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しろみ茂平の話 https://blog.goo.ne.jp/mobira

「まちづくり協議会」が郷土史を作ることになり、その資料の一部になればと開設しました。2014年9月末

しろみ茂平の話
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2014/12/11

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  • 小三の春⑭校長先生の昼礼「踏切に気をつけて」

    土曜日の授業は昼までで、校庭で校長先生の訓話を聞いてから、各班別に1年生~6年生が列となって帰校するのが決まりになっていた。小学校の学区内の真ん中を山陽本線が通っている。茂平の児童は全員、用之江と大冝も半分近い児童が踏切を渡らないと学校への行き交いができなかった。子供の暮らしには生徒全員が踏切と関わっていた。校長先生の訓話にも、当然踏切の注意があった。ある時の踏切注意の訓話は、子供心にも胸に響きすぎる内容だったので、今でもよく覚えている。「踏切ではいったん立ちどまり、汽車が来ていないことを確認して渡ること。汽車が来ていたら、決まった場所以上に近寄らない。もし、踏切の近くにいると汽車が止まるかもしれない。汽車を止めると大金が要ります。そうなると、あなた方の親では支払うことができません」つまり、子供の命なんかよりも...小三の春⑭校長先生の昼礼「踏切に気をつけて」

  • 小三の春⑭校長先生の朝礼「朝は顔を洗いましょう」

    学校に行く前、顔を洗うのは春と夏と秋だった。冬は冷たくて、起きたままの顔で学校に行っていた。月曜日の朝は、全校朝礼があり、全生徒が校庭に集合した。ラジヲ体操して、「きおつけー、前倣えっ!」その後で、校長先生の訓話があった。全員が聞くふりをし、聞いていないのが校長先生の話だが、それでも、同じことを何度も聞かされると覚える。それが「朝起きたら、顔をあらましょう」そして「冬の水は冷たくありません、夏の水より温かいのです」と。顔を洗うには、冷たい空気に顔を切れながら「井戸端」に行く。釣瓶を井戸に落とす、水を汲んで、引き上げる。釣瓶から洗面器に水を移す、この時、水を散らさない。かがんだ姿勢で片手で顔を洗う、両手を使うと両手が冷える。顔を拭く。以上だが、猫と同じ程度の洗顔だった。1月や2月の真冬、何度顔を洗って学校に行った...小三の春⑭校長先生の朝礼「朝は顔を洗いましょう」

  • 小三の春⑬茂平に火の見櫓が建った

    小学校からの帰り道、いつものように4~5人で遊びながらの道だった。丸山を過ぎて視界が広がるところ、そこで「火の見櫓」が見えた。「わぁぁぁっ!」と声をあげながら、火の見櫓まで走っていった。銀色に輝く火の見櫓はまぶしすぎる程、輝き、そして誇しかった。以前、その場所の近くには半鐘が付いた、丸太の警鐘台があった。その頃、東京には「東京タワー」が建設工事中だった。東京タワーに似た構造物が茂平に出来て、(大人は知らないが)子供たちは毎日のように火の見やぐらを見上げて満足感を感じた。火の見櫓には、遊びで何度も登った。いちばん上の展望台に立つと、風が無くても揺れていた。こわいので、登ったら早急に降りていた。それを何度もして遊んだ。岡山県のもっとも西南の僻地、茂平にも火の見櫓が建った。小三の春⑬茂平に火の見櫓が建った

  • 小三の春⑫井笠のバスガール”発車っ!オ~ラ~ィ”

    用之江を走るバスは当時流行っていた、歌の通りのバスだった。-------------------------------♪田舎のバスはおんぼろ車タイヤはつぎだらけ窓はしまらないそれでもお客さんガマンをしてるよそれは私が美人だから田舎のバスはおんぼろ車デコボコ道をガタゴト走る-------------------------------それでも用之江はよかった。バスがあるから。用之江と大冝は笠岡~福山のバスが通っていた。茂平の人は、バスを利用することはほとんどなかった。町に行くには、大門駅まで出て、汽車で福山か笠岡に行っていた。茂平にもバス路線が出来た。笠岡~茂平で、日に3~4便往復していた気がする。茂平園芸(農協)が終始バス停。バスの時間前になると、番屋のおばさんが切符と小銭(釣銭用)の入った木箱を持ってバス停...小三の春⑫井笠のバスガール”発車っ!オ~ラ~ィ”

