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2014/11/07

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  • 晴海埠頭で夜景撮影に挑戦してみました

    前回投稿した板橋に行った日の夜、晴海埠頭で夜景撮影に挑戦してみましたので、そのときの写真を載せようと思います(帰省とそのついでに函館旅行をしていたため、ちょっと日数が空いてしまいましたが……)。 勝鬨橋 勝ちどき駅を出てから撮影した勝鬨橋。 勝鬨橋の近くから、東京タワーを撮影。 晴海 勝鬨橋から晴海埠頭にむかう途中に通った晴海テラスで撮影。 80Dを買ったばかりの頃で使いこなせていなかったのですが、それでも楽しく撮影することができる風景でした。また行く機会があったらクロスフィルターを使って撮影したい場所です。 晴海埠頭 上の三枚は「晴海客船ターミナル」です。 ターミナルから東京タワー方面を撮影…

  • 歴史を求めて板橋へ

    これまで「東京で撮った写真」として史跡などを訪問した写真を載せていましたが、とても嬉しいはてなブックマークのコメントをいただきました。 東京で撮った写真part2 - 幕末維新備忘録 史跡を巡り。そのような視点でお写真を撮られ、こうして載せていただくと、その時代に想いを馳せることができます。綺麗に撮られていますね。 2016/08/04 14:53 happy-ok3様コメントありがとうございました。 siawasetori.hatenablog.jp それで前回までの記事だとどうしても場所がわかりにくいと思ったので、私がこれまでに撮った写真を埋め込み、簡単な説明を加えたマイマップを作ってみま…

  • サイトを公開しました

    isin-itsuwa.net サイトがGoogle検索に表示されるようになったので紹介します。 『幕末維新逸話辞典』というちょっと大袈裟なタイトルですが、これは森銑三氏の『人物逸話辞典』のサイト版にしたという思いからです。森銑三氏の学識に到底及ばないことは承知しながらも、ネットの利点を生かしてタイトルに恥じないサイトにしていきたいと考えています。 人物逸話辞典 作者: 森銑三 出版社/メーカー: 東京堂出版 発売日: 1987/05 メディア: 単行本 クリック: 7回 この商品を含むブログを見る サイトの大体のデザインが決まっただけで、コンテンツは少ないのですが一度覗いていただけると嬉しい…

  • 東京で撮った写真part2

    前記事とは別の日に撮った写真です。上野恩賜公園と円通寺の史跡を巡りながら撮影しました。 上野恩賜公園 小松宮彰仁親王銅像。 西郷隆盛像。日差しが強くてうまく撮れず……。また西郷さんの銅像の後方には彰義隊戦死者のお墓がありますが、お墓なので撮影しませんでした。 西郷さんと彰義隊といえば上野戦争。で、その上野戦争において一番の激戦が繰り広げられた黒門を表現した壁泉。二年前に来た時は無かったような気もしますが、新たに建てられたのでしょうか? 円通寺 黒門の実物は円通寺に移築されています。 また円通寺には、上野恩賜公園で火葬した彰義隊士の遺骸を埋葬していて、個々のお墓もあります。この黒門の後ろにありま…

  • 東京で撮った写真part1

    一眼レフカメラを買ってから東京へ撮影しに行ったときの写真をポストしようと思います。 浅草寺 ライトアップされた浅草寺。個人的に気に入っている写真の一つです。三脚を使わずに「手持ち夜景」で撮りました。 スカイツリーと五重塔。どうもうまく収まらなかったので、広角レンズか魚眼レンズを買ってからまた挑みたいです。 五重塔をモノクロで撮影。 いつまでライトアップしているのかわかりませんが、雷門は修復作業中で見ることができなかったのでまた今度訪れたいです。 勝海舟像 夜のスカイツリーを撮影しようと歩いているとき、勝海舟像がいい雰囲気だったので撮影。私がブログをはじめたきっかけの一つは勝海舟の「氷川清話 」…

