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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏

    岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・漁業笠岡市西浜明治18年ごろ、広島県幸崎町能地から打瀬網が導入された。日生からは建網が入った。打瀬網漁師は魚閑期に、塩飽諸島・燧灘・四国の各漁港・壱岐・対馬・南九州へ櫓漕船で行き生魚を買う「出買い」をした。いっぽう、この出魚を「カツギ」と称して魚籠を担いで、吉備高原の村々へ、何人かでリレー式に運んだ。出買いは動力船の出現とともに衰微する。カツギも陸上交通機関の発達により衰微する。打瀬は明治24.25年ごろが最盛期で、昭和27年ごろ衰微していった。網糸は昭和初期までは綿糸であった。以後ラミーへ。さらに絹糸へと変わってゆく。建網漁師は夜の操業もあって、船に蒲団を持ち込んでいる。旧5月5日の菖蒲の節句には、昼間にオシグランゴと...西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏

  • 除虫菊・薄荷・葉タバコ

    岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・除虫菊明治11年に和歌山県有田市より笠岡市に伝わり、笠岡・小田・浅口・玉島で栽培された。この地域は温暖寡雨の気候で、よく適し、土壌はやせていても育つし、連作を嫌うが薄荷ほどでない。秋の彼岸頃播種し、4月中旬から移植する。収穫期は5月である。根まで抜き取り、千歯こぎで花弁をこぎ落すのであるが、鎌で根刈りをして、株を残しとくと翌年収穫することができる。花の色で価格は決まる。花弁は筵に干され、夜は納屋や土間にいれるが重ねると蒸されるのでオエ(床)にもおかれ、菊とともに寝る。価格の変動は著しく、朝晩で違っていた。最高の価格は昭和27年8月。その年を境に採算のとれない作物となり、昭和34年ごろには頗る減反した。・・・・・・・薄荷明...除虫菊・薄荷・葉タバコ

  • 武漢攻略戦(第10師団) 蘆州~光州~信陽~大別山~漢口) 1938年

    「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編河出書房新社2007年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(歩兵10連隊が越えた大別山)武漢攻略「漢口をとれば中原(ちゅうげん)を制したことになり、中国を支配できる」というのが、参謀本部の考えであった。首都を落とせば蒋介石は降伏すると勝手に決めていた。日中戦争に入りすでに6個師団を作り、さらに陸軍は新しい師団を次々に10個も完成した。中国戦線に61万人を派遣した。出征部隊に補給する、兵器・弾薬・食糧・衣類・諸雑貨・医薬品を滞らせないため軍需工場を増やした。産業構造を、権力によって無理やりかえた。若い男が少なくなると、女性も老人も動員しなければ、人出が足りない。1938年4月1日、国家総動員法が公布された。約50万が武漢作戦に参加した。とりわけ、大別山脈(700~800m...武漢攻略戦(第10師団)蘆州~光州~信陽~大別山~漢口)1938年

  • 芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る

    芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る今から20年ほど前、後月郡芳井町の文化祭を見に行った。芳井の知人から毎年人気歌手を呼ぶのを聞いていた、前年は三田明だったそうだ。当年は元美人歌手の”あべ静江”。美人歌手は多かったけど、あべ静江もそれが突出した美人歌手だった。芳井では、会場の吉井中学校の校庭のステージで「まだ嫁入り前ですから・・・」と自己紹介をしていたが、既に大歳増の歌手だった。でもじゅうぶん美人歌手だった。超ミニスカートをはいて自慢の脚をぞんぶんに露出していた。声はデビュー当時と変わらずいい声だった。その後、芳井町は井原市と合併し、芳井文化祭に有名歌手はこなくなった。・・・・・・鋼管まつりで、柏原よしえショーを見る現在の令和天皇がまだ独身だった時、定例の記者会見で「好きな歌手は柏原よしえ」と言った。そのため、...芳井町文化祭で、あべ静江ショーを見る

  • 台児荘~徐州

    「図解・日中戦争」太平洋戦争研究会編河出書房新社2007年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・台児荘の戦闘1938年3月上旬、第二軍司令官・西尾寿造中将の再三の出撃要請を受け大本営が認めた。実際に参加したのは歩兵三個連隊(岡山・松江・浜田)で、一万程度の兵力と思われる。徐州の北東60キロほどに台児荘という小さな県城を攻撃した。ところが、思いもかけず、大苦戦に陥った。中国軍は10万で攻撃し、歩兵10連隊(岡山)と63連隊(松江)は、師団長の制止を振り切り、独断で台児荘を離脱した(4.月6日)。中国軍は「勝った!」と判断。中国は国をあげた大騒ぎとなった。この局地戦で日本兵2.000人以上が戦死した。徐州作戦の開始「徐州周辺に中国軍40万人も集まってくれた、包囲殲滅のチャンス」と決まった。結論なく作戦は開始され...台児荘~徐州

  • ドンガメを食べる

    ドンガメを食べるドンガメは大きな生き物なので、子供2~3人で食べても腹を満たしてくれた。食べるのは海で遊んでいて、かつ、昼をまたいで遊ぶ時。ドンガメで腹をおこす。食べる準備も面白かった。かまどを作る。これは、それなりの形の石を数個集める。焚き木。これは流木を集める。ドンガメを漁船から失敬する。くどを焚く。ドンガメが焼ける、臭い匂いが充満する。焼く時間がかかって、焼き上げ完了。身を食べる。不味い。まずいが我慢してハラにとおす。ドンガメは笠岡湾干拓で消滅したが、もとをただせば、戦前から「金浦湾のカブトガニ」として保護されていた。・・・・・・・・ゆすらんめ(ユスラウメ)を食べる初夏の食べ物はゆすらんめとびーびーが代表で、食べるのが楽しみな季節だった。どちらも農家の庭の隅などに一本か二本植えてあった。昔から、子供のおや...ドンガメを食べる

  • 学校の雨傘(唐笠)

    学校の雨傘(唐笠)教室にはクラス全員の唐笠が備えてあった。雨が降ると、その笠を差して学校から帰ることになっていた。雨の時、その唐笠を開くとぱりぱりぱり・・・と大きな音がした。油紙の上に落ちるので、雨音がはんぱでなかった。雨が止むとたたむが、こんどは笠の重さがはんぱでなかった。それに次の日に学校へ持ってゆくが、笠をもっていると邪魔になり途中遊べない。それで生徒に人気がなかった。しまいには、雨が降っていても濡れながら走って家に帰っていた。びしゃぬれだった。・・・・・ガリ版(謄写版)職員室の一角にガリ版印刷の部屋というか場所があった。先生がヤスリを使ってテスト用紙などを作っていた。ときどき先生に補助を頼まれることがあった。そこへ行くと、先生がロウ加工した原紙を謄写版にはさげ、次にローラーにインクをつけて原紙の上を滑ら...学校の雨傘(唐笠)