  • 小三の春⑪火の玉

    ヒトダマ近所のゆりちゃんは二歳年上の女の子だった。ゆりちゃんの家は、横の道から墓場がよく見える場所だった。「昨日の夕方、墓の上をヒトダマが飛んどった」と見た事を話す。その話を聞くたびに、自分もヒトダマが飛んでいるのを見てみたい、と思った。ヒトダマを見たのは、ゆりちゃんだけでなかった。普通に生活をしていれば、1~2度くらいは出くわすのがヒトダマだと思っていた。夏の幽霊映画にも、必ずヒトダマは飛んでいた。------------------------------------------------------------「旭町誌」平成9年旭町発行より転記する。火の玉火の玉は、鬼火とかヒトダマ(人魂)とも呼ばれている。燐化水素だ、夜光虫だ等々諸説があるが、実際に見た人は少ないようで、話が一人歩きしている感が強い。古...小三の春⑪火の玉

  • 小三の春⑩新国道(2号線)の工事が始まった

    よその町へ行くことはほとんどないので知らないが、「大門~笠岡」間の道はいちばん悪い、という話はよく聞いていた。たしかに道は狭く、路面はでこぼこだった。しかし、いちおうバスが通れる幅はあった。・・・・・・・国道二号線の工事が始まった。城見地区では、大冝と用之江のうち、茂平入口から県境までが既存のバス道とかぶったが、それ以外は田んぼや山を掘ったり,盛ったり、崩したりした新しい道づくりだった。小学校には、その新国道工事を横断しないと行けなかった。工事には「ショベルカー」と呼ばれる見た事もない大きな移動式の機械が一台か二台使われていた。学校への行き返り、立ちどまり、ショベルカーの動きを見るのが日課だった。土木作業員の宿舎が林の中で、半分崩れかけていた、旧隔離病棟が使われた。そこには家族持ちも入居し、幼い子供たちが遊んで...小三の春⑩新国道(2号線)の工事が始まった

  • 小三の春⑨瘡守神社のインチキ露店

    大津野村の野々浜に瘡守(かさもり)さんと呼ばれる神社があった。今もある、場所は山陽本線の大門駅から東へ500m程の線路の北側の丘にある。その瘡守さんのお祭りは、夜に露店が参道を埋める程に左右に並んでいる。30円ほどのこずかいを親から貰って、そのお金をしっかりと持って、暗い夜道の峠越えをした。峠を越すと広島県側になるが、野々浜漁港に近い。そこから北へ田んぼの道や、民家が点在する田舎道を北へ向かう。山陽線が近くなるとほっとする。線路の踏切を越えると、お祭りと露天の灯りが煌々と目に飛び込む。参道には、どの店も子供の興味をそそる商品を並べて待っている。その中に豪華景品をならべたクジの店があった。その商品がどうしても欲しくなり、10円出してクジを買った。クジは5枚あり、その内の1枚が当たりクジ。最初、5枚のを買ったので確...小三の春⑨瘡守神社のインチキ露店

  • 小三の春⑧父は密造で捕まった

    葡萄畑ではキャンベルとマスカットを作っていた。収穫したブドウは、房に付いた白い表面の粉に指が少しでも触れないように、成長の悪い房などを落として、それを等級に分けてから出荷していた。商品にならない葡萄の房は、牛の餌にもせず、大きなバケツに貯めた後、井戸水で汚れを落とし、父は両手の手のひらでもみ返していた。それが葡萄酒の密造の最初の工程だった。父の葡萄酒造りは、物心がついた頃にはしていたので、たぶん戦前から、そして父の代の前からも造っていたのだろう。田舎の自給自足の食べ物・飲み物の一つであると思っていた。ところが、茂平で葡萄を作っている農家全ての家に税務署がやってきた。その結果、父も密造の罪で捕まった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「台所に敗戦はなかった」魚柄仁之助著...小三の春⑧父は密造で捕まった

