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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

1件〜100件

  • 夜明けの明星2

    なあんだ、人間の迷いというものは、この「一念」に於いて迷っていたんだという事が、はっきりせられたのです。それはただおシャカ様のみではなくて、おシャカ様の下に「迦葉(かしょう)」という人が居られて、そのおシャカ様の教えに従って、それを行じてその「自覚」を、得られました。それが今日迄伝わって来ているのです。誰でも修行すれば、それが自分にきちんと「自覚」が、出来るのです。そういうはっきりした「道」を、おシャカ様はお示しになられたのです。夜明けの明星2

  • 夜明けの明星1

    おシャカ様は自分が根底に迄、落ち込まれている時分に「夜明けの明星」をご覧になられて、悟られました。一体どういう事かと申しますと、人間の見解(けんげ)らしいものも、何にも無い迄の生活に落ち切られて、その生活自体にいた時、その時ただ「夜明けの明星」が、「チカッ」と目を射したのです。その途端に「ポッ」と「認識(人間従前の一念心)」が、気が付かれ起きたのです。「心(認識)」というものが活動を始めたのです。その始めた途端に、それ迄の見解(けんげ)から離れている世界即ち、「今の事実・今の自己の様子」に気が付いた(目醒め)のです。そのまま気が付いたのです。それで驚かれたのです。夜明けの明星1

  • おシャカ様のお示し5

    そうして初めておシャカ様は、気が付かれたのです。おシャカ様は、一体何に気が付かれたのでしょうか。その事を私は「今の事実・今の自己の様子」と、皆様に提示しているのです。これこそ今までかつて人間の考えた事無い、手の付けた事の無い一番必然で、当然の事である筈なのに、何故「この事(今の事実、今の自己の様子)」を捨てていたのだろうか。そういうような事に気が付かれ、それに徹底せられたのです。おシャカ様のお示し5

  • おシャカ様のお示し4

    おシャカ様は、自分という者は本当に如何あるべきなのだろうか、如何あるべきなのが本当の様子なのかと、疑問にされてそうして出家されたのです。そうして六年間「難行苦行(なんぎょうくぎょう)されたのです。ところが「難行苦行」してみても、何も得る処が無かったということが「難行苦行の結論」だったのです。おシャカ様のお示し4

  • おシャカ様のお示し3

    「自分で自分が生まれたという事」を、知っている人があるでしょうか。おそらく無いのではないでしょうか。「無いのが必然」なのです。この必然として自分で生まれた事を知らない者が、知らないなりにそうして出て来て、何も知らない世界で「知らず識らず」に、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。そうして出て来て何も知らない世界で、はっきり生きているという「今の事実」が、あるのです。そういう大きな問題に、目を注がれたお方がおシャカ様なのです。おシャカ様のお示し3

  • おシャカ様のお示し2

    おシャカ様は、人類史上初めて人間が、人間を救い得る事が出来る事を、見出されたのです。そうして、「その救われた事実」を伝えられ、そうしてそれを実行せられた人々(歴代の覚者と言われる人々)は、必ず皆自分を自分で救われたという事が、はっきり自分で頷けたのです。「おシャカ様のお示し」とは、そういう「法(道)」であるという事です。おシャカ様のお示し2

  • おシャカ様のお示し1

    「仏教」という物は、人間の都合で作り上げたような、教えではありません。「私たち衆生の本質その物を、本当に知ってもらうという道」です。「今の事実」は、私たち衆生の本質的な物を、そこにえぐり出して、おシャカ様や歴代の覚者方と言われている祖師方と、同じ世界に同じように生きている事が、「今の事実」であり、皆「立証」されるのです。「今の事実」をもって居ながら、私たち衆生は何処かに、「法(道)を尋ねているのです。そういう処に間違いがあるのです。それを本当に正されたのが「おシャカ様のお示し(仏教)なのです。おシャカ様のお示し1

  • 同時成道2

    「我と有情(うじょう)と同時に成道(じょうどう)す」。おシャカ様がそう言われたからと言うと、それはおシャカ様のものだと、思ってしまいます。しかし「法(道)」という物は、誰のものでもありません。懸命に修行して「自分のものにした人のもの」です。ですから、いたずらにおシャカ様の「八万四千の法門・月を指し示す指」等々、そう言う物に惑わされないように、自分と言うものを見失う事のないように、修行していかなければなりません。同時成道2

  • 同時成道1

    おシャカ様は、「我と有情(うじょう)と同時に成道(じょうどう)す」と、二千五百年前にはっきり宣言して、おられます。「一つになった」という事です。そういう事が、「今の私たち衆生の様子」です。これからではないのです。「自分と大地と何時も成道している」と、いう事です。成道していないものは一つも無いと、おシャカ様は宣言されたのです。今、本当に信じられるでしょうか。誰でもその事は、簡単には信じられないと思います。難しい処ですけども、そこをよく信じてもらわないといけないのです。そういう事が、現在迄伝わって来ている訳です。同時成道1

  • 白紙の状態

    「今の状態」は、全て物がきれいに無くなっている状態です。ですから修行(坐禅)というのは、どんどん分かったものも分からないものも放していく、悟りたいと思う事も放していく、何時でも「白紙の状態」にして修行(坐禅)をする、事に当たるという事が、必要です。これから修行(坐禅)をして、苦労して使う物であったならば、どんなに苦労してもそういう事が掴めるか掴め無いか、分からない事があります。然しそういうものではありません「白紙の状態」とは、「今の自分の事」です。ですから、「なるほど此の事か」という事を、了解すれば宜しいのです。誰でも、そういう「結果」に至る事が、出来るという事です。「今の状態(今の事実)」に、一切手を付けず物の力を借りず、「じっと今の状態(今の事実)」に成り切っているそういう人を、「有力(うりき)の大人...白紙の状態

  • おシャカ様の知恵3

    おおよそ人間は「人間同士」として、「自我」と云うものを認めて、日常生活を営んでいます。そのような「自我を認めた世界」へ、「自我を認めない人」が出現したのです。何故多くの人間にとって、諸々の事に対して苦悩が生ずるのでしょうか。それは先入観念に取り付かれて、「今の事実」がはっきりしないからです。そういう事を、おシャカ様ははっきりお示しになられたのです。私たち衆生の日常生活としての実質な生活と言えば、「今の事実」「今の瞬間」にしか、有り得ません。それは何故かと言いますと、私たち衆生には、永続的な実体と云うものが、有り得ないからです。おシャカ様の知恵からすれば、今の私たち衆生の本来の姿は、何時何処で何をしていても、きちんとした日常生活が、誰にでも出来ているという事なのです。おシャカ様の知恵3

