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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

  • 彼岸について1

    彼岸とは仏教語です。広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。みんなそれぞれに一杯一杯なのです。しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。そこで止む...彼岸について1

  • 「坐禅箴」残り物5

    「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。「壊」は”ヤブレル”または”クズレル”と読みます。その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。「そのまま」というのも及ばずです。除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。その間に認識の入る隙間はありません。認めれば妄想です。その物に成ることです。「坐禅箴」残り物5

  • 「坐禅箴」残り物4

    「単」は「不染汚(ふぜんな)」です。「不染汚」とは外から汚されないことをいいます。元来、不染汚の境界(きょうがい)に体達して、異分子が混じわらなければ(残り物がなければ)六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のままで極浄です。もはや落とすべき「煩悩・菩提」も無いのです。そのものそれに向かって直下(じきげ)に究盡(ぐうじん)する修行が、ここでは「委すること無うして脱落す」というのです、「坐禅箴」残り物4

  • 「坐禅箴」残り物3

    「禅」の字が「単、示」の二字から成立しています。「単」は赤裸々です。「赤裸々」とは「裸をもう一つ裸にする」と理解しなければなりません。裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。ちょうど百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っているようなものです。「悟り」というものが有(在)れば、それだけ「単」ではないのです。それを「真常流注(しんじょうるちゅう)」といいます。いわゆる「悟りという病」です。所詮、何物も脱し、何事も落としてこそ「大自在底」が初めて得られるのです。そこのところを道元禅師は「坐禅箴」の中で「その親委(い)すること無(の)うして脱落す」と、お示しになって居られます。「坐禅箴」残り物3

  • 「坐禅箴」残り物2

    本当に親しいものは、何者が入って来ても犯されるものではありません。時と処によって境界(きょうがい)が変わるものではないのです。汚されるものは不思量に「残り物」があるからです。「何も無い」というものを、もう一つ殺さなければ本当の親しみは得られません。「坐禅箴」残り物2

  • 「坐禅箴」残り物1

    「不思量」とは自己を忘ずることです。「自己を忘ずる」とは、万法(まんぼう)に證せらるることです。ですから、その現れ方は純一無雑にして何物に当たっても親密でなければなりません。ところが「実地」に於いてはそうは行かないのです。ちょうど、魚を焼いてしまってもなお、匂いが残るようなものです。そこで歴代の覚者は一層の奮起を促して「小成(しょうじょう)に安ずること」を戒められるのです。「坐禅箴」残り物1

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3

    ここのところは、「現成(げんじょう)」の二字を「現」と「成」と割って使っていますが、「現成」とは現れて確かで間違いのない様子をいいます。山は高くして山であるということです。「諸法実相」は現れたまま欠けることもなく成就しているのです。ですから「現成」といいます。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2

    「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。それを「その成自ずから(おのずから)證す」といいます。「證す」とは自證のことです。仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1

    自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。それを「其の現自ら親し(そのげんおのずからしたし)」といいます。「親し」とは親密ということです。これは「不思量にして現ず」の証拠です。道歌に「糸瓜(へちま)とは糸瓜に似たる糸瓜かな」と。「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず3

    「不回互(ふえご)にして成ず」とは、物は皆いちいち独立して外からの何の交渉も、回互も入る隙間も無いはずです。見る時は、見るばかり。聞く時は、聞くばかり。「人」も「境」も認めようのないはずのものです。不思量の故に不回互なのです。決していちいちの独立で他の干渉を許さぬものです。この「成」は成立、または成就の義で、人格的には「成仏」の「成」ということです。「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず3

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず2

    「現成(げんじょう)」の「現」は有りのまま、手の付けようもないことです。普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)で云えば「不思量底を思量す」の不思量にして即ち「非思量」の境界(きょうがい)です。物の外に自己というものが有(在)れば「物と我」との隔てが付いて衝突せざるを得ません。この「現」にはその物ばかりにして何の雑物も無いから、このくらい親しいものはないのです。「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず2

  • 「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず1

    全ての物は有形無形を問わず、物その物のみにして、その物の外に思慮や分別の入る隙間が無いはずです。これを「不思量にして現ず」といいます。坐禅はこれが標準なのです。ですから、この事は「坐禅」して自覚する外に道はないのです。これを「人は坐禅するにあらず、坐禅に坐せらるるなり」というのです。そこのところを祖師は「自己を忘ずる時、己ならざるは無し」と云いました。故に宇宙は全自己となって現成(げんじょう)するのです。「坐禅箴」不思量にして現じ不回互にして成ず1

  • 法理6

    「解脱(げだつ)」が自覚に至る最終的な状況においては、それまで「道標(道しるべ)」にしてきた、あらゆる教義や信仰思想や文化、更には人間(にんげん)特有のものの見方の一切を「手放す」ことが出来なければならないのです。見ている人の対象が変われば、過去と未来の関係も異なったものになるのです。見ている人が対象を見る時間軸が異なれば、そこに観察される「現象」も異なった形をとるのです。「現象世界」では、それぞれの人が、自分の感知できる波動領域の中で受けた印象を判断しているに過ぎないのです。「知識」が日常生活にほとんど反映されていなかったとすれば、その人は「知(識)っていた」にもかかわらず、それを実行していなかったという点で、「知(識)らずに」行った人の過ちに比べてはるかに大きな「カルマ」を造ることになるのです。法理6

  • 法理5

    「覚者のお言葉」も、伝える相手が「自意識の中」で、過去の経験を寄せ集めた「観念(妄念)」に因って受け取った場合には、その「真意」は伝わらず、むしろ、つまずかせることになります。「知識(観念)」として知っていることと、実際に「悟り」を開いてその真意を識る(しる)ことは全く別の問題なのです。「素直」とは「素(もと)から直(じか)に」ということです。つまり、「悟りの体験から直接に」ということです。言葉に因って起こされる概念の一切は、人間(にんげん)の心の中で生じている「法の働き」です。また、外の世界を認識しようとする意識の働きに因る、心に投影された「想念の波動」なのであって、自然界に実在しているエネルギー状態そのものではないのです。法理5

  • 法理4

    知ることも、知らぬことも、半分しか知らぬことも、それはすべてあなたの「事実」です。そのままにして自分を残しては、成ることも成りません。「悟る」とは、自分が自分に成ることです。「悟りの證明」には、「事実の證明」と「理論の證明」が在ってはじめて成り立つことです。「正しい」という言葉は「一つに成った事」で、正邪の正ではありません。考えそのものに成るということです。自分のものではない、おシャカ様の「道」を歩くから、「道」が見えないのです。法理4

  • 法理3

    おシャカ様の考えは全て「結果論」です。「今の自己」が最も重要で確かです。この意味で、おシャカ様の教えは不要です。自分が「今」どういう状態で生活しているか、その事が一番問題にならなければいけないのです。分かる、分からない、には継ぎ目がありません。どちらも「一つ物(同じ物)」から出ているのです。「人も縁起の法そのものである」ということを理解することが大切です。「仏性(ぶっしょう)」という言葉を聞いただけで「仏の性」としか理解していない人が多いです。しかし、そうではありません。仏性から言えば、「仏性の働きのまま」なのです。何物も無くなった処が「道」の究極です。「そのまま」とは、「有りのまま」ということです。「このままで善かった」と、いうことです。心の働きを摂(おさ)めるのに、動かないようにするのは心を摂める事に...法理3