  • 養蚕

    岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・養蚕桑木は畑(定畑)とか河原、焼き畑などに植えている「刈り桑」と、川や水田の岸に大木として散在している「立ち桑」とがある。三齢までは刈り桑を、刈桑包丁で切って与え、四齢以後は立ち桑を食べさせた。五齢期になると、夜12時ごろまで葉を与えたので、寝る時がないほどのせわしさであった。大正末期から飼育法が条桑育といって、蚕に桑を枝のままで与えて飼育するようになり、幾段もの蚕棚で棚飼する。稚蚕は主屋の一室で蜜閉育として、壮蚕になったら八畳のオクノマとか離れ座敷へ移すのであった。岡山県内全地域で行われたが、葉タバコ栽培村では養蚕と共存することはなかった。最盛期は大正末から昭和5年ごろ。最盛期には年に3~4回飼育し、主屋の室だけでなく...養蚕

  • 刈り敷き農業

    岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版昭和56年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・刈り敷き農業化学肥料が出るのは第一次世界大戦後のことで、それまでは金肥(カネゴエ)と言えば、イワシやニシンの干鰯(ほしか)、荒粕などの魚肥や、菜種粕、大豆粕だった。これらは江戸時代から大正中期にかけて用いられた。人糞尿の利用は中世以降のことであり、最も古くから行われてきたのは刈り敷きである。山野から芝草や細い枝までも刈りとり、水田に敷くのであるが、大足(田下駄)で踏み込んだ。畑へも入れた。庶民が牛馬を2~3軒で一頭とか飼育するまでになって、厩肥を作れるようになった。入会山や耕地の畔草を存分に刈り、冬分の厩入れは干し草にして保存しておいた。昭和40年ごろまでのことといえよう。刈り敷き農業

  • 雨蛙を食べる

    雨蛙を食べるアマガエルは捕るのが簡単。片手の手のひらを膨らませるようにして、カエルの上から捕獲する。逃げられることもあるが、たいていつかまえる。そのカエルは、そのまま口に入れ、即喉をとおす。熱い湯を呑むのと似て、いっきに飲み込むのがこつだった。蜂の巣を落とす蜂の巣を落とすのは共同作業だった。男3人位で、長い竹の棒で軒下の蜂の巣ふきんに、ゆっくりと、静かに近ずく。棒を構えると、早くも蜂が襲ってくる。逃げる~~。ここが面白い。誰か一人刺される・・・ことが結構ある。その前提があるのでスリル満点。刺された時は小便やヨモギで手当てをする。効果があるかは疑問だが。目的の蜂の巣を落としたら、蜂があきらめるまで離れて待つ。そして蜂の巣の幼虫は平等に配分し、その場で食べた。かむことはせず、飲み込んでいた。栄養があると聞いていたが...雨蛙を食べる

  • 占守島 1945.8.18~23

    「一九四五占守島の真実」相原秀起著PHP新書2017年発行より転記する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第五方面司令官樋口季一郎は、ソ連軍が千島列島を占領した後、北海道まで攻め込むに違いないと察し、91師団に対して「断乎、反撃に転じ、上陸を粉砕せよ」と命じた。8月18日早朝より戦が始まった。大本営が指示した自衛戦闘終了の刻限は18日、午後4時。戦闘の最中、午後1時、長島大尉が停戦交渉に出発。午後4時を迎え、各部隊は積極的な戦闘を中止した。午後6時50分、池田連隊長敵中に突入。19日朝、長島とソ連大佐の停戦交渉始まる。午後3時、竹田浜で始まる。72旅団長・杉野巌と参謀長の柳岡武らを派遣した。杉野が口火を切って、現在、両軍が対峙...占守島1945.8.18~23

  • 学校帰りの森陰で② オート三輪に乗って帰る

    学校帰りはオート三輪で福山の青果市場から茂平の園芸所に農家の果物を集めに来ていた。空荷のオート三輪できて、果物を積んで帰っていた。学校帰りに、そのオート三輪に遭遇することがよくあった。その時は三輪の後ろから4~5人で押してあげる。そして用之江と茂平の境の峠のうえで、運転手氏がお礼に乗せてくれる。三輪は下りの道を荷台に小学生を乗せて茂平園芸所に着いた。そこで小学生はおりた。その一連の行為のことは、良いこと・悪いこと、違反・違法、安全・保険とかまったく思ったこともなく、ただ子供には面白かったし。三輪の荷台は気持ちがよかった。しかし、空荷で坂道がしんどかった三輪車は、荷物を積んでよく登るものだと不思議な気がしていたが、今思いだしても不思議だ。・・・・・蒸気機関車の車輪踏切は無人で、当時は事故をおこすと、怪我は自分持ち...学校帰りの森陰で②オート三輪に乗って帰る

  • 徐州大会戦 --毎日新聞・日本の戦史

    「一億人の昭和史・日本の戦史4」昭和54年毎日新聞発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和13年(1938)は日中戦争が決定的に長期化・ドロ沼化への道に踏み込んだ年であった。「国民政府を相手とせず」という近衛声明が発表され、日中和平の最大のチャンスといわれたトラウトマン工作に、事実上終止符が打たれたのは1月16日。軍中央によって「戦線不拡大」方針は、現地軍の強硬意見と早期和平への焦りで、5月から徐州作戦、秋の武漢・関東侵略作戦へと矢継ぎ早に戦火を拡大してゆく結果となる。日本の思惑とは逆に、「わが抗戦根拠は・・・広大深遠な奥地にある」(蒋介石10月31日)と戦意はますます高く、点と線を確保しただけの日本軍の前途はまさに多難であった。「漢口陥落して国民狂喜し祝賀行列は宮...徐州大会戦--毎日新聞・日本の戦史

  • 武漢攻略作戦 --毎日新聞・日本の戦史

    「一億人の昭和史・日本の戦史4」昭和54年毎日新聞発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武漢攻略作戦中国軍は徐州会戦後、武漢地区の防衛を一段と強化した。大本営は、日中戦争の早期解決のため、武漢攻略作戦の実施を昭和13年6月15日に決定し、海軍との協同作戦を計画した。第11軍(第6・9・27・101・106師団ほか)を揚子江に沿う地区から進め、第2軍(第3・10・13・16師団ほか)を大別山系の北側地区から進めて、第11軍の作戦を支援する方針を採った。第2軍は蘆州周辺に兵力を集中し、第10・13師団は8月27日から進撃を開始した。中国軍の抵抗は頑強で、損害は多く、マラリア患者も多発し、戦力低下は大きかった。第3・...武漢攻略作戦--毎日新聞・日本の戦史