  • 「生きてゐる兵隊」

    第一回目の芥川賞作家・石川達三は、昭和13年(1938年)1月中央公論派遣で上海に行き、戦場を見聞きし「生きてゐる兵隊」を書いた。中央公論の昭和13年3月月号に発表された。この雑誌は発売即日に販売禁止になった。石川達三は裁判で禁固4ヶ月の判決を受けた。戦後すぐ、昭和20年12月に単行本「生きてゐる兵隊」が河出書房から出版された。「蒼氓・日陰の村」昭和47年新潮社発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「生きてゐる兵隊」さすがに無錫の守りは堅く、二日目の戦闘にもついに城門をぬくまでには至らなかった。西沢連隊はこの日連隊旗手を失った。弾丸はただ一発で彼の左胸部をつらぬき、担架に乗せられたときにはもう息は絶えていた。「連隊長殿に、残念ですと、伝えてくれ」そういったのが最後であった。戦闘は夜を徹して行わ...「生きてゐる兵隊」

  • 小三の春⑦芝居を見に行く

    「伊豆の踊子」一行のような旅芸人が茂平にも来ていた。映画はポスターで住民に知らせていたが、芝居はチンドン屋のように鉦や太鼓を鳴らしながら茂平を一周していた。年に一回か二回、どこから来るのは不明で団長以下男女で4~5名程度だったような気がする。寝泊りは集会場を利用していた。興行は茂平集会場に付設の茂平ごらく場で、チャンバラ芝居をしていた。カツラや刀やお化粧の人を見るのは、この時しかなかった。芝居よりも顔や衣装の方が子供には面白かった。興行は2~3日続いた。その後は、どこの村にゆくのか、噂にも聞いたことが無い。小三の春⑦芝居を見に行く

  • 小三の春⑥映画史上空前の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

    映画を見るのは、福山、小学校、茂平集会所の三通りあった。福山では、「とんど祭り」に行った際に、映画館で見て帰る。小学校は、文部省推薦の映画、例えば「次郎物語」や「にあんちゃん」のような教育映画。さっぱり面白くない映画。講堂に暗幕を貼って暗くしていた。茂平集会所には、月に一度くらい金浦座が出張してくる。夜上映、一度限り。上映日の二日ほど前に、青木と農協と吉本にポスターを貼っていた。二本立てで、たいてい前にチャンバラ、後に現代劇を上映するパターンだった。映画は東京や大阪で上映して約1年後に茂平に廻っていた。新東宝映画は弱小な会社だったが、アラカン(嵐寛寿郎)主演で、総天然色シネマスコープの「明治天皇と日露大戦争」を公開し、映画史上空前のヒット作品となった。その映画は公開後2年ほどして茂平集会所にやってきた。その夜、...小三の春⑥映画史上空前の新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」を見に行く

  • 金浦漁港から販売される魚

    昭和10年頃の金浦町の様子。漁港には問屋があり、小田郡内の魚は金浦に出荷し、金浦+近海+九州+山陰+朝鮮の魚が小田郡、後月郡の他に、成羽や高山市方面に販売されたようだ。金浦でのセリ(市)や、近海以外からの移入魚の鮮度をどうしていたのか不明である。金浦地区の漁獲高の「黒鯛」と「ちぬ」は、どう違うのかも不明。「金浦要覧」編・増成松平昭和11年6月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx金浦委託魚問屋の移入魚類販売調査(昭和9年度末調べ)タイ近海6.000円九州3.500円山陰2.200円朝鮮3.600円サハラ85.0003.7001.4504.500チヌ3.7001.2501.3501.530ハモ2.3001.220-2.300以下サバ、イワシ、ヒラ、イカ、タチ、其の外-----------------...金浦漁港から販売される魚

  • 金浦町の名勝地

    「金浦要覧」編・増成松平昭和11年6月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx金の浦吉浜郷は寛文年間吉浜堤を築き東西2個の水門を設け、海海化して沃野になれり。其れ以前は海水深く潟入し、風光明媚いわゆる金の浦の勝地たりし所なり。後冷泉院の永承元年藤原朝臣家経の歌におきつ波風たつへくも吹かぬ夜に金の浦より出つる釣舟小生浜海岸に一老松あり俗に一本松という。日露戦役勇士の石碑三基あり、往時は製塩の地たりしなり。陶山岡羊腸たる経路を登れば山頂今は全く畑と化せるも、陶山氏の居城たりし西浜城の跡。特に西丸行者山には石垣の残塁今尚存せり。ここの風光殊に美しく、山紫水明風光無比と称するも過言にあらざる。城址の一部に村社八幡宮の神域あり他に3件あり、下記。魚渚郷天神山カブトガニ金浦町の名勝地

