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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 大中山温泉

    場所・岡山県和気郡和気町大中山無くなった日時・2014年3月撮影日・2009.12.19いや~~、大中山温泉は変わった温泉だった。興味深い温泉施設だった。和気インターおりて、国道を北へ数分。国道沿いの荒れ地にコンテナがずど~ん。それが大中山温泉。浴槽も、ほかでは経験できない味がある。お湯も湯ったりした感触の肌触り。この温泉には二度行った。通れば入るのだが、なにせ遠い(というより高い高速料金が原因だが)ので三度目を迎えることなく閉店してしまった。惜しい温泉だった。大中山温泉

  • 西光寺温泉

    場所・広島県福山市御幸町森脇無くなった日時・2010年ころ(?)撮影日・2009.5.27西光寺温泉は自宅から最も近い温泉の一つだった。家から20分の距離。この温泉は湯治場的な利用が主で、(食堂はなく)弁当持参して温泉~弁当~温泉、とほぼ一日湯につかる。何年か前に、新聞に閉店の記事が載っていた。西光寺温泉

  • 玉椿の湯

    場所・岡山県倉敷市水島イオンタウン水島店無くなった日時・2012年8月ころ撮影日・2009.1.10玉椿の湯は便利な場所にあった。イオン水島の敷地内にあった。最初はスーパー内にある「スーパー銭湯」で、”ただいま温泉を掘っています”という触れ込みだった。幸いに温泉が出て「スーパー銭湯」から「温泉」に変わった。ところが不幸にも資金切れでイオンへ賃借料が払えなくなり、イオンは温泉施設を解体した。温泉になってすぐに施設は無くなってしまった。利用者には残念な結果となった。玉椿の湯

  • 夢の湯

    場所・広島県福山市千田町無くなった日時・閉店2014年(跡地にまごころの湯が2015.12オープンした)撮影日・2013.1.2夢の湯は温泉でなく銭湯だった。国道182号線沿の福山と神辺の間にある、交通便利な場所にあった。蔵王山の北麓に位置し、蔵王山に登った帰りに夢の湯をよく利用していた。途中から芝居小屋を併設したが、長く続かず閉店した。夢の湯

  • 矢野温泉

    場所・広島県甲奴郡(こうぬぐん)上下町(じょうげちょう)無くなった日時・「あやめ荘」閉店2016年12月25日撮影日・2010.11.29矢野温泉は30年ほど前まで、たいそうな人気があり温泉街を形成していた。その中心に「矢野温泉あやめ荘」があった。備後や備中の南部から、山間の矢野温泉へ行くのが主な客層だったと思われる。南部にも温泉が増えて、次第に客が減り、最後に「あやめ荘」が残った。あやめ荘は大衆劇場も兼ねていて、一日遊べる(宿があるので二日でも三日でも)施設だった。いい温泉だったが、2016年に「あやめ荘」は閉店し、矢野温泉の歴史は終わった。矢野温泉

  • 天満屋ハピータウン東福山店(伊勢丘店)

    場所・広島県福山市伊勢丘無くなった日時・閉店2014年4月20日撮影日・2014.1.25天満屋ハピータウン伊勢丘店の栄光の時代は長く続いた。日本鋼管や西日本最大の伊勢丘団地の成長と共にお店も繁栄した。まさに福山市東部を代表する商業施設であり、文化の貢献度もあった。建物が老朽化する頃、消防署の跡地などに新しい大型商業施設が進出した。ハピータウンはいつの間にか、伊勢丘店から福山東店に店名が変わり食料品は店子の「ハート」おまかせにした。2014年に「みどり店」と共に閉店した。なお、お店は解体して更地。現在も更地の状態がつづいている。天満屋ハピータウン東福山店(伊勢丘店)

  • イトーヨーカドー福山店

    場所・広島県福山市入船町無くなった日時・閉店は2019年2月11日の午後8時撮影日・2019.1.301999年に、元日本化薬の工場跡地に巨大なショピングセンターが完成した。「ポートプラザ」と名付けられ、天満屋ハピータウンとほぼ東西対称形の建物を二分したお店。天満屋とは業務内容がほぼ重なった。広島県福山市では、日本最大のヨーカドーといえども、天満屋の方が馴染みが強く苦戦した。前年の岡山店に続いて撤退。現在は元は広島市から起こった「夢タウン」が、ヨーカドーを引き継ぎ営業している。イトーヨーカドー福山店

  • イトーヨーカドー岡山店

    場所・岡山県岡山市北区下石井無くなった日時・(閉店)2017.2.28撮影日・2013.8.4ヨーカドーは東日本の会社だったが、1998年に岡山の専売公社の跡地に出店した。その頃は積極経営なのか、単なる調子にのったのか?翌年には更に西へ1999年福山店がオープン。そして岡山店は2017年に閉店。福山店は2019年に閉店した。跡地には両備バスが37階建てのマンションを建てる。イトーヨーカドー岡山店

  • 岡山ビブレ

    場所・岡山県岡山市北区(イオンモールの向かい側)無くなった日時・2018年ごろ解体撤去撮影日・2013.8.4最初、山陽新幹線の岡山駅開業頃に「ニチイ」として建った。もう半世紀も前のことだ。その後、ファッションの「ビブレ岡山」となったが、2017年に閉店。現在は更地だが、両備グループと源吉兆庵とストライプの3社がビルを建てる予定。岡山ビブレ

  • 向島紡績の赤レンガ

    場所・広島県尾道市向島町無くなった日時・2012年夏に解体撮影日・2012.4.28向島(むかいしま)の向島紡績の工場は戦後、近代産業遺産というより「旧向島捕虜収容所」という戦争遺産で知られていた。これが、「旧向島捕虜収容所メモリアルプレート」。第二次大戦中の英軍と米軍の捕虜収容所だった。旧・英軍捕虜が訪問しては新聞に載っていた。しかし、その人たちも没したり高齢化で訪問が無理になる頃この元収用委所は解体撤去された。日本中のほぼすべての町に当てはまるように、紡績工場閉鎖→跡地はスーパー。となった。赤いレンガ壁の工場(または工場跡)は、絶滅危機になっている。向島紡績の赤レンガ

  • 甲弩山手の沈下橋

    場所・笠岡市甲弩(こうの)尾坂川無くなった日時・「2018西日本豪雨」撮影日・2005.10.16甲弩山手の尾坂川にオール木造の沈下橋があった。車もバイクも人も渡っていた。ところが「2018西日本豪雨」で橋は半壊した。復旧は不可能の見えるほど壊れた。橋の北側、尾坂川の土手左岸が決壊した。現在決壊場所は復旧しているが、橋は消滅してしまった。笠岡の、ひとつの名橋だった。残念。甲弩山手の沈下橋

  • 流れ橋・野宮橋

    場所・岡山県小田郡矢掛町江良無くなった日時・「2018西日本豪雨」撮影日・2009.1.21流れ橋・野宮橋

  • 中津川の沈下橋

    場所・広島県福山市御幸町・駅家町無くなった日時・損壊「2018西日本豪雨」撮影日・2010.1.17福山の御幸町周辺の芦田川には「潜水橋」と呼ばれているコンクリート製沈下橋が数本ある。「2018西日本豪雨」で5本が損壊した。(下山守橋)国交省は5本損壊のうち、2本を修復、3本を解体撤去と決めた。写真↑↓は下山守橋で復旧が決まったが、それでも暫定的な修復で国交省は本格的な橋に付け替えたいようだ。(下山守橋)中津川の沈下橋

