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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんのプロフィール

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ブログタイトル
活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/cotou
ブログ紹介文
娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
更新頻度(1年)

364回 / 365日(平均7.0回/週)

ブログ村参加:2015/01/12

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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さん
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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜

活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんの新着記事

1件〜30件

  • 道の修行とは2

    ですから、本当は「考えるという事が出来ないはず」なのです。「自分自身を差しはさんではいけない」とは、そういう事をいっているのです。自分自身を介在させるから、ものが比較して見えたり、分からなくなるのです。「道の修行」とは「自己の介在を離れる修行」をすることなのです。道の修行とは2

  • 道の修行とは1

    私たち衆生は、知(識)らないでいる間に眠ります。眠っている間は、いったい誰が自分は眠っているという事を知(識)っているのでしょうか。おそらく「私は眠っている」という事で、「自覚して眠っている人」は一人もいないはずです。それと同じように目を覚ましても、覚ましたという事はつかみようがありません。ただ「この物」を認めて「私は目を覚ましました」と言っているだけです。それでは誰が「この物」を認めて「私」と呼んでいるのでしょうか。考えたことがありますか。「考える、考えない」にかかわらず、「私自身が私自身の事をしている」のです。道の修行とは1

  • 修行の要領

    修行には「動中の修行」と「静中(じょうちゅう)の修行」があります。「動中の修行」とは、日常の仕事において仕事に成り切ることです。仕事に一所懸命に成るから、損得に関係なく仕事が出来るという功徳が得られます。「静中の修行」とは、一日十分でも二十分でもよいですから、時間を作って静かに坐る事です。一切の分別心を「放下(ほうげ)」し「五感(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を開放して、静かに坐ると、どんな事を見ても相手にしたり、邪魔にする事が無くなります。その為の集中力が養えられます。このことは絶えず精進をしていく事に因って、何人でもそういう自分に成れるのです。この機会に寸暇を割いて坐って、日々の生活を送っていただきたいと思います。修行の要領

  • 真の修行

    「自己を忘じる」その「一事(いちじ)」が無いと修行にはなりません。それからが「真の修行」なのです。自己を忘じてから初めて「無我の修行」が出来るというものです。「真の仏道」を自分の足で進む、その事は自己を忘じてからの事です。平等と差別(しゃべつ)と、ごっちゃになりやすいところですけれども「見性(けんしょう)した、身心脱落した」という事で「それで善し」というものではありません。それから始めて「真の修行」が出来る訳です。真の修行

  • 修行の課題2

    おシャカ様は「視覚」に因って「自己の正体」を見極められたのです。ですから、私たち衆生も「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」の縁に因って必ず「自己の正体」を見極める事が出来るのです。私たち衆生は「今」、おシャカ様と「全く同じ結果」にあるということです。「この事実(結果)」を本当に知(識)ることが、私たち衆生の「修行の課題」なのです。修行の課題2

  • 修行の課題1

    おシャカ様はずっと修行を続けられた結果、ある時「夜明けの明星」をご覧になってそれが「縁」となって「覚者」になられたのです。「明星を見た」のですから「意識が起きた」という事です。決して「無意識」ではありません。「あっ見えた」という意識を起こして、その事に因って「自己の正体」を見極められたのです。ですから何時でも夜明けの明星を見ていたのに「道」を成ずるまでは本当に見えなかったのです。何時も見ていながら見えなかったという事です。本当に見えたという様子は、見たものが完全に無くなった様子をいうのです。自分と明星が完全に一体に成った状態をいうのです。修行の課題1

  • 本来の修行2

    ですから今しばらくは、おシャカ様、歴代の覚者の方々の教えに従って、自分を「空(から)」にしなければなりません。「空(から)」に成ったならば、今度は自分のものとして修行が出来るわけです。「万法(まんぽう)に證せらるるなり」というものがないといけないのです。「無所悟、無所得」という事です。それで修行が終わりではありません。それからが「修證不二(しゅしょうふに)の修行の始まり」なのです。本来の修行2

