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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 機織り唄

    「明治30年代の生まれなら機織りの経験者」なら、祖母は機織りをしていたことになる。父が「家に保管していた」と話していたが、その道具は祖母や曾祖母が使っていたものだろう。・・・機織り「岡山県史民俗1」岡山県昭和58年発行大正頃までは、機織りは女の仕事であった。各戸に機があって、女たちは晴着から普段着・仕事着はもちろん、布団・蚊帳に前掛け・手拭いに至るまで、一切の衣料を織り出したものである。明治30年代までに生まれた女の人は、ほとんど機織りの経験者である。秋の収穫がすむと、春の彼岸まで、寒い時期は明けても暮れても、糸引きと機織りだった。高機で、一日一反織るのは難しい。どんな縞にするかで、どの糸が、いくらくらいいるか決まった。その計算を縞算用といい、難しいものだった。ええ綿と悪い綿により分けた。ええのは糸にひき...機織り唄

  • そうめん掛け場唄

    素麺の三大産地は「播州」「奈良」「小豆島」だが、近辺では小坂(鴨方)尾坂(笠岡)矢掛の三カ所が三大産地といわれている。管理人は自称・素麺道1級だが、食べるのは、いつも地元の素麺と決まっている。・・・「鴨方町史・民俗編」鴨方町昭和60年発行素麺製粉この地方では小麦粉を製造するために水車が利用された。最盛期の明治末ごろには、杉谷川沿いに60カ所あまりが階段状に並び、コットン、コットンと音をたてて稼働していた。近隣からも製粉にしてもらう人々が、小麦を持って来ていた。大正2年電気を動力とする自家製粉へ変化した。昭和38年以降は、自家製粉の小麦粉から、大手製粉会社の小麦粉を使用し現在に至っている。素麺作り素麺作りは、12月から3月まで行われる。以前は、4月1日からは杉谷川の用水を農業用水として利用するため、この期日...そうめん掛け場唄

  • 池普請団地子唄

    昭和14年の西日本大旱ばつで、翌昭和15年には多くのため池が新たに造られた。笠岡市では新山の奥山池の作業者から直接聞いたことがあるが、野々浜の森池の話と内容がほぼ同じだった。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行池普請団地子唄第二次大戦後まではほとんど手による作業で、機械は使われず池を築く—堤防を築くのは人海戦術で行われた。土を固める作業—築堤の中心作業であるが、これは団地子(だんじこ)と呼ばれる女性の力によった。溜め池作りは冬の仕事で、赤い腰巻、赤だすきの腰からげ、頭は手拭であねさんかぶり、手甲掛けという姿の団地子が、音頭取りが上下に動かすザイヒあわせて囃しながら杵を打つ作業が続けられる。10~30人くらいまでが一つの集団となって作業する。ショコ踏み唄〽朝も早よからよーコーラショ弁当箱下げて工事通...池普請団地子唄

  • 青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

    昭和41年日活映画「絶唱」青春歌謡映画は楽しい「絶唱」

  • 智頭宿

    智頭町を訪れた。今も”智頭往来”の面影を残し、山々に囲まれ、千代川が流れる町。(備前橋から見る千代川)(備前街道では雪かきをしていた)・・・「鳥取県の歴史」山中寿夫山川出版社昭和45年発行智頭宿藩主の参勤交代の道筋で、智頭往来の要点でもあった智頭町は、鳥取を出発した藩主の宿泊地となったところで、本陣がおかれていた。馬や人足を用意しておく規定であったが、冬季積雪のため交通路がふさがれたときには、智頭町に駐在していた代官の命令で、百姓をあつめて雪をかきのぞき、道をあけることになっていた。また智頭は、備前街道の分岐点で、交通上の要所であったから、商内市が月に6回、五・十の日にひらかれていた。・・・(智頭往来、このような大きな商家が並ぶ)(「西河克己映画記念館」)西河克己監督は名作「絶唱」を始め、数々の日活青春映...智頭宿

  • 木山捷平

    近くに住むおば(父の妹)と、木山捷平は共通部分がある。戦時中に満州に行き、戦後の満州で生死をさまよったこと。・・・・「木山捷平の世界」定金恒次岡山文庫平成4年発行渡満昭和19年12月28日満州国の首都新京へ着任。日本国内よりははるかに自由気ままな新天地での生活を味わう。翌、昭和20年8月12日現地召集を受けて即日入隊。その後、昭和21年7月14日引き揚げの途に着くまでの約一年間、生死の間をさまよいながら難民生活を続ける。文字通り極限状態の生活であった。みさお夫人によれば、捷平は「敗戦後の長春での一年間の生活は、百年を生きたほどの苦しみに耐えた。」と語ったという。飢えて死に凍えて死なん日もあらんされど我は人は殺さじ帰国昭和21年8月23日引揚船から佐世保に上陸した捷平は、翌日夜郷里笠岡にたどり着く。みさお夫...木山捷平