  • 背負われて料金所をとおる

    茂平集会所の映画茂平集会所の映画は、興行は金浦座で、茂平の世話は「浜の良やん」がしていた。良やんは入口に主同然に座って料金を集めていた。ひとり一人お金を集め箱に入れていた。映画は父か祖父と行っていたが、良やんは私の顔を見るとおんぶされるように口を出した。そして、「まだ歩けんのは子供じゃあない」と無料にしてくれた。この好意に感謝していたが・・・・だんだんと身体が大きくなり、おんぶの状態でその場所を通るのが明らかに不自然になった。恥ずかしかった。良やんはそれでも無料にしてくれた。4年生か5年生になり、近所の子供同士で行くことがあり、その時からお金を払うようになった。茂平の映画は、「良やん」の好意と、いつまでも「おんぶ」されたことを思い出す。一円札・拾円札・百円札一円札家の近くに恵比寿っさんの社があった。恵比寿っさん...背負われて料金所をとおる

  • 学校帰りの森陰で

    学校帰りの森陰で泉学校から茂平までは遠かった。峠の手前に泉が湧いていた。その泉に降りて行って手酌で水を飲んでいた。泉の水は・・・当然ながら・・・塩分がまったくなく、塩辛い水に慣れていた茂平の子にとっては名水だった。女の子も、男の子もその泉の水を飲んでいた。しかし学校へ行くとき、泉で飲む子は誰もいなかった。野苺帰り道は腹が減っていた。道べりには、春から夏に野苺があった。その野苺をつまんでは食べた。しかし、野苺は実が小さく食べても食べても腹の足しになることはなかった。三太郎用之江から茂平になり、道べりにTくんちの畑があった。その畑は李が植えてあり、初夏に三太郎が食べごろになった。その頃は、意識してTくんといっしょに帰っていた。その訳は、Tくんが畑に入って三太郎を取って食べることがあり、その時は一個渡してくれた。三太...学校帰りの森陰で

  • 岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

    岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く高校一年生の時、笠岡の大和座で「新川次郎ショー」があった。その日は授業があり、見に行くお金もなかった。授業中、今頃新川次郎は歌っているのだろうな、と気になった。それから10余年後、岡山で新川次郎ショーがあった。その時は独身貴族でお金のことはまったく気にならなかったが、既に、新川次郎の地位が小さくなっていて、「西川峰子・新川次郎ショー」だった。主役は西川峰子の方だった。場所は岡山市民会館。新川次郎は最後に「東京の日よいつまでも」を歌った。その三番目は、♪ああ岡山の日よいつまでも~で終わった。いい声をしていた。・・・・・・・・・・・・・・・岡山市民会館に北島三郎ショーを見に行く中学生の時、北島三郎が「ブンガチャ節」でデビューした。次の「泪船」もヒットした。それ以来北島三郎のファ...岡山市民会館に新川次郎ショーを見に行く

  • 占守島 --「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

    「断乎反撃せよ!」知られざる戦記歴史街道編2017年PHP発行より転記する。・・・・・・・・・・・・「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。しかし日本軍は立ちはだかる。17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。しかし小戦闘が起きるのみであった。停戦交渉談・元陸軍大尉長島厚8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司...占守島--「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

  • 常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

    常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら常磐ハワイアンセンターは大きな温泉施設で、毎日がレジャー客で人気があった。管理人も会員になっていて、(年会費を払えば何度でも入れた)家族でよく行っていた。常磐ハワイアンセンターには芸能ショーがあり、一流の歌手も出演していた。ある日、当時人気・・・今でも一定の年齢層に人気・・の桜田淳子ショーがあった。会場に行くと、いつもと違って超満員。立ち見でショーを見ることになった。その時、妻と2歳の長女の三人だった。ステージに現れた桜田淳子はかわいいステージ衣装で、踊って歌った。残念ながら後方で見ているので、お顔までははっきりと見えなかった。歌とおしゃべりのショーだったが、話す内容が子供向けで、おしゃべりは物足りなかった。長女は大人の脚しか見えないので、可愛そうで肩車にした...常磐ハワイアンセンターで、桜田淳子ショーを見ていたら

  • 三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

    三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド春と夏の甲子園では、幾多のヒーローが生まれているが誰が一番人気者であったか?といえば三沢高校の太田幸司投手だろう。顔は日露混血のエキゾチックな二枚目。試合は一人で延長戦を投げ抜き、翌日も連投、そして敗者となった。たちまち日本中の大ヒーロー。その試合に勝ったのが松山商業。優勝パレードがあり、松山市の上一万で見物した。選手はユニフォーム姿で、オープンカー4~5台、連なって学校方面へ向かっていった。松山商業は、もともと香川の高松商業と並んで、四国を代表する伝統の強豪校だった。その年は、甲子園優勝が加わり更に話題になった。それで、街中にある松山商の校庭に、野球部の練習を何度か見に行った。独立した野球部のグラウンドでなく、校舎と同じ敷地の校庭が練習場。広いグラウンドの外野の奥(敷...三沢高校と決勝戦をした松山商業のグラウンド

  • 天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

    天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た今もそうではあるが、当時(昭和50年前後)の岡山のバスターミナルといえば天満屋バスターミナルだった。今とは勢いがまったく違っていて、表町そして天満屋が、岡山市の中央である中心地だった。仕事で県庁に行くとき、休日に街へ行くときはバスターミナルでおり、帰りもそこから乗っていた。人の流れが多いのでラジオ山陽のサテライトスタジオがあった。ある日、サテライトスタジオの前を通っていたら舟木一夫がゲストで地元アナと会話をしていた。その当時、大歌手・舟木一夫は歌手人生のどん底の時代だった。透明のガラス越しに見る本物の舟木一夫は、人気歌手でもアイドル歌手でもなく、顔の表情に覇気がまったくなかった。つまり、立ち止まって見るほどの魅力がなかった。素通りした。それから何年かして復活した。復活して...天満屋サテライトスタジオで舟木一夫を見た