  • 金浦病院・金浦青年団・国防義会金浦支部・金浦青年学校等

    「金浦要覧」編・増成松平昭和11年6月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx金浦病院本県社会課の構想により町長は気運の促進を図る。町財政を考慮し小規模の施設となし、意見もあった。幾多の障壁を辿り、昭和8年1月開院式を挙行せり。町民の利用は勿論、隣接各町村の診察を求むるもの増し、健全なる発達を遂げつつ今日に至れり。金浦消防組明治32年、団員154名。明治44年341名。昭和2年394名。金浦町青年団本町在住の15歳以上25歳以下の学籍にあらざる青年を以って組織す。現在団員総数三百余名に達せり。本団の創立は昭和4年、各部落にあったものを大日本連合青年団の一町一青年団の方針に則り、統一せられり。弁論会、体育会は近県青年の大会を挙行し、且つ「若人」を発刊して地方文化に貢献し傍ら社会奉仕の作業に懸命...金浦病院・金浦青年団・国防義会金浦支部・金浦青年学校等

  • 魔の踏切

    子供の頃、大門駅の東側の踏切に「踏切小屋」があった。そこには踏切番よりも、いつも子供が遊ぶのがみえた。「大門の子はええなあ、踏切小屋で遊べて」とうらやましく思っていた。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「野々浜むかし語り」野々浜公民館1991年発行より転記円寂寺前の「寺の前踏切」に踏切番が置かれていたのは、昭和の初めに山陽線が複線になってから、しばらくしてのことだろう。線路の南側にあった踏切小屋に踏切番が終日詰めて、汽車が来るたびに遮断機を上げ下げしていた。本人が駅の宿直室に仮眠に行っている間は、駅の者が来て代わりに上げ下げしていた。踏切小屋にはよく遊びに行っていたものだ。あの中へ入りこんじゃあわーわー言ってたし、大きくなっても農協の帰りにあそこへ入って遊んで戻りおった。踏切番は鋼管が来る前の昭和...魔の踏切

  • 霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑 --吉浜菅原神社

    吉浜菅原神社には霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑があったそうだ。次に訪問の際は、ゆっくりと身で確認しみようと思う。「よしはま物語」関藤不二男著しょうわ48年12月発行より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxx随神門の左側に自然石の霊園碑が建っている。これは明治25年岡田藩の儒者であった浦池其の選並書であると聞いているが、岩に亀裂を生じ、磨きが悪いためか刻んである文字が判読できない。この原稿を蔵しておられる人は御教示を賜りたい。その台座一ぱいに寄附者の名が刻んである。吉浜の有志50名ばかりと、他町村では、東京を始め岡山、井原、笠岡、有田、西浜等20余名が名を連ねている。随神門の右側には何かがあったらしい凝った配石をした台座が残っている。これは菅公1000年祭記念碑の寄附者名簿の銅板が建っていた跡である。(...霊園碑と菅公寄附者銅板と筆の碑--吉浜菅原神社

  • 小三の春②風邪をひいて卵を喰いたい

    近所のよりさんは6才年上だったが、よく遊んでくれていた。よりさんの家で遊んでいる時、「今鶏が卵を産んでいるから・・・・シー」と声を出すのを禁じられた。見ると、縁側の下の鶏が身を丸くして生む姿勢を取っていた。子供なので、日にちが変わるとすぐに忘れ、よりさんからは同じ注意を何度も受けた。その卵は、一ダース以上たまると農協に出荷入して換金していた。子供が卵を食べる事はなかった。卵は売るもので食べるものでなかった。その卵を食べる事が出来るのは、お祭りや、運動会や、遠足の弁当に入っていた。しかし、それはフライパンで丸く焼いた卵焼きが何等分かに切られたうちの、一切れだった。なんとか一人で一個の卵を喰いたいものだと思っていたが、それは風邪をひいて寝込んだ時だけ可能だった。風邪をひくと、母がおかゆを作り、梅干しと、生卵を一個盆...小三の春②風邪をひいて卵を喰いたい