  • 大砂塵

    砂丘を歩いていたら大砂塵に出遭った。ぼのすごい量の砂と風が身体に吹きつけた。その後で、鳥取砂丘では初めて「風紋」を見ることができた。※”ジャニーギター”で有名な西部劇とは関係ありません。撮影日・2023年2月21日(鳥取県)大砂塵

  • 笠岡港小唄

    個人的な思いを言えば、”笠岡港小唄”が、いちばん笠岡らしさを感じる。♪えヽ可愛い笠岡忘らりょか特にあの部分がいい。・・・・「笠岡港小唄」山田定男作詞西條八十補作平川英夫作編曲唄久保幸江鶴田六郎コロンビアオーケストラ三味線豊吉一、明日は出船とうち明けられてつのる思いの浜千鳥乙女十八涙を染めて花も散ります古城山えヽ可愛い笠岡忘らりょかサ二、海の銀座は日本にひとつ一度おいでよ涼み船島の娘の小粋な踊り月に眺めて島めぐりえヽ可愛い笠岡忘らりょかサ三、恋のとも網すげなくきって君は出てゆく時雨舟休石には名残りを惜しみ秋の燕もとまるのにえヽ可愛い笠岡忘らりょかサ四、景色うつくし人情は優しのびる笠岡よい港泊るひと夜がつい妻なれば浮気ゃさせぬとむかい船えヽ可愛い笠岡忘らりょかサ・・・撮影日・2014.4.6笠岡港小唄

  • ヤットーサノサ

    笠岡市用之江の盆踊り歌。・・・・「城見のあゆみ」城見地区まちづくり協議会2017年発行ヤットーサノサ用之江地区で古くから継承され、決まった歌詞はなく時勢に合わせた音頭で楽しく踊ります。現在歌われている音頭の歌詞の一部を紹介します。この音頭は、備後地方で発祥し、その流れをくんでいるといわれています。〽口説く文句は何よと聞けばドッコイショ用之江盆唄歴史でまいろ〽わしが生まれた用之江村はドッコイショ瀬戸内はるか山里で〽昔しや備中小田郡と呼ばれドッコイショ備後福山とお国の境〽畑耕し田んぼを耕しドッコイショいも麦お米果物つくり〽貧しい中にも絆があってドッコイショ向こう三軒ヤレ両となり〽じいもばあさんも子どもも交じりドッコイショ秋は豊作ヤレ氏子の祭り・・・撮影日・2018年3月31日(場所・用之江)ヤットーサノサ

  • 生江浜から片島のお祖母ちゃんちに行く

    笠岡市民会館で「笠岡市美術展」が2/17~2/19で開催中。会場で旧知のJさんに会った。Jさんは古写真を見ながら次のような話をした。(赤い矢印が神島⇔片島渡船)「母親は片島から生江浜に嫁に来ていた。それで夏休みなど片島に何度も遊びに行っている。生江浜の家から歩いて吉浜土手に行く、吉浜土手からバスに乗って笠岡駅に行く、笠岡駅からバスに乗って横島フェリー乗場に行く、横島フェリー乗場からフェリーに乗って神島フェリー乗場に行く、神島フェリー乗場から歩いて神島渡船場へ行く、神島渡船場から渡し船に乗って片島渡船場に行く。片島渡船場でお祖母ちゃんが出迎えしてくれた。楽しみは、お祖父さんが魚の美味いのを食べさせてくれた。夏休みでは、必ず(島の北側の)海水浴場に行っていた。」・・・・・・・・・・・・・・・・徒歩以外に、船便...生江浜から片島のお祖母ちゃんちに行く