  • 法理2

    あなたの「今」が涅槃の状態です。しかしもし、あなたが涅槃にあると知ったなら、直ちにその外にあります。人は「今」を認められないのです。唯、未来と過去しか認められないのです。「法理」として「事実」というものは、考えの先にあって考えを起こした時は、「事実」は既に亡くなっているということです。ですから、私たち衆生は考えによって考えをより以上に洗練したり、考えの中で「事実」に達しようとしても出来ないのです。「認識は事実の後に生じる」という事を知らない為に「先に目的を持たない」という考えが成立してしまうのです。いわゆるそれが「無所悟無所得(むしょごむしょとく)」というものです。「考えがあってから、事実がある」と思ってしまうのです。法理2

  • 法理1

    「法理」とは、法の原理、法の道理という事です。しかし、本来「法理」は蛇足です。一応「法理」は聞いてもらって、「法理」は必要でなかったという事を知ってもらう為に指導者は話をするのです。病人には薬が必要ですが、病人でない人には薬は不必要です。むしろ無い方が良いのです。むしろ無い方が良いのです。しかし病気でないのに病気と考える人には、薬を見せる必要があります。それが「衆生本来仏なり」というお言葉です。「今」それを信じたならば、おシャカ様の教えは不必要です。しかし、自我の為になかなか信じられないのです。それで指導者は「法理」の薬を与えるのです。法理1

  • 徹頭徹尾(真の満足)

    「徹頭徹尾」という言葉があります。「時間以前」「人の生まれる以前」「物の生ずる以前」そういう「事実」を、「今」「ここにおいて」、他で求めるのではないのです。「今」ここにおいて、そういう「今の事実」がきちんとしていることを分かって頂きたく思います。「今の事実」に徹してみて初めておシャカ様の教えというものの様子がうかがえるのです。また、自分自身にも本当に満足が出来るのです。そこまでいかないと、どうしても「真の満足」が出来るということはおぼつかないのです。自分の事ですから、本当に自分で必ず満足のいくものです。自分自身に自分自身が聞いてみて、はっきり言いきれる、そこまで自らで本当に「功夫(くふう)」してもらいたいと思います。徹頭徹尾(真の満足)

  • 「坐禅箴」仏祖2

    「おシャカ様の坐禅」は右指を上にして「果(結果)」を示します。「祖師(私たち衆生)の坐禅」は左指を上にして「因(原因)」を示すのです。両手を相合わせれば「祖師(私たち衆生)の坐禅」は「降魔(ごうま)」の印相です。おシャカ様の印相を「吉祥印(きちじょういん)」といいます。これは「仏祖の生命」をいったものです。何によってこれを「証明」するのか、となれば即ちこれ「坐禅」です。「坐禅箴」仏祖2

  • 「坐禅箴」仏祖1

    「仏祖」の「仏」というのは、おシャカ様です。「祖」というのは歴代の覚者のことです。「祖」とは別に言えば「歴代の祖師」ということです。道元禅師の「坐禅箴(ざぜんしん)」の冒頭に「仏仏の要機、祖祖の機要」というお示しがあります。「要機」の「要」は結果です。活力です。肝要の要です。「機」は原因です。ですから「要機」とは大力量の人という意味です。「仏」は結果を先にし、「祖」は原因を先にしたのです。この「二字(仏祖)」が相い合わせれば同じ分量ですが、「仏(おシャカ様)」を尊敬する意味があるのです。「坐禅箴」仏祖1

  • 一水四見の教え2

    「仏見(仏様のいわれること)」に随わない限りは、言い換えれば自分というものを認める相対的な判断を無くさない限り、どのような見方をしても誤ってしまうというのが「一水四見」という教えです。私たち衆生がいつまでも「一水四見」の教え方や見方をしていると、どんなに坐禅に一所懸命になっても「惑業(わくごう)」という「事の是非を取り違えた料簡、即ち悪業」が相続されていって、そこから逃れることができません。そして、他で得た知識でおシャカ様や歴代の覚者の法を自分なりに解明しようとしたり、自分なりの判断から「坐禅(法)を分かった」とか「坐禅はよいことだ」と思ったり語ったりするという間違いをおかしてしまいます。一水四見の教え2

  • 一水四見の教え1

    「一水四見(いっすいしけん)」というのは「水」という字を、水界、天上界、人界(にんかい)、餓鬼界の四つの立場から見るという事です。水界に棲む魚に向かって「水(この世)というのは、住み心地のいい所である」と説けば魚はそうだとうなずくでしょうが、「燃え盛る火だ」と説けば”ウソ”になります。立場を変えて天上界で何不自由ない生活をしている人にとっては、水(この世)は住み心地のよい所というより、まばゆいばかりに輝く宝石に見えるでしょう。人界にいる人は「水は水だ」というでしょうし、満足という事をしらない餓鬼界にいる人にとっては、猛火の如くに見えるでしょう。このように、水界に生活する者、天上界に生活する者、人界に生活する者、餓鬼界に生活する者が水をどのように説明してみても立場が変わればみんな”ウソ”になってしまいます。一水四見の教え1

  • 世法について2

    他の有名な覚者のお言葉に、「世法に実(じつ)なるものは、仏法にも実なり」というお示しがあります。世の中の法に、真面目に真剣につとめている方は、仏法(道)にも実なのです。世間の法には一如(いちにょ)というような事がありません。しかし、仏法ではいつでも一如だといっています。ところが、どうしても自我の迷執というものによって一つのものを二つに見てしまうのです。これは「無明(むみょう)」の然らしめるところなので、どうしてもこの「無明(むみょう)」を明確にしなければならないという事です。物事をつきつめていくと、生死(しょうじ)が問題になってきます。修行することは生死の問題を根本より解決することにならなくてはいけないと思います。いいかげんな気持ちでは「生きるか死ぬか」の問題は解決いたしません。世法について2

  • 世法について1

    世の中には、なかなか専一に「道を求める」修行をすることが困難なので「世間には仏法(道)というものはないんだ」と考えてしまう人が多いと思います。しかし、そうではありません。その辺のところを正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)では「世間の法には、仏法(道)がないという事だけを思って」「仏法のなかに世法のなきことを、いまだ知らず」とはっきり示されております。すなわち世法、仏法(道)ともにすべて、仏法(道)そのものであるという事を知らないといけないのです。別の言い方をすれば、仏法(道)と世法を区別して、線を引く事はありえないという事です。世法について1

  • 心の置き所

    「坐禅の仕方」は「普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)」に記されている通りです。ここに大事な事があります。如浄(にょじょう)禅師が道元禅師に「坐禅の要訣」を授けられました。「元子(げんす)坐禅の時は心を左掌に置け」と。「左掌」とは”左の手の平”ということです。このことは「古術」です。よく坐禅の指導者が下腹に力を入れよといいますが、ここのこと(左掌)なのです。その「妙所」が分からずに気張る方がありますが、その心がかえって邪魔物となるのです。「坐の功」を積めば「心を左掌に置く」という意思もなくなり、法身(ほっしん)遂に「坐そのもの」に化して来ます。そして「坐」というものも遂になくなります。これが「大事打開」ということです。このことは、やって證するより外はありません。心の置き所