  • 本来の修行1

    「本来の修行」とは自分というものが「空(から)」に成ってからです。「信解行證入(しんげぎょうしょうにゅう)」でも論及しましたが、それでない限りはみんな「私の考えの中での修行」になってしまいます。「自分の考え」というものを用いながらの修行ですから、それでは「私だけのもの」に成ってしまいます。ですから如何しても「空(から)に成る、自己を忘じてみる」という必要があるのです。それからが本当にしっかり大地に足の着いた、「私のもの」としての「修行が始まる」わけです。本来の修行1

  • 修行者としての「雲水」3

    あの趙州(じょうしゅう)禅師も「有仏(うぶつ)の処(ところ)を見ば、急に走過(そうか)せよ。無仏の処も住(とど)まることを得ざれ」とお示しになっておられます。「仏」というものはきれいなもの、すばらしいものです。「有仏(仏)」のようになって一切のものにこだわらず、慈悲深くなったとしてもいけないと言っているのです。「有仏」のところは早く通り抜けて行かないといけないといっているのです。「無仏」というのは、仏の居ないところです。「仏」というところに留まってもいけないし、仏のいないところに足を踏み留めてもいけないといっているのです。空だとか、無だとか、仏だとかいうところから、一切抜け出してしまわないと「元」には戻れません。修行者としての「雲水」3

  • 修行者としての「雲水」2

    「大燈国師(だいとうこくし)」は「無理会(むりえ)のところに向かって窮(きわ)め来たり、極(きわ)め去るべし」とおっしゃいました。「無理会」というのは、人の考えの介在しないところです。何時までも「只(雲水)」という囲いの中に入って静かに修行していてはいけないのです。「只」というのは、「そこ」に至った人のお言葉です。「そこ」まで至らない人が「只」という囲いの中に入って、静かに修行していて「これで善ろしい」という事ではいけないのです。修行者としての「雲水」2

  • 修行者としての「雲水」1

    修行者としての「雲水」というのは、雲が無心に去来する様子、水が自由に流れる様子と、いかにも物に執着しない様子に見えますが、そういうものでも、途中のものであるという事です。修行者としての「雲水」を長い間していると、一つの所に留まることを好まなくなるものです。屋根を被るということに、なんとなく不自由な感じがしてしまうのです。そういう悪い習慣が付いてしまうので、気をつけなければならない事です。ですから、「雲水」をして滞らない生活をしているのが一番善いという事ではありません。それでは「三界(さんがい)」の中に入って、三界の衆生を導いていく事は出来ません。ものにこだわらないで、さっぱりしているのが「修行僧(雲水)」ではありません。それはあくまでも「修行の途中の様」に過ぎないという事です。修行をして何となく境涯が上のように...修行者としての「雲水」1

  • 修行の様子修行の様子

    「修行の様子」として「今、気が付きました」と言われる方が時々居られます。それは過ぎてしまった事を気が付いているわけです。「不安があるので、安心したい」という人が居られます。しかし、「不安が無くなれば安心も無くなる」という事を知(識)らないといけません。「片方の対象が無くなれば、もう片方の対象も無くならなければならない」という事は当然のことなのですが、如何しても「安心だけを求める人」が多いのです。「悩みが有(在)る悟りたい」と言われても、悩みが無くなれば、悟りも無くならなければいけない訳です。ところが、「無くなった無くなった」という事で、無いものを執拗に掴んでいるのです。ですから、そういうふうにならないように注意して「サラサラ」と流れていってほしいと思います。修行の様子修行の様子

