。 「動いていない中に動いてるものを見つける」、此れが「禅定」です。

  • 六波羅蜜5(精進)

    「精進」とは、切れ目なく常に努力をしていく事です。 これを「常精進」といいます。 精進する時としない時が在ったのでは「真の精進」には成りません。 「意義付け、意味付けの無い精進」が必要な処です。

  • 六波羅蜜5(精進)

    「精進」とは、切れ目なく常に努力をしていく事です。 これを「常精進」といいます。 精進する時としない時が在ったのでは「真の精進」には成りません。 「意義付け、意味付けの無い精進」が必要な処です。

  • 六波羅蜜4(忍辱)

    「忍辱(にんにく)」とは「今の事実に耐える」という事です。 「今の事実」に一切手を付けないという事です。、 どれだけ「我慢」しても「道」には至りませんが、此の「忍辱」をすれば必ず「道」に到ることが出来ます。 しかし如何しても手を付けてしまうのは、修行(坐禅)が手段や方法になってしまっているからです。 「今の事実のまま」に居られる努力が一番大きな「忍辱行(にんにくぎょう)」です。

  • 六波羅蜜4(忍辱)

    「忍辱(にんにく)」とは「今の事実に耐える」という事です。 「今の事実」に一切手を付けないという事です。、 どれだけ「我慢」しても「道」には至りませんが、此の「忍辱」をすれば必ず「道」に到ることが出来ます。 しかし如何しても手を付けてしまうのは、修行(坐禅)が手段や方法になってしまっているからです。 「今の事実のまま」に居られる努力が一番大きな「忍辱行(にんにくぎょう)」です。

  • 六波羅蜜3(持戒)

    「持戒」というのは「戒律を保つ」という事です。 別の意言葉で言えば「相手を見ないという事、自我を立てないという事」です。 「自我」を起こして相手を認めるという事が戒を破る事、即ち「破戒」になります。 「戒律」を守る事に依って悟りに到ると考えて努力している人がいますが、それは間違いです。

  • 六波羅蜜3(持戒)

    「持戒」というのは「戒律を保つ」という事です。 別の意言葉で言えば「相手を見ないという事、自我を立てないという事」です。 「自我」を起こして相手を認めるという事が戒を破る事、即ち「破戒」になります。 「戒律」を守る事に依って悟りに到ると考えて努力している人がいますが、それは間違いです。

  • 六波羅蜜2(布施)

    「布施」とは施しという事です。 自分の大切にしているものを差し上げる、或いは執着を離れるというような事をいわれています。 しかし是は非常に小さな「布施」です。 もっと大きな「布施」とは一番施しにくいものを施すという事です。 此の身を一切のものに施すという事です。 それが「本当の布施」です。 「自分を施す事」は、即ち自分を完全に無くすことが出来ますから「悟り」を開く事が出来るのです。

  • 六波羅蜜2(布施)

    「布施」とは施しという事です。 自分の大切にしているものを差し上げる、或いは執着を離れるというような事をいわれています。 しかし是は非常に小さな「布施」です。 もっと大きな「布施」とは一番施しにくいものを施すという事です。 此の身を一切のものに施すという事です。 それが「本当の布施」です。 「自分を施す事」は、即ち自分を完全に無くすことが出来ますから「悟り」を開く事が出来るのです。

  • 六波羅蜜1

    迷いの世界から悟りの世界に到るまでに渡る道を「六波羅蜜(ろくはらみつ)(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」別名「六度(ろくど)」といいます。 この六つとは何かというと「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のすべて全部自分を捨てた状態」をいいます。 この「六つの道」が私たち衆生には全部豊かに具わっているのです。

  • 六波羅蜜1

    迷いの世界から悟りの世界に到るまでに渡る道を「六波羅蜜(ろくはらみつ)(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)」別名「六度(ろくど)」といいます。 この六つとは何かというと「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のすべて全部自分を捨てた状態」をいいます。 この「六つの道」が私たち衆生には全部豊かに具わっているのです。

