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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 行商人・金光町

    金光町に来ないが、茂平に来ていた行商人を思う浮かべると鍬と鎌の行商人”かまかいなー”の小父さん。「鎌を買いなー」と弁慶の七つ道具よろしく、全身に鍬と鎌を付けていた。鞆から来ていると聞いてた。屑鉄商人道に落ちた釘などを集めて、小父さんがくると売っていた。手にした天秤ばかりで計量し、5円ほどもらっていたような気がする。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行農山村の多くは、道も悪くて日用品を買うにも歩いて一日がかりの仕事になるところもあった。この不便さを補ってくれたのが行商である。魚売り、昆布売り、小間物売り、塩売り、油売り、金魚売りと季節に応じて行商が来ていた。玉島や笠岡から来ていた小間物売りは七段の引き出し付きの箱を天秤で担ぎ、草履履きで「ご用はありません...行商人・金光町

  • 行商人・大津野村野々浜

    行商人が来るのは楽しかった。たいていが徒歩で、天秤棒か風呂敷を背負っていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行より転記福山や尾道から大きな荷を背負ったおばさんらが汽車に乗り、大門駅で降りては村内を売りに歩く。持ってくるのは干物やいりこ、鮮魚、野菜とかだ。引野や用之江の方からは呉服屋や雑貨屋が来る。行商人たちの荷の運び方は、自転車に積む者、籠に入れて背負う者、てんびん棒に下げる者など様々だった。この頃は行商人から買う方が多く、町に買い物に行く機会は少なかった。百姓の仕事が忙しい中で、汽車賃まで使って町に買い物に出るのはたいぎだが、行商人なら居ながらにして買える。行商人は、一軒一軒たずねていた。どこの家も良いお得意だし、その頃は家がまばらで大声をあげ...行商人・大津野村野々浜

  • 満蒙開拓団③浩良大島開拓団

    笠岡市史には「浩良大島開拓団」は昭和20年8月23日、博多に上陸。と記されているが、いかにいっても、8月14日に佳木斯を出発し8月23日博多上陸は無理がある。博多は昭和21年だろうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「笠岡市史第三巻」平成8年ぎょうせい発行零細な農地と、低い生産性の苦悩で村長は「もっと多くの農業生産によって国家にご奉公せねばならぬ。急々にも300戸分村を満州に行うの要あり」昭和15年11月、分村決議をした。昭和16年1月16日、先遣部隊20名が満州東北部ソ連国境に近い佳木斯(じゃむす・ちゃむす)の北西に位置する所に出発した。昭和16年4月1日、「第十次浩良大島開拓団」とした。先遣隊20名は8名に減じた。昭和19年5月5日、国民学校ができた。生徒数高等科までで9人。赤痢が大流行した。後続の...満蒙開拓団③浩良大島開拓団

  • 満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

    「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集ぎょうせい平成3年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・元阜新芳井開拓団団長山本隆之第十三次阜新芳井開拓団の概要満蒙開拓団は昭和7年を第一次とし終戦の昭和20年第十四次をもって終末を告げた。芳井分村開拓団は昭和19年2月現地入植から、昭和20年8月15日終戦、収容所の生活を経て昭和21年5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、昭和21年6月2日芳井町に帰り、満洲開拓団としての集団生活は解かれたのである。昭和17年夏、1・芳井村分村が町会で分村移住が議決された。2・入植地も決定、開拓地400町歩確保、200世帯の分村開拓団を編成する。3・募集は芳井町を中心に、後月郡内から希望者を募集。4・できるだけ中堅青年および家族で結団する。5・本年中に、一部入植...満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

  • 岡山空襲75年・父の話

    当時父は軍隊へ三度目のご奉公中で、本土決戦の要員か、岡山陸軍病院に詰めていた。子供が1.5人いた。(0.5人は母のお腹にいた)今日は岡山空襲75年で、語り継ぐことの報道がなされている。このブログにも、その1ページを添えよう。昭和20年6月29日の未明、岡山市は空襲で焦土に。死者1700人余。・・・・・・・・・・・・(父・茂平の実家にて)父の話・2000年12月3日茂平の実家に帰った時に空襲が空襲の時は、茂平に帰っていた。茂平に帰ったその日岡山空襲があった。すぐ帰れ(多分電報だろう)というのですぐニギリメシを作って、リュックを背負い汽車に乗った。汽車で帰ったが倉敷からさきは汽車は動いてなく。あるいて陸軍病院までいった。おじいちゃんは運が得かった。死んだ看護婦もいるし、兵舎は焼けてしもうた。残ったのは(自分が持って...岡山空襲75年・父の話

  • 米騒動⑧米騒動100年

    「米騒動100年」北日本新聞社編集局2018年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おかかの叫び鍋割月(なべわりづき)かつて富山県東部の漁師町の人々は、夏をそう呼んだ。魚もほとんど揚がらない。からっぽの鍋を火にかけると割れてしまう。田畑を持たないその日暮らしの漁師にとって、一番苦しい時期だった。「夏は命が涸れる。餓死は当時、身近にあるものだった」。・・・以前から、この時期に米価が高騰すると、県東部では漁師一家をはじめとして下層社会の女性たちを中心に、米の安売りや、積み出し停止要求が幾度となく起きていた。いずれも哀願運動のようなもので、暴動や略奪ではなかった。ところが「高岡新報」が報じて以降、全国に米騒動情報をリードした。・・・明治後期になると、都市人口の増加や、農村にまで米穀消費が拡大したことにより、日本...米騒動⑧米騒動100年

  • 米騒動⑦岩波新書

    「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1918年(大正7)夏に、富山県西水橋町、東水橋町、滑川町、魚津町など日本海沿岸の人口一万数千人の中小都市に暮らす女性たちが、船で積み出される米の阻止を図り、集団で役場や詰所に押し掛けた。男性たちは、北海道や樺太に遠洋漁業に出かけており、女性が行動の担い手になった。女性たちの動きを地元の『高岡新報』が伝え、さらに『大阪朝日新聞』「大阪毎日新聞』が、高岡新報による「女一揆」として報じた。発火点夏場の端境期で米が品薄であった。シベリア出兵のため米の買い占め、売り惜しみがなされた。「物価騰貴」「生活難」という言葉が、雑誌や新聞に飛び交った。大戦景気で一定の向上が見られたときに、生活の下降が余儀なくされる。連鎖反応8月8日、岡山...米騒動⑦岩波新書

  • 米騒動⑥小田郡笠岡町その4

    「笠岡史談第14号」昭和50年木下タイプ発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・米騒動余聞笠岡の米騒動では篠井米店襲撃が知られているが、それより前、騒ぎ立てる民衆は、仁王堂・遍照寺の大師堂の前に何百人となく集合していた。米屋の暴利をつき、あそこへ行け!の野次の中で、土岐其らが演説していた。それ行け、という声で出陣、まず篠井店に行き、閉めていた入口を大八車で勢いをつけてやぶった。それから駅前の寺岡米問屋へ行ったが、米が無かったので、駅前・陸橋近くの内海米店へ向かった。ここで割り木を投げて入り込み、米をばらまいた。次に真入川筋の村上店に行ったが、うどん・米少々しかなく、話がついてあばれず、安売りですんだ。西浜の仲仕は笠岡町東の店々が得意先なので、大したことはしなかった。(芝勢氏談)米騒動⑥小田郡笠岡町その4

  • 米騒動⑤小田郡笠岡町その3

    「笠岡史談第13号」昭和50年木下タイプ発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(県警の禁止令で)では、その新聞に載らなかった事実を、古老に聞いてみよう。安那氏(77才)私が21才の時でした。西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。今から思えば篠井さんも気の毒でした。ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢...米騒動⑤小田郡笠岡町その3