  • 丸坊主

    丸坊主城見保育園ができ、その入園ごろに丸坊主になった。(それから高校3年生になる春まで、ずっと丸坊主だった)城見小学生の2年か3年の時、学校の下に散髪屋ができた。そこには大人と、子供の一部が客で入っていた。ほとんどの子供はバリカンで刈り上げていた。庭で箱に座り、近所の年上の子や兄弟に頼む子も多かった。子供が刈ると、どうしても虎狩りになっていた。そして刃が(よく切れなくて)髪にはさったまま止まり、バリカンを髪から抜いてやり直していた。その時の子供の顔はそうとう歪んでいた。それは日常の風景だった。私は父親がバリカンで刈ってくれていた。刈った後はカミソリで剃ってくれた。高校生になって、床屋に行くようになった。「にまいがり」といってクリクリ坊主でなく、ほんの少しイガグリ頭で、当然ながら父よりは刈った頭がきれいだった。大...丸坊主

  • 旗行列・提灯行列

    ひいひい祖母さんが吉浜から茂平に嫁入りしたときは提灯行列だったそうだ。(江戸末期)母やおばの話では、昭和15年の皇紀2600年の祝賀で町村の旗行列に参加している。戦前の南京陥落や武漢陥落も笠岡地域で行列があったようだ。政治家では戦線の犬養木堂の首相就任で庭瀬で、戦後は越後の田中角さんの大臣就任の写真記事をみる。近年では広島でのカープ優勝の提灯行列。夜道を、提灯をもって歩く時代が過ぎると、ほぼ提灯行列は消えていったように思える。・・・・・・・・・・・・・・・・「こどもの四季」加太こうじ著河出書房2009年9月発行より転記ちょうちん行列ちょうちん行列、旗行列と昭和12年7月7日の日中全面交戦の勃発から昭和17年末頃までは、年に何回かは、きまって町内会のお達しで戦勝祝賀の行進にかりだされた。昭和16年12月8日の対米...旗行列・提灯行列

  • 満洲帝国の滅亡

    「満州帝国」第三巻児島襄1976年文芸春秋発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和20年8月17日の新京夜が明けると、新京は一段と敗戦状況を悪化させ、市内は無政府状態にひとしい状況となった。随所に銃声がひびき、流弾がとび、日系市民の商店、民家にたいする満人の掠奪が続発した。日系市民は、自発的な自衛行動を組織できず、多くはただ公共建物に避難するだけであった。ソ連軍兵士新京市民が、ソ連からうけた直接の脅威は、その兵士たちの暴行である。一般市民は、終戦とともに頻発した暴民の横行に恐怖していただけに、ソ連軍の進駐と軍政の施行によって治安が回復することを、期待した。ところがソ連兵は、日本人市民にたいして公然と暴行をしはじめたのである。新京には、連日、数百人単位でソ連軍部隊が流入してきたが、...満洲帝国の滅亡

  • 死んだ人・・・その2

    まぼろしの従兄近くに住むおば(父の妹)は高齢となって、もう2年ほど会っていない。おばに長男は二人いる、いた。昭和19年に満州帝国で最初の長男を産んだ。次に笠岡市で昭和30年ごろ(二人目の)長男を産んだ。最初の長男は満州帝国の崩壊で、混乱の最中に失った。おばは昭和18年、結婚と共に満州に渡り昭和19年、長男を産んだ。昭和21年、夫と二人で笠岡に帰った。「子供がいないかったから日本に帰れた」という話を、おばから聞いた時、自分の喉が絞めつけられ、呼吸ができないほどの衝撃を受けた。子供はいた。おばに男の子がいたことは、父や母の話で間違いない。その子は、死んだのだろうか?中国残留孤児で生きているのだろうか?残留孤児が新聞テレビで報道された時代、おばはどんな気持ちだったのだろう?おばは帰国後、三人の子を授かった。おばの胸に...死んだ人・・・その2

  • 死んだ子

    死んだ子オオバコの娘宮の先の畑にはイチジクや薩摩芋を植えていた。ときどき畑に遊びに行った。隣の畑にも、同じ年の女の子が遊びに来ていた。堂面川が流れ、その川に笹の葉で船を作って浮かばせて、どちらの船が遠くまで流れるか競争していた。道にオオバコが生えていた。オオバコの茎を交わらせて切れるまで勝負した。その子とそうやって遊んでいたが、遊んでいた3日後位に、突然伝染病で亡くなった。その娘の名は、どうしても思い出せない。軍人遺族の子近所でかつ親類である家に二人姉妹がいて、その姉妹は姉の年齢と上下ひとつ違いの良い遊び相手だった。ときおり、姉の後ろをついて遊びに行っていた。その家のえんだ(濡れ縁)には少女雑誌が一冊あって、グラビアに美空ひばりの映画「娘船頭さん」の写真が載っていた。その二人姉妹のお姉さんの方が、赤痢にかかって...死んだ子

  • 「生きている兵隊」③その後

    「戦争と検閲」河原理子著2015年発行岩波新書より転記する。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1937年~1938年の曲がり角いまふりかえると、「生きている兵隊」事件は、日本の曲がり角で起きた。日中全面戦争を機に、さまざまな統制が一気に強められる渦中に起きた。中央公論3月号に「生きている兵隊」発禁処分と、「国家総動員法」の記事とが載っていた。1938年武漢へ再従軍執行猶予付き有罪判決後すぐ、中央公論社の特派員として再従軍。武漢攻略戦を取材した。(1938.9.12~11.20)今度は注意深く書き、作家としての命脈をつないだ。1942年シンガポールへ海軍報道班としてベトナム、シンガポールへ渡った。短編を発表したが印象に残る作品でなかった。高見順「敗戦日記」昭和20年9月30日マッカーサー...「生きている兵隊」③その後

  • 「生きている兵隊」②岩波新書・戦争と検閲より

    父が従軍した徐州戦と漢口戦には、多くの作家も取材従軍をしているが火野芦平と並び石川達三も参加している。武漢市では、父と石川達三と同じ時を共有している。「戦争と検閲」河原理子著2015年発行岩波新書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・軍機軍略の掲載禁止盧溝橋事件が起きた1937年7月から、内務省は矢継ぎ早に、記事差し止めに関する指示を出していた。兵力が集まる地名は書けない。部隊の移動を推知させるものも不可。規模がわからないように、小隊も中隊もすべて「〇〇部隊」と表記。戦死した場所も空も掲載不可。そもそも「我軍の不利なる記事・写真は掲載せざること」とあり、都合のよいことしか掲載を認めなかった。美談は明朗に書き方を誘導するものがあった。銃後の美談などである。陸軍省は国民の愛国心を保...「生きている兵隊」②岩波新書・戦争と検閲より