  • おシャカ様の知恵2

    おシャカ様は何を中心に捨てられたのか言いますと、おシャカ様のそれまでの修行と云うのは、自己中心だったのです。それでは「真実とは何か」「自己とは何か」という問題は、どんなにしても、解決しなかったのです。そこでこの問題が解決しなければ、どうしようもないではないかと思い、自己中心の考え方を全て手放されたのです。手放してみたら、何時の間にか、本当に「自我心」と云う、ものの無い世界に入っていた事に、気が付かれたのです。それに気が付いてみたら、今まで人間が「自我」を認めていた為に、余計な苦労をしていた事に、気が付いたのです。おシャカ様の知恵2

  • おシャカ様の知恵1

    おシャカ様の「道」を得られるまでの苦労というのは、「真実」とは何か、自己とは何かという事の、追究だったのです。人は知らず識らずに修行と称して、身体や心を苦しめてしまうものです。おシャカ様も、気が付かれなかった頃は、そういう「無駄な苦労」を、なされたのです。それが「本当の道」のように思われておられたのです。然しおシャカ様はそれが大間違いであることに気が付かれて、今迄の教えを全部捨てられたのです。おシャカ様の知恵1

  • 拈華微笑5

    「吾れに正法眼蔵有り」の是の「吾れ」の字に高く眼を付ける必要が在ります。「吾れ」とは誰の事でしょうか。あながちにおシャカ様在世当時に預ける事ではないはずです。正法眼蔵は誰も持っていない人はいないのです。「涅槃妙心」とは何時も変わらない正法眼の自在の人を指したお言葉です。「実相無相」とは、ものに自性無く、こん跡の認めるべきものが無い事です。「山と吾れ」と同じですか。別ですか。同異の入る隙間は無いのです。実相は自ら実相とは言いません。「相」とは相手が無いのに相手を認める事です。元来その物その物に脱落して、相手の邪魔をする者が無いはずなのです。そこで「自在」なのです。そこが「無相」です。無相を指して実相を言っているのです。拈華微笑5

  • 拈華微笑4

    ただ一人迦葉(かしょう)のみ在りて、おシャカ様の密意を見破ったのです。さすがのおシャカ様も是の内証をすっぱぬかれたので地位を譲ったのです。そこで「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り、不立文字(ふりゅうもんじ)教外別伝(きょうげべつでん)摩訶迦葉(まかかしょう)に付属す」と譲り渡しの証文状を書いたのです。これが「禅定の始まり」であり、「印可證明(いんかしょうみょう)」の起源なのです。おシャカ様は私たち衆生の前身です。私たち衆生はおシャカ様の後身です。見明星(けんみょうじょう)の眼も私たち衆生の眼も眼は同じく横なのです。「己れ」を認めなければ、皆、「己れ」で無い物はないのです。おシャカ様はこのように「金波羅華」を拈じられたのです。拈華微笑4

  • 拈華微笑3

    おシャカ様は何故華を拈じたのでしょうか。迦葉(かしょう)は何故、笑ったのでしょうか。ここが参究のしどころです。何故おシャカ様は「一字不説」と断り、成道の時に「我と大地有情(うじょう)と同時に成道する」と記別を与えたのでしょうか。「記別」とは、おシャカ様が私たち衆生を「本来成仏なり」と宣言された事をいいます。おシャカ様が華を拈じたのは仏道(仏法)は私たち衆生の足元に在る事を知(識)ってもらいたいための「老婆心切」だったのです。おシャカ様は「法の後継ぎ」を決めるために選抜試験を行ったのです。拈華微笑3

  • 拈華微笑2

    おシャカ様も「一字不説」でよせばよいのに最後の説法に出掛けたのです。「金波羅華(こんぱらげ)」とは説法に対するお極まりの供養物です。おシャカ様は華を捻じたまま何も言わなかったのです。分かった者が在るかしらと彼方此方見廻しました。ところが多くの修行者はおシャカ様の密意が分からなかったのです。唯(ただ)一人迦葉(かしょう)のみ在って華を見て笑ったのです。拈華微笑2

  • 拈華微笑1

    「拈華微笑(ねんげみしょう)」の話は「禅の紀元」として世に知れ渡っています。インド、中国、日本へと歴代の覚者といわれる方々は皆この話に由来しているのです。「拈華微笑」とはおシャカ様が一枝の「金波羅華(こんぱらげ)」を拈じて、言説を越えた仏教の端的を示したところ「迦葉(かしょう)」のみがその密意を知ってにっこり微笑したという因縁話です。「四十九年一字不説」とは、おシャカ様最後の説法です。「不説」とはその物が説けないという事です。何故ならば「その物の外にその物が無い」からです。説かないのではありません。「元来説けない」のです。説けばそれだけその物にそむける事に成るのです。拈華微笑1

  • 生きる目的2

    これだけは手放す事が出来ないというものが如何しても残るものです。その手放す事の出来ない物を思い切って手放す必要が在ります。何処へ手放すのか。もともと無い物ですから手放す処もありません。その辺のところは、既に「空の中」に居ながら「空」に成ろう、「空」に成ろうとしている「我」が在る事に気が付かなければなりません。どうか本当に手放しに成って修行(坐禅)をし「仕事」をなさっていただきたいと思います。禅語でその事を「実参実究(じっさんじっきゅう)・実参実悟(じっさんじつご)」と言っています。生きる目的2

  • 生きる目的1

    私たち衆生の「生きる目的」は「無心、無我に成る事」です。無心、無我に成った人を「仏」と言っています。私たち衆生の「一挙手一投足」が全て「空」であり「無」であることを、言葉で言えば「仏法」といっているのです。ですから「法」に成ればよろしいのです。「法」に成るには「我」を無くせば宜しいのです。「我」を無くするには「修行(坐禅)」をすれば宜しいのです。それだけのことです。暑い時は暑い、嫌な時は嫌だ、半信半疑だ、何もがみんな「法」です。比べる物が無いから本当は「法」も在ってはならないのです。生きる目的1

  • 仏教における方便

    「方便」というのは仏教語です。広辞苑によれば、①「衆生を導く巧みな手段、真理に誘い入れるために仮に設けた教え」②「目的のために利用する便宜の手段」と記されています。本来「仏教」に於ける「方便」とは「その人(その人の今いるところ)」から「成仏の道」へ一番近い道を選んだのを「方便」というのです。ですから「方便」というのは、いい加減な事ではなくて「今の人、それぞれの人」がそれぞれの立場にいる訳ですから、その立場に於ける一直線(最短の)良い道(成仏の道)」を「方便」というのです。仏教における方便

  • 仏の教え

    おシャカ様は先ず最初に「ものは一つであるのに悟りと迷い、生と死、というような我他彼此(がたぴし)の見というものが出来てしまった。本来はそういうものではない」ということを、はっきりと説き示されております。私たち衆生は本来既に「守るとか、守らなければならない」というそういう事を超越した「今」に何時も生活が出来ているということです。「仏(おシャカ様)の教え」というものは、それをきちんと、そういうものであるということを八万四千の法門で事細かに示されているということです。仏の教え

