「仏(覚者)」というのは「只(ただ)に成った人」です。「只に成った人」というのは、「自分の無くなった人」です。私たち衆生の「今」というのは、「差別(時間)」と「平等(空間)」が混じり合ったところです。「混じり合ったところ」というのは「差別(時間)と平等(空間)」が無い世界」をいいます。其れを、「今」と呼んでいるのです。差別(しゃべつ)について9
「彼岸」に対して「此岸(しがん)」というものがあります。一般にはこちらの岸(此岸、今)が現実の迷いの世界で、彼の岸(彼岸)に悟りがあるようにとられられています。しかし、そうではありません。私たちはいつでも「彼岸」という結果(悟り)にいるのだという事です。ところが、私たちは今自分が「彼岸」にいるという事をどうしても信じることが出来ないのです。「覚者」は「あなた達はもうすでにいつでも彼岸に到っているのです。今が彼岸なのだから、今の外に彼岸を求めてはいけません。」と話しているのです。しかし私たちは「今、すでに彼岸にいる」という事を信じることがなかなか出来ないものです。何故かというと、「自我」というものがあるのです。彼岸について2
彼岸とは仏教語です。広辞苑によれば、「ひがん〔彼岸〕(仏)河の向こう岸、生死の海を渡って到達する終局、理想・悟りの世界、涅槃⇔此岸(しがん)」と記されています。しかし、こちらの岸(此岸)と彼の岸(彼岸)というものを立てることは間違いです。彼岸とは正しくは「到彼岸、事究竟(とうひがん、じくぎょう)」といいます。「事究竟」とは、「事がそれで終わっている」ということです。本来、私たちの日常生活は「事がそれで終わっている」という事でないと本当ではありません。「自分はまだ未熟だ」という人がよくいますが、本来その人は「未熟のままで終わっている」のです。「未熟だから完成させよう」と考えるのは間違いです。みんなそれぞれに一杯一杯なのです。しかし私たちは理屈では分かっていても、「事実」がなかなか伴わないものです。そこで止む...彼岸について1
「委」は頓なり、「頓」は壊(え)なり。「壊」は”ヤブレル”または”クズレル”と読みます。その物それに成り切って、成り切るというものも無くならなければなりません。その物に成ってその物を「證せなければ」いくらのべつ幕なしに喋っても駄目なのです。「委」の字の真意義は説けば、手付かずです。「そのまま」というのも及ばずです。除くものがない、壊すものがない、本来の極浄に成ることです。その間に認識の入る隙間はありません。認めれば妄想です。その物に成ることです。「坐禅箴」残り物5
「単」は「不染汚(ふぜんな)」です。「不染汚」とは外から汚されないことをいいます。元来、不染汚の境界(きょうがい)に体達して、異分子が混じわらなければ(残り物がなければ)六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のままで極浄です。もはや落とすべき「煩悩・菩提」も無いのです。そのものそれに向かって直下(じきげ)に究盡(ぐうじん)する修行が、ここでは「委すること無うして脱落す」というのです、「坐禅箴」残り物4
「禅」の字が「単、示」の二字から成立しています。「単」は赤裸々です。「赤裸々」とは「裸をもう一つ裸にする」と理解しなければなりません。裸をもう一つ裸にしてこそ「真の単」なのです。ちょうど百合の皮がまだむけていないのに、皮が無いと思っているようなものです。「悟り」というものが有(在)れば、それだけ「単」ではないのです。それを「真常流注(しんじょうるちゅう)」といいます。いわゆる「悟りという病」です。所詮、何物も脱し、何事も落としてこそ「大自在底」が初めて得られるのです。そこのところを道元禅師は「坐禅箴」の中で「その親委(い)すること無(の)うして脱落す」と、お示しになって居られます。「坐禅箴」残り物3
本当に親しいものは、何者が入って来ても犯されるものではありません。時と処によって境界(きょうがい)が変わるものではないのです。汚されるものは不思量に「残り物」があるからです。「何も無い」というものを、もう一つ殺さなければ本当の親しみは得られません。「坐禅箴」残り物2
「不思量」とは自己を忘ずることです。「自己を忘ずる」とは、万法(まんぼう)に證せらるることです。ですから、その現れ方は純一無雑にして何物に当たっても親密でなければなりません。ところが「実地」に於いてはそうは行かないのです。ちょうど、魚を焼いてしまってもなお、匂いが残るようなものです。そこで歴代の覚者は一層の奮起を促して「小成(しょうじょう)に安ずること」を戒められるのです。「坐禅箴」残り物1
ここのところは、「現成(げんじょう)」の二字を「現」と「成」と割って使っていますが、「現成」とは現れて確かで間違いのない様子をいいます。山は高くして山であるということです。「諸法実相」は現れたまま欠けることもなく成就しているのです。ですから「現成」といいます。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す3