  • 天満屋ハピータウンみどり町店

    場所・広島県福山市緑町無くなった日時・(閉店)2014年5月25日撮影日・2013.3.13福山市緑町のハピータウンは繁盛していた。最上階にはカルチャースクールもあり、管理人の子供も水泳教室に通っていた。ところが、向かい側にあるサンピアを解体する。しかも跡地は商業施設「ココローズ」となる。緑町店から数百m離れて「天満屋ハピータウン・ポートプラザ店」もできる。それに加え、みどり店の建物が老朽化した。妥当な時に閉店した。跡地には同業者のハローズができ、福山市有数のスーパー激戦地域になっている。天満屋ハピータウンみどり町店

  • 日本はきもの博物館

    場所・広島県福山市松永町無くなった日時・(閉館)2014年11月24日撮影日・2013.11.19松永と言えば、一に塩田、二にイ草、三に下駄のイメージだが日本全国博物館ブームの時代に「はきもの博物館」を建設した。塩田は瀬戸内地方にありすぎる。イ草は岡山県の生産規模が大きい。となれば、下駄に関する博物館にするしかない、妥当なところ。館内は松永の下駄以外にも、国内の新旧すべての履物、海外の履物が展示されて興味深い博物館だった。お勉強にもなった。しかし何度も行くほどでもなく、松永駅から近くもなく、入館者数は減り博物館は閉館となった。現在は、「福山市松永はきもの資料館」になっている。日本はきもの博物館

  • 通り町のアーケード

    場所・広島県福山市笠岡町無くなった日時・2015年ごろ(とおり町StreetGarden完成が2016年7月)撮影日・2013.11.9福山の本通りには子供の頃からアーケードがあった。その時代は商店街=アーケードありだった。現在は国(経済産業省)の補助で青空にして、通りに樹木を植えた商店街になっている。「とおり町StreetGarden」が正式な名称だが、そうゆう言葉を使う人は誰もいない。通り町のアーケード

  • 70mm大黒座

    場所・広島県福山市笠岡町(シネフク大黒座)無くなった日時・2014年8月31日撮影日・2013.11.9福山市を代表する映画館。明治時代から芝居、無声映画、トーキー、70mmと120年を経て閉館した。福山には、日米館やKO劇場など多くの映画館があったが、大黒座は別格だった。料金も他館と比べて少し高かったような気がする。惜しまれて閉館した。跡地にはコンビニ大黒座が建っている。70mm大黒座

  • 福山市営競馬

    場所・広島県福山市千代田町1-1-1福山競馬場無くなった日時・2013年3月24日撮影日・2013.3.23長く福山市の財政に貢献してきた福山競馬が逆に、慢性の赤字になって遂に福山市長は廃止を決断した。福山競馬の最終日の前日に、生まれて初めて競馬を見に行った。競馬はテレビニュースで、ゴールの瞬間に10万人の観客が紙吹雪をまき散らすイメージをもっていたが、福山競馬にはだれ一人紙吹雪を撒く人はいなかった。それよりも、走っているはずの馬がややスピードを緩める。なんでだろう?と思ったら、ゴール地点を過ぎたので走らなくなったことだった。まあちんぷんの競馬見物だった。地方競馬なので、観客席も人も草競馬的な雰囲気を感じた。このあと、競馬場内でどんを食べてから後にした。人生初で最後の競馬見物だった。福山市営競馬

  • 応神山の反射板

    場所・笠岡市笠岡(応神山の山頂)無くなった日時・2016年撮影日・2013.2.8.笠岡十名山の「応神山」の山頂には大きな反射板が設置してあり、笠岡市の国道2号号線側からは、標高213mの山頂にランドマークのように白く高く建っていた。2016年に撤去され、その跡は山頂広場になった。応神山を愛するボランティアの方々によりベンチも据えられている。応神山の反射板

  • 富岡湾干拓の遊水池

    場所・笠岡市十一番町無くなった日時・2014年(水面にソーラー設置)撮影日・2013.11.14笠岡市の十一番町緑道公園に接して、富岡干拓の遊水池がある。四季それぞれに魅力の彩りを感じていた。また冬になると渡り鳥が水面に群れ、一段と魅力を感じる場所だった。ところが、何を思ったか、市が無粋なソーラーを設置、市民の潤いでもあった風景は消えてしまった。富岡湾干拓の遊水池

  • 島の大学芸会

    場所・笠岡市北木島町無くなった日時・笠岡市制60周年記念撮影日・2013.3.3「島の大学芸会」は、無くなったものでなく、笠岡市制60周年記念行事。ページの作成途中にわかったので、せっかくなので投稿する。北木港から会場の北木中学校への道。北木中体育館での踊り。主に笠岡諸島から参加。最後に福の種をまいて終わった。盛況だった。島の大学芸会

  • 神島天神祭りの石船

    場所・笠岡市神島(寺間同志会)無くなった日時・2018年ごろ撮影日・2008.9.20神島天神祭りは、飾った石船に、神輿と氏子を乗せた海上渡御が見せ場の一つ。石船は倉橋島や能美島から、この神島天神祭りのために遠路参加していた。しかし石船自体の仕事がなくなり、それにより新造船もなく、現在の船が廃船すれば石船での御渡りは無くなる運命だった。そして3年ほど前、最後まで石船だった新東地区も、石船でなくなった。神島天神祭りの石船

  • 元・神島のホフマン窯

    場所・笠岡市神島無くなった日時・2014年撮影日・2009.3.1神島の高地区にレンガの煙突が建っていた。昔、レンガを造り、のちにはオガライトの生産もしていた。古い写真を見ると、造ったレンガは窯の前の自然海岸から船で需要先へ運搬されていた。現在も残っていれば貴重な”ホフマン窯”として近代遺産に指定された可能性がある。惜しいものを無くした。元・神島のホフマン窯

  • 丸大醤油の煙突

    場所・笠岡市吉浜無くなった日時・2018年ごろ撮影日・2005.11.23吉浜の銀山に赤いレンガ造りの煙突があった。近所の方に尋ねると、元は「醤油屋さんです、マルダイさんと呼んでいます」。エントツの上の方に円に大のマークが見えた。煙突も立派だが本宅も、鴟尾や漆喰が見事で築100年はするような重厚感ある住宅。今はレンガの煙突は無くなったが、本宅は変わらず住まわれているようだ。丸大醤油の煙突

  • 元・青果市場

    場所・笠岡市中央町無くなった日時・2014年ごろ撮影日・2013.1.1笠岡中央公民館の向かい側、長く空き家状態だった。解体撤去後は、笠岡市役所の駐車場に利用されている。元・青果市場

  • 東本町商店街アーケード(日本一匂う商店街)

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2018年1月末撮影日・2012.7.2東本町アーケードは匂いある商店街だった。日本一匂う商店街だと思っていた。ところが、匂いが減ってきた。そう思って上を見ると、アーケードに穴がところどころあいていた。それから、しばらくして撤去工事が始まった。またなにか、笠岡らしいものが無くなると、寂しく思った。東本町商店街アーケード(日本一匂う商店街)

  • 井笠鉄道バス(笠岡駅前)