  • 迷いの元3

    「物心が付く」ということは、そういう「今の事実(今の自己の様子)」を私したのです。そういうことにおいて「迷悟」というようなことも起きて来るのです。「迷い」ということは、これからはじまったのです。ですから六根の働きのまんまに徹すれば「迷い」から離れ、いわゆる「悟りの世界」が出現するのです。自分の本性を見極めようと思ったら、人間的考えを使ってはいけないのです。迷いの元3

  • 迷いの元2

    おシャカ様が悟りを開かれる以前、真に人間の救いというものは何処に手を付けて良いのか分からなかったのです。そこでこれから「道を求める(修行を志す)私たち衆生」は、この「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)という働きのまんま」徹しなければなりません。自分達の「都合(観念)」で自然(じねん)のあり方に手を付けてはいけないのです。それを使うと私(わたくし)することになります。一方「六根自体の作用」は公(おおやけ)なのです。迷いの元2

  • 迷いの元1

    おシャカ様の教えでは「物心が付く時点」が迷いの元なのです。しかし人類のすべてがこの「物心が付く時点以前」には人間的な日常生活というものは有り得なかったのです。それではいったい「物心」は何処で付いたのでしょうか。赤ん坊にはその自覚は無いはずです。不自覚なまま人間として成長して、「不自覚な人間」ばかりが形成されていったのです。おシャカ様以前には「人間の心」に対して、どういう風に何処から何のように手を付けたらいいのか、誰も手の付け所を知(識)らなかったのです。人類有史以来そのような状態でしたが、おシャカ様が「迷いの元」をあきらかにされたのです。この「物心が付いた時点」で「初めて認識(初一念)」が起き、その時点で「自分が認識したと認めてしまったのが(思い込んでしまったのが)「迷いの元」なのです。迷いの元1

  • 戒律

    おシャカ様が布教をしていた時分、だんだんと多くの人が集まってきました。その中にはいろいろな“クセ”を持った人が在り、そういう人達が弟子になりましたので、その度ごとに必要に応じて一つずつ戒律が設けられました。集団で修行する上においては修行者がお互いに迷惑をかけることのないように「これでけは注意して行きましょう」という考えの元に「戒律」が生まれました。かつて仏教が非常に栄えた国々では、現在この戒律だけが守られています。そしてその戒律を守っていく事がおシャカ様の精神をそのまま行じているものだと誤って理解されています。しかしこの戒律も「修行」という中心が無ければ何の意味もなくなると思います。おシャカ様の説く戒律は「仏教道徳」です。「守らなければならない事を守る」とは「今の事実に自らの考えで一切手を加えないこと」で戒律

  • おシャカ様の徹底2

    徹底的に究明されたということは、人間的な考えをかなぐり捨てて、「今の事実」に徹したのです。そうしておシャカ様は初めて人間というものの「本性(ほんしょう)、此の物の発生の根源」を知(識)られたのです。そういう大きな問題を知(識)っていただきたいというのが「仏教の教え」なのです。おシャカ様の徹底2

  • おシャカ様の徹底1

    此の物の発生(出来上がり)というものを知(識)っている人は一人もいないのです。そして、その作り手も、つくられ手もなしに此の物が生じ生まれてくるのです。「そういう事実」が有(在)って私たち衆生は現在生きているのです。「不知不識に生まれた今の事実」が有(在)るのです。たまたまそういうことに、おシャカ様が気が付かれて、それを徹底的に究明されたのです。おシャカ様の徹底1

  • おシャカ様の宣言

    今から二千五百年以上前におシャカ様は「我と大地有情(だいちうじょう)【世界のあらゆるもの】と同時に成道(じょうどう)【悟りを得る】した」とはっきり宣言されました。その内容の正しいことは弟子によって証明され代々受け継がれ今日に至っているのです。それが「私たち衆生の今の様子」ということなのです。これからではありません。「自分と大地と何時も成道している」ということです。しかし誰もがその事を信じられないと思います。しかし、信じてもらわなければいけないということなのです。そういう事が今日まで伝わってきている訳です。ですから私たち衆生一人一人が「おシャカ様の宣言」された内容の正しさを「証明」し、安心して「報恩と感謝の日常生活」を送るべきではないでしょうか。お経にも「初めて知る、衆生本来仏なることを」と、はっきり示され...おシャカ様の宣言

  • 農耕民族と狩猟民族2

    日本は「島国」である事に因って、「女性性」の特性である「助け合う心」と「団結力」は、特に戦後欧米諸国、特にアメリカに比べて、「女性性」としての意識があり、外敵(征服しようと画策する民族)から守られて来たと思います。日本は逆に言えば、「島国」と云う「逃げ場の無い場所」なので、お互いが助け合わなければ生き長らえる事が困難だったのではないかと思います。農耕民族と狩猟民族2

  • 農耕民族と狩猟民族1

    一般的には、「農耕民族」は「女性性が強く、集団を好む「草食系」です。基本的に備蓄する事を思考し、食べ物が残りわずかになっても、それを出来る限り「平等」に、分配しようとします。「狩猟民俗」は、「男性性」が強く、核家族を好み、「肉食系」です。どちらの民族も、餓死寸前の状態になった時には、大半の方が「利己」に走り、他人から奪ってでも、食べ物を確保しようとするものです。「日本は代表的な農耕民族」です。農耕民族と狩猟民族1

  • 他人を労わる

    人間は基本的に、飢えから解放された状態にならなければ、「他人を労わる思い」が、生まれにくいものです。人間の欲が、ある程度の領域まで満たされて、「理性」が本能に勝る状態にならなければ、本当の意味での「他人を労われる思い」が、生まれにくいものです。其の最も基本となるのが、「食べ物」を確保することです。世界中に蔓延している「飢えと貧困」を、無くす努力が必要となって来ます。「集団の想念」が出て来ると、「大難」を「無難」には出来ませんが、「小難」にする事が出来ると思います。他人を労わる

  • 宗教の目的

    動物としての人間の本能は、「貪欲さ、強欲さ」と云うものがあるため、其れを知っていた先人たちは、人間の動物としての本能を、「理性」で抑え自分を律するために、「宗教」を創ったのだと思います。宗教(信仰とは別のもの)の教義に共通しているのは、「快楽に溺れてはいけない」と云う事であり、「宗教本来の目的」は、「神仏の教え(真理)」から目を背け禁欲的にそれを体現していく事なのです。キリストやソクラテスと同じように、「道(真理)」を究めていった時に、最終的に其処に待っているのは、「死」と向き合う事だったのです。人間としての存在意義について、「疑問」を持たなければなりません。人間は本来「地球の管理者」なのです。宗教の目的

