活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜
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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さん
ブログタイトル
活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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ブログ紹介文
娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
自由文
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  • 三法印について9

    「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」とは「私たち衆生の状態」を言っています。そして「涅槃寂静」の状態で初めて仏教でいうところの「修行」に成るのです。即ち「無所悟無所得(むしょごむしょとく)」〈悟るべきものもなければ得るものもない〉という、本当の「無我の修行」が始まる訳です。「悟り」とか「見性(ものの本質を見定める)」というのは「坐禅三昧の中」にある「ひとつの通過点」なのです。三法印について9

  • 三法印について8

    仏教ではそのような様々な人の思惑さえも「仏性」と名付けています。たまたま「自我の考え(我見)」や法の「見解(けんげ)」を立てて、いろいろ散乱をしている状態であったとしても、「縁」に触れて一遍にそういうことがなくなり、「もともと本来ひとつのものであった」ということに気が付く時節があります。それを禅では「見性(けんしょう)」とか「目醒める」という言葉で表しています。三法印について8

  • 三法印について7

    ヘラクレイトスは「万物は流転する」といいました。そうすると「流転する」という、そのものを眺めている「我(私という中心になる人)」が有(在)ることになります。眺めているだけならばまだしも、「坐禅の状態」を善くしようとか、あるいは切り捨てようとか、自分の考えで自分の眺めているものを処理(解決)していこうとすれば、これは最も悪いことになります。三法印について7

  • 三法印について6

    「諸行無常」を引き継いだお言葉に「諸法無我」があります。この「無我」の「我」というのは私たち人間(にんげん)に付けた固有名詞ではありません。「諸法(一切の全てのもの)は無我である」ということです。別の言葉で言えば「中心となるべき存在は何もない」ということです。「坐禅」を例にとりますと、「今日の坐禅は集中出来た」というと「自分の状態を常に眺めている人が有(在)る」ということになります。しかし、そういうことは「本来出来ないことをやっていること」になるのです。三法印について6

  • 三法印について5

    何処も他所を探す必要はないのです。自分の様子を見て下さい。「皆、自分の事実」ではありませんか。本当とかウソということのない位に「自分の事実」として有(在)るではないですか。それを自分自身で成る程此の事かと肯うことです。此の事を「法の理」としてよくよく理解して修行して頂きたく思います。三法印について5

  • 三法印について4

    「分からないという法(道)」も有(在)ります。全く信じられないというのも形の変わった「法(道)」です。全部「法(道)」の中のことです。別の言葉でいえば、私たち衆生はそのくらい「いつでも事実の中にいる」ということです。三法印について4

  • 三法印について3

    しかし、「理(理論)」ではよく分かるけれども中々自分のものに成らないという人が多いと思います。そういう自分のものに成らないもどかしさとか、不安というようなものが「事(自分の事実)」として有(在)る訳です。他人のものではありません。「事実というのは結果」です。ですから、「その結果」に自分が素直に任すことが要求されなければならないということです。三法印について3

  • 三法印について2

    「諸行無常」とは、ものがいつでも移り変わっているということです。「諸法無我」とは、一時として同じ状態がありませんから、「私」というものの認めようがないということです。自分を悩ます「四苦八苦」というのは、「私が私をつくり出してからの妄想」ですから、そういう妄想を妄想と気が付けば真の安心(あんじん)です。これを「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」といいます。三法印について2

  • 三法印について1

    私たち衆生はいつまでたっても尽きることのない「三法印(諸行無常、諸法無我、涅槃寂静)」を持ち合わせているのです。ですから「三法印」を自分のものとする目的を持って修行しなければなりません。これは間違いですが、「最初から目的を持ってはいけない、という目的」を持ってしまいがちになります。「本覚思想」とか「無所悟無所得」とかです。よくよく自分自身に反芻して、注意して受け取って頂かなければいけません。三法印について1

