chevron_left

メインカテゴリーを選択しなおす

cancel
活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜 https://daiden03.hatenablog.com

娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

住所
未設定
出身
未設定
活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
フォロー
ブログ村参加

2015/01/12

ブログをみる無料アプリ

アプリでフォローする
arrow_drop_down
  • 「證道歌」取ることを得ず 捨つることを得ず

    斯くの如く「霊覚」は虚空のように当処を離れていませんから、之を外から取り入れようとしても、取り入れることも出来なければ、捨てようと思ったところで捨てられもしないのです。 それなら如何するかというと、「不可得の中(うち)只麼(しも)に得たり」なのです。 「不可得」とは手が着けられない、得ようと思っても得られない、捨てようと思っても捨てられない、どうすることも出来ないということです。 足らないから取るのです。 常に足りているから取らないのです。 余るから捨てるのです。 余すことなく欠くることなきが故に捨てる手続きもないのです。 「不可得」とは満足ということです。 何時も得ているから、得る必要がない…

  • 「證道歌」当処を離れず常に湛然2

    次に「覓(もと)むれば即ち知る 君が見る可からざることを」と、お示しが続きます。 「覓る」というのは、本心を覓るということです。 そのような本心 即ち「霊覚」を客観的に向こうに見て、覓めたからといっても、それは駄目だというのです。 「君」というのは「学人(がくにん)」を指しています。 お前には分からないといっているのです。 逃げもしないのに覓めるなんて、そんなことでは見つけることは出来ないのです。 孟子に曰く、「学問の道は他なし、唯 放心を求むるのみ」と。 「放心」さえしなければ「霊覚」は本来 人々(にんにん)の自己に有(在)って決して離れてはいないのです。 ですから、之を覓めて得られるもので…

  • 「證道歌」当処を離れず常に湛然1

    「絶対無限の虚空」は何処に有(在)るのかといったか。 此処です。 その場その場の脱落です。 当処当処に遍在して離れてはいないのです。 「絶対無限の霊覚」もその通りなのです。 此処を離れてはいないのです。 「当処を離れず 常に湛然」というのは、海が風の無い時にちっとも波が立たないで坦(たい)らな水を「湛然」といいます。 「自己の霊覚」もその通りで、平坦に当処当処に充ちている「虚空」が一切 処に遍満して穏やかなようなものです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」虚空の如く涯岸なし

    「自性の体(たい)即ち仏性の霊覚(れいかく)」というものは水の冷暖を自知するようなもので、水の冷たいというのは、水を飲んでみなければ分かりません。 しかし、水を飲んだ者にどんな加減に水が冷たいと聞いたところで「そういう風に冷たい」と、説明は出来ません。 水の冷たさは飲んではじめて分かるのです。 言葉で彼此いっても駄目なもののように恰(あたか)も「自己覚性の体(たい)」は虚空の如きものです。 「虚空」といったら何処まで行っても涯岸の無い大きいもので「絶対無限」です。 「虚空」は「絶対無限」ですから、彼此と言葉を以て形容することは出来ないのです。 「霊覚の体(たい)」もその通りのもので何んとも言葉…

  • 「證道歌」弾指円成す八万の門2

    次に「刹那(せつな)に滅却す 三祇劫(さんぎごう)」というお示しが続きます。 「刹那」というのは、瞬きをする間ということです。 「三祇劫」というのは、「三阿僧祇劫(さんあそうぎごう)」ということです。 言葉にも言えぬ程の永い時間ということです。 それが瞬きをする間に消えてしまうというのは、どういうことかというと、「劫」は妄想ということで、瞬きをする間にそれだけの妄想が消えてしまうということです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」弾指円成す八万の門1

    「弾指(だんし)」とは、指を一つ弾く間、短時間を形容したものです。 「円成(えんじょう)」とは、完全無欠ということです。 「八万の門」とはおシャカ様の「法」のことです。 おシャカ様の「法」を「八万四千の法門」といっています。 「八万四千の法門」が指一つ弾く間に会得出来るというのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」一地具足す一切の地3

    「仏性」とは大智慧光明というべき働きを具足しているものなのです。 「仏性の大光明」というべきものは、「仏」を使い「神」も使うことの出来る程の力を持っているのです。 此処でいう「非(あらず)」とは超越です。 大悟して「天地と吾と同根、万物(ばんもつ)と吾と一体」と同化すればそれは理屈の入る隙間が無くなったことです。 金剛経に「世界 世界に非ず 之を世界という」という文言(もんごん)がありますが、所詮、「思慮分別の及ぶ 能わざる処なり」ということです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」一地具足す一切の地2

    平生馴れていますから何ともありませんが、しゃべるのでも声が出て、これが耳に入ると分かる、といいます。 馴れているから何とも思わないですが、誠に不思議な働きをしています。 実に「色心(しきしん)の行業(ぎょうごう)に非ず」といわなければなりません。 「色」は体のことです。 「心」というのは私たち衆生の憎いとか、可愛いとかというのを「心」といいます。 腹が立ったり、泣いたり、色々な雑念の有様を「色心の行業」というのですが、今「一地具足す一切の地」という我が「仏性」というものはそういうものではありません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」一地具足す一切の地1

    「一地」というのは、「一実相」ということです。 「実相真如」は即ち、私たち衆生の本性です。 この本性が「一切の地」即ち、一切の性を具有しているから人間(にんげん)でも本性の運び方で声聞(しょうもん)にも成れば、菩薩にも成れるのです。 ですから、犬猫だからとて馬鹿にはならないし、人間(にんげん)だからといって尊いという筈のものではありません。 次に「色にあらず 心にあらず 行業(ぎょうごう)にあらず」というお示しがあります。 誠に「一地」が「一切の地」を具有する有様というものは、実に考えにも及ばないことがあります。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」諸仏の法身 我性に入り 我が性還って如来と合す

    「法身(ほっしん)」という時には、「仏の理体」を指すので即ち「理仏」ということです。 「真理、真如」を指して「仏」というのです。 真理、真如は私たち衆生の本心です。 ですから、諸仏の理体、即ち、法身真如は私たち衆生の自性の中に具わっているのです。 また「我が性」は如来の法身、法性と合して少しも変わりはないということなのです。 お互い、私たち衆生の心はおシャカ様と同じで、その如来と合する程の立派な真如法体を具えているものなのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」一法徧く一切の法を含む

    「一法」というのは、我が心のこと、「法性(ほっしょう)」ということです。 それですから「我が法性は徧(あまね)く一切の法を含んで同体である」ということです。 「一を得れば万法(まんぼう)に通ず」ということです。 「法外(ほうげ)に心なく 心外(しんげ)に法無し」です。 名、異にして物は同じなのです。 これを「異名同体(いみょう どうたい)」といいます。 けれども、位(くらい)と分(ぶん)とが違いますから、法性は同一(どういつ)でもその位と分とに応じた働きしか出来ません。 例えば人間(にんげん)なれば人間だけの働き、犬であれば犬だけの働きしか出来ないのです。 これは何人(なんびと)に依って「位と…