  • 青春歌謡映画は楽しい「あの雲に歌おう」

    昭和40年正月映画・東映「あの雲に歌おう」青春歌謡映画は楽しい「あの雲に歌おう」

  • 馬子歌

    茂平の道茂平の道は、(たぶん)昭和の初めまでは牛と荷車が通れる幅の道しかなかったと思う。しかし、それは平地のことで、山道は人しか通れない。荷物は持つか、背負うか、天秤棒とヘードラ。孤立した村だった。昭和の初め頃、用之江から茂平港まで4輪車が通れる、というより、どうにか入れる幅になった。それで、やっと荷車が用之江とつながった。馬子も来れる道幅になった。昭和40年代に野々浜と車道が繋がった。大冝と生江浜への道は消滅した。(自然に戻った)昭和32.34年頃、バスが茂平に来るようになったが、園芸組合までで、それ以南は道幅が狭いので終始点となった。馬子がいて、馬子唄が伝わる地域は、今でいう国道が村を通る便利な地域だったように感じる。・・・・想像もできないような細い、曲がりくねった道しかなかったころは、物資の運搬も人...馬子歌

  • 民謡とは

    ・・・・・・・・・・・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行消えていく民謡民謡という言葉は比較的新しく、第二次大戦後に定着した言葉である。それまでは「俗謡」「俚謡(りよう)」という言葉が使われていた。民謡に対する態度は、その時代の民謡感を反映して冷たいものである。例えば、明治42年『和気郡史』、「大抵、鄭声(ていせい)淫猥の曲、士君子の口にするを恥ずべく、聞くに堪えざるもの多し」大正5年の『中津井村史』、「大抵淫猥野卑ノ曲ニシテ聞クニ堪エザルモノ多シ」大正12発行の『久米郡誌』は「作業謡も色々あって田植え唄、籾摺り唄、木挽き唄、地搗唄、餅搗唄、遠路工夫の唄などがあるが、何れも多くは野卑である」などと記している。どれをとっても言葉の使い方まで同一で、どこかに模範にすべき文章があり、それをそのまま記した...民謡とは

  • 木挽き唄

    (鳥取県智頭町2007.4.14)・・・・・・・・・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行木挽き唄切り倒された木を大鋸で挽いて、板や用材にするのが木挽き職である。重労働で、「木挽き米の飯一升食うて、鋸の屑ほど糞たれた」と歌われるが、それほど食べないと力は出なかった。久米南町〽何が因果で木挽きをヨー習うた花の盛りを山小屋で花の盛りを山小屋に住めどヤレ小判並べて女郎を買う・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行木挽き歌広島県は中央部以北は大部分が山地である。中でも、比婆・双三・世羅・山県・佐伯の各郡は奥深く樹木の鬱蒼と茂った山々が連なっている。かような山地の生活は、農業よりはむしろ林業関係が多く、木を切り、炭を焼く仕事が主であった。したがって生活の歌として最も多いのが木挽き歌である。高田...木挽き唄

  • 筏流し歌

    (東城川2022.11.3広島県東城町)・・・・「岡山県史民俗Ⅰ」岡山県昭和58年発行林業中国山地などの木材は筏流しで、岡山などの都市の問屋へ出された。伐採した木材をキンマ(木馬)または修羅でゾロビキといって運び、木材にトッカンを打ち込んで、馬や雄牛にひかせ、または、人がのって小川まで出す。そして筏流しをする。すなわち一本ずつ管流しをし、大きい川まで出ると、筏師が筏にくんで乗り、川下りした。・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行筏流し歌東城川は水量豊富で、ダムもなかったため、川の利用が盛んに行われた。油木町の手入(てにゅう)までは、舟が玉島から高梁を経てのぼり、筏はさらにその上流の浜栄が出発点であった。そのころ、舟も筏も、東城から玉島まで三日ほどかかったそうである。比婆郡〽何の因果で筏乗...筏流し歌

  • 茶作り唄・茶摘み歌

    (高知県高岡郡津野町の茶畑2018年10月1日)・・・「鴨方町史民俗編」鴨方町昭和60年発行茶たいていの家では、畑のぎしなどに茶樹を植えており、自給する。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行茶作り唄茶摘みは若い女で、近隣の村から口減らしをかねてやってきていた。女工部屋にごろ寝で泊り、茶摘みの期間中働く、村の若衆には「茶の木が仲人した」結果、茶摘み女を嫁にした人も相当あった。茶摘みは朝、夜が明けるとすぐに出て行き、日が暮れるまで一日中摘む。日の長い茶摘み時期に、遅くまで働かせていた。一番茶は竹べらで摘み、二番茶からは鎌で芽を刈っていた。摘んだ茶は手でもんで煎茶にしていたが、大正9年に茶の機械が導入され、すべて機械もみにとって代わられた。茶もみ作業は、高温多湿の部屋の中でする大変な仕事であった。美作町...茶作り唄・茶摘み歌