  • 帝国在郷軍人会金浦町分会

    「金浦要覧」編・増成松平昭和11年6月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxx明治41年3月設立・・金浦在郷軍人会は在郷軍人の向上発展に寄与せり。当時の会員172名なり。明治43年11月3日・・「帝国在郷軍人会規約」の発布せらるるや、直ちに其規約による金浦町分会となるに至る。爾来、勅語詔書の御主旨を奉戴し軍人精神の鍛練不撓不屈の身体訓練養護に努力し又は国防思想の普及、過去戦役を記念し戦役陣没者及び公務に起因せる死亡者の祭典を執行し並びに其遺族及戦傷軍人の慰問優遇に力を徹し、青年学校の訓練を幇助し事あるごとに町当局及び諸公共団体と一致協力して事業の遂行、風致の指導浄化に徹す。満州事変の起こるや率先銃後の任務遂行にあたり尚全力を挙げて軍事思想普及に努力せしものなり。現在240名の会員を擁し、金浦小学校校庭...帝国在郷軍人会金浦町分会

  • 金浦町の漁業発達概況

    「金浦要覧」編・増成松平昭和11年6月発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx金浦町の漁業発達概況明治中頃までは鞆港の東方海面において漁業使用は殆ど西浜漁業者の占有なりしが其の後各地沿岸に漁業者増加ししたがって漁網の使用を発明習得し西浜漁民の漁場範囲を漸次狭められ、明治36年漁業法の施行せられしにより漁業組合は各地に設立せられた。魚量を減するが故に、明治39年頃西は豊前豊後及び朝鮮近海に東は阪神方面地先へ出漁を試みし者ありしが未知の漁場の事情により漸減す。水産物販売概況西浜に板屋なるものありて、魚問屋を経営し、相当手広く沖は真鍋島を始めとし、小田郡内の漁業者全部の、漁獲物を販売せし由、故に相当多数の魚類も集散す、以後板屋は廃業し、数名にて西浜漁業者の漁獲物の販売をなせり...金浦町の漁業発達概況

  • "伏源”の歴史

    大女優・田中絹代の姉が、笠岡の伏源で仲居をしていた縁で、何度も訪れている・・・という話を聞いたことがる。「笠岡沿革史」笠岡町沿革史編纂期成会昭和26年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「伏源旅館」明治24年先代瀬戸源次郎により三階建築落成し、三快楼と称して中利(←もう一つの大旅館)と共に笠岡に過ぎたるものとして賞賛せられた。同41年、大広間を建築し益々隆盛に向かひつつありしが、時局の緊迫に伴い父業70年の本業は昭和19年3月廃業の止むなきに至った。同年9月神戸市六甲国民学校疎開学童の宿舎に、後海軍水路部に提供、終戦後三浦星夫の経営事業に移り三洋と改称す。"伏源”の歴史

  • 笠岡の映画館

    管理人が高校生の時、笠岡には映画館が4館あった。西から、大和座・笠岡セントラル・中央劇場・金星劇場。学校の推薦した映画以外は見たらいけない決まりだった。「笠岡沿革史」笠岡町沿革史編纂期成会昭和26年発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx大和座明治11年祝座として発足せしが大津波のため流出し、同36年新築して戎座と改め、昭和5年大改築し大和座と改称、同15年より映画を主とす。座主従業員9人笠岡映画館昭和18年8月1日開館す。館主経営者従業員8人金星映画劇場昭和26年3月新築開館。代表幹部2人太陽座昭和26年8月新築開館す。洋画を専門とす。館主笠岡の映画館

  • ワンマンバス

    ♪運転手は君だ車掌は僕だあとの四人は電車のお客・・・電車もそうだが、バスもまた必ず車掌さんが乗っていた。昭和42年、広島市でバスに乗ったらワンマンバスだった。これにはびっくりした。後を追うように、笠岡のバスもワンマン化された。「井笠鉄道70年のあゆみ」昭和56年井笠鉄道発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和45年4月15日第一次ワンマン運行実施系統名・・福山高屋団地大門団地福山引野大門団地福山~宮の前福山~東福山駅大門団地~鋼管大門団地大門鋼管昭和46年3月20日第二次ワンマン運行実施系統名・・井原御領福山笠岡新国道福山富岡団地~福山福山千軒土手二ツ川(昭和46年3月31日井笠鉄道廃止記念式典)昭和46年9月23日第三次ワンマン運行実施系統名・・福山新道玉島井原山王笠岡井原~矢掛矢掛~福山井原...ワンマンバス