  • 「證道歌」一生円に一切の性に通ず

    「性」とは不改を以て道理と為すものです。 ですから「一性」とは、人に在っては「仏性」といい、物に在っては「物性」といいます。 この「仏性」は仏も我も差別(しゃべつ)は有(在)りません、根本は一つです。 「一切衆生同体」ですから、私たち衆生も犬猫も同一性のものです。 それを「華厳経(けごんきょう)」には「心仏及衆生 是三無差別(しんぶつ ぎゅうしゅじょう ぜさんむしゃべつ)」と説いています。 「心と仏と衆生と、この三つは差別(しゃべつ)が無い同体である」ということです。 「草木国土悉皆成仏(そうもく こくど しっかいじょうぶつ)」です。 この道理を「一性円かに一切の性に通ず」というのです。 哲学…

  • 「證道歌」頓に無生を悟了す

    「頓(とん)に」とは、言葉にも、何にも言い表せない程の短い間ということです。 「無生」というのは、生無く、死無しということで、死ぬことも無く、生きることも無いという意味です。 ですから「無生」とは、生きていないという意味ではありません。 「生死」というのは「心意識の情」で、つまり「心の妄想」なのです。 妄想・心の迷いの無くなった所が「無生無滅」なのです。 それが「無生を悟了」したということです。 そうすれば善いとか、悪いとかということは、憂いともならなければ、喜びともならないのです。 虚栄心に馳せ、或いは我欲を起こすということのないように努めなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ラン…

  • 「證道歌」三つの忍

    三つの忍とは、「耐忍、安忍、諦忍(たいにん)」です。 「耐忍」とは、人に害を加えられるのを耐え忍ぶことです。 「安忍」とは、その害を安んじ甘んじて受けることです。 「諦忍」とは、加害者も被害者も共に「無自性空」なることを覚るのです。 道歌に曰く「堪忍なる堪忍は 誰もせよ、ならぬ堪忍どこにあるぞや」と。 此の娑婆世界を「堪忍土」といいます。 堪忍しなければ生きていけないのです。 それが即ち「生忍 法忍(しょうにん ほうにん)」というものです。 耐えて下さい。 おシャカ様は身を以て此れをお示しになりました。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」行も亦禅 坐も亦禅3

    「語黙動静体安然(ごもくどうじょう たいあんねん)」というお言葉があります。 「語」とは物ということで「黙」とは黙っていることです。 「動静」ですから動いていようが静かにしていようが、その間「体」というのは心体のことで、心が泰然自若(たいぜんじじゃく)として動かずにいる、これが「禅」だというのです。 すべて絶念で妄想が無い、うろたえる精神が一つもない、心体が安全で在りさえすればいくら動いても構わないということです それをその反対で体は坐っていても精神は動き通しに動いている、一分間でもじっとしていられない、あれを思い、これを思って妄想に亘る、それでは坐禅ではありません。 そこを古人も一心にするた…

  • 「證道歌」行も亦禅 坐も亦禅2

    夜でも昼でも眼の開いている限りは何時でも「禅」でならなくてはいけないのです。 そうすると「悟道」というものが出来るのです。 それは「正念(しょうねん)相続」といい、「無念」といいます。 「正念相続」とするには愚の如く魯の如くと、古人はいいました。 つまり「馬鹿のように成れ」ということです。 人というものは一心に成っていると、他から見れば馬鹿のように見えるものです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」行も亦禅 坐も亦禅1

    「六祖壇経(ろくそだんぎょう)」の中に「中自性(うちじしょう)を見て動ぜざるを禅と名付く」と。 「中(うち)」とは心の中のことです。 自らの性を見て動ぜざるを禅というのです。 それですから「中自性(うちじしょう)」を見て動ぜなければ、坐も禅なれば 歩いているも禅 話をしているも禅、あるいは手習いをしようが、花を活けようが、針仕事をしようが皆「禅」なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」覚すれば即ち了じて功を施さず3

    「華厳経(けごんきょう)」に「何等(なんら)をか有為に法と名(なづ)くる曰く、有為の法は三界(さんがい)の衆生なり」と。 三界の衆生は何でも心意識で拵え立て、妄想で物事が出来上がるのです。 三界の衆生は物事を有為の法で行うから甚だ困るのです。 是非これは「無為の法」でなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」覚すれば即ち了じて功を施さず2

    次に「一切有為の法と同じからず」というお言葉が続きます。 「有為の法ならば功を施す」のです。 「功を施さず」とは別の言葉でいえば「心意識の情」で、彼此 繕ったり、内密にしたりするのとは違い、すべて解放主義で秘密も何もないのです。 それが即ち「功を施さず」なのであって、有為の法とは同じではないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」覚すれば即ち了じて功を施さず1

    「悟って了 之は功を施さない(修行は要らない)」ということです。 「功を施さず」とは、そうしたら宜しくない、ああしたら宜しくないという分別、邪念、妄想などの無い子供のような風で無邪気で無雑作のやり方が「功を施さず」です。 いわゆる「無為」というのが「功を施さず」なのです。 「覚すれば」とは、覚った者は、そうすれば人に喜ばれるだろうとか、ああすれば人に嫌われるだろうといって彼此と心を使わないのです。 「洒洒落落(しゃしゃらくらく)」の境涯なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」深山に入り蘭若に住す2

    寺に居ると心意識の「情」、迷いというものが無くなりますから、非常に落ち着いたものに成ります。 そこで寺を「寂静處(じゃくじょうしょ)」、即ち「蘭若(らんにゃ)」というのです。 何も山の中に入って下さいというのではありません。 世の中に在っては色々な仕事がありますが、世の中に在って心が「深山に入り 蘭若の境」にいないと「境」に縛られてしまいます。 そこで「無生を悟了」して、心を此の境涯に措く必要があるのです。 何でも私たち衆生は心を一つ磨いて、無生を悟らなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」深山に入り蘭若に住す1

    今日では「寺」というものは都会の中にも在りますが、本来はそうではありません。 深山の奥深い處に在るべきものなのです。 何故ならば山は清浄(しょうじょう)なものだからです。 「藍若(らんにゃ)」というのは梵語で「レンニャ」と訓みます。 この翻訳は「閑静所(かんじょうしょ)」と訳し、此れはどういう意味かというと、「寺」という義です。 ○○寺でしたら、○○蘭若と書くのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」但だ本を得て末を愁うること莫れ

    「但」の字が「字眼(じがん)」です。 「但」は「余り物を雑ぜない」の義です。 そして「本(もと)をつかまえれば 末(すえ)は其処(そこ)に有(在)ります。 少しも心配はいりません、「因果同時」なのです。 本の延長が末です。 其の物に成って自己を忘ずるのが本(もと)です。 其処に何物も具わっているのです。 論語に曰く、「本 立ちて道生ず」と。 「一即一切 一切即一(いっそくいっさい いっさいそくいつ)」です。 これを「三界唯一心 心外無別法(さんがいゆいいっしん しんげむべっぽう)」というのです。 「名は異にして物は同じ(異名同体)」なのです。 故に曰く、「三界無法 何れの処にか心を求めん」。 …

  • 「證道歌」一超直入如来地2

    私たち衆生は、一心でなければなりません。 一心でありされすれば、一切の事が何時か必ず自分の思う通りに行くのです。 もしそうでなく間違った量見で「有為の法」を行えば、根本が誤っているのですから如何しても本当の事が成就しません。 ですから何事をするにも一心に誠の心を以てやらなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」一超直入如来地1