    場所・笠岡市笠岡JR笠岡駅前無くなった日時・2012年10月31日(経営破綻・バス運行廃止)撮影日・2012.9.14渋沢栄一や馬越恭平はじめ、広島県・岡山県の政・財界により設立された井笠鉄道は、この地方の故郷の風景そのものだった。鉄道が廃止されたが、それは当時の社会風潮のようにも感じるできごとだった。しかし、まさか会社が破産する、バスは無くなる、とは思いもしていなかった。青と赤の車体の井笠バスは消えてしまった。今は両備バスの、子会社の中国バスの、そのまた子会社の井笠バスカンパニーが乗り合いバスを運営している。井笠鉄道バス(笠岡駅前)

  • 井笠鉄道バス(井原バスセンター)

    場所・岡山県井原市井原町(井原バスセンター)無くなった日時・(井笠バスが運行廃止)2012年10月31日撮影日・2012.9.19この場所は井笠鉄道の「井原駅」だった。鉄道が1970年に廃止後、井原駅から井原バスセンターに変わった。井笠鉄道が2012年に破綻後は井原市のコミュニティバスのバスセンターとして、変わらずに機能している。井笠鉄道バス(井原バスセンター)

  • 井笠鉄道バス(JR里庄駅前)

    場所・岡山県浅口郡里庄町JR里庄駅前無くなった日時・2012年10月31日撮影日・2012.9.25里庄の駅前には、いつも井笠バスが一台停まっていた。バスは「寄島行」で、電車が着く度に寄島へ向かって発車していた。井笠鉄道が破綻して以降、駅前にバスは無くなった。同じ行政区域の鴨方駅から寄島行バスがでているのだろう。井笠鉄道バス(JR里庄駅前)

  • 永山酒店倉庫

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2015年ごろ解体撮影日・2012.7.2井笠鉄道の道沿いで、北八幡神社参道にも近いところ、紅い外壁の大きな倉庫があった。昔は小田郡役場もあり落ち着いた景観の町並みだった。残念ながら数年前に解体された。永山酒店倉庫

  • 樋守の民家

    場所・笠岡市富岡無くなった日時・2015年ごろ撮影日・2012.7.27笠岡から神島や大島へ行くとき、樋守の樋門の近くで、真正面に見える民家があった。必ず目に入り、通勤や通学の人にとっては印象深いお宅だった。数年前に解体された。樋守の民家

  • 大島東小学校

    場所・笠岡市大島中無くなった日時・2018年3月閉校撮影日・2010.4.10大島東小は恵まれた場所にあった。前面に瀬戸内海、背後に御嶽山や青佐山。学校の場所は笠岡市大島中にあり、校名は大島中小学校(おおしまなかしょうがっこう)だった。ところが戦後、大島中学校(おおしまちゅうがっこう)が大島中にできた。そのため、間違い防止のため大島東小学校に校名を変えた。近年の過疎化や少子化のため閉校になった。大島東小学校

  • 茂平の堂面池

    場所・笠岡市茂平無くなった日時・2015年ごろ。撮影日・2005.8.20茂平の堂面池。広島県境まで200mくらい。既に40年ほど前から溜め池としての役目を終えていた。野々浜の開発会社が住宅団地団地を計画していたが、変更して工業団地になった。民間による工業団地は珍しいようだ。団地は2019年に完成。甲神電機などが操業している。茂平の堂面池

  • ワシン番町店

    場所・笠岡市三番町無くなった日時・2008年8月閉店、その後解体撮影日・2005.7.9地元のスーパー和信は市民の人気が高かったが、2008年に突然のように休店した。岡山県に殿川店と番町店と金浦店と里庄店があった。広島県に大門店があり、母は県境を自転車で越えて買い物に行っていた。管理人は番町店によく行っていた。駐車場が広かったのが理由。惜しまれて全店が休店したが、番町店の跡地は現在、かっぱ寿司と丸亀製麺ができてる。ワシン番町店

  • 井笠ボーリングセンター

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2018年ごろ解体撮影日・2004.11.7井笠ボールはボーリングが全盛期を迎える頃にオープンした。一階はバスセンターで二階がボーリングで、人と車、熱気があった。まあ、日本がいちばん元気な時代でもあった。その頃笠岡には、現在の笠岡グランドホテルや(里庄町になるが)安田工業の場所にもあり笠岡も日本全国もボーリングブームを迎えた。ボーリングブームは終わり、バスセンターは駅前に移転しボーリングの経営は井笠鉄道からヤングボウルに変わった。ヤングボウルは何年か経営したが休業、その後井笠鉄道自体が経営破綻した。現在は建物を撤去後契約駐車場になっている。駅前の駐車場はどこも人気があるようだ。井笠ボーリングセンター

  • 中国銀行笠岡支店

    場所・笠岡市中央町無くなった日時・2007年解体後新築した撮影日・2005.9.23中国銀行と言えば、手堅い経営と古代ギリシャ・ローマ風の本支店の建物で知られていた。中銀笠岡支店は笠岡駅前の西寄りにあった。便利な場所だったが駅前の混雑で不便な面もあった。現在は番町にある笠岡中央支店が業務の核になっているようだ。駅前の支店は建て替え後も営業しているが、建物外観はギリシャ・ローマでなく現代建築物に変わった。中国銀行笠岡支店

  • 元・ツタヤ笠岡店

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・休業2010年ごろ(?)撮影日・2005.7.24笠岡に最初に出来た「ツタヤ」は本屋はなく、映画ビデオテープのレンタル店だった。場所は便利な国道2号線沿いで、お店の後ろを山陽本線が通っていた。管理人も何度か利用したことがある。会社帰りに借りて、会社帰りに戻していた。お店の特色は、なんといっても扉。鉄の扉を手に持ってから、開け閉めしていた。元々は倉庫だった建物。現在は、建物を取り壊した後に住宅が建っている。元・ツタヤ笠岡店

  • 元・伏越の医院

    場所・笠岡市笠岡(伏越)無くなった日時・解体2009年ごろ撮影日・2008.1.26笠岡では有名な建物だった。本の表紙に使われたこともある。旧伏越遊郭の、ほぼ中央に位置し洋風のしゃれた感じの建築物だった。医院を休止後、建物はそのままだったが2009年秋に火災で半焼したため取り壊された。元・伏越の医院

  • 元・小田郡神島村役場

    場所・笠岡市神島無くなった日時・2010年ごろ解体撮影日・2005.9.23小田郡神島村は地域が離島と本土で、村役場は離島にあった。役場は、渡船場から徒歩1分の距離。笠岡市への合併後、役場の建物は民間に売られ、長く個人所有だった。その後、老朽化により建物は解体された。元・小田郡神島村役場

  • 角屋(かどや)

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・休業2006年ごろ撮影日・2005.7.8角屋は笠岡商業入口にある古い旅館だった。多くの人に、宿泊や会合に利用されてきたが、2006年ごろに旅館業を止めた。角屋(かどや)

  • 周兵衛庵

    場所・笠岡市神島外浦無くなった日時・休業2010年ごろ(?)撮影日・2004.6.5遍路宿の周兵衛庵は、きれいな海の近くにあった。神島の隠れ里のような場所にあった。管理人の母方の祖父は戦時中亡くなったが、亡くなる前年まで後月郡から神島遍路に来ていた。年に一度の祖父の楽しみだった。一泊二日でお参りし、一泊は周兵衛庵が決まりの宿だった。神島遍路の人が減り、周兵衛庵も休業した。周兵衛庵

