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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 芭蕉 (中尊寺)

    場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉藤原三代北方の王者長い古代の歴史を通じて、陸奥は遠い道のそのはての土地、朝廷の支配の及ばない未開野蛮な蝦夷の住む土地とされていた。その辺境の地平泉に、忽然と出て、百年の栄華の後、忽然と消えていった政権--それが藤原三代であった。大佛次郎平泉あたりは、もう「外国」だったわけですね。一つの独立国みたいな勢力でしょうね。金色堂は、はじめ野天にあったのですが、鎌倉時代になってから覆堂を造ったんです。お天気のいい日なんか、実にきれいだったでしょうね。「日本史探訪6」角川書店編角川文庫昭和59年発行経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散りうせて、珠の扉風に破れ、金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚のくさむらとなるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨をしのぐ。しばら...芭蕉(中尊寺)

  • 源義経 (高館)

    場所・岩手県西磐井郡平泉町平泉「高館」三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。先高館に登れば、北上川、南部より流るる大河也。衣川は和泉が城を巡りて、高館の下にて大河に落ち入る。泰衡らが旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし固め、えぞを防ぐと見えたり。さても、義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて、時の移るまで涙を落とし侍りぬ。「奥の細道」「義経記」世界文化社井口樹生1976年発行衣河合戦の事弁慶弁慶の鎧に矢の立つことこの数を知らず。その矢を折り曲げ折り曲げしたらから、まるで蓑をさかさまに着たようであった。黒羽・白羽・染羽、色とりどりの矢どもが風に吹かれて見えた。「弁慶ばかりはいかに狂っても死な...源義経(高館)

  • 松尾芭蕉(伊賀上野)

    場所・三重県伊賀市上野丸之内伊賀上野は山国である。伊賀上野駅から南には上野盆地が開け、盆地の中ほどに小高い丘が望まれる。上野は、この丘の上に造られた小さな城下町。この城下町に芭蕉が生まれたのは正保元年(1644)、三代将軍家光の時代にあたる。父は中世以来土着の柘植七党の名家の一党の末流で、苗字は許されたが帯刀は禁じられ、平百姓並みとなった。芭蕉は幼名宗房で、上野の町に流行する俳諧に興味を示しはじめた。俳諧の縁で家老の台所方使用人という勤め口を持つようになった。いつの間にか上野の俳壇の代表格になった。大都市に出て専業の俳諧師として飛躍したいと考え、郷里を棄てて大江戸に向かった。「奥の細道を旅する」日本交通公社1996年発行(俳聖殿)江戸に出て3~4年は無名だった。俳号は「桃青」と改めた。俳諧宗匠・点者として公認さ...松尾芭蕉(伊賀上野)

  • 記事明治17年 茂平堤防決壊(宮ノ崎まで浸水)の記事・記録その④

    山陽新聞に水島の決壊記事が載った。記事を読むと140年前の、茂平の先人たちが体験した恐怖が蘇るようだ。・・・・・・・2021年6月18日山陽新聞・文化欄「温故知災・苦難の歴史に学ぶ」「福田新田の悲劇---高潮の猛威」堤防決壊、次々と家屋漂流福田新田旧5ヶ村(現在倉敷市北畝、中畝、東塚、南畝、松江)は幕末に誕生し、500ヘクタールを超す新たな農地をもたらせた。周辺の村から入植した人々は、水はけの悪い低地んがら米、綿、サトウキビ、梨などの栽培に励んだ。だが徐々に生産が軌道に乗り始めた1884(明治17)年8月25日、悪夢のような災害に襲われる。「雨戸は弓のようにしわり込み」、猛烈な嵐から、わら葺きの家屋を必死に守る住民たち。日付が変わるころ、暴風の中で叫び声が聞こえた。「堤が切れた、堤が切れた」吹きつける暴風と台風...記事明治17年茂平堤防決壊(宮ノ崎まで浸水)の記事・記録その④

  • 坂本龍馬 (函館)

    場所・北海道函館市末広町「北海道坂本龍馬記念館」函館の街に龍馬の銅像が立つ。坂本龍馬と北海道は、なにか縁があったかなあ?この銅像がある場所は、なんと龍馬記念館。記念館があるということは、そうとう深い関係があるのだろうな。こうゆう↓関係だった。つまり坂本龍馬のように大きな視野の人間になってください、というような関係(?)だった。【北海道坂本龍馬記念館】HPより北海道坂本龍馬記念館は、日本の将来を担う人材の育成、主に青少年の心の育成を支援するため、近代日本の礎を築き、北海道開拓を目指した坂本龍馬の生き方や精神、そして坂本龍馬が生きた幕末・維新の時代背景、また坂本龍馬の意志を継いで北海道に渡った子孫の人々の調査・研究などを催すと共に、多くの人々が興味を持ち、学べる場としての「北海道坂本龍馬記念館」を目指して活動してい...坂本龍馬(函館)

  • 坂本龍馬(桂浜)

    場所・高知県高知市桂浜制作・本山白雲設置・昭和3年龍馬像の変遷--戦後によみがえる像龍馬の場合、彼の歴史的位置というものは、ほとんど無きに等しかった。小学校の教科書でも、明治の元勲というのは木戸孝光、西郷隆盛、大久保利通の3人で、その後はいきなり伊藤博文、山県有朋という明治国家のつくり手たちが登場する。時おり、たとえば中等学校の漢文読本に、「妻は病床に伏し、子は飢えて泣く」という梅田雲浜の詩が載る。これが幕末の志士を象徴しているくらいでした。明治国家が薩長のものであった。それ以外の変な人物たちは、歴史の中の困り者にすぎない、ということだったのでしょう。龍馬は共和思想の匂いの濃い人物だったのがマイナスだったかもしれません。「歴史の中の日本」司馬遼太郎中公文庫昭和51年発行坂本龍馬像世界を目指した風雲児桂浜から太平...坂本龍馬(桂浜)

  • 龍馬と慎太郎

    場所・京都府京都市東山区円山町円山公園製造・1962年(昭和37年)この銅像は、龍馬と中岡慎太郎の雰囲気がよくでている。強い意志で新時代を見つめているようだ。円山公園の坂本龍馬と中岡慎太郎像(写真は戦後再建された2代目の像)亀山社中は危機に陥っていた。「船を一隻も持たない」海運会社になってしまっていた。薩摩藩の仲介で、オランダ商人から汽船を買った大洲藩が、その操船のための人員提供を社中に求めてきた。これを機に、龍馬は「いろは丸」と名付けた。後藤象二郎と連携した龍馬は、亀山社中を土佐藩の下部組織に組み入れることに合意し、これを海援隊と名付けた。土佐藩所属の軍隊となった。盟友の中岡慎太郎は陸援隊長になった。「英傑の日本史」井沢元彦角川学芸出版平成22年発行中岡慎太郎龍馬より3歳年下になる。土佐国安芸郡郡の大庄屋の子...龍馬と慎太郎

  • 龍馬とお龍、愛の旅路 像 (伏見)

    場所・京都府京都市伏見区「歴史と人生と」綱淵謙錠中公文庫昭和55年発行伏見・寺田屋の養女お竜(おりょう)といえば、伏見奉行の手の者に襲われた坂本龍馬と三吉慎蔵の危機を、機転をもって助けたことで有名である。慶応2年(1866)1月23日の深夜、龍馬らが二階の座敷で寝に就こうとしていたとき、裏階段から息せききって入ってきたお竜に、急を知らされた。そこで龍馬はピストル、三吉は槍で、警吏との修羅場が展開されるわけだが、このときのお竜が素っ裸だったといわれている。お竜の後日談によると、濡れた肌に袷(あわせ)を一枚ひっかけたことになっているが、おそらく湯殿の窓から外を眺めて捕吏の存在に驚き、素肌に手拭ももたずに階段を駆け上ったものと思われる。当時の女性としては想像することすらできない姿だったので、その突拍子のなさがかえって...龍馬とお龍、愛の旅路像(伏見)