  • 米騒動④小田郡笠岡町その2

    「笠岡市史第三巻」笠岡市史編さん室編平成8年ぎょうせい発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡の米騒動については、正確な動きは分からない。『岡山県郡治誌』によると、8月13日午後8時ごろ、「笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして午前5時に引き揚げた」とある。『岡山県警察史』にも、同一記事が載っている。『岡山県史近代Ⅱ」によると、8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。小田郡神島内村、同外村では、両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機とし...米騒動④小田郡笠岡町その2

  • 米騒動③小田郡笠岡町その1

    「岡山県社会運動史第三巻」水野秋著8月13日夜、小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ...米騒動③小田郡笠岡町その1

  • 米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

    「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・富山県の出来事は新聞に詳しく報道され、富山市や県内各地に伝染し、全国に波及してゆく。まっさきに反応したのは8月8日、岡山県真庭郡落合町。規模が大きく、深刻な衝撃をもたらしたのは、名古屋と関西の大都市での騒動である。京都8月10日夜、京都では”細民”層の死活問題となってきた。下京区柳原の住民が400人、「米屋をやっつけろ」と丸太やこん棒を手に押し出し、一行はみるみる千人近くふくらんだ。つぎつぎに米屋に押し込む。検事と警官隊が出動し、柳原町一帯は戦場のようになった。8月11日、西陣方面では、織物工ら2.000人が北野天満宮から「米を下げろ」と市中を練り歩いた。夜になると、あちこちの町で窮民がそれぞれ押し出し、混乱が全市に及んだ。...米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

  • 米騒動①”富山の女一揆”

    「日本の歴史14巻いのちと日本帝国」小松裕著小学館2009年発行・・・・・・・・・・・「東京朝日新聞」の米騒動の初報は、1918年(大正7)8月5日である。「200名の女房連が米価高騰で大運動を起こす」という見出しで、富山県中新川軍西水橋町で起こった8月3日夜の騒動の模様を報道した。この報道を皮切りに、西水橋・東水橋・滑川町の騒動が連日とりあげられた。富山の米騒動を全国紙が詳しく報道したことが、米騒動の全国的拡大に大きな役割を果たした。8月9日には、名古屋・京都・大阪・兵庫・高松・愛媛でも騒動が発生、その後西日本を中心に軍隊を出動させて鎮圧にあたらざるをえないほどの激しい騒動となった。炭鉱や鉱山、工場でも賃金値上げと共に米価引き下げが要求され、ストライキが発生して、一部は暴動化した。舞鶴では海軍工廠の職工2.0...米騒動①”富山の女一揆”

  • おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

    茂平は果物どころで、クドにくべる木は果物の木で、剪定や老木を割り木にしていた。木を割るのは祖父の仕事だった。父が山から丸太をもって帰るのは、シイタケの栽培用くらいだった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行より転記燃料集め日々の炊事の燃料は、木の葉や薪を使い、それをどの家も自給自足していた。持ち山がある家は、わが山の木で割り木をたくさんこしらえた。しかし、持ち山が無いものが大方だから、毎日山へ入って木の葉、それも重に松葉を集めた、昔の女の重要な仕事で、山に入らぬ日は無かった。風が吹いたと言えば、次の朝には夜も明けぬうちから起き出していったもんだ。だから、その頃はどの山もきれいだった。はるばる沖山から茂平にかけて在った大きな山まで取りに行く。野々浜の他に津之下の者もこ...おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

  • おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

    むかしむかし、おじいさんは山へ・・・、おばあさんは川へ・・・(桃太郎)茂平では川の洗濯を見たのは、おしめ。山への柴刈りは、ほぼ全ての家庭で昭和30年代の中頃まで続いた。日常風景だった。・・・・・・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行山仕事山仕事は、麦播きの終わった12月から、麦の手入れが始まる3月ごろまでの冬の仕事である。この間に1年分の焚き物を確保し、一部は売りに出した。自由採取林野に所有権はあるが、次の物は慣習として、自由に採取しても叱られることはなかった。落ちている松かさ、枯れ枝を集めたり、シャシャキ、ワラビ、ゼンマイ、木の実。コノハナデ松の落ち葉を木の葉(このは)とかマツゴという、自由採取のところもある。共有林では、風が吹いたら女の人は誘い合って掻きに行った。炊きつけに便利で売る...おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

  • 天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

    令和天皇に子がいるが、天皇を継承できない。明治天皇も大正天皇も側室の子だった。令和天皇には側室は不可能であるから、実子(愛子内親王)が継ぐのが普通だと思うし、それがグローバルスタンダートとも思う。21世紀の世に、子がいて継承できない制度が存在するのは日本の皇室典範くらいであろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「日本の歴史14巻いのちと日本帝国」小松裕著小学館2009年発行皇太子裕仁(のちの昭和天皇)は、1921年のヨーロッパ外遊でイギリスやオランダなどの皇室のありように、大きな影響を受けて帰ってきた。皇太子は女官制度の改革に取り組む。生まれた子供は里子に出さず自分の手もとで育てたい、一夫一婦制への強い意思があった。天皇家が一夫一婦制を採用することになると、当然後継ぎの問題が出てくる。①男...天皇制の内なる危機(一夫一婦制)

  • 明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

    「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・明治天皇は明治45年(1912)7月29日、午後10時43分、永眠した。59歳。死去は2時間ずらして、30日午前0時43分と発表された。30日、嘉仁親王は第123代の皇位に就いた。31歳。明宮(はるのみや)嘉仁親王、のちの大正天皇は明治天皇の第三皇子で、明治12年生まれ。生母は柳原愛子。正妻の美子皇后(昭憲皇太后)は子宝に恵まれなかった。明治天皇は五人の側室により15人の皇子、皇女をもうけた。しかし成人に達した皇子は嘉仁親王ただ一人で、10歳で皇太子となった。男子5人のうち4人が夭折し、女子は10人のうち4人しか成人しなかった。9月13日明治天皇の葬儀がおこなわれた。この日乃木希典が夫人とともに殉死した。明治45年7月29日から大正元年7月30日へ

  • 黒塗り教科書②川口小百年

    「川口小学校百年史」川口小学校正文社昭和63年発行より転記G・H・Q指令全国で昭和22年12月末に4.340人の教職員が不適格者として追放された。神道に関しては、神社参拝、祭式、鳥居の教材などすべてが禁止された。教科書は、終身・歴史・地理の授業即停止、教科書の廃棄。更に、国語・算数などの教科書の不適当な箇所を示して、教育現場の各学校に、削除あるいは修正を命じた。そこで児童は、その示されたヶ所を墨で塗って使用した。これが所謂「黒塗り教科書」である。削除修正例削除海軍のにいさん・菊の花・神だな・にいさんの入営・金しくんしょう・支那の子ども修正センチノニイサン→ニイサンオクニノタメニシッカリ→シッカリ黒塗り教科書②川口小百年

  • 戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

    「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館昭和52年発行昭和20年8月15日終戦隊内にありし御真影、軍人勅語其の他貴重な書類全部を焼棄せり。昭和20年11月1日米軍先遣隊10名飛行場に来る。翌2日、1.200名来り駐屯す。かつての大津野は、田が1300ヘクタール、畑が1900ヘクタールで農家平均耕作面積は50アールという零細農家であった。作付品目は全く多彩であった。除虫菊、はっか、麦はヤハズを多く実を取るほかに、麦稈を硫黄で漂白乾燥して麦稈真田を副業とする家庭がほとんどで、戦前は小学校で講習、競技会がもたれた。葉たばこの栽培も盛んで枢要な収入源。盛夏に、部落中一致団結して全家族があたった。甘藷、馬鈴薯の生産も盛んで特に、甘藷は戦後の食糧難時代貢献したものである。特産物としては大津野大根の沢庵漬があり、福山、尾道、呉、広...戦後の大津野・・・「ふる里のあゆみ」②