  • 高見順「敗戦日記」② 昭和20年8月9日

    高見順「敗戦日記」②高見順は情報量が多かったようで、かつ沈着な分析で70余年後の今読んでも、歴史に流されることのない日記であることに驚く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高見順「敗戦日記」8月9日前日と今日の新聞が一緒に来た。前日の新聞をまず見た。「新型爆弾」については、一面のトップに記事が掲げてあるが、なるほど簡単である。・・・8月8日(毎日新聞)軽視許されぬ其威力速かに対策を樹立8月6日午前8時すぎB29少数機は広島市に侵入、少数の新型爆弾を投下した、そのため同市の相当数の家屋が倒壊、各所に火災が発生した、敵の投下した新型爆弾は落下傘をつけ空中で破裂したものの如くであり、その詳細については目下調査中であるが、その威力は軽視を許さぬ〔大阪発〕6日広島市に投下した敵のいはゆる新型爆弾につ...高見順「敗戦日記」②昭和20年8月9日

  • 高見順「敗戦日記」② 昭和20年8月9日

    高見順「敗戦日記」②高見順は情報量が多かったようで、かつ沈着な分析で70余年後の今読んでも、歴史に流されることのない日記であることに驚く。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高見順「敗戦日記」8月9日前日と今日の新聞が一緒に来た。前日の新聞をまず見た。「新型爆弾」については、一面のトップに記事が掲げてあるが、なるほど簡単である。・・・8月8日(毎日新聞)軽視許されぬ其威力速かに対策を樹立8月6日午前8時すぎB29少数機は広島市に侵入、少数の新型爆弾を投下した、そのため同市の相当数の家屋が倒壊、各所に火災が発生した、敵の投下した新型爆弾は落下傘をつけ空中で破裂したものの如くであり、その詳細については目下調査中であるが、その威力は軽視を許さぬ〔大阪発〕6日広島市に投下した敵のいはゆる新型爆弾につ...高見順「敗戦日記」②昭和20年8月9日

  • 昭和20年8月8日夕刻、仁科芳雄博士広島に着く

    仁科博士の出身地である里庄町では、「広島に投下された新型爆弾は”原爆”である」と最初に報告し、「終戦へ導いた」平和の人である、ことになっている。しかし、博士は原爆の開発者であり、(原爆の父となりえる地位)軍は”原爆”と判定したので、その確認のため開発者である博士を派遣したのは間違いない。それに、博士が広島に着いたのは8月8日夕刻である。一般人である作家の高見順でさえ、8月7日に情報を入手している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・高見順「敗戦日記」①8月7日新橋駅で義兄に「やあ、高見さん」と声をかけられた。「大変な話——聞いた?」と義兄はいう。「大変な話?」あたりの人をはばかって、義兄は歩廊に出るまで、黙っていた。人のいないとこへと彼は私を引っぱって行って、「原子爆弾の話——」「広島は原子爆弾で...昭和20年8月8日夕刻、仁科芳雄博士広島に着く

  • 2020年、新型コロナウイルスで街は

    倉敷美観地区は、ゴーストタウンを想像させた。見たこともない光景だったが、有名観光地は何処も同じなんだろう。(倉敷美観地区入口・2020.5.1212:30頃)(倉敷川沿い・2020.5.1212:30頃)(倉敷アイビースクエア前・2020.5.1212:30頃)2020年、新型コロナウイルスで街は

  • 観音寺城と近江商人について

    新型コロナウイルスが騒がれる前の、今年2月ごろひる時間が長くなる5月末頃に滋賀県の湖東の、日本100名城「観音寺城」と重伝建「五個荘金堂」に行く計画をしていた。コロナで行けなくなったのでメモとして残す。(2020.1.28JR車窓から)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「城105」日本城郭協会著フローベル館2017年発行観音寺城室町時代のはじめ、守護・佐々木氏によって築かれた「山城」。その後、六角氏により1556年ごろ大きく整備された。日本最古級といわれる本格的な「石垣」が残っている。城には1.000もの「曲輪」が点在し、それぞれの曲輪は石垣で囲まれていました。その後、1568年に織田信長にせめられ六角氏は逃亡、城は廃城となりました。・・・・滋賀県の歴史昭和47年山川出版社発行...観音寺城と近江商人について

  • 観音寺城と近江商人について

    新型コロナウイルスが騒がれる前の、今年2月ごろひる時間が長くなる5月末頃に滋賀県の湖東の、日本100名城「観音寺城」と重伝建「五個荘金堂」に行く計画をしていた。コロナで行けなくなったのでメモとして残す。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「城105」日本城郭協会著フローベル館2017年発行観音寺城室町時代のはじめ、守護・佐々木氏によって築かれた「山城」。その後、六角氏により1556年ごろ大きく整備された。日本最古級といわれる本格的な「石垣」が残っている。城には1.000もの「曲輪」が点在し、それぞれの曲輪は石垣で囲まれていました。その後、1568年に織田信長にせめられ六角氏は逃亡、城は廃城となりました。・・・・滋賀県の歴史昭和47年山川出版社発行観音寺城蒲生郡安土町と神崎郡五個荘...観音寺城と近江商人について

  • 生理の日・脱脂綿(高校の時)・・・その2

    確認を含めて再度姉から聞いた。姉の話2020.5.3.........................................................お祖母さんが持っていた(見せてくれた)のは、手ぬぐいのようなのを、ちょん切って、それを折ってたたんで。使ったあとは洗濯して、何度も使う使うときは、ふんどしのように(股に)はさんで・・帯か紐かゴムかで止みょうた。お祖母さんはそのうえに腰巻を巻きょうた。お祖母さんは閑じゃったんで自分で出るのを調整しようたんじゃない。・・・ブラジャーは、祖母も母も無かった。お乳がようけい出るときは困りょうた。こぼれたり、肌につきょうた。・・・学校(中学・高校)でも、なんもおしえてくれなんだ。お母さんもおしえてくれなんだ。お母さんは大きな脱脂綿を買ってきてくりょうただけ、...生理の日・脱脂綿(高校の時)・・・その2

  • コカコーラを飲む

    姉の話2020.3.20....................................................................................................................................洗濯洗濯は洗濯板。冬は冷たかった。洗濯竿に干しょうた。ちゃぶ台みたことはない。タンス金具をにぎって出す、かたかた音がして(引き出し箱を)出しにくかった。高校の便所きたなかった。横につながって、下はまる見え、・・・早ぅ出にゃあいけん思ようた。小学校の弁当ぬくめ小学校に弁当を温めるとこがあった。たくあんの臭いがしみこんで、ほかにも温めるのは嫌いじゃった。山ぶどう学校の帰りに食べながら帰りょうた。山の下の水を飲んだり、顔を洗ったり、そ...コカコーラを飲む

  • 武漢攻略作戦(ペン部隊の派遣)