  • 人の道

    今日では報恩感謝の念が薄くなってはいないでしょうか。「権利と義務」を親子兄弟ふうふの間にまで振り回す人がある事は、驚くほかはありません。心すべきことです。然らば如何にして「人の人たる道」を全うすることが出来るのでしょうか。道元禅師「修証義・行持報恩」に「其(その)報謝(ほうしゃ)は余外(よげ)の法は中(あた)るべからず、唯当(ただまさ)に日日(にちにち)の行持其報謝の正道(しょうどう)なるべし、謂(いわ)ゆるの道理は日日の生命を等閑(なおざり)にせず、私(わたくし)に費やさざらんと行持するなり」と。あるべきように今日を過ごすことです。別の言葉で言えばその日その日その場その場に全力を挙げることです。経に曰く、「若し人生とて百歳なるも諸仏の機を会せずんば、生まれて一日にして能くこれを決了するに若(し)かず」。...人の道

  • 成就

    慈明(じみょう)という和尚さんは眠くなると自分の股に錐をさして、そうして坐ったそうです。「私が頼りにするものは坐禅のほかに在りません」、そういうことだったんだと思います。だから眠っていられなかったのです。慈明和尚さんは「眠ることも坐禅である」ということは分かっていても、そんなことはしなかったのです。「眠るのも坐禅、腹が減れば飯を食うのも坐禅だ」みんなそんなことは知(識)っています。しかし慈明和尚さんはそれをせず(知っている事を使わず)に坐られたのです。おシャカ様を始めとして歴代の覚者といわれる方々はみんなそうして苦労なさったのです。その事が無ければ「法(道)」というものは「成就」しないのも事実なのです。成就

  • おシャカ様の真(深)意義3

    ここにおいて「おシャカ様の大慈大悲」の在る事を知(識)らなければなりません。「法が滅びるぞ」というのは、「法を滅ぼしてはいけない」という意味が在るのです。「弱いやつだ」とは、強くなれよという慈悲がこもっているのです。「馬鹿だな」とは賢くなれという事です。「滅盡するぞ、濁っているぞ」とは永久に成れよ、清く成れよという意味なのです。これが即ち「正像末」の三時を立て「法滅盡経」を説いた「おシャカ様の真(深)意義」なのです。おシャカ様の真(深)意義3

  • おシャカ様の真(深)意義2

    おシャカ様が「正像末」を説いたのは、私たち衆生の怠慢を戒め、裏面には私たち衆生の惰眠を覚ましたかったのです。ですから「回向文(えこうもん)」にも「末法を正法にかえし、群生(ぐんじょう)を無生(むしょう)に導き給え」と在ります。「法滅盡経(ほうめつじんきょう)」に依れば末法に入ると「法」は凡て滅盡すると在ります。いまや仏教を研究するのはほとんど無駄のように見えてしまいます。何故ならば「今」が「末法の真っ只中」だからです。おシャカ様の真(深)意義2

  • おシャカ様の真(深)意義1

    おシャカ様は「正、像、末(しょうぞうまつ)」の「三時」をお説きになりました。「正」とは證(さとり)という事です。おシャカ様入滅後も正しく證果を得る者も在り、行もありました。これが「正法時」です。正法千年、像法千年、末法万年というのが「大悲経」の説にあります。「像法」とは、「像」は似るという意味です。教在り、行在りで證果無く、「像似(ぞうじ)」の仏法が行われている時を「像法時」といいます。「證果」の無い教行は本物ではありません。似て非なる物であることを知(識)らねばなりません。「末法」の「末」とは微(かす)かの意味です。微末にして、ただ教在りて行無く、證果の無きを「末法時」といっているのです。時に「正像末」在りといえども人は自在で在り無自性です。「為せば何事も成し遂げるもの」です。おシャカ様の真(深)意義1

  • 衆生本来仏なり2

    どれだけ自分が自分を信じていても知らず識らずのうちに、やはり「この物」は変わらなければならないと思ってしまうものです。実に「不思議」なものです。長い間修行(坐禅)をしていると、「これで善いのだろうか、こんな自分の言動で善いんだろうか」という様々な事を考え出すものです。それくらい流れ出る「自分の意識」というものは取れにくいものです。そこで「万(ばん)止むを得ずですが、しばらく修と証(行)を分けて修行(坐禅)をしてもらうのです。それ以外に如何することも出来ません。衆生本来仏なり2

  • 衆生本来仏なり1

    私たち衆生は「衆生本来仏なり」という事をなかなか信じられないものです。何故ならばまず自分の観念で「仏」というものを作り出して、「仏」というのはそういうお方だろうという事から自分の生活と比べてみてしまうので自分自身が「仏(おシャカ様)」であるという事が信じられないのです。ですから「修行して仏に成ろう」としてしまうのです。結論から言えば私たち衆生一人一人が既に悟りの中で生活しているのです。既に自分の無くなった様子で日常生活を営んでいるのです。「本当に人が人に成った時(仏に成ろうという求め心が無くなった時、凡夫が凡夫に本当に”ああこれで善かったんだ”と自らを許した時)」を「仏」といいます。衆生本来仏なり1

  • 真理

    全てはそう成るべき因があった「結果」です。ですから「偶然」ではなく「必然」なのです。自分の作業ではありません。自分がやるのではありません。そう成るべき「理由」があってそう成るのです。自分がやるのでしたら思うように行きそうなものですが、そうは行かないのです。一番わかるのは、自分が長生きしたくてもそうは行かないではありませんか。これが「心理の実験」です。古人は「事実は真理の証明者なり」と言っています。何事でも出たものが「結果」ですから他に比較の仕様がないのです。その時その時いっぱいいっぱいの物ですから、比較の仕様がないのです。ですから、その場その場の真理に満足して唯(ただ)務めていけば善いのです。真理

  • おシャカ様の尊さ2

    始めからいちいち、そういうふうにすっかり解脱した境界(きょうがい)に誰でもいるのですが「そんなことが」という気がするものです。「そんなことが道なのか」と思うのです。それだから困るのです。「道」というものを遠いところに求めて理想を描くからです。人間(にんげん)が理想を描いていると、如何にも立派そうですけれどもそれが「迷いの根」なのです。それを知(識)らないのです。ほとんどの人が如何すべきか、何処が本当なのかちっとも分らずに乱れ騒いでいるのです。「仏教」というものは、そういうものの中心をきちんと今教えているのです。おシャカ様はそういう「尊い道」を教えられたのです。おシャカ様の尊さ2

  • おシャカ様の尊さ1

    「仏道の教える道」は私たち衆生がこれから立派な者に成るのではないのです。これから解脱するのではないのです。私たち衆生は最初から解脱していたという事なのです。私たち衆生は忘れているのです。ですからそういう事に私たち衆生は気付いてみる事が大切なのです。それは何故かというと、おシャカ様が「大悟(だいご)」された時に「一切の衆生は如来の智と徳と相とを全部具えているではないか」とおシャカ様ご自身がそのように宣言して居られるからです。「仏道」で言う「「救われる」ということは、外の人を救うのではありません。自分自身が自分自身を本当に救う道なのです。それを教えられたのが「仏祖」です。それですから「おシャカ様は尊い」のです。おシャカ様の尊さ1

  • おシャカ様の坐禅2

    「何とかして正覚(しょうがく)を得なければならない」という事、ただそれだけだったのではないでしょうか。今の多くの坐禅をしている人達の問題は一切問題ではなかったと思います。繰り返しになりますが、「何とかして、どうにかして正覚を得なければこの坐を立たない」というその「菩提心」だけなのではないでしょうか。他の事はもう問題ではなかったと思われます。そういうものが無くして、只、坐禅の手段や方法だけを問題にしている間は「それだけ」に過ぎません。そこのところを、もう一度よく自分で「本当に道(法)を求める心構えに成っているかどうか」という事を考えて頂きたいと思います。おシャカ様の坐禅2