「不回互」とは独立無伴にして、他の交渉を要しないので、自らは自らにて「成功(成就)」している事を自覚するのです。しかも、自らは自らを「證明(しょうみょう)」して疑わぬのです。それを「その成自ずから(おのずから)證す」といいます。「證す」とは自證のことです。仏道は「自分を自分で證明することが出来る教え」です。もし自分を自分で證明することが出来ないのであるならば、「他の人の證明を得た」としても何の役にも立ちません。「この證明は自證」で他の證明を借りるのではありません。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す2
自ずから(おのずから)人格の不思量を尊重すると、同時に他人の人格をも尊重せざるを得ないのです。それを「其の現自ら親し(そのげんおのずからしたし)」といいます。「親し」とは親密ということです。これは「不思量にして現ず」の証拠です。道歌に「糸瓜(へちま)とは糸瓜に似たる糸瓜かな」と。「その物はその物が證するより親しきはなし」なのです。「坐禅箴」其の現自ら親し、其の成自ら證す1
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「仏(覚者)」というのは「只(ただ)に成った人」です。「只に成った人」というのは、「自分の無くなった人」です。私たち衆生の「今」というのは、「差別(時間)」と「平等(空間)」が混じり合ったところです。「混じり合ったところ」というのは「差別(時間)と平等(空間)」が無い世界」をいいます。其れを、「今」と呼んでいるのです。差別(しゃべつ)について9
一切のものは一つのものが分かれた様子です。本当は差別(しゃべつ)というものがはっきり分からないと、本当の平等は分からないのです。人の考えで平等と差別(しゃべつ)を正すことが出来ると思うのは間違いです。「法(道)」というのは、差別(しゃべつ)其のものをさしています。差別(しゃべつ)には必ず法則というものがあります。その法則に従って行じていくのが「仏(覚者)」です。差別(しゃべつ)について8
「色即是空、空即是色」とは差別(しゃべつ)も平等も決められないという事です。ところが「決められない」と決めつけてしまうのが人の考えなのです。どんなにしても、自我があるうちは自分の考えというものから離れられないものです。ですから、考えは考えの中で考えに因って無為にならないといけないのです。一つの物が、ある時は平等に成り、ある時は差別(しゃべつ)となり決まったものはありません。みんな「縁」に因って「結果」が生じるという事です。差別(しゃべつ)について7
般若心経の中の「色即是空」の色というのは差別(しゃべつ)、空というのは平等です。そして色の他には空は無いという事を直感的に感じて頂くために「即(すなわち)」という字が出て来ます。「即(そく、すなわち)」とは「異ならず」という意味です。したがって、色即是空とは「色は空に異ならず」という意味です。私たち衆生の考えの中には、「これは差別(しゃべつ)、これは平等」というものがあったとしても物にはありません。物は其のものそれだけで差別(しゃべつ)でも平等でもありません。差別(しゃべつ)について6
差別(しゃべつ)とは、それぞれの法則です。それを「法」とか「道」とかいっているのです。「人の法則」とは人のために働くという事です。山は高い、川は低い、火は熱い、水は冷たい、、、、、。全部それぞれのものが「法則」を持っているのです。ですから私たち衆生は、その法則のままに「差別(しゃべつ)」のままに「法(道)」に従っていく事です。それが「平等」であり、「法則」です。おシャカ様は「一切のもの(差別)」が「法(道)そのもの(平等)」であった事に気付かれたのです。すべての物が差別(しゃべつ)と平等から成り立っているのです。差別(しゃべつ)について5
物の本質、本体というのは時間的にも空間的においても同一のものです。そして「因縁果」の法則に従っていろいろ差別(しゃべつ)の相が出て来ているのです。世の中は「末法」に入り何時の間にか不知不識(しずしらず)の内に世の中から差別(しゃべつ)の語が消え、差別(さべつ)の語が世の中を席巻するようになりました。今一度、差別(さべつ)の語の中に差別(しゃべつ)を含んだ理解をしてもらいたいものです。世の中は「平等界(絶対の真理の世界)」と「差別界(しゃべつかい)」という「現象世界」で成り立っていることを再確認する必要があるのではないでしょうか。温故知新から知故建新(故きを知って新しきを建てる)へ。差別(しゃべつ)について4
「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
