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活かして生きる 〜放禅寺の寺便り〜
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2015/01/12

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  • 彼岸について2

    「彼岸」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。一般にはこちらの岸(此岸、今)が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸)に悟りがあるようにとられられています。しかし、そうではありません。私たちはいつでも「彼岸」という結果(悟り)にいるのだという事です。ところが、私たちは今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じることが出来ないのです。「覚者」は「あなた達はもうすでにいつでも彼岸に到っているのです。今が彼岸なのだから、今の外に彼岸を求めてはいけません。」と話しているのです。しかし私たちは「今、すでに彼岸にいる」という事を信じることがなかなか出来ないものです。何故かというと、「自我」というものがあるのです。彼岸について2

  • 彼岸について1

    彼岸とは仏教語です。広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。みんなそれぞれに一杯一杯なのです。しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。そこで止む...彼岸について1

  • 「坐禅箴」残り物5

    「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。「壊」は”ヤブレル”または”クズレル”と読みます。その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。「そのまま」というのも及ばずです。除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。その間に認識の入る隙間はありません。認めれば妄想です。その物に成ることです。「坐禅箴」残り物5

  • 「坐禅箴」残り物4

    「単」は「不染汚(ふぜんな)」です。「不染汚」とは外から汚されないことをいいます。元来、不染汚の境界(きょうがい)に体達して、異分子が混じわらなければ(残り物がなければ)六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のままで極浄です。もはや落とすべき「煩悩・菩提」も無いのです。そのものそれに向かって直下(じきげ)に究盡(ぐうじん)する修行が、ここでは「委すること無うして脱落す」というのです、「坐禅箴」残り物4

  • 「坐禅箴」残り物3

    「禅」の字が「単、示」の二字から成立しています。「単」は赤裸々です。「赤裸々」とは「裸をもう一つ裸にする」と理解しなければなりません。裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。ちょうど百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っているようなものです。「悟り」というものが有(在)れば、それだけ「単」ではないのです。それを「真常流注(しんじょうるちゅう)」といいます。いわゆる「悟りという病」です。所詮、何物も脱し、何事も落としてこそ「大自在底」が初めて得られるのです。そこのところを道元禅師は「坐禅箴」の中で「その親委(い)すること無(の)うして脱落す」と、お示しになって居られます。「坐禅箴」残り物3

  • 「坐禅箴」残り物2

    本当に親しいものは、何者が入って来ても犯されるものではありません。時と処によって境界(きょうがい)が変わるものではないのです。汚されるものは不思量に「残り物」があるからです。「何も無い」というものを、もう一つ殺さなければ本当の親しみは得られません。「坐禅箴」残り物2

  • 「坐禅箴」残り物1

    「不思量」とは自己を忘ずることです。「自己を忘ずる」とは、万法(まんぼう)に證せらるることです。ですから、その現れ方は純一無雑にして何物に当たっても親密でなければなりません。ところが「実地」に於いてはそうは行かないのです。ちょうど、魚を焼いてしまってもなお、匂いが残るようなものです。そこで歴代の覚者は一層の奮起を促して「小成(しょうじょう)に安ずること」を戒められるのです。「坐禅箴」残り物1

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3

    ここのところは、「現成(げんじょう)」の二字を「現」と「成」と割って使っていますが、「現成」とは現れて確かで間違いのない様子をいいます。山は高くして山であるということです。「諸法実相」は現れたまま欠けることもなく成就しているのです。ですから「現成」といいます。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2

    「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。それを「その成自ずから(おのずから)證す」といいます。「證す」とは自證のことです。仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2

  • 「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1

    自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。それを「其の現自ら親し(そのげんおのずからしたし)」といいます。「親し」とは親密ということです。これは「不思量にして現ず」の証拠です。道歌に「糸瓜(へちま)とは糸瓜に似たる糸瓜かな」と。「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1

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