  • 坂本龍馬観音

    場所・広島県福山市鞆町10年ほど前、福山市にも龍馬像ができた。その時、坂本龍馬は日本人に人気があるのだなあと思った。(後方、対潮楼)いろは丸の沈没慶応3年(1867)4月、長崎の地で新たに発足した海援隊ですが、同月23日に、早くも暗雲が立ち込めてきます。海援隊が大洲藩から借用していた船「いろは丸」が、紀州藩船と衝突して沈没した、「いろは丸」事件です。長崎を出港したいろは丸は、関門海峡から瀬戸内海に入り、紀州藩船と讃岐の箱ノ岬沖で衝突。しばらくして船は沈没。龍馬は事故の責任は紀州藩船側にあるとして、御三家のひとつ、紀州藩を相手に損害賠償交渉を行います。正式な交渉は長崎の聖福寺で行われました。交渉には、途中から土佐藩の後藤象二郎が加わるようになり、最終的には薩摩の五代才助(友厚)の調停で、紀州藩は事故の責任を認めて...坂本龍馬観音

  • シェイクハンド龍馬像

    場所・高知県高知市浦戸城山「坂本龍馬記念館」前建立・2011年11月龍馬と握手ができるので、人気があるように見えた。薩長同盟日本を大きく変えた「薩長同盟」は、龍馬の尽力によって成立した。では、その内容は具体的にはどういうものだったのか?「言った、言わない」の水掛け論になる恐れがあると思ったのか、桂はそれをわざわざ龍馬宛の手紙に書いてきた。だから、今でもその内容がわかる。それは六ヶ条である。一・長州と幕府の戦いが始まったら、薩摩は2.000人の兵を出して京を固め、大阪にも1.000人の兵を出すこと。一・長州の勢いが強ければ、薩摩は朝廷に働きかけて早期講和を成立させること。一・万一長州が敗けていても半年や一年はもちこたえるので、薩摩はその間に援護の作戦を考えること。一・幕府軍が敗退したら、薩摩は朝廷に働きかけて、長...シェイクハンド龍馬像

  • 坂本龍馬(生まれた町)

    場所・高知県高知市上町「龍馬の生まれた町記念館」高知市の電車通りに「龍馬の生まれた町記念館」があり、その周辺は市の中心であるが、町は江戸時代や明治の面影が残されている。「龍馬史」磯田道史文芸春秋2010年発行土佐に移住した坂本家は、4代目の八兵衛の時代に高知城下の上町(かみまち)に進出して、質屋業を営むようになります。のちに酒造業や呉服商などにも事業を拡大し、寛文年間(1661~1673)には、高知城下屈指の豪商となっていました。才谷屋がどれほどの資産家であったかを正しく評価するのは難しいのですが、いわば、高知のトップ銀行に匹敵する実力でしょう。屋敷の間口は8~9間、奥行は10間の大土蔵構え。数棟の酒造が立ち並び、10人以上の使用人がいたといいます。坂本家の屋敷は約500坪の広さで、これは通常500石クラスの上...坂本龍馬(生まれた町)

  • 上野彦馬

    場所・長崎県長崎市銀屋町長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。日本初の写真家だった人。横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。(Wikipedia)上野彦馬幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。号は季渓。家紋は桔梗の二引。生涯天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に...上野彦馬

  • 中岡慎太郎(室戸)

    場所・高知県室戸市(室戸岬)制作・本山白雲設置・昭和10年中岡慎太郎1838~1867土佐安芸郡の生まれ。万延2年土佐勤王党に加盟。元治元年(1864)金門の変の政変後、脱藩して長崎へ逃れ、倒幕を呼びかける。坂本龍馬とともに薩長連合に尽力。慶応3年(1867)京都で海援隊を組織して高知藩を倒幕へ導く。近江屋で龍馬とともに刺客に襲われ2日後に死亡した。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行(Wikipedia)没年1867年12月12日(29歳没)没地日本の旗京都活動倒幕運動藩土佐藩脱藩所属陸援隊受賞贈正四位廟京都霊山護国神社(霊山墓地)中岡慎太郎(なかおかしんたろう、天保9年4月13日(新暦・1838年5月6日)-慶応3年11月17日(新暦・1867年12月12日))は、日本の志士(活動家)。陸援隊隊長。名...中岡慎太郎(室戸)

  • 通学船

    場所・岡山県浅口市寄島町管理人が小学生の時は、笠岡市に有人島が9島あり、うち2島(片島・小飛島)に小学校がなかった。片島は神島へ渡船があり、大人も子供も渡船で渡っていた。今も渡船場跡がいくらか残る。小飛島は、たぶん旅客船を使用しての大飛島への通学だったと思える。寄島では三郎島の子供たちが、子どもだけで海を渡って学校に通っていた。通常は干潟の浅瀬を通学路にして、潮の干満を気にしながら早足で渡ったようだが、それでも距離があり(1km以上)通学路は潮が引いたばかりの不安定な場所。想像しても苦難、特に下級生は気の毒な通学だった。潮によっては「通学船」での通学だった。「寄島風土記」冷たい冬の朝、襟巻で顔を包み、潮風に吹かれて1キロに及ぶ干潟をトボトボ歩いて海を渡り、堤防に辿り着いて上級生が下級生をいたわりながら、しばし焚...通学船

  • 海軍特攻兵 (震洋)

    場所・高知県香南市夜須町住吉海岸"震洋隊殉国慰霊碑"第二次大戦中、まったくの無駄死といえば、まっさきに吉村昭の『陸奥爆沈』でも知られる、戦艦陸奥の謎の沈没、それによる1121名の殉死を思われる。ここ高知県では終戦の翌日、特攻兵器”震洋”が謎の事故で爆薬が発火して111名が無駄に死んだ。死んだ特攻兵は、たいはんが予科練生であろうから16歳~18最くらいの兵士であっただろう。特攻兵器で死ぬために配置され、終戦により生きて帰るのが決まった翌日の死はあまりに悲しい。震洋は昭和20年から21年、予想される米軍の本土上陸を阻止する兵器(1人乗り、または二人乗りのボート)。日本本土の他に、台湾や朝鮮にも配置されていた。「最終決戦」のために準備された特攻兵器空からの特攻は、戦闘機から複葉の練習機まで使われた。ロケットモーター付...海軍特攻兵(震洋)

  • 陸軍特攻兵 (知覧)

    場所・鹿児島県南九州市知覧管理人は終戦から27年経った、昭和47年5月から丸1年間、大隅半島の鹿屋市に住んでいた。本土最大の特攻基地があった鹿屋市で”特攻”、”特攻兵”に思いをすることはあったが、特攻が話題になることはほとんどなかった。薩摩半島の知覧は陸軍の特攻基地があったのも知っていたが、紅茶や金峯山、たまに武家屋敷や薩南工業が話題になる程度だった。知覧の特攻が話題になることはなかった。それがいつからか、それとも、いつの間にか紅茶や武家屋敷の知覧は、”特攻の町”知覧になった。「知覧の」の誕生柏書房2015年発行報道班員として鹿屋に来た川端康成。「私は特攻隊員を忘れることができない。あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員、早く帰った方がいいといふ隊員もいた。飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だったが...陸軍特攻兵(知覧)

  • 鷺舞

    場所・島根県鹿足郡津和野町映画かテレビかすっかり忘れてしまったが、城下町・津和野の”鷺舞”を初めて見て、日本にはこんなに美しいお祭りの踊りがあるのかと思った。衣装も、舞も、街並みも、みなよかった。鷺舞鷺舞は津和野の弥栄神社に伝わる古典芸能神事です。鷺舞は天文11年(1542)に時の津和野城主吉見正頼(11代)が山口の祇園会から移し入れた芸能神事ですが、本元は京都の八坂神社祇園会に伝えられたもので、京都から山口へ、山口から津和野へと伝えられました。坂崎出羽守の時代に一時中絶しましたが、亀井氏の時代になって京都祇園会の鷺舞を直接習得させ、今日まで受継がれています。津和野町観光協会津和野は石見(島根県西部)だが、アクセスに恵まれない。そのため、街並みは森鴎外の時代をいくらか残し、周辺の自然もまたすばらしい。撮影日・2...鷺舞