    「日中戦争全史・下」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武漢攻略作戦・ペン部隊の派遣徐州作戦での戦意高騰に成功した軍部は、武漢を利用したメディア戦略を展開した。文芸春秋社の菊池寛に要請し、当時の人気作家・流行作家が集められた。陸軍には、林芙美子・深田久弥・川口松太郎・尾崎士郎・丹羽文雄・岸田国士・久米正雄・・・。海軍には、菊池寛・古屋信子・佐藤春夫・吉川英治・・・・、さらに軍歌を作詞・作曲しまくった感のある西条八十や古関裕爾らで、中国戦地へ出発した。「戦場将兵の活躍ぶりを遺憾なく国民に伝えること」「皇軍の正義をとうとび、軍規の厳正なること」を要請された。ペン部隊のヒロインとして大活躍をしたのが『放浪記』がベストセラーになり人気作家になって...武漢攻略作戦(ペン部隊の派遣)

  • 武漢攻略作戦

    父は第10師団の兵だったが、毒ガスのことを話したことは一度もない。「日中戦争全史・下」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・武漢攻略作戦武漢は長江に漢水が合流する地点に向かい合う武昌・漢口・漢陽お三鎮(都市)からなる。南京から重慶へ首都を移すことを宣言した蒋介石が、武漢に暫定的に首都機能を移していた。また、国民政府軍の軍事機関と施設が集中し、中国軍の主力が集結していた。1938年6月13日、大本営御前会議で武漢攻略作戦実施が決定した。武漢と広東を攻略し、年内に日中戦争の決着をつける方針を立てた。武漢作戦は、8月22日「漢口付近の要地を攻略占拠すべし、この間成るべく多くの敵を撃破するに努むべし」という大本営の命令によって開始された。総勢40万...武漢攻略作戦

  • 徐州作戦

    「日中戦争全史・下」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本の政府と軍部さらに国民をふくめて、賭博の心理そのままに、国民政府の大都市を占領していけば、「国民政府の壊滅を期する」ことができるような思い込みで、さらなる大作戦を展開することになった。1938年2月、中支那派遣軍(畑俊六大将)が編成され、長江南岸地域の確保・安定任務があたえられた。台児荘の戦い北支那方面軍には黄河以北の確保・安定が任務だった。しかし北支那方面軍は参謀本部に従わず、戦線を黄河南部にまで拡大した。3月上旬、台児荘を攻撃した。中国軍に包囲され、かろじて撤退した。中国は「台児荘の大勝利」と宣伝し、武漢や重慶で祝賀行事がおこなわれた。また世界各国にも報道した。日本軍は面子を...徐州作戦

  • 徐州作戦

    「日中戦争全史・下」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日本の政府と軍部さらに国民をふくめて、賭博の心理そのままに、国民政府の大都市を占領していけば、「国民政府の壊滅を期する」ことができるような思い込みで、さらなる大作戦を展開することになった。1938年2月、中支那派遣軍(畑俊六大将)が編成され、長江南岸地域の確保・安定任務があたえられた。台児荘の戦い北支那方面軍には黄河以北の確保・安定が任務だった。しかし北支那方面軍は参謀本部に従わず、戦線を黄河南部にまで拡大した。3月上旬、台児荘を攻撃した。中国軍に包囲され、かろじて撤退した。中国は「台児荘の大勝利」と宣伝し、武漢や重慶で祝賀行事がおこなわれた。また世界各国にも報道した。日本軍は面子を...徐州作戦

  • ゴールなき泥沼戦争へ(徐州作戦以前)

    「日中戦争全史・下」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1937年、「盧溝橋事件」は「北支事変」に発展させ,海軍は謀略で「第二次上海事変」を起こした。さらに首都南京へ渡洋爆撃をおこない、一挙に全面戦争「日支事変」に拡大した。しかし安易な「中国一撃論」は、すぐに破綻が証明された。すでに重慶に首都遷都を宣布し、武漢に首都機能を移し抗日戦争を継続したからである。1938年1月11日、大本営御前会議で「トラウトマン和平工作」と「国民政府壊滅の戦争継続」の和戦両策が議論された。1月15日、参謀本部以外(陸軍、海軍、軍令部、外相)が戦争継続に賛成した。1月16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず」を声明した。国民政府打倒と、新興政権の成立発展を期待した。このゴールな...ゴールなき泥沼戦争へ(徐州作戦以前)

  • ”従軍慰安婦”

    父が石家荘の時の体験談とほぼ同じ内容。駐屯地での兵隊は、朝行列訓練をすると、あとは何もすることがないそうだ。時間つぶしや、欲情や、お金の消費で、多くの兵が基地内にある「娯楽所」を利用していたようだ。「一億人の昭和史2」昭和50年毎日新聞社発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・”従軍慰安婦”という悲しい存在千田夏光従軍慰安婦とは軍命令により戦場におもむかされ、将兵の性欲処理の相手をさせられた女性のことである。軍によってつくられ軍の付属機関であった「戦場売春婦」であった。支那事変から大東亜戦争にかえ、第一線へ従軍した将兵三百数十万のほとんど全員が彼女らの肉体を抱いて己の欲望をいやした。十数万いたとされる慰安婦の8割以上が朝鮮の農村からつれだされた未婚の朝鮮女性であった。敗戦前後の混乱のな...”従軍慰安婦”

  • 重慶爆撃 (昭和13年~)

    「一億人の昭和史2」昭和50年毎日新聞社発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・重慶爆撃南京を失い、漢口を追われた蒋政権は、13年大陸の奥の、また奥・重慶に首都を移した。徹底抗戦で持久戦に持ち込む態勢を固めたのだった。この新首都に対する日本海軍の爆撃は早くも13年2月に始まり、以後、天候の許す限り連日のように繰り返された。陸軍機も加わったが、主としてこの役を受け持ったのは、海軍の「中攻隊」。重慶のほか成都、四川などにも翼をのばし、のち16年には、完成したばかりの一式陸攻も参加。日本空軍の奥地爆撃は、前後4年に及んだ。重慶爆撃(昭和13年~)

  • 首都南京制圧 (昭和12年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・首都南京制圧参謀本部は戦闘範囲を上海地区に局限する意向だったが、松井石根司令官はかねてから南京占領が必要と考えていた。昭和12年12月1日、大本営は従来の方針を変更して、南京攻略の大命を下命した。南京城攻略に直接参加したのは、第6・9・13・16・114の5師団。12月4日、外郭陣地を突破。12月10日、肉薄攻撃で光華門に突入。12月12日、城内に突入。12月17日、入城式が行われた、が占領からの数日間に行われた日本軍将兵による中国人殺戮暴行は、世界を驚かせ、中国民族の抵抗意識をより強固なものとしたのであった。首都南京制圧(昭和12年)