  • おシャカ様の坐禅1

    おシャカ様は坐る上に於いては指導者はいなかったのです。ところが、今の多くの坐禅をする人たちは「どのように坐ったらいいのだろうか、どうしたらよいのだろうか」という事だけが問題になっているのです。「どのような坐り方によって悟りを得られるのだろうか」という事だけが気になっているのです。ですから、おシャカ様の坐禅と自分の坐禅とは全然違うという事に気が付いてもらわなければなりません。おシャカ様は自己を苦しめることによって解脱が得られると思いましたけれども、そうではなかったことに気が付かれました。そして自分が正しい解脱を得ることが出来なければ「この坐を立たない」という固い決心の元、(今でいえば坐禅ですけれども)坐られたということです。おシャカ様は歴史の上では非常に立派な坐禅をしておられたように書かれていますが、「事実...おシャカ様の坐禅1

  • 道はひとつ

    何万という数の宗教が存在すると思います。それぞれ皆さんの宗教を信じて行地ておられます。私はそういう事実を否定するわけではありません。その自分の信じる宗教の内に私が常々申し上げている「活かして生きる修行」を取り入れて頂くと、皆「道はひとつ」に成ります。そして皆さんそれぞれの宗教の教えに依って本当の平和な自由な人に成れるということです。ですから、今信じている「宗教(教え)」を止めて「他の宗教(他の教え)」に変わろうと思う必要は全くありません。そのまま自分の宗教を大切にしつつ「活かして生きる修行」を少しでも毎日の生活のうちに取り入れて充実した日常生活を送って頂きたいと思います。道はひとつ

  • 覚者の願い2

    「私は修行しています」という人が居たらそれは「我見の中で修行している」という事です。「正しい道」を聞いて、「我見」を持って修行すれば必ず「我見から離れる事(結果に至る事)」が出来るのです。別の言い方をすれば人から与えられたものを、自分の問題として考えなければならないということです。「覚者の願い」は救いを求めて集って来た人たちが自ら「覚者に成る道」を歩み、それぞれが覚者に成ってほしいのです。覚者の願い2

  • 覚者の願い1

    分かっている人も分からない人もどんな状態であっても「間違った道」というものはありません。全て「道」なのです。たとえ途中のものであっても途中が道(結果)なのです。私たち衆生は「自己の正体」を見極めなければならないのです。たとえおシャカ様の教えであろうともそれは自分の事ではありません。自分は「自己の正体」を見極めなければならないのです。覚者は「特別なことをしても何も好いことはありませんよ」といわれていますが、覚者からそのお言葉が出るまでには相当のご苦労をなさっている訳です。ですから結果に至ってみれば特別なことをする必要が無かったんだというようにお示しなさっている訳です。是非覚者のお言葉を自分のものにして頂きたく思います。覚者の願い1

  • 覚者の真(深)意

    覚者の用いる「本当とか本来」というお言葉の真(深)意は、私たち衆生の錯覚(錯誤)を「正す(指摘する)」為に用いているのです。ですから私たち衆生はその誤りに気付けば、そのお言葉は不要になります。しかし私たち衆生は各社の指摘を受けると「自己の正体を見極める」という「自分の問題」を忘れて覚者のお言葉の中に真(深)意を探り、「法(道)」を遠くに求めてしまうのです。ですから「覚者の老婆心切」はそれはそれで有り難く承り、自分の問題である「自己の正体を見極める」ことに専一にならなければなりません。ある覚者は「本来の衣」を掛けてはいけませんと、後進の私たち衆生を諭して居られます。覚者の真(深)意

  • 宗教2

    他の宗教には「自分で自分を救う」という教えは無いと思います。ですから、他の教えに比べれば多少難儀といいますか、大変だという事があるかもしれません。それだけ「大きなものを得られる」わけですから多少の我慢、努力や精進、そういうものがなくてはいけないという事です。宗教2

  • 宗教1

    どうしても「自己の本性(ほんしょう)を見極める必要が在るのです。「無自性(自分の無い事)」を自分自身で「なるほどそうだったんだな」という事を実証「理(理論)」においても証明する必要があるのです。「自分で自分を証明する」という、その教えが仏教(仏道)です。宗教1

  • おシャカ様の悟り2

    おシャカ様は夢から覚められた様子を四十九年間にわたり、説法して歩まれました。それを後世の人たちが「仏の教え=仏教」と呼ぶようになったわけです。当時のインドには九十六種もの宗教や哲学が在りましたが、それらの経典や思想などを一切邪魔扱いせず、ことごとく自らのものとして語られたので「八万四千の法門」が成り立ちました。その法門(おシャカ様の教え)に従って私たち衆生も「宇宙のあらゆる事実(法、法則)」に「目醒める修行」を世さていただいているのです。おシャカ様の悟り2

  • 人の死を考える1

    死というものが怖いという人います。これは自分というものを持って、亡くなった事を想像するからです。人の死でも同じ事がいえます。この物全体が死ぬのですから、自分が死ぬという事が分かるはずがないのです。いわゆる人の死は、死だけではありません。私たち衆生は、今そうしているうちにも生死「しょうじ」と謂うものを、繰り返しているのです。何時でも何をしていても、何処にいても生死を繰り返しているのですから、間違っても人の機能が働かなくなって体が冷たくなった様子だけを、人の死と思って頂かないようにしないという事になります人の死を考える1

  • 悟りの様子とは3

    それでは何が私たち衆生の悟りの「縁」を妨げているかというと、それは「我見」というものです。対象になるものの方に、善悪とか好き嫌いというようなものがあたかも存在していると思っているのです。これを「我見」といいます。私たち衆生の側に、分別する心というものがある事を忘れているのです。ですから、私たち衆生側に分別心があっても目覚める事は出来ないのです。悟りの様子とは3

  • 悟りの様子とは2

    おシャカ様のお示しに、一切のものはひとつのところに帰るというお示しがあります。即ち一切のものは、自分に帰るというのです。二千五百前の経験としてではなく、私達衆生もその事は、私達衆生一人一人の今の様子なのです。私達衆生はおシャカ様と同じなのです。私達衆生には既に備わっているのです。私達衆生は其の事を実証しなければならないのです。悟りの様子とは2

  • 悟りの様子とは1

    伝光録に曰く、「我と大地有情(うじょう)と同時に成道すと」。そこの処で私達衆生が注目しなければならない事は、おシャカ様が大地有情と言われている事です。おシャカ様は「私一人」が悟りを開いたと、「私一人」が自分の本当の姿を悟ったと、「私一人」がそういう状態に成ったという事では、ありません。全ての衆生と共に、然ういう目覚めがあったといっているのです。それでなければ「本当の目覚めということは有り得ない」という事なのです。私達衆生は、おシャカ様の悟りと同じ結果に在るのです。その事実を本当に知る別の言葉で言えば、結果と一つに成るという事が、私達衆生の修行の課題なのです。悟りの様子とは1

  • 悟りの道迷いの道3

    誰でも真面目に「法(道)を求めている」のに違いありません。それですから「今一つその求め方」という物は、自分の考えで如何にかしようとする事を行ってはいけないのです。道元禅師は、そういう事を述べている居られます。自分の考えで如何にかしようとする事を、行ってはいけないのです。自分の考えを使って修行しようとするそういう態度というのは、迷いの道ですよと、いっています。そうして「環境からこの物へ入って来る、そういうあり方は悟りの道ですよ」と説いています。悟りの道迷いの道3

