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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんのプロフィール

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ブログタイトル
活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/cotou
ブログ紹介文
娑婆世界を生きる智慧〜おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと
更新頻度(1年)

267回 / 365日(平均5.1回/週)

ブログ村参加:2015/01/12

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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さん
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活かして生きる   〜放禅寺の寺便り〜

活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜さんの新着記事

1件〜30件

  • ただ坐れる人2

    私たち衆生は、結果として、いつでも「今の結果」にあるわけです。ところが「求心(ぐしん)」求め心がなかなか無くならない為に「今の結果に安住出来ない」ということなのです。安心してその中に入られないのです。結果というものに、「善悪」はありません。善くても悪くても結果です。結果は今で言えば「証拠」ということになります。その「証拠」に自分自身が任せることが出来ないということです。「須弥山(しゅみせん)の如く結果に任す」そういう境涯になるために、しばらく「ただ」という言葉を借りて修行をし「ただに成る」べく努力するということです。しかし、それがすべてではありません。昔の方々が、「このように修行をしたら、あまり苦しまずに坐ることが出来ますよ」ということから、たまたま「祇(只)管打坐」「公案功夫」という、そういう「方法・手段」を...ただ坐れる人2

  • ただ坐れる人1

    私たち衆生一人一人が、本当に「ただ坐れる人に成る」という事が坐禅修行で一番大切なことです。「ただ」というのは「影」です。ですから、「ただ坐る」ことによって「その影(ただ)」を早く落とさなくてはなりません。別の言葉で言えば「影の痕跡」をなくすことです。そうしないと本当の「ただ」に成れないということです。したがって、おシャカ様や歴代の覚者の教えによって、それを正しく行地ていかなければならないのですかれども「教え(分かったもの)」というものが、どうしても残ってしまうのです。そのために「教え(分かったもの)」と自分との間に「隔て(距離)」が出来てしまうのです。仏教は「月を指す指」といわれているように、月を見てしまえば指の必要がなくならないといけないのです。「ただ」に成れば「ただ」がなくならないといけないということです。ただ坐れる人1

  • 心を整える2

    「調息の法」というものがあります。これは「息を整ええる」ということです。それは「自分の計らい」でもって呼吸を整えていかなければならない、ということではありません。一応、自分を用いて「道」を修していくことも必要な時期もあるわけですけれども、自分の考えでもって「こうしていかなければならない、ああしていかなければならない」という意味での「整える」ということではありません。「本来整っているのに、何故整わせていかなければならないのか」という事の方が問題にならないといけないわけです。「いわれたからやる、こうしなさいというからその通りにやる」ということだけでは、「この道」というのは、なかなか成就するものではありません。「道が成就しない」のは、「問題が自分の問題にならない」ということが、一番の「元」になっていると思います。心を整える2

  • 心を整える1

    禅の修行における心を整えるという事は、一般に行われている様々な修行に於いての心を整えるという事と、大いに趣きを異にしている一点があります。「禅」では、この大きな宇宙の中に、一体どこに心を整えるかという事が大問題になります。もし何らかの手段や方法というもの(習学)を以って心を整えたとしたならば、そこには整えられるものと、整えられないものとのはっきりとした区別が生じてしまいます。それでは何処まで行っても「これでよし」という時がきません。心を整えるという事は、私たち衆生がこれから修行して静かに成って、少しずつ整えて行く事ではありません。既に全てのものが整えられている、これ以上に手を加える必要がない(絶学)、そういう状態が今の私たち衆生の状態であるという事に気付く、それが禅の修行の目的です。心を整える1

  • 無明について

    私たち衆生は何時頃からか、「ものを二つに見る癖」がついてしまいました。これを「無明」と言っています。別の言葉で言えば「自分というものを認める」がために、それが「無明」となるのです。全て「無明」が隔てを作っているので、それが分からないのです。しかし、よく考えてみると「無明、無明」といっても「無明とすべき塊」は何にもないのではないでしょうか。それでは一体何が「無明」なのかという事になってきます。ですから「ものを二つに見る癖、ものを隔てるその様子を無明」と覚えておいてください。言いかえれば、それが「自我」の事です。大切な事は「自我を忘れて認識する以前の状態に戻る事」です。私たち衆生には煩悩や菩提が生じる以前の様子(消息)が必ずあります。そういう事を「只(ただ)」とか「祇管(しかん)」と言っているわけです。「法(道)」...無明について