  • 漢口・広東 大陸の奥地へ (昭和13年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・大陸の奥地へ大本営は昭和13年5月末、同年秋ころに漢口と広東を攻略する方針を決定した。中支那派遣軍に新たに第2軍(第10・13・16師団)と第11軍(第6・101・106師団)が編入された。8月22日、大本営は漢口攻略を下命。第2軍は8月下旬から大別山系北方地区を進攻し、主力は10月12日、京漢線の信陽を攻略して漢口に向かい南下した。10月26日、第6師団は漢口に突入した。武昌も占領。大本営は9月19日、広東攻略を下命。第21軍(第5・18・104師団)は早くも21日、広東へ突入した。陸軍の主力をあげて漢口と広東を攻略したが、和平への道は遠かった。漢口・広東大陸の奥地へ(昭和13年)

  • 徐州会戦 人馬は進む麦畑 (昭和13年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・(徐州の麦畑でなく、岡山県笠岡市の麦畑2020.5.7)人馬は進む麦畑昭和13年3月、台児荘で北支那方面軍の一部は中国軍と激戦した。大本営は、戦線を拡大しない方針であったが、4月7日徐州作戦を命令した。大本営の計画は、北方から北支那方面軍、南方から中支那方面軍を進攻させて、徐州方面の敵を包囲攻撃しようとした。北支那方面軍は5月9日から南下を開始し、第5・10・16・114師団は徐州に向かい攻撃前進した。中支那方面軍は5月19日徐州を占領した。徐州攻略後、第10・14・16師団は西進して京漢線方面に進攻したが、6月12日の黄河決壊により、その前進は阻止された。徐州会戦人馬は進む麦畑(昭和13年)

  • 南京攻略戦 弾雨をのむ城壁 (昭和12年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・弾雨をのむ城壁軍中央は10月中旬、上海戦線の苦戦中を見て第10軍(第6・18・114師団)を上海南方の杭州湾に上陸させた。上海の中国軍は総崩れとなり西方へ退却した。上海派遣軍司令官の松井大将は、第10軍をあわせ中支那方面軍司令官となった。11月20日、大本営が設置。12月1日、大本営より南京攻略が下った。南京へ突進を開始した。12月9日、松井司令官は南京開城を勧告し、翌日正午までの回答を求めた。回答がないため、午後1時より総攻撃を開始した。12月12日、城壁を攻略。12月13日、南京を占領した。南京攻略戦弾雨をのむ城壁(昭和12年)

  • 南京攻略戦 弾雨をのむ城壁 (昭和12年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・弾雨をのむ城壁軍中央は10月中旬、上海戦線の苦戦中を見て第10軍(第6・18・114師団)を上海南方の杭州湾に上陸させた。上海の中国軍は総崩れとなり西方へ退却した。上海派遣軍司令官の松井大将は、第10軍をあわせ中支那方面軍司令官となった。11月20日、大本営が設置。12月1日、大本営より南京攻略が下った。南京へ突進を開始した。12月9日、松井司令官は南京開城を勧告し、翌日正午までの回答を求めた。回答がないため、午後1時より総攻撃を開始した。12月12日、城壁を攻略。12月13日、南京を占領した。南京攻略戦弾雨をのむ城壁(昭和12年)

  • 北支戦線 山岳を征く (昭和12年)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・山岳を征く北支方面の日本軍は逐次増加され、8月31日には北支那方面軍司令部(司令官寺内寿一大将)を設け、兵力は第5・第6・第14・第16・第20・第108・第109師団、臨時航空兵団を基幹とした。(途中略)第10師団は津浦線地区を南進し、12月26日には済南を攻略した。北支戦線山岳を征く(昭和12年)

  • 戦火上海に飛ぶ (昭和12年)

    「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・戦火上海に飛ぶ北支事変後、中・南支方面の情勢も悪化した。昭和12年8月9日、海軍大山中尉が保安隊に射殺される事件が起こり、翌日から交戦状態になった。海軍は長崎の大村や台北から南京や南昌の航空基地に渡洋爆撃を実施した。居留民保護のため、上海派遣軍(松井石根大将の指揮する第3、第11師団)が編成され急派されることになった。上海派遣軍は8月23日から攻撃を開始したが、中国はクリークを設備した堅固なもので進展しなかった。第9、第13、第101師団などが9月末から増強されたが苦戦が続いた。9月末、上海周辺の日本軍は約19万であった。10月20日、海軍は第3、題4艦隊で支那方面艦隊を編成した。なお、海軍は9月5日全中国の沿岸封鎖を宣言した。戦火上海に飛ぶ(昭和12年)

  • 第二上海事変とその頃(昭和12年=1937年)

    「日中戦争全史・上」笠原十九司著2017年高文研発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・昭和12年7月11日、「北支事変」と命名事態を「北支事変」と命名し、近衛内閣は「重大決意」を発表した。満州国および華北の治安維持のため、そして中国に反省を促すため華北に派兵するという強硬な声明を発表した。盧溝橋事件は、局地の軍事衝突事件から本格的な日中戦争へと拡大することになった。7月29日、「通州事件」通州保安部隊、約3.000人が反乱を起こし居留民223人を殺した。日本人117人、朝鮮人(慰安所関係)106人。『東京日日新聞』は、「通州の大虐殺」として日本国民の敵気心・憎悪心を扇動した。この段階において軍中央は、呼称通り華北に限定していた。8月9日、大山事件海軍の上海派遣隊の大山中尉が中国陣地内で射...第二上海事変とその頃(昭和12年=1937年)

  • 徐州会戦

    日米戦争は昭和16年12月に始まったが、日中戦争は昭和13年5月が事実上の開戦日。多くの本があるが、何冊かの本から転記する。「昭和史4」研秀出版平成7年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徐州会戦昭和13年3月末から4月、北支方面軍の一部は、徐州東北30キロの台児荘で、中国軍に包囲され苦戦ののち転戦した。中国側は大勝利と宣伝をおこなった。軍中央は不拡大方針を捨て、徐州周辺地域の60個師団の中国野戦軍を撃滅を計画し、4月下旬、徐州会戦を開始した。北方から3個師団で徐州へ、1師団は龍海線・京漢線の遮断で南下、南方から3師団が北上、うち2師団は迂回して徐州へ。おりからの麦秋の平原地帯を進撃した。中国軍兵力は5倍あったが、砲火力、航空兵力の乏しさ、統制力の不足などで蒋介石は5月15日、徐州の放棄を...徐州会戦