  • 修行のあり方7

    ところが「この思い(考え方)だけ」が問題なのです。「意(心)」は肯定でも出来れば否定も出来ます。ですから、「意(心)」は肯定でもなけば、否定でもないという事です。そういうふうに一つも決まっていないのです。「この道具立て(六根)」は、みんなそのように出来ているのです。おシャカ様の教えというものは、一つも抹香臭いものではなく、最も新しい一番先端を行なっているのではないでしょうか。私たち衆生は「この道具立て(六根)」を持ち合わせていながら、今まで使わなかった(活用しなかった)だけなのです。修行のあり方7

  • 修行のあり方6

    次に「鼻」へ理想的な約束を付けてみるとします。そういう匂いが「最上の匂いだから、それ以外のものは嗅いではいけない」といくら押しつけても、この鼻は言うことを聞きません。すべての匂いを嗅ぎっぱなしで「この鼻自身」は何ともないのです。何故かというと、「解脱しているから」です。自分で行なってみれば「この鼻」が本当に「無我」なことが分かります。何故ならば「我見」が無いからです。「意(心)」も本当は「我見」が無いのです。「我見」が無いから何でも思えるのです。本当と言うことも、嘘ということも同じ道具「意(心)」なのに一緒に思えるのです。何でも思える(考えられる)ということは、「意(心)自体」があらゆる思い(考え方)から離れている「証拠」なのです。修行のあり方6

  • 修行のあり方5

    「眼」は私たち衆生一人一人の顔も見ますが、何もかも見ながら何も一つも、留まることはないのです。その何かに留まったら大変です。「自分の持ち合わせの道具(眼)」をよく見て下さい。人間(にんげん)の考えで何もかも同じように見なさいと、命令した事は無いはずです。私たち衆生の顔はそれぞれ違っていますが、それを同じような見方をしなさいというのと同じです。それは無理な話なのです。ところが「眼」はみんな同じ様に、違えば違ったなりに見て、それで別に問題は無いのです。「眼」は平等といって決めつけもしなければ、差別(しゃべつ)といって決めつけもしないのです。決められないのです。本来「眼(人間)」というのは、そういうふうに上手に出来ているのです。それですけれども、「自分で自分の眼を見た事は無い」のです。そんな大切な道具(眼)を私たち衆...修行のあり方5

  • 修行のあり方4

    仏法の教えというのは「平等即差別(しゃべつ)」です。「平等」であることに間違いはありません。「本当に平等」ですから「縁」の触れ方に因ってどんな物にも成る、という事なのです。どんな物にも成るので、どんな物にも成りながら何処にも引っかかりがないように活動するのです。ですから「平等」と言いながら直ぐに「縁」に触れると、その「平等」がすぐに「差別(しゃべつ)」と成って現れて来るのです。「差別(しゃべつ)」といって如何あるのかというと「差別(しゃべつ)ながらに平等」なのです。それを考えると「矛盾」したように感じるのです。ところが「眼」を取り上げても、いったい何を見るのが本当なのでしょうか。決め所は無いはずです。「この眼」は「本当に平等」だからです。そして「平等」とも構えていないのです。「平等」に構えれば「差別(さべつ)」...修行のあり方4

  • 修行のあり方3

    本当の「無」というものは、本当に自由であって何とも形容出来ないほどの自由性なのです。それを「空」とも「無」ともいっているのです。それを間違えて「無い」と決めてかかるので、問題が起きるのです。思想も「無いのが本当だ」と決めてかかるから、「仏教(仏法)」では「有(在)る物を壊せ(消滅させよ)」と説くのです。「平等」も間違えるとそう言うようなことが起きて来るのです。人間(にんげん)は平等感、差別感(しゃべつかん)いうような、そういう見方(考え方)をするからです。修行のあり方3

  • 修行のあり方2

    人間(にんげん)が機能を自分たちの考え方で見るので、善いとか悪いとかいうのです。ですから、それを止めることです。それでは目茶苦茶になるのではないかと言いたくなるでしょうが、ところが決して目茶苦茶ではないのです。般若心経に「六根(この物)」の本当のあり方について「無眼耳鼻下身意」とあります。この「無」という事は固定した「無」というような存在ではないという事なのです。別の言い方をすれば「無(無い)」と決まっているのではないという事です。私たち衆生は「無(無い)」と言うと「無(無い)」と決めたがるのです。そうすると問題が起きるのです。修行のあり方2