  • 野々浜の森池ができる頃

    「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館昭和52年発行・・・・・・・・・・・・・昭和12年8月27日午後11時本村に70名の充員召集令状来る。昭和14年村内の旱魃5月田植えの際はかなり池の貯水もあり、田植えも完了せるに、其の後天候引き続き旱天にて遂に出穂期にも降雨なく、肥料は殆ど全部に渉り施肥ずみなりしも出穂せず。野々浜、河口池掛及び其の他少々の収穫を得たり。全村にて91町歩の免租地を出せり。故に全村にて食料を一か年完全に食する家僅かに数戸なり。対策として土木事業即ち、池の修繕にて就労す。男一人1円20銭~1円30銭女一人80銭~90銭野々浜森池は此の年新たに築造されしと聞く。・・・・「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行森池昭和14年頃から工事が始まった。毎日50人位の地元の人が、朝の8時から晩の5時ごろま...野々浜の森池ができる頃

  • 大正15年12月

    おじ(父の弟)は、本当は昭和元年生まれだったそうだ。本人談。しかし城見村のような田舎でも、天皇崩御のため、出生届ははばかられた様子だ。(同級生に昭和元年生まれはいなく、昭和2年元旦生まれが多い)「大正時代」永沢道雄著光人社2005年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大正10年(1921)裕仁皇太子が摂政になってから、大正天皇は事実上の廃帝で、公式の行事にはいっさいでなかった。皇太子の”人気”が高まり国民との一体感が醸成されていった。大正13年頃はもう、おそらく「あー」「うー」と声を出される程度だった。大正14年5月の時は、もう歩行もできず。大正15年、12月16日から宮内省は逐次発表にふみきる。永井荷風は天皇の容体をつげる号外に暗然とする。毎日の飲食物や排泄物のいかんまで、なぜ詳報の必要があるの...大正15年12月

  • 池の水、全部抜く②金光町

    金光町史では毎年の行事のように書かれている。茂平でいえば「イナとり」と似ている部分が多い。・・・・・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行溜め池と漁撈金光町は、備中ひでりに対応するために灌漑用の溜め池が多く築かれた。溜め池の築造者はいずれも地元の庄屋である。横池秋の稲刈り前に溜池を干して魚とりをする。水の少なくなった溜め池で魚を突いたり、魚をたたき切ったり、網ですくって補採する。魚取りに使うテダマ網にも大小があり、大きいのは径70~80センチ、柄の長さ1.5m、網目30目ぐらい、自製の場合が多い。魚とりには、昔は触れ(通知・しらせ)を出していたが、現在はクチコミで、金光町近在の人が集まってくる。町民各自が漁具を持ってくる。池水を抜く9月上旬には溜め池から流れ出る溝川に網を張ったり、溝川にドジョウ網...池の水、全部抜く②金光町

  • 大正の暮らし

    管理人の家では昭和30年代前半まで醤油を作っていた。その部分は金光町よりも、相当遅れた農家だった。・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行醤油昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。塩塩は漬物などになくてはならないものであった。食卓には自家栽培の胡麻を混ぜて胡麻塩を作っておき、ご飯などに振りかけて食べていた。砂糖高価なもので、甘いものはご馳走であった。普段はめったに使うことは無かったが、祭りのサツマイモの天ぷらなどを作る際には購入して使用した。子供の間食店で売っているお菓子と言えば、煎餅(せんべい)やこんぺい糖、飴玉ぐらいで、大正時代には、二銭で大きな飴玉が四つ買えた。子供のおやつとはいえ、お菓子を買って食べることは...大正の暮らし

  • 味噌作り

    母は、「味噌を作らんと秋は終わらん」と言っていた。その作業は、味噌搗きを除き、すべて母一人での仕事だった。・・・・・・・「金光町史・民俗編」金光町平成10年発行米味噌と麦味噌の両方が作られていたが、終戦後だんだんと米味噌中心になった。庭が上がった(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。米味噌には小米を使うことが多かった。米(または裸麦)を蒸し、麹の素を混ぜ紙袋に入れた。藁で編んだおひつに入れてコタツに入れたり、風呂の湯を沸かし、蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。麹は味噌の花とも呼ばれた。カビがここまでという時に塩を混ぜ、カビがこれ以上生えるのを止めた。次に味噌用の五升も入る平釜で大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。麹と豆と塩は同じ量だけ三つ山にして混ぜた。昔は腐らないように塩は三合塩でからい味噌であった...味噌作り

  • 牛の飼育

    管理人の家では中学1年生ころまで、牛を飼っていた。下記の長船町とほぼ同じであった。「長船町史・民族編」長船町平成7年発行より転記する。・・・・・・・・・牛の飼育牛の餌牛の餌は通常一日三回で、特別に使役するときは四回与えることもあった。人間の食事より前に、まず牛に餌を与えていた。稲わらを飼い葉切りで三センチくらいの長さに刻み、水を含ませて軟らかくする。それに米ぬか・粉糖などを振り掛けて与える。米のとぎ汁や野菜の残り、おかずの残りなどシイダレを大鍋で煮立てたり、畔草や山草などの青草、冬には干し草などを与える。夕方には少量の屑米・カワ麦・ハダカ麦などの煮たてたものとか、組合で購入した大豆粕を水に浸したものを加えてやり、特に田ごしらえなど作業のきついときは、これら穀類を多くしていた。入れ物は、飼い葉桶とか、牛桶、ハンギ...牛の飼育

  • 井笠鉄道小平井駅

    井笠鉄道が廃止になったのは、昭和46年3月31日。あれから、半世紀が経った。(小平井駅・2016年ごろ)昨日散歩をしていたら、小平井駅が解体工事中で、ほぼ完了していた。(2020年6月21日・井笠鉄道小平井駅跡)井笠鉄道くらい楽しい乗り物はなかった。笠岡市や井原市や矢掛町や福山市神辺町の人たちにとって、見て可愛く、乗ってガタゴト、なつかしい記憶は永遠。大映映画「花の講道館ロケでは、長谷川一夫と山本富士子もこの駅にたった。今では、大映もなく、長谷川一夫もはるか以前に亡くなった。(2019年4月26日・井笠鉄道小平井駅駅舎)考えてみれば、動く井笠鉄道を見た人は若くて50代半ば。思い出を持つ人も減り、残った駅舎も消えていくのは定めか。さみしいものだ。井笠鉄道小平井駅

  • 満蒙開拓団①阜新芳井開拓団

    「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集ぎょうせい平成3年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・満洲開拓は、五族協和の旗のもと大東亜共栄圏の建設を実現するための、不可欠の大事業といわれた。昭和7年を第一次とし、昭和20年の第十四次をもって終末を告げた。皇国農村に指定された芳井町では、耕地面積も狭隘(きょうあい)であり、次男・三男対策の意義もあって、町役場・農会などの合議によって、満洲開拓は急に実現の方向に向かって団員募集が行われた。開拓者共通の悩みは、健康の管理、子弟の教育、開拓地の開発、現地に即した営農。私どもの入植地はすべて既耕地であった。平穏な暮らしであったが、今にして思うと農地の侵略によって入植した。阜新芳井開拓団の先遣隊が阜新に到着したのは、」昭和19年2月8日夕であった。終戦までの...満蒙開拓団①阜新芳井開拓団

  • シベリア大使・加藤拓川②松山市長時代

    「加藤拓川」成沢栄寿著高文研2012年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。「大物」「田舎」市長である。彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、松山城跡の払い下げがある、(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。・・・・・拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、援助を申し入れた。新田は私財50万...シベリア大使・加藤拓川②松山市長時代

  • シベリア大使・加藤拓川①悲劇の大使

    「加藤拓川」成沢栄寿著高文研2012年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年11月、パリ講和の首席特命全権委員の西園寺公望と原敬首相に要請されて、加藤拓川は代表団に加わった。日本の最大の目的は山東省の旧ドイツ権益の継承であった。連合国の一員である中国は返還を要求し、会議は紛糾した。日本の継承は認められたが、中国は調印を拒否した。帰国前、拓川は西園寺から「シベリア派遣大使」を相談された。1918年8月、12ヶ国連合軍による武力干渉が始まった。日本は以前から、東シベリア三州(沿海・アムール・ザバイカル州)に反革命のコサックの陸軍大尉セミョーノフらを支援して傀儡的な親日政権を画策していた。セミョーノフ軍には日本人「義勇軍」が多くいた。1918年8...シベリア大使・加藤拓川①悲劇の大使