  • 神道と仏教の大きな違い39

    インターネットの口コミの「罠」から、身を守る方法の一つとして、活字の活用が考えられます。新聞や雑誌のような活字に目を通すと、良し悪しは別にして、結果的に、自分の意識のバランスを採ることになります。活字の中で自分の意見と相反するような主張に、目を通すことが大切です。それが結果的に、マインドコントロールから、自分を守ることにつながります。人間一人一人の意識を向上させ、「人間も自然の一部でしかない事」を認識し、「自然を大切にする心」を、育む必要があるのです。本来の農業は自給自足であり、経済としては、物々交換が基本なのです。神道と仏教の大きな違い39

  • 神道と仏教の大きな違い38

    「教育」は、一般社会では当たり前のように行われています。本人(自分)より社会を優先させる、会社にとっては都合の良い社員の育成が理想なのです。これは「組織の外に出て初めて気が付く事」で、その組織に所属している間に気が付くのは、無理だと思います。常に情報を集めて、色々な事に疑問を持つようにすることが大切です。神道と仏教の大きな違い38

  • 神道と仏教の大きな違い37

    宗教団体のマインドコントロール手法は、教え(真実)に因って、先ず信者を信用させ、次に信者の「至らない処(事実)」を責め精神的に追い込んで、マインドコントロールしてしまう手法です。そしてその次に待っているのが「教育」です。最初は違和感があると思いますが、人間には「物事」に対する順応性があるので、直ぐに慣れてしまい、団体の外にいた時には疑問だったことが、いつしか常識に変化してしまいますと、「真実の自己の目覚が無い」中に、どんどん宗教団体のマインドコントロールの深みにはまってしまいます。神道と仏教の大きな違い37

  • 神道と仏教の大きな違い36

    インターネットの口コミ、テレビ・新聞・雑誌などの発信する情報は、それ自体が真実であれ操作された情報であれ、一定の方向と範囲に収まるものであります。インターネットの情報は方向性はありますが、一定の範囲にない程の幅と広さを持っていて、虚々実々の世界を展開しております。その中から真実を探すには、大変な苦労を伴うのが、最終的にはその人の感性で、選択された情報に偏ったものに、なってしまいます。可能性は否定出来ませんが、それが正しいかどうか、疑問になる場合も多いものです。神道と仏教の大きな違い36

  • 神道と仏教の大きな違い35

    一つの真実(一つの本当の事)も、捉える人の思いや感性に因って、様々に変化してしまうのが実情なのです。「物事」は、一方から見たり考えたりするのではなく、「多角的」に見たり考えたりすることが必要となり、場合に因っては、疑ってかかる事も必要ではないでしょうか。神道と仏教の大きな違い35

  • 神道と仏教の大きな違い34

    真実(本当のこと)を示す事実は複数あり、その内容は「相反」することが多いため、一つの真実(本当のこと)を取り上げて「此の事」は「そういう事」だと残してしまうと、それを信じ込んだ人々は、「道」を誤ってしまう事も少なくありません。だからと言っていちいち事細かに説明しても仕方がありません。人の顔や体型がそれぞれ違うように、シチュエーションや対応する人に因って、その内容は変化してしまいます。キリスト教は、イエス・キリストから、仏教は釈尊というたった一人の教えを基に始まった宗教です。にも関わらず、キリスト教も仏教も、「自分たちこそ神や仏の教えに一番近い」という思いを持つ人々に因って、多くの宗派に分かれているのがその証拠ではないでしょうか。神道と仏教の大きな違い34

  • 神仏との絆を取り戻す2

    キリストと言うお方は、キリスト教を始めたお方ではなくて、あくまでもユダヤ教の信者であって、其の教えを広めていったのは、弟子たちです。其れが「キリスト教」です。宗教も、原点回帰の時代に入っています。「宗派の争い」と云うのは、神仏の教えとは、関係ない処で、誰が「リーダー」に成ると云う事で、争っているのです。神仏との絆を取り戻す2

  • 神道と仏教の大きな違い33

    この危険性を理解し、注意喚起として教えを残されたのが、「キリストや釈尊」です。この方々は経典や仏像などを一切残していません。キリストや釈尊は、「真実」を示していたのです。神道と仏教の大きな違い33

  • 神道と仏教の大きな違い32

    マインドコントロールとは、「事実」を正確に伝えはするものの、本当(真実)の事は伝えず、「事実」を羅列する事に因って信じ込ませ、聞く側を意図する方向に誘導する手法です。キリスト教は弟子による「福音書(聖書)」。仏教は弟子による「仏典」です。神道と仏教の大きな違い32

  • 神道と仏教の大きな違い31

    宇宙人のことを古代の人は、尊厳と畏敬の念を込めて「神」「天使」と呼び、日本では「天津神(あまつかみ)」と表現したものだと思います。「神」は、人間を地球の管理者として、誕生させたのだと思います。従って地球をより良く発展させるのも、地球を破滅への道へと誘うのも、最終的にそれを決めるのは、「地球自身と管理者である人類の役目」なのです。神道と仏教の大きな違い31

  • 神道と仏教の大きな違い30

    だいたい二十五才位で、老化遺伝子と成長遺伝子が同じ位に成り、五十才前後で成長遺伝子が止まって老化遺伝子だけになります。成長遺伝子を何処まで伸ばせるかに因って、人間の寿命と云う事は変わります。そして「精神」というものを、どのように良い(善い)状態に保っていくか、それに因って人間の寿命というものは、大きく変わります。この世の中を良く(善く)する、光を差す大切な事は「笑」です。歴史とは、勝者に因って書き換えられた物語なのです。神道と仏教の大きな違い30

  • 神道と仏教の大きな違い29

    ですから「ありのままの自分」を受け入れる事です。自分を労い自分を癒す事です。そのことを「自愛」と言います。「あの世」とは、「天国と地獄」の事です。「霊界」とは、「この世」に来るために一度は、通らねばならない領域です。子供は親を選べません。親も子供は選べません。親は子供は親の持ち物でないことを、認識する必要があります。子供は一才から三才は、「業」を積む事はあっても、「徳」を積む事はできません。四才から六才は、「自我が目覚める時期」です。七才から九才は、「躾」を修正出来る時期です。この世の全てが、同じ時期軸で動いていると言うのは、人間の錯覚です。本来という事は、一つではなくその人の想念に因って、その人の人生が決まるものです。その想念に因って、次に行くべき未来と言う物を、自分で引き寄せるのです。神道と仏教の大きな違い29

  • 神道と仏教の大きな違い28

    執着を手放さなければ、「この世」を只、さまようだけの「浮遊霊」となります。黄泉の国に旅立つために、現世に思いを残さないように、人生を送って来たかどうか、満たされる事の無い思いや、自分に対する自身の無さは、「自己愛の不足」になっていくのです。それにも「思い」を手放す事です。然し自己愛を大切に思う心を持たなければ、「あの世」への旅立ちの妨げと成ります。神道と仏教の大きな違い28

