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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんの人気ランキング

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哲学・思想ブログ 155位 145位 153位 132位 117位 117位 100位 14,678サイト
仏教 5位 5位 7位 4位 4位 4位 3位 385サイト
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今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
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哲学・思想ブログ 149位 151位 158位 148位 149位 153位 141位 14,678サイト
仏教 4位 4位 4位 3位 3位 3位 2位 385サイト
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今日 04/24 04/23 04/22 04/21 04/20 04/19 全参加数
総合ランキング(PV) 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 圏外 1,034,337サイト
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  • 衆生(しゅじょう)について1

    衆生とは仏教語で、広辞苑に拠ればしゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。「人類(人)」と認めようがないものです。始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。衆生(しゅじょう)について1

  • 衆生(しゅじょう)について1

    衆生(しゅじょう)について1

    衆生とは仏教語で、広辞苑に拠ればしゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。「人類(人)」と認めようがないものです。始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。衆生(しゅじょう)について1

  • 人の人生2

    人の人生2

    過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。古歌に、「過去を思い未来をここに引き寄せて今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。今日あっても過去です。今日あっても未来です。否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。「今日なくして一生なし」。今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。「地限り場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。「その場その場を空しくするな」という意味です。人の人生2

  • 人の人生1

    人の人生1

    人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1

  • 行き着くところ2

    行き着くところ2

    何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2

  • 行き着くところ1

    行き着くところ1

    本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1

  • 「今」ということ3

    「今」ということ3

    「一切のもの」は何時でも完全な状態であり、充実した相(すがた)であるということです。それが「道(法)」というものです。私たち衆生は「ものが見える、聞こえる、話が出来るから生きている」といいますが、それらは全て「生きているという事実の説明」にすぎません。それらは、「今(今の事実)そのもの」ではなくて、「今(今の事実)の説明」にすぎないことです。「事実と説明(言葉)」の間にズレが生じていることに気付かなければなりません。「事実」というものも、なくならない限り「今(今の事実)」ではありません。ものをつかむための「今(今の事実)」ではありません。「今(今の事実)」そのものに成るための今(今の事実)」です。「今」ということ3

  • 「今」ということ2

    「今」ということ2

    「今」というものは、もののない、認めようがないものです。ものの有る無しの「無い」では有(在)りません。ですから相対的な考えの「無い」では有(在)りません。私たち衆生の日常生活は「生死を超越した処」で行われているのです。これを「今」といっているのです。私たち衆生は「今」が存在しているように思っていますが、それは「私(個)というものを認めた所産」なのです。ですから「本来の自己」を見極めれば「存在するように思っていた今」はないということが分かるのです。「今」は「もともとないものの中で出来たもの」ですから「解決しよう(分かろう)」と思っても「解決の仕様がない(分からない)」のです。「今」ということ2

  • 「今」ということ1

    「今」ということ1

    私たち衆生の日常生活を見てみると、ほとんどの人が過去と未来の中にしか日常生活が出来ていないと思います。すなわち「過去というのも過ぎ去ったことであり、未来というのは未だ来たらずということ」なのに、往々にして過去は愚痴になり、未来は不安の種にしてしまっているような考えで常に生活しているように見受けられます。「過去と未来が有(在)る」ということは必ず「今」がなければなりません。「今」が有(在)るから過去と未来が生じるということです。此の事は「道(法)」が分かる分からないということに関係なく「今」は有(在)るのですが、其の「今」の説明が出来ません。説明が出来ないということは、私たち衆生はそのくらい「何もない世界」に何時もいる、ということです。本当に「何もない状態」が「今」なのです。「今」ということ1

  • 「真の成功」とは

    「真の成功」とは

    人は必ず死ななければなりません。如何なる「成功」も「死」には張り合うことは出来ません。如何なる財産を持っていても「死」に臨んで一時間の生命を買うことは出来ません。此処に「法(道)を求める」必要が何方にもあるのではないでしょうか。「真の成功」は「永久」でなければなりません。「時と所と位(くらい)」に因って変化すべきものではないのです。何人もその分量が同じでなければなりません。「禅」はそれを発見して「真の成功」に満足を与える無上の妙術です。「真の成功」とは

  • 「空」とは6

    「空」とは6

    「境遇は結果」です。「結果」はどうすることも出来ないものです。「結果は即ち、真理」です。この事を仏教では「因縁生空」といっています。私が「因」であり、貴方が「縁」なのです。貴方と私とが因と縁によって結びついた処が「結果」なのです。即ち「私たち衆生はその境遇に満足しなければならない」のです。「私たち衆生は全く一つの物」です。「空」とは「一つの物」ということです。離れることはどうしても出来ないのです。「空」とは6

  • 「空」とは5

    「空」とは5

    「因縁生」というお言葉があります。全ての物が集まって「一つの物」を形作っているのです。様々な現象が世界には有(在)る訳ですが、みんなそれは「自分の分かれた物だ」ということです。「元を質(ただ)せば、本当に一つの物」です。それぞれの物がそれぞれの立場にきちんと他の領分を侵さない様にしてあるということを「空」といっているのです。「空」というのは何も無いということではありません。「比較するものが無くなった」ということです。別の言葉で言えば、只、思い込みの取れたことです。「空」とは5

