『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通と西郷従道の関係は次のとおりだったという。 西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装万端をお世話になり、その後もほとんど毎日のようにお宅に参っておりました。わたくしなどまでも何くれと教えてくだされ、いつも御注意を受けて居りました。 親切な大久保公 従道侯は無頓着なために、ときおり大西郷の機嫌を損ねてしまうことがあった。あるとき従道侯が乗馬したまま、大久保公と大西郷の前を横切ったことがあり、大西郷は「生意気である」と立腹した。そこで大久保公は…
古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。 そこで安間村*1にいた金原明善(きんぱら めいぜん)は、沿岸住民とのあいだに協力会社を設立し、治水事業に尽力していた。ところが明治10年に県の治水の予算が4万円に縮小。静岡県には大川巨河が多いため、天竜川の治水事業には1万円しか割り当てられなくなった。 これまで年間2万6千円の費用がかかっていた事業である。このままでは工事を中止しなければいけない。明善翁は「斃れて止む」と…
明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。 薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋敷前をお通りの際、窓から覗いた者が有る。それを取り調べねばならぬ故、大隊長篠原を同行して来るよう」 と通告された。 これに対して有馬は、「なるほど、私は薩摩の公用人であるが篠原隊は既に軍務官附属になっているから、私の方で関係することは出来ない。これは当然軍務官にお掛け合いあるべき筋と存ぜられる」と反論して退出。 その後、兵営に行って篠原に一部始終を話すと、「…
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