  • 修行のあり方1

    私たち衆生は、「修行する」といっても、先ず「自分の考え方」を以て、そういう態度で修行しようとするから難しくなるのです。「そういう修行をしよう」と「標準」をもってはいけないのです。そうすると、標準の範囲にしか動き得ない事になります。どんな立派そうな修行でもやっぱり自分の標準の範囲なのです。「本当の修行のあり方」というものは、私たち衆生の上にいろんな事が「ただ有(在)る」のです。「正しい修行の前の修行のあり方」というものは「この物の純粋なあり方だけ」でよいのです。目には色んな物が見えます。つまり、「有(在)る」という事です。耳にはいい音でも悪い音でも、そういうものに構わず、ただ有(在)ったり無かったりするのです。それが一番正しいことです。ところが、人間(にんげん)は考え方で取り扱う修行をしているのです。「六根(機能...修行のあり方1

  • 修行の誤り2

    「無我に成ろう、或いは、仏に成ろうとしている自分」を忘じた(捨てた)様子が真の無我、真の仏というべきなのです。別の言い方をすれば、物の見方や考え方を学ぼうとしている自分を忘じた(捨てた)ところに「無」とか「空」というものが有(在)るのです。そういう事を「実証(事実においても理論においても証明する)していくのが真の修行」です。修行の誤り2

  • 修行の誤り1

    現在の「法(道)を求める修行」の様子を見聞(けんもん)する時、誤りに誤りを重ねていく様子が目につきます。原因は「人が法(道)を伝えて来た」ために、真の解脱が無くなったからです。特に修行で広く伝えられている誤りに、「修行に因って今の自分の様子を修正する」とか「修行に因って自我を忘じて無我と成る」などの例があります。しかし、間違えてならないのは、「修正していくのが修行ではなく、修正しようとしている自分を捨てる(忘れる)」のが「真の法(道)を求める修行」であるという事です。修行の誤り1

  • 同じ事の繰り返し4

    ですから、私たち衆生の「心の正体」もそういうものであって、「六根の働き(動き)」に人間がどんなに約束を付けてみても何にも人間の約束は間に合わないのです。そんなに「この物は自由」なのです。本当に間に合うように出来ているのです。「無我の様子」です。「我見らしいもの」は何にも無いのです。そしてそれがみんな必要に応じて、「使い物に成るように出来ている」のです。同じ事の繰り返し4

  • 同じ事の繰り返し3

    「標準の立て方」に因っては善いといわれているものが一番役に立たなくなることがあります。たとえば「宝石とマッチ」とではどちらに価値が有(在)るのでしょうか。火をつけるのに宝石が山ほどあっても役には立ちません。この時には「マッチ一本」の方が役に立つのです。ですから、何もかも、善いとも悪いとも名称の付け様は無いのです。「みんな純粋」なのです。それを「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」といいます。ただ「それ(六根)」が活動しているだけなのですから「六根清浄」なのです。使い道に因って、間に合えば善いというだけの話です。間に合わなければ「不清浄」といいたいところです。同じ事の繰り返し3

  • 同じ事の繰り返し2

    「同じ事が出て来る」といいますが、「出て来た時」は「その時その時の念」なのです。考え(思い)が出て来ても出て来ても、さっさと離れていってしまうのです。そういう事なのです。そして、どういう事も無いのです。それを私たち衆生は、何とかして自分の問題にしているだけなのです。それを問題にするのを止めてみる事です。「自分の本性を見極めればよい」のです。ありのままで別に善いとも悪いとも無い、「自分の本性」です。同じ事の繰り返し2

