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2014/11/03

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  • 「東国」と「吉備」

  • 「天智」と国号変更について(改訂版)

    以下は以前に書いたものですが、その後の研究の進捗から多少内容が変更されるべき点があり、ここに改訂版を提示します。「国号変更」について朝鮮の史書である『三国史記』の『新羅本紀』には「六七〇年」という年に「倭国自ら国号を更えて日本と号す。日の出ずる所に近し。故に名と為すと」と書かれています。この「国号変更」については以下のように考えられます。この「国号変更」はこのとき変更したということではなく、それが「新羅」に正式に伝えられたのがこの時点であったと理解すべきこととなりました。なぜなら「国内」及び「唐」に向けては以前にすでに「国号」を「日本」とするという意思表示が成されていたものであり、それが「新羅」に対しては遅れたということではないでしょうか。そして既に指摘したように彼らは「筑紫日本国」とは別に「日本国」を名...「天智」と国号変更について(改訂版)

  • 『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

    以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」による派遣(外交権を取得したと自負したもの)と、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国として認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。「近畿王権」の当初の意図はあくまでも「倭国」の後継者というものであったものが、「唐」からも「さらには「筑紫」の勢力(これは旧倭国でありその後「筑紫日本国」として存在したと推定)からもそうとは見なされず、「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定し、また「筑...『古事記』編纂と「天智朝」の復活としての「新日本王権」

  • 郡制などの制度と近畿王権

    以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」派遣され、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国にとして認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。(「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定)その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令...郡制などの制度と近畿王権

  • 「評」と「郡」について

    「評木簡」つまり「評」が制度として行われた期間に「評」が記載された木簡の多くは「五十戸」という制度も併せて書かれています。(以下例を示す)①三形評三形五十戸生部乎知◇調田比煮一斗五升?031荷札集成-134(木研18-飛鳥京跡)②丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵032飛鳥藤原京1-721(荷札飛鳥池遺跡北地区)③丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利五十戸人物部古麻里?031飛鳥藤原京1-193(荷札飛鳥池遺跡北地区)④知夫利評由羅五十戸加毛部乎加伊加鮓斗031荷札集成-169(飛20-28藤原宮西方官衙南地区)⑤尾張海評堤田五十戸032飛鳥藤原京1-191(荷札飛鳥池遺跡北地区)この「評」という制度は『書紀』では決して記載されていません。明らかに隠蔽されて...「評」と「郡」について

  • 「大宝令」と「浄御原令」(再度)

    以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。「唐」の時代、初代皇帝「李淵」(高祖)のはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選んでいます。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔...「大宝令」と「浄御原令」(再度)

  • 近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

    以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向...近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

  • 「諱字」と『書紀』編纂(改)

    以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍...「諱字」と『書紀』編纂(改)

  • 「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)

    以下は以前投稿した記事を微修正したものです。趣旨は変わりありません。『旧唐書』等中国側史料によれば「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされます。(これは私見では実際には「六四一年」ではなかったかと考えていますが)この時「倭国王」あるいは同席した「王子」と「高表仁」が「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。この「高表仁」という人物は『旧唐書』という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十...「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)

  • 「軍制」と「百済を救う役」

    「冠位制」が「冠位令」のもとのものである可能性があることを踏まえると、軍隊組織においても同様のことが考えられます。つまり「軍防令」的なものが存在していた可能性です。既に指摘していますが「百済を救う役」における軍隊構成において「軍防令」的なものの存在が推定されます。そもそも軍隊への兵を徴発しようとした場合、最も合理的で確実な方法は一つの集落や一つの地域から必要な人員を徴発することです。それは一定の人数が確保できるという点で優れています。任意にあちこち徴発して回るより下部組織に向けて徴発指示を出し、その指令により各地域で必要な人員を選出し供出するのが最も確実と言えるでしょう。これら一つの地域から選抜した人員により一つの部隊を構成すると各人共通の意識形成が容易であり、また言葉の問題も解決しやすいと思われます。つ...「軍制」と「百済を救う役」