  • 人人具足箇箇円成

    「人人具足箇箇円成(にんにんぐそくここえんじょう)」とはそれぞれの人、様々な状態である私たち衆生のありさまを言います。「おシャカ様の御心が紛れもなく私たち衆生そのものである」ということなのです。既に私たち衆生はおしゃかさまの御心をみんな具えているのです。要は、「御心そのものである自分」に気が付く事です。私たち衆生が既に具えているものである「欠ける事無く余る事も無い状態の自分の様子」をお経では「仏身(ぶっしん)」と言っているのです。しかし、如何しても止むを得ない事ですが、修行(坐禅)を少しの間「手段、方法」として借りて修行(坐禅)していく以外にないのです。そして「なるほど確かにそうだった」と頷かなければ自分自身で納得することは出来ない訳です。道元禅師のお言葉を拝借すれば「修せざるにはあらはれず、證せざるにはうるこ...人人具足箇箇円成

  • 報恩

    私たち衆生がおシャカ様を初めとして歴代の覚者といわれる方々の恩に報いるには、「自分の修行(坐禅)を誰かに伝えていく」という「菩提心」といいますか、「志」を持って頂かなければいけないのです。この事は拵(こしらえ)て出来る事ではありません。「自らが法を自分の物としなければいけない」という事です。これは「そういう法があるのだ」と知(識)った人は、もう「その人」の責任です。いい加減なところで挫折してしまって「誰か自分の代わりになってやってくれる人があるだろう」と、簡単にお考えにならないようにしてもらいたく思います。「自分は修行(坐禅)をさせてもらっているのだから、その喜びを誰かに伝えていって同じように共に修行(坐禅)の出来るような人を作っていかなければいけない」という、そういう「志」を起こして頂きたいと思います。報恩

  • 放下著、惺惺著

    仏教の教えは何時も「結論(結果)」を提示します。何故かというと、私たち衆生が間違った方向に進むことが無いように先に結論(結果)を提示して仏教の教えというのはそういうものだという事をお示しになっている訳なのです。「放下著(ほうげじゃく)」というお示しがあります。これから全てのものを放しなさいという意味ではありません。「既に一切のものが放たれている、或いは脱落しているという私たち衆生の今の状態」を示したものです。「惺惺著(せいせいじゃく)」というお示しがあります。これは「目を醒ましているか?」と自分自身に自分自身が問いかけ、それに対して「はいはい」と答えているということです。これもこれから目を醒ますのではありません。既に目を醒ましている状態、目の開いている状態、「私たち衆生の今の状態」を自ら肯ったお言葉です。全てこ...放下著、惺惺著

  • 修証不二(しゅしょうふに)2

    私たち衆生は「念、念」と言っていますが、「念」とはどういうものかという説明は出来ません。或いは「心(しん、こころ)」も説明出来るものではありません。白隠禅師の「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中に「無念の念を念として」というお言葉があります。「無念の念」とは誰も名前を知(識)らないのです。そこで分からない内は、「自我」であると名前を付けてみたけれども、分かってみればそれがそのまま、悟りであり、法であり、道であるということになる訳です。この事を「修證不二(しゅしょうふに)」といって、「修その物が証拠であり、悟りである」と説明しています。ですから「念を起こさない今の事実(修行)」に徹すれば本当に自分が満足する(悟りを得る)事が出来るのです。修証不二(しゅしょうふに)2

  • 修証不二(しゅしょうふに)