  • 本来成仏について3

    それで如浄禅師に自分の今の疑問である「どうしたら成仏しているということが自分で自覚できるのか」と尋ねられたのです。それでその「自我を捨てること」を教えられ、それから如浄禅師の会下(えか)で修行が始まる訳なのです。それで「自我を捨てること」を知ったものですから、今までさんざん苦労したのですけれども、更に本気になって今までの「自我観」を全部捨て切って坐禅弁道に務められたのです。そして「本来本法性天然自性身」という「本来成仏していることが本当だった」と気が付かれたのです。そういうものです。やればどなたもそれが出来るのです。出来ないということはないのです。私たち衆生は完全に具わっているのです。何処ででも出来るのです。場所を選ぶ必要は無いのです。真面目に本当に唯務(ただつと)めれば何処で気が付くか分からないのです。本来成仏について3

  • 本来成仏について2

    別の言葉で言えば「どういうふうにしたら結論にある通りに、本来成仏しているということが自分ではっきりするのか、又、何処へ手を付けたらそれが出来るのか」という疑問です。それで日本中のあちこちの学者に尋ね廻られたのです。しかし、日本ではどうすることも出来なかったので中国へ行かれたのです。中国へ行ってみてもやはりそうだったのです。それでほとんど諦めて帰ろうと思っていた時に「如浄(にょじょう)禅師」に相見(しょうけん)したのです。本来成仏について2

  • 本来成仏について1

    本覚法門の教えに「本来本法性天然自性身(ほんらいほんぽっしょうてんねんじしょうしん)」というお示しがあります。だれでも「本来成仏している」という意味です。それを知られた道元禅師は疑問を持たれました。「本来成仏しているのなら、このままで私たち衆生は善さそうなものなのに何でこのままで善くないんだ(何で歴代の覚者といわれる方々は修行されたのだろうか)」ということです。別の言葉で言えば「何でこのままで成仏しないのか」ということが問題になられたのです。現代風に解釈すれば「今の事実しか無いのに何でこれで満足が出来ないのだろうか」ということです。本来成仏について1

  • 事究竟(じくぎょう)7

    世の中は「世界人口数」だけ「世界人口数の考え」が有(在)ります。もちろん言語が違うように習慣、風俗も違います。おシャカ様はそういうものを全て「空」として理論づけてまとめられ、自分も行じられたということで「仏の教え(仏法)」というものをつくり上げられたわけです。しかし、「これは仏法でこれは仏法ではない」というと、既にそこに「人の教え」が出て来ます。私たち衆生は、いつでもどこでも、何をしても「事究竟」で自分に随っています。そしてその「事究竟」を証明出来る教えが「仏法」であり、「事究竟」に気付くことが本来の「修行」なのです。事究竟(じくぎょう)7

  • 事究竟(じくぎょう)6

    「空」というのは、絶えず変化し続けていて、今天上界にいたかと思うと次の瞬間には地獄餓鬼の世界に変化します。「変化し続けながら、事究竟の状態のままに成っている」のです。比較するものは何もありません。しかし、私たち衆生は「心に因って心が迷い、心を働かす」ために、どんな状態にいても私たち衆生は落ち着かないで「六道(りくどう)」をぐるぐる巡って輪廻しているのです。事究竟(じくぎょう)6

  • 事究竟(じくぎょう)5

    心意識の働きを「六道(りくどう」〈天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄〉という言葉で表していますが、これらは全て「事究竟」です。喜びの時は天上界、人間界になると喜怒哀楽の感情が動きます。修羅界は争いの世界、畜生界はものの道理が分からない世界、餓鬼界はいつも満たされずものを貪る世界、地獄界は天上界の反対で苦しみだけの世界です。このような心意識が「弾指(だんし)」の間に止めどもなく活動している「無常」の状態を「空」といっています。事究竟(じくぎょう)5

  • 事究竟(じくぎょう)4

    やがて二、三歳ころになり、周囲の人から影響を受けて言葉や習慣を覚えると「知恵という名の迷い」が生じます。そして長ずるに従って様々な考え方、習慣、風俗、見るもの聞くもの等に因ってその迷いがだんだん増していきます。しかし本来は、迷いは迷いのままで終わっているのが、私たち衆生の状態、即ち「事究竟」なのです。従って私たち衆生には「心(しん)」というものは何処にも有(在)りません。何となく有(在)るような気がするだけなのです。「無いものを仮に心と名付けてみたところで心が心を心で迷わす結果になるだけ」なのです。事究竟(じくぎょう)4