  • 海女

    三重県鳥羽市鳥羽海女と童子の像漁村に行けば、女性が海に潜って貝や海藻を採り、海女(あま)さんと呼ばれている。管理人は農村・漁村・山村を併せた村に育ったが、村に漁師はいても海女さんはいなかった。それに、瀬戸内海地方で海女さんがいたという話は聞いたことがない。すくなくとも、戦後の貧しい時代でさえ瀬戸内海沿岸に海女さんはいなかった。なぜ瀬戸内海地方に海女さんはいなかったのだろう?それと、日本全体でみても海女さん人口が減っている。将来、日本から海女さんが絶滅してしまう可能性もないとは言えない。【鳥羽市役所HP】海女とは海女とは、素潜りでアワビやサザエ、海藻等をとる漁を生業とする女性たちのことで、他には類のない女性の漁師さんと言えます。海女の歴史は古く、古代から受け継がれている漁法であるとの研究者の報告があります。海女漁...海女

  • 御燈祭り

    場所・和歌山県新宮市徐福JR新宮駅前(和歌山県公式観光サイト)御燈祭り神倉神社の例祭であり、当日は祈願人である約2,000人の白装束の「上り子」が神倉山中腹にある神倉神社に集結し、その後、燃え盛るたいまつを持ちながら一番乗りを目指して、538段の急峻な石段を一気に駆け下りる勇壮な火祭りです。(国指定重要無形民俗文化財)(JR新宮駅。JR西日本とJR東日本の境界駅の一つ)2013年6月5日御燈祭り

  • 「酛摺り(もとすり)」

    場所・岐阜県飛騨市古川町渡辺酒造岐阜県高山市の北に「飛騨古川」という小京都の町がある。もっとも高山が小京都なので、古川(ふるかわ)は、小小京都か小高山になる。とにかく飛騨の匂いが漂う、魅力的な街並みがある。水をはじめ自然に恵まれているので、酒造りも盛んな街。古い町並みの中に「酛摺り(もとすり)」の像が建つ。地元の渡辺酒造が、杜氏たちの苦労に感謝して建てたそうだ。像には、司馬遼太郎が碑文を寄せている。「杜氏殿の心澄みゆき魂きはるいのちの酛は生まれ始めけり」撮影日・2016年2月3日「酛摺り(もとすり)」

  • 鵜匠の像

    場所・岐阜県岐阜市長良橋南詰鵜飼いは神武天皇の時代、すでにあった漁法。岡山県でも、夏なると新聞やテレビで「旭川の鵜飼いが始まりました」と報道されていた。たぶん月見橋~京橋間のどこかで実施されていたのだろう。(岡山に新幹線ができる頃には廃止されていたような気がする)隣県の三次の鵜飼いも知られているが、やはり一番有名なのは”ぎふ長良川鵜飼”。岐阜公園の長良川河畔の観光船の船の数がすごい。いけどもいけども遊覧船が係船されていた。(Wikipedia)鵜飼漁をする人を鵜使いまたは鵜匠(うしょう・うじょう)と呼ぶ。その装束は風折烏帽子、漁服、胸あて、腰蓑を身に着ける。漁に用いるウの数は各地の鵜飼漁の規模や漁法によって異なる。例えば、小船を用いた一般的な鵜飼においては、1人の鵜匠が5羽から10羽程度のウを一度に操る。期はお...鵜匠の像

  • 織田信長 (岐阜公園)

    場所・岐阜県岐阜市岐阜公園「若き日の織田信長像」管理人の趣味に”低山登山”があり、登山道がある山となれば「城跡」「信仰・霊場」が多い。岡山県・広島県を中心に山城には300~400城は登っていると思う。中でも、岐阜城への登城は山として、城として、しかも天下取りの城で、さすがに他の山城とは比較にならない存在感や歴史を思わせた。岐阜城跡は岐阜公園として整備され、長良川に接して、市民や観光客の憩いの場になっていた。「織田信長」土橋治重成美堂1972年発行岐阜城標高338mの金華山頂にあるこの城は、斎藤氏三代が居城としたころは稲葉山城といった。永禄10年(1567)ここに入城した信長が岐阜城と改称した。信長によって大改修を加えられた岐阜城は、当時、天下一の絢爛豪華を誇った山城であった。三層の天守閣をはじめ、各種の櫓が建ち...織田信長(岐阜公園)

  • 織田信長 (島原)

    場所・長崎県島原市城内島原城跡「若き日の織田信長」北村西望の作品。北村西望は地元長崎県出身の彫刻家、文化勲章受章、享年はなんと103歳。「室町期」山崎正和講談社文庫昭和60年発行織田信長青年期の信長がわざと愚純をよそおい、異様な風態でひとびとの耳目を驚かせたというのは、よく知られた逸話である。美濃の斎藤道三と初めて会見した時にも、彼はまず「かぶき者」よろしく、茶筅髪に虎の皮の袴という姿で現れ、いよいよ面会という瞬間に、一転して粛然たる正装で道三の前にたったといわれる。道三はこの青年が只者でないという印象を抱かされるわけだが、こうゆう自己演出のうまさは、信長の生涯にわたって発揮されている。島原城は壮大な城で、農民の築城の負担が島原の乱の原因になっているといわれる。来てみると、それが実感できた。撮影日・2012年5...織田信長(島原)

  • 浅井三姉妹

    場所・福井県福井市中央北ノ庄城跡製造・2010年(平成22年)浅尾三姉妹は、織田・豊臣・徳川すべてに婚姻関係があり、格好の時代小説素材で、主人公でも脇役でも、小説やドラマや大河ドラマに何度も登場している。「日本史探訪10」角川文庫昭和58年発行お市の方と淀殿戦国の世に散った美貌の母娘永井路子杉本苑子お市と長政の間に生まれた娘お茶茶が、のちの関白秀吉の妻淀殿となる。戦国の男たちの政争にまきこまれ、波瀾に満ちたこの母と子、お市と淀殿の生涯。永井政略結婚は、ある意味では自分の家、または国を背負って外国へ行くということです。要するに外交官です。女性大使として、相手の機嫌を損じないように、実家の不利にならないように、そして両家の間に戦争が起こらないように。それに妻としての勤めが加わる。それが大名社会の結婚だった。ばかでは...浅井三姉妹

  • 恩田木工

    場所・長野県長野市松代町松代藩政の立て直しと『硯日暮硯(ひぐらしすずり』で知られる、松代藩家老。(日立システムズ)「信州松代藩財政再建の立役者」~恩田木工~信州松代藩家老・恩田木工(おんだもく)が、疲弊した藩政の立て直しに着手したのは江戸中期の宝暦7年(1757年)。木工の政治手法は、人間の相互信頼の回復、誠実の追求であり、意識改革であった。政治の要諦は「民、信なくば立たず」、よって、まずは「隗より始めよ」である。木工は身内を集め「今後、自分はいっさい虚言を吐かない。食事は一汁一菜、衣服は新調せず木綿とする。妻とは離婚し、子供は勘当、雇い人は解雇、親戚とも縁を切る」と宣言。領民に耐乏生活を強いる立場にある者は、率先して身をつつしまなければならない。役目が果たせなければ切腹するほかない。「おまえ達にもその覚悟があ...恩田木工

  • 松浦隆信

    長崎県平戸市南蛮貿易を始めた、肥前の戦国武将。(Wikipedia)松浦隆信松浦氏の分家の一つである平戸松浦氏の生まれで平戸には明の商人や(中国商人を庇護する)中国人の海賊(後期倭寇)が多く住んでいた。隆信は大友義鎮に報告して、ポルトガル貿易(南蛮貿易)が開始された。天文19年(1550年)、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきた。布教活動を許したので、1553年から1561年までの間、ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えた。隆信は鉄砲や大砲などの武器を率先して購入した。しかし宣教師を厚遇したが、信者の拡大は地域に軋轢を生んだ。ポルトガル人が殺傷される事件もあり、ポルトガル船は大村純忠の支配する横瀬浦に移ってしまった。長崎港が本格開港されるに...松浦隆信