  • 小三の春①遠足

    三年の遠足は福山だった。遠足の日は暗いうちに家を出る。学校に着くと、点呼の後、出発する。学校から大門駅まで歩いてゆく。県境を越え、講口池のふきんは、薄暗くて不安な気持ちになる。自然と早足になった。大門駅から次の駅(福山駅)で降り、福山城に行く。お城で解散して、走ったり、遊んだり、弁当食べたり、持ってきたお菓子を食べた。福山城公園には、金網で造った大きなゴミ籠が、随所に置いてあった。同級生が食べ終えて、ゴミ箱にいれた空を、頭と手を箱に突っ込んで物色する人がいた。それが、うまれて初めて見る乞食だった。次に、お城からバスに乗って草戸の明王院に行った。バスから降りて、はじめて五重塔をみた。バスの集合まで時間があるので芦田川の河原に下りた。こんな大きな川が、日本にあることに腰が抜けそうだった。水面に石を投げるのは海の遊び...小三の春①遠足

  • 紅花(ベニバナ)の衰退

    涼しさを我宿にしてねまる也松尾芭蕉が尾花沢で、”紅花大尽”の清風にもてなしを受けた際の気持ちが句によく出ている。最上地方の名産「紅花」はなぜ衰退したのだろう?「山形県の歴史」昭和45年山川出版社発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx養蚕・生糸業の発展”最上紅花”として全国に名をはくした村山地方の紅花が衰退したのは、幕末に支那紅が輸入され、さらに明治にはいり、廉価な新紅と呼ばれた化学染料”洋粉アニリン”が、大量に京都に輸入されるようになってからである。河北町の明治3年の記録に「畑方は紅花もよろしからず。百姓一同大いに困りいりそうろう」とある。明治3年の山形県の産額は1万2千貫目、その翌年は半分、やがて統計書から姿を消した。いっぽう製糸・絹織物は飛躍的な発展をみた。紅花(ベニバナ)の衰退

  • 猪の肉は,一番美味しい

    「動物民族」長澤武著2005年・法政大学出版局発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxイノシシ味は甘く濃厚で、「山くじら」と呼ばれるほどの美味。焼肉とするほか味噌を入れた「しし鍋」が一般的。この肉を「ぼたん」と呼ぶのは、馬肉の「さくら」に対しての民間の言葉。獣肉の中で一番美味とされる。カモシカ食べると温まるので夜尿症の子や、冷え性の婦人によいといわれた。特に晩秋の肉が美味で「木の葉肉」と呼んだ。煮て食べるのが一般的だが、味噌漬け・塩漬けで保存したり、塩ゆでして干して非常食として愛用した。シカ味が淡白で「刺身」が一番と言われ、特に11月ごろの雄鹿の背肉は、マグロのトロより美味いといわれている。普段はすき焼きにして食べる。クマツキノワグマは肉よりも、高価な肝や毛皮が目的で捕獲が行われてきた...猪の肉は,一番美味しい

  • いの一番・・・とは?

    「いの一番」は辞書によれば、イロハの最初の文字なので、「まっ先」「第一番」の意味と書かれている。民俗学では異説がある。「動物民族」長澤武著2005年・法政大学出版局発行より転記。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx耕作栽培する技術を持たない縄文人は、狩猟や漁撈により食用になる動物を得たほか、食用となる木の実や草木類を採集して暮らしていたようだ。雑穀や稲の栽培が始まり、主食の確保はできても、タンパク質は狩猟や漁撈により、動物性タンパクを主として摂ってきた。動物性タンパクは主として肉を食用とすることによって得られた。縄文遺跡から出土する骨などから、シカ、イノシシ、ノウサギ、クマ、アナグマ、サル、リス、モグラ、イタチ、オオカミ、キツネ、タヌキ、カワウソ、ムササビ、カモシカなどがある。これを見ると、うま...いの一番・・・とは?