    仏教というものは「結果」を示したものです。これは「法(道)の説明」です。「修証不二」というお言葉があります。「修(修行)と証(悟り)」というものは本来一つであるという意味です。これは「結果から見て、そのような境涯に至った人(覚者)」が「修証は一つである」と、そういった訳です。それが分からない人が「修証は一つである」という事を理解して、そして「一つ出ある」ということ(見)を先に立てて「ものを求めてはいけないんだ、これで善いんだ」というように自分の考えを起こして所業するならば、それは大変な誤りであるという事です。「修と証、生と死、迷いと悟り、不安と安心」これらは、みんな比較相対したものです。それではみんな距離(隔て)が有(在)るという事です。それでは「不二」という事、「一つ物である」という事はいえません。坐禅で言う...修証不二(しゅしょうふに)

  • 「坐禅は坐禅なり」とは9

    「坐禅は修證不二なり」と最初から丸呑みをしてはいけません。その間には多少の距離と時間とを要する事を忘れてはいけません。そうしないと「空腹高心(くうふくこうじん)の病」に堕ちます。指導者の下で百錬千鍛を要する事も忘れてはいけないのです。経に「法喜禅悦を食(じき)となす」というお示しがあります。「食無くんば命無かるべし」です。深くこれを思っていただきたいと思います。不尽「坐禅は坐禅なり」とは9

  • 「坐禅は坐禅なり」とは8

    坐禅は直に是れ「身心脱落」です。道元禅師は中国に於いて「身心脱落の一声の下」に確かに「身心脱落」を体得されました。これが直に坐禅の力です。「この力に前後無し」というのは「理想の上」から言っているのです。事実、境界(きょうがい)の上からはその境界を体得しなければ「自ら許す事」は出来ないはずです。「坐禅は坐禅なり」。坐禅に師無し、坐禅の真師は坐禅なのです。即ち「坐禅が坐禅を教えてくれる」のです。「坐禅は元より結果」にして、手段・方法ではありません。「坐禅は坐禅なり」とは8

  • 「坐禅は坐禅なり」とは7

    「坐禅」という事は言葉を変えていえば「懺悔(さんげ)し尽くされた状態」です。さらに別の言葉で言えば「私の無くなった状態」なのです。「私が何々をしたので懺悔をしなければならない」というものではありません。ですから、「坐禅は坐禅なり」なのです。「私」が坐禅するのではありません。「坐禅は坐禅なり」です。何故ならば「坐禅は懺悔し尽くされた状態」だからです。「私」というものの全く無い状態を「坐禅は坐禅なり」というのです。迷いだけではありません。「不安、恐れ、煩悩」にしろ「人(ひと)の介在が無ければ必ず「その物(不安、恐れ、煩悩)」に成れます。だから「ものの本性」が分かるのです。それを分かろうと押していく力を「菩提心」と言っています。「坐禅」というのは「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)という自分の日常生活」の事です。「行住坐臥...「坐禅は坐禅なり」とは7

  • 「坐禅は坐禅なり」とは6

    「私が坐禅をしている、私が仕事をしている」という「坐禅」と「私」というものが二つに成らないように満身の坐禅、満身の仕事に成り切らなければならないのです。坐禅というものは自分で行うより他に無いのです。そこを達磨大師は「諸仏の法印は人から得るものではない、自分でやりなさい」とおっしゃっています。ですから「法(道)」を求める事です。「法(道)」というのは自分自身の事です。「自分自身」というのは「法身(ほっしん)その物」です。「法身」というのは無限であり、無辺のものです。それが自分の姿です。しかし、私たち衆生は「人、私、法、道、というものを認める」が為に、こんな大きなものであるという事に気が付かないのです。「坐禅は坐禅なり」とは6

  • 「坐禅は坐禅なり」とは5

    道元禅師のお示しに「人は坐禅するにあらず坐禅に坐せらるるなり」とあります。坐禅の時には「私」というものの介在する余地が無い」という事です。「坐禅その物に成る」という事です。「頑張らなくてはならない」というような事でも、純粋という面からいえば「余分の事」です。それくらい「今(今の様子、今の事実)」というのは垢も付かなければ、汚れる事も出来ない透明なもの、スッキリした者、はっきりしたものであるという事です。「坐禅の指導者は坐禅その物」です、人ではありません。坐禅をして「迷いの本性」を分かろうとするのではありません。坐禅その物が迷いに成ってしまわないと、「迷いの本性」というものは見定める事は出来ないのです。「坐禅は坐禅なり」とは5

