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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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岡山県
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2014/12/11

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  • 提灯行列・旗行列(日の丸行列)

    管理人の、ひいひい祖母さんは第一子を元治元年(1864)に生んだので、結婚したのは1863年または1864年と推測する。ひいひい祖母さんは備中・吉浜村から茂平村へ嫁いだが、その日は夕暮れ時に提灯行列で嫁入りしたそうだ。(ひいひい祖母さんは弘化3年~昭和18年の長命だった)提灯行列で夕方に嫁入りするのは、明治から大正頃までは風習として残っていたようだ。その後は戦勝記念やご大典記念で、町村単位で実施している写真が本に載っている。笠岡市域では、日露戦争・大正の大典・昭和の大典・皇太子誕生・上海南京陥落・武漢三鎮陥落・皇紀2600年等での写真を見る。小学校の記録では、旗行列を実施している。横江小・・・昭和12年南京陥落、昭和13年武漢三鎮陥落、昭和15年三国同盟大井小・・・昭和15年皇紀2600大島東小・・・昭和3年ご...提灯行列・旗行列(日の丸行列)

  • 笠岡から玉島への港替願

    江戸時代の玉島港と笠岡港の争い、競争。備中町史には「悪辣な収奪」とまで記されているが?実際はどうだったんだろう。「備中町史・本編」より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx笠岡から玉島への港替願天保9年(1838)備中北部幕府領24ヶ村の指導者・平川村の庄屋・弥七郎が年貢米の入用節減のため、港問屋の仲間稼による収奪の甚だしかった笠岡港から比較的軽かった玉島港へと、年貢米の港替えを変えようとした。年貢米を川下げののち海船に積み込む港を、笠岡から玉島へ変更することであった。もともとは玉島港であったが、寛保3年(1743)に倉敷の代官が笠岡に変わったので幕府に願い出て変更していたのである。一石当たり玉島の1.6倍の入用を要すのが理由である。笠岡港の問屋は亀川屋又左衛門が村々を買収した。幕府は笠岡玉島両港を...笠岡から玉島への港替願

  • 阿部山(鴨方・矢掛・笠岡)の開墾

    鴨方町・矢掛町・笠岡市の阿部山開墾は、それぞれどのように記されているだろうか?「鴨方町史本編」平成2年発行「矢掛町史」「笠岡市史」第三巻・四巻平成8年・15年より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx------------------------------------「鴨方町史本編」平成2年発行「阿部山の開墾」日中戦争以後、わが国の食糧不足は深刻となり、政府は供出、配給の制をとり、全国的統制管理に乗り出した。昭和17年阿部山で大規模な開墾が始まり移住者が続々と入植した。地元観生高女を始め、岡山一中、高梁中、矢掛中なども動員されて山頂の荒地に開墾を挑んだ。開拓事務所よりの戦線慰問分既にご承知のとおり移住戸数50、150余名の鍬の選士は、第一線に於ける諸士の...阿部山(鴨方・矢掛・笠岡)の開墾

  • 大島村の船舶

    「大島村略誌」黒住清著・昭和12年1月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx本村の水産は近海漁業で兼業でするものが殆どである。船舶は動力のあるもの77、動力設備のないもの54で、近時発動を用いる者が著しく増加した。船舶瀬溝海峡は笠岡、多度津間の定期航路に当り島嶼からの○○・・(解読不明)するものものも多い、夏目はその乗船地で、又神島の天神への渡船場でもある。笠岡・玉島間の航路は夏目、正頭、奥ノ浜等に寄港していたが近年〇航した。大島村の船舶

  • 野生植物の回収

    「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和19年から野生植物を繊維資源として採集した。採集したのはクワやフジやアベマキの樹皮・野生チョマ(カラムシ)や竹の皮・ススキの穂・い草の屑などだが、翌20年春までには、クワやカラムシなどは目標以下しか集まっていない反面、フジの樹皮は120%、ススキの穂は6倍に達した。ススキの穂は航空用胴衣に入れるため特に学童が採取に励んだという。野生植物の回収

  • 戦前の遊女屋

    「グラフィックカラー昭和史・第10巻」研秀出版1987発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和史対談「遊女屋通いの青春」五味康祐この遊女屋というのは、どんな階級の者でも一度はくぐらねばならない関門だったのです。五木寛之流にいうと青春の門とうわけです。戦争というものが目の前に待っている。国民の男子としてなさねばならないことがある。そんなとき安逸な女性関係におぼれる罪の意識みたいなもは、当時の青春時代を迎えた人たちに共通にあったことだと思います。一方、遊女屋の方には、貧しい農家に育った娘たちが親兄弟のために売られてきている。心ならずも身を苦界の底に沈めているわけです。この両者が一夜を共にし、何か共通の心情的なものを温め合うというものがあったと思うのです。僕らの頃は、21才になると入隊する。出征すると...戦前の遊女屋

  • 割木

    三原市史(民俗編)より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxx松・杉・檜以外の山の木を、1尺2寸の長さに切って束ねる。ガスのなかった時代には、割木は町屋の重要な燃料であった。割木問屋に持っていくことが多いが、家にも回った。かつて朸(おうご=天秤棒)一本あれば食えたという話をよく聞くが、これは主に割木稼ぎのことを指している。「年間150日売りに行く人がよく行くほうで、30人も50人もつれだったたきぎをかついでゆく」。割木