  • 珍しい像(この人は誰だろう)

    この人物は誰だろう?場所は岡山県井原市芳井町の体育館前。もとは、青年学校や実業学校があった学校敷地内。羽織、袴で、ちょんまげあり。しかし、刀は差していない。像の台座に人物名なく、説明版もない。芳井町ゆかりの偉人(かつ有名人)に違いない。像の隣でゲートボール中の方に聞くと、あら不思議、「わからん」。知る人なし。図書館の郷土の偉人的な本をめくっても、似た人や、らしき人がいない。井原市役所にメールで人物依頼をすると・・・・・いろいろ(史家・教育者・故老等)の人に問い合わせた結果、おそらく「二宮尊徳」であろう、という返信を10日後にいただいた。管理人も、尊徳が浮かんだが、”袴姿”が尊徳のイメージ(脚絆姿)と違うので自分では没だった。市役所の方も、10日間調べて確信の返答でなく、可能性が高い、という回答だった。町の中央の...珍しい像(この人は誰だろう)

  • 子供の遊び

    みたどんかくれんぼ。見つけたら「みたどん」という。見つかった人が鬼に変わる。木の上に登って隠れると、鬼から逃れることがよくあった。ただし、夕暮れに始めた遊びは、暗くなっても木から下りれなかった。缶蹴りこれも、かくれんぼの一つ。鬼がいない隙に、おもいっきり大きな音が出るように缶をけっていた。缶カンカン(空の缶詰)に穴をあけ、ひもを通して、両足にカンカンを履いてあるく。それだけ。たこあげ奴だこをあげていたが、ひきずるので尻尾はちぎれるし、飛ばせばトウガキの枝にかかって破れ、たいてい2度ほどでおじゃんになっていた。それでも正月が近くなると毎年あげていた。こま小学の2年生くらいまで。男子は必ず体験する遊びだった。ゆきだるま雪だるまが可能なほど、雪が降ったことがない。へびつかまえたら、しっぽを持って振り回して遊ぶ子がいた...子供の遊び

  • 最後の日ソ戦・・・その7・喜劇的な悲劇

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本が最後の瞬間までソ連の好意を当てにし、対米英和平仲介に望みをかけたのは、喜劇的な悲劇というべきであろうか。スターリンが連合国首脳に対日参戦を公式に表明したのは、1943年11月テヘラン会談である。8月10日早朝、ポツダム宣言受諾通告を発電し、事態が急速に戦争終結に向かうと見るや、ソ連は8月11日樺太国境を越えた。千島方面はソ連軍がまったく作戦しておらず、米軍が盛んに作戦してきたところである。スターリンの要求によって、降伏受け入れの担任地域に入った。しかしポツダムにおける軍事会談で協議された米ソ作戦境界は、千島方面があいまいで、中千島を境界するという合意も存在した。8月14日深夜、日本政府がポツダム宣言...最後の日ソ戦・・・その7・喜劇的な悲劇

  • 最後の日ソ戦・・・その6・~千島南部~

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8月18日、ワシレフスキー総司令官は、「8月19日から9月1日までに釧路市から留萌市に至る線より北の北海道半分、千島列島南部を占領すること」を命令した。ソ連軍は、これらの島々の敵がどれだけの兵力や陣地を持ち、好適な楊陸地がどこか知らず、正確な地図も持っていなかった。8月22日、スターリンはトルーマンが拒否した北海道占領を諦め、トルーマンに返書を送った。ソ連軍は択捉・国後に上陸しなかった。「択捉・国後はアメリカ軍がやってくるはずだ」ソ連軍の前線の認識では、南千島はソ連軍の占領すべき範囲でなく、極めて慎重だったことがわかる。8月28日、択捉島に上陸。9月1日、国後島に上陸。9月4日、歯舞諸島に到着。9月4日、...最後の日ソ戦・・・その6・~千島南部~

  • 最後の日ソ戦・・・その5・占守島・戦闘停止~武器引渡

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8月20日早朝、ソ連艦隊が幌筵海峡北口、片岡湾に接近してきた。海軍は高角砲でその進路前方に射撃を加え警告を発した。ソ連は一斉に砲撃を開始した。10分後反転して去った。ソ連艦隊の片岡湾への進入は、19日に杉野旅団長らが調印した文書に記載された条件であったならば、日本側の対応に問題がある。師団長は、師団の安全を確保する決心し、21日6時をもって攻撃を再開する旨命令した。第五方面軍は、ソ連の北海道進攻を危惧して南部樺太死守を指導し、20日にはソ連軍の真岡上陸など緊張の中にあったが、北千島に対しては樺太よりも早く「戦闘行動を停止」の、大本営指示に基づく命令を与えた。第91師団が20日に接受したが、時刻は明確でない...最後の日ソ戦・・・その5・占守島・戦闘停止~武器引渡

  • 最後の日ソ戦・・・その4・占守島積極戦闘の停止

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8月18日15時、長島厚大尉ほか10名の軍使が大観台を出発した。師団長の意図は、まず現在線において両軍とも停戦し、武器引き渡しを交渉することにあった。その夜、長島大尉は帰還しなかった。ソ連軍は夜になっても攻撃を続行してきた。18日20時、上陸司令官グネチコ少将は、「19日の日没までに全島を占領する」命令をした。8月19日、互いに時々撃ちあった。日魯漁業の女子従業員400~500名が独航船26隻に分乗して島を出発、全員北海道へ到着。朝、杉野旅団長は山田大尉ほか3名を軍使として派遣。その日、15時竹田浜で「正式な軍使」と会うことが決まった。師団長は、杉野旅団長に停戦交渉に当たるよう命じた。杉野旅団長は、師団参...最後の日ソ戦・・・その4・占守島積極戦闘の停止

  • レナウンが経営破綻

    アランドロンと言えば、世界を代表する二枚目の大スターだった。そのアランドロンがなんと、日本で、”ダーバン”という背広のテレビCMに出演した。そのCMは毎日テレビで流れた。女性服で人気のレナウンが、男性の市場へ進出したのがダーバンだった。当時、独身貴族だった管理人も百貨店でダーバンの茶色の背広を買った。身体にフィットし着心地もよく、自分のお気に入りの一着だった。・・・姉の同級生(男)で、”ただっちゃん”という、愛されキャラ兼優等生がいた。同級生の誰からも”ただっちゃん”、と呼ばれる人気者だった。ただっちゃんは、笠岡商に進学し、卒業して就職した。そこまでは知っていたが姉によれば笠商から「レナウン」に就職したそうだ。レナウン時代に会ったことがあるそうだが、もう定年からだいぶ経っている。有名企業だったレナウンは今年倒産...レナウンが経営破綻

  • 最後の日ソ戦・・・その3・占守島の戦闘

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・実は、日本軍守備隊は、ソ連軍上陸船団を17日に見つけていた。「カムチャッカ半島北方に、小型舟艇多数が移動してる」という報告が、国端崎監視所から師団司令部にもたらされた。しかし、師団長や幕僚は北千島は米軍であってもソ連とはまったく関係ないと信じ、ソ連軍が上陸作戦を行うとは疑ってもみなかった。占守島北部を守る歩兵282大隊長村上少佐は、17日師団司令部において、師団長から「終戦になったのだから軽挙妄動してはならぬ。お前のところは最前線だから、軍使をまっさきに迎えることになるかもしれぬ。その時は、紛争を起こさず司令部に連絡せよ」といわれていた。1時半過ぎ、ロパトカ岬から砲撃が再開され、村上大隊の将兵の夢を破った...最後の日ソ戦・・・その3・占守島の戦闘