  • 迷いの根源4

    実は、「言葉に迷っている」のです。 「迷い」というものが実際に在るわけではありません。 「迷いという言葉」に迷っているという事が「事実」なのです。 それを「法(道)」に依って「消滅」させていく、それを「修行」と言っているのです。

  • 迷いの根源4

    実は、「言葉に迷っている」のです。 「迷い」というものが実際に在るわけではありません。 「迷いという言葉」に迷っているという事が「事実」なのです。 それを「法(道)」に依って「消滅」させていく、それを「修行」と言っているのです。

  • 迷いの根源3

    本来「一つ物」とも言えないぐらいにその物の状態を「悟り」と言ってるわけです。 そういう「悟り」を妨げているものが「我見」というものです。 何時の間にか知らず識らずに「一つの物(此の物)」を認めて「自分だ」「私だ」と言って他と区別を付けて、いわゆる「認識」を起こしたのです。 「我見」を持って物を認めるようになったというような事から「迷う」のです。

  • 迷いの根源3

    本来「一つ物」とも言えないぐらいにその物の状態を「悟り」と言ってるわけです。 そういう「悟り」を妨げているものが「我見」というものです。 何時の間にか知らず識らずに「一つの物(此の物)」を認めて「自分だ」「私だ」と言って他と区別を付けて、いわゆる「認識」を起こしたのです。 「我見」を持って物を認めるようになったというような事から「迷う」のです。

  • 迷いの根源2

    ですから、私たち衆生は悟りを開くとか、開かないとかという事に関係なく、何時でも何処でも何をしていても「安心(仏教語で使用する時は、あんじんと読みます)」の中にいて、本来本当に満足の状態で何時でも生活が出来ているのです。 「出来ていない」という事は、成長するにしたがって知らず識らずのうちにだんだん見たり聞いたり考えたりすることが出来、そういう「ひとつの物(此の物)」を認めて「私だ」と考えているところに大きな問題が在るわけです。

  • 迷いの根源2

    ですから、私たち衆生は悟りを開くとか、開かないとかという事に関係なく、何時でも何処でも何をしていても「安心(仏教語で使用する時は、あんじんと読みます)」の中にいて、本来本当に満足の状態で何時でも生活が出来ているのです。 「出来ていない」という事は、成長するにしたがって知らず識らずのうちにだんだん見たり聞いたり考えたりすることが出来、そういう「ひとつの物(此の物)」を認めて「私だ」と考えているところに大きな問題が在るわけです。

  • 迷いの根源1

    おシャカ様は自分というものを削ぎ落し「眼・耳・鼻・舌・身・意」という「六根の働きだけのものに成った状態の時(明星を見た瞬間)」に悟りを開かれました。 それが二千五百余年前だといわれておりますが、そのおシャカ様の悟りが実は「私たち衆生の今の事実」なのです。 時間、空間を飛び越えて何時でも何処でも何をしていても「私たち衆生の今の事実」として在るという事なのです。

  • 迷いの始まり3

    ですから「香厳(きょうげん)」という和尚さんは、只「カチッ」という「音」を聞いただけで大悟したのです。 それはそのはずです。 「事実」を御覧ください。 「車の音」は考える以前に「事実としてちゃんと在る」という事です。 只、音がしただけで、「その音」が善いとか悪いとか分別(考える)するところから「迷いが始まる」のです。 善いとか悪いとかではないのです。 只、「どんな音」でも「その音、その物が在った」だけなのです。

  • 迷いの始まり2

    「只(ただ)事実が事実として先に(考え方より先に)在る」のです。 必ず「事実の方が考え方より先に在る」のです。 「無いもの」は問題に出来ないのです。 「在る事」しか「問題に出来ない」という事は、「在る事」が先に在って、そして「在る事」に対して何故(なにゆえに)と行ったからです。 これが「考え方」です。 ですから「本来の面目」として本質的なものがちゃんと在るのです。 ここに着目していただかなければなりません。

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2

    「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。 しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。 それを「その成 自ずから(おのずから)證す」といいます。 「證す」とは自證のことです。 仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。 もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。 「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1