  • 「坐禅は坐禅なり」とは4

    「坐禅は坐禅なりその時」を別の言葉で「見性(けんしょう)」とか「身心脱落」とか「解脱」とか、そういうように説明しています。一度、「その事実」にならないと「そのまま(今のまま、現在のまま)で善かった」という事にはならないのです。いくら観念的にそうしても「自分自身が承知(満足)出来る訳がない」のです。ですから「坐禅は坐禅なり」、そういう「坐」に徹して頂かないといけない訳なのです。「坐禅は坐禅なり」とは4

  • 「坐禅は坐禅なり」とは3

    坐るなら本当に坐らなければなりません。「本当に坐る」とは、「坐るものが無くなる迄坐り尽くす」という事です。人の考えが入ると、「只(ただ)坐る事」になります。「只(ただ)」というのは「人の考え」です。それだけ、「坐」というものに「人の考え、我見」というものがくっついているのです。ですから、「只(ただ)坐ろう」という意識が添うのです。それでは「本当の坐」には成りません。「只(ただ)という人の考え、我見」を交えないように坐る事が「坐禅は坐禅なり」という事です。ですから、「只(ただ)坐ろう」という意識が添うのです。「坐禅は坐禅なり」とは3

  • 「坐禅は坐禅なり」とは2

    道元禅師は「本来本法性天然自性身(ほんらいほんぽっしょうてんねんじしょうしん)」(本来、今のまま、現在のままで満足に思うならば、何故歴代の祖師といわれる方々はご修行なさったのだろうか」という事について疑問を持たれたのです。そして中国に渡り「身心脱落」をなさったという事があります。この「身心脱落」というのは「ものに成り切って自分を忘れる」という事です。「坐禅に成り切って坐禅に成る」ことを「坐禅は坐禅なり」と示しているのです。「坐禅は坐禅なり」というのは「身心脱落」をなさった道元禅師のお言葉です。ですから「身心脱落」を未だ経験していない人は、「坐禅は坐禅なり」という言葉を発する事は少々無理な話だと思います。「私が坐禅をしている」という「”私”という介在がある」という事を知って頂かなければなりません。「坐禅」というの...「坐禅は坐禅なり」とは2

  • 「坐禅は坐禅なり」とは

    仏法(仏道)の真骨頂は、先ず「ものは一つ物である」という事です。この事は是非理解して頂きたく思います。私たち衆生は「分別」して「ものを二つに見る癖」が付いているのです。「癖」というのは「我(が)、自我」というものです。「癖と自我」は同じ物です。「修行(坐禅)をする」とは、その「癖(自我)」を取る事です。即ち「自己を忘ずる事」です。ですから「今の事実(修行、坐禅)その物に成る」という事意外にありません。道元禅師「坐禅箴(ざぜんしん)」に曰く「坐禅は坐禅なり」と。「今の事実(修行、坐禅)その物になりさえすれば、ものは一つ物である」という事が、本当に明白(めいびゃく)に成ります。それはそうだと思います。「今の事実(修行、坐禅)」というのは「我(が)」というものも無ければ、癖(自我)も無ければ、迷いとか悟りとか、凡だと...「坐禅は坐禅なり」とは

  • 自分自身を看る

    「自分自身を看る」と「自分自身の動き」の中には大きく分ければ「思いの動き」と「機能の動き」というのがあります。いわゆる「精神界と肉体の働き」です。精神界の方がやっぱり厄介なのです。機能の働きというのはそんなには難しくはないと思います。否応なしにその時で終わってしまうからです。どうしてもその時限りで終わらざるを得ないように出来ているのです。ですけれども、この「六根の意(心)の働き」の方は、不思議な事にその時だけで終わっているはずなのに尾を引くのです。それくらいで済めばいいのですが、思いがだんだん膨らんで自分の中にそれが実在しているように思うのです。「縁」に触れて思いが出て来たと気が付いた時、行う事は一つだけです。「思いを止めるだけ」です。日常生活は次から次へと行う事があるわけですから、その思いにしがみついていたら...自分自身を看る

