頑張るという事と結果というのは全く関係が有(在)りません。 一生(一所)懸命で頑張るだけです。 そうすれば結果は待たずとも、求めなくても必ずやってくるわけです。 「不断の精進」です。 思い出さずに忘れずに「只、唯(ただ)」務めていただきさえすれば、それだけで十分なのです。 「今、始めて修行(坐禅)」をする、何時でも何処でも何をしていても「今が最初だ」ということです。 本当にこれは「根気仕事」です。 止めてしまっては、此れはそれで終わりです。 「自ら菩提の芽」を摘み取るようなものです。 初心を忘れずに意義付け、意味付けの無い修行(坐禅)をするという事に務めていただきたいと思います。 哲学・思想ラ…
私たち衆生は努力に於ける「瞬間の真意義」を了得し、此の人生をして果無き成功」より免れて意義のある人生にしたいものです。 此れが私たち衆生が世に生まれて来た「必然の目的」ではないでしょうか。 古人曰く「失望することなかれ 失望することなかれ 失望は必ず病人の夢なるべし」と。 また曰く「努力せよ 努力せよ 努力して得ざるは困窮のみ」と。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
努力に依って永久の生命が得られ、無我の真理の「証明」が出来るのです。 これが「大説法」です。 先般申し上げました通り「己れ無き時 己れならざるはなし」で何時でも何処でも何をしていても全体と共に有(在)るのです。 先に「成功の定義」として「成功は何時でも同分量」なのです。 「成功」は「時と所と位(くらい)に因って変わってはいけないのです。変化するものではないのです。 「永久成らざる可からず」なのです。 この「三つの条件(同量・不変・永久)が「努力の瞬間」に発見されるのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
古人曰く「己れ無き時 己れならざるはなし」と。 この意味は「努力の瞬間」に己れ其の物が全体に行きわたり、全自己となって現成(げんじょう)するという事です。 「我れニなれば 他のハはニに包容される」という事です。 何時も分量は同じなのです。 これが即ち「無我の価」なのです。 努力に依って己れを忘ぜる物の価なのです。 この事が「成功の真意義」なのです。 努力其の物の価が分かったら、努力其の物に依って一生の目的も立ち、人間(にんげん)の権利、義務も果たし得られるのです。 生産力、即ち、能率が増し、世を救って罪より免れる事が出来るのは「只 此の努力」のみなのです。 「道(法)は近きに在り」然もこれを遠…
生まれたままの者は「本覚」ですから、それを「如」と名付けるのです。 「起信論」には此の「覚る」というのを四通りに説いてあり、先ず凡夫の一番分かる様に「前念の起悪 これを覚」と書いてあります。 「前念の起悪」とは前に思う事は大変間違っていて悪かったと覚って、その時に「来」という字になるのです。 即ち始めて「覚り」が出て来たのを「来」というのです。 この事は即ち私たち衆生が修行すれば「始覚」という時節が来るのです。 円覚経に「始めて知る 本来成仏なることを 生死涅槃 猶(なお)昨夢の如し」と。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「覚る」とは「事実これである」という事が胸に現れ、なるほどと能く合点が出来るという事です。 しかもこれは皆、出来る事でありますが、そこの処まで辛抱する人が無いのです。 「始覚」を来(らい)と名付け、「本覚」を如(にょ)と名付く、というお言葉があります。 皆、自分に具わっていますが捨てておいては駄目なのです。 一生(一所)懸命に修行するとそれが現われて来るのです。 「本覚」は「本来の面目」で、誰もが持っているものです。 それは修行する事に依って悟る事が出来るのです。「看る事」が出来るのです。 此の時を「始覚」といいます。 これを「来」ともいうのです。 「来」とは既に逃亡してしまった者が戻って来た…
「只(ただ)」お湯の中に入ったのです。 そうしたら自我も何も無いから「只、入ったら」入ったその温度の通りに成ったのです。 此れを「自己を忘ずる」といいます。 それですから「法(道)」というものは遠方に在る事を教えているのではないのです。 手元に有(在)って、自分に何時でも具わって動いているものを皆、捨てて他へ他へと求めるから何年修行しても分からないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
お風呂に入ると、温かいと思うから温かいのではありません。 入った途端に「只(ただ)温かい」のです。 この様に「此の物」は何なりと直ぐに「一如に成る」ように出来ているのです。 昔、お風呂に入った途端、悟ったお方が居られました。 それを「水因三昧(すいいんざんまい)」といいます。 水の因縁に依る三昧という事です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