  • 松平春嶽

    場所・福井県福井市宝永3丁目製造・2007年(平成19年)"幕末四賢侯"として有名な越前のお殿様、松平慶永(春嶽)。「英傑の日本史」井沢元彦角川学芸出版平成22年発行松平春嶽当時もっとも優秀な大名の一人であった松平春嶽。越前福井藩主であった春嶽は、かつて一橋慶喜を将軍にしようと動いたが、大老井伊直弼の反撃にあって隠居に追い込まれた。しかし、直弼が桜田門の変によって暗殺されたおとで息を吹き返し、この年、幕府の政治総裁職という新しい職に就いた。ちなみにこの時、一橋慶喜は将軍後見職となっている。いわば幕閣では将軍家茂、慶喜に次ぐナンバー3ともいえた。この春嶽という人は、幕末四賢侯、つまり四人の名君の一人に数えられるほど優秀な人物であった。もともとは攘夷論者であったが、多くの人々の意見を聞くうちに、その考えを改めた。そ...松平春嶽

  • 中国地方の子守歌像

    場所・岡山県井原市高屋町子守歌の里高屋駅前妻は井原市下出部町の出で、井原市高屋町は隣町。その妻に、「(自分や妹・弟が)中国地方の子守歌を唄ってもらっていたか」聞いてみると、「まったくない。そもそもその歌を知り、高屋の歌であることを知ったのが20歳を過ぎてから」という返事だった。ついでに義母の話、「(子育てを終えて、いつか)テレビの番組で紹介されて初めて知った」。再び妻の話、「(井原市内の病院で出産した)病院の壁に「ブラームスの子守歌」と「中国地方の子守歌」が貼ってあった。それを見て、自分の子には中国地方の子守歌を唄うことがあった」。通称「高屋駅」は、正式名称は「子守唄の里高屋駅」。駅前には子守歌像もある。井原市内の文化祭や芸能祭、そのほかイベントにはよく行くが、「中国地方の子守歌」を唄ったり、演奏したり、会場へ...中国地方の子守歌像

  • 島原地方の子守歌像

    場所・長崎県島原市島原駅前長崎県には一度も行ったことが無かった。2012年に初めて行った。着いたのは島原だった。熊本港から船で島原港に行き、島原市に1泊、島原線に乗って去った。島原市は雲仙岳、島原城、温泉、湧水群、どれも興味深かった。なかでも、水路と武家屋敷は予想していたとおり趣があり、特に満足した。(島原武家屋敷)島原を去ろううと島原駅に行くと、駅前に赤ちゃんをおんぶした銅像が立っていた。〽おどみゃ島原のおどみゃ島原の梨の木育ちよ何の梨やら何の梨やら色気ナシばよしょうかいなはよ寝ろ泣かんでおろろんばい鬼の池久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるばい(正面に島原城天守閣、背後に雲仙普賢岳)民謡は、古くから伝わるので歌詞が方言で、ことがば難しい。この歌は五木の子守歌のように貧困の歌のようである。この”久助どん”とは...島原地方の子守歌像

  • 二十四の瞳 (映画村)

    場所・香川県小豆島町田浦二十四の瞳映画村戦後の日本人にとって、じつは国民こそが軍を支持していたという事実を忘れてしまいたい。戦争では日本国民こそが被害者だったと主張する反戦映画が盛んに作られ、そこには相手側のことは描かれなかった。その意味でもっとも見事な表現が、1954年木下恵介監督の「二十四の瞳」にある。最初楽園のような生活描写にあてられていて、これが素晴らしい。まもなく学校が軍国調になってくるとそれが嫌な先生は教師を辞職してしまう。そして戦後、生活のため復職した先生は往時を回顧してすっかり感傷的になる。教え子たちが何人も戦死していたからである。戦後に日本では、「二十四の瞳」に限らず、戦争を反省した映画がたくさん作られた。その主流を占めていたのは戦争では日本人自身もひどいめにあったから、もう戦争は嫌だ、という...二十四の瞳(映画村)

  • 横綱・琴桜

    場所・鳥取県倉吉市東仲町二所一門の大横綱の大鵬さんから、「さくら、さくら」とかわいがられ、猛稽古で横綱になった琴桜。遅咲きで、比較的短命の横綱だったが、立ち合いの”ぶちかまし”で押し出す相撲は”猛牛”と呼ばれた。この猛牛は名とは正反対に、容ぼうが温厚で知的な雰囲気のお相撲さんだった。以下は、【倉吉市のHP】前佐渡ヶ嶽親方(第53代横綱「琴櫻」)は倉吉出身で、その偉業を称え銅像が造られました。郷土をこよなく愛し、春恒例の「桜ずもう」には佐渡ヶ嶽部屋の力士とともに参加しており、名誉市民に選ばれています。1940年11月26日生鳥取県東伯郡倉吉町鍛治町出身身長182cm、体重150kg倉吉町の借家地で、警察官の子として生まれました。警察官の父より柔道を仕込まれ、中学生では段位を認めてもらうほどの腕前でした。勧誘され、...横綱・琴桜

  • 孝子像(笹川良一)

    場所・岡山県倉敷市児島児島競艇場「孝養の像」戦後は競艇と寄付金活動で有名な笹川良一氏の像。特にTVCMの大相撲高見山との、『戸締まり用心、火の用心』『一日一善』は有名。寄附の分野では、岡山県の旧衆議院2区の選挙区内には「B&G海洋センター」のプールが、ほぼ全市町村にある。誘致には加藤六月さんが尽力したと噂される。母82歳で59歳の息子が背負って金毘羅詣りの像。多分、全国のボート場にはすべて、この像は立っているのだろう。「世界は一家、人類は皆兄弟」撮影日・2018年2月17日孝子像(笹川良一)

  • 堀泰一朗

    場所・岡山県笠岡市笠岡古乃美教「白雲大社」応神山の麓に赤い大きな鳥居が見える。春には桜やツツジが咲き誇り、秋の紅葉もなかなかの名所。そこが古乃美教の白雲大社。開祖は、堀泰一朗(ほり・たいいちろう)で、以下は古乃美教のHPの開祖の紹介。堀泰一朗大先生が一代で築いた。明治30年(1897)9月26日、新潟県新井町(現、新井市)に命を授かり、生まれながらにして優れた霊的能力を持ちながらも、幼少時から幾多の辛苦に見舞われ、その苦難を悉く乗り越えた。その時、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)より、『創(はつ)の代に還せよとの大御心を体して起てよ。汝、神の名に於いて為さんとしても成らざるもの無し。汝の与えるものは神も与え、汝の取らんとするものは神も又取らん。もし汝の力を問う者あらば答えよ。上に天なし、地に底なし、広さを問...堀泰一朗

  • 中小路宗城像・中小路宗康像

    場所・京都市長岡京市天神長岡天満宮宗城さんと宗康さんは親子であり、現在の神社の整備に、親子とも多大な貢献があったそうだ。(長岡京市観光協会)長岡天満宮ご祭神は,学問の神様として有名な菅原道真公です。道真公が太宰府へ左遷される途中,かつて在原業平らと共に詩歌管弦を楽しんだこの地に立ち寄り,都を振り返って名残を惜しんだ事から「見返り天神」とも呼ばれています。太宰府にお供した3人が別れ際に戴いた道真公自作の木像をご神体として祀ったのが長岡天満宮のはじまりと云われています。撮影日・2015年2月18日中小路宗城像・中小路宗康像

  • 中平善之丞

    場所・高知県高岡郡津野町高野制作・濱田浩蔵設置・昭和60年中平善之丞は、江戸中期の大庄屋で、農民を救おうとしたが、藩は打首にした。義民。津野町は、高知県のたいへん奥深い村。中平善之進1709~1757困窮する農民を助けるため自ら藩庁に窮状を訴えたが捕えられ、宝暦7年に打首となった(「津野山騒動」)。義に倒れた彼の精神は郷土に生き、明治維新の志士たちに影響を与えた。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行(Wikipedia)中平善之丞なかひらぜんのじょう宝永6年(1709年)~宝暦7年7月26日(1757年)は、江戸時代中期の一揆指導者。経歴・人物土佐高岡郡津野山郷の北川庄屋の長男として生まれる。その後元文3年(1738年)高岡郡梼原村の庄屋・中平弥左衛門の養子となり、のち家督を継ぐ。宝暦2年(1752年)土...中平善之丞