  • へんろ茶屋湯場

    場所・笠岡市神島(福浦)無くなった日時・休業2010年ごろ(?)撮影日・2004.6.19へんろ茶屋は、名の通りお遍路さんが休憩したり泊まったりするお店。神島88ケ所霊場のお遍路さんは数か減ったり、車で巡礼のため、お遍路さんのためのお店が減っている。へんろ茶屋湯場

  • 元スター(中華そば・焼きそば店)

    場所・笠岡市笠岡(大久保)無くなった日時・(閉店)2004年頃撮影日・2004.5.27じつは、このお店のラーメンが好きで高校生の時から食べていた。社会人になってからも年に2~3回行っていたが、ある日お店の前に「忌中札」が貼ってあった。それが、結果的にお店の廃業の知らせとなった。元スター(中華そば・焼きそば店)

  • 元・ダルマ堂薬店

    場所・笠岡市笠岡(大磯)無くなった日時・2009年建物解体撮影日・2003.7.18大磯の旧道では、非常によく目立つダルマさんだった。建物は解体されたが、ダルマは笠岡東公民館に保管している。元・ダルマ堂薬店

  • 元・笠岡セントラル劇場

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2010年頃(?)撮影日・2004.5.25笠岡セントラル劇場は、笠岡の映画館ではもっとも遅くできた。第二東映を上映していたが、やがて日活映画の専門映画館になった。映画の上映を休止後も映画館の建物は長く残っていた。現在は「セントラル歯科」になっている。名にセントラルが付いているのがうれしい。元・笠岡セントラル劇場

  • 宇高国道フェリー

    場所・岡山県宇野港~香川県高松港無くなった日時・2012年10月17日撮影日・2010.3.5宇高航路には、国鉄・宇高国道フェリー・四国フェリーの3社が就航していた。(一時三井造船のホーバークラフトもいた)瀬戸大橋が完成して瀬戸大橋線が通るので国鉄は止めて、宇高国道フェリーと四国フェリーが就航していた。2010年3月2社が航路廃止を検討中の記事があり、その翌朝のテレビ局の↓の女性アナウンサーが現地放送中。では宇野港から高松行きの船に乗ります。宇高国道フェリーには何度も乗って高松に行った。安くて、待たずに乗れて、24時間就航。便利な船だった。香川県側の報道陣。これから2年後に航路は廃止になった。宇高国道フェリーの高松港ターミナル。長い間、思い出をありがとう。宇高国道フェリー

  • 入江大橋(橋1本)

    場所・広島県福山市無くなった日時・新入江大橋(二本目)開通は2012年12月撮影日・2009.12.16入江大橋周辺は渋滞の名所だった。特に混むのが夕暮れの新涯→手城。夜間以外はいつも込む北詰の道路、鋼管→福山。渋滞して、ほんのちょっとだけだが・・良いのが、橋からの車窓風景。橋のうえから蔵王方面。橋のうえから福山方面。この時、二本目の橋を工事中。従来の橋は、新涯→国道2号線方面専用。新しい橋は、手城・引野→新涯方面専用となった。入江大橋(橋1本)

  • 観月橋

    場所・岡山県小田郡矢掛町嵐山公園無くなった日時・2010年ごろ撮影日・2009.5.27矢掛の宿場町から、「嵐山公園」には「観月橋」を渡ってゆく。流れ橋・観月橋は、周囲の景観によく合った風流な橋だった。今、矢掛宿場町は国の重伝建へ認定活動を行っているがこの「観月橋」を失う時には、住民運動も議会も議論されていない。観月橋

  • 里庄美しい森

    場所・岡山県浅口郡里庄町虚空蔵山(里庄美しい森)無くなった日時・(閉鎖)2019年3月31日撮影日・2009.8.8笠岡10名山の一つでもある虚空蔵山は、眺めてよし、登ってよしの里山。虚空蔵山は山が、笠岡市と里庄町と境で、里庄町側に「里庄美しい森」という公園があった。公園では自然観察やキャンプの施設もあった。虚空蔵山に登ると、この美し森も併せて歩いていた。イノシシの出没や山崩れのため「美しい森」は閉鎖されることになった。閉鎖した4ヶ月後に行ってみたら、荒れ放題になっていた。人の手が無くなると、これほど早く荒れてゆくのかと驚いた。里庄美しい森

  • (手摺りのない)竹田城跡

    場所・兵庫県朝来市和田山町竹田竹田城跡無くなった日時・(有料化)2013年10月撮影日・2009.7.4竹田城は山頂の石垣遺構が有名だが、以前は手摺りがなく、また見物人・観光客も少なかった。野性味のある城跡だった。観光客が増えて有料化になった。たぶん、その頃に安全な通路や手摺りができた。今の城跡には、地元の方の城案内ボランティアが待機する観光地。休日は車よりも、電車で行って登った方が早く城跡に着けそうだ。(駅裏が登山口)(手摺りのない)竹田城跡

  • 弥山の展望台

    場所・広島県廿日市市宮島弥山山頂無くなった日時・2011年解体(2013年新しい展望台が完成した)撮影日・2009.11.19弥山の山頂。標高は535m。島の山だけに、登山の比高は535m。登るのは楽ではない。山頂の展望台。ここまで登るとほっとする。赤茶色の錆が浮いている。建て替え前。どの山にも言えるが、特に弥山の場合は下山は楽。上る時に、下りるパワーは残さなくても大丈夫。弥山の展望台

  • 一文字の大観覧車

    場所・広島県福山市一文字町(ビッグホイール)無くなった日時・2013年ごろ撮影日・2009.5.27一文字に大きな観覧車があった。福山の2号線より南だったら、どこからでも見えるほどの大きさだった。2002年3月開業でビッグホイールと呼ばれ、直径50mで10分かけて360度まわっていた。夜に乗るとJFEの夜景もきれい。コロナワールドは後からできたが、相乗効果が期待された。残念ながら、ビッグホイールはおよそ10年間の営業で閉店してしまった。一文字の大観覧車

  • 笠岡港

    場所・笠岡市笠岡笠岡港無くなった日時・2017年3月みなとこばなしへ移転撮影日・2009.7.22長く島民や市民や観光客や釣り客などに親しまれたきた笠岡港も老朽化し、「みなとこばなし」という新しい旅客ターミナルが、50mほど西によった場所に完成した。桟橋も、それに合わせて西に50m移転した。「みなとこばなし」が完成後、この古い建物は撤去された。北木島はじめ笠岡諸島が日本遺産に認定された。島が元気だったころは、笠岡港周辺も元気だった。あの熱気が少しでも蘇ることを願っている。笠岡港

  • ラーメン司

    場所・笠岡市笠岡バス停・笠岡高校入口の南無くなった日時・2017年ごろ撮影日・2009.10.12県道笠岡井原線沿い、変電所の近くに「ラーメン司」があった。スープはさっぱりした味で、鶏肉を使っていた。笠岡高校が近く、「学生は100円割引」のお店だった。2~3年前に、休業看板が建って、しばらくしてお店の建物も撤去された。現在は更地になっている。ラーメン司