欧米の個人主義の社会では「個」が尊重されています。この「個」というのは広辞苑では「ひとりの人」と記されています。仏教辞典(宇井伯寿著)、仏教大辞典(織田得能著)では「個」という字は見当たりません。禅学大辞典には「箇、個」①事物のまとまりを指示する代名詞、これ、この「箇人(このひと)」と記されています。この「個」というのは仏教でいう「差別(しゃべつ)」ということです。「差別(しゃべつ)」だけがある世界はありません。「差別(しゃべつ)」の裏には必ず「平等」ということがなければなりません。「真の平等」とは本当に「個」に成り切る、「差別(しゃべつ)」に成り切った時をいいます。「そのまま」ともいいます。「そのまま」とは「只(ただ)」という言葉でも表現しています差別(しゃべつ)について2
「活かして生きる道」というのは、「今の世界、今の事実」「差別(しゃべつ)のまま、そのまま」ということです。本当に「個、差別(しゃべつ)」に徹しさえすれば「個、差別(しゃべつ)」も無ければ全体も無いことが分かります。「差異を差別(さべつ)に変えるのは人なり」と田中克彦氏は述べております。差別(しゃべつ)を差別(さべつ)に変えたのは人だと私は思います。差別(しゃべつ)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏、其の物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですから、もっと大きく「活かして生きなさい」といっているのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは、「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ない」という事です。※人間(じんかん)とは、広辞苑に拠れば「人の住む所、世の中、世間」と記されています。差別(しゃべつ)について2
差別(しゃべつ)とは仏教語です。広辞苑では下記のように記されています。●差別〔しゃべつ〕(シャは呉音)①(仏)万物の本体が平等であるのに対して、それぞれの個物が具体的な差異をもっていること②相違、区別、さべつ③分別(ふんべつ)※もと仏語からしゃべつかい(差別界)〔仏〕↔平等界万物が差別(しゃべつ)のすがたをとっている現象世界●差別〔さべつ〕①差をつけて取り扱うこと、分け隔て、正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと※差別意識②区別すること、けじめ差別化(さべつか)他との違いを明確にして独自性を積極的に示すこと仏教語辞典では差別(しゃべつ)即平等について、差別(しゃべつ)の当相(ありのままのすがた)がそのまま平等という理体本質であることと記されています差別(しゃべつ)について1
其処(そこ)に問題があったのです。其れですから解決の手段・方法は見いだせなかったのです。其れをおシャカ様が人類史上初めて解明されたのです。本来一つの物であるのに其れを自分勝手にしたものですから、本来の自分が分からないままで自信(自覚)が無いまま不安が生じてしまうのです。其の不安をはっきり離れてしまえば「救われたということがきちんと分かる」のです。それを仏教では「安心(あんじん)が得られた」というのです。衆生(しゅじょう)について5
「衆生」というものも今のように分からないものが分からないなりに生まれて来たというのが凡(すべ)てなのです。其れで其れが大きく成ったのです。ですから内容としては、「仏」と同じものなのです。内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で「此の物を自分勝手にした」のです。物心が付いて始まった其れも子供時代の事ですから、其の「物心が付いた時点」では「其のこと(自分勝手にした事)」を全く知(識)らなかった」のです。即ち「其の事(自分勝手にした事)の自覚」は無かったのです。衆生(しゅじょう)について4
「心」といわれるものは、私たち衆生が何もその発生を知(識)らないまま、分からない不思議な作用を起こします。それが「心」の「事実(真実)」なのです。其れは其のはずです。私たち衆生はこの世に知らず識らずに生まれて来たのです。(不知不識生)知(識)らないなりに、「此の物は今存在している」のです。ですから、「心」とは架空のものではありません。そういう働きをするものを暫く「心」と名付けたのです。それを確実に「自覚」なさったお方が「仏(おシャカ様)」といわれる由縁です。衆生(しゅじょう)について3
白隠禅師の有名なお言葉を紹介します。”衆生本来仏なり”私たち衆生は本来「仏その物」であり、それは「今の自分自身である」という事です。ですからもっと大きく「活かして生きなさい」といってるのです。おシャカ様の教えの中でいう「仏」というのは「人間(じんかん)」の中でなければ生まれて来ないという事です。※人間(じんかん)とは広辞苑に拠れば「人の住む所・世の中・世間」と記されています衆生(しゅじょう)について2