  • 春秋園事件

    2年ほど前、大横綱だった貴乃花親方が、別の部屋の力士による弟子への暴行で相撲協会を告発したら、逆に貴乃花親方が悪者になって、相撲協会から追放されてしまった。プロ野球はメジャーリーグを見習って、選手や試合や経営を時代に合わせながら変革しているが、相撲は見本やライバルが存在しないうえに、経営まで元相撲取で行っているので、どんどん時代から取り残されている。昭和7年の「春秋園事件」から88年、相撲協会は今まで何をしてきたのだろうか?「昭和史3」研秀出版平成7年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・春秋園事件昭和7年1月6日、天竜・大ノ里・武蔵山ら29人は相撲協会に要求書を提出した。相撲協会の会計制度を確立すること相撲茶屋を撤廃すること年寄り制度を漸次廃止すること地方巡業制度を改革すること力士...春秋園事件

  • NHK朝ドラ「エール」と『比国決戦の歌』

    古賀政男や服部良一と並ぶ作曲家・古関裕而は、行進曲が得意で、流行歌もテンポよい曲が多い。となれば、当然のように軍国時代には作るレコードが売れ最大ともいえる軍歌の作曲家となった。しかし、終戦とれば、それが仇となり代表作の一つ『比国決戦の歌』では、作詞の西城八十が死刑の推測記事が出た。作曲した古関裕而も、戦犯逮捕を覚悟したことだろう。今,NHK連続テレビ教室で、古関裕而の物語「エール」を放送している。あの時代はどのようにドラマになるのか、少しだけ気になっている。・・・・・・・・・・・・・・・・・「従軍歌謡慰問団」馬場マコト白水社2012年発行より転記・・・・・・・・・・・・・・・・・古賀政男は、玉音放送を聞きながら引退を考えたが1946年5月歌謡界に復帰した。渡辺はま子は、慰問中で天津で捕虜。戦後もヒット曲を生み出...NHK朝ドラ「エール」と『比国決戦の歌』

  • カラーテレビ出現

    昭和35年、カラー放送は昭和35年(1960)に始まった。しかし家には白黒テレビすらなかった。昭和37年、家にテレビが入った。(当然白黒テレビ)その2年後に東京リンピックがあった。昭和45年ごろ、呉に住む、姉夫婦の家にはカラーテレビがあった。「柔道一直線」を見ていた。その頃、ボクシングのモハメッド・アリvsジョー・フレージャーの無敗同士の試合をどうしても見たく、食堂へ行って見た。カラー放送で見た。昭和46年、(新入社員)労組の要求事項に「社員寮のテレビをカラーテレビ化」があった。昭和48年、(独身社員)個人でカラーテレビを買った。12~14万円したような記憶がある。放送の半分くらいが白黒で、半分くらいがカラー放送だった。それから2~3年後、ほぼすべての番組がカラーとなり、新聞の番組案内から「カラー放送」という表...カラーテレビ出現

  • カラー映画・総天然色出現

    小学生になった頃、映画は全盛期を迎えようとしていたが映画はすべて白黒映画だった。昭和26年(1951年)「カルメン故郷に帰る」が邦画の第一作だが、自分が初めて見たカラー映画は洋画だったような気がする。昭和32年前後、小学校からバスで笠映(その後スーパー和信)か、その近くの映画館に入り洋画を見た。それがカラー映画だった。スクリーンの海や魚を覚えている。昭和33年ごろ(映画人口最大時)、カラーと白黒がはんはん。東映の「一心太助」「新伍十番勝負」シリーズはカラーだった。新東宝「明治天皇と日露大戦争」はカラーだった。昭和36年(1961)大映が70mm「釈迦」を上映した。この頃から、ほぼすべての映画がカラー映画になった。高校生の時入るのは、大和座とセントラル劇場と中央劇場で、見た映画が白黒だった・・・という記憶は一度も...カラー映画・総天然色出現

  • トーキー出現

    祖父とほぼ同世代の川端康成の小説「伊豆の踊子」は、青年と踊子が”活動”をいっしょに見るあこがれを書いている。祖父は明治・大正・昭和・平成と生きたが、死ぬまで映画は『活動』と呼んでいた。映画はやはり”活動”という方がわくわく感がある。踊子も、そして祖父も父も無声映画からトーキーへの転換を体験している。昭和史3大衆と文化(戦前)研秀出版平成7年発行より転記。・・・・・・・・・・・・・・・トーキーの出現は、美男美女のスターであっても、地方なまりをもっている俳優はスターの座を追われた。これまで活動大写真の劇場に欠くことのできなかった弁士と楽士の生活基盤をうばった。弁士は活弁とも呼ばれ、徳川夢声、大辻司郎など、昭和6年に関東地方でだけでも1.000人以上が数えられた。トーキー時代を迎え、音もなく敗退していった。撮影機材・...トーキー出現

  • 映画・用心棒の羅生門

    映画の全盛期、茂平の集会所で映画の上映があった。上映日の2~3日前に映画ポスターを貼りだしていた。場所は青木の大池詰所、農協の園芸所、吉本商店の三か所。初めは福山から来ているという噂だったが、金浦座が来ていた。月に1~2回程度、映画は二本立てで「時代劇」と「現代劇」。婦人は家事が終わってから来るので、一本目が時代劇で二本目が現代劇だった。男の子は時代劇だけが目的で、現代劇は不要だった。不要なら帰ればよいのだが、夜道を一人は怖いので二本目終了までいた。映画上映日の翌日は、学校帰りに集会場に寄っていた。必ず切れたフィルムが何個が落ちていた。それを手にして、目の前に見るのが楽しみだった。ある時「用心棒」が上映された。見に行った。監督は黒澤明、用心棒は三船敏郎、悪い方は仲代達也。この映画は大ヒットして有名だった。(当時...映画・用心棒の羅生門

  • 重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

    武漢占領で日本国内はお祭り騒ぎ、現地では、漢口から軍機による重慶への無差別攻撃が始まった。日中戦争全史・下笠原十九司著高文研2017年発行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃1941年9月、海軍航空隊がアジア太平洋戦争の開戦準備で各地へ移動した。それまでの4年間、ほぼ連日にわたり、中国全土の都市・鉄道・軍事施設などへの爆撃をおこなった。なかでも、中国の鉄道と駅舎、中国空軍飛行場、海軍の艦船、民間の船舶への回数が際立つていた。走行中の列車への爆弾投下など、対米戦争にみたて、格好の爆撃訓練になった。数十機、さらには100機をこえる爆撃機・戦闘機の航空燃料は軍事機密として、どこからもチェックされなかった。空爆作戦日本軍が武漢占領後、蒋介石は重慶を臨時首都として、長...重慶爆撃--長期かつ大規模な都市無差別爆撃

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