  • 元・井笠鉄道小平井駅

    場所・笠岡市小平井無くなった日時・2020年6月撮影日・2011.1.21井笠鉄道の鉄道事業が廃止されたのは1970年3月31日。その小平井駅だった駅舎が2020年6月に解体されて更地になった。役目を終えてから半世紀間残っていた。下り・大井村駅から吉田駅方面↑、上り・吉田駅から大井村駅方面↓を見る。舗装された道が線路だった。井笠鉄道の駅は直営と民間委託の二種類あり、小平井駅は民間委託の駅だった。更地になった元小平井駅跡は、所有者の方が家を新築するそうだ。元・井笠鉄道小平井駅

  • 遥照山ホテル

    場所・岡山県浅口市鴨方町無くなった日時・(休止)2013年8月撮影日・2011.4.19最初「かんぽの宿」でオープンした。公営の施設で井笠地方の多くの人が同窓会や会合などに利用していた。板前さんの腕がいい、といううわさもあった。その後、全国の公営の宿泊施設が政策で民営化や廃止に変わってゆくなかで、遥照山の「かんぽの宿」は民営化された。「遥照山ホテル」と名を変えたが、ひきつづきお客さんはあった。駐車場の車両数も多く、山陽新聞の集いの会場にもよく載っていた。しかし観光地としての遥照山の人気が落ちたのも原因か?遥照山ホテルは営業を止めた。今は無人のまま残っている。遥照山ホテル

  • 蔵王温泉ヘルス共和国Z

    場所・広島県福山市蔵王町無くなった日時・2010年末ごろ撮影日・2011.1.10”ヘルス”と呼ばれ、親しまれ、愛されていた温泉とお芝居の施設。ホテルとゴルフ練習場も併設され、丘の上にあった。営業中は、管理人もよく利用していた。利用していた最大の理由は、自宅からもっとも近い温泉。(約20分。ただし山陽道利用)冬に足にしもやけができると帰宅途中に寄って40分間、温泉でじっとしていた。必ず治っていた。午後3時以降は300円の料金でたすかった。通常はお芝居込みで1.000円いくらしていた。お芝居もよかった。新聞報道で老人施設に転換するのが発表され、当分の間、仕事の休憩時間話題になった。惜しむ人が多かった。蔵王温泉ヘルス共和国Z

  • 伊勢丘クラブ

    場所・広島県福山市伊勢丘無くなった日時・2014年休館撮影日・2011.4.8伊勢丘クラブは、福山市東部の一つの時代をになった場所。食事にボーリングにビール会。多くの人に思い出をつくってきたが、休館そして建物は解体。今も桜の名所というのが変わっていない。伊勢丘クラブ

  • (愛媛県立)伯方高校

    場所・愛媛県今治市伯方町無くなった日時・(分校化)2019年4月1日撮影日・2011.7.29島から島へ通う高校生。島の高校から甲子園を目指す野球部員。島の高校は、島民減で生徒数の確保もたいへん。伯方高校は2019年に「伯方高校」から「今治西高校伯方分校」に変わった。分校になったが、自然に囲まれた学校で、都会にない伸び伸びとした教育を受けてほしいものだ。(愛媛県立)伯方高校

  • 園井天王池の楠

    場所・笠岡市園井無くなった日時・2012年ごろ撮影日・2011.8.17今井の天王池は谷池で、谷を横切った堤防に一本の大きなクスノキがあった。そのクスノキの根元には祠があり神聖な大木だった。ところが、いつの間にか伐採されてしまった。枯れたのが原因ではないようだ。園井天王池の楠

  • 朱華園

    場所・広島県尾道市無くなった日時・(休店)2019年6月撮影日・2011.5.1朱華園の前には、いつも長い列ができていた。お店は”しゅうさん”と呼ばれ、尾道市民や広島県民に愛されていた。しゅうさんのラーメンは「尾道ラーメン」を全国区にするブランドとなった。お店の休店を新聞が報じると、全国から惜しむようにファンが来店した。朱華園

  • 倉敷美観地区のアクセサリー売り

    場所・岡山県倉敷市美観地区無くなった日時・2020年3月ころ撮影日・2018.4.29倉敷美観地区の今橋から中橋の間、倉敷川右岸にアクセサリーを路上に並べて売る人が4~6人いた。このことで、今まで問題は発生してないそうが行政に無届で路上販売は問題があるということで、禁止された。今まであったものが無くなると、さみしい気もするしさっぱりした気もする。やはり、無いほうが良いかな。倉敷美観地区のアクセサリー売り

  • 神勝寺温泉(開山・竹山)

    場所・広島県福山市沼隈町山南無くなった日時・(昭和の湯へ移転)2012年撮影日・2011.7.5「昭和の湯」に引っ越しする前の、「神勝寺温泉」は好きだった。温泉も大広間も良かった。開山と竹山の二つの湯が男女交互にあり、どちらの湯も良かった。写真の日は男性は「竹山」だった。昭和の湯に移転後は一度も行ったことはない。昭和の湯は2019年に休館になったようだ。神勝寺温泉(開山・竹山)

  • 田中苑の楷 (トイレ側)

    場所・岡山県井原市「田中苑」無くなった日時・(枯れた)2015年ごろ撮影日・2013.11.7田中苑には二本の見事なカイノキがあった。そのうちトイレ側のカイノキが枯れてしまった。現在は市民会館側の一本だけになったが、秋の紅葉がすばらしい。田中苑の楷(トイレ側)

  • 岡山テルサ

    場所・岡山県都窪郡早島町無くなった日時・2014年解体撮影日・2012.1.10岡山県の施設で、青少年の健全な・・とかいう研修施設を約100億円かけて造った。その施設を早島町へ移管しようとしたら、町民の賛成・反対で政争になり結局反対派の町長が誕生し、建物は解体された。岡山テルサ

  • コスタ北条

    場所・愛媛県松山市北条無くなった日時・2011年8月31日撮影日・2011.7.14松山からの旅行の帰り道、北条に大きな温浴施設が見えた。さっそく入ると、目の前に伊予灘がひろがった。これは素晴らしい。施設も料金も満足。日帰り入浴の他に、宿泊ホテルも併設これは、良い温浴施設だと感心したがその一ヶ月後に営業を止めるという記事が載っていた。コスタ北条

  • 倉敷駅ビル(倉敷ホテル)

    場所・岡山県倉敷市JR倉敷駅無くなった日時・2013年2月から縮小工事撮影日・2011.12.16普通建造物を増築するのはよく見かけるが、縮小となれば珍しい。しかも日本を代表する観光名所「倉敷美観地区」から徒歩数分の距離に位置する、ターミナル駅ビル。現在は8階建だった駅ビルを3階に縮小して営業している。その後、倉敷駅から美観地区への周辺は次々に観光ホテルが建っている。縮小した”決断”は、失敗の決断だった。倉敷駅ビル(倉敷ホテル)

  • 宇高フェリー(四国フェリー)

    場所・岡山県宇野港~香川県高松港無くなった日時・2019年12月撮影日・2019.11.30瀬戸大橋開通後も、四国フェリーと宇高国道フェリーが宇高航路を営業していた。航路の営業が可能だった最大の理由は、橋の値段が高すぎた。本四公団が橋の通行料金を下げると、たちまち宇高航路は危機を迎え、玉野市や香川県の補助金頼みで就航を続けていた。そして宇高国道フェリーが休止した。行政が補助金を中止を決めると、残った四国フェリーも航路の中止を決めた。瀬戸大橋が完成後は無くなる定めと思っていたが、よくつづいたものと思う。最大の魅力は、美くしい瀬戸内海と、のんびりした船旅。それに料金が廉価だったこと。岡山県民や四国の人にとっては思い出がありすぎる航路だった。宇高フェリー(四国フェリー)