  • 『人物言行ログ』から『幕末維新備忘録』にブログタイトルを変更しました

    長い間更新できずにいましたが、訳あってブログタイトルを変更しました。 実は少し前から幕末維新に関する逸話を蒐集したサイトを作成していました。まだそちらのサイトは公開していませんが、幕末維新の逸話はそちらのサイトの方で公開することにして、はてなブログ(『幕末維新備忘録』)の方では史跡訪問や史料を読んだ私感などを中心としたブログにしようと考えています。 それで史跡撮影用の一眼レフを購入したのですが(美しい画像を掲載されているブロガー様に影響されて)、考えていた以上に楽しくてサイト作成そっちのけで風景ばかり撮ってました笑。 まだまだ撮影に馴れないのでアドバイスなどいただければ幸いです。というわけで今…

  • 薩英戦争の笑話(奈良原家に砲弾が当たった話など)——市来四郎談(史談会速記録)

    生麦事件、またそれに引き続く薩英戦争によって薩摩藩は「攘夷の先鋒」や「攘夷のチャンピオン(芳即正氏の表現)」とみなされ、攘夷急進派からもてはやされたのであるがそれは実態のともなわないものであった。そうした藩内の情況については市来四郎が詳しく語っているので、前回と同じく『史談会速記録』から紹介したい。 市来四郎が母に謝罪した話 市来四郎は、斉彬に抜擢され集成館事業に携わったほどの有能な人材であり、生麦事件以来の攘夷派の熱狂には苦々しい思いを抱いていた開明的な思想の持ち主であった。しかし、その市来ですら、イギリスが砲撃したとしても市街地にまで被害が及ぶとは想定していなかったようで、開戦の前々夜、母…

  • 薩英戦争前の薩摩側の奇襲作戦

    文久2年8月21日、生麦事件が起きた。これは大名行列の前を騎乗したまま横切ろうとしたイギリス人数名を衛士が斬りつけ、そのイギリス人のうちの一人リチャードソンが奈良原清*1によって斬殺された事件である。 イギリス政府は、幕府に謝罪書と賠償金10万ポンド、薩摩藩に下手人の逮捕処分と慰謝料2万5000ポンドを要求した。幕府はその要求に応じたが、薩摩藩は拒絶。そのため生麦事件から10ヶ月経った文久3年6月27日、英艦七隻が鹿児島湾に侵入した。無論これは戦争を目的としたものではなく、交渉を有利にすすめるための威嚇にすぎなかったが、英艦の戦備は当時攘夷の熱狂にとりつかれていた薩摩藩士は大いに刺激した。 後…

  • 示現流について——東郷実政談(史談会速記録)

    今回は『史談会速記録 合本22』の第151輯「東郷実政君の示現流剣法の由来附十六話」から、示現流にかかわる逸話を紹介したい。 東郷実政君略履歴 東郷実政君は通称六郎兵衛鹿児島県出身にして祖先以来旧藩主島津侯に仕へ世々示現流の武術師範たり君少壮家流の技に達し長して藩内子弟を教導し藩職を歴事して勤労多し維新の戦役に当たっては一隊の監軍となり越後口に向かはれ戦後江戸に凱戦せられ朝兵の指揮を掌とられしか後帰国あり尋て朝に仕へ警察の職を歴任せらるゝこと十数年に垂んとす又鹿児島警察部長に進み幾もなく官を辞せられ今健在年六十七 島津家久と示現流 示現流は、古くは”自顕流”と書いていたが島津家久(初代藩主)に…

  • 西郷隆盛と折田要蔵の乱闘——渋谷直武談(史談会速記録)

    『近世日本国民史』のなかで徳富蘇峰は、西郷隆盛が高潔な人格とユーモラスな人柄を併せ持っていたこと述べ、くわえて「西郷はことさら恭謙、士に下って、もって人心を収攬せんことを力(つと)めた王莽一流の偽君子ではない。彼はその人の悪事に対しては、もしくはその人の過失に対しては、これを詰責するに決して憚らなかったが、自ら大人として他に誇るがごとき態度は、いかなる場合でもなかった」と記している。 その例証となるような逸話を渋谷直武*1が語っているので紹介したい。 流刑地へ西郷を迎えにいった渋谷直武 渋谷直武の語るところでは、「西郷が大島へ流されて居りました時、吉井幸助(友実)使として島へ迎えに往きました、…