    「一超直入如来地(いっちょうじきにゅう にょらいち)」とは、一足飛びに飛び越すということで「無為実相の門」に入れば一足飛びに仏に成れるということです。 私たち衆生は仏の前に出ると一心に拝むと思います。 その時の心が「非思量」で、それが「仏の境涯」なのです。 ですから、誰でも一心に成っている時は仏に成っているのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無為実相の門2

    「仏境涯経(ぶつきょうがいきょう)」の中で、文殊菩薩がおシャカ様に向かって「無為は是れ何境涯ぞ」と、問われると、おシャカ様は答えて「無為は非思量の境涯なり」といわれました。 「無為」には、煩悩が無い、心意識が少しも無い。 それがおシャカ様の境涯なのです。 しかし、何も思わないといって馬鹿のような有様ではありません。 唯、唯、一心に絶対の境に至る、それが「仏」なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無為実相の門1

    「無為」とは真如で仏を指します。 何も思わず絶対に成り切る、そうあると「一心」ということになり、「一心」ならばそれが「真如、仏」なのです。 「真如実相」というものは、母親が子に対して「一心に成る」ようなのが「無為実相の門」なのです。 私たち衆生はこの「無為実相」ということを守って、他人のことであろうと、公共の事業であろうと、すべて我が子に対する心持ちで行っていただきたいものです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」豁達の空は因果を撥う3

    大智度論の中には「一切世間の法は、因果にして人無し」と書いてあります。 因果経の中にも「過去の因を知らんと欲せば当に現在の果を観るべし」とも書いてあります。 また更に「未来の果を知らんと欲せば当に現在の因を観ずべし」とも書いてあります。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」豁達の空は因果を撥う2

    「十善法語」には「宿福深厚なる者は因果を信じる」と書いてあります。 「宿福」とは昔からの福分ということです。 昔から、幸福の有(在)る人は因果を深く信じるものです。 何故かというと「因果は天地間の真理」だからです。 然る所、その「天地間の道理」に背くというものは、天地に入れられることが出来ませんから「遅速」は在りますが仕舞いには不幸せに陥るのです。 これに反して「因果の道理」を信じる者は如何しても「志」が厚いので過去を考え、未来を考え、そうして「物の善悪の道理」を支えて、今日行うことについて注意するから、そこで徳の厚い人間(にんげん)が出来るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほ…

  • 「證道歌」豁達の空は因果を撥う1

    「豁達(かったつ)」とは「空」として空しいという意味です。 「豁達の空」とは「空見、断見」ということです。 これはおシャカ様の時分には、「空見、断見」を持する外道という者が在って「因果の道理」を決して採らなかったのです。 キリスト教は「過去」は説きません。「未来」は説きます。 「天国へ往く、神の僕に成る」ということは説きますが「過去」の方になるとやはり「豁達の空」で説きます。 儒教でもそうです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」来生の不如意

    「住相の布施」をしたのでは、生まれながらにして「幸福」は得られますが、それは「有為(うい)の布施」ですから、その功徳は「何時盡(つ)きる時節が有(在)る」のです。 ちょうど上を仰いで射た矢が墜ちて来るようなものです。 一時は「幸福」は得られますが、布施の功徳が盡きてしまえば、「来生(らいしょう)の不如意(ふにょい)」で天から不幸せを招くようになるのです。 有為の布施は有為の徳しかないのです。 そこで「無為の法」を修める必要が有(在)るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」住相の布施2

    今はその反対に何をいくらやったというように、心の中に思っているのが「住相の布施」です。 「住相の布施」でも幸福は得られるのです。 経にも「布施する者は富貴(ふうき)に生まる」とある通りです。 けれどもそれは、「矢を仰いで虚空を射るが如し」というお言葉がありますが、天に向かって弓に矢を番(つが)えて射るようなものです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」住相の布施1

    「布施」というのは施すことで、「住相の布施」とうのは有為(うい)の法です。 例えば、慈善をする人が快く慈善をする、我れは慈善したと心に思い誇る様では「布施という相に住する」というものです。 これを「住相の布施」といいいます。 ところが人に「道」を教えても、物を施しても、これを心に住めない、そのようなことは忘れて了って少しも恩に被せないというふうに成るのが「無為の布施」であって、布施の相に住しない「無住相の布施」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」三乗

    「三乗」とは声聞(しょうもん)と縁覚(えんがく)と菩薩です。 声聞は羅漢、羅漢の上に縁覚という階級があり、その上には菩薩があって、これを「三乗」といいます。 この「三乗の人」はその学ぶところの目的が皆各々別々で、声聞は「苦集滅道」の「四諦」、それから縁覚は「十二因縁」、菩薩は「六度」となります。 「乗」は運載の義といって、乗せて運ぶということです。 例えば人が旅行するには汽車に乗ります。それです。 「苦集滅道」というものの真義を知(識)り、そのことを明らめる為には、先ず初めに「苦」という汽車に乗ってみて、成る程「苦」であるということを知(識)る。 さて、この「苦」を遁れるには煩悩を集めるという…

  • 「證道歌」大丈夫2

    孟子に「大丈夫」ということが説いてあります。 「富貴(ふうき)も淫する能わず」。 富貴ばかりを結構なるものとして、それに溺れるようなことがない、と。 それから「貧賤(ひんせん)も移すこと能わず」、如何に貧乏してもその為に心が変わらない。 「威武も屈すること能わず」、如何様に向こうの者が偉くても屈しない、「此れを大丈夫と謂う」と孟子が曰ったのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」大丈夫1

    仏法でいう「大丈夫」とは「出世間の人」ということです。 「出世間の大丈夫」というのは菩薩の心を持っている衆生のことです。 「菩薩の心」というのは、いわゆる自分の身命をなげうって世の中の衆生を救い、世の中の人を導く者で、これを「大士(だいし)の衆生、大丈夫の菩薩」といいます。 人間(にんげん)は自分の事だけを為して生活しているだけで宜しいのであるかというと、仏法ではそれを卑しめます。 世界を救うという精神を一番貴びます。 その精神のある者を「大丈夫」といいます。 いわゆる「大菩薩」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」禅門は心を了却す2

    「知見」の見の字は、知の字に附けて解釈するので、「知見の見」です。 即ち「知見の力」というのは精神の力ということです。 生滅を離れ、妄想を払って仕舞って無生無滅の涅槃に入るのは「知見の力」です。 自己の本来の面目は、仏性の知見の力で其処に到るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」禅門は心を了却す1

    「禅門」は禅宗、「了」は證るということです。 禅宗は本心を了って然うして頓に無生に入るのです。 「無生」は無我です。 生まれる時は生まれるばかりなのです。 死ぬ時は死ぬばかりなのです。 「知見」に知無き 即ち此れ「如来の力」なのです。 「心を了却す」とは即ち此れです。 「知見の力」の「知」は自性の用(ゆう)とあります。 「自性」は見るの聞くのということを待たずして、元から知るという力が具わっているのです。 其れを「知」と云うのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」学人了せずして修行を用う2

    趙州(じょうしゅう)禅師曰く、「我百千萬人を見るに悉く 是れ作仏(さぶつ)を求むるの漢なり、中に就いて無心の人を求むるに得難し」と。 「作仏」とは仏に成ろうということです。 「漢」とは人間(にんげん)ということです。 皆、成仏しようという人ばかりで、其の中に就いて無心の人を求むるに得難い、無心の人は無いと言っているのです。 学人心外(しんげ)に法をもとめているということです。 此れを「外道(げどう)」といいます。 「無心の人」ならば「無念の境界」であって仏に成ります。 「無心」というと、何も無いようなことに思ったら間違いです。 「無心」とは「一心」に少しも余念の無い処を「無心の境界」というので…