衆生とは仏教語で、広辞苑に拠ればしゅじょう(衆生)【仏】いのちあるもの・生きとし生けるもの・一切の生物、一切の人類や動物、六道を輪廻する存在・有情(うじょう)と記されています私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれてきたものではありません。ですから私たちは「此の物」というのが一番適切な表現だと思うのですが「此の物」は「衆生」なのです。つまり、私たちは「全ての物と同じ」なのです。「人類(人)」と認めようがないものです。始終変化している訳ですから「実体が無い・実相は無相」ということです。「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。衆生(しゅじょう)について1
過去を顧みて現在の誡めとするのはよい事です。しかし何時までも取り返しのつかない過去に引っ掛かっていては愚の骨頂です。また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。古歌に、「過去を思い未来をここに引き寄せて今現在を常闇(とこやみ)にする」とあります。今日あっても過去です。今日あっても未来です。否、過去も未来も「今日(即今)と成って現成(げんじょう)している」のです。「今日なくして一生なし」。今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。「地限り場限り」と白隠禅師は何時もいわれました。「その場その場を空しくするな」という意味です。人の人生2
人の人生は、若い人はこれから先が有(在)ると思っています。老いたる人は過去の夢をたどって人生としています。これは全く間違いだと思います。「人の一生」は今日の積もったものです。「今の積もったものが一生」ではないでしょうか。例えば、「一千万円」は「一円」の積もったものです。「一円」を欠いても「一千万円」にはなりません。今なくして一生はありません。過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来たらず、です。ですから「人生は今日(今)に在り」と、いわなければならないと思います。人の人生1
何故私たち衆生は「グジュグジュしている今の自分を終着点」と、承知出来ないのでしょうか。何故おシャカ様はこんなにグジュグジュした自分の状態を「菩提」と言われたのでしょうか。これはあらゆる人が道元禅師のいわれる「この法は人人(にんにん)の分上豊かに具われりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、證せざるには得ることなし」だからです。ですから、ちゃんと古人の歩まれた道に踵を合わせて修行することによって必ずそのことが現れて来るということです。修行しなければ出来ません。歩みを進めていかなければ「行き着くところ」には到着出来ない、ということになるのです。行き着くところ2
本当に自信をもって「この修行をすれば間違いなく究極に到達する」ということは、なかなか断言できるものではありません。「出発はしたけれども何処に終着点があるのか」ということです。「終着点」とは何処かといいますと、「今の自分」です。「今のいろいろなことを考えたり、思ったり、グジュグジュしていたりしている其処(そこ)にしか行き着くところ」はないのです。それを誰が「グジュグジュしている状態はよくない」と決められるのでしょうか。「グジュグジュしているそれしかない」のですから、其処に行き着く他はないのではないでしょうか。行き着くところ1
「時は金なり」という時代は過ぎました。エマーソン曰く「時は命なり」と。金はまた得られますが、失った時は再び得ることはできません。時は命を刻んでいますが、この真理を判らないで過ごしていては、日々命を殺していることになるのです。それでは仏教でいう所の「殺生(せっしょう)罪」であり、大破戒なのです。いま、皆さんを未熟なお方としてお話させてください。そうでなければ話が出来ないからです。「未熟なお方には結果を先に見せる」というのが仏教の鉄則です。仏弟子のうち声聞(しょうもん)には「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という事をおシャカ様はお説きになりました。三つの弱点2