  • 西郷入水に関する吉井友実の回想——西郷入水後の大久保利通について

    前回、前々回に引き続いて西郷入水騒動と大久保利通について。今回はまず、小河一敏が筆録した吉井友実の回想を紹介したい。 吉井友実が語る入水後の西郷 西郷は16日の午後四時頃、人々に介抱されながら家に帰った。ただ眠るが如き状態で無言だったが、夜の九時頃になり尿意をもよおすと訴え、吉井に扶けられて尿をし、ふたたび褥(しとね)に戻ると、「己の紙入れを見よ、月照の辞世あるべし」と言ったので、吉井が濡れた紙入れをひらくと、月照の辞世の歌があった。 以上は『明烏』にある吉井の回想を読みやすくするため現代語表記にし、また原文の意味を損なわない程度に簡略な表現に直したものである。吉井によれば人々に介抱されながら…

  • 西郷隆盛と大久保利通の友情——入水当時について横目役谷村の証言

    前回の記事で触れたように『大久保利通伝』や『甲東先生逸話』などでは、西郷の入水騒動を知った大久保利通が現場に急行したと叙述されている。 ところが 春山育次郎*1の記すところによれば、大久保あるいはその同志が現場に駆けつけた様子は書かれていない。当時、救命作業にあたったのは平野国臣と月照の下男重助、藩庁の命で同行していた阪口周右衛門、それと阪口により呼び集められた花倉の若者たちだったようで、同志はその場にはいない。 月照は「衣帯に勝(た)へぬやうな清僧」だったためそのまま息を引き取ってしまったが、強壮な西郷は意識こそ戻らないものの息を吹きかえした。そこで阪口は、月照の遺骸と西郷を船に乗せて鹿児島…

  • 西郷入水前後の大久保利通

    斉彬歿後の薩藩の形勢 安政5年7月16日、島津斉彬が没すると藩内の形勢は一変して、斉彬の事業に従事していたものたちは免職または転役となり、御小姓組はその大半が除かれる「俗論蜂起」の時代となった。いわゆる「順聖公崩れ」である。その影響で大久保利通も御徒目付の職を免ぜられ、閑散の身となっていた。 西郷の帰藩と有志の奔走 俗論党が権勢を振るっていた安政5年10月6日、それまで京都で活動していたが西郷隆盛が帰藩した。西郷は、禁闕を守護する義兵を挙げることと近衛家より依頼された月照の保護を藩庁に訴え、大久保もそのために「尽力奔走」していた*1。 佐々木克氏の『幕末政治と薩摩藩』によれば、この頃から大久保…

  • 大久保利通と西郷従道——西郷清子談

    『甲東逸話』に西郷従道の夫人・清子氏の談話がある。清子氏によれば大久保利通と西郷従道の関係は次のとおりだったという。 西郷従道は大久保サンには実に容易ならぬ引立てを受け、可愛がられていました。わたくしが嫁入りしましたときなどでも、西郷の衣装万端をお世話になり、その後もほとんど毎日のようにお宅に参っておりました。わたくしなどまでも何くれと教えてくだされ、いつも御注意を受けて居りました。 親切な大久保公 従道侯は無頓着なために、ときおり大西郷の機嫌を損ねてしまうことがあった。あるとき従道侯が乗馬したまま、大久保公と大西郷の前を横切ったことがあり、大西郷は「生意気である」と立腹した。そこで大久保公は…

  • 大久保利通と天竜川の治水事業——金原明善の熱誠と甲東の果断

    古くから「暴れ天竜」と恐れられていた天竜川は、嘉永3年から明治元年までの19年の間に堤が切れたことが5度もあった。なかでも明治元(慶応4)年の洪水は最も惨害を極め、沿岸の村落や耕地をのみこみ、人家一万余戸に被害をおよぼした。 そこで安間村*1にいた金原明善(きんぱら めいぜん)は、沿岸住民とのあいだに協力会社を設立し、治水事業に尽力していた。ところが明治10年に県の治水の予算が4万円に縮小。静岡県には大川巨河が多いため、天竜川の治水事業には1万円しか割り当てられなくなった。 これまで年間2万6千円の費用がかかっていた事業である。このままでは工事を中止しなければいけない。明善翁は「斃れて止む」と…