  • 事究竟(じくぎょう)3

    「事究竟」とは「般若心経」の中にも「究竟涅槃」という文言(もんごん)がありますが「事(一切のもの)究竟(行き着いたところ)」、つまりすべてのものが「完結」している「結果」であるという意味です。私たち衆生はそのような「今、今の連続」で宇宙の万物と生滅(因・縁・果)を繰り返しています。私たち衆生は自分の誕生したことを知(識)りません。生年月日はもちろんのこと、男女の区別も、呼吸していることも自分では分かりません。分からないというよりも「全く一つのものとして有(在)る」ということです。事究竟(じくぎょう)3

  • 事究竟(じくぎょう)2

    「法」も無ければ、「仏」もなければ、「人間(にんげん)」もいなければ「業」もない、という『自分の考え以前の状態』というものは、必ず誰にでも有(在)るはずです。「考えを起こす前の状態」ということです。それほど「人というもの、我見、自意識」というものは取れ難いものです。これを取るには「坐禅は坐禅なり」に徹する以外にありません。事究竟(じくぎょう)2

  • 事究竟(じくぎょう)1

    「自己を認める」、このことが「法(道)」を求めていく上において、一番差し障りになることです。「自己を認めた上」に、色々な考えをおこして、そして坐禅をしたり、作務をしたり、そういう行為をするから輪廻の繰り返しなのです。一切の事というものは、「自分の考え、自意識、我見というものの起こる以前にすべて解決している」ということです。このことを「事究竟(じくぎょう)」といっています。事究竟(じくぎょう)1

  • 「活かして生きる」とは2

    自由と安心を得られぬまま「このままが道である」と高尚なことを言っても何の役にも立ちません。日常生活の総てが何か目的を持った生活のように感じられるのですが、実はそうではありません。「成るべくして成った状態が結果」です。ですからその結果も無相でなくてはなりません。「道の人」に到達することです。真に「道の人」と成って頂きたいと思います。生活のすべてを道に見立てて修行して頂きたく思います。「活かして生きる」とは2

  • 「活かして生きる」とは1

    「活かして生きる」とは、只、活かして生きることであり、「道」は活かして生きるという添え物が付いてはいけないのです。「総てが道である」という道理からすれば、「一木一草(いちもくいっそう)」にも「相(すがた)」があってはいけないということです。即ち「実相(一切のものの本当の相)」は「無相(相が無い)」ということです。無相を覚知する為の道は、一般に言われている目的を持った道とは大いにその内容を異にします。何故ならば「道は道人でなければ行持られない」からです。「活かして生きる」とは1

  • 新しい筋道7

    二十一世紀は「宗教の時代、こころの時代」といわれていますが、架空の神や仏を理想として求めるのではなく「現実の自己の有様を探求」していくことです。それは「科学的」にもです。そうすれば「煩悩、三毒(貪・瞋・痴とんじんち)のそのまま」が求め続けた神や仏の相(すがた)であったことに必ず目醒めることも実證することも出来ます。私は「現実」を考え、「未来」を思うとき仏法(仏道)をいかに「令法久住(りょうぼうくじゅう)」〈法を久しく住ましむる〉出来るか自分に向かって問題提起しています。新しい筋道7

  • 新しい筋道6

    時代は二十一世紀に入っていますが人間社会を見る時「国家間、民族間の対立」「人権問題」「格差社会」等々、法治国家でありながら混沌とした紛争が絶えません。「宗教」もなた「本質」から遠く離れ、現実を生きる人々に「無力感」が漂っていると思います。今こそ、人々が「無明(自我、妄想)」の実態や煩悩「業苦の根源である三毒(貪・瞋・痴とんじんち)」や万物の本質を見定めてみる必要があるのではないでしょうか。仏教ではこれを「自己の正体を見極める」即ち「見性(けんしょう)」といっています。新しい筋道6

  • 新しい筋道5

    「水自体」は変化していることを知(識)りません。水の性は絶対に変わりません。しかし、水のままで色々な変化があるということです。私たち衆生も「縁」に応じて様々な変化を繰り返しながら「氷が水になる」ように精進していっていただきたいと思います。必ず「氷」は溶けるものです。それには「坐ること」です。半畳の場所があれば坐れます。しかも独りで坐れます。相手は要りません。必ず坐れます。そうすると「氷」が溶けて必ず「水」になる時節があります。それを「悟り」というのです。新しい筋道5