人間(にんげん)の執着は何時頃から始まったかというと、お父さん、お母さんの因縁によって私たち衆生がお母さんのお腹の中に托生(たくしょう)した時から生への執着というものが入ります。これは自分とか自分じゃないということに関わりなく、働きとして執着というものが有(在)るのです。そういうものが胎内で容(かたち)作られてきて、そうしてそのまま誕生して来るという訳です。この事を仏教では「業因」といっています。ですから、「不知不識生(ふちふしきしょう、しらずしらずに生ず)」なのです。私たち衆生は「三つの弱点(惜愛、自体愛、当生愛)」を持っています。これが苦の根源になっているのです。生きている今の現実には誰もが、そういう事はあまり考えないで生活しているだけなのです。三つの弱点1
私たち衆生は日常生活が全て「言葉(解釈、理解)」で解決されているかの如くに錯覚を起こしています。そのために「法に目醒める道」という存在がある事を分からないまま過ごしているのが実情なのです。別の言葉で言えば「本来の自分とは何か」という事を知(識)る必要もなく考える事も無く、或いは知(識)らなくても生きていられるという事で自分の一生を送り続けているのです。「法」に目醒めれば迷い、不安、不自由であったという事があるはずも無いという事がはっきり「自覚」することができます。これを「此事(このじ)」といいます。それを「救い」といいます。要は、自分で自分を救う事です。それを仏教では「安心(仏教では”あんじん”と読みます)が得られた」というのです。なければならないものが在る4
不思議なことに世間では信仰が厚く、真面目な人といわれるほど「この世界」を信じることが出来ませんし、この様な人が多いことに驚きます。「なければならないものが在る」とは実は「この世界に目醒めなければならない」ということなのです。仏法を語ることも世法を論ずることも先ず「この世界に目醒めた後の事」とする以外にありません。言葉の問題ではありません。そこに欧米の人々からも容易に受け入れられ全く必要とせず老若男女一切の衆生が救われる道が「この道(この世界)」なのです。なければならないものが在る3
おシャカ様を始め歴代の覚者が体得された「道」が確かに残されています。この事を知(識)らない者は迷い、知(識)る者は目醒めることが出来るのです。「信・不信」を全く必要としない「不思議な世界」です。「覚・不覚」とに全く関係ない決定的な「不思議な世界」です。この世界を或る人は「平常心」を語り、或る人は「無」と語り、或る人は「祇管(しかん)」と唱え、或る人は「無所得、無所悟」と強調します。なければならないものが在る2
道元禅師「学道用心集」に曰く、「道にさへられて当処に明了、悟にさえられて当人円成(えんじょう)す」と。確かになければならないものが在ることは事実です。それでは「何か」、といって当方の側に特別なものが在るのではありません。平等だ差別だ、違いだ悟りだと世間は騒がしい、しかし、それが「世間(人間界、娑婆世界)の有り様」です。その世間を離れて他に住む処は有(在)りません。苦悩する老若男女に唯一つ残された道が在ります。それは「法に目醒める道」です。なければならないものが在る1
あたかも私たち衆生が名付けたものに因って混乱をさせられているように思うことがありますが、それは全くの間違いです。その問題を生ぜしめているものは「私たち衆生」なのです。「おシャカ様の教え(無我の教え)の自然(じねん)」と私たち衆生の名付けた「自然(しぜん)」とは比較になりません。自然(しぜん、じねん)について2
人が生じる以前に森羅万象は既に有(在)りました。人が生じる事に因ってその森羅万象を「認識の対象」としたのです。そして人が認めることによって、森羅万象の様子を「自然(しぜん)」と名付けたのです。「山川草木(さんせんそうもく)それ自体」は自然とも不自然ともそういうあり方はしておりません。ですから、人がただそう名付けたということです。仏教では「人の生ずる以前、人が森羅万象の様子を認める以前のようすを「自然(じねん)」といいます。すべてのものを「人が認識(認めた事に因って)」し、自然(しぜん)を名付けた事に因って「自然(じねん)と人との隔たり」が生じたのです。自然(しぜん、じねん)について1
私たち衆生は何か目的を持って生まれて来たという人は誰一人有(在)りません。知らず識らずに生まれてきたのです。(不知不識生)「無目的という目的」を持って生まれてきたということも有(在)りません。本当に「縁」に因って生じ「縁」に因ってこのような営みが出来ているということなのです。そこにはよくいうように意義付けることも意味付けることも、何も有(在)りません。ですから出来るだけ「人の言葉の中での修行」という事を止めないといけません。人の言葉の中での修行
「今の事実、その物」は前稿で掲げた言葉、即ち「法、道、禅、空、無、如是」と名称は異なりますが、全く同じものなのです。それを「異名同体(いみょうどうたい)」と言います。法、道、禅、空、無、如是というものは「同じ事実(一つの物)」を様々な言葉で表現したものです。誰一人として生まれながらにして覚者である自覚のある人はいません。「真理」は誰のものでもありません。ですから私たち衆生は「自分で自分自身に目醒める」必要性があるのです。異名同体2