  • 篠井商店

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2019年9月撮影日・2019.8.27江戸時代の笠岡の中心地に篠井商店があった。大正7年に富山県の港町で起こった”米騒動”は、またたく間に全国に波及していった。大正7年(1918)8月13日夜、小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。(岡山県社会運動史)西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ...篠井商店

  • 大井地区運動会

    場所・笠岡市大井グラウンド無くなった日時・2019年9月29日撮影日・2019.9.29あることのように毎年運動会が開催されていた。しかし、高齢化や町内の役員負担が大きいことなどにより中止されることになった。管理人も最後の地区運動会というので参加したが、それも20年振りくらいことだった。中止も仕方ない。大井地区運動会

  • 西本町ロータリーのビル

    場所・笠岡市笠岡無くなった日時・2019年9月撮影日・2019.8.27西本町ロータリーに面したアール形の建物。昔あった喫茶・珈琲園の南隣。高校生の時、たしか散髪屋が入居していた。散髪に2~3回入ったことがある。解体は建物が古くなったが原因か。解体の工事前に撮影した。現在は空き地になっている。西本町ロータリーのビル

  • 戦時中の果物作り

    茂平は果物が盛んで、管理人の家も果物百姓と呼べた。戦時中、果物作りが冷遇されたのは諸本によく載っているが実際のところ、父からも母からも、そして近所のおじさん・おばさんからも行政の圧力などの話は一度も聞いたことがない。青森県では、そうとう強圧な指導があった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「地方の時代」山田宗睦編文一総合出版昭和53年発行国賊扱いされたりんご作り青森県のりんごは1940(昭和15)年にはついに、待望の一千万箱の生産を実現した。ところが、翌1941年太平洋戦争に突入してからのりんご栽培農民は国賊扱いに近い統制の抑圧を受ける。それは、りんご生産が、戦力増強のための米麦主要食糧の増産に役立たないばかりか、その妨げになるという非難からであった。りんご農家は、稲作よりも収入のよ...戦時中の果物作り

  • 塩田開発の地元交渉

    江戸時代の新田開発は、地元民に納得してもらうよう交渉や説得している。これは↓、玉野市の山田の塩田計画についての話。近代になってから、特に15年戦争当時の無理やり土地徴収に比べると、江戸時代の方が民主的に感じてしまう。(昭和の一時期は、大変な時代であり、情けない時代だったと思う)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著草思社2019年発行塩田造成の地元交渉野崎家は文政12年(1829)に、山田村沖の干潟を干拓して大規模な塩田の造成を計画した。のちの東野崎塩田である。野崎家の打診を受けた、周辺8ヶ村のうち7ヶ村は賛成した。工事の労働者や、商売もでき収入増を期待した。この7ヶ村は漁業をしていなかった。塩田の悪影響はなかった。胸上村だけは事情が違った。漁業は村の重要産業で...塩田開発の地元交渉

  • 干拓と漁民への補償

    管理人の実家は土手に面していて、土手の向こう側は海だった。それは江戸時代中期の頃。吉原新田と呼ばれる干拓で海までは200~300m離れた。笠岡市域の多くの新田開発も、↓住民に似たような説得をしたのだろう。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著草思社2019年発行岡山藩による干拓と漁民への補償元禄5年(1692)から藩営の沖新田造成工事が始まった。開発に際して、次のような文書を出して漁師たちを説得した。「今回の干拓予定地で行われている漁業は小魚を獲る小規模なもので、獲れた魚は藩内のみで売られており、領外では売り出されていない。したがって、領外から金銀を獲得することには貢献しておらず、領内の金銀を消費しているだけである。漁獲量の減少に対しては、それに応じ...干拓と漁民への補償

  • 定置網漁

    茂平の漁獲の大半は壷網と呼ばる定置網だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著草思社2019年発行定置網漁定置網漁は、決まった場所に常に網を設置しておき、そこに魚が入るのを待って捕獲する漁法であり、マグロ・ぶり・イワシ・アジ・タイ・イカなどを獲るのに用いられた。ミチアミ(誘導網)・ウンドウバ(囲い網)・ノボリ(登網)・ハコアミ(箱網)の4種の網が複合しものであった。定置網を仕掛けておきさえすれば、魚群は放っておいてもハコアミに入ってくるので、魚群の到来を常に見張っている必要はない。また、魚が入ったら、ハコアミの部分だけを曳き揚げればよいので、人手もあまり必要としない。このように、定置網漁とは、漁にかける時間と労力を節約して、効率的に漁獲をあげる漁法であった。定置網漁

  • 昔から魚を食べていたか?

    管理人は海辺の村だったので、漁師の家から雑魚をもらい、それが食卓に出ていた。つまり、毎日魚は食べていた。しかし農山村の場合、戦後であっても「買って」食べる魚は週に1~2度ではなかったのではないだろうか?(昭和35年頃までは)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著草思社2019年発行日本人は、昔から魚をたくさん食べていたか明治期(1912年まで)の漁獲量は非常に少ない。急激な増加は太平洋戦争後のことである。その理由は二つある。動力船と冷蔵・冷凍技術の未発達である。手漕ぎの船は沖合まで出魚できない。魚は長期間の保存がきかない。輸送手段は人馬で、魚の消費地は水揚げ港から近距離に限定されていた。せっかく魚を獲っても、売さばかなければ意味がないのである。一部は干物や節物(鰹節・鯖節...昔から魚を食べていたか?

  • アミの塩辛

    子供の頃、いつの季節だったか忘れたが、その時期になると毎日食卓にあったのが「アミの塩辛」。毎年その季節は毎日食べていたのに、すっかり忘れ果てていた。本を読んでいたら出てきたので忘備録で残す。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「瀬戸内海事典」南々社2007年発行よりアミの塩辛岡山県沿岸で今も作る。アミは、エビに似た小型の甲殻類である。ことに児島産のものは品質が優れている。手網でアミをすくい、塩をして塩辛に仕立てた。児島は良質の塩の生産地でもあった。みりんや麹を加えて発酵させたのもあるが、塩だけで馴(な)れさせたものの方がうま味はある。酒の肴として珍重するが、近年人気のキムチを漬けるときアミの塩辛を細かくたたいて煮立て、その煮汁を使うと上品なキムチができる。アミの塩辛

  • 日中戦争と四十一連隊・・・福山市

    「福山市史・下」福山市史編纂会編昭和58年発行より転記昭和12年(1937)7月7日いわゆる日中戦争がはじまった。四十一連隊も応召することになり、7月31日夕刻福山駅から出発した。第五師団の先頭部隊で、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。連隊長山田鉄二郎大佐の手記「支那事変の思い出」をもとにふれよう。山田部隊3.000人は8月長城戦、9月涞源城戦(戦死120人)、11月杭州線(戦死4人)などをへて12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人武器など多数押収)を与え(死者16人)、13日に南京を占領した。いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。南京で新年を迎え、「慰問の日本酒に半年振りの労を慰して居た」昭和13年1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在。4月7日には徐州会戦に向かった。5月...日中戦争と四十一連隊・・・福山市