  • 「空」とは4

    「空」とは4

    「空」というと、あるものがある時期において「ある縁に因って其の物に成った」と考えがちですが、そういうものではありません。「空のままにものが有(在)る」ということです。「空」のなかにものが、様々な「法として、差別として有(在)る」ということです。別の言葉で言えば、「それぞれのものが全て空のままに、無いながらにして有(在)る状態」を仏教で謂う所の「空」と説明している訳です。「空」とは4

  • 「空」とは3

    「空」とは3

    「此の物自体」は「空」なのです。「実体」が無く、自性(じしょう)が無いものなのです。「一つの物」というものは有り様がありませんので、これを「空」といっているのです。「全ての事実」を「空」と名付けたのです。これは一応説明として「空」と名付けたのです。ですから、「此の空」も「認める事の出来ないものであり、実体の無いもの」なのです。「縁」に応じて自由に変化していき、その変化していく活動が「業」というものです。「修行に因って、自分が空に成った」という人がありますが、それは間違いです。私たち衆生はもともと「空」なのです。「空」とは3

  • 「空」とは2

    「空」とは2

    「空」とは何かあるべきものが不在している状態をいうのではありません。相対的に「空」に対する「有(う)」を想定したものでもありません。「空の空、空の縁、空の自分」ということです。何故「空」なのかというと、「有形、無形の一切の物は全て因縁に因って出来ている」からです。「因縁の法則」は最初から「絶対の法則」として存在していた訳ではありません。おシャカ様が「法、道、空」を理論的に説明しなければならない為に「因縁の法則」を打ち立てたのです。「空」とは2

  • 「空」とは1

    「空」とは1

    ある人は私を「お坊さん」と呼び、又ある人は私を「和尚さん」と呼びます。「此の物自体」には名称は有(在)りません。「此の物自体」は様々な「縁」に応じて変化していけるのです。本来、そういう風に全く自由さを持っているものです。何故これほどに自由活発に「此の物自体」は「縁」に応じて「その物に成れるのか」というと、「縁その物が空であり、縁に応じるこちら側の物も空だからです」。「空」とは人間(にんげん)的思惑(考え、意図)一切が取り除かれた状態なのです。別の言葉でいえば「全ての物が一杯にある様子、あるべきものがあるべきようにある姿、そしてお互いに邪魔にならないで融通し合っている姿」をいいます。「空」とは1

  • 無我とは3

    無我とは3

    「修行に因って迷いをなくそう」と思うのは間違いです。「人(ひと)」は一定しない状態を「不安」という言葉で表現しています。本来、「迷い」や「不安」は実体のないものですから、「迷いの法」といい「不安の法」というものもみんな「ひとつの法」なのです。それぞれ「縁」に因って「迷い」となり「不安」となっているのです。これは「人(ひと)」が作ったものではありません。従って「迷い」は迷いのまま、「不安」は不安のまま有(在)るのが「法(道)」にかなった状態です。「法(道)」から離れようとするのは「自我の働き」だということをよく知(識)っておいていただきたく思います。無我とは3

  • 無我とは2

    無我とは2

    そのように元来、名付けられない「此の物」を知らず識らずに認識し、周囲の人を「人間(にんげん)」と見るようになるのです。ですから、私たち衆生は此の世界に生まれたということを絶対に知(識)ることが出来ないにもかかわらず、「私は此処に存在している」という認識を起こしているのです。私たち衆生は、もともと「人(ひと)」ではなかったのに「ある時(物心がついてものごとを認識出来る働きが起きた時)」から「此の物を人」と認め「本来何もないもの(認めようにも認められないもの)を有(在)ると思って認識してきただけ」の話なのです。無我とは2

  • 無我とは1

    無我とは1

    「無我」というものは「人(人)」というものを認めた上での言葉です。そこで「人の根源とは何か」ということが問題になります。私は「此の物」が「人(ひと)」と名付けられるようになったのは、何時の頃かということを考えてみたいと思います。父母の縁に因って「此の物」が出来上がりますが、私たち衆生は知らず識らずに生まれていつの間にか「人(ひと)」あるいは「人間(にんげん)」と名付けられていたという全く根底のないものなのです。このことを私は「不知不識生(ふちふしきしょう)」と名付けています。そして「人(ひと)」には「六根の意(認識)」というものが元元具わっており、この認識が自分と他というものを分けて見る働き、つまり「自我」というものを形成するのです。無我とは1

  • 月を標す指3

    月を標す指3

    「月というのは自分自身である」ということを認識して頂きたく思います。「教えというレールの上」を走っている間は決して「法」というものは分かりません。「法」は他にある訳ではありません。何故ならば私たち衆生一人一人が「法」そのものであるからです。自己の正体を見極めない限りは色々な教えの中で右往左往してしまうものです。私たち衆生の「日常生活そのもの」がそのものに成れば本当に修行に成るということです。「法」を知(識)らずに「教え」だけを知(識)っている為に修行の方向間違いが生じてしまうのです。月を標す指3

  • 月を標す指1

    月を標す指1

    個々のものは具体的に「事象(事実と現象)」として他と比較してそれぞれに違いがあります。そのことを一般的には「差異」といい仏教では「差別(しゃべつ)」といいます。「法」とは「差別(しゃべつ)」です。「ものの本質」というものは時間的にも空間的にも「同一(平等)」であり、因果の法則に従って「差別(しゃべつ)の相」が出て来ているということです。これはおシャカ様以前からそうであったということです。この事を仏教では「自然(じねん)」といいます。即ち、自ずから然りということです。月を標す指1

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