    自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。 それを「其の現自ら親し(そのげん おのずからしたし)」といいます。 「親し」とは親密ということです。 これは「不思量にして現ず」の証拠です。 道歌に「糸瓜(へちま)とは 糸瓜に似たる 糸瓜かな」と。 「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず3

    「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。 見る時は、見るばかり。 聞く時は、聞くばかり。 「人」も「境」も認めようのないはずのものです。 不思量の故に不回互なのです。 決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。 この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず2

    「現成(げんじょう)」の「現」は有りのまま、手の付けようもないことです。 普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)で云えば「不思量底を思量す」の不思量にして即ち「非思量」の境界(きょうがい)です。 物の外に自己というものが有(在)れば「物と我」との隔てが付いて衝突せざるを得ません。 この「現」にはその物ばかりにして何の雑物も無いから、このくらい親しいものはないのです。

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず1

    全ての物は有形無形を問わず、物その物のみにして、その物の外に思慮や分別の入る隙間が無いはずです。 これを「不思量にして現ず」といいます。 坐禅はこれが標準なのです。 ですから、この事は「坐禅」して自覚する外に道はないのです。 これを「人は坐禅するにあらず、坐禅に坐せらるるなり」というのです。 そこのところを祖師は「自己を忘ずる時、己ならざるは無し」と云いました。 故に宇宙は全自己となって現成(げんじょう)するのです。

  • 法理6

    「解脱(げだつ)」が自覚に至る最終的な状況においては、それまで「道標(道しるべ)」にしてきた、あらゆる教義や信仰思想や文化、更には人間(にんげん)特有のものの見方の一切を「手放す」ことが出来なければならないのです。 見ている人の対象が変われば、過去と未来の関係も異なったものになるのです。 見ている人が対象を見る時間軸が異なれば、そこに観察される「現象」も異なった形をとるのです。 「現象世界」では、それぞれの人が、自分の感知できる波動領域の中で受けた印象を判断しているに過ぎないのです。 「知識」が日常生活にほとんど反映されていなかったとすれば、その人は「知(識)っていた」にもかかわらず、それを実…

  • 法理5

    「覚者のお言葉」も、伝える相手が「自意識の中」で、過去の経験を寄せ集めた「観念(妄念)」に因って受け取った場合には、その「真意」は伝わらず、むしろ、つまずかせることになります。 「知識(観念)」として知っていることと、実際に「悟り」を開いてその真意を識る(しる)ことは全く別の問題なのです。 「素直」とは「素(もと)から直(じか)に」ということです。 つまり、「悟りの体験から直接に」ということです。 言葉に因って起こされる概念の一切は、人間(にんげん)の心の中で生じている「法の働き」です。 また、外の世界を認識しようとする意識の働きに因る、心に投影された「想念の波動」なのであって、自然界に実在し…

  • 法理4

    知ることも、知らぬことも、半分しか知らぬことも、それはすべてあなたの「事実」です。 そのままにして自分を残しては、成ることも成りません。 「悟る」とは、自分が自分に成ることです。 「悟りの證明」には、「事実の證明」と「理論の證明」が在ってはじめて成り立つことです。 「正しい」という言葉は「一つに成った事」で、正邪の正ではありません。 考えそのものに成るということです。 自分のものではない、おシャカ様の「道」を歩くから、「道」が見えないのです。

  • 法理3

    おシャカ様の考えは全て「結果論」です。 「今の自己」が最も重要で確かです。 この意味で、おシャカ様の教えは不要です。 自分が「今」どういう状態で生活しているか、その事が一番問題にならなければいけないのです。 分かる、分からない、には継ぎ目がありません。 どちらも「一つ物(同じ物)」から出ているのです。 「人も縁起の法そのものである」ということを理解することが大切です。 「仏性(ぶっしょう)」という言葉を聞いただけで「仏の性」としか理解していない人が多いです。 しかし、そうではありません。 仏性から言えば、「仏性の働きのまま」なのです。 何物も無くなった処が「道」の究極です。 「そのまま」とは、…

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