  • 「證道歌」学人了せずして修行を用う1

    「学人」とは修行する人で、「了せず」とは合点がいかないことです。 「今の道理」が合点がいかないから其処でやたらに修行して骨を折るのです。 けれども、其の修行は間違っているのです。 おシャカ様も修行はしました。 修行しなければ「仏」には成れません。 間違って修行するとは「真に自戒を認めて将に子とすることに成る」で、泥棒を捉まえて自分の本当の子だと思っているのです。 此処は、「妄想」のことを言っているのです。 子というものは可愛いものですが、泥棒を捉まえて自分の子だと思っていては、それでは何時まで経ってもその人の価値は分かりません。 そこで唯是れ一心「無念の境界(きょうがい)」即ち「正念」というの…

  • 「證道歌」大学3

    「一顆(いっか)の円光内外(ないげ)に非ず」というお言葉があります。 一顆の玉が此処にある。 「円光」というと、円に光り、裏も表も無い透き通って絶対清浄(しょうじょう)に光っている。 「内外に非ず」とは、内外が無い、丁度ガラスを張って裏表から透き通して見るようなもので、人々(にんにん)の心性は本来この通りなのです。 そういう精神さえあれば天下でも国家でも、治まらぬということはありません。 「天地の道理」を考えてもらいたいところです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」大学2

    それから「憂患する所有れば其の正しさを得ず」と、あります。 「憂患」とは心配することです。 心配する所が有れば心は正しくない、そう四つ挙げていますが、これらは皆、心が濁るのです。 そこでその次に「心ここに在らざれば視れども見えず、聴けども聞こえず、食えども其の味を知らず」と書いてあります。 心が濁るというと、物が本当に分からなくなってしまうのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」大学1

    仏教で「万象森羅影中に現ず」といっても、儒教でいっても同じことです。 「大学」に「忿懥(ふんち)する所有れば則ち其の正しさを得ず」とあります。 「忿懥(ふんち)」とは腹を立てることです。 「恐懼(きょうく)」とは、物を恐れること、物に恐れた時には心が正しくないのです。 それから、「好楽する所有れば其の正しさを得ず」とあります。 「好楽(こうらく)」は好み楽しむ、ですから宜さそうではありますけれども、物を楽しむというと、耽る、耽るというと、善いものが悪く見え、悪いものが善く視える、そうすると心が正しくないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」万象森羅影中に現ず3

    そこで万象の影も森羅の影も悉く心の鏡というものに映るのです。 森羅万象のみではありません。 善悲善悪の法も、真非真の法も、八万四千の法も、皆、悉く心の鏡に映るのです。 心が落ち着いていると、物が明らかに分かりますが、心が濁ると分らないのです。 ですから、「万象森羅のまま、其のまま其れ」なのです。 手の付けようがないのです。 「絶言絶慮 其の物其れ」なのです。 臨済禅寺曰く「会と不会とすべて是れあやまりなり」と。 「知解(ちげ)に依って会す(理解する)会せずといものは、すべてあやまりである」という意です。 南泉和尚も「仏法を会せずの人を求む 甚だ難し」と。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング …

  • 「證道歌」万象森羅影中に現ず2

    「万象」というのは、天の物を指します。 「天」に「日月星辰(じつげつせいしん)」といって、日も在り、月も在り、星も在るというように明らかに見えます。 「森羅」は、地上の物を云うので、地球の上には「樹」というものが在り、「林」というものが何処にでも繁っています。 其の樹木の並んでいる有様を「羅」といい、「林」が更に繁った様子を「森」というのです。 草も山も川も、有らゆる物が「森」の如く羅列しているから、地上の物を「森羅」というのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」万象森羅影中に現ず1

    人間(にんげん)本来の心というものは、誠に明瞭なものであります。 先般は「鏡」と例えましたが、其の明らかな鏡、即ち、心というものはどんな働きをするかというと、「万象森羅影中に現ず」なのです。 あらゆるものが映るのです。 あらゆるものが、皆、自分の心に映って来るのです。 見れば見える、聞けば聞こえる、というものは、皆、本心という明らかな鏡が有(在)るからなのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」如来の真実相

    「如来の真実相」とは、鏡のようなものです。 其の心の鏡には万物が明らかに映ります。 少しも間違いなく映ります。 「空」も無く、「不空」も無いのです。 「無相」であると云うと、何だか物が目茶苦茶のようですが、心の鏡が明らかになれば其れが又、決して目茶苦茶にはならないのです。 ちゃんと円いものは円く、四角のものは四角に見えるのです。 映すものと映されるものとの相手は無く、照らしぬいて少しも塵が無いのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無相は空なく不空もなし

    「空無相」というも「仮名(かめい)」です。 仏の心の境界(きょうがい)は、「空も亦不空」で自己を認められませんから、他己も認められないのです。 相対して衝突しないのです。 「無」を「有無の無」で見るのではなくて、超越(絶対)として見るとよく分かります。 然らば「無の空」です。 「無の想」です。 「無の不空」です。 「相手が有(在)りながら、相手が無い」之れを「有(在)りながら 有(在)り潰れ」といいます。 争いの起こりようが無いのです。 只本当にやって行くよりほかはありません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」二法は空にして無相なることを了知す2

    「無相」とは「絶対のもので、空も無く不空も無い実相」なのです。 有形無形を問わず、「無相」は念々変わりつつあるから相(すがた)の認めようがないのです。 其れを「空無相」といいます。 有形無形を問わず、すべては「仮名(かめい)」なるを知(識)らず、掴まえては放さず、何時までも有(在)ると思う、此れが「執着という迷い」です。 其れは、「物の実相」に徹底しないからです。 ですから、如何しても本当に「坐禅」をしなければならないことになるのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」二法は空にして無相なることを了知す1

    「二法」とは「真如・妄想」の二つのことです。 「二法空にして」は、真も無ければ妄も無い、妄が無ければ素より真の有り様が無い、「無思無相」心中に我れ無く、真もまた無いということです。 「無相」とは空も無ければ、不空も無いということです。 「不空」という時には何か物が有(在)るのですが、「無相」というのは、二法も十法(じっぽう)も有(在)るものでは無いのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」真をも求めず妄をも断ぜず

    「真をも求めず 妄をも断ぜず」とは「信心銘」で謂う「真を求むるを用いざれ、唯だ須らく(すべからく)見(けん)を息(や)むべし」と同じです。 物は物です。 物のほかに物は有(在)りません。 更に真を求めてどうしようというのでしょうか、という意味です。 ほかに無いのですから、見ようと思わなければよいのです。 「真」は「真如」です。 「妄」は心意識の情です。 即ち、妄想とか真理を求めないが、さればとて、妄想も断ちはしないのです。 何故ならば、妄想が有(在)れば真如を求めなければなりませんが、妄想も無いから真如も求めるには及ばないのです。 此処は「実相無相の有様」をいったものです。 道歌に曰く「見るま…