  • 亡国病①

    癌を亡国病とは言わないが、結核がなぜ「亡国病」と呼ばれたのだろう?軍人用語のような気がするが、昭和40年代の初めごろまでは身近にある怖い病気だった。「昭和」3非常時日本昭和7~9年平成元年講談社発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx猛威をふるう「亡国病」対策が遅れた結核予防結核は昭和10年に死因の一位になっていた。農村での結核患者の急増は、兵士の供給を農村に依存していた軍部にとって深刻な問題だった。しかも、働き盛りの10代後半から20代の若者たちに結核による死亡率が高かったことが、政府にその予防対策を急がせた原因になった。明治から大正に至るまで、結核は都会の工場労働者やスラム居住者たちに多い病気であり、「貧民病」と呼ばれるほどだった。結核死亡者は、東京が圧倒的に高く、全国平均の三倍以上ににも上...亡国病①

  • 応神山の「航空灯台」

    笠岡を代表する山、応神山に石とコンクリートによる遺構が残っていることは多くの登山・ハイキングなら誰でも知るところ。(撮影2018年12月30日)では、それは何であるのか?何時頃に設けられ、いつまで使用されたのか?と尋ねられると返答に困る。「小田郡史・下巻」昭和16年小田郡教育会編纂地図が添付され「航空灯台」と記されている。設置された時期は不明だが、軍事施設でなかったことはハッキリした。戦後まで利用されていたのかも知れない。応神山の「航空灯台」

  • 招魂社及忠魂碑

    「小田郡史・下巻」昭和16年小田郡教育会編纂より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx招魂社及忠魂碑維新以後国事に斃れたる烈士の霊を慰めん為、日清戦役後本群連合にて、笠岡町威徳寺付近天神社境内に忠魂碑を建設し、北進事変後第二忠魂碑を建設せしが、日露戦役後之を改めて招魂社造営の議を決し、廃棄したる昭忠碑は有志者の奉仕により古城山頭に移転し、其跡に社殿を造営して、日清戦役以後各戦役忠死者の霊を合祀し、茲に本郡招魂社を見るに至れり。然るに昭位置は狭隘にして不便なるを以って、後之を古城山に移転し以って今日に至れり。各町村多くは忠魂碑を建設し例祭を行ひて忠霊を慰むるの方法を講ぜり。其建設の年月左の如し。(城見村はなし)※一部抜粋する金浦町大正11年5月10日陶山村昭和3年11月大井村昭和4年5月笠岡町...招魂社及忠魂碑

  • 徴兵人員、在郷軍人会

    「小田郡史・下巻」昭和16年小田郡教育会編纂より転記する。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx徴兵人員兵事に関する最近の統計は、事変関係上之を公表することを許されず。故を以って比較的古き統計を用ふるの止むなきに至れり。大正4年度に於いて甲乙合格者が71%なりしも、昭和10年度59%に低下せるは、寒心に堪へざる所にして、国民体位の向上を企画するの急務なるを痛感せしむ。徴兵人員趨勢明治41年徴兵総人員753陸軍現役151海軍現役2大正7年1.04820613在郷軍人会及軍友会各町村に在郷軍人分会の設立あり、之を統合して小田郡連合分会を設け、帝国在郷軍人会に属し、国防思想普及の為盛に活動せり。会員数は事変の関係上調査するは能わず。別に軍友会なるものあり。兵役を終わりたる者を会員とし、各町村に設置せり...徴兵人員、在郷軍人会

  • ハミ(マムシ)を飲む、食う、売る

    祖父は畑で取ったハミを、そのまま生血を吸っていた。父は皮をはいだハミを串刺し状にして軒下に干していた。干した後は、どのようにして食べていたのか記憶はない。今思えば、祖父が血を吸った残り物を、父が干して食べていたことになる。その後、祖父はハミを生け捕りして一升瓶にいれ、それが何匹か貯ったら売りに出していた。それほど日本が貧しかったのだろう。それほど畑には、ハミが多かったのだろう。母方の祖父は、畑でハミに噛まれ、危なかったそうだ。動物民族1長澤武著2005年発行・法政大学出版より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxマムシ胆のうを強壮、強精、肺結核、胃弱の薬として生で丸ごと飲む。あるいは、骨付きの肉を焼いて食べる。卵や子も同じ目的で煮て食べる。生きたものをマムシ酒にして、打身、はれ物、痛み止め...ハミ(マムシ)を飲む、食う、売る