  • 「聖バレンタインデー」

    ”バレンタインデー”という言葉も行事も30才ころまで、まったく知らなかった。ある時、他業種の独身女性から「上司(妻帯者)にチョコレートをあげたら、顔を紅くして喜んだ」という会話を耳にした。彼女はその上司を、いくらかおちょくるような言い方だった。それで、”バレンタインデー”という日があることは知った。その日は、女性から男性へ愛の告白をしてもいい日、だそうだ。だが自分にも、自分の勤務先にも縁のない行事だった。それから数年してから、急にその行事は有名になった。スーパーに行けば、いちばんいい置き場に、チョコレートが山と積まれるようになった。そして自分にもチョコレートが届くようになった。自分に届くようになった時は、すでに”義理チョコ”全盛の時代で、おまけに”ホワイトデー”があり、同等または倍相当のお返しチョコが必要...「聖バレンタインデー」

  • 茶もみ

    父の話(2000・5・14)何処のウチもそうじゃがお茶は植えとった。ありょう、ちょっと熟むして干すとエエ番茶になりょうた。昔はみんな、そうしょうた。撮影日・2014年10月9日(静岡県榛原郡金谷町)・・・茂平水落の山畑の一角に茶を植えていた。摘んで籠にいれて家に持ち帰り、母が手もみをして天日で干していた。そのお茶の味は、不味かった。小学校の先生が授業で、「昔はお茶を飲まず白湯(さゆ)を飲んでいて、身分の上の人や、病気になった人がお茶を飲んでいた」話を聞き、不味くてもお茶を飲めるのはありがたいことだと思っていた。常会や来客がある時のみ、買った茶を使用していた。・・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行茶もみ歌農家で飲む茶はほとんど自家製であった。夏も近ずく八十八夜ごろ、畑の一隅に植えた茶の木...茶もみ

  • 青春歌謡映画は楽しい「北国の街」

    昭和40年日活映画「北国の街」青春歌謡映画は楽しい「北国の街」

  • 青春歌謡映画は楽しい「君たちがいて僕がいた」

    昭和39年東映映画「君たちがいて僕がいた」青春歌謡映画は楽しい「君たちがいて僕がいた」

  • 建国記念の日

    「建国記念の日」は制定(昭和41年)当時も、現在も賛否があるが、あまり大きな問題になっていないのは「紀元節」時代から現在まで、生活とのつながりがないからだろうか?父母の時代・・・「紀元節」、重要な学校行事。管理人の時代・・・「紀元節」も「建国記念の日」もなかった。(平日だった)子の時代・・・「建国記念の日」、休日。・・・・義母の話談・2022.2.6(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。・・・・「福山市史・下巻」学校行事の変化昭和初年までの学校行事は、入学・卒業式のほか...建国記念の日

  • 櫓歌(茂平)

    管理人の家に農船があった。三軒で一つの船を共有していた。その船は、島から島へではなく本土から島へでもなく本土から本土(茂平から茂平)へ、農作物を積んで運搬していた。ギッチラギッチラと櫓を漕いでいたが、唄はなかった。(昭和42年3月茂平)・・・・・・・・・・・茂平に農船の唄がないので、代わりに広島県の農船の歌を載せる。・・・・・・・・・・・広島県「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行櫓歌「櫓歌」の農家の歌である。瀬戸内海では大小の島々には田圃や蜜柑畑が開かれていて、それらの所有主である農家では、その島とは違った別の個所で生活しているため、田畑の世話をするのに伝馬船を漕いで往復しなければならないからである。豊田郡東野町〽ヤーレ押せ押せ船頭も水主もヨーイうたひのぼらぬノーヤレこの瀬戸はヨヤッサノノマ...櫓歌(茂平)

  • 櫓歌

    櫓を漕ぐ唄には、海の香りがする。手拭を、鉢巻か、ほおかぶりに頭に巻いた姿。顔には、海に生きる厳しさが漂っていた。・・・「瀬戸内の民俗史」沖浦和光岩波新書1998年発行1946年にスペインのマドリード市の歴史アカデミアの書庫で、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』が自筆のまま発見された。第一級の貴重な資料である。34年間も日本に滞在したフロイスは何回か瀬戸内海を航行している。日本の船は、「肋骨材と甲板がない」「布製の帆がない(藁の帆である)」「漕ぐ必要がある」「碇は鉄でない(木である)」「昼だけ航行する(夜間はできない)」「天気晴朗でないと航行しない」「水夫はほとんど、いつも歌っている」・・・・・・広島県「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行櫓歌船を漕ぐ場合を考えると、川と海がある。川の場合は「船...櫓歌