  • 神道と仏教の大きな違い27

    四魂が行く世界を「あの世」と呼び、人は輪廻転生を繰り返すといわれる時、多くの場合はこの四魂の転生を指します。死を迎えた時に最も大切な事は、死をそのまま受け入れる事です。人は等しく「生」を受けた時から、「死」に向って歩んでいます。人間の「死」の迎え方は、人間それぞれですが、どのような精神状態で「死」を迎えたのかが問題となる処です。神道と仏教の大きな違い27

  • 神道と仏教の大きな違い26

    四魂とは、(1)和魂「にぎみたま」(2)荒魂「あらみたま」(3)奇魂「くしみたま」(4)幸魂「さきみたま」です。一霊が行く世界は、「この世」で一生を過ごすうちに、その人の想念が持ち帰るので、そこは想念のごった煮状態に、なっているのです。この世から持ち帰った想念は、昇華され記録として残され、新たに生まれ変わった時の助けになるように、使われることもあります。神道と仏教の大きな違い26

  • 神道と仏教の大きな違い25

    人の心は天と繋がり、一霊、別名直霊(なおひ)と、人間の本体を構成する四つ魂に因って、成り立つという日本の思想があります。これは一霊四魂(いちれいしこん)と、言っています。神道と仏教の大きな違い25

  • 神道と仏教の大きな違い24

    三途の川とは、食欲・性欲・睡眠欲の世界のことです。亡くなられてから一つの目安として、百ヵ日法要が仏教では行われます。亡くなられた方が、無事に「霊界」に辿り着き、次の段階に入られたことを歓び、その方を応援するものです。神道でも百日祭という法要が、行われます。神道と仏教の大きな違い24

  • 神道と仏教の大きな違い23

    三途の川とは何か。①徳を積んだ人は、光に包まれた川上へ②一般の人は、俗に言う「お花畑」と呼ばれる処に③徳の少ない人は、俗に言う「賽の河原」と呼ばれる処にお花畑とは最初は白色、徐々に華やかな色合いに、そして最後は草原になります。草原は、最初は短い草で、下るにしたがって背の高い草、その後、葦やススキが生え、草がまばらになり始めると「賽の河原」が現れるということです。神道と仏教の大きな違い23

  • 神道と仏教の大きな違い22

    現世から旅立つ時、漆黒の闇世界に行くか、三途(さんず)の川を渡るか。それは、黄泉の国への旅人がどの場所で三途の川を渡るかは、その人が積んだ「徳」に因って、決まるのです。神道と仏教の大きな違い22

  • 神道と仏教の大きな違い21

    共感は、他人を思いやる心です。同情は、思いやりです。共感の心を持った人は、死を迎えた時間はかかってもそれを受け入れることが出来ます。同情する心を持った人は、自分自身が不幸になることを想定していないため、死を受け入れません。神道と仏教の大きな違い21

  • 神道と仏教の大きな違い20

    自分自身が満たされていなければ、他人を思いやる余裕が、心の中に生まれません。余裕を創り出すには、自分自身が自分に素直になり、自分を好きになることが必要となります。共感と同情は全く違います。自分自身が好きになるという事は、傲慢(ごうまん)になるという事は、同じではありません。神道と仏教の大きな違い20

  • 道と仏教の大きな違い19

    黄泉(よみ)の国へ旅立つために必要なことは、現世への思いを断ち切る事であって、「徳や業」とは、関係がありません。どんな罪深き人間でも、あの世に行って修行すれば、人間として生まれ変われますが、そうでない者は生きている時に、積み上げた業の深さに応じて、動物や昆虫などに生まれ変わります。亡くなった方は、自分が行くべき黄泉の国に行って、そこで生まれ変わる為の修行を終えなければ、次に生まれる時に、現在の位置(人間は人間、動物は動物)を維持出来なくなります。道と仏教の大きな違い19

  • 神道と仏教の大きな違い18

    これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。神道と仏教の大きな違い18

  • 神道と仏教の大きな違い17

    人は人でしか磨く事は、出来ません。何事に対しても、「見定める目」を養う事が大切です。縁起の法とは、「生起(しょうき)・生滅の法則」です。分かっていると出来るとは、全く別の物です。ビックバーン以降の「無」とは、宇宙その物であり、ありとあらゆる場所に存在していてこの宇宙の膨張と、収縮に作用している存在です。元々「この現実世界」には、善悪と呼ばれる「物自体」が、存在しておらず、そこに有(在)るのは、「立ち位置」の違いだけです。神道と仏教の大きな違い17

  • 神道と仏教の大きな違い16

    「望む未来」に近づけるために、本当に大切な事は、「自分を好きになる事」です。自分を好きになり自分を大切に思えるようになれば、過去や未来の自分から助けられやすくなるだけでなく、自分の中に存在するインナーチャイルドも癒され、助けてくれるようになります。「インナーチャイルド」とは、子供時代の記憶や心情感傷、自分の中に住み続けている、心に傷を負った子供、内なる子供と訳される事があります。神道と仏教の大きな違い16

  • 神道と仏教の大きな違い15

    「現在の自分」が、思いを変えるとたくさん存在する過去や未来の自分に、その思いが伝わるのです。そうすると、「過去や未来の自分たち」が、「現在の自分」に何が足りて、何が、不足しているのかを、教えてくれるようになるのです。次いでに、「今の自分」が、望む未来へと、繋がるパラレルワールドに、乗り換えられるように助言と協力をしてくれるようになるのです。これらの助言の内、「過去の自分からの物」は、反省を基にした思いや、過去の記憶として、又未来からの助言は、インスピレーションと云う形で「現在の自分」に伝わってくるのです。神道と仏教の大きな違い15

  • 神道と仏教の大きな違い14

    「陰陽」は、物質世界や精神世界の基礎をなす法則です。時空の特異点とは、時間と空間の終着点であると同時に、出発点となる場所の事です。戦争は正義がぶつかり合う時に起きるのです。時空の流れと個人の人生を、同じものだと錯覚している人々が、以外に多いと思います。過去にも未来にもあなたは「存在」するのです。自分が望む未来に行こうと思ったら、自分の意志で自分が、望む未来へと繋がるのです。そこに行けるように次々に乗り換えていくのです。神道と仏教の大きな違い14

  • 神道と仏教の大きな違い13

    「只の今」では、「水」が形を変えた物です。これが現実世界の始まりです。存在の違いは、それぞれが持つ固有の振動数で決まり、この固有のエネルギーが持つ振動数に因って、素粒子の結合状態が変わり、物質化するための密度が変化することで、物体として「存在」することが、可能になるのです。現実世界は「無」という「陰」から始まり、「陽」に繋がったのです。神道と仏教の大きな違い13