  • 自分のこと

    「修行(坐禅)」は止められる事ではありません。「自分のこと」ですから、もし「自分はとてもそういう修行(坐禅)というような事は難しい事だから止めよう」と思う人は自らの目を閉じる事、自らの耳を塞ぐ事になります。「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」を全部閉鎖してしまう事になります。そういう事を考え合わせて「修行(坐禅)というものは止められるものではないんだ、しかも手段や方法を用いられるものではないんだ」という事を思って頂きたく思います。「修行(坐禅)」が出来るとか出来ないとか、分かるとか分からないとか、是非善悪とか、そういうものは出て来てはいけないのです。本当に「修行(坐禅)だけに成る」というように務めていただきたく思います。「修行、坐禅、法、道」という言葉にとらわれると、何か特別な事をするように考えがちですが、そうい...自分のこと

  • 「了」とは

    「了」というのは、もう終わってしまったものということです。例えば、行き着くところまで行ってしまったということです。一例を挙げれば、人は水に中にあって、水を探すという愚かな事はしないはずです。水は、「水だ」とは言いませんが多くの人が水というものに使われるということがあります。「不思議」なことですかれども、水の中にあって「これが水だ」というようなことを言えば、水に使われるということになります。本来すべてのものは了(終)わりの中に有(存)り、自分で「了(終)わったんだ」などと言うのはおかしいといっている言葉です。これは、「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」と同じです。「坐禅(修行)をしながら、私は今、坐禅(修行)をしています」というのはおかしいことです。本当に「坐禅は坐禅なり(修行は修行なり)」に徹していれば(三昧に...「了」とは

  • 鑑覚の病

    趙州和尚はある時に修行僧たちに「各自に禅あり」と垂示(すいじ)をされました。「皆さん方は今、なさっている事がそれぞれみんな禅ですよ」と。「又、各自に道あり」そのものが道ですよ、と。そこでたちまち「如何なるか是れ禅、如何なるか是れ道」と尋ねる人があったならば、あなた達はその人に対して何と答えるかと。「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば、今更答える必要があるでしょうか」と修行僧は答えました。この事は「落とし穴」なのです。どういう「落とし穴」かというと、答えている人自体に問題が在る訳です。それぞれの人がみんな禅、法、道であると今、聞いてなるほどとうなずいた訳です。そして又、同じ人から「では、どのように言ったら善いのか」と尋ねられたら「既にそれぞれの人が禅であり、道であり、法であるならば答える必要がな...鑑覚の病

  • 浄潔の病2

    「仏には成り易いけれども魔には成り難い」というお言葉があります。「六道(りくどう)の世界」、即ち天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の様な世界に入れないで何時でも高い処にしか居られない人を言います。先般同様に「平等一面に陥っている」という事で、そういう「病」が一番治し難いので注意しなければならない所です。昔は牛や馬を使って田を耕して稲を植えたものです。ですからとにかく「木人石女(ぼくじんせきにょ)」に成って「祇管(ひたすら)に働く、務める」ということが必要なのです。「働く」という字は「人偏(イ)に動かす」と書きます。傍(はた)を楽にするという事から「はたらく」なのです。別の言葉で言えば「菩提心を尽くす」ということです。「人の為に働くほか何にも無い」のです。特に宗教者は「衆生を導く」という誰にも出来ない仕事をしてい...浄潔の病2

  • 浄潔の病1

    私たち衆生の一人一人がどんな考えを持って、どういう坐禅の状態で在っても、みんな「今」の事です。何も無い処に居ながら、何かに偏っていたり、「位(くらい)”場所、地位”にいる」という事ですから、そのほかに求める事がないようにしないといけないという事です。「祇管(ひたすら)に坐る」という事が間違えられて、「祇(只)管打坐(しかんたざ)」という一つの「坐禅形」を認めるようになってしまいました。そして「悟るものも、得るものも在ってはいけない」という「無所悟、無所得」が強調されその結果、「祇管(ひたすら)に坐る」という事からもう一つ意識が沿って「只管打坐をすれば善い、坐れば善い」というようになってしまいました。この事はあくまで「結果から見たお言葉」です。確かにその通りなのですが、残念ながら「只(ただ)」というものが如何して...浄潔の病1