  • 「證道歌」自利利他2

    心が誠であり、心が親切でありさえすれば、如何なる人でも身分相応のことは出来ます。 真に「自利」の精神が出来てさえいれば、「利他」は必ず出来るはずです。 「大学」の「明徳(めいとく)を明らかにするに在り、至善(しぜん)を止まるに在り」というのは「自利利他」であって、其処まで行って初めて「菩提心」ということが出来るのです。 「菩提心」は「自利利他」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」自利利他1

    「自利」とは自己を利するということです。 自己の真如 仏性を悟得した所をいうのです。 「利他」とは其の自分の悟った力を以て他人を救うということです。 「自利利他」とは人にとって車の両輪のようなものです。 車の輪が一つ無ければ役に立ちません。 人間(にんげん)も「自利」だけで「利他」ということが無ければ用をなしません。 「自利」で以って自身の精神をおシャカ様の如く立派なものとし、其の力に依って国のことなり、公共事業なり、すべて他人の利益の為に盡す(つくす)ようにしなければなりません。 他人の為に利益を盡すということは、何も金が無ければ出来ないという訳ではありません。 哲学・思想ランキング 仏教ラ…

  • 「證道歌」誰か能く外に向かって精進を誇らん2

    満身 道と成って一挙一動に油断のないことです。 誇らないのではありません。 もともと相手が無いから誇れないのです。 腹を立てないのではありません。 始めより腹が立たないのです。 何でも一つ精進して大悟徹底 無価(むげ)の宝を得なければなりませんが、人に向かって己れの精進を誇ってはならないのです。 しかしながら道歌に 「父は打ち 母はかばって 悲しめば 変わる心と 子は思うらん」 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」誰か能く外に向かって精進を誇らん1

    どれだけ立派な人に成っても、世間に向かって己れを誇るようではいけないのです。 自己が有(在)るから、他己が有(在)るのです。 相手を見るから誇るのです。 所詮、相手を愛する大度量がなくてはなりません。 本当に働けば働くばかりにして自己は無いのです。 「精進」というものも有(在)りません。 「精進」とは「心(こころ)世心と和合せざるを精進と名付く」とあります。 つまり、一緒に成らない、世の妄想と和合しないのが「精進」です。 玄米を搗けば白くなります。 白い米なら搗けば青くなるというように、立派に磨き上げることを「精」と言いますが、其の通りに心の修行に於いても進んで行くことをいうのです。 「常精進…

  • 「證道歌」中下は多聞なれども多く信ぜず3

    「自利も利他もある者」を「上士」といいます。 此の「利」の字は利益の利でありますが、金儲けということではなくて、「心の利益(りやく)に成る」ことです。 「多聞(たもん)の方」は「得入」が遅いです。 阿難尊者はおシャカ様滅後、迦葉(かしょう)尊者について二十年骨を折りました。 霊雲和尚は三十年、桃の花を見て頓に悟りました。 香厳(きょうげん)和尚は二十年、竹声を聞いて悟りました。 それは「宿善」も有(在)り、只、因縁に任せて我を忘れて骨を折る外はありません。 断じて「正師(しょうし)、指導者」のお言葉を疑ってはならないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」中下は多聞なれども多く信ぜず2

    「自利利他なきものを下士という」ともあります。 自分ばかり教えを聞いて、利益を得てないで、人に教える。貴方も善い心を持って、宗教でも聞いて精神修養をしなければいけませんと言って人を導くのを「利他する」といいます。 ところが此の「自利」も無ければ「利他」もまた無い者を「下士」というのです。 その次に「自利」あって「利他」無き者とは、「自利」は自分だけの利益を得るもの、「利他無き者」とは、人を利する、即ち人を救うという心の無きものを「中士」というのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」中下は多聞なれども多く信ぜず1

    此れは「中士」「下士(げし)」になるというと、「多聞(たもん)なれども多く信ぜず」で、唯だたくさん聞いたというだけで何にもならないのです。 世間の多くは中外(ちゅうげ)という方です。 其処で「信根」という、此の信じる力というものがなければなりません。 「上士は道を聞いて努めて之を行い、中士は道を聞いて存するが如く 亡ずるが如く、下士は道を聞いて大いに之を笑う」ということがあります。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」上士は一決して一切了ず

    「上士」とは「上等の士」といっても、位が高いとか身分が高いというのではなく、「上々の機」ということで「心の優れた者」ということです。 仏法では命懸けの仕事をして世を救うという人を「上士」といい、此れは「上根の菩薩」でないと出来ないことです。 「一決」とは「一度決する」ということで「覚る」ということです。 「一切了ず」とは、其の決了の力をもって万事始末をつけるということです。 おシャカ様は殺されるような事もあったそうですが、何とも心に不安を感じなかったそうです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」生死の相関らざることを了す2

    荘子のお言葉の中に「何の暇(いとま)あってか生(せい)を悦び、死を悪(にく)むに至らんや」と。 平生 覚悟して長生きしても宜しい、今死んでも宜しい、「生死を解脱して、生きているとも思わなければ死ぬとも思わぬ」という処に行かなければなりません。 おシャカ様でもどんな聖人でも死ぬ時は死ぬのです。 ですけれども精神上に「妄想や煩悩」が有(在)りませんから「生死の相関(あいかかわ)らざることを知った(了知す)」というのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」生死の相関らざることを了す1

    「生也全機現 死也全機現(しょうやぜんきげん しやぜんきげん)」という道元禅師のお言葉が在ります。 生の時は宇宙 生一体なのです。 死の時もまた然りなのです。 「一々(いちいち)脱落」なのです。 薪は化して灰になるに非ず 死は変じて生となるのではないのです。 「生」は一時の位なのです。 死も一時の位なのです。 何方も手が付けられないのです。 それが「不相関(あいかかわらざる)」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」獅子吼無畏の説

    お経にもおシャカ様の説法を「獅子吼(ししく)」と説いています。 「無畏」とは、真理について正しく知(識)り、確信をもって語り、何等恐れるものが何も無いことです。 間違いが無いということです。 誰が何と言っても動かない、間違いの無い「決定(けつじょう)」の説だから畏れも無いのです。 インドにはおシャカ様在世の当時、九十六種の外道がありました。 心外(しんげ)に法を求めるばかりで悪人ではない哲学者と思えばよいと思います。 今も之に類する人がたくさん存在します。 「喜心・老心・大心(三心)」で行ずれば、皆、得心して従って頂けるものではないでしょうか。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブロ…

  • 「證道歌」我れ独り達了するのみに非ず2

    お経の中に「心仏及衆生是三無差別(しんぶつぎゅう しゅじょうぜさんむしゃべつ)」と書いてあります。 地球上には現在約八十億人、其れだけの人が皆同じ衆生なのです。 「心仏及衆生」この三つは皆一つ(一体)だということです。 そこを「恒沙の諸仏 体皆同じ」と言っているのです。 修行さえすれば立派なものに成るのです。 「宗通説通」即ち「自行他行(じぎょう たぎょう)円満な達了」が出来るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」我れ独り達了するのみに非ず1

    「我れ独り達了するのみに非ず」とは、無数の三世の諸仏と我れと達了の上に於いては少しも違わないということです。 「達了」とは先般論考した「宗通説通」です。 大自信大抱負です。 此の抱負が無ければ人を度することは出来ません。 「恒沙(ごうしゃ)の諸仏 体 皆同じ」というお言葉があります。 「覚体」は皆同じです。〈平等〉 妙用(みょうゆう)は千差万別です。〈差別(しゃべつ)〉 覚者曰く、馬祖下 八十四人の善知識 「大機大用(だいきだいゆう)」を得る者は「黄檗(おうばく)」と「百丈(ひゃくじょう)」のみと、余は皆「唱道の師」のみと、然し其の「体」はちっとも違ったものではありません。 哲学・思想ランキン…