  • 最後の日ソ戦・・・その2・米ソ関係

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・1945年2月のヤルタ協定において、ソ連の対日参戦の見返りとして千島列島全部がソ連に引き渡されることになっていた。その後も米軍は艦隊や航空部隊に千島攻撃を反復し、潜水艦はオホーツク海まで進入した。1945年7月のポツダム会談時の米ソの作戦境界に関する協議で、オホーツク海は米ソの共同作戦区域、千島は第四海峡(幌筵島の南の海峡)を米ソの作戦境界で合意していた。海峡の北をソ連、南を米軍。1945年8月16日、スターリンはトルーマンに「千島列島すべて、さらに釧路市と留萌市を結ぶ線以北をソ連降伏地域に含める」要求をした。スターリンは18日に、「千島の合意」と「北海道北部の拒否」と「中千島へ米軍基地を設ける」回答と要求を受けた...最後の日ソ戦・・・その2・米ソ関係

  • 青年団・処女会

    「大津野のあゆみ」平成15年ぎょうせい発行より転記・・・・・・・青年団・処女会「大津野男子青年団」が創立されるのは明治30年4月であり、翌年「大津野女子青年団」が成立している。軍国主義の台頭で青年団が官・軍との関係が緊密となり、行政の指導が加わり、自律性が失われていった。大津野女子青年団は「処女会」とも呼ばれ、全国に先駆けて結成された。小学校校長を会長とし、指導は小学校の女子教員が当たっていた。活動内容は補習教育、雑誌回覧、見学旅行、展覧会など女子教育を目的としたものが多い。男子青年団とともに行う活動はなく、時勢順応を目的とした。第一次世界大戦後、青年団は国の方針や行政と密接な関係を持つようになった。戦前の大津野青年団郡下まれにみる勤勉で模範的な青年団といわれた。女子は一人残らず入団し、毎月一回は「修養の栞(し...青年団・処女会

  • 大門駅の貨物

    大門駅は切符を買う窓口の隣に、貨物を取りあつかう窓口が並んでいた。それは切符を買う人限定で、切符の行先まで荷物を受け付けてくれた。自分の記憶では、高校卒業時に荷物を大門駅のチッキで送ったような気がする。”貨物”と呼ばれる荷物は昭和38年に廃止されている。・・・・・・・・・・・・・・・「大津野のあゆみ」平成15年ぎょうせい発行より転記大門駅明治30年、郷頭山の麓に大門停車場が完成。大正12年、複線化。駅舎も拡張。客駅舎17坪、貨物倉18坪、駅長、助役の官舎も新築された。昭和3年から、井笠バスが大門駅より海水浴客を運んだ。昭和6年の満州事変、以降15年間の戦争で大門駅から多くの若者が出征していった。第二次世界大戦では大門航空隊が爆撃、機銃掃射を受けたが幸いに鉄道には損害を受けなかった。昭和33年、国道2号線が新しく...大門駅の貨物

  • 青訓(大正)~青年学校(昭和10)~青年学校(昭和14)

    「久世町史」より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・青年訓練所大正15年、陸軍省の協力のもとにお青年訓練所が公布された。満16歳から20歳の4年間、とくに実習学校学校修了者を対象に補習教育・職業教育・公民教育および軍事訓練を課すものであった。尋常小卒は800時間、高小卒は700時間を課せられた。久世町青訓は、毎月5~1日実施し、年間30日~38日であった。青年学校(昭和10年公布)昭和10年4月1日、青年学校が公布された。本科(男子5年、女子3年)では、1.2年生が月水金昼間4時間。3.4.5年生が水曜昼7時間。青年学校(昭和14年改正)男子青年学校の義務制が実施された。普通科1年生から毎年一学年ずつを義務制とし、昭和20年度をもって本科5年の義務教育を完了することになった。本科1.2年は月水金昼間6時間と一...青訓(大正)~青年学校(昭和10)~青年学校(昭和14)

  • 戦後の食糧問題

    岡山県中央町誌(民俗編)より転記する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦後の食糧問題国は、供出だけ強制しても、食糧問題は解決できず、このため開墾と食糧増産を呼びかけた。もはや開墾できる所はほとんどなく、学校の運動場、公共の広場を見出し、村中総動員で鍬を入れ、サツマイモ、じゃがいもなどを植えた。それだけにとどまらず、それまで普通の食糧として利用されていなかった、いわゆる未利用食糧である、わらび、ぜんまい、山ふき、よもぎ、甘藷の蔓、里芋の茎、大根葉、葛根などを採取し、乾燥させた物を供出する運動が始まった。これらの作業は、農業会、学校、婦人会などに求められ、小学生まで動員された。昭和18年からスイカ、キュウリ、いちごなどは、贅沢品として作付け禁止になった。横流しやヤミ売りなどの違反に対しては警察などによる厳しい...戦後の食糧問題

  • 家で飼うもの

    岡山県中央町誌(民俗編)より転記する。・・・・・・・・・ヒツジ戦後、衣料品の自給・増産を目的としてその飼養の普及を推進した。昭和35年がピーク。毛羊に関しては畜連が各農協を回って毛刈を実施し、それを農協が袋詰めにしてニチメンやトウメン等の加工場へと送った。最盛期の羊毛価格は一頭当たり1万円程度と非常に高値であったが、昭和30年代半ばに急速に値下がりし、衣料状況も改善したことから同時期を境としてヒツジの飼養は減少していった。ヤギ戦前戦後、一定数の飼養頭数がみられる。ヤギは、主に乳を利用するための飼育であった。牛乳よりも人間の乳に成分が近いことから、成人の飲用はもとより、母乳代わりとしてヤギの乳を乳児に与えることも一般的であった。ウサギ自家で肉を消費するため、ほとんどの家は小屋を作って、あるいは縁側の下に飼育場所を...家で飼うもの

  • 池の水抜き①資料

    TV東京の「池の水ぜんぶ抜く」は知っているが、番組を見たことはない。笠岡市内にため池は多いが、「抜く」ことに調べてみよう。まず資料を転記する。・・・・・・岡山県中央町誌(民俗編)コイトリ一般には「コイトリ」あるいは「フナトリ」という。最後の水やりは9月中旬で、秋に池が干上がった後、3年に一度くらい「コイトリ」をした。池の修理とヘドロ取りを兼ねるものであった。フナはこの地域の貴重なタンパク源で、しかも「無塩」であった。当時、行商人から買うのは塩サバや塩アジの干物などであり、生ものを食べる機会は少なく貴重であった。フナはザルに入れて干したり、内臓をとって串刺しして炭火で焼き、干物にした。コイは泥臭く、泥をはかせてから料理をした。タニシは身をとって佃煮にして食べた。エビもおいしかった。コイの放流6月に田植えをした後,...池の水抜き①資料

  • 小説に描かれた占守島の戦い

    「オホーツクわが愛」五十嵐均著東京書籍1996年発行より転記する。・・・・・・・・・午前2時15分、ロパトカ岬を隔てる占守海峡の海上から複数のエンジン音が聞こえて来た。その音は数を増し次第に高くなって、同20分過ぎには海上を圧するほどの響きになった。敵の艦影が見えないうちに、その一隻が陸地に向けて機関銃の連射を始めた。この瞬間、敵の来襲は疑いのない事実となった。旅団本部には旅団長、師団参謀以下が詰めている様子で、間髪を入れずに命令が返ってきた。「直ちに反撃して、敵を水際で撃砕せよ。本日1600時まで停戦は発効しない。且つまた自衛の戦闘は妨げない」「撃ち方、はじめ!」二門の野砲は上陸用舟艇を直撃した。占守島南部、片岡の丘上にある73旅団本部では、師団参謀郡少佐が戦況に、興奮を隠しきれないでいた。「旅団長、敵は全軍...小説に描かれた占守島の戦い