  • 禅病

    仏教で「空、無、本当の事、真意、深意」という言葉は特に「禅」で「禅病に成る処」です。一番治り難い禅病というのは「空、無」です。「空に成ろう、無に成ろう」として坐る、そういう「仏教の概念の中」で坐ることは一番悪い事です。従って、「坐禅は坐禅なり」というお示しから言えば大変な間違いであるという事です。それと反対に「何を思ってもいいのか、何を考えてもいいのか」という考えを土台にして坐れば何処までいっても「自分の考えの中で坐っている」ということになります。ですから、これらは全部間違いという事です。考えながら坐っている事は、本当につまらない事です。「どんなに考えても自分の考えの中での事」だからです。ですから「自分の思惑の中で坐らないようにする」という事です。「坐禅は坐禅なり」という事です。禅病

  • 心病

    自分自身の上に矛盾があると、物事に対して是非の念が起きて来ます。それを「心病」と言います。つまり自分自身の心の上に「病」が生じるのです。「この病」は習慣ですから必ず取れます。「この病」は取らなくてはいけないのです。それでは、「この病」を取るには如何したら善いのかというと、どんな事でもよいのですが、「有(在)る物が、只(ただ)有(在)った」のです。それが私たち衆生の「今の事実」です。その他に有(在)るのではないのです。ですから「今の事実」が本当に分かれば良いのです。そうすれば「心」をどうにかしなければならないという事がなくなります。「自分の真実のあり方、“実の事実”」がはっきりしないと、どうにかしなければならないという事が起きて来るのです。それが起きて来ると、それに囚われてどこまでも追いかけて行き限り無しに成るの...心病

  • 兀兀打坐3

    「万里一条の鉄」というお言葉が在ります。一条の鉄を以って万里を貫くという意味です。「済家(さいか)」で言えば、万里は千項目の公案、一条鉄は一則の公案という事です。しかしこの事も「坐の上から言えば途中の事」です。転(うた)た悟らば転た捨てよ」というお言葉が在ります。「残り物(悟り)」が在っては自由が利かないのです。「公案禅の弊害」は悟りを固持する処にあります。学人が「無眼子(むがんす)」の為に「公案」を尊重して指導者の為すがままに成ってしまうのです。不尽兀兀打坐3

  • 兀兀打坐2

    「箇事究明(こじきゅうめい)」というお言葉が在ります。心理を究め尽くすという事です。箇事究明から見れば坐禅するすら余計な事なのです。まして「公案」をや、です。そこのところを禅語では「大抵は他の肌骨(きこつ)の好きに還へす、紅粉を塗らざれども自ずから風流」と在ります。もし病があれば薬は必要です。病が多くなれば薬も多くなります。とにかく坐禅は閑あればせねばなりません。「修行者の命脈」はこの事に因って維持されるのです。「一坐坐れば一坐の仏」というお言葉があります。「分からぬ者は仏語を信ぜよ、仏に妄語無ければなり」です。今や求道者の様子を見れば、「公案禅」も認めない訳にはいかなくなった世の中に成りました。兀兀打坐2

  • 兀兀打坐1

    昔は只(ただ)「兀兀(ごつごつ)」に打坐して身心脱落を期しました。「兀兀」とは、「一心に努力するさま、勤苦するさま」を言います。曹洞宗にも、今もこの風が残ってます。しかし、「兀兀打坐」は曹洞宗に限ったことではありません。「仏祖入仏の通規」です。臨済宗はこの事を変形して「公案」を用いる事となったのです。何故かと言えば「人の根気」が弱くなり、何か頼るものを求めるようになったからです。ですから「坐ばかりの坐禅」はもう今は無くなったといってもいいかもしれません。「坐禅する」この事は善いことです。どこまでも善い事なのですが、悲しい事に「坐禅その物(公案その物)」を汚してしまいました。兀兀打坐1

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