  • 悟りの道迷いの道2

    「真実」といって何処かへ求めて行くから、そういう「追いかける心」を、止めなさいといわれるのです。只、「この物自分自身」が「此の物自分自身」で在るのです。そういう「追いかける心」を、止めなさいと謂われるのです。そういう事をおシャカ様や歴代の覚者は、教えているのです。他へ求める事を一切止めれば善いのです悟りの道迷いの道2

  • 悟りの道迷いの道1

    覚者曰く、「真を求むる事を用いざれ、ただすべからく見(けん)を息(や)むぶべし」。しかし、みんな「真実」を求めたいのではないでしょうか。「真実」を求めたいから「修行(坐禅)」をしているのではないのではないのでしょうか。それなのに「真を求めるな」とは随分「無鉄砲」なお示しです。如何して此の様な事を言うのかと申しますと、「私達衆生が皆真(しん)」だからです。「真で無い物・真実で無いのは一つも無い」のです。どうして此の様に言うのかと申しますと、「私達衆生皆真(しん)」だからです。「真でない物・真実でない物」は、一つも無いのです。それを私達衆生は知らないのです。悟りの道迷いの道1

  • おシャカ様の悟り1

    一体おシャカ様は何を悟られたのでしょうか。実は長い間夢を見ていた事に気が付いたのです。夜明けの明星は何時も時間を違えずに在り、それ迄もずっとご覧になって居られたに違わないのです。けれども、在る日刹那に本当に「自他」を離れてご覧になったという事です。おシャカ様は「生老病死」という、人生の根本苦から解放されなければ、安心(あんじん)は無いだろうと一生懸命に菩提樹の下で座って居られたのです。それがたまたま「十二月八日の夜明けの明星」をご覧になって「なあんだ、迷ったり不安に思うものなど始めから無いではないか安心や悟りなどというものは最初から在りはしないのだ」という事に気が付かれたのです。そういう夢から目覚められた人を「覚者」或るいは「仏」といい「悟りー解脱」といっています。おシャカ様の悟り1

  • 衆生教化(しゅじょうきょうけ)2

    自分自身は、既に結果に至っているにも拘わらず、経典等を読み自他の見を立てて今の様子見て、「自分自身の法に気が付くという事」はとても不可能な事であると思い込んで、自ら究極に至る道を断念するというような事が見聞(けんもん)される処です。それではいけないという事から、「仏祖の道」を「自分自身の道」として、然う云う教えに従って、修行する事に因って自分とおシャカ様或るいは歴代の覚者のお示しになる処の「法」とは、寸分違わないものであるという事を「自分自身で実証」していかなければなりません。衆生教化(しゅじょうきょうけ)2

  • 衆生教化(しゅじょうきょう)1

    近頃では、最初から「法」という定まった物が、何処かに在るという立場に立って色んな論説がなされ、そのために「法の論争」が行われるようになっています。「法」というのは私達衆生が、自分自身も法その物であったという事に気が付くようにおシャカ様が、「衆生教化」の為に建てられたものです。「仏道」というのは、「おシャカ様の法で在る」という事です。ですから私達衆生は、おシャカ様の歩まれた道(おシャカ様の法則)に踵を合わせていく事に従って、「仏教を学ぶ」のではありません。或るいはおシャカ様以降の歴代の覚者といわれる方々の示された教えに従って、行じる事ではありません。私達衆生は「自分自身の法に気が付く」という事です。衆生教化(しゅじょうきょう)1

  • 仏の真言3

    現今では「自我を満たす」ということから諸々の事が行われています。「孝順心」という言葉を聞いても、はるか遠い昔の事のように思い出される人があるかもしれませんし、全くそういうお言葉をご存じない方も居られるかもしれません。「順ぜざれば孝にあらず」というお言葉があります。「全ての事を真心をもって仕える」というふうに解釈をして頂きたいと思います。これは「仏の真言」です。「真言」というお言葉は自分を忘れたところが出ないと出て来ません。仏の真言3

  • 仏の真言2

    今の「孝」の「孝行」という事は「死語」となってきました。お父さんお母さんを大切にするのは当たり前のことです。「孝」は「戒の元だ」といわれています。お父さんお母さんのことを推し測って云々するということではありません。「大切にする」とは「隔たりの無い」ということです。「誠をもって尽くすこと」を「その物に成る」といいます。ですから「親しさの極まり」というのはお父さんお母さんと「ひとつに成る」ということなのです。本当にひとつに成った状態を仏教では「密」といいます。ですから「密」というのは「秘密の密」ではありません。仏の真言2

  • 仏の真言(しんごん)1

    「孝順心」というお言葉が在ります。「孝」とか「順」とかそういう字句が出てくると、なんとなく一昔前の、封建社会を想像される方が在るかも分かりません。しかし、「法(道)」を求める私達衆生は、封建とか今の新しい思想に関係なくこれらのお言葉は、「真心を用いてそのお言葉に従う」という意味にとっていただかなければなりません。おシャカ様を始めとして、歴代の覚者の教えに従って、「自分を無にして修行していく」という事が、どんなにしても必要な事です。洋の東西を問わず、修行をする上では、「自分の考えを一切さしはさまない事」が必要です。仏の真言(しんごん)1

  • 仏、仏を知らず

    「何をしていても修行ならば、ことさらに修行する必要は無いではないか」という人がいます。「何時何処で何をしていても、仏その物だというならば、そういう余分な事は必要はない」という人がいます。何時何処で何をしていても三昧にあるならば、殊更に三昧に成る必要はないという人もいます。然し「何時何処で何をしていても、修行だ」と言っても、修行している自分を自分が知る訳が有りません。「仏自ら仏を知る事」は、出来ません仏、仏を知らず

  • 新帰元4

    「見性(けんしょう)する」という事は、「新帰元(元に帰る)という事です。「四大(地・水・火・風)に帰る」という事です。ですけれども、「四大」というものも「四大」に因って、創られているのです。これを「因縁生(いんねんしょう)と言います。全く何処にも、毛筋ほどの元(根)が有(在)るものではありません。そういう事を、「理(理論)」として自分で納得しておいて頂かないと、分かった分からないとか、不安が生じるとか、全てそういう物は、「隔てて見る」からそういうものが出て来る訳です。不安のまま(そのまま)随い去る・逆境のまま(そのまま)に随い去っていってみて下さい。そうすれば何時でも「平和」です。そういう事が、「自己を明らかにする」ことに因って、よく分かるという事です。新帰元4

  • 新帰元3

    おシャカ様も達磨様も道元禅師も、どんなにしても説明出来なかった「今の事実」。これだけは、言葉にも物にも形(すがた)にも表す事が、出来なかったのです。その事(今の事実)を私達衆生は今、おシャカ様のお示し或るいは達磨様、道元禅師のお示しによって、「その道」を行じていくということです。それを行じ尽くせば、道(法)も無くならなければいけないし、修行(坐禅)もなくならなけば、いけないのです。それが「元に帰る」という事です。そういう道理(法理)という事を、よく理解しておいて、そうして信決定(しんけつじょう)が出来たならば、脇目もふらずに修行(坐禅)することです。そう言う修行(坐禅)をしていただきたく思います。新帰元3