  • 「證道歌」定慧円明にして空に滞らず3

    心がちゃんと落ち着いていないと、何をしても本当のことが出来ません。 すべて、「定」と「慧」が円明でなくてはならないのです。 これは仏法と言わずもがな、「定慧円明」にしていかなくてはならないのです。 ここでいう「空」とは、物の無いという方で「虚無」をいいます。 定慧円明ならば「虚無の空」に滞りはしないのです。 人間(にんげん)の間には自ずから「階級」があり、滅茶苦茶ではいけません。 それを何でも平らにやろうというのは「虚無の空」です。 「羅漢」などは「虚無の空」になるから「覚り」ということが出来ないのです。 道歌に曰く、「世の中の 人の心のよしあしは 限りの時にあらはれにけり」 哲学・思想ランキ…

  • 「證道歌」定慧円明にして空に滞らず2

    「精進」というのは、磨いて磨いて磨き上げなくてはいけないのです。 そこが「仏性を修る」というのです。 「定」でそうして覚りを得て「慧」というものが現われるのです。 「定慧円明(定と慧と円に明らかなり)」ですと、何方に欠点があってはいけないのです。 「涅槃経」の中にも「定慧「精進」というのは、磨いて磨いて磨き上げなくてはいけないのです。 そこが「仏性を修る」というのです。 「定」でそうして覚りを得て「慧」というものが現われるのです。 「定慧円明(定と慧と円に明らかなり)」ですと、何方に欠点があってはいけないのです。 「涅槃経」の中にも「定慧等学明仏性」と書いてあります。 「定慧」は車の両輪の如く…

  • 「證道歌」定慧円明にして空を滞らず1

    「宗通説通」というようになると「定慧円明(じょうええんみょう)」なのです。 「定」とは、禅定(ぜんじょう)という坐禅のことです。 「慧」は智慧(ちえ)です。 覚者曰く、「仏性を修むるを定と名付け、仏性を覚るを慧と名付け、定慧、通称とて禅となす」と。 仏性というと人間(にんげん)の本心、所謂(いわゆる)明徳(めいとく)の本心を覚らなければ駄目なのです。 いくら明徳の本心が具わっているといっても、それをそのままで置いては何にもならないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」宗通説通

    「宗通説通(しゅうつう せっつう)」とは「楞伽経(りょうがきょう)」に書いてあります。 「宗」とは「自行(じぎょう)」で自らの行いということです。 自ら悟ることです。 それが「法」の基礎となるのです。 「説」は他を化(け)する、他人を教えるというので、化他(けた)にして「教え」ということになります。 「宗通」とは、悟りが出来たということです。 自分の知覚が出来て、確かに仏に成って覚っているのが「宗通」です。 「説通」とは、説で聴かせるということで、人を教化(きょうけ)する、円満に差し支えなく間違いなく人を教化するということです。 「宗通説通」とは即ち、「自利利他」ということです。 哲学・思想ラ…

  • 「證道歌」善知識2

    「吾が善知識と成る」というお言葉がありますが、謗るものは却って自分の身の為に「教授の知識」と成り、「同行の知識」と成り、「外護(げご)の知識」とも成るものなのです。 何も彼も世の中に捨てるものは何一つもないのです。 皆必要なのです。 修養の力を讃嘆した道歌をご紹介します。 「山は山 川は昔に変わらねど 変わりはてたる我心かな」 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」善知識1

    「善知識」ということは、仏教では「知識」を三通りに分けています。 第一には「教授の知識」という「法」を教えてくれる「良師」のことです。 第二は「同行(どうぎょう)の知識」といって「同学同参の良友」のことです。 それから第三を「外護(げご)の知識」といって、外にあって護ってくれるのをいいます。 そのように仏法では三通りに説いています。 それが無ければいけません。 「此の知識」が必要なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」火を把(と)って天を焼く、徒(ただ)自ら疲る

    いくら悪口を言い、謗ってもそれは丁度「火を把って天を焼く」ようなものです。 今どのような火を持って来ても天が焼けるものではないのですが、それを焼くというつもりで火を焚くようなものです。 「徒(ただ) 自ら疲(つか)る」、無駄に自分の身が疲れるだけのことです。 「四十二章経」というお経の中に、人を謗るのは丁度、風に向かって枯草を体に背負い、それに火をつけるようなものではないか、そうすると、枯草には火がついて自分の体を焼いてしまう。 人を悪口するのはそんなもので、向こうの方は何ともない、却って自分の体を焼く、あるいは天に向かって唾を吐くようなものだということが書いてあります。 これは昔からあること…

  • 「證道歌」他の謗(ぼう)するに従(まか)す 他の非するに従す2

    「主義」が違うと敵になるのですから、それをよく心得ていなければなりません。 いくら人が謗っても一向に構うことはありません。 謗られたからといって「やせ」もしなければ、誉められたからといって「肥える」ものでもありません。 好い天気のこともあり、雨も降ることもあると同じです。 それが「世の中の活動」です。 「活動の物の有り様」はそういうものであると見ていれば良いのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」他の謗(ぼう)するに従(まか)す 他の非するに従す1

    人が謗(そし)っても、謗るに任せて置くことです。 いくら善良な人でも必ず謗られることがあります。 おシャカ様でも孔子様でも、やはり敵があって謗られたのです。 孔子様は殺されるという程の事があったから「天、徳を予(わ)れに生(な)せり、桓魋(かんたい)其れ予(わ)れを如何(いかん)」といって「天の道を亡ぼさぬ間は決して我は死ぬものではない」といいました。 おシャカ様もその通りで始終、提婆が殺そうとしましたがおシャカ様は一向にお構いなしでした。 どんな聖人にでも敵があるというのは、主義が違うのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無価の珍(むげのたから)2

    其のことを「無価の珍(たから)は用うれども盡(つ)くること無し」といって「其の道という宝」は無価であって、其の無価の珍(たから)というものは用うれども盡(つ)くるということはない。おシャカ様でも」という意味です。 仏の宝は今日の世界に皆、用いているのです。 仏の宝は文字に現われているのです。 孔子のお説きになったものは、今、書物となって残っています。 是などは即ち、心に「無価の道宝」を蔵めているからです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無価の珍(むげのたから)1

    「道あれば則ち心に無価(むげ)の珍(たから)蔵(お)さむ」というお言葉があります。 道徳、道力というものが充分に心に有(在)ったならば無形の宝というべきものです。 「無価の珍(むげのたから)」とは、価(あたい)の付けられないもの、安くないもので貴いものという意味です。 「蔵(お)さむ」とは、道徳、道力という「無価の珍宝(ちんぼう)」を心にちゃんと貯えて置くということです。 つまり此れは、「道を得た心が無価の珍(たから)」なのであるから、得道の外に用はないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無畏の力2

    「門松や 冥土の旅の一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし」と、一休禅師は歌われましたが、私たち衆生は「死」に依って平生の修養の光りを現わすのです。 「死」に依って私たち衆生の価値が現われて来るのです。 ですから、私たち衆生は今度は「門松や 出世の旅の一里塚 目出度くもあり うれしくもあり」と成らなければいけないのです。 そういう力を坐禅で養うのです。 ですから「禅」を修すれば今云う恐ろしいことは確かに無くなります。 此れは所謂(いわゆる)「坐禅を行じたところの結果」です。 「無畏の力」です。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無畏の力1