  • 同じ事の繰り返し1

    「考えが次から次へと浮かんできますが、如何したらいいのでしょうか」と質問する人がいます。よく考えてみて下さい。「出て来た考え(思い)」はさっさと離れていくのではないでしょうか。ひとつも囚われてはいないのです。後から後からいくらでも出て来ても、どれも引っかかってはいないのです。「とりとめがない」のです。ですから、「同じ事の繰り返し」という有様はないのです。同じ事の繰り返し1

  • 修行の始まり2

    薬というものは明らかに薬ではありますが、「病」もまた薬であることが分かります。「実相は無相なり」の「無相」というのは「自分という塊が無い」ということです。私たち衆生の病気は非常に良い薬だということです。人は不幸や悲しみに対しては同情しやすいですけれども、幸せな人に対してはなかなか同情できないと、よくいわれています。一度自分で本当に病気になってみると、病気の人の事情がよく分かるという事です。修行の始まり2

  • 修行の始まり1

    私たち衆生は如何しても薬を捨てなければならないのに、なかなか捨てられないものです。自分にとって一番善い薬は「修行(坐禅)」ですが、善い薬になればなるほど執して捨てられないということになります。病気があれば薬を用いて治す事が出来ます。しかし、治っても薬を飲み続けていれば「薬害」となって治した病気よりももっと害になると、今、盛んに言われています。「迷い」があれば、しかるべき薬を飲む、これが「修行(坐禅)」です。薬を飲んで治れば「迷い」は無くなります。それを「悟り」と言っています。したがって、「未だ悟ってない」と思っている方は「悟りの前の修行」をしているのであって、悟ってみると「迷い」と共に「悟り」も無くならないと「本当の悟り」とは言えないという事です。「悟り」が無くならないと、「悟りという迷い」に成ります。そしてそ...修行の始まり1

  • 修行の構造の基本

    大切な事は「理(言葉の世界)」において「空と自分」との隔てを認識し「事(言葉の世界以前の法の世界)」において「自分が本来の自分に成ること、解決する」という事です。これがおシャカ様や歴代の覚者から伝わって来ている「真理」なのです。即ち「自分が自分の法を実証していく」という「修行の構造」です。「自分が自分に成る・物と一つに成る」という事で一切の事が足りるのです。だからこそ誰にでも行じていける「法(道)」なのです。ですから「物と一つに成り、そして一つに成った物を、もう一つ落とす」のです。その事を禅宗では「身心脱落、脱落身心」といっています。この「修行の構造の基本」に一切が帰納される訳です。修行の構造の基本

  • 修行の要訣2

    何故、この身の中に自分を支配している何かが有(在)ると思うのでしょうか。その思いが「自我」なのです。「自我の迷執」という言葉の意味は、「自我が有(在)るという思いに迷わされている」と言うことです。何処を探してもそんなものが有(在)るはずがないのに、「有(在)る、有(在)る」と有限なものにしてしまっているのです。この有限な「自我」というものを「忘れさえすれば(見極めれば)」、縁起に因って出来ているすべてのものと全く「ひとつに成る事」が出来ます。そのことをおシャカ様は「天地と我と同根、万物と我と一体」とはっきりとお示しになっておられます。修行の要訣2

  • 修行の要訣1

    「修行の要訣」は「自己を忘れること、自己の正体を見極めること」です。自分という存在が有(在)ると思っている間違いを、明確に「なるほど、間違いだったか」と自分自身で納得することです。私たち衆生のほとんどの人が、この身の中に自分を支配している何かがあるように思っています。しかし、この身の中に中心になるものは何もありません。即ち、人をも含めてすべてのものは「地、水、火、風」という「四大(しだい)」に因って形成されているということです。もちろん「地水火風という四大」もまた、それぞれの因縁に因って出来ていますから、人をも含めてすべてのものに「私(我)」という中心を認めることは出来ません。修行の要訣1

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