  • 軍警抗争事件・・・福山市

    「福山市史・下」福山市史編纂会編昭和58年発行より転記昭和8年(1933)4月14日午前1時20分ころ市内のカフェーで福山連隊の中尉が暴行事件を起こし、これを鎮めようとした巡査2人と衝突、かけつけた応援の巡査とともにとり押さえ、憲兵隊に引き渡した。ところが憲兵隊長は「現役将校に手錠をかけ留置場に入れたのはけしからぬ」と逆ねじをくわせ、第五師団の安岡参謀長も「中尉の行為は悪いが、侮辱した点を警察は謝罪せよ」と迫った。結局軍の横車がとおり警察が謝罪して「円満解決」した。軍の横暴ぶりを端的に示した事件といえる。連隊長は地方都市では小大名的存在であっただけに、時流にのった横暴事件が徐々に目立つようになっていった。軍警抗争事件・・・福山市

  • 「満州事変」・・・福山市

    「福山市史・下」福山市史編纂会編昭和58年発行より転記昭和6年9月19日、関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、以後15年におよぶ戦争のきっかけとなった。事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、新聞ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・○○金(読み取り不可)・肉弾三有志勇士などのキャンペーンを行ったので、福山においても、そうした動きが活発になった。9月24日朝日新聞社の主催で市内三か所(大黒座・盈進商業・誠之館中学)で開催された満州事変映画会には、平日の昼間に2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼に劣らぬ盛況で「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂...「満州事変」・・・福山市

  • 茂平の暮らし・戦後

    父の話談・2000.8.27戦後金属類救出その後(各戸から)出たもんが、最後(溶解)まで渡るには、かんたんには(素早く)いかん。どっかにまとめられていて、それで終戦後に処理し大儲けをしたもんが何人もおる。昭和21年「小便は家でして貯蔵しなさい」まあそうゆう時代じゃった。笠岡市に合併城見村の所有地笠岡市に合併(昭和28年)の時、村の所有地と、地区(茂平・用之江・大冝)の所有地と、胴山のような(小字)地域の所有地があった。村の所有地は学校や役場の土地・建物で市に移管する。地区の所有地は売って、その金額相当程度の工事を地区ごとに使ぉた。用之江と茂平が主で、大冝は地区の所有地がなかった。茂平がいちばん多かった。茂平の堤防工事あれは合併には関係ない。国からの補助でした一千万からの工事じゃった。議長しとった山本と水尻のまあ...茂平の暮らし・戦後

  • 茂平の暮らし・戦中

    父の話談・2000.8.27戦中出征兵士、県境の別れ用之江の県境まで見送りに来てくれる。見送りに行くのは地区の役員や婦人会の世話役などが行く。兵隊へ行くのは死に行くようなもんじゃ。「ありがとう」と、お礼のあいさつをして大門駅まで行く。汽車が通るまで待ってくりょうる。汽車から手を振る。(入営先が岡山の場合が大半で、①大門駅から岡山駅に向かう。②村境の場所が、たまたま鉄道と近接している。そのため、城見村の場合は村境の送別に加え、汽車の兵士へ旗を振る送別がプラスされる)消防組・警防団今の消防団じゃ。組頭(くみがしら)ようた。戦争になって消防から警防団に変わった。消防ばあでなく役が増えた。満洲移民この方は大島、大島(の山岳地域)は土地が少なかったんで百姓ができん。昭和19年ヒマの栽培下剤じゃ。茂平にゃあ作りゃあせなんだ...茂平の暮らし・戦中

  • 茂平の暮らし・戦前

    父の話談・2000.8.27戦前村長議会で決みょうた。村長は議員からなりょうた。議員でのうてもなりょうた。話し合いで決みょうた。議員の推薦と承認で決みょうた。村農会農協のような会。おじいちゃんは県の普及員で農会におった。(小田郡大江村の)大江の農会に勤務しとった。県から給料が出ょうた。兵隊におった時にも県から給料が送らりょうた。8割くれぇ通帳に振り込んでくれとった。在郷軍人会いちばん偉いんが(城見村)分会長。兵隊へ行ったもんが相談して選びょうた。手当は一銭もない、ボランティアじゃ。青年団女子青年団もあった。(男子に比べ存在感はなかったようだ)小学校校長の下に訓導(くんどう)がいた。教頭はおららんだ。訓導は先生。巡査・駐在所戦前から城見村役場の横にあった。武漢三鎮信陽へ行くまで、戦争しいしい行った。途中で大勢死ん...茂平の暮らし・戦前

  • 茂平の暮らし・城見の博労ほか

    父の話談・2002.5.3警鐘台(役割は)昔とかわらん。サイレンによって召集をかける。脚絆上と下で二か所くくる。田植え用ひいるがおるので、(ひいる対策)履く。ゲートル巻く。兵隊も学生もはきょうた。山へ行く時にもはきょうた。人糞新涯に大きな野壷をこしらえとった。庭父・米や麦を干しょうた。今は米を作りょうた人は乾燥機があるんで庭はいらん。母・何べん干しょうたもんなら。一斗ず運んで、筵(むしろ)をしいて。雨が降りそうなら夜中でも、起きよぅた。茂平のイナ取りワシが子供の時からしょうたのう。やり方は変わった。土地ををもっとる人が責任をもってやりょうた。消防がするようになった。儲けた分は消防が使ようた。おじいちゃんがあるときにした。PTA会費少ないけえ、払えんゆう人はいなかった。アメリカの脱脂粉乳国がしょうた。国が飲ましょ...茂平の暮らし・城見の博労ほか

  • 茂平の暮らし・醤油づくり

    管理人が小学校の1~2年生ころまで、家の土間に木製の醤油を絞る道具があった。ぽったん・ぽったん、醤油が落ちていた。自給自足の生活だった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・父の話談・2002.5.3・・・・・・・・・・・・・(醤油作りをやめたのは?)父・めんどうなんじゃ。小麦や大豆を植えとききゃなあいけん。うむして搗かにゃあいけん母・麹がええようにできんのじゃ。(麹づくり)母・今は部屋があり、一定の温度を保てるが・・、その頃はない。それで家でつくりょうた。彼岸をさかいにつくりょうた。彼岸ごろになりゃあ、どことも味噌の香りがしょうた。焚くから匂いがしょうた。「豆のかざがすらあ」ようた。麹に塩と水を加えてまぜくってから、一年寝かす。せいから絞る。辛い醤油ができるんじゃ。それから、豆(麹が)がもったいないゆうて塩と水...茂平の暮らし・醤油づくり

  • 昔の出産祝い他

    父の話談・2002.5.3・・・はじめての生命保険兵隊へいくとくにゃ(昭和12年ごろ)、1万円かけた。会社は日本生命じゃろう。・・・ぎゃあぎゃあのこと瓦斯鉄砲は戦後のこと。個人で音を出して、鳥を追い立ちょうた。音が出るだけじゃけえ、びっくりして飛んでいくだけ。・・・茂平の樋門当番はねえ。ぎんやんやりょうやんがしょうた。国からの援助に村が金を足して払ようた。樋門の守の金。ぎんやんはたーさんのおやじじゃ。一番樋門に近い。昔の樋門は荒神さんの松の木を引いてから作った。・・・虫歯の治療乳歯が抜けぬ時はペンチや糸で引っ張っていたのか?たいてい抜ける。抜けんときは,糸でくくって引っ張りょうた。・・・こんにゃく父・こんにゃくは種をもろうて前の庭で作りょうた。母・今はみいやしい。昔はくどで炊きょうた。いわさんかたに美味いもんが...昔の出産祝い他