  • 城見小学校の様子

    学校子供は、ほぼ100%城見小学校へ入学。稀に城見よりもレベルが高い笠岡西小や東小へ行く。中学校は金光学園に進学の人がいる、残りは全て金浦中学校。先生男女はんはんくらい。大津野村と笠岡市内。徒歩と自転車通勤。バスや自家用車はいない。代用教員が何人かいた。「ダイヨウ」と呼ばれていたが、その言葉は、子供心にいい響きでなかった。通学保育園から小6まで列で学校へ行く。茂平の場合、銅山、西ノ谷、青木、旗涯地などに分れ、男女別々に出発。学校が近くなると茂平や大冝や用之江の列も集まり、一応壮観な感じがしていた。順番クラス番号は生年月日順、整列は背が高い順番。男女机は二人で一つ、男女で一つだった。男女同席。便所城見小の便所は怖かった。廊下の掃除長い廊下を米ぬかの袋で、端から端まで一直線に走って拭いて、ぴかぴかにしていた。学科算...城見小学校の様子

  • 少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

    少年雑誌(漫画雑誌)を買いに年に2~3度、少年雑誌を買いにいくことがあった。行先は大門駅前の商店街(という程ではないが)の小さな雑貨店だった。行くのは3人くらい。自転車に1人、その前を走る人、その後ろを走る人。家で待機が1~2人。3人で出発。まず坂里峠を目指す。峠からの坂道は山賊が出るという場所があるので、特にスピードで坂を下る。野々浜の山際の道を大門駅へと向かう。お寺の踏切を渡ると、来たなあという感じになる。駅前の小さな店のガラス戸を開けて、少年雑誌を選ぶ。行く前から決めているが、小さな店なので売り切れて無いこともあった。買ったら、同じ道を帰る。坂里峠を越えると茂平。家まで帰ると、買った人が本を読む。付き添いと、待機していた人は付録の本を読む。そうして、全員が本と付録をすべて読み終わると、「本を買いに行く」こ...少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

  • 金浦中学校の修学旅行

    中学2年生が終わる3学期頃のことだったと思う。行先は、毎年同じ、京都・大阪。2泊3日の旅。行先も大阪城と清水寺と奈良の大仏は共通だが、それ以外は毎年すこし変化があったように思う。汽車で行かずバスで行った。たぶん最初か二度目のこと。二つ上の兄は汽車で行っている。観光地は、(記憶の内で)京都は金閣寺と清水寺と平安神宮。大阪は大阪城。奈良の大仏と奈良ドリームランド。ドリームランドが一番楽しかった。京都では映画スターに会えるのではないかと淡い期待をしていた。当時はまだ、東映チャンバラ映画は流行っていた。残念ながら、そうゆう偶然はなかった。泊ったのは京都と奈良の木造旅館。お土産に清水寺で宇治茶を買ったような記憶がある。それ以外の行先や、食べ物は覚えていない。とにかく、寝る前の二夜連続の壮絶な枕合戦の印象が強い。思い出は”...金浦中学校の修学旅行

  • 最後の日ソ戦・・・その1

    「一九四五年夏最後の日ソ戦」中山隆志著平成7年国書刊行会発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・千島は地理上、歯舞・色丹、南千島、中千島、北千島に分かれる。大小30余の島々からなり、総延長1.200km、総面積10.395平方㌔。岐阜県の面積に等しい、最大の択捉島は鳥取県並み。火山質の列島で、海岸線は断崖が連続する。港湾を得にくい。北千島は身長以下のハイ松類が密生している。列島最北端の占守島は伊豆大島の2.5倍の面積で、おおむね平坦な段丘状を成している。夏季は濃密な海霧が発生する。行政上は北海道占守郡占守島で、北海道根室支庁の直轄となっている。千島の住民は常住するのは南千島以南に限られていた。終戦の頃、国後島7.300人など計20.000人に達していた。北千島はわずかな定住者だったが、世界有数の漁場を...最後の日ソ戦・・・その1

  • 黒塗りの教科書

    「服部百年誌」福山市服部百年誌刊行委員会2001年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・敗戦のすぐ後、秋ごろであっただろうか、教室に来た先生が硯を出して墨をするように指示された。書道かなと思ったところ、先生は教科書を机の上に出させ、○○ページの○○行目から○○行目まで墨を塗りなさいと順々に同様なことをすすめられた。墨を塗った箇所は「天皇のために」とか「大東亜共栄圏」とか、戦意高揚の言葉のあるところであった。私は自らを「黒塗り世代」といい、その時の心の傷は今日なおどうしようもなく心の中に潜んでいる。黒塗り教科書に続いたのは新聞紙のような教科書である。物資のないこのころ、教科書は本になった形で配布されたわけではない。配られたのは新聞紙と同じような印刷物で、それを縦に折り、横に折りして教科書と同じ大きさになる。折り...黒塗りの教科書

  • ところてんを作る

    ところてんを作る満潮の海は必ず6時間後に干潮になる。陸地が沖へ延びる。大潮の干潮でトコロテンを採って遊ぶ。そのトコロテンを家に持って帰る。クドで煮る。熱い真夏のクドは汗が飛び散った。どろどろになったトコロテンをアルミの弁当などに流し込む。少し経つと固まってくる。この時が面白った。固まったトコロテンを包丁で切って食べる。まだ温いトコロテンで、海藻の匂いがするだけの、美味しいものではなかった。・・・・・・・越中褌海で遊ぶ男の子は、海パンか褌だった。褌は黒くて細く、少量の布と紐でできていた。褌でなく”越中フンドシ”と呼んでいた。半分か、それ近く越中フンドシの人がいたから、それなりに着心地がいいのか機能的だったのだろう。管理人は海パンだった。女の子の水着は覚えていない。海で遊ぶのは男の子だった。・・・・・・・図柄の浮き...ところてんを作る

  • 小学生の生活・・・その1

    「昭和こども図鑑」奥成達著2001年ポプラ社発行に出てくるものを自分の経験範囲で書き残す。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちゃぶだいちゃぶ台の定義は知らないが、円形か四角形のテーブルはあった。家族7人が揃って食べるということは、ほとんどなかった。親は食べる事よりも仕事が大事で、(仕事が好きというのでなく、稼ぎのため)落ち着いて食事をするのは年に数度のことだった。食事の前後は、蚊やハエを防ぐ網傘をテーブルに置いていた。トースター冷蔵庫洗濯機テレビトースターは高校卒業してから冷蔵庫は高校の2年生の頃だった。洗濯機、中一か中二の時に買った。テレビは中二の時だった。大好きな相撲を見ようと思ったら、大ファンの若乃花が引退し一度も家で見れなかった。縁台夏の夜は、縁台を庭に出していた。夕方は、蝙蝠が飛ぶ...小学生の生活・・・その1

  • 小学生の食べ物

    「昭和こども図鑑」奥成達著2001年ポプラ社発行には、下記の食べ物が出てくる。それを自分の城見小学校時代と重ねてみる。【重なるもの】と【重ならない】ものがある。・・・・・・・・・・・【重なるもの】コッペパンごはん給食はなかった。給食ではパンだった。このパンを”コッペパン”と呼んでいた。ふつうパンは、かじって食べていたが、学校ではちぎってから食べていた。断面に人造バターを塗ったり、汁に漬けてから食べていた。もちろん、学校給食でパンに限らないが、残したことは一度もない。脱脂粉乳バケツに入った牛乳を先生が一人いっぱいづつ、金属の容器に注いでくれた。(途中から生徒がするようになった)脱脂粉乳はうまくない、という声もあったが、まずいと思ったことは一度もない。クジラの竜田揚げクジラの揚げものはよく出た。二日に一度は出たよう...小学生の食べ物

  • 戦前は、何才からお酒を飲んだ?