  • 「鎮将」と「都督」(改)

    以下はかなり前に書いたものですが、現時点での理解している内容にバージョンアップした内容として書き換えを行いましたので投稿します。改めて列島支配の権力の推移を概観すると、「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「東方直接統治」の失敗により「日本国」が「「難波日本国」と「筑紫日本国」に分かれる形となって、その後「百済」を巡る戦いで「筑紫日本国」が一度滅びる形となって以降、「難波日本国」による列島支配があり、その後帰国した「薩夜麻」を中心とした旧「筑紫日本国」勢力によりいったん「倭王権」に戻り、その後それも「大地震」と「大津波」の影響などにより崩壊することとなった結果再度「難波日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定ています。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった...「鎮将」と「都督」(改)

  • 朔旦冬至と伊勢神宮

    伊勢神宮の「式年遷宮」は二〇一三年に行われており、それまで二十年に一度遷宮が行われ続けてきたと理解されています。確かに『皇太神宮雑記帳』などを見ると「二十年に一度」という文言が確認できますが、実体は少々異なります。記録(『太神宮諸雑事記』)を見ると鎌倉時代までは実は「十九年に一度」の遷宮であったのです。この「十九年」という年数は明らかに「太陰暦」における「朔旦冬至」から次の「朔旦冬至」までの期間(これは「章」と称されていたもの)を示すものです。「朔旦冬至」という現象は旧暦十一月一日の日の出の時刻に冬至となるというものであり、このような「天体の運動」に関する事も「皇帝」の支配下にあるという中国の伝統的考え方によって「皇帝」の権威を示すものとされていました。加えて、その「章」の期間である「十九年」(太陽暦と太...朔旦冬至と伊勢神宮

  • 倭国王権の東方進出と「改新の詔」

    私見では「改新の詔」とそれと一体となって出された各種の「詔」について、いずれも「倭国」と「倭国王」がこの地域と人々に対して「直接統治」を行う宣言としてのものと理解しています。たとえば「東国国司詔」があります。「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「直接統治」の宣言の意義として行われたものです。それがさらに顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降...倭国王権の東方進出と「改新の詔」

  • 「倭京」とは「難波京」か

    『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか、という文を先日書きました。そこでは八世紀に入ってから新日本王権が「日本」について「やまと」と読むという、これはいわば宣言とも言えるものですが、逆に言うとそれ以前は「日本」は「やまと」ではなかったこととなると指摘しました。そしてそれと同様の理由で「倭」には「やまと」という読みの指定がないのだと書きました。つまり「倭」や「やまと」ではないというわけですが、そうなれば「倭京」は「やまとの京」ではなくなるわけであり、「倭姫」は「やまと姫」ではないこととなります。それらはいずれも歴代中国から見て「倭」と認定されていた国に冠せられる語であり、国内的には「筑紫」を中心とした領域であることもまた既に指摘しています。これらから「倭京」が本来「筑紫の京」であること...「倭京」とは「難波京」か

  • 2024年度年末総括と古代史セミナー

    いつもこのブログを見てくださっている方(どれほどいらっしゃるかよくわかりませんが)には厚くお礼申し上げます。今年も押し詰まってきていますが、今年のもっともエポックメーキングなことは11月に行われた古田史学の古代史セミナーです。この古代史セミナーについては、その趣旨が「七世紀倭国の外交について」と言うもので、講演の依頼があった時点ではそれに関する研究の蓄積があまりなく、講演が可能なのか我ながら疑問であったものですが、せっかくお声をかけていただいたのですから、挑戦してみようと思った次第でした。ただし研究の蓄積が少ないので満足な内容にはならないと思い、そこからいろいろ資料を調べたり、思索を巡らせたりする作業を始めたのですが、なかなか思うように進まず、9月段階で一旦そこそこまとまったのでこれをベースにお話しさせて...2024年度年末総括と古代史セミナー

  • 「隋」皇帝からの「訓令」について(二)