  • 篠原隊の不敬事件——文武硬軟二派の暗流

    明治2年の10月24日、昭憲皇太后が御着京。翌日、弾正台から薩摩藩邸へ、「御用これ有りにつき、即時出頭せよ」と命令が下った。 薩摩藩邸御留守居副役の有馬藤太が出頭すると、大巡察佐久間秀脩(ひでなが)より、「この度、皇后陛下が鹿児島の旧装飾屋敷前をお通りの際、窓から覗いた者が有る。それを取り調べねばならぬ故、大隊長篠原を同行して来るよう」 と通告された。 これに対して有馬は、「なるほど、私は薩摩の公用人であるが篠原隊は既に軍務官附属になっているから、私の方で関係することは出来ない。これは当然軍務官にお掛け合いあるべき筋と存ぜられる」と反論して退出。 その後、兵営に行って篠原に一部始終を話すと、「…

  • 村田新八と仏罰——滴水和尚の予言

    明治10年、山岡鉄舟は天龍寺に参詣し、禅の師匠でもあった滴水和尚と語り合った。話題は鹿児島のことに及び、「薩摩の陣中には村田新八殿が居るそうじゃな」と和尚が言った。 鉄舟は感慨深げに「左様、桐野、篠原等と一緒に西郷先生の片腕でございましょう」と答えた。 戊辰戦争のとき鉄舟が駿府の大総督府へ向かって官軍の陣営を駈け抜けたとき、桐野利秋とともに追いかけて鉄舟を斬殺しようとした一人が村田新八であった。後日、村田は「あなた(鉄舟)がとっとと西郷のところへ行って面会してしまったので斬り損じてしまった」と打ち明けている。(「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」の現代語訳——『最後のサムライ…

  • 山岡鉄舟の情欲修行

    いかにして情欲を断てばよいかと問うものがあった。それに対して鉄舟は、「真個(ほんとう)に情欲を断ちたいと思うならば、今よりも更に進んで情欲の激浪のなかに飛び込み、鋭意努力してその正体がいかなるものかを見極めるがよい」と語ったたことがある。 さらに、「自分は21歳の時から色情というものは妙なものだと疑問に思って、それから30年間、数知れぬほど女性に接したのであるが、その間実に言うに謂われぬ辛苦を嘗めた。そうして49歳の春、ある日庭の草花を見て、たちまち機を忘れること若干時、ここにおいて初めて生死の根本を裁断することができた」と述べている。 後年、鉄舟の実弟小野飛馬吉が語ったところでは、鉄舟がある…

  • 西郷隆盛伝を編成しようとした大久保利通とそれを継紹した勝田孫弥『西郷隆盛伝』

    大西郷挙兵の確報に接した大久保公は、「ああ、西郷は遂に壮士の為に過まられた」と深く歎息した。西南戦争後には「われと南洲との交情は、一朝一夕のことではない。然るに彼は賊名を負って空しく逝き、今や世人は、その精神のあったところを誤解しようとしている。これほど遺憾なことはない」と、大西郷の悲惨な最期に万斛の同情を禁じえなかった。 そこで大久保公は「その精神と勲業を天下に表白し、その遺徳を後世に伝えられる者は予をおいて他にその人はない」として、重野安繹を自邸に招いて、その編輯を依頼した。重野安繹は次のように語っている。 「十年の戦争で西郷が城山で死んだとき、故大久保内務卿はわざわざ拙者を自宅に招いて、…

  • 自由民権派に対する山岡鉄舟の態度——人の追従すること能わざる卓見と遠識

    山岡鉄舟の門下であった佐倉達山氏は『徳川の三舟』という私刊本を出版している。同書で氏は、鉄舟の豪傑振り、剣、禅、書に精通していたことを述べたあと、「斯く叙来ると、彼は単に精力絶倫の一鐵漢にして、政治の得失などには無関心かの如く思わはるるが、決して左にあらず。人の追従すること能はざる一種の卓見と遠識とを持って居る」として、板垣退助が来訪したときのことを紹介している。本文を要約すれば次のようになる。 板垣との問答 理論家の板垣は、舌を振るって立憲制度の美点を説き、「英国には二つの政党が対峙して、互いに真理を見出し、善くその正鵠を失わない。我邦もこれに倣わなければならぬ」と述べた。 鉄舟は耳を傾けて…