  • おちょろ船

    この本↓には、港の繁栄の必須条件の一つとして”茶屋”を述べているが、たしかに、古い港町には必ずのように遊廓跡がある。危険と長旅と男性だけの世界なので、そうゆうことになるのか。そういえば戦時中にも聯隊のいるところ、従軍慰安婦がいた。何かと共通している。・・・「瀬戸内の民俗史」沖浦和光岩波新書1998年発行おちょろ船沖乗り航路を突っ走る大型帆船が増えてくると、どうしても芸予諸島の島々に風待ち・潮待ち港が必要になってきた。海岸沿いをはしる「地乗り」航路は安全だが、日数がかかった。「沖乗り」を通れば、二倍近く速くなる。元禄期のころから北前船の数が急増した。文化年間に御手洗港に波止が完成した。近世の瀬戸内では、各地から船と人が集まる港の繁栄を維持するうえで、どうしても必要なのは問屋・茶屋・芝居小屋の三点セットだった...おちょろ船

  • 備中神楽

    備中神楽は古い芸能にしては、今も盛んに受け継がれている。日本人の心にしみる芸能に感じる。大衆性・娯楽性にも優れているのだろう。・・・・・「流域をたどる歴史・中国四国編」ぎょうせい昭和54年発行備中神楽は「神殿神楽」とともに、新しい芸能色の濃い「神代神楽(じんだいかぐら)」が大衆に親しまれ、今日まで備中神楽のすべてを保存してきた。神殿神楽「神殿」と呼ぶ舞台がつくられ神代神楽大衆性、娯楽性が強い。素朴さの中に郷土芸能として高いものを伝承している。創案した西林国橋の功績と考えられる。国橋は川上郡成羽町の神官で文化文政の頃(1804~1830)当時の卑俗な神楽を憂いて、記紀などの古典を参酌して、神代神楽の改正や創案をした。この国橋のつくった備中神楽(神代神楽)が、現在まで村々で行われている。神殿神楽のことを荒神神...備中神楽

  • 備中神楽「国譲り」大国主命の舞

    歌舞伎とか神楽は、筋を知ったうえで見ないと、ほぼ「猫に小判」状態になる。しかし神楽のうち、大国主(だいこくさん)の”福の種まき”だけは万人が楽しめる。神楽のお面、舞、衣装、太鼓、台詞を楽しみながら、種まきが始まるのを今か今かと待つ時間もいい。現在は、お祭り以外に地域イベントに備中神楽の出演が多く、「福の種まき」をいつも楽しみにしている。・・・備中神楽「国譲り」大国主命の舞「そも舞い出でし翁は、この国の主(あるじ)大国主の命なり。われを祭る輩(ともがら)には福徳幸いを授くるなり。また手向かうものあるときは、この打ち出の小槌広鉾両種の威徳をもって打ち固め、世を安国としずめるなり。」「いよいよ尊信するとあるならば、これより中津国のかまど巡りなさばやと存じ候。」「いそぎようやく清々しき神殿に着いたと覚えたり。しば...備中神楽「国譲り」大国主命の舞

  • 備中神楽「大蛇(おろち)退治」

    記憶が薄れているが、母方の祖父母の神社で神楽を見にいった。まだ小学1.2年生の頃で、眠いのを我慢して見ていたが、大きな蛇がでて動き出すと、こわさに我慢できず祖父母宅に戻った。朝起きて母に聞くと「殺された」という返事だった。・・・・「備中神楽」山根堅一岡山文庫昭和47年発行大蛇(おろち)退治大蛇退治は、素戔嗚の尊の「幕掛かり」の舞からはじまる。”稲田姫大蛇の口をのがれたりその謀略(たばかり)か酒ぞかしこき”太鼓は急テンポに力一ぱい高鳴る。尊は幕へ近づいて大蛇の動静をうかがう。幕の中では大蛇がピーピーとうなり声をたててうごめく。尊は幣を投げつけて、さらに幕に近づく。緊迫感のみなぎる場面である。大蛇の動きにぱっと飛びすさりざま、刀を抜き放って、ひとしきり力強く舞った後、幕内へ一時身を隠す。やがて大蛇は、かま首を...備中神楽「大蛇(おろち)退治」