    「無畏(むい)」とは畏るる(おそるる)ところ無しという意味です。 坐禅をすれば何事に対しても恐ろしいということが無くなります。 何事も皆、自己の分体分身と見て、凡てを取り扱っていけるようになります。 しかし、最も畏ロしいことは何かというと、「死ぬ」ということが最も恐ろしいことだと思います。 先般も臨終にあたって三つの愛着(三愛)【境界 (きょうがい) 愛・ 自体(じたい) 愛・ 当生(とうしょう)愛】が生じる事を論考いたしました。 無限の生命を得ていれば、如何なることがあっても恐ろしいことはありません。 如何に学問が有(在)っても、死ぬ時はどうすることも出来ません。 平生、禅の修養のある人は此…

  • 「證道歌」寂滅とは2

    身体は「色」、即ち四大の和合ですし、心は「受想行識」の和合から出来ています。 此の「五蘊 (ごおん)(色・受・想・行・識)」を取ってしまったら何処に私たち衆生の実性が有(在)るのでしょうか。 私たち衆生に「実性」は有り様も無いのです。 私たち衆生は不生不滅の寂滅性なのです。 涅槃に安住する仏様なのです。 私たち衆生ばかりではありません。 草木に至るまで、其の「実性」を求めても「不可得」なのです。 皆是れ、寂滅性に非ざるものは無いのです。 元々「罪福損益(ざいふくそんえき)の実性」は定らまないので、善いことをすれば福徳があり、悪いことをすれば罪業が報いて来るのです。 只、私たち衆生の心一つで如何…

  • 「證道歌」寂滅とは1

    漢訳でいう「寂滅」とは、梵語で「涅槃」といいます。 「大成功」の義です。 「円寂」とも「不生不滅」とも訳します。 一切の諸法は何でも彼んでも、皆是れ「因縁和合」から出来るものですから、「一物(いちもつ)」として其の性の有(在)るものは無いのです。 ですから、実性の上からは未だかつて生じもしないし、生じないから滅しもしないのです。 「一切諸法の実性は不生不滅」なのです。 「不生不滅」を「寂滅性(じゃくめつしょう)」というのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」夢裡明明有六趣 覚後空空無大千3

    自己に目醒めない内は、何をしても多少の物足りなさや不満が残ります。 ですから早く自己に目醒めていただきたく思います。 そうすれば「其の時、其の時、が結果」ですから、物足りなさとか寂しさというようなものが無くなります。 確実に決定的にどんな些細な生活でも満足が得られるというのが、「禅の道」です。 苦楽相半ばする人間(にんげん)に生まれなければ「仏法」を求める気が起こらなものです。 大抵の人は「無上道」を求める気が起きませんので「境」に使われて一生を棒に振ってしまうのです。 「人多き 人の中にも人ぞなき 人になれ人 人になせ人」。 了 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」夢裡明明有六趣 覚後空空無大千2

    「空空」というのは自分の無くなった状態をいいます。 広い宇宙でも私たち衆生の六根の外に存在するものは有(在)りません。 ですから此の「六根の様子」というものを自分が明らかに見えたということになれば真に宇宙の真相が手に入る訳です。 「今の自分」と言っているのは、此れは自分の象徴(シンボル)なのです。 ですから象徴(シンボル)でない本来の自己に目醒めることが、「仏道を成ずる」ということです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」夢裡明明有六趣 覚後空空無大千1

    「夢裡明明(むりめいめい)として六趣(ろくしゅ)有り 覚(さ)めて後(のち)空空(くうくう)として大千(だいせん)も無し」というお言葉があります。 本来の自己に目醒めない内は六つの迷いの世界(天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄)があるように思いますけれども、真に目醒めてみれば一切そのようなものは無かったということに気が付くという意味です。 「夢裡」というのは本来の自分自身を知(識)らない時です。 目醒めない内の生活というのは、夢の中の生活ということです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」実相を證すれば人法無し

    「実相」とは本当の相(すがた)ということです。 本当の相は「無相」です。 相が無いので、相を認めることは出来ないのです。 「事実(今の事実)」としては認めるものは何もないのです。 「人(にん)」とは、自己のことです。 「法」とは形あるもの、無いものに拘らず一切の存在しているものです。 「実相」というものを実際に体得してみると、「人も法も一切のものが本当に無くなる」ということです。 「此の物」が在る為に「法」の存在を認める訳ですから、「此の物」が無くなれば一切の「法」という相手も無くなる道理なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」三毒の水泡は虚出没2

    いわゆる「三毒」という煩悩は、用い方に因って人を救うことが出来ます。 名医にかかれば、毒を以て人を救うことが出来ます。 下手な医者にかかると、薬に因って人を殺してしまいます。 「煩悩」は「身・口・意(しんくい)」に因って生じます。 私たち衆生が坐禅をするのは「身口意の三業(さんごう)」を清めるということです。 即ち坐禅は「懺悔(さんげ)」をした姿です。 ですから坐禅は煩悩の起こる余地はないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」三毒の水泡は虚出没1

    「三毒の水泡は虚出没(きょしゅっもつ)」というお言葉があります。 「三毒」というのは「貪瞋痴(とんじんち)」という煩悩のことです。 此の「貪瞋痴という煩悩」は何時も自分自身の中に有(在)る訳ではありません。 そういうものは「縁」に因って突然起こるものです。 ですから、その「縁」が消滅すれば三毒の煩悩も直ちに跡形もなく消えて無くなるということです。 「縁と一つに成る」ということは、例えば怒りは怒りでなくては摂めることは出来ません。 愚かさは愚かさでないと摂めることは出来ないのです。 其の物に因って其の物を摂めるという手段が「坐」なのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」空去来5

    私たち衆生は「真実というものを其のまま受け入れている」のですが、其れは「五蘊(色・受・想・行・識)」の作用に因って覆い隠されているのです。 例えば、二つの意識を一度に意識することは出来ません。 必ず、前の意識が無くならなければ次の意識は出て来ない訳です。 要は、因縁に従って其の因縁に任すことです。 一切のものに任すということを「五蘊の浮雲は空去来」といっているのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」空去来4

    今、車の音が耳に入ってきます。 此の車の音は自分の処を通り過ぎてから聞こえてくるのです。 ですから「車の音が聞こえた」という以前に車の音と自分とが必ず一体に成った時が有(在)るということです。 今、聴覚という一例を引いて「車の音が過去のものだ」という説明をしましたが、「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という人の作用は、過去のものを受け込んで現実に有(在)るかの如くに想像してしまうのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」空去来3

    ところが此の「自己」というものが本当に無くならないと、何時も自分の状態をはっきりながめていて、主体とか客体とかいうものが有(在)る筈ではないのに、そういう状態が自分ではっきり分かる(錯覚)というように、迷いを起こしてしまうのです。 私がよく「隔てがあるとか距離がある」という言葉を使いますが、実は此の「隔て(距離)」というのは「自己と本来の自己」との「隔て(距離)」があるということなのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」空去来2