  • 新帰元2

    「元に帰る」とは、人間的な機能が無くなったという事では、在りません。万物は次々と変化していますから、何時も元に帰るという事が、繰り返されているのです。自分が死んだという事も、自分が生まれたという事も、自分自身では分かりません。生まれた事も知らない死んだ事も知らない、ただ「縁起」が、有(在)るだけなのです。新帰元2

  • 新帰元1

    お葬式の時、戒名の上に「新帰元(しんきげん)」というお言葉が書かれています。「新帰元」とは、「新しく元に帰る」という意味です。万物を構成している根本である、四大(地・水・火・風)に帰るという意味です。元々実体の無い物が、地(固いもの)水(湿気を含んだもの)火(熱を含んだもの)風(動くもの)という「縁」に因って、たまたま人と成り或るいは鳥と成り、様々な生物や物質に成っているだけなのです。私達衆生は、元々万物と一体となっていて、「分かれながら一つの物」であり一つの物が、様々な相(姿)に成っているのにすぎないのです。新帰元1

  • 乾坤只一人(けんこんただひとり)

    時間というのは遠い昔も今も、同じで久遠(くおん)という事です。時間を超えた世界の事を「無辺」といいます。一番の元というのは、昔から毛筋ほども動いていないという事です。もし少しでも動く物が在ったら、それは無辺と云う「人の考え」が入っているという事です。別の言葉で言えば、「人の介在」があるということです。ですから「見性」(けんしょう)したとか「悟り」を開いたというような収まる場所が無いという事です。禅語で言えば、「乾坤只一人」という事です。「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)も此れに当てはまります。乾坤只一人(けんこんただひとり)

  • おシャカ様の苦行1

    おシャカ様が悟りを開く、いわゆる本来の自己に目覚める以前には、自我という物の存在が全く無い事を知る人は、一人もいませんでしたそこでおシャカ様はそういう苦しみから、解脱する為には此の身を修練する事が必要であろうと考え、当時の最高指導者の所へ行って、勉強と苦行に「六年間」費やしました。その六年間の「苦行の様子」というものは、自分の以前にも以後にも、その様な厳しい苦行を課した人は、無かったであろういう程の激しい修行であったという事です。おシャカ様の苦行1

  • 真の仏とは2

    ですから、なるほど、元々そういう物であったと、自覚する事が私達衆生の目標であり、目的でないといけない訳です。別の言い方をすれば、一人一人が「天上天下唯我独尊」という、「今現在真の仏」である事に、気が付く為に修行に精進している訳です。真の仏とは2

  • 真の仏とは1

    私達衆生の仏道の修行とは、「仏に成る修行」です。「真の仏」というのは、余って居る所も無ければ、欠けて居る所も無いという事です。即ち「今の私達衆生の様子」です。修行するとかしないに関わらず、「今の自分のそのままの様子」です。真の仏とは1

  • 天上天下唯我独尊6

    「法(道)その物自体」は、「元々無い物」ですから、法(道)その物自体は、一つも変わっていません。これからは、私達衆生が自由に「おシャカ様の時代はそうであったかもしれません」がと。今はそうでなければなりませんし、そのほうが今の多くの人には、分かってもらえると思います。自信を持って法(道)を自分の者にして頂きたく思います。天上天下唯我独尊6

  • 天上天下唯我独尊5

    「自分の法に目覚める」という事は、「おシャカ様の法」では在りません。「独立した自分という者」に成るわけです。私はとてもおシャカ様の様な人には成れませんと、いう人がいます。よく考えて見て下さい。みんなそれぞれ違うのに、同じ人に成ろうと思うのは、おかしいと思いませんか。しかし同じ人に成らなければおかしいと思う人が多いのも、「現今の事実」です。法(道)という物は、そういうものではありません。おシャカ様の教えは、インドから中国に入り、中国から日本に入って来ましたが、みんなそれぞれ違います。ですからその土地その文化に因って、様々に形を変えて今日までこの様に、有(在)るのです。天上天下唯我独尊5

  • 天上天下唯我独尊4

    誰でも熱い物は熱い、冷たい物は冷たい、悲しい事は悲しい皆同じです。おシャカ様を始め歴代の覚者と言われる方々は、誰一人として特別な人は、いません。「その人」が或る「縁」に因って、法(道)を求め導かれ、そうして「道」を歩んで、来られたのです。その事に因って、そう言う機縁に逢ったという事ですから、何方でも「志」さえ有(在)れば、「今の自分の事実」に気が付くという事です。天上天下唯我独尊4

  • 天上天下唯我独尊」3

    「悟り」が在ってはならないとか、得るべき処が在ってはならないとか、目的をもって修行(坐禅)をしてはならない」と、そういう間違ったことを話す人が在ります。これらは、「悟った人、究極に達した人のお言葉」です。ですからこれから法(道)を求めていかなければならない人、自分の問題を何とかしなければならない人は、そんな事に耳を貸していたら、駄目なのです。法(道)の為に一生懸命に、頑張らなくてはならないのです。法(道)の為に一生懸命頑張らないと、いけないのです。目的に向って一歩一歩進んでいかなければなりません。そうでありませんと、何にも成りません。道元禅師の教えというのは、身心脱落です。信心脱落とはその説明なのです。ですから私達衆生は、「覚者」にならないと、いけないのです。覚者というのは、「身心脱落した」です。天上天下唯我独尊」3

  • 天上天下唯我独尊2

    おシャカ様のお言葉を拝借すれば、「天上天下唯我独尊」です。この事は、おシャカ様だけが「天上天下唯我独尊」なのではありません。おシャカ様が「自分を忘れた時」にそういうお言葉を、発せられたのですから私達衆生はみんな「天上天下唯我独尊」なのです。天上天下唯我独尊2

  • 天上天下唯我独尊1

    修行していく態度というのは、自分の考えというものを一度忘れていただかなければなりません。何故ならば、「自分という物の考え方」は、小さいからです。法(道)を得ると今度は、皆さんがお持ちのそれぞれの素晴らしいお考え、そういうものを、広く大きく深く広げていけるようになります。「自分を無にするという本来の意味」は、自分を考えないでいいんだとか、考えてはいけないんだという事では、ありません。「自分を大きくすること」です。天上天下唯我独尊1

  • 正覚2

    「正覚」は、私達衆生の誰にも具有している「六根(眼耳鼻舌身意)という機能の働きそのまま」が実は、おシャカ様がお悟りになられた「当体」なのです。しかし人間は成長するに従って、あたかも「六根の働き」が、物事を分別(ふんべつ)する道具であるかのような、誤った考えを持つようになる事から、苦悩や迷いが生じるのです。おシャカ様は、様々な試行錯誤の結果その事を「自覚」されたのです。その「自覚」が膨大な教えとなって、今日迄伝わって来ているのです。正覚2

  • 正覚1

    おシャカ様は、一国の王子で在った時に、「生老病死」という誰もが逃れ難い人の苦しみをご覧になり、余りのショックからお城を出られて「安心(あんじん)の道」は、ないものかと「苦行林(苦行林)」に入られました。そこで壮絶なご修行をなさいましたが、どうしても「死」について納得がいかず、「苦行林」を出られて菩提樹の下で、「修行(今でいう坐禅)」をして「正覚(しょうがく)」を得られました。ですから「正覚」は、特別な修行した結果得られたのではなかったのです。正覚1

