西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・漁業笠岡市西浜明治18年ごろ、広島県幸崎町能地から打瀬網が導入された。日生からは建網が入った。打瀬網漁師は魚閑期に、塩飽諸島・燧灘・四国の各漁港・壱岐・対馬・南九州へ櫓漕船で行き生魚を買う「出買い」をした。いっぽう、この出魚を「カツギ」と称して魚籠を担いで、吉備高原の村々へ、何人かでリレー式に運んだ。出買いは動力船の出現とともに衰微する。カツギも陸上交通機関の発達により衰微する。打瀬は明治24.25年ごろが最盛期で、昭和27年ごろ衰微していった。網糸は昭和初期までは綿糸であった。以後ラミーへ。さらに絹糸へと変わってゆく。建網漁師は夜の操業もあって、船に蒲団を持ち込んでいる。旧5月5日の菖蒲の節句には、昼間にオシグランゴと...西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏
2020/05/31 16:02