    「昔は何歳からお酒を飲んでいた?」という問いがあるとすれば、今と同じで、「法律では20歳、実際は学校を出ると飲んでいる」、という回答になると思う。しかし飲む実態は、今と違いすぎる。貧しくて酒を飲む機会が無かった。父の話では、「飲むのは年に2~3回、元旦、それに春、青年団で北川の薬師に酒を飲みに花見に行っていた。薬師まで徒歩10キロくらいだが、みんなお酒を飲めるので距離は気にならなかった」ようだ。毎晩の晩酌が可能なのはご大家に限られていた。おじ(母の弟)は15歳で海軍志願兵に行ったが、週に一回、夕食に茶わん一杯のビールが付いていたそうだ。海軍は国家機関だが、国が法を犯して・・・・まあ今の政府といっしょか。戦前は、何才からお酒を飲んだ?

  • ザクロを食べる

    ザクロを食べるよその家の熟れたザクロを見て、食べたくて仕方なかった。それを親に言うと庭に一本ザクロを植えてくれた。それから毎年・毎年秋が来るのを待っていた。何年か経って、ようやくザクロに実がなり、その実が熟れてきて食べごろになった。待ちに待ったザクロの実を採って食べ始めた。しかし、目で見るイメージとは違って、食べてもうまくない実だった。あれは観賞用の実であると知った。翌年も、それ以後も秋になるとザクロの実はきれいに熟れるが、もう食べたいと思ったことは無かった。人生一個のザクロで終わりそうだ。・・・・・サッカリンで煎り粉を食べるおやつ代わりに煎り粉(いりこ=はったい粉)を食べていた。粉に水と砂糖を入れて箸で混ぜるだけ。しかし、砂糖は貴重品でめったに使うものでなかった。代わりにサッカリンがあった。包丁を逆さにしてサ...ザクロを食べる

  • どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その3

    どうしても見たかった試合④アリvs猪木まさか世界のアリと日本の猪木が同じリングにあがるとは、夢にも思えないことだった。それにボクシングとレスリング。契約の調印をしても、その後も・・・ほんとなんだろうか?といくらか信じられなかった。テレビでアリの練習風景を見ていると、やっとほんとうなんだと思えるようになった。それからは日本中がアリvs猪木の話題一色になった。試合の予想をするのが日常の会話になった。初めてのことなので、試合展開や勝ち負けが、予想も想像もしにくかった。とにかく日本中の話題になり、試合は土曜日の午後1時頃からテレビで全国中継ということになった。全国民(?)が土曜日の午後はアリ・猪木戦に注目した。アントン猪木も世界のアリに「ペリカン野郎」と呼ばれては、苦笑いでごまかすのが精いっぱい。試合ムードが高まり土曜...どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その3

  • どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その2

    どうしても見たかった試合②アリvsフレージャー当時四国の松山市に住んでいた。松山市は民放が一つしかなかった。それであきらめかけたら、松山でも放送することを知った。アリは、小学生の時から名前を知っていた。金メダル、KO予告、リストンをKO、徴兵拒否、牢獄で改名、既に全世界レベルの著名選手だった。フレージャーは現チャンピオンで、無敗対決。見なければいけない試合だが、どこで見るか?いろいろ検討して近くの食堂で見ることにした。当時テレビでヘビー級のボクシングを放送することはなかった。リングへアリとフレージャーが登場しただけで、昂奮のつるぼとなった。フレージャーが勝って大統領から褒めてもらったが、すぐにフォアマンに負けた。・・・・・・どうしても見たかった試合③アリvsフォアマンフレージャーをコテンパンにしたフォアマンは”...どうしても見たかった試合『ボクシング』・・・その2

  • どうしても見たかった試合『ボクシング』その①

    どうしても見たかった試合①海老原vsポーン・キングピッチ見れなかった。家にテレビはあったが、民放は二つしかなく、海老原の試合は岡山県では受信できなかった。代わりにラジオ放送があった。ラジオで聴いた。一ラウンドに海老原のカミソリパンチが当たりKO勝ちした。うれしくて、翌日大門駅まで行ってスポーツ新聞を買った。今に直せばミニマムライトフライフライスーパーフライの4階級制覇。WBAWBCWBOIBFの4団体統一チャンピオン。つまり一人で世界チャンピオンの16人ぶんのチャンピオン。スポーツニュースではなく大ニュースだった。どうしても見たかった試合『ボクシング』その①

  • 遠足に行く

    遠足に行く~遠足は喜ぶほどの行事ではなかった~リュックサックにお菓子を持っていけるのが楽しみだった。前日に親から20~30円もらい、自分でお菓子を買えることがうれしかった。吉浜の天神・・・1年生茂平や用之江のお宮より、すこし立派な感じがした。眼鏡橋やツツジの庭園で遊んだ思い出がある。※大正時代に父も遠足でいったところ。そして管理人の子も遠足で行った。古城山・・・1年生または2年史学校から国道2号線(旧)を歩いて行った。遠かった。途中、吉浜や金浦では、道路沿いで親類の叔母さんやお祖母さんが、遠足の生徒を待っていた。目的の子にお菓子や飴玉を手渡ししていた。それを見ながら、うらやましくて仕方なかった。古城山では、唯一”お猿さん”が楽しかった。あたりまえだが、木山捷平さんのように、海を見て感激は全くなかった。ただ、笠岡...遠足に行く

  • 動物②

    ニワトリ小学校に上がる頃、家の裏に鶏舎を建てた。そこでニワトリを20~30羽飼い始めた。その頃は、庭で数羽飼うのが主流で20~30羽は多かった。そして1~2年後にゲージ飼いになった。200羽ほど飼うようになった。水の他に、三度飼料を与え、卵を籠に取る。適時に糞を除去していた。冬か春にヒヨコを仕入れていた。父は数日間ヒヨコと寝泊まりをした。管理人もいっしょに寝たことがあり、ヒヨコが来るときは楽しかった。養蜂どこから来る人が知らないが、毎年春になると養蜂の人がやってきた。蜜箱を、宮ノ崎の畑に3~4箱、家の裏畑に1箱ほど置いていた。3週間後位に、再びきて箱を引き取った。その時は必ずお礼に大きな瓶に入った蜂蜜をくれていた。父が、蜜の他に礼金をもらっていたのかは知らない。その蜜は液体でなく個体。金属であるサジでほじっても...動物②

  • 動物①

    家ネズミ寝る前、家の外から聞こえるのは、雨や雷や風の音くらい。しかし家の中から聞こえる音が二つあった。ひとつは、柱時計の音。チックタック、と昼には耳に入らない音が大きく聞こえた。もうひとつ、それがネズミが走る音だった。寝ている真上から聞こえる。ネズミの運動会で天井裏を走りまわっていた。うるさい、わるい音だった。(猫いらず)母は蔵に猫いらずを撒いていた。そのせいか、蔵にはめったにネズミはなかった。(猫)飼い猫がいた。ネズミと遭遇すると責めるのでなく、後ずさりしていた。たまに、死んだネズミを口にくわえて家人にアッピールし、嘲笑されていた。マムシ管理人の祖父は、畑で見つけたハミ(まむし)を握ったまま、生血を吸うので・・・見た人には・・・有名だった。私は残念ながら、その場面に遭遇したことは無いが、母は年度も経験している...動物①

  • 新入社員時代②呉の生活 あこがれの”山口果林”が呉に来る

    NHKの「繭子ひとり」、あこがれの”山口果林”が呉に来るP社に入社した時、東京に配属されたかった。それは、東京には「山口果林」がいるから。NHKの連続テレビ小説「繭子ひとり」の主演・山口果林は週刊誌の表紙やグラビアで見ない日は無いほどブームになった。東京にはあんなきれいな人が住んでいるのか、とあこがれていた。その「繭子ひとり」の撮影のため、山口果林が呉に来た。撮影を見に行きたいけど、まだ新入社員で”休む”ことは、とてもできない。同じ呉の空の下にいることに満足するしか仕方なかった。撮影は呉の市街地でなく、倉橋島の方であった。・・・・・・・・・オーリングブームその年は、空前のボーリングブームだった。テレビでは「さわやか律子さん」が人気だった。P社に限っても、呉事務所の管轄内で3か所工事中だった。ボーリングのローラー...新入社員時代②呉の生活あこがれの”山口果林”が呉に来る