  • 山岡鉄舟と清河八郎の首級

    文久3年4月13日、清河八郎が赤羽根橋で暗殺された。*1 清河暗殺の急報を受けた鉄舟は、即座に義弟石坂周造を呼びよせ、清河が所持している同志の連判状と清河の首級を奪ってくるように命じている。 周造が現場に着いた頃には、すでに町役人が警固し、検視の役人を到着を待っている状況であり、清河の死体には近づくことは容易ではない。 そこで石坂はひとつ芝居を打つ。「これは何人であるか」と訊ね、町役人が「清河八郎なり」と答えると、周造は突如抜刀し、「年来探し求めた不倶戴天の敵清河八郎め」と怒声をあげ、瞬く間に清河の首を斬り落とした。 それを見た町役人が慌てて駆けよると、周造は紅く染まった刀を振りかざして睨みつ…

  • 渡辺国武の大久保利通観

    無辺侠禅として知られる渡辺国武は、大久保公を追懐して次のように語っている。 大久保さんの公生涯は、二段落にわかれて居ると私は考える。幕府の末葉から全権副使として岩倉公と一緒に欧米巡回旅行をさるるまでが、第一段落で、この間の大久保さんの理想は、全国の政権、兵権、利権を統一して、純然たる一君政治の古に復するのがその重要目的であったと考えられる。 欧米各国を巡回されて、その富強の由って基づくところを観察して帰朝されてから以後は、第二段落である。この世界上に独立して国を建てるには、富国強兵の必要は申すまでもないが、この富国強兵の策を実行するには、是非とも殖産興業上から手を下して、着実に、その進歩発展を…

  • 筆を執ることを嫌った大隈重信

    大隈重信が筆を執らなかった理由は諸説ある——字が下手であるためだったとか、それほど下手ではなかったが席次の低いものに能書きがいたためだったとか——が、とにかく、5年や10年その邸宅に出入りした者ですら、大隈が筆を執るところは見れなかったといわれる。それほど筆を執ること、字を書くことを避けていたようだ。 筆を執らなくなったのは少年の頃からだったという。あるとき母が、先代の法要をするから親戚に手紙を書くようにと言いつけた。それで手紙を書く事は承知したけれど、どうしても筆をとる気になれず、口頭で告げたほうが早い、と家を飛び出し、二里*1も三里もある親戚のところまで歩いていったとのことである。 尾崎行…

  • 山岡鉄舟と清河八郎の問答——『某人傑と問答始末』

    山岡鉄舟居士は『某人傑と問答始末』と題する自記を残している。この「某人傑」について『幕末の三舟―海舟・鉄舟・泥舟の生きかた 』では佐久間象山だと書かれていて、それにならって私も過去に記事を書いたのであるが、『高士山岡鉄舟居士』によれば「某人傑」とは清河八郎のことであるという。誤情報を訂正する意味も含めて、『高士山岡鉄舟居士』に書かれている流れを紹介したい。 清河八郎は鉄舟よりも六歳年上であり、武道だけではなく、和漢洋の学にも通じ、武道も心得ていた当時の一人物であった。千葉周作の道場にかよっているとき鉄舟を知ったのである。 それであるとき清河は、鉄舟の心事を試すために問いかけた。「貴殿は元来潔白…

  • 26杯のお汁粉を平らげた桐野利秋

    幕末の頃、つまり桐野利秋がまだ中村半次郎と名乗っていたころの話。 photo credit: 花見こもち, ぎおん特屋, 原宿 via photopin (license) 京都四條畷の曙で、お汁粉26杯を平らげたことがあった。それに感心した店主は、 「手前ども開店以来いく年月のあいだ、百千のお客様の御入来を頂きまして、随分沢山にお上がりの方もありましたが、26杯というそんな大した方は全くはじめてで御座います。どうかお名前を店に張り出して、店の名誉と致しとう御座いますから……いーえどう致しましてお勘定など頂くわけには参りません、どうぞお名前を」と讃える。 「けしからぬことを言うな、26杯食った…