植物に花の咲くのは「真如」が在るからです。 この本心(真如)が在って初めて、人間(にんげん)と生まれ、犬と生まれ、猫と生まれるのです。 ですから、われわれ人間という身体に現われたという事は、余程悦ばなければならないのです。 「形」も「真如」に成り、「心」も「真如」に成らなければなりません。 「真如」の「真」は「誠(まこと)」、「如」は「変わらない」という事です。 人は「真実の生き如来」に成らなければなりません。 皆、自分に具わっている事です。 捨てておいては駄目なのです。 一生(一所)懸命に修行すれば、それが現われて来るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「真如」とは人の本心をいいます。 この真如とは「仏性」といって、その「真如仏性の中(うち)」より相互目鼻の付いた身体という所の物が出来たのです。 「心」というものが在ったから人間(にんげん)という身体が出来て、ちゃんとそうして歩き、また物思う事が出来、誠に都合の良い物が出来たのです。 これは即ち「真如」という「本心」が本(もと)に成って現れたのです。 天地万物、皆そうなのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
「不妄語戒(ふもうごかい)」とは「五戒」並びに「十重禁戒」の中に在る「戒法」です。 「妄」という字には ”ウソ” という意味が在りますから「不妄語戒」を字のままに読むと「ウソをついてはいけない」という事になります。 しかし仏法では「実相は無相なり」と説いているように、此の世には実相(本当)も無相(ウソ)も存在しません。 その意味からすると、現在の世の中で「真実」とされる事、即ち「今の自分の様子・今の事実」を「そうだ、其の通りだ」と受け取ってはいけないし、まして ”ウソ” とされる事はもっと受け取ってはならないという事になります。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村
私たち衆生は「成道の為め」に健康に十分注意しながら「道を成じる・自己の正体を見極める」べく努力していかなければならないのです。 「今此の食を受く」の「今」とは「生死を離れた今」という事です。 全て「仏道を成ぜんが為め、自己の正体を見極める為め」に私たち衆生は飲食(おんじき)をし、諸々の日常生活をするという事なのです。 了尽
私たち衆生は「成道の為め」に健康に十分注意しながら「道を成じる・自己の正体を見極める」べく努力していかなければならないのです。 「今此の食を受く」の「今」とは「生死を離れた今」という事です。 全て「仏道を成ぜんが為め、自己の正体を見極める為め」に私たち衆生は飲食(おんじき)をし、諸々の日常生活をするという事なのです。 了尽
「五観之偈」の第四番目に「四つには正(まさ)に良薬を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為めなり」と示されています。 ここでいう「形枯を療ぜんが為めなり」というのは「道」を聞く為に生を保てば善いという事です。 「五観之偈」の第五番目に「五つには成道の為めの故に今此の食(じき)を受く」と示されています。 此れが一番大切な事です。
「五観之偈」の第四番目に「四つには正(まさ)に良薬を事(こと)とするは形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為めなり」と示されています。 ここでいう「形枯を療ぜんが為めなり」というのは「道」を聞く為に生を保てば善いという事です。 「五観之偈」の第五番目に「五つには成道の為めの故に今此の食(じき)を受く」と示されています。 此れが一番大切な事です。
生きる事も死ぬことも同じ「道」です。 決して生まれる事が目出度くて、死ぬ事が不幸という事ではありません。 「道」から外れた生活は一時もありません。 善業悪業、共に「道」ですから何方にも楽しく身を任せていく必要が在ります。 嫌な仕事でもやるべき事はやらなければなりません。 それしか「道」は在りません。 それが「道」というものです。
生きる事も死ぬことも同じ「道」です。 決して生まれる事が目出度くて、死ぬ事が不幸という事ではありません。 「道」から外れた生活は一時もありません。 善業悪業、共に「道」ですから何方にも楽しく身を任せていく必要が在ります。 嫌な仕事でもやるべき事はやらなければなりません。 それしか「道」は在りません。 それが「道」というものです。
私たち衆生は何の為、如何して食べるのか、是は大変大事な問題です。 この様な問題を投げかけると大抵「生きるため」という答えが返ってきます。 しかし、「食べて何時までも生きる訳ではないのに」という疑問が生じます。 何時かこの身は「死ぬこと」は決まっています。 そうすると「生きるため」というより「死ぬ為に食べる」と言った方がいささか合理的な気がします。 「無常の世の中で在る事」を忘れてほしくありません。
私たち衆生は何の為、如何して食べるのか、是は大変大事な問題です。 この様な問題を投げかけると大抵「生きるため」という答えが返ってきます。 しかし、「食べて何時までも生きる訳ではないのに」という疑問が生じます。 何時かこの身は「死ぬこと」は決まっています。 そうすると「生きるため」というより「死ぬ為に食べる」と言った方がいささか合理的な気がします。 「無常の世の中で在る事」を忘れてほしくありません。
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