  • 新しい筋道4

    凍っている自分を何によって溶かし、そして元のさらさらと流れる「水」にすることが出来るのか。これは「宗教の力」しかありません。一度自分のものが凍ったわけですから、これは必ず溶けます。溶けなければおかしいのです。溶かさなければならないのです。凍った「水」が溶けた状態、そしてさらさらと流れる状態を「悟り」といっているのです。私たち衆生は、いつの間にか自分自身で本来のものである「水の性質」というものを、凍らせてしまっているのです。ですが、それをどうにかして「水」の方法を教えてくれる宗教者がいなかったのです。「実證する宗教」がなかったのです。新しい筋道4

  • 新しい筋道3

    「新しい筋道」とは、従来の人間(にんげん)の「尺度(物差し)をあてること」を止める必要があるということです。人間というのはいつまでたっても「既知の知」のなかでの繰り返しの生活しかしていません。どうしても世界には「新しい筋道」でなければならないという、そういうことに私たち衆生は気が付かないといけません。それには「問題意識」を持つことです。狭い自分で物事を判断していては「新しい筋道」は生まれて来ないという事です。そこで「新しい筋道を求める」には「宗教」というものが必要になって来るのです。私たち衆生は本来「水」のようなものです。「縁」に応じてどのようにでも自由自在に変化していけるものですが、それが凍っているのです。だから融通がきかないのです。新しい筋道3

  • 新しい筋道2

    しばらくの間は「仏法(仏道)というおシャカ様の法」を借りて、「自分自身の法」に目醒めるように務めていくのが仏道の修行というものです。しかし、「仏法(仏道)の中で修行」していてもそれは駄目なのです。私たち衆生が「仏法(仏道)の中」で分かったとか分からないとか法だとか悟りだとかいってもそれは「仏法(仏道)の中」のことです。決して自分自身のものにはなりません。いかにしたら「今の自分のもの」に出来るかということが問題なのです。新しい筋道2

  • 新しい筋道1

    「法は自分の法」でなければなりません。おシャカ様の体得された「法」をいつまでも学んでいてそれを「仏法(仏道)」といって「おシャカ様の法(各々の宗派の教え)」しかないというような狭い考え方、小さな考え方の時代はもう過ぎました。これからは「おシャカ様の法」に因って、みんなが「自分自身の法に目醒める」ということになっていかないと、これからの「新しい筋道」というものは出て来ません。私たち衆生は昔から一所懸命に考えて色々なものをつくって来ました。しかし、現在何が解決したかというと、なんにも解決したものはありません。そこでようやく「これではいけない、新しい筋道を求めなければいけない」というようなことから、いろんな方々が模索しています。それを「これからは、こういうものが世界をまとめていくものでなければならない」というのが所謂...新しい筋道1

  • 結論とは(仏教の提示)2

    仏教では「結論としての土台」があってはいけないと説いているのです。先ず「結論」として例えば「苦集滅道」というものを「提示」しておいてそしてこの「結論としての土台」を取り除いてあげるのです。道元禅師のお示しでは「仏道をならうというは、自己をならうなり自己をならうというは、自己を忘るるなり」ということです。別の言葉で言えば「仏道をならうというは結論をならうなり結論をならうというは、結論を忘るるなり」ということです。何故取り除く必要があるのかというと「土台を取り除かないと元(根)が残る」からです。「土台」というのは、「ひとつの立場」です。「最初から立場というものがあってはいけないんだ(立場というものを執ってはいけないんだ)」ということが仏教の教えなのです。結論とは(仏教の提示)2

  • 結論とは(科学の土台)1

    「結論」とは、広辞苑①に拠ると「結局の議論考えたり議論したりした末に下される判断や意見」と記されています。「結論」はいくら考えても「人の考えの範囲」を出ることはありません。私たち衆生は昔から考えて来たところの人間(にんげん)の知恵の中であたかも新しいことが発見されたような歴史を繰り返して現代に立脚しています。「科学の分野」においても「無常だ」「無始無終だ」「いつまでもものは移り変わっているのだ」と説かれておりますけれどもそれは「結論」です。所謂「学問」というのは「結論を土台」として積み重ねていっているわけです。ですから「結論がある」ということです。そういうものが「科学の土台」になっています。結論とは(科学の土台)1

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