  • 神道と仏教の大きな違い12

    無の存在は、知覚する事は出来ませんが、イメージする事は出来ます。例えば、自分の周りに物が何も無いと言っても、「空気」は存在しています。宇宙空間に行ったとしても、「空気が無い」と云うだけの事で、目には見えませんが、宇宙空間にもぎっしりと詰まった分質が、存在しています。現実世界は、「氷の塊り」であるが故に、全ては「ひと塊り」になって繋がった状態で、存在しているのです。神道と仏教の大きな違い12

  • 神道と仏教の大きな違い10

    物質は絶えず振動しているのです。震えているのです。その事を無常とも変化とも言います。自転・公転。重力・引力。時間・空間。膨張・収縮。作用・反作用。物質・反物質等々神道と仏教の大きな違い10

  • 神道と仏教の大きな違い9

    神道と言うのは、その宇宙の中に自分が居て、宇宙の一部として自分が存在しているという考え方なのです。仏教の考え方は、自分を中心にして、その宇宙は存在しているという考え方なのです。神道と仏教の大きな違い9

  • 神道と仏教の大きな違い8

    人間だけが「思い想念」に因って、時間の流れを変化させることが出来るのです。「音信不通」になるという事は、あなたと会えなくなった方との、「思い」が違って来たという事なのです。「人の想念が、その人の人生を描き、集団の想念が歴史を創る」のです。神道と仏教の大きな違い8

  • 神道と仏教の大きな違い7

    太陽信仰以前に、世界中で信仰されていたのは、北辰妙見信仰です。即ち男性性の信仰であったのです。北辰妙見信仰以前の信仰は、「月」を信仰するもので、女性性の時代の信仰で、あったのです。私たち衆生が存在している現実世界は、四次元世界なのです。五次元世界とは、四次元世界に「集団の時間軸」を、加えたものです。三次元世界は、「立体の世界」を云います「同時多次元宇宙」を、パラレルワールドと言います。神道と仏教の大きな違い7

  • 神道と仏教の大きな違い6

    因果の実相「実体其の物」が、今の私自身です。即ち今のままで、迷う必要も悟る必要もなかったのです。「無」とは何も存在しないという物ではなく、存在してはいるが、知覚や認識が出来ない物であり、見えない中にあらゆる物が、含まれているという事です。神道と仏教の大きな違い6

  • 神道と仏教の大きな違い4

    宗教は源「みなもと」の教えです。宗教「源の教え」とは、「実相無相・不生不滅・無始無終」です。即ち「不知不識」の存在です。不知不識の存在は、自性(じしょう)は無自性なのです。即ち私たち衆生は、無自性以外の何物でもないのです。神道と仏教の大きな違い4

  • 神道と仏教の大きな違い3

    宗教自体の考え方は、例えば「象の鼻」を触ったら、想像を膨らませて「これが象だ」という発想をします。つまり、部分的に想像を膨らませて、人に限定した生き方とか、教えという物を説く仏教を取り入れたのです。聖徳太子は、「人を中心に自然」というものではなく、「仏教」を取り入れたのです。神道では人間の実生活などの場面で、懸け離れている部分が出てくるので、人の心が薄れてしまいました。後に「神仏習合・本地垂迹(ほんちすいじゃく)」が出現するのです。神道と仏教の大きな違い3

  • 神道と仏教の大きな違い2

    仏教では、壮大な「死性(ししょう)観」をもたらしましたが、神道では「黄泉(よみ)の国」と云う概念しか無く、其れは「死者の赴く世界」だと言う、すごく狭い世界しかなかったのです。神道の場合は、仏教のように教えが無く、「古事記・日本書紀」のような所謂「史書」と言う形で、伝わって来ているので、神道をどうやって実生活に活用するのかと言った時に、神道に於ける「教え」と言うものは、弱かったのです。神道と仏教の大きな違い2

  • 神道と仏教の大きな違い18

    これまでの社会構造は、「ピラミッド型の縦社会」だったのです。ですから、トップに立っている者たちの、意思が大きく反映され、それを「教育」と言う方法で、「集団の想念」へと変えていく、「上意下達のシステム」に因って、成り立ってきたのが、「マスコミ報道姿勢」なのです。事実を伝えウソを付かなければ、何も本当の事を伝える必要はありません。人々は行き先不明の切符を、手にしながらその都度乗る列車を、乗り換えて未来に向かって進んで行くのです。成功するには、「実力と運、それにタイミング」が、必要となるのです。神道と仏教の大きな違い18

  • 神道と仏教の大きな違い1

    仏教では、「人間の世の中で、人がどういうふうに生きていったら良いのだろうかと」という「人間に特化した教え」なのです。人を中心に、自然というものではなくて、人に限定した生き方とか教えというものを、説いているのです。仏教の教えと神道の教えでは、先ず中心とするものが違うので、物事を見る視点が変わって来ます。神道では、人間も基本的には自然の一部であるとの、考え方なのです。神道と仏教の大きな違い1

  • 新しい道筋7

    時代は、二十一世紀に入って居りますが、人間社会を見る時、「国家間・民俗間の対立・人間問題・格差社会」等々「法治国家」で有(在)りながら、混沌として紛争が、絶えません。「宗教」も又、「本質」から遠く離れ、現実を生きる人々に「無力感」が漂っていると思います。今こそ人々が無明「自我・妄想(もうぞう)」の実態や煩悩・業苦の根源である、三毒「貪瞋痴(とんじんち)」や万物(ばんもつ)の本質を、見定めて見る必要が有(在)るのではないでしょうか。禅家(ぜんけ)では、これを「自己の正体を見極める」、即ち見性(けんしょう)と言っています。新しい道筋7

  • 新しい道筋6

    「水自体」は、変化している事は知(識)る由も有り得ません。水の性質は絶対に変わりません。しかし「そのままで変化がある」という事です。私たち衆生も「縁」に応じて様々な変化を繰り返しながら、「水が水に成る」ように、精進していって頂きたいと思います。必ず「氷」は、溶ける物です。それには「座る」事です。半畳の場所が有(在)れば座れます。相手は要りません。必ず座れます。そうすると、「氷」が溶けて「水に成る時節」が有(在)ります。それを「悟り」というのです。新しい道筋6

  • 神道と仏教の大きな違い16

    「望む未来」に近づけるために、本当に大切な事は、「自分を好きになる事」です。自分を好きになり自分を大切に思えるようになれば、過去や未来の自分から助けられやすくなるだけでなく、自分の中に存在するインナーチャイルドも癒され、助けてくれるようになります。「インナーチャイルド」とは、子供時代の記憶や心情感傷、自分の中に住み続けている、心に傷を負った子供、内なる子供と訳される事があります。神道と仏教の大きな違い16

  • 新しい道筋5

    凍っている自分を、何に因って溶かし、そうして元のさらさらと流れる、「水」にする事が出来るのか。この事は「宗教の力」しか有り得ません。一度自分の物が、凍った訳ですから、是は必ず溶けます。溶けなければ可笑しいのです。溶かさなければならないのです。「凍った水」が溶けた状態、然うしてさらさらと流れる状態を、「悟り」と言っているのです。ですけれども、それを如何にかして、「水の性質」を教えてくれる、「宗教者」が居なかったのです。「実証する宗教が無かった」のです。新しい道筋5