    「空去来」というのは、「空」は本来あるべき筈のものではありませんから、「去来」変化を続けているということです。 ですから、「縁」に応じてある時は形のあるものになったり、又、ある時は形の無いものになったりするのです。 多くの出来事は、例えば浮雲の空(そら)を去来するが如しなのです。 此れを「変化の空身 即法身」というのです。 「五蘊」は積聚(せきしゅう)の義で「集まって成るものは空なるものなり」の意より来ているのです。 此の「五蘊」は瞬間同時に起こるので自己の認めようは無いのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」空去来1

    「五蘊(ごおん)の浮雲(ふうん)は空去来(くうきょらい)」というお言葉があります。 「五蘊は浮雲の如く空しく去来す」と訓みます。 「五蘊(色 "地,水,火,風〔四大〕・受・想・行・識)」については旧稿を参考にして頂き、「空去来」について論考したいと思います。 「空」とは実体の無いことです。 此の「空」を知識として認識とか意識というもので知るのではなくて、本当に「自分自身が空であったと気付く修行を禅の修行」といい、また「目醒める」といっています。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」法身覚了すれば無一物3

    私たち衆生は本来「仏其の者」であり、其れは「今の自分自身」であるということです。 ですから「修行の結果、自己を忘じ悟りを得ました」というのは「偽者」なのです。 間違えないように一言申し上げておきますが、よく指導者は「自分を無くしなさい、とか自分を落としなさいとか、自分を捨てなさいとか、自分を殺しなさい」ということは「もっと大きく活かして生きなさい」ということです。 「一切の物に成って下さい」ということを言っているのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」法身覚了すれば無一物2

    私たち衆生一人一人は他と比較出来ない、唯一人しか居ません。 本当に自分というものの「本性(法身)」を見極めれば、何も無いことが分かります。 道歌に「世の中は みな仏なり おしなべて 何れのものとわかつはかなさ」と。 法身を覚了して無一物の境涯になれば「自己そのまま」が「本源自性天真仏」であるのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」法身覚了すれば無一物1

    「法身」とは「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」と、おシャカ様は宣言されました。 「天上天下に自分の他に何もありませんよ」という意味です。 即ち宇宙全体のこと、此の世界のことをいいます。 人間(にんげん)のことを「小宇宙(小さな宇宙)」といいます。 何故そうかというと、一切のものは「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」という六つの働きの中にしか存在しないからです。 「覚了」とは、一切のもの、総てのものが「自分だと覚る」ことをいいます。 覚り了れば迷うべきものも無いし、覚るべき何物も無かったことが分かります。 それで「無一物(むいちもつ)」なのです。 覚(悟)るべきものも、迷うべ…

  • 「證道歌」幻化の空身 即法身(げんけのくうしん そくほっしん)3

    「真如の理体」が形を現わすのですから別物ではありません。 私たち衆生の生涯は浮いたり沈んだり、栄枯盛衰がありますが「本来成仏」という立派な「法身」なのです。 「即」という字の意味は「当体全是(とうたいぜんぜ)」ということで、「幻化の空身は此の体が全く是なり」ということです。 「此の物」を指して「即」というのです。 幻化の空身其の物が「法身」であるということです。 「此の理(ことわり)」をどうしても覚了(かくりょう)しなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」幻化の空身 即法身(げんけのくうしん そくほっしん)2

    老子曰く、「天地に先だって生きる 之を道といふ」とありますが、其の道が「法身(ほっしん)」です。 「法身は理なり」と説いて「理法身」といいます。 即ち「真如」のことです。 「真如の智を法身と名付く」と「起信論」にありますが、即ち「幻化の空身」が幻化でない法身ということです。 「法身」が本体で「幻化の空身」と成って現れて来るのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」幻化の空身 即法身(げんけのくうしん そくほっしん)1

    「幻」の字について云うことは、眼を打つとヒラヒラと火が飛ぶように見えます。 あれが「幻」です。 「幻」とは事実、無い物が有(在)るように見えることです。 「化(け)」というのは「蚕」が「蝶」に成るというようなのを「化」といいます。 今まで羽根の無い虫であったものが変化して羽根の生えたものに成る、あれが「幻化(げんけ)」です。 「空身」というのは此の体のことです。 私たち衆生は長寿もしますが、実際は「幻化の空身」といわなければなりません。 何故かというと何時死ぬかも分かりません。 長寿するかも分かりません。 お互いに今日にも知れず明日にも知れぬという身でありますから「幻化の空身」というのです。 …

  • 「證道歌」無明の実性 即仏性2

    「錆」を落とせば、なるほど鉄だということは分かります。 その光り輝いている鉄という所が「仏性」なのです。 「錆」で真っ赤になっている所が「無明」ですから、捨てて置いては駄目なのです。 その「無明という錆」は何処から出て来るのかというと、やはり「鉄」から出るのです。 「錆」の実体は「鉄」なのです。 「無明の実性は即 仏性」なのです。 私たち衆生は「無明」が有(在)ると同時に「仏性」がちゃんと有(在)るのです。 ですから、無明の錆を除いて「其の性(眞金 "まがね” 鉄)」を成就しなければなりません。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」無明の実性即仏性1

    「無明(むみょう)」といって嫌うことはありません。 何故ならば「無明の実性(じっしょう)即仏性」だからです。 「無明」はその実性の本源を糾すと皆、仏性より出るのです。 仏性も無ければ「無明」も起こらないのです。 仏性という本体が有(在)るから「無明」という錆(さび)が出るのです。 ですから「真如」の外に無明というものはないのです。 そこで「仏性」について「正法眼蔵 仏性の巻」には、「仏性ノ道理ハ 仏性ハ成仏ヨリ先ニ具足セルニアラズ 成仏ヨリ ノチニ具足スルナリ 仏性必ズ成仏ト同参ス」と。 ですけれども多くの仏教書には「本来成仏」と書いてあります。 是れは「法(法の本体)」から発したお言葉なので…

  • 「證道歌」絶学無為の閑道人(向上の理)4

    「現在の事実(人としては)」をそのままほったらかしにすれば私たち衆生は生涯、迷いに迷って暮らさなければならないのです。 恐れ多いことですが、おシャカ様でも先ず「六年の修行」をなされたのです。 「閑道人」とは大暇な道人ということです。 修行が済んだ人ということです。 遺教経(ゆいきょうぎょう)にも「睡蛇(すいじゃ)すでに出なば安眠すべし」とあります。 「煩悩の毒蛇」が出てしまったら寝てもよろしいと、しかし煩悩が出てしまう迄は骨を折らなければならないと書かれています。 ですから、出来るだけ骨を折って、出来るだけ心を研がなければならないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

  • 「證道歌」絶学無為の閑道人(向上の理)3

    道元禅師の「普勧坐禅儀」にも「道本円通(どうもとえんずう)争(いかで)か修證を假(か)らん」と冒頭に書かれました。 道というものは、円(まどか)に通じている、人間(にんげん)は勿論、天地に先立って生まれ、天地万物(てんちばんもつ)の本となっているのだから修行するとか、悟りを開くとか、そんなことは要らないといっているのです。 これは「向上の理」から発した道元禅師のお言葉で、「向上の理」から言えばそれはそうに違いありませんが「現実の事実(人としては)」から言えばそうは中々いかないのです。 哲学・思想ランキング 仏教ランキング にほんブログ村

arrow_drop_down

にほんブログ村 カテゴリー一覧

商用