  • みよし観音

    場所・兵庫県神戸市灘区(六甲山上)東京オリンピックがあった年に、神戸で小型飛行機の墜落事故があったそうだ。「日東航空おやしお号墜落事故」で、乗員・乗客10名のうち2名が亡くなり、そのうちの1名が美代子さんという名のスチュワーデスだった。美代子さんは懸命に救助活動をしていたが、爆発により死亡した。像の建立は交通遺児の会が発起して、有名人の森繁久彌・吉永小百合も賛同し、石原慎太郎は碑文を寄せている。美代子さんがなまって「みよし」と呼ばれ、みよし観音になったとある。撮影日・2016年12月3日みよし観音

  • オランダ橋の外国人

    場所・長崎県平戸市幸橋(オランダ橋)幸橋(オランダ橋)その昔、城と城下町との往来は船であった。1669年(寛文9)第29代鎮信が、そこに木橋を架け幸橋と呼ばれた。1702年(元禄15)、これを石橋に改架した。これを別名「オランダ橋」という。(ほっこりHirado)平戸の平戸城は、観光平戸の代表する建物だが、その平戸城と城下に架かる橋は、平戸を代表する文化財。重厚感たっぷりに、今も現役の橋として利用されている。その橋の近くの手すりに外人像が乗っかている、橋の名称にちなんでオランダ人をイメージしているのだろう。(たぶん)(松浦史料博物館)天文19年(1550年)のポルトガル船の来港を皮切りに、平戸領主・松浦隆信(まつらたかのぶ)はこれを歓迎し、ポルトガルとの南蛮貿易を積極的に推進。鉄砲や大砲、火薬、生糸、絹織物、香...オランダ橋の外国人

  • 親鸞

    場所・京都府京都市東山区五条橋東大谷本廟あの時代の90歳は、今でいえば110歳くらいだろうか?すべてにおいて、常人とはスケールがまるっきり違っている。親鸞鎌倉時代の初期から中期には、六つの宗教が、それぞれ三つの救いをひっさげて宗教活動をおこす。つまり、念仏(なむあみだぶつ)と、禅と、題目(なんみょうほうれんげっきょう)の三つの救いを説く。念仏によって幸福になれるのだという立場が、法然・親鸞・一遍。禅は栄西、道元。題目による救いは日蓮がとく。この6人の教祖の流れから浄土宗、真宗、自宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗が形成される。叡山というのは鎌倉仏教の母体になっています。親鸞は叡山で一介の役僧を20年間いやというほど体験する。関東でも20年、農民の中で生活している。越後で7年。越後で結婚する。最期まで責任を持つ、納得のい...親鸞

  • カレーの市民

    場所・岡山県倉敷市倉敷美観地区「大原美術館」ブロンズ作者ロダン像高200cmロダンの名作『カレーの市民』、6人のうちのジャン・デール。英仏100年戦争のフランス、カレー市の義民。大原美術館の入り口右側に建っている。このロダンの像があることに寄って、大原美術館へ入館する際のモードが一層あがる。撮影日・2019年11月22日カレーの市民

  • 徳川家康 (駿府城)

    場所・静岡県静岡市駿府城跡「人の一生は重荷を負ふて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし。心に望み起こらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝つことばかりを知りて負くることを知らざる害その身に至る。おのれを責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるにまされり」東照宮御遺訓「近世の日本」高尾一彦講談社現代新書昭和51年発行徳川家康関ケ原の戦い秀吉は朝鮮侵略の最中に死んだ。誇大な妄想におちいった専制君主が死ねば、朝鮮侵略が妄想の産物であることはだれの目にもあきらかだったから、いそぎ撤兵することになった。日本の政治的課題は、秀吉のなきあとの天下統一を、だれがつぐかであった。この時点で政局を担当していたのは、秀吉の長老の大名たる五大老である。つなわち、徳川・前田・宇喜多...徳川家康(駿府城)

  • 徳川家康 (浜松城)

    場所・静岡県浜松市浜松城跡”出世城”として知られる浜松城。家康はこの地を引馬から浜松と改め、この城を拠点にして五か国の大大名となった。「家康最後の勝利者」土橋治重成美堂昭和57年発行信康自刃「武田勝頼は勢力が落ちたといっても、四か国を領有するわれらの大敵。信長公とは一戦を交えるどころか、その後ろ盾がなくては、徳川は家をたてていくことさえできぬ」信康は21歳、築山殿は37歳で死んだ。五か国の大名になる本能寺の変の後、甲斐と中、南信濃を手に入れることができた。五か国のその石高は140万石にのぼった。小牧長久手秀吉は光秀を滅ぼした後、柴田勝家を敗死させ、丹羽長秀を逼塞させた。さらに滝川一益を降伏させた。二男の信雄が家康に泣きついた来た。合戦は池田恒興父子、森長可が戦死した。対陣が長くなり、両軍は引いた。後に頼山陽が「...徳川家康(浜松城)

  • 家康公・竹千代像ベンチ (岡崎)

    場所・愛知県岡崎市康生町岡崎公園家康は、天文11年(1542)、三河の土豪・松平氏の宗家8代目目に当たる岡崎城主・松平広忠の長男として生まれた。信長は8歳秀吉は5歳であった。母は三河刈谷城主・水野忠政の娘で於大(おだい)といった。家康3歳の時、於大の父・忠政が病死。その子信元が跡を継ぐ。この信元が西の隣国・織田信秀と友好関係を結んだ。於大を離縁し、実家に追い返した。なさけない話だが、それほど今川と松平には力関係に差があった。はるか後年、今度は自分も信長に脅されて妻と長男を棄てるのである。「家康に訊け」加藤廣新潮社2019年発行岡崎市公式サイト「岡崎公園」家康公・竹千代像ベンチ徳川家康公はここ岡崎で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。このベンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、...家康公・竹千代像ベンチ(岡崎)

  • 源義経対平知盛像

    場所・山口県下関市みもすそ川町みもすそ川公園建立・2004年(平成16年)敗戦を悟った平知盛が、碇の綱を体に巻きつけて入水しようとする「碇潜」(いかりかずき)と、敵の攻撃を華麗にかわす義経の「八艘飛び」のシーン。宙に舞う義経の甲冑や、怒れる知盛の表情など、見どころ満載な銅像である。「日本の銅像完全名鑑」平知盛見るべきほどのことは見つ午後3時、関門海峡の潮の流れが変わった。朝のうち、平家方有利のちに展開していた戦いは、これを境に一変する。潮に乗って疾風のように寄せる源氏の白旗。今や平家の敗色は明らかであった。新中納言知盛の卿、小舟に乗って御所の御船に参り、「世のな中、今はかうと見えて候。見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ」とて、艫(ともへ)に走り回り、掃いたり、拭うたり、塵拾ひ、手づから掃除せられけり。女...源義経対平知盛像

  • アーサー像

    場所・兵庫県神戸市灘区六甲山町この像は「アーサー像」と呼ばれ、英国人「アーサー・ヘスケス・グルーム氏之像」が正式名の像。アーサー・ヘスケス・グルーム氏は”六甲山を開いた開祖”とか、日本にゴルフを始めて持ち込んだ人と紹介される。神戸市では、市の功労にちなんで毎年”グルーム祭り”を開催しているそうだ。(Wikipedia)アーサー・ヘスケス・グルーム1846~1918は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイングランド出身の実業家。六甲山の開発と景観保護に力を注いだ。にぎわう六甲山、ゴルフ場ふきん。2016年12月3日アーサー像

  • 函館四天王像

    場所・北海道函館市元町函館の旧市街地の高台に”元町公園”があり、そこにはペリー提督によって、函館が開港し、北海道の開発と、国際都市化の新しい時代の開拓者4人の像がある。(Wikipedia)元町公園函館山山麓にある基坂の突当りに位置し、函館港を一望することができる。1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道と改称し、箱館も「函館」となった。江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所であり、旧北海道庁函館支庁庁舎には開拓使函館支庁、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれ、政治の中心地であった場所でもある。元町公園を含む函館西部地区の町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」「函館市西部地区歴史的まちなみ保存環境美化促進地区」に選定されている。【函館市公式観光情報】(向かって左から)今井市右衛門(石川県能登出身)1836~188718...函館四天王像