  • 仏説

    一切の物は、「縁」に因って出来ているので、元々固定された「これだ」という物は、認める事は出来ません。これを「仏説」というのです。又「仏説というのは、後からそう言う状態を、即ち一切の物が因縁に因って、成り立っている事を眺めて説かれたもので、「法(道)」というのは、宇宙に最初から存在していたものではありません。人類で一番最初にその事に目覚められたのが、おシャカ様なのです。そのおシャカ様の説かれた説だから「仏説」と云うのです。仏説

  • 自覚3

    天桂禅師曰く「人人(にんにん)事(じ)を明むる時は、皆涅槃に到るかと言うと、実に明むるは本より涅槃とていう物無きなり」と。「涅槃」というのは、「楽に成る」事です。遠くから見る桜と、山の麓から見る桜という物は、大いに趣きが違います。吉野山の奥にたくさん桜を植えたので、吉野の桜というものが出来たのであって、唯一本有(在)っただけでは、何でも無いのです。それを遠くから見るからきれいなのです。「生死(しょうじ)」という物もそれと同じです。思惑さえ切ってしまえば、後には何も残る物は、無いのです。生まれる時は、「縁起」に因って生まれるのです。死ぬ時は「縁起」に因って死ぬのです。此れが「生死即涅槃」です。自覚3

  • 自覚2

    「心(覚)一念」で作り事をしていたのではなくて、「心(意)一念」さえびっくりするほど、「私達衆生は本来自分を捨ててしまった生活に、生きているいる」という事が、見付かるのです。それですから、見付かって見るとはっきり「自覚」出来るのです。「心(意)一念その物自体」が、それを「自覚」するのです。別の言葉で言えば、「私が不要な事をして困っていたのだな」と言う事です。私達衆生はおシャカ様や歴代の覚者方と同じような、「仏性(ぶっしょう)」を具有しているのです。ですから、誰が行なってもそれが「自覚」出来るのです。「自覚」され有(在)れば様々な思惑が取れるようになり、形式にも拘束される事が無くなります。自覚2

  • 自覚1

    私たち衆生は、本来自分を捨ててしまった生活に生きているのです。それをそのまま「自覚」すればいいのです。そう言う状態に有(在)る姿を知らず識らずに、実生活しているからです。実生活をしたいと思ったら、計らずも実生活をしていたという事なのです。今迄は、「念(心)が起きなかったのに、(動かなかったのですが)「心(意)一念」が、起きたのです(動いたのです)。それで「心(意)一念」が起きる前の状態を、「心(意)一念」が「自覚」出来るのです。自覚1

  • 一見明星2

    「夜明けの明星」というのは、おシャカ様が今迄もご覧になっていたに、違いません。然し何時でも見ていたものが、「道を成ずる迄」は、本当に見えなかったのです。見ていながら見えなかったという事です。別の言葉で言えば、見ていながら見ていなかったという事です。一見明星2

  • 一見明星1

    おシャカ様は、三年間自己を苦しめる事に因って、「解決」が得られると思いましたけれども、然うではなかった事に気付かれて、マカダ国迄参ります。そうしてそこで、修行(今で言えば坐禅ですけれども)されたという事です。当時は、只今のような指導者が全くいませんでしたから、たったお一人で修行(坐禅)をなされていたと云う事です。ある年の朝、夜明けの明星をご覧になって、「本来の自己」に目覚められたのです。即ち一切の苦悩や迷いから、解脱なさったのです。この事が、一見明星(いっけんみょうじょう)というのです。一見明星1

  • 気付きと悟り4

    「悟り」について、有名な白隠禅師は「大悟十八、小悟その数を知らず」と。「ああ、そういうものか、ああこれで善いんだ、なるほど」というような事を常常、自分自身が気が付いたということです。これは明らかに善い事ではありません。そのくらい「考えが多かった、迷いが多かった」ということが言える訳です。ですから「全部本当ではなかった」ということです。小悟にしろ、大悟十八を数えるにしろ、「それは本当ではなかった」ということを後に述懐しておられます。気付きと悟り4

  • 気付きと悟り3

    後から無門という和尚さんが次のような寸評を加えています。「余りにも趙州の答えが親切すぎて、そのまますぎて、かえって新米の和尚の所得(悟り)に至るのを遅くするのではないか」と。禅門では気付くことを「省(しょう)あり」と呼んでいます。「省あり」とは「大悟(だいご)」に至る前の段階の事であり「途中のもの」です。それが落とさなければならない処なのです。もう一つ落とさなければ悟り(大悟)には至らないのです。「明眼の師」がいなければ落とせない処なのです。私がブログを開設してから使用してきた「悟り」とは「大悟」の事です。気付きと悟り3

  • 気付きと悟り2

    説明しましと、応量器(食事をする器)というのは、自分の外にある物のように考えがちです。しかし、趙州和尚が「食器をきれいに洗って片付けておきなさい」と言われた、その応量器は何を意味するのか。それは「あなた自身」です。そこで新米の修行僧は一体何に気が付いたのか?どのような修行の要訣を自分で納得したのか?この問答を私たち衆生が如何に参究するかが修行の要訣です。気付きと悟り2

  • 気付きと悟り1

    気付きと悟りは全く別の物です。気付きについて禅宗祖録「無門関第七則趙州洗鉢の話(わ)」で説明します。趙州(じょうしゅう)因みに僧問ふ。某甲(それがし)乍入叢林(さにゅうそうりん)乞ふ師指示(しいじ)せよ州云く喫粥了や未(いま)だしや州云く鉢盂(ほう)を洗い去れ其の僧省(しょう)あり昔、趙州という和尚に、或る僧が尋ねました。「私は、初めて坐禅の修行を志すものでございます。どうか坐禅の方法をお示し願います」そうすると趙州和尚がこれに答えてお話しなさいますのに、「お前さんは朝の粥を食べたか」お坊さんは答えて言います。「はい、十分にいただきました」「そうかそれはよかった。それでは応量器(食器)を洗って片付けておきなさい」そうすると、これから初めて坐禅の修行の志を起こした(法を求める志を起こした)そのお坊さんが、「...気付きと悟り1

  • 悟りとは3

    「この物」は特別に分けていえば「肉体と精神」より成っています。これは自分の物でもなければ、誰の物と言えるような物でもありません。「六根」という道具の機能が集まって、私たち衆生の生活を成しているのです。大切なところは、「この物」を認めて想った時だけに「この物(自分自身)が在る」ということです。お経の中でも、「この物無くんば彼の物無し、この物あるがゆえに彼の物あり」とはっきり示されております。悟りとは3

  • 悟りとは2

    よく悟りを開いたとか、自己に目醒めたというような表現を耳にされたり、本で読まれると思います。これは「私が目醒めた」とか、「私が悟りを開いた」というものではありません。「この物が縁そのものに成った」という事です。「この物」即ち皆さんが自分と思ている物、これは自分でも、人でも、何でもありません。「私の正体は何か?」「この物」というのが一番適切な表現なのです。悟りとは2

  • 「悟り」とは1

    「悟り」とは、私たち衆生の今の様子を「悟り」といいます。「今の様子」というと、直ぐに「あっ、今の状態か」と、自分を認識するものが在ると思いますが、そういうものではありません。「今」と、自分が「今」を認識した時は「今」は過去のものに成ってしまいます。認識を起こす以前の様子(悟り)は私たち衆生には必ずあるわけです。ですから「悟れないという人」は一人もありません。何故ならば「悟り」は何時も「自分が自分を認識する以前に既に事実として在る」からです。ですから、何時でも「悟り」というのは「事実として在る事」だと承知しておいて頂きたく思います。「悟り」とは1