  • 新しい道筋4

    「新しい道筋」とは、従来の人間の「尺度(物差し)」を止める必要が有(在)ると言う事です。人間と言うのは、何時迄経っても「既知の知」の中での、繰り返しの生活しかしていません。如何しても世界には、「新しい道筋」でなければないというそういう事を、私たち衆生は、気が付かないといけません。それには「問題意識」を、持つ事です。狭い自分で物事を判断していては「新しい道筋」は、生まれて来ないという事です。そこで「新しい道筋」を求めるには「宗教」という物が、必要になって来るのです。私たち衆生は、本来「水の様な物」です。水は「縁」に応じて自在に活動しています。それが「今」凍っているのです。ですから融通が利かないのです。新しい道筋4

  • 新しい道筋3

    暫くの間は、仏法「仏道」という「おシャカ様の法」に因って、「自分自身の法」に目覚めるように務めていくのが、「仏道の修行」という物です。しかし、「仏法(仏法)の中での修行」していてもそれは駄目なのです。決して「自分自身の法」には成りません。何故ならば、分かった分からないとか、法「悟り」とか言っても其れは「仏法(仏道)の中の事」です。決して自分のものには成りません。「今の自分の物事に出来るか」が、それが問題なのです。新しい道筋3

  • 新しい道筋2

    私たち衆生は、昔から一生懸命に考えて、色々な物を「創」って来ました。然し、現在何が解決したかというと、何にも解決した物「物事」は、有(在)りません。そこで漸く、これではいけない、新しい道筋を求めなければいけないという様な事から、色んな方々が模索しています。これからは、そういう人物が世界をまとめていかなければならないと思います。いわゆる世間でよく言う「法」という物です。新しい道筋2

  • 新しい道筋1

    「法は、自分の法」で、なければなりません。おシャカ様の体得された「法」を、何時迄も学んでいて、それを「仏法(仏法)」と云い、「おシャカ様の法(各々の宗派の教え)」しかないという様な狭い考え方、小さな考え方の時代は、もう過ぎました。これからは、「おシャカ様の法」に因って、みんなが、「自分自身の法に目覚める」という事に、成って行かないと、これからの「新しい道筋」という物は、出来て決ません。新しい道筋1

  • 結論とは2「仏教の提示」

    仏教では、「結論としての土台」が、有ってはいけないと説いているのです。先ず「結論」として例えば、「苦集滅道」と、云う物を提示して於いて、そうしてその「結論としての土台」を忘れる事です。何故忘れる必要が有(在)るかと云いますと、それは「元」が、残るからです。「土台」というのは、一つの立場です。最初から立場という物が、有(在)ってはいけないという事が、「仏教の教え」なのです。結論とは2「仏教の提示」

  • 結論とは1「科学の土台」

    「結論」とは、広辞苑①に拠ると、「結局の議論・考えたり議論したりした末に、下される判断や意見」と、記されています。「結論」は、幾ら考えても「人の考えの範囲」を出る事は、有り得ません。私たち衆生は、昔から考えて来た処の、人間の知恵の中で新しい事が、発見された様な歴史を繰り返して現代に、立脚しています。科学の分野に於いても、無常だ無始無終、何時迄も、物は移り変わっているのだと、説かれて居りますけれども、それは「結論」です。いわゆる「学問」と云うのは、「結論を土台」として、積み重ねて行っている訳です。ですから「結論が、最初から有(在)る」と、いう事です。そういう物事が「科学の土台」に、成ってしまうのです。結論とは1「科学の土台」

  • 人類の究極の課題6

    おシャカ様は、「人類の究極の課題(無明の煩悩の源)」に、目覚められたのです。この「一大問題」が、過去の人々から取り持たせる、重大課題で在った事に、気が付かれたのです。そこに於いておシャカ様は、従来一般に人間修行の、「道」と思われた「苦行」の道を捨て、健康の回復を計り「尼蓮禅河(にれんぜんが)」に於いて、自分が正しい解脱を得る事が出来なければ、「この坐」を立たないという固い決心(今で言う菩提心という事です)で今で言う坐禅ですけれども、坐られたのです。人類の究極の課題6

  • 人類の究極の課題5

    別の言葉で言えば、従来私たち衆生は、「識が錯覚(本来自分の無い事)を起こして自分が有(在)ると、認める事により誤りを知らなかったのです。今日の私たち衆生も又、この誤りを知らずに、「識に惑わされている」のです。この発見こそ、おシャカ様の偉大なる、前人未踏の因知で有り、「人類の究極の課題」である、「無明の煩悩の源」を発見する重大な出発点と成ったのです。人類の究極の課題5

  • 人類の究極の課題4

    「人類の究極の課題」を解明しようとして、おシャカ様は「出家」されたのではないでしょうか。おシャカ様は、当初は人間的な生活の全てを尽くして、訓練修行されたのです。然し「無条件で満足出来る道」が、得られず失望されたのです。その結果おシャカ様は、更に「自分自身が自らの真相」を、省みられたのです。今で言えば「問題意識」を、持たれたのです。そうして「今日迄の問題」は、認識自体が認識上に有(在)って認識の自在なる活動(働き)の為に惑わされて、そこから一歩も出る事が無かった事に、気付かれたのです。人類の究極の課題4

  • 人類の究極の課題3

    仏教では「人類の究極の課題」である、この疑問の起こる波を、「無明の煩悩」と、説いているのです。この「無明の煩悩」が、滅しない限り人間の苦悩も、完全に救う事は出来ないのです。例え沢山の人が研究を重ねて、仏教に同一な結論に達し、各自が理論的に決定しても、彼等自身が「真理」は此れで善いのかと、自問自答する時、真面目な正直な考えを持つ人であれば、あるほどに自分自らが迷うのが、落ち着く処ではないでしょうか。この様に考えてみれば見るほどに、人間は迷いに迷いを重ねて、浮かぶ瀬も無き哀れなる者と成ります。これが人間を苦しめ悩ます処の「無明の煩悩」なのです。人類の究極の課題3

  • 人類の究極の課題2

    人間はこの矛盾に、永久に悩まされて行くのです。この事は、人類発生以来の悩みです。この問題は文化の発展につれて、益々大きな問題となる物なのですが、この事は人間が人間として、人間的な態度でしては、決して解決出来る問題ではないのです。この問題は私たち衆生の全てが、既に経験して今日に及んでいるわけです。「この問題か」と云ってこの問題を、放置しておく事は、益々出来ないのです。そこで人間は、この矛盾に苦しむのです。この事が「人類の究極の課題」となっている、一大問題なのです。人類の究極の課題2