  • 一松 定吉

    場所・大分県杵築市大字南杵築一松会館城下町・杵築は坂・海・城・川の街並みが素晴らしい。武家屋敷が並ぶ高台に旧一松(ひとつまつ)邸がある。一松定吉先生は、大阪で法曹・政治を長くつづけた。昭和17年の、いわゆる”翼賛選挙”では、非推薦の当選者になった。(Wikipedia)一松定吉1875年、大分県西国東郡美和村(現・豊後高田市)に生まれる。明治法律学校(現・明治大学)を卒業し長崎、大分、横浜、大阪などでの検事を経て、大審院検事をつとめる。1920年、弁護士に転じる。1928年、大阪1区から第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で出馬し初当選、1947年の第23回衆議院議員総選挙まで連続8回当選を果す。第1次吉田内閣の国務・逓信大臣、片山内閣の厚生大臣、芦田内閣の建設大臣、日本進歩党の幹事長等を歴任した。1949...一松定吉

  • 帆足萬里

    場所・大分県速見郡日出町日出城跡大分県には江戸時代、小藩が多くあり、2万5千国の日出藩から帆足万里という傑出した人が出た。(ひじまち観光情報公式サイト)豊後三賢のひとり帆足萬里(1778~1852)帆足萬里(ほあしばんり)は、三浦梅園(みうらばいえん)・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者で、教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。彼は、安永7年(1778)、日出藩の家老・帆足通文の三男として、日出城下三の丸に生まれました。豊岡小浦の脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地を出ることなく独学で研鑽に努め、十数部の蘭書を読みこなすなどして、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていました。萬里の学識は西欧の諸学者に比肩するものであったといわれま...帆足萬里

  • 佐藤義亮

    場所・秋田県仙北市角館町「新潮社記念文学館」新潮社の創業者・佐藤義亮氏が、この町の生まれ。こうゆう古都からこのような文化人が出るのもふさわしい、と思ったりもする。(Wikipedia)佐藤義亮明治11年(1878年)~昭和26年(1951年)73歳没出身・秋田県仙北郡角館町新潮社の創立者。雑誌「新潮」を発行した。(新潮社のHPより)佐藤義亮さんをご存知でしょうか?佐藤義亮さんは、新潮社を創立するにあたって、「自らの気持ちに反する書物を世に出すことは死んでもするな!」と語っておられます。これ、経営理念そのものですね。ビジネスの現場では時に理不尽な要求があったりします。中には脅し文句や豪華な見返りの代わりに自分達に都合の良い記事を書くように迫られることもあるでしょう。しかし、佐藤義亮さんはこれらの要求に決して屈しな...佐藤義亮

  • 岡山県知事・三木行治(桃太郎知事)

    場所・岡山県倉敷市福田町古新田水島緑地福田公園・三木行治園ブロンズ作者富永直樹像高350cm台高80cm昭和63年12月岡山市出身(明治36~昭和39年)選挙での岡山県知事は、西岡・三木・加藤・長野・石井・伊原木と6人いるが、”桃太郎知事”と呼ばれたのが三木知事。なぜ桃太郎知事と呼ばれたんだろうなあ?大手饅頭知事ならわかる。「岡山の歴史」柴田一岡山文庫昭和49年発行三木行治岡山県知事(昭和26~39年)在任中水島臨海工業地帯の開発に努め「名知事」と謳われた。昭和26年第2回県知事選で西岡知事を破って当選したのが三木行治である。”私なき献身”と”清潔”さでひたむきな情熱を注ぎつづけた13年余りの県政のねらいは、農業県であった岡山県を一挙に工業県に飛躍させることであった。「わが国の今後のあり方が、その多くを工業力に...岡山県知事・三木行治(桃太郎知事)

  • 菅原道真 (徳島)

    場所・徳島県徳島市眉山町天神山眉山天神社菅原道真公を祀った神社数は、万を超えるから、その銅像も全国に多々あるはず。このブログでは、徳島市の眉山ロープウェイ駅前にある菅公像を代表して載せる。天神様八百万の神々のうち、天神様ほど日本人に親しまれた神様は珍しい。天満天神。この神様の正体こそ、平安王朝の花開いた9世紀の末から10世紀初めにかけて、たぐいまれな才能を持ちながら、悲劇的な最後を遂げねばならなかった文人政治家、菅原道真である。道真は儒学の学者の家柄で、血筋を受けて、少年時代から当代随一の秀才という呼びこえが高く、官僚として順調な出世コースを歩いた。昌泰2年(899)55歳の道真は、右大臣右大将となり、ライバル藤原時平は左大臣・左大将になる。昌泰4年、道真57歳、太宰府へ左遷。延喜3年(903)59歳の人生を閉...菅原道真(徳島)

  • 浦島太郎 (鳥羽)

    場所・三重県鳥羽市鳥羽港(鳥羽湾めぐり観光船)浦島太郎は、絵本と童謡で、誰でも知っている。子どもの時には、海の中の竜宮城へ行って、呼吸はできるんだろうか?玉手箱を開けると若者が老人になる、その”変身”ぶりに驚いたり、めでたし・めでたしで終わらないので、最後がすっきりしなかったり。隣の市(といっても、海を隔てた)、香川県三豊市も浦島太郎伝説で有名。荘内半島の先端ふきんをドライブすると、浦島太郎の物語の雰囲気を感じる。今も静かな浜辺の漁村は、時代の変化をあまり感じさせない魅力がある。ここ三重県の鳥羽市では、観光船の船主に、飾りで浦島太郎がついている。デッキには乙姫様やタイやヒラメもいる。浦島太郎伝説は鳥羽市にはないはずだが、こと鳥羽観光に、少しでも役に立つとなれば利用したという感じ。見て違和感はない。撮影日・201...浦島太郎(鳥羽)

  • 浦島太郎 (長崎鼻)

    場所・鹿児島県指宿市山川岡児ケ水長崎鼻浦島太郎さんといえば、「むかし丹後の国の水江に」住むはずだが、ここは「薩摩の国の長崎鼻」。そういえば、笠岡市の対岸になる香川県荘内半島の突先(三崎)も浦島太郎で知られている。なら鹿児島県にも浦島太郎伝説があってもいいし、ついでに、ウミガメの来る浜は、日本全国みな浦島太郎伝説あり?長崎鼻はよく知られた観光地なので、浦島太郎さんなんか邪魔な気がするけどな。はじめて行った頃は「南国情話」が流れて、南国のムードがあった。(沖縄は米領だった)砂浜や開聞岳や竹島、吹く風も、波音もみなよかった。映画もよかった。小林旭と浅丘ルリちゃんの「アキラのズンドコ節」、西郷輝彦と本間千代子の「十七歳のこの胸に」も長崎鼻が重要なシーンで登場する。今もユーチューブを見ながら歌っている。撮影日・2013年...浦島太郎(長崎鼻)

  • モアイ

    場所・香川県高松市女木島南太平洋の孤島にチリ領イースター島があり、モアイの巨像で有名。イースター島には大小で9.000体のモアイがあるそうで、香川県にも1体のモアイがある。当然レプリカだが、実物とほぼ同じものだそうだ。モアイは女木港の近くにあるが、港に近い集落はオオテと呼ばれる石垣が有名。防風防潮用が目的だが、その高さと頑丈さは貴重な民族遺産と思える。撮影日時・2007年8月16日モアイ

  • 鬼 (鬼ヶ島)

    場所・香川県高松市女木町(女木島)ここは鬼ヶ島。鬼が住むのは洞窟の中。鬼は島で平和に暮らしていたが、ある日突然、不法侵入してきた桃太郎たちに攻め込まれた。また、別の話もあり、鬼は人さらいをしたり、金銀を盗む悪さをしていたので、正義の桃太郎さんに攻められた。伝説は各地いろいろあるが、桃太郎を”日本一”と呼称さすならば、悪を退治したという部分が必要になり、また女木島の鬼を、「桃太郎伝説」にリンクさすなら、不幸にも女木島の鬼は、「悪い鬼」になってしまう。鬼が住むのは”鬼ヶ島大洞窟”とよばれ、鷲ヶ峰の山頂ふきんにある。鷲ヶ峰からは、瀬戸内海のすばらしい景観を眺めることができる。↓撮影日時・2007年8月16日鬼(鬼ヶ島)