  • P社の「昭和46年入社」

    新入社員は450名くらいいた。入社式は広島市の国際ホテルであった。P社は翌年から東京で入社式を行ったので、最後の広島での入社式だった。翌日から江田島の研修所で新人訓練があった。江田島と言えば、海兵や海軍を連想さすが、普通の訓練所だった。その施設には日本ホイストなど他社も同時に行っていた。・・・・・中国支店に配属された2週間の江田島での教育期間が終わり、中国支店に配属になった。そこでも2週間ほどで、「呉事務所」へ、最初の転勤があった。GWがあり、それが終わると呉に行くことなった。・・・・・GWに初めて天皇・皇后を見た。両陛下が会社の隣にある広島グランドホテルに到着した。GW中その後に、一度実家に帰ったその時に祖母に天皇皇后を見たことを言った。その訳は、家には天皇皇后の写真を掲げていた。祖母はそれを見ながら、「戦争...P社の「昭和46年入社」

  • 戦争とは歩くこと・・・・

    父と同じ歩兵10連隊の記事があるので転記する。・・・・・・・・・・・・・・・・・「一億人の昭和史・日本の戦史4」1978年毎日新聞発行より棗田博(作家)塘沽に上陸した。初めて実包(実弾のこと)が支給された。合計120発、ずしりと重い。被覆もすべて新品、背嚢(はいのう)も新品である。雑嚢と水筒、手榴弾3発と三八歩兵銃。通常、完全軍装はおよそ8巻目といわれていた。行軍にはいって、しばらくの間、陽気にしゃべっていた兵隊も、もう今はだれ一人ものを言う者はいない。汗は出尽くすと、もうまっきりでなくなり、手のひらを顔に当てるとざらざら浮いている。肩は背嚢の負い革と銃の重みで感覚をなくしていく。「小休止」の命令が待ち遠しい。やがてわかってきた。行く手に銃砲声が聞こえると、カンフル注射でも打たれたように、へとへとの身体が緊張し...戦争とは歩くこと・・・・

  • 資生堂の『椿会』

    資生堂の『椿会』管理人が高校生の頃、化粧品会社の資生堂がMG5(エムジーファイブ)という男性用の化粧品を発売した。それまで、化粧品とは女性のもので、男性が使うものではなかった。資生堂は、若い女性が増える時代、日本が豊かになる時代を見越して、青田刈り同様に学校を卒業する女性を”椿会”という組織で囲い込みをしていた。当時の資生堂は、時代をリードする企業だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2020.6.1姉の話中学校の時、進学組と就職組があった。就職組の3年生で女性を、セールスの人が学校の許可を得て放課後に、教室で講座をしょうた。それに出ると、ちっちゃい袋の中に化粧品や化粧水や口紅がはいっとった。それをくれるんよ。高校の時、メイン(資生堂のターゲット)は高卒(の女性)よね、高校にきょうた。就職の人も進学...資生堂の『椿会』

  • テレビを見せてもらう

    たかさんの家で、夏の甲子園・浪商vs法政二高を見せてもらう尾崎がいる浪商と、柴田がいる法政二高の試合がどうしても見たかった。前年は柴田の法政二高が勝っていた。この夏は浪商は雪辱戦であり、事実上の決勝戦だった。問題は、どこでテレビを見せてもらうか?運よくたかさんの家で見ることできた。浪商の尾崎が打って逆転し、勝った。浪商の尾崎は甲子園終了後即、東映フライヤーズに入団した。今でも、プロ野球でもっとも速い球を投げた投手に名前が出る。負けた柴田は、巨人に入って投手をクビになったが、野手になって、スイッチヒッターになり、打ち・走り、ON時代に重なりぞんぶんに活躍した。・・・・・となりで、「半七捕物帳」を見るとなりにテレビを買った。夜、母がテレビを見せてもらいに行くとき、私を添え物的に同行さした。ひとつのテレビを何人で囲ん...テレビを見せてもらう

  • 城見小学校にテレビが入った

    城見小学校にテレビが入った校長先生が皇太子と美智子さんが結婚する話しとテレビが重なるから、昭和34年のことだろう。たぶん、城見で最初のテレビと思うが、学校にテレビが入った。学校のテレビは教育の備品で、週に一回教育テレビを見せてくれた。テレビ室にテレビは置かれ、学校でいちばん貴重品のようだった。その頃、テレビ放送はNHK総合・NHK教育と山陽放送と西日本放送が受信できていた。その頃人気番組は「月光仮面」だったが、一度も見たことがない。半年ほど過ぎて、学校の下の床屋さんにテレビが置かれた。大相撲があるときは、ガラス戸越に相撲観戦していた。勝負の後、民放は分解写真、NHKはスロービデオで差があった。6年生の時、日本シリーズが見たくて集団でテレビ観戦した。先生にぼっけいおこられたが、今思い起こせば、なぜか試合が終わった...城見小学校にテレビが入った

  • 75年前の学校の臨時休校

    2020年(令和2年)、新型コロナウイルスのため、小・中・高校が3月~5月の、およそ3ヶ月間臨時休校になった。75年前にも学校の臨時休校があった。戦争の非常事体制下、政府は、昭和20年4月1日から1年間、国民学校初等科を除き休校するすことを決めた。その時の様子を義母に聞いてみた。当時義母は、芳井町の実業学校の3年生(15才)。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(談・2020.5.31義母)実業に行っとるときは2年間戦争中じゃった。食糧増産ゆうことで開墾、開墾じゃった。芋を植えたり、トマトを作ったり、キュウリを作ったり、なすびを作ったり。田んぼを借りて、そこで実習ゆうことで、毎日作業服がいりょうた。町の子は唐鍬をもってけい言われてもなかったろうに、どうやって工面しとったんじゃろうか?山で芝をなぜて籠にい...75年前の学校の臨時休校

  • 晩に食べない晩飯(ばんめし)

    町の晩飯時間夏休みに、福山のおじさん(といか従兄弟)の家に遊びに行くとまだ明るいのに「晩御飯です」。これがどうも合点がいかないというか、不思議な食事時間だった。私の家は明るいうちに晩御飯を食べる習慣はなかった。年中、暗くなった晩に食べるのが晩御飯だった。近所の子と遊ぶのも、暗くなるまでだった。親も明るい時は仕事、暗くなってきて晩飯。今の感覚で計れないが、当時の日本の農村はそれだけ貧しかったことのようだ。・・・・町のスキヤキは牛肉福山のおじさんの家で何度かスキヤキを食べた。スキヤキの肉は牛肉だった。別の皿に生卵が付いていた。私の家でもスキヤキをすることはあった。肉はいつも鶏肉だった。つまり、飼っているニワトリが卵を産まなくなったら、スキヤキの肉になっていた。卵を食べることもあった。それは、熱を出したり病気になった...晩に食べない晩飯(ばんめし)

  • 仲買人・物々交換(カエコト)

    岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・仲買人仲買商ともいう。県内ではトンビといわれている。井笠地域では小豆、ササゲ、大豆などの雑穀や、除虫菊、薄荷、い草、繭、藍などの商品作物の仲買人をニブシという。麦稈真田の仲買人を真田買いといった。トンビは生産農家に出かけて買い集め、問屋に納める。小豆・ササゲ・除虫菊・い草などは相場の変動が激しく、一日ごとに上がったり下がったりした。物々交換カエコトをするとか、小麦をうどんに変えてこいとかいう。製粉所へ小麦をもっていって小麦粉に変えてもらうと、小麦10に対して小麦粉6くらいの割で交換した。主たる物々交換は、小麦とうどんやそうめん。大豆と豆腐、油揚げ。小豆やササゲと日用品、菜種と菜種油。仲買人・物々交換(カエコト)

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