  • 義兄の話(大相撲福山場所ほか)

    (義兄が学童疎開をしていた陶山小学校2020.4.2)談・2002.5.26大相撲福山場所バラ公園のとこでしょうた中央公園がバラ公園になった。バラ公園はできるのが遅かった。昭和36.37年ごろ、何もなかった。幼稚園の頃は、あっこに遊びにいきょうた。力道山とシャープ兄弟の街頭テレビ街頭テレビはなかった。福山でテレビが見れるようになったのは、昭和33年ごろ。昭和35年の「60年安保」大学4年か社会人1年生ごろ、自治会の人が学生運動をやりょうた。学校でビラをまきょうた。大勢で集まったり、デモをしたのを見たことはない。赤線が消えた大学の2年の時。飛田(とびた)には、大勢の女がびっしりと立てっとった。にぎやかじゃった。赤線が消えた後、廃止の後はピタッと女はいなくなっていた。陶山小学校に学童疎開小学校2年の時に疎開した。ク...義兄の話(大相撲福山場所ほか)

  • 古城山公園の「満洲開拓殉難碑」

    満洲移民には義勇軍(土の兵士)や分村による開拓団、事業家など。ソ連が参戦後は難民化し、生き残った人は無一文で帰国した。古城山にある碑は昭和38年に除幕した。(右が「満州開拓殉難碑」、左は浩由大島開拓団の慰霊の碑2020.7.2)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.116昭和38年9月30日古城山公園に満洲開拓殉難碑秋分の日に除幕式戦時中に市内大島地区や浅口郡などから満州開拓団として移住し、現地で死んだ人たちの霊を慰める「開拓碑」が、このほど古城山公園忠魂碑わきにできあがり、秋分の日の9月24日、遺家族や関係者が集まって除幕式がおこなわれました。この碑は昨年8月に結成された拓友会と満州開拓殉難碑建設委員会(委員長・笠岡市長)によって、有志に呼びかけ募金した一般寄付や県、市補助金の4...古城山公園の「満洲開拓殉難碑」

  • 笠岡西中体育館で、NHK”ふるさとの歌まつり”

    昭和46年9月に西中で「ふるさとの歌まつり」があった。管理人は社会人1年生で、まったく関心もなく、また笠岡に住んでもいなかった。番組自体は人気番組で、全国各地でリレー開催され、開催都市は”お祭り”ではあった。現在と比べると、いろいろ変化している。西中体育館・・・笠岡市民会館は無く、観閲講堂よりは広い序列・・・・・・千昌夫よりも小川知子が前にきている郵便番号700・・郵便番号はあるが、7桁でなく3桁岡山市丸の内・・現在は岡山市北区岡山市丸の内・・から引っ越してNHKは西口にある。それと、宮田輝アナウンサーは、その後参議院全国区に立候補して最高点で当選したが、史上最も「使い捨て」された議員として名を残した。気の毒だった。(笠岡西中体育館2020.4.9)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.1...笠岡西中体育館で、NHK”ふるさとの歌まつり”

  • 関東大震災②日本史の汚点

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「大正デモクラシー」成田龍一著岩波新書2007年発行報道と記憶東京では新聞社が壊滅して新聞発行が不可能になる。9月5日ころから、被害の範囲がおおよそつかめた。虐殺事件震災直後、流言が飛び交った。「朝鮮人」に関するデマである。早くも9月1日午後3時、「社会主義者及び鮮人の放火多し」という流言があり、「不逞鮮人来襲すべし」「井水を飲み、菓子を食するは危険なり」とデマがひろまったという。東京の住民たちはデマを疑わず、地域ごとに自衛団を結成し、朝鮮人とみなすや、持っていた竹槍や鳶口により虐殺した。虐殺された朝鮮人は6.000人を越えると推定されている。近年では軍隊による朝鮮人の虐殺があったこともあきらかにされている。その他、甘粕正彦らの憲兵隊による、大杉栄・伊藤野枝他の虐殺があった...関東大震災②日本史の汚点

  • 笠岡駅の花売り娘

    笠岡駅の花売娘のことは、市内に住む高年齢層なら、ほとんどの人が知っている。しかし、それは新聞や広報誌での情報のため、実際に笠岡駅ホームで見たことがある人は・・・残念ながら会ったことがない。12月限定だったのだろうか?その間、毎日だったのだろうか?時間は、何時間くらい?昭和30年頃といえば、まだ花を召す余裕の人は限られているし、売る気ならば駅ホームで上下線を行き来するよりも、駅前に立った方が売れるような気がする。第一回目の時は、笠岡で全国初の試みは素晴らしい。それに学歴まで公表し、しかも高校でなく女学校であり、東京の舞踊学校、びっくりする。三回以降は掲載されていないので、たぶん昭和30・31・32年の三年間だったようだ。観光笠岡のイメージ向上に貢献したと思う。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報N...笠岡駅の花売り娘

  • 「第五北川丸遭難事件」笠岡市始まっての恨事

    三原沖にある佐木島に「第五北川丸慰霊塔」がある。西日光・耕三寺からの花見を終えての帰航中の事故だった。(北川丸慰霊塔・佐木島向田2008.4.6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・笠岡市報NO.47昭和32年5月20日北川丸遭難者とご遺族の方へ・・・お役にたった「さざなみ号」運命の日、4月12日の北川丸沈没事故では本市関係の海難者25名中、十名の尊い犠牲者を出しました。死者、ご遺族の方々に謹んで哀悼申し上げます。市では、悲報とともに新造快速船”さざなみ号”を急派、遭難現場での海上連絡や輸送、ご遺家族のご弔慰問にあたりましたが、急潮や風波のため引揚作業は困難を極め、祈りも空しく本市はじまっての恨事となりました。さざなみ号は、牛窓造船所の建造で、建造費229万円、5屯、定員20名、進水は4月8日。(慰霊塔...「第五北川丸遭難事件」笠岡市始まっての恨事

  • 岡山県寄島高等学校

    高校の時、他校と掛け持ちの先生がいた。体育の先生と音楽の先生。体育の先生は同じ市内の高校だったが、音楽の先生は「今日は次に寄島高校がある」と言っていた。寄島町は県立高の場合、笠高・笠商・笠工が学区と思っていた。どんな学校だったのだろう?(寄島高校の手前記念碑、後方は体育館写真は2015.2.3)・・・・・・・・・・・「寄島町誌」寄島町役場昭和42年発行岡山県寄島高等学校寄島町ほか二か町村組合立定時制高等学校。この学校は女子のみを対象とした。男子全部と女子の或る者は倉敷・金光・鴨方・笠岡・福山の各高校に入学する。沿革大正12年4月寄島実科高等女学校認可(寄島西高小に併設)昭和18年4月岡山県寄島高等女学校に昇格、4年制となる。昭和23年4月学制改革により、岡山県寄島高等学校として新発足する。昭和27年4月寄島町・...岡山県寄島高等学校

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