世の中では「真理(自分をも含めて一切のもの)」を多くの方々が色々な言葉を用いて説明しています。一例を挙げれば「法、道、禅、空、無、如是」なのです。真理は何時でも何処でも何をしていても「人種、文化、思想、言葉」に左右されることがあってはなりません。真理は偏り様がなく、汚れることもなく、生まれることもなく、滅することもないものでなければ真理とは言えないのではないでしょうか。人類史上で始めてその「真理」に目醒められたお方がおシャカ様なのです。私はおシャカ様の目醒められた様子を「今の事実が真理そのものである」と皆様に提示しているのです。異名同体1
「四大仮和合(しだいけわごう)」はどこまでも同じです。因縁は各々(おのおの)異なりといえども無自性なることはどれも同じです。ですからどうしても「自己という塊」を認めようがないのです。全異全同4
般若心経の「色即是空」とは「色」に惑う人のために設けた「応病薬」なのです。「色即是空」も「空」に迷う人のための一時の設けです。本来は「色即色、空即空」なのです。男性は男性、此の男性は彼の男性ではありません。女性は此れ女性、彼の女性ではありません。しかし、「眼横鼻直(がんのうびちょく)」はどこまでも同じなのです。全異全同3
いくらと遠ざかっていても同じものなのです。それほど親しいものはありません。離れていながら同じものなのです。元来同じものなのです。波は変われども水はひとつなのです。全異全同なのです。「同」に偏しては行けないし、「異」に堕してもいけないのです。全異全同2
世間の法は全て有形無形の事物を他の事物と区別して言語で表した呼び方をしています。物物元来同一生(もつもつがんらいどういっしょう)というお示しがあります。四大(地水火風)は古今に通じています。同じものから「縁」に触れて千差万別があるのです。言い換えると千差万別のままで同じものなのです。これを「全異全同」といっています。男性は男性、女性は女性、地は地と、別々ですけれどもそのままで同じものなのです。全異全同1
カレイとヒラメは別の魚ですが人間(にんげん)がヒラメと、人間がカレイと名付けたので魚自身「我はヒラメなり」と「我はカレイなり」と名乗り出たわけではありません。仮の名です。自性は有(在)りません。魚に向かって「貴方は魚に相違ないか」といったところで魚に分かるものではありません。只、一切の諸相は解脱の相なのです。魚と云うから魚です。魚に似たり、だから魚を解脱しているのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり3
「魚に似たり」といえば魚にあらず、「魚行いて」は魚です。ですから「魚にして魚を解脱す」ということです。人は何処から来て何処は行くのでしょうか。「人は人に似たようなもの」です。魚に自性は有(在)りません。魚という名を付けて通用しているから魚といいますが、魚には自性が無いのです。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり2
「水清うして地に徹す」とは、一点の汚染も無く清中の清ということです。「魚行いて魚に似たり」とは、魚の実体なくしてものに衝突することもなく、魚の自己を見ない自在の境界を指したのです。身心脱落の境界です。六根が六塵に奪われない境界です。ですから、「人行いて人に似たり」ということも出来ます。人という実体が無いから生まれると死ぬ、死ぬと思うと生まれるのです。かくして「無始無終」です。何と自在なものではないでしょうか。「似たりというのは「無自性空」に当てはめることが出来ます。「坐禅箴」水清うして地に徹す魚行いて魚に似たり1
「縁に対せずして照らす」の「照」は、縁に対せずを照とするのです。「縁は縁なり」です。「縁是れ照なるが故に」です。「対せず」とは「徧界(へんがい)嘗(かつ)て蔵(かく)さず」です。何物も包み隠すことはないということです。真実は至る所にあり、ありのままの姿で現れているといういうことです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす6
「事に触れずして知り」の「知」は覚知ではありません。覚知は小量です。了知の知でもありません。了知は造作です。ですから「事に触れずして知る」のです。「事に触れずは知」なのです。その「事に触れず」ということを宏智(わんし)正覚禅師は、「明頭(みょうとう)に来たらば明頭に打し、暗頭に来たらば暗頭に打す」と。また「坐破す嬢生皮(じょうしょうひ)なり」と、いっています。「嬢生皮」とは母親から生まれたままの人ということです。つまり生まれたままの人に成り切って坐禅に徹しなさいといっているのです。「坐禅箴」事に触れずして知り縁に対せずして照らす5