  • 微妙の法門

    「微妙の法門」とはこれまで云々してきた所をひっくるめて、その自在を覚めた語です。つまり私たち衆生の「今の様子、今の事実」です。ここに至ってはどんなふうにして説いたり考えたりすれば善いのでしょうか。教えるべき余地が無いのです。そこが「教外別伝、不立文字」という事です。「別伝」とは別に伝えるものは無いと伝えたものです。迦葉はおシャカ様から何をもらったのでしょうか。さらにおシャカ様の有名な「滅法の偈」を記します。「法の本法は無法無法の法もまた法なり今、無法を付する時法法何ぞかつて法ならん故にかくの如く花を拈じて付法す」と。私たち衆生は迦葉ばかりに「法」を預けておいてはいけないのです。何故ならば「仏法ならぬところはどこにもない」からです。微妙の法門

  • 時節因縁3

    時節とは「今の事」です。「現在の事」です。古歌に、「世の中は今日より外はなかりけり、昨日は過ぎて明日は知れず」と。この「今」が大切なのです。おシャカ様滅後五十六億七千万年のちに、弥勒菩薩(みろくぼさつ)が出るという真意は、「今の延びた事」をいったものです。盤珪(ばんけい)禅師の歌に、過去も未来も只今ばかりというのがあります。「只今」が、大事なのです。「只今」に、無限の生命がある有(在)るのです。無限の力が有(在)るのです。それを「認めなければなりません」。「道」は近きに有(在)るのです。「道」は天下に、満ち満ちているから「道」と言うのです。時節因縁3

  • 時節因縁2

    私たち衆生は、わずかの失意で自棄を起してはいけません。只働けばよいのです。「只働けばよい」という処に、「一生の極」が、あるのです。働きの価値が解らないから、煩悶するのです。働くその瞬間に、宇宙を占領しており宇宙が我が物に、成り切った処に、真理があるのです。「因縁」という事は、つまり「結果」という事です。結果とは「成就」した事です。因と縁が合して、一つの物が出来たのです。「因」とは、自己の事です。「縁」は宇宙です。宇宙が無ければ自己は無く、自己が無ければ、宇宙は無いのです。宇宙全体に影響が及ぶのです。つまり私たち衆生は、宇宙とその消長を共にしているのです。その間に、「固まった自己」という物は、ありません。これが「結果は絶大成り、自己は小宇宙なり」と言われる由縁です。時節因縁2

  • 時節因縁1

    だんだん秋が深まって来ると、「時節因縁」で柿の実も「自然(じねん)」に熟して来ます。熟しきりますと、人の手を借りることなく、落ちて来ます。「脱落」するという事です。善い事も悪い事も辛い事も嫌な事も、全て「実を熟させる因縁」です。天気の良い時ばかり都合の良い時ばかりが、熟するのではありません。雨が降っても雪が降っても風が吹いても、全て「実を熟す因縁」です。それを受け取りさえすれば、必ず「熟して実が落ちる時節」が、あるという事を、「道理」として理解して、修行して頂きたいと思います。時節因縁1

  • 夜明けの明星6

    おシャカ様のお言葉を別のお言葉で申し上げれば、「全ての物は、仏では無い物はない」と叫ばれたのです。この様に理解していただければ結構です。どんなものでも「今の事実、今の自己の様子」でしか有り得ませんと言う事です。自分を含めて「一切衆生」と言う事です。「華厳経(けごんきょう)で「一切衆生は如来の知恵徳相を、具えている」と言われました。「私たち衆生は仏その物である」と言われたのです。夜明けの明星6

  • 夜明けの明星5

    おシャカ様が「一見明星」されて、叫ばれました。それは「般若心経」の最後に出ております。「やった、やった」と叫ばれたのです。六年間非常にご苦労なさったのです。そうして、「確実に成し遂げた」と叫ばれたのです。「一切衆生と共に確実に成し遂げた」と叫ばれたのです。そして最後に「万歳」と叫ばれたのです。それ以来おシャカ様は、「迷っている人は無くなった」とそう宣言されたのです。夜明けの明星5

  • 夜明けの明星4

    私たち衆生は、「六根の縁(目・耳・鼻・舌・身・意)に因って、必ず本来の自己に目覚められる時節」が、あります。悟りを開いたという人は、どなたでも必ず「六根の縁」に因って、「本来の自己」に目覚めているのです。ですから自分の意志や知恵を働かせて(自分の考えで)この「道」を成就しようとしても、それは不可能な事なのです。夜明けの明星4

  • 夜明けの明星3

    私たち衆生が自分自身でしている行為、即ち見る・聞く・味わう・思う等々に、なんとなく物足りなさや不満足が残るというのは、これは全て「自我」が、介在しているからです。ですから「本来の自己」と、一つに成れないということなのです。本当に見た・本当に聞いたと云う様子は、見たもの聞いたものが、完全に無くなった様子をいいます。自分と物(主体と客体)とが、完全に距離を無くした状態をいいます。その状態を「本当に見た・本当に聞いた」と言います。それを仏教の言葉で、「空」と呼んでいます。夜明けの明星3

  • 夜明けの明星2

    なあんだ、人間の迷いというものは、この「一念」に於いて迷っていたんだという事が、はっきりせられたのです。それはただおシャカ様のみではなくて、おシャカ様の下に「迦葉(かしょう)」という人が居られて、そのおシャカ様の教えに従って、それを行じてその「自覚」を、得られました。それが今日迄伝わって来ているのです。誰でも修行すれば、それが自分にきちんと「自覚」が、出来るのです。そういうはっきりした「道」を、おシャカ様はお示しになられたのです。夜明けの明星2

  • 夜明けの明星1

    おシャカ様は自分が根底に迄、落ち込まれている時分に「夜明けの明星」をご覧になられて、悟られました。一体どういう事かと申しますと、人間の見解(けんげ)らしいものも、何にも無い迄の生活に落ち切られて、その生活自体にいた時、その時ただ「夜明けの明星」が、「チカッ」と目を射したのです。その途端に「ポッ」と「認識(人間従前の一念心)」が、気が付かれ起きたのです。「心(認識)」というものが活動を始めたのです。その始めた途端に、それ迄の見解(けんげ)から離れている世界即ち、「今の事実・今の自己の様子」に気が付いた(目醒め)のです。そのまま気が付いたのです。それで驚かれたのです。夜明けの明星1

  • おシャカ様のお示し5

    そうして初めておシャカ様は、気が付かれたのです。おシャカ様は、一体何に気が付かれたのでしょうか。その事を私は「今の事実・今の自己の様子」と、皆様に提示しているのです。これこそ今までかつて人間の考えた事無い、手の付けた事の無い一番必然で、当然の事である筈なのに、何故「この事(今の事実、今の自己の様子)」を捨てていたのだろうか。そういうような事に気が付かれ、それに徹底せられたのです。おシャカ様のお示し5

  • おシャカ様のお示し4

    おシャカ様は、自分という者は本当に如何あるべきなのだろうか、如何あるべきなのが本当の様子なのかと、疑問にされてそうして出家されたのです。そうして六年間「難行苦行(なんぎょうくぎょう)されたのです。ところが「難行苦行」してみても、何も得る処が無かったということが「難行苦行の結論」だったのです。おシャカ様のお示し4

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