  • 肥料

    三原市史(民俗編)より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxx農家では、浜灰(塩田から買う)をカリ分として田畑に入れた。特に麦肥として下肥に溶かしてかけた。蒲刈島で産した石灰も田畑に使った。昔は浜灰と石灰が金肥の主なものだったという。草刈り芝草刈りは野良仕事の中でも最も力が注がれた仕事で、金肥が普及した後も、つい最近まで盛んに行われていた。芝草は堆肥や厠肥にして田畑の元肥に使った。山から刈ってきた芝草を押切で切って干し、藁を混ぜて積みあげ、一二ヶ月して切りかえした。ていねいな家では三回くらい切りかえし、じゅうぶん発酵させた。よい肥を作るためには牛にふませた。それを厠肥という。牛のいない家には小作をさせないとう地主もいたほどで、牛を飼えば田畑の土は豊かになる。一頭の牛が作る堆肥で3~5,7反分をまかなえた。それが...肥料

  • 作州絣

    鏡野町史より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx作州絣の伝統継続者談「江戸時代以前より津山では日常的に家庭で木綿を織っていました。女子衆が織った木綿で家族みんなの着物をこしらえるのが、戦前まで当たり前の時代でした。木綿は、まず着物で着て、次に野良着、その後赤ちゃんのおむつ、雑巾になって、最後は壁に塗り込んで終わり、と最後まで使い切る。こうした日常のなかで文化が生まれ育ちます。この地では絣は横絣である倉吉絣の影響を受けながら、盛んに織られるようになりました」作州絣

  • バケツリレーと竹槍訓練

    「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和12年「防空法」が公布されたが、多くの市民が真剣に防空と取り組むようになったのは、戦況が悪化してからだった。昭和18年春、県内7町では屋外点灯時間が制限されるようになった。屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどして光が外へ漏れないようにしなければなくなり、その灯火管制を少年団・警棒団・隣組などが監視した。日本各地が空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。各戸で自宅の庭に造るのは当然で、人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された。市民は白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくし、バケツリレーの訓練に度々参加させられた。これは米軍のB29爆撃機による焼夷弾爆撃で起こる火災を...バケツリレーと竹槍訓練

  • 「国家総動員法」

    「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和13年5月、「国家総動員法」を施行した政府は、国民を戦争へ動員する”総動員体制”を整えていった。中小商店を閉めて、浮いた労働力を軍需産業へ振り向ける政策を押し進めた。中小企業者は転廃業を駆り立てられた。企業整備を進める傍ら、昭和18年9月、14~40歳の男子が事務補助・車掌・販売店員・出改札係り・理美容師など17の職種で働くのを禁止する一方、新規学卒の女子や未婚女性を対象にして、女子勤労動員促進要項を設けた。そのうえで翌年「女子挺身勤労令」を公布した。若い女性は否応なく挺身隊員となって働かされることになったのである。「国家総動員法」

  • 金属類供出(倉敷市の場合)

    「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx供出で金属類がなくなる戦火の拡大とともにさまざまな金属が軍事物資として回収された。昭和14年4月、味野・琴浦・児島・赤崎・下津井・藤戸の各町役場の鉄門・鉄柵、鉄板などが姿を消した。昭和16年6月「街の鉱山を掘れ」というポスターが貼られ、町内会・会社・工場が鉄くず・古鉄・銅くずの回収を進めた。9月に鉄と銅の二次回収があり、寺院の梵鐘12個を含む鋼材15トンが回収された。この回収にそなえて倉敷市役所は同市の構造物内にある鉄と銅の製品を供出台帳に登録したが、中には新渓園の青銅手水鉢釣り灯籠、鶴形山の動物小屋やベンチなど、学校では国旗掲揚台、鉄柵、二宮金次郎や楠木正成の銅像が含まれていた。やがて郵便ポストも回収され、木...金属類供出(倉敷市の場合)

  • トト道

    管理人は半農半漁の村に育ったので、生魚を食べる機会は多かったが、それは商品にならない雑魚を意味する。年に何度か?母が「ブエン(無塩)じゃ」と嬉しそうに料理していた。日本人が無塩の魚を食べれるようになったのは、冷蔵庫が普及した、高度経済成長後と思われる。それまでは年に1~2度、慶事に食べるものだった。ところで金浦の魚は何処が市場だったのだろう?金浦から井原・芳井・高山に売られていたと思うが、市内の新山や北川では備中松山に運んだという説がある。松山城下の魚は、黒崎や寄島の方が無理がないように思えるが・・・(調査していないので自信はない)下記の成羽町史でも、全盛期の吹屋まで運ばれているが、備中松山へという個所はない。「成羽町史」より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxx生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬...トト道

  • 祖父母の下着

    明治20年代後半に生まれた祖父母が着ていたもの。祖父は1990年代に亡くなったが、パンツでなくフンドシだった。子供の頃、父はなぜフンドシでないのだろうと思っていた。祖母は、亡くなるまでお腰(オコシ)だった。ズロースは、はかなかった。トイレは家でも畑でも立ってしていた。祖父母の下着

  • 明治時代の結婚式は夜に

    管理人のひいひい祖母さんは、戦時中に98才で亡くなったが結婚式は提灯行列で嫁入りした。1846年生まれなので、20才前頃かな?1865~6年頃、明治維新の直前頃の式と思える。その夕方~夜の婚礼は明治末ごろまでつづいたようだ。昭和17年、母はタクシーで嫁入りしたそうだから昼の婚礼になる。「奥津町の民族」2004年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx昔の挙式は「夜10時にした」というように夜であった。予定時刻になると花嫁は髪を整えてもらい奥座敷に入る。嫁に行く場合は、歓びをもらった親戚や近隣、知人を招待して宴を開いた。このことを「出立ちをする」と言った。嫁ぎ先が遠方なら婚礼日の前日に、近くの場合は当日行い、嫁に出る娘が別れの挨拶をする。なお、出立ちをする前に、氏神様に参ったり近所に挨拶回りをしていた。...明治時代の結婚式は夜に

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