  • 鬼 (別府温泉)

    場所・大分県別府市別府温泉日本を代表する温泉地、別府市。こまかいことを言えば、「別府温泉」は存在していない。八つの温泉の総称を別府温泉と呼んでいる。たしか霧島温泉もそうだったな。別府温泉には鬼がいる。これは「鬼山地獄」の赤鬼。立っているのでなく腰かけている。「かまど地獄」の鬼。こちらは顔出しパネル、「血の地獄」。別府の温泉は最高。見てよし。香ってよし。はいってよし。草津もいいけど、別府が日本一だな。撮影日・2013年2月21日鬼(別府温泉)

  • 鬼 (鬼ヶ嶽温泉)

    場所・岡山県井原市美星町鬼ヶ嶽温泉鬼ヶ嶽”温泉”は無くなった。もう30年以上も前に。町営施設や旅館が並んでいたけど、みな閉店した。今は渓谷に残った秋の紅葉が見事。そして温泉地の看板だった鬼が、県道を走るドライバーを無言で見ている。撮影日・2004年11月20日鬼(鬼ヶ嶽温泉)

  • 鬼 (茶屋町)

    場所・岡山県倉敷市茶屋町JR茶屋町駅前茶屋町の鬼は知らなくても、倉敷の美観地区でのイベント(ハートランド倉敷、倉敷天領祭り、など)によく登場するのが茶屋町の鬼。般若面の鬼が多い、下駄を履いている。【文化遺産オンライン】茶屋町茶屋町鬼保存会茶屋町と言えば鬼、鬼と言えば茶屋町と言われるくらい、茶屋町の秋まつりは鬼で有名です。言い伝えによると250年も前から茶屋町のお祭りに氏神様をお守りすると言うことから出るようになったと言われています。恐ろしいと言った鬼ではなく、どこかひょうきんな憎めない雰囲気を持った可愛い鬼だと言われています。戦後の昭和30年を過ぎたころから、その姿を消していきましたが、昭和50年に発足した茶屋町の鬼保存会の手によって、再び鬼まつりの復活となりました。鬼祭り開催日毎年10月第3日曜日撮影日・20...鬼(茶屋町)

  • 犬養木堂

    場所・岡山県岡山市北区吉備津吉備津神社前ブロンズ作者朝倉文夫像高300cm台高700cm昭和9年犬養木堂顕彰会建立(戦時中の昭和18年に「銅像の出陣」で供出されたが、戦後再建)犬養木堂先生は、岡山県が生んだもっとも高名な政治家。典型的な井戸塀政治家で、長い政治人生の最後に首相になり、首相のまま人生を終えた。木堂先生の中国政策が成功すれば、15年戦争の終息の可能性があった。(軍とテロの狂気の時代で、その可能性は極めて少なかっただろうが)犬養毅犬養には常に毀誉褒貶がつきまとった。第一次憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに「憲政の神様」とあがめられた。犬養の演説は、聞く者の背筋が寒くなるような迫力があったという。その犬養が藩閥政権である寺内正毅内閣の外交調査会に入ったものだから、たちまち「変節漢」の悪罵を浴びた。「神様...犬養木堂

  • ライオン宰相浜口雄幸

    場所・高知県高知市五台山「五台山公園」浜口首相は歴代総理でも指折りの高貴な人と思えるが、不運な首相でもある。首相在任時期が世界不況と重なったこと。岡山へ発つとき、東京駅で銃撃され退陣(その後死亡)したこと。「首相列伝」学習研究社2003年発行浜口雄幸官僚出身ながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さもあいまって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相が、浜口雄幸である。浜口が政治家として過ごした大正から昭和初期は、激動の時代だった。この激動を乗り切って首相の座に登りつめたのは、浜口の実直さや正義感、頑固さを高く評価して彼を押し上げたいった周囲の政治家・財界人たちの期待の結果である。浜口は大蔵省入省、その後有能さを後藤新平が財界入を口説き、さらに政治家となってからは加藤高明が自身の腹心として重用...ライオン宰相浜口雄幸

  • 原敬

    場所・岩手県盛岡市内丸県公会堂前「岩手県の歴史」森嘉兵衛山川出版社昭和47年発行原敬安政3年(1853)、岩手郡本宮村に生まれる。井上馨に知られ外務省にはいる、中国・フランスに駐在、その才能は広く内外に知られたが、大隈外相とあわず農商務省に移り、ここで陸奥宗光に知られ局長となり、日清講和会議の当時は次官に登用された。しかし大隈が外相となるや辞任し、野にくだり大坂毎日新聞編集長となり、特異の論陣をはって毎日新聞の紙価を高めた。明治33年、伊藤博文政友会を創立するやまぬかれて幹事長となり、伊藤内閣の逓信大臣に任ぜられた。36年盛岡より衆議院議員に当選し、この地区は模範選挙区と称せられるにいたった。以来、内務大臣となること3回、大正6年政友会総裁、大正7年原内閣を組織し、大正10年11月4日、東京駅頭で中岡良一のため...原敬

  • 池田勇人

    場所・広島県広島市中区上八丁堀戦後の首相の中でも、もっとも庶民性や信頼感があるように見える首相だった。人気度も高かった、または野党からも敵が少ない政治家だった。国内が安定し、経済成長いっぽんの内閣だったが、いい時代に首相をつとめ、最期は東京オリンピックの成功を見ながら政界を去った。幸運な人生の人であり、国民も経済成長の恩恵を受けた。池田勇人忠海中学→5高→京都帝大→大蔵省→大蔵省事務次官(昭和22年)→衆院議員(昭和24~)。昭和24年吉田内閣の蔵相に抜擢された。「中小企業の一部倒産もやむをえない」(昭和25年)「貧乏人は麦を食え」(昭和25年)と発言。昭和29年自由党幹事長。昭和31年、蔵相。昭和34年、通産相。昭和35年、5月安保騒動。昭和35年、首相。昭和35年9月、「所得倍増計画」が閣議決定。月給を2倍...池田勇人

  • 山県有朋

    場所・山口県萩市萩・中央公園制作・北村西望設置・1920年参謀本部(東京)1992年現在地に移設山県有朋天保9年(1838)~大正11年(1922)もと長州藩士。西南戦争を鎮定。明治の軍制の確立に努める。22年、31年首相。長州軍閥の長老として強大な実力をふるった。その像も東京の参謀本部にあったが、撤去され上野に放置、昭和37年に北村西望のアトリエ近くの井の頭自然文化園に建立されたが、平成4年出身地である萩市に移設された。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「首相列伝」学習研究社2003年発行山県は、槍持ち中間の子に生まれ、幼少のころの夢が槍術師範になることだったから、さして期待されなかった。しかし、山県の85年の生涯は、不思議と強運に恵まれた。四国連合艦隊との戦闘では、水をくもうと腰をかがめた時、一弾が...山県有朋

  • 大内弘世騎馬像

    場所・山口県山口市制作・作者不詳設置・昭和55年大内弘世?~1380南北朝時代の武将周防の豪族出身、正平18年(1380)ごろ、幕府と和し、周防・長門両国守護となる。私貿易で巨富を得たらしく、将軍近臣以下に銭貨や唐物を与えたという。本拠を大内村から山口に移し、山口発展の基礎を築いた。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行(ニコニコ大百科)大内弘世(?~1380)とは、南北朝時代から室町時代にかけて活躍した武将である。1358年には隣国長門に侵攻し、北朝守護の厚東義武を九州に追い落として制圧したのである。幕府は大内弘世に周防だけでなく長門守護職も認め、1363年に彼を恭順させることに成功したのである。同年には山名時氏も幕府に帰順し、西国が幕府の勢力圏へと再び変じたのである。こうして周防・長門をおさめた大内氏で...大内弘世騎馬像

  • 紙本栄一先生像

    場所・山口県山口市(瑠璃光寺五重塔前)先生は、「居合道の神様」と呼ばれた人。(Wikipedia)紙本栄一かみもとえいいち1903年(明治36年)~1995年(平成7年)日本の武道家。段位は居合道範士九段、剣道範士八段、銃剣道教士七段。居合の流派は夢想神伝流。「剣居一体」を唱え、全日本剣道連盟居合の制定に尽力した。受賞勲五等双光旭日章撮影日・2014年7月12日紙本栄一先生像