  • 有馬藤太と桐野利秋の関係

    近藤勇を降参させ、助命を訴えたことで知られる有馬藤太。彼は、桐野利秋と大の親友であり、その関係を次のように語っている。 桐野と私は最も親しかった。そして西郷先生は桐野と私を最も可愛がられた。いかなる秘密な事件でも大抵は私共二人だけには御知らせになった。そして私の秘密主義を非常に喜んでおられた。剣術は桐野の方が多少上であったが、文書は私が少し上であった。 今回は有馬藤太の『維新史の片鱗』から、有馬が語る桐野利秋との関係を紹介したい。 初対面で意気投合 二人が初めて会ったのは、鹿児島にいた頃のことで、桐野(当時は中村半次郎)が有馬の家を訪ねて来たのだという。二人はすぐに意気投合した。しかも桐野は、…

  • 伊藤博文の私人としての一面——西園寺公望談

    前回に引き続いて『園公秘話』から。今回は西園寺公望が見た、伊藤のプライベートの一面や逸話などを紹介したい。 奮発 西園寺は、伊藤は必要なときには勉強もしたが「普段は決してしないマア偉い勉強家とは思いません」と述べ、「個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あった」”明暗双双”と評している。 その伊藤が奮発した出来事を二つ紹介している。 一つは、伊藤が20か21歳の頃。井伊の子息が将軍のお使いとして京都に上ったとき、伊藤はそれを見物していた。見物を終えて帰ると、「井伊について居った供の侍の中に何人ばかり強そうなのが居ったか」と仲間に訊かれた。伊藤は「そんな事に気がつかなかった」と言…

  • 伊藤博文の政治家としての一面——西園寺公望談

    『園公秘話』の付録として掲載されている「西園寺公の伊藤公観」から。これは大正3年に西園寺公望が、高橋義雄(茶人・高橋箒庵)に語ったことを速記したもので、それから20年以上秘蔵されていたが、遺言により西園寺を研究していた安藤徳器に托されたものだという。安藤曰く、「一代の元老、明治の元勲を語る貴重なる資料であり、天下第一等の文献であろう」とのことである。 伊藤の印象 西園寺が伊藤の名を初めて耳にしたのは、戊辰戦争のときだったという。鎮撫総督として山陰道に出征した帰路、「伊藤という人が神戸か何処かへ居ったという事を聞いたくらい」のことで、 私は大久保と非常に懇意であったが大久保が伊藤を大変引き立てて…

  • 大山巌元帥の逸話——西村文則著『大山元帥』

    西村文則氏の『大山元帥』に載せられている逸話から、現代表記に書き換え、一部要約しながら紹介したい。 元帥の散歩振り 元帥は非常に散歩が好きであった。まず午前中は、自邸の木立深き間を約一時(いっとき)もあるいて、午後は茶縞背広服を着て、裏門から千駄ヶ谷、原宿の貧民長屋の辺へ散歩する。それを警護の意味で、新宿署から特派の私服巡査がみえつかくれつ後をつけるのだが、元帥の足があまりに早いので、いつも元帥の姿を見失っては、大狼狽したそうである。 元帥麻酔中の熱弁 「喜怒哀楽を顔色に出さないといえば、まず故大山元帥位の人は珍しい」とは、生前元帥に親しんでいた周囲の人々が、誰しも口にした言葉であった。しかし…

  • 伊藤博文に子分が少なかった理由——金子堅太郎談

    伊藤博文に子分といえる存在が少なかったことは同時代の政治家が証言しているところである。 山縣有朋は、「伊藤は善い人だが自分の輔佐の人を得なかった」と評し、西園寺公望は「自分が聡明過ぎておったために人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分という者がなかったようです」と述べている(『園公秘話』)。 尾崎行雄『近代快傑録 』には次のように書かれている。 あるとき、身辺の者が伊藤公に向かって、『犬養でも、星でも、彼等には終身離れぬ乾分(子分)が大分ある』と話したところが、公は、『俺はその反対で、乾分を作らぬということが、俺の長所である』と言った。 「本当の伊藤の乾兒(子分)といえば井…

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