  • 日本の国連脱退②松岡洋祐代表

    「昭和」3非常時日本昭和7~9年平成元年講談社発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx昭和7年11月、すでに「満州国」を承認していた日本は、連盟を脱退してでも満蒙の支配権を守るため連盟理事会に臨んだ。松岡は、理事会でリットン報告書を激しく非難し、中国側代表と対立した。8年に入ると日本は熱河省への侵攻を開始したが、連盟の対日感情を悪化させた。2月14日、19人委員会はリットン報告書は満州国不承認を内容とする報告案を全会一致で可決した。この報に接した日本政府は、総会で採択されたら連盟を脱退することを閣議で決定した。2月24日の連盟総会で42対1(日本)対棄権1(シャム)で採択した。脱退に至るまでの内田外交を、宇垣一成は「昨夏以来帝国の外交当局は果して何を為し来たりしや。軍部一部の短見者流の横...日本の国連脱退②松岡洋祐代表

  • 日本の国連脱退①「共同宣言」

    国連での、日本への支持派がないことにいら立った新聞各社は「共同宣言」を発表した。新聞社が、まっさきに狂い、国民を扇動したことがわかる。「昭和」3非常時日本昭和7~9年平成元年講談社発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「共同宣言」満州の政治的安定は、極東の平和を維持する絶対の条件である。而して満州国の独立と其健全なる発達とは、同地域を安定せしむる唯一最善の途である。東洋平和の保全を自己の崇高なる使命と信じ、且つそこに最大の利害を有する日本が、国民を挙げて満州国を支援する決意をなしたことは、まことに理の当然といはねばならない。ひとり日本のみならず、真に世界の平和を希求する文明諸国は、ひとしく満州国を承認し、且つ其成長に協力するの義務ありといふも過言ではないのである。然るに国際連盟...日本の国連脱退①「共同宣言」

  • 靖国神社の北木石の大鳥居

    靖国神社には大鳥居が九段下から何本も建っているが、すの全てが青銅など鋼材で出来ている。大村益次郎銅像の場所から南側、青山方面の「駐車場入口」に石の鳥居がある。石の鳥居はここのみなので、さがすのは簡単。昭和8年、北木島産の石が靖国神社の鳥居になった。昭和」3非常時日本昭和7~9年平成元年講談社発行より転記xxxxxxxxxxxxxxxx靖国の大鳥居高さ11メートル東京九段の靖国神社に石の大鳥居と狛犬が完成し、4月13日、奉納式が行われた。これらは、製糸業で知られた片倉合名の片倉一族が奉納したもので、鳥居の高さは約11メートル、狛犬の高さは約2.3メートル。写真は、同神社で組み立て作業が進められる大鳥居。靖国神社の北木石の大鳥居

  • 活動弁士

    高校の頃、笠岡の映画館では映画館の経営者(通常、映写機を回していたと思う)の他に切符売り、自転車の駐輪料の人、看板の絵描き人がいた。笠岡中央劇場には館内にお菓子売りの他に、焼きソバの店(食堂)もあった。映画の衰退とともに、その人たちは職場を失った。父は映画が無声からトーキーに変わると、寂しい思いがしたそうだ。父が見たのは笠岡や福山の映画館と思う。その弁士は職を失い、一部の人は紙芝居の弁士になったのだろう。昭和30年代の紙芝居屋さんの「話し」「手の動き」「顔の表情」それはそれは、おもしろかった。「昭和」3非常時日本昭和7~9年平成元年講談社発行より転記bbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbb「職を奪われた弁士たち」大辻司郎、徳川夢声も転業昭和7年、東京市内の松竹系列の23館で、弁士・楽士による...活動弁士

  • 笠岡~玉島航路、夏目~天神渡し

    神島外浦に住んでいた高校の友人が、「本土に渡る際は、一度だけ利用した航路(笠岡~笠岡諸島、神島~横島渡船の他に)がある。」と言って、かつて天神から夏目に渡船があったことを話した。友の記憶は、一度乗ったことがある以上の思い出はなさそうだった。「大島村略誌」より下記を転記するが、神島に行って何時頃まで運行したのか、他を確認したいと思っている。xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx「大島村略誌」黒住清著昭和11年瀬溝海峡は笠岡、多度津間の定期航路に当り島嶼からの発動機船の就航するものも多い。夏目はその乗船地で、また神島の天神への渡し場でもある。笠岡、玉島間の航路は夏目、正頭、奥ノ浜等に寄港していたが近年〇航した。(注・○は休か?)笠岡~玉島航路、夏目~天神渡し

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