  • 平櫛田中

    場所・岡山県井原市西江原町西江原小学校平櫛田中は、明治5年、岡山県後月郡西江原村に生まれた。管理人の母は西江原の生まれで、祖父母や叔父が住んでいた。晩年の叔父は「田中(でんちゅう)には負けん」というのが口癖だった。田中先生は郷土の人にとって、芸術文化の誇りであり、長寿の目標でもあったようだ。田中先生の言葉は日本人に愛される格言になった。いまやらねばいつできるわしがやらねばたれがやる六十七十ははなたれこぞうおとこざかりは百から百から叔父は田中先生の寿命に追いつく勢いがあったが、結果は98歳で亡くなった。母も、たぶん目標にしていたと思が、母は95歳で亡くなった。叔父も、母も、長生きできたのは田中先生長寿のおかげ、も少し感じる。撮影日・2018年11月25日平櫛田中

  • 六代菊五郎鏡獅子

    場所・岡山県井原市井原町田中苑ブロンズ作者平櫛田中像高180cm台座130cm昭和49年建立岡山文庫現在の菊五郎(=藤純子の夫)は八代目。六代目はお祖父さんになる。井原市の田中美術館には、猿股一枚でポーズをとる六代目の木彫り作品が展示されている。田中(でんちゅう)さんも六代目も、この作品に向き合う真剣な姿が、見る人に感動を与える。”でんちゅうくん”は井原市のゆるキャラだが、名称から田中先生の姿のはずだが、ゆるキャラの実態は”鏡獅子くん”になっている。撮影日・2016年11月16日六代菊五郎鏡獅子

  • 岡倉天心 (井原)

    場所・岡山県井原市井原町田中美術館~五浦釣人(ごほちょうじん)~ブロンズ金色塗作者平櫛田中(昭和45年)像高220cm台高140cm五浦(いづら)には3度ほど行ったことがある。五浦の前は大海原で、その水平線の先にアメリカがあるのを実感できる。天心先生お気に入りの地というのも、わかるような気がする。断崖から太平洋を望む景色はすばらしいが、平和なことばかりでなく、隣に位置する平潟港では、戊辰戦争で官軍が上陸し奥羽越列藩同盟の磐城藩を攻撃した。太平洋戦争の時は、風船爆弾がこの地からアメリカに無差別攻撃で飛んだ。「歴史よもやま話下」池島信平編文春文庫1982年発行五浦五浦に行きますと、六角堂というのがありまして、これは天心さんの屋敷から先がすぐに海に面していて、断崖になっていて、断崖の中腹が六角堂という、夢殿にあやかっ...岡倉天心(井原)

  • 岡倉天心 (福山)

    場所・広島県福山市JR福山駅前~五浦釣人(ごほちょうじん)~平櫛田中1975年福山市民から「つりびと」とか「つりびとぞう」と呼ばれ親しまれている、平櫛田中作の「五浦釣人」像。最初は駅の真ん前に置かれていたが、何度か移動した。今は駅前というより駅西の感じだが、それでも駅前での待ち合わせ、となると「つりびと」となる。「歴史よもやま話下」池島信平編文春文庫1982年発行岡倉天心天心の父は越前福井の藩士でした。16歳で東京帝国大学文科大学に入学し、当時東大の外人講師だったフェノロサは、哲学、政治学なんか教えていました。卒論を2週間で美術論をデッチあげた。このことが、後年の天心の人生コースをきめる機縁になりました。天心は英語がよくでき、フェノロサの通訳を兼ねていました。フェノロサは日本美術が新鮮で、物珍しさもあり、もう一...岡倉天心(福山)

  • 山鹿素行

    場所・兵庫県赤穂市赤穂城跡制作・作者不詳設置・昭和33年山鹿素行1622~1685江戸前期の儒学者・兵学者。会津生まれ。官学である朱子学を批判したため、播州赤穂藩に流される。配流中に藩主や重臣に尊敬され、この間に素行の学問を代表する著を完成している。「日本の銅像」金子治夫淡交社2012年発行「日本史人物列伝」奈良本辰也徳間文庫1988年発行山鹿素行義士の行動に大きな影響を与えた山鹿素行は、軍学者であるとともに、すぐれた儒学者であった。官学である朱子学を批判して古学を唱導したために、赤穂の浅野家に預けられ、そこで配所の月を眺めながら長年月を過ごしたことがあった。その時、家老であった大石家とはとくに交友が深く、内蔵助にも大きな影響を与えていたと思われる。素行が唱えた武士道は、江戸時代の武士の経典にように信じられたが...山鹿素行

  • 大石内蔵助

    場所・兵庫県赤穂市赤穂城跡日本人がいちばん好きなお話の一つ「忠臣蔵」。映画の大石内蔵助では片岡千恵蔵、松本幸四郎、長谷川一夫の印象が強い。「教養人の日本史3」脇田修現代教養文庫昭和42年発行赤穂浪士元禄14年(1701)松の廊下から1年10ヶ月をへた翌年12月14日、元城代家老大石良雄を首領とする赤穂浪士の一団が吉良邸に討ち入り、義央の首をあげるにいたって、この赤穂事件は、大きな波紋をよぶことになった。赤穂浪士の行動は、賛否両論にわかれた。多くの者は、元禄大平の世に主君の仇を討ったことは、武士道の精華と賛美した。幕府は、忠の奨励と、彼らが徒党を組み邸内に乱入し、明らかに法を破ったことの板挟みになって苦慮した。結局、名誉ある死、切腹を賜うことに処分を決定した。切腹の直後、早くも芝居が上演され、やがて「仮名手本忠臣...大石内蔵助

  • 定山和尚

    場所・北海道札幌市南区定山渓温泉(Wikipedia)美泉定山みいずみじょうざん、文化2年(1805年)-明治10年(1877年)11月4日)は、備前国(現在の岡山県)出身の僧侶である。のちに北海道に渡って広く布教活動を行った。札幌市南区の定山渓は、彼の名に由来する。「美泉」という苗字は明治初期の法律に従うため、定山があえて作った姓である。撮影日・2014年2月5日定山和尚

  • 浅原才市

    場所・島根県大田市温泉津温泉津温泉温泉津(ゆのつ)は”ひなびた”感じがする温泉街としては、日本一のような気がする。町は重伝建にも指定されている。その温泉津の温泉街に浅原才一という詩人の像がある。信仰の詩を人生の後半に書き続けていたそうだ。如来の御姿こそかかるあさましきわたしのすがたなりなむあみだぶつなむあみだぶつ(響流山勝福寺)~念仏生活を妙好人に学ぶ~浅原才市さん才市さんは、石見の国温泉津町小浜に、嘉永三年(一八五〇)二月二十日に生まれました。アメリカの使節ペリイが浦賀に来て開国を迫った年でした。十一才の時に両親が離婚、才市さんは母に連れられて実家に帰りました。やがて母は再婚。才市さんは、十一歳で大工の弟子として年期奉公に行き、二十歳の頃には船大工の職を持ちました。酒や賭博など荒っぽい生活をしていました。四十...浅原才市

  • 野網和三郎(ワーサン)

    場所・香川県東かがわ市引田安戸池内湾でのハマチ養殖を始めた人。地元漁業者では大功労者、偉人。【引田業業協同組合】より香川県の引田では昭和3年、内湾を堤で仕切った安戸池において、野網和三郎氏が世界で初めてブリ(ハマチ)を養殖することに成功しました。引田漁業協同組合では、その技と経験を活かして、天然に近い良い環境と独特の手法で育て上げたブランド魚「ひけた鰤(ブリ)」を皆様にお届けします。養殖業の始まり引田漁業協同組合における魚類養殖の歴史は、1928年(昭和3年)に野網和三郎(ワーサン:和三郎の愛称)が安戸池でハマチ養殖に成功したときから始まります。地元引田の網元の3男であった和三郎は、当時の漁師の厳しい生活とその将来について、強い危機感を持っていました。当時、瀬戸内海の漁業は、昔ながらの漁法でタイやサワラを獲って...野網和三郎(ワーサン)

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