  • 人類の究極の課題1

    「今を今の外」には、求めようがないのです。求めなくても、「今」なのです。然るに私たち衆生は、この事に対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明しようと、あらゆる手段を尽くして、この問題に取り組んでいるのです。全ての物がそれぞれに於いて、その物で解決済みの物です。その外にはありません。この理由に因って万物は、存在していて更に、疑う処はないのです。如何なる私たち衆生の「結論」に因っても、決定的な無条件での満足は、得られないのです。何故ならばそれは「その思う事」が、妨げているからです。「人間は、この無条件で満足出来る道」を求めて止みません。然るにこの目的が達し得られないからです。人類の究極の課題1

  • 仏教の真理2

    仏教を真理として「仏教を絶対的なもの」として見てしまうと、「法その物」を求めるはずであるのに、その内容を覚えてしまい、尺度として基準立場を持たない、「偏見・法見(ほっけん)・空見(くうけん)」を持って、そこで行き詰まってしまいます。偏見(各人の偏った見方)、法見(法にとらわれた見方)、空見(今の事実でない見方)もその内容は違っても、「我見」と全く同じものです。その「我見」を放ち落とすのが、修行でなければいけません。仏教の真理2

  • 仏教の真理1

    仏教や歴代の覚者の教えを、究極と見誤ると、様々な問題が生じます。仏教・祖録に焦点が固定されてしまう為、自分の問題として「自己の正体を見極める事」が、出来なくなります。仏教を見聞すると云う事は、本来解決済みの言葉を、そのまま受取る事ではなくて、自己に於いて解決すべき問題と受けとめる事です。仏教の真理1

  • 最も大切な事5

    それですから、その「眼球」に習った生活をすれば、苦悩も煩悩も無くなってしまうのではないでしょうか。全ての物には、「そうしなくてはならない」と、いう決まり(規則)が無いのが、「人及び物の本質」なのです。「物の本質」と、いうのは決まり(規則)と言う物は無いのです。私たち衆生の身体は、そういう者(事)なのです。最も大切な事5

  • 最も大切な事4

    「眼自体」は自分の気に入ってなくても「縁」に応じて自在に活動しています。この「眼に写ったもの」を世界とか人間とか社会とか物とかいっています。全て「この物(眼球)の上に現れた存在を問題にしているだけ」の事です。それなのに、それが「自分の考え方」に相応し、気に入ったとか気に入らないとかいって、それを使おうとするから直に大きな作用ではなくて、小さな作用になってしまうのです。「自己中心の作用」になってしまうのです。最も大切な事4

  • 最も大切な事3

    地球上に存在している物は、全て善くも悪くも無く、「只、事実その物」であるという事です。「存在事実」に変わりは無いのです。ですけれども、「物その物」は、先般も申し上げましたが、使い道に因って善い悪いと言われる迄の物なのです。この善いでも悪いでも無いのが、本当の存在です。それでは「人間の存在」が、何の様に大きな作用をしているのか、私たち衆生に具わっている「眼(まなこ)」を例に取って考えてみたいと思います。最も大切な事3

  • 最も大切な事2

    人間の全ての感覚を、六感といいます。六感というのは、視・聴・臭・味・触の五感と、俗に言う「第六感」と、いわれる心の働きをいいます。その六感は、最初から条件が無いのが本当です。条件が有(在)ると言う事は、自分に一つの考えを持つ物に対して、良し悪しが起こるのであって、物に良し悪しが有(在)るのではないのです。只、使い道に因って暫く良し悪しという事が、出て来るまでの事なのです。物その物は、善いでも悪いでもないのです。最も大切な事2

  • 最も大切な事1

    人間がとかく「自我」を認めて、自己中心の観念で、全てを取り扱うと云う事は、誤りであるという事です。そういう「自己中心の考え」を、超えて本当に大きな働きするのは、実際は人生その物の真相であるという事です。何故ならば、地球上の全ての物を横一列に、並べてみても、地球上の全ての存在という物は、「人間の為に有(在)るのではない」と、いう事です。最も大切な事1

  • 存在者2

    私たち衆生一人一人は世界の人口分の一の「存在者」です。掛替えの無い自分ですから、本当に「自分自身」に成らないと、いけないという事です。他人の為の私で有ってはいけないという事です。この事は、各人が徹底した個という者に成らない限りは、私たち宗教に携わる者は、助けてあげたいと思っても助けてあげられないのです。徹底した個というのは、所謂「自分の主人公」です。私たち衆生は、自分の主人公は何時も自分に内に居るか、絶えずその事を、自分自身で点検していく必要が有(在)ると思います。存在者2

  • 存在者1

    この身体も精神生活も「五官(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)」の働きという者(事)も全て、約束(規則)を超えている存在者です。あらゆる物を超え切って、存在しているのです。何も知らなくても、この物(身体)は過不足無く、一杯一杯に生活しているのです。私たち衆生が何の様に思っても、何の様に考えてもそういう事に関係無く、否でも応でもそれがそのまま直に、私たち衆生の生活なのです。この事が、おシャカ様の教えなのです。この事が「今の事実を体得された上の教え」です。「それを私たち衆生に、そのまま(五官のまま)そういう大きな働きをする、存在者それ自身である」という事を、おシャカ様は教えられたのです。存在者1

  • 生かして生きる2

    自由と安心(あんじん)を得られぬまま、このままが道であると、高尚な事を言っても何の役にも立ちません。日常生活の全てが何か目的を持った生活の様に、感じられるのですが実はそうではありません。成るべくして成った状態が、今の結果・事実です。ですから其その結果(事実)も、無相でなくてはなりません。道の人に到達する事です。真に(道の人)と成って頂きたいと思います。日常生活の全てを道に見立てて頂きたく思います。生かして生きる2

  • 活かして生きる1

    「活かして生きる」とは、「只、生かして生きる事」であり、「法(道)」は「活かして生きる」と云う添え物が付いてはいけないのです。全ては法「道」であると云う道理からすれば、「一木一草(いちもくいっそう)」にも、相「姿」が有(在)ってはいけないと云う事です。即ち本当の「相(姿)」は「相(姿)」が無いと云う事です。「無相を覚知する為の道」は、一般に言われている「目的を持った道」とは、大いに其の内容を異にします。何故ならば「道は、道人(どうにん)でなければ行持(ぎょうじ)られない」からです。活かして生きる1

  • 宗教の時代・こころの時代

    二十一世紀は、宗教の時代・こころの時代と云われて居りますが、架空の神や仏を理想として求めるのではなく、「現実の自己の有様を探究して行く事」です。それは「科学的」にもです。そうすれば「煩悩三毒(貪瞋痴)のそのまま」が、求めていた神や仏の相(姿)で在った事に、必ず目覚める事も実証する事も出来ます。私は「現実」を考え「未来」を思う時、「仏法(仏法)」を如何に伝える事が出来るのか、自分に向かって問題提起しています。宗教の時代・こころの時代

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