  • 石切り唄

    石切山は良質な石、積み出し港が近い、という条件が必要だったので瀬戸内地方は”石の島”が多かった。セメントや輸入石材によって市場を狭められた。・・・・・・・・・・・・・・「広島県の民謡」中国放送第一法規出版昭和46年発行石切り唄石工は左手にタガネ右手にノミを持って岩塊にいどみ、力をふるって穴をあける。穴は浅いのは一尺から深いのは一尺二、三尺。これに火薬を装填する。穴の直径は六分五厘ときまっていた。力感あふれる歌である。石工歌呉市吉浦吉浦町上地区から良質の花崗岩が出る。ここに石工が集まり定着してしまった。彼らが仕事に際してうたったのが「石工歌」(いしくうた)である。〽可愛がられて寝た夜もござる泣いた明かした夜もござる〽うるめ島には霞がかかるわたしゃあんたに気がかかる・・石堀り歌安芸郡蒲刈町〽わたしゃこのごろ衒...石切り唄

  • 石切り唄(北木島)

    初めて北木島に行ったのは、高校1年生の夏休み、中学校の同級生と三人で”楠の浜”にキャンプにいった。笠岡から北木島の楠港に着いてキャンプ場まで歩いて行って、帰りも楠港から笠岡に帰った。広い北木島の楠しか見なかったが、それでも北木島がいかに栄えているかは、感じることが出来た。・・・今、楠は限りなく”限界集落”そのものになっている。石切り唄は、日本全国ありそうだが(地元優先で)笠岡市北木島をまず記載する。もっとも笠岡市だけでも北木島・白石島・高島と産地は多い。以前読んだ本には、福山城の石垣は北木島よりも白石島や高島の方が多いというように記憶している。・・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行石切り唄瀬戸内海の島々は花崗岩の産地で、石大工と呼ばれる職人によって支えられてきた。岡山県では笠岡市の北木島・白石島が...石切り唄(北木島)

  • 節分

    子どもの頃、父が枡を手にして炒った大豆を投げていた。「鬼は外」の豆は、庭(カド)に投げる。「福は内」の豆は、畳の間に投げる。畳の豆は拾って食べていたが、カドに投げた豆はそのままだった。縁起物なので楽しく食べていた。”恵方巻き”という言葉は、十数年前に初めて知った。↓「鴨方町史」「岡山県史」にも、一文字もないので、平成時代になって始まったものだろう。神社・寺院の行事ではなかったが、いつのまにか寺社になったことも不思議だ。・・・「岡山県史民俗Ⅱ」岡山県昭和58年発行節分立春の前日を節分と呼ぶのが通例である。正月と同じように、立春を年の初めと考えるところから、大晦日と節分には混交した感覚が多い。笠岡市真鍋島では大晦日にも節分にも豆を撒く。寄島町では節分に豆を撒いてから麦藁舟を海に流すという。この日は婚礼が多い。...節分

  • 芸備線の存廃問題

    (芸備線・備後落合駅)JR西日本は赤字路線の切り捨て方針を邁進している。他にも、去年の12月ごろ、笠岡駅が無人化された。便数が減って、昼は1時間1本という時間帯がある。車両も通勤通学の時間を除き3車両編成が多い。不便になった。(芸備線・備後落合駅)JRは在来線は切り捨てるが、新幹線は新設している。長崎や北陸や函館・札幌など。利権がからめば国も政治家も本気になる。地方は国家から見捨てられているように、思う時がある。芸備線・小奴可駅ふきん↑↓芸備線撮影日・2021.4.26芸備線の存廃問題

  • 瀬戸の花嫁 (戦前の結婚園)

    城見小学校の同級生は、当時兄弟が多く、従兄妹まで気にするとは少なかったが、学校内に従兄妹同士が多かった。茂平の子どもも、同じヒラで遊び、ましてや用之江や大冝に行くということは少なかった。交通事情も悪い時代は、結婚相手も、狭いというか(今では)近距離に住む人との結婚が多かった。・・・「岡山県史第16巻民族Ⅱ」岡山県山陽新聞社昭和58年発行備中町の北部、西山地方の通婚園は、北は哲西町、西は広島県の東城町などとの交流が深く、この方面との縁組が多い。平川でも県境に接している関係から広島県神石郡の油木・豊松などとの縁組が目立って多い。吉井川・旭川・高梁川流域なども、昔は高瀬舟によって関連を持つ川筋との縁組もかなりあった。笠岡市真鍋島などの笠岡諸島は、昔から島内婚が多く、しかも同じ部落の縁組が多い。たとえば白石島でも...瀬戸の花嫁(戦前の結婚園)

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