明治10年、山岡鉄舟は天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。 鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう」と答えた。 戊辰戦争のとき鉄舟が駿府の大総督府へ向かって官軍の陣営を駈け抜けたとき、桐野利秋とともに追いかけて鉄舟を斬殺しようとした一人が村田新八であった。後日、村田は「あなた(鉄舟)がとっとと西郷のところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった」と打ち明けている。(「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳——『最後のサムライ…
いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。 さらに、「自分は21歳の時から色情というものは妙なものだと疑問に思って、それから30年間、数知れぬほど女性に接したのであるが、その間実に言うに謂われぬ辛苦を嘗めた。そうして49歳の春、ある日庭の草花を見て、たちまち機を忘れること若干時、ここにおいて初めて生死の根本を裁断することができた」と述べている。 後年、鉄舟の実弟小野飛馬吉が語ったところでは、鉄舟がある…
西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』
大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとしている。これほど遺憾なことはない」と、大西郷の悲惨な最期に万斛の同情を禁じえなかった。 そこで大久保公は「その精神と勲業を天下に表白し、その遺徳を後世に伝えられる者は予をおいて他にその人はない」として、重野安繹を自邸に招いて、その編輯を依頼した。重野安繹は次のように語っている。 「十年の戦争で西郷が城山で死んだとき、故大久保内務卿はわざわざ拙者を自宅に招いて、…
自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識
山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが、決して左にあらず。人の追従すること能はざる一種の卓見と遠識とを持って居る」として、板垣退助が来訪したときのことを紹介している。本文を要約すれば次のようになる。 板垣との問答 理論家の板垣は、舌を振るって立憲制度の美点を説き、「英国には二つの政党が対峙して、互いに真理を見出し、善くその正鵠を失わない。我邦もこれに倣わなければならぬ」と述べた。 鉄舟は耳を傾けて…
文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1 清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。 周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検視の役人を到着を待っている状況であり、清河の死体には近づくことは容易ではない。 そこで石坂はひとつ芝居を打つ。「これは何人であるか」と訊ね、町役人が「清河八郎なり」と答えると、周造は突如抜刀し、「年来探し求めた不倶戴天の敵清河八郎め」と怒声をあげ、瞬く間に清河の首を斬り落とした。 それを見た町役人が慌てて駆けよると、周造は紅く染まった刀を振りかざして睨みつ…
無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。 大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は、全国の政権、兵権、利権を統一して、純然たる一君政治の古に復するのがその重要目的であったと考えられる。 欧米各国を巡回されて、その富強の由って基づくところを観察して帰朝されてから以後は、第二段落である。この世界上に独立して国を建てるには、富国強兵の必要は申すまでもないが、この富国強兵の策を実行するには、是非とも殖産興業上から手を下して、着実に、その進歩発展を…
大隈重信が筆を執らなかった理由は諸説ある——字が下手であるためだったとか、それほど下手ではなかったが席次の低いものに能書きがいたためだったとか——が、とにかく、5年や10年その邸宅に出入りした者ですら、大隈が筆を執るところは見れなかったといわれる。それほど筆を執ること、字を書くことを避けていたようだ。 筆を執らなくなったのは少年の頃からだったという。あるとき母が、先代の法要をするから親戚に手紙を書くようにと言いつけた。それで手紙を書く事は承知したけれど、どうしても筆をとる気になれず、口頭で告げたほうが早い、と家を飛び出し、二里*1も三里もある親戚のところまで歩いていったとのことである。 尾崎行…
山岡鉄舟居士は『某人傑と問答始末』と題する自記を残している。この「某人傑」について『幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』では佐久間象山だと書かれていて、それにならって私も過去に記事を書いたのであるが、『高士山岡鉄舟居士』によれば「某人傑」とは清河八郎のことであるという。誤情報を訂正する意味も含めて、『高士山岡鉄舟居士』に書かれている流れを紹介したい。 清河八郎は鉄舟よりも六歳年上であり、武道だけではなく、和漢洋の学にも通じ、武道も心得ていた当時の一人物であった。千葉周作の道場にかよっているとき鉄舟を知ったのである。 それであるとき清河は、鉄舟の心事を試すために問いかけた。「貴殿は元来潔白…
幕末の頃、つまり桐野利秋がまだ中村半次郎と名乗っていたころの話。 photo credit: 花見こもち, ぎおん特屋, 原宿 via photopin (license) 京都四條畷の曙で、お汁粉26杯を平らげたことがあった。それに感心した店主は、 「手前ども開店以来いく年月のあいだ、百千のお客様の御入来を頂きまして、随分沢山にお上がりの方もありましたが、26杯というそんな大した方は全くはじめてで御座います。どうかお名前を店に張り出して、店の名誉と致しとう御座いますから……いーえどう致しましてお勘定など頂くわけには参りません、どうぞお名前を」と讃える。 「けしからぬことを言うな、26杯食った…
近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知らせになった。そして私の秘密主義を非常に喜んでおられた。剣術は桐野の方が多少上であったが、文書は私が少し上であった。 今回は有馬藤太の『維新史の片鱗』から、有馬が語る桐野利秋との関係を紹介したい。 初対面で意気投合 二人が初めて会ったのは、鹿児島にいた頃のことで、桐野(当時は中村半次郎)が有馬の家を訪ねて来たのだという。二人はすぐに意気投合した。しかも桐野は、…
前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。 奮発 西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あった」”明暗双双”と評している。 その伊藤が奮発した出来事を二つ紹介している。 一つは、伊藤が20か21歳の頃。井伊の子息が将軍のお使いとして京都に上ったとき、伊藤はそれを見物していた。見物を終えて帰ると、「井伊について居った供の侍の中に何人ばかり強そうなのが居ったか」と仲間に訊かれた。伊藤は「そんな事に気がつかなかった」と言…
『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたものだという。安藤曰く、「一代の元老、明治の元勲を語る貴重なる資料であり、天下第一等の文献であろう」とのことである。 伊藤の印象 西園寺が伊藤の名を初めて耳にしたのは、戊辰戦争のときだったという。鎮撫総督として山陰道に出征した帰路、「伊藤という人が神戸か何処かへ居ったという事を聞いたくらい」のことで、 私は大久保と非常に懇意であったが大久保が伊藤を大変引き立てて…
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