    「隋」の「高祖」「楊堅」は(諡「文帝」)は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。それまでの「周朝」(北周)が「儒教的雰囲気」の中にあり、学校教育の中身も「儒教」が中心であったわけですが、「高祖」はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」から...「隋」皇帝からの「訓令」について(二)

  • 「隋」皇帝からの「訓令」について(一)

    以下も以前投稿したものですがあちらこちら見てもほぼ触れられることのないポイントのようですから、改めて問題として提起することします。従来あまり重要視されていないと思われることに、派遣された倭国からの使者が国内における政治体制を紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。「…使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾...「隋」皇帝からの「訓令」について(一)

  • 「大興王」と「隋」の高祖

    ここに出てくる「大興」という用語については、この時代「隋」に関してのみ使用されているものです。「大隋?者。我皇帝受命四天護持三寶。承符五運宅此九州。故誕育之初神光耀室。君臨已後靈應競臻。所以天兆龜文水浮五色。地開泉醴山響萬年。…謀新去故如農望秋。龍首之山川原秀麗。卉物滋阜宜建都邑。定鼎之基永固。無窮之業在茲。因即城曰『大興城』。殿曰『大興殿』。門曰『大興門』。縣曰『大興縣』。園曰『大興園』。寺曰『大興善寺』。三寶慈化自是『大興』。萬國仁風?斯重闡。伽藍欝?兼綺錯於城隍。幡蓋騰飛更莊嚴於國界。法堂佛殿既等天宮。震旦神州還同淨土。…」(『大正新脩大藏經/第四十九卷史傳部一/二○三四歴代三寶紀十五卷/卷十二』)ここで見るように「城」「殿」「門」「県」「園」「寺院」などあらゆるものに「大興」という名がつけられたと...「大興王」と「隋」の高祖

  • 「高麗國大興王」とは誰か

    これは以前投稿したものですが、改めてここに再度投稿し、問題を提起したいと思います。『推古紀』と「元興寺縁起」の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼はこの「仏像」の「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。(再掲)「(推古)十三年(六〇五年)夏四月辛酉朔。天皇詔皇太子。大臣及諸王。諸臣。共同發誓願。以始造銅繍丈六佛像各一躯。乃命鞍作鳥爲造佛之工。是時。『高麗國大興王』聞日本國天皇造佛像。貢上黄金三百兩。」「…十三年歳次乙丑四月八日戊辰以銅二萬三千斤金七百五十九兩敬造尺迦丈六像銅繍二?并挾侍『高麗大興王』方睦大倭尊重三寳遙以隨喜黄金三百廿兩助成大福同心結縁願以茲福力登遐諸皇遍及含識有信心不絶面奉諸佛共登菩提之岸速成正覺歳次戊辰大隨國使主鴻艫寺掌客裴世清使副尚書...「高麗國大興王」とは誰か

  • 「倭国」の「軍楽隊」と「裴世清」

    「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢。額田部連比羅夫以告禮辭焉。...「倭国」の「軍楽隊」と「裴世清」

  • 「遣隋使」と「法華義疏」との関連

    これは以前投稿したものの祖型となった文ですが、端的に真意を説明しているのでここに投稿します。「法華義疏」については従来「聖徳太子」と関連づけて語られていますが、「古田氏」も言われるように(『古代は沈黙せず』駸々堂、ミネルヴァ書房刊)その「法華義疏」の分析からは「天台大師」も「嘉祥大師」もその存在がほぼ確認できないとされます。確認できるのは「南朝」(「梁」)の「法雲法師」です。というより「古田氏」がいみじくも指摘したように「人名(注釈学僧)はすべて、法雲の「法華義記」中に現われるものに限られる」のです。すなわち「梁」の時代以降の人名を見出すことができないように見えます。この事はこの「法華義疏」の著者が「南朝」に深く関係した人物であることを推定させるものですが、それはやはり「古田氏」が言うように、この「法華義...「遣隋使」と「法華義疏」との関連

  • 「天子在東京」について

    以下はかなり以前投稿したものですが、最近新たな視点から別の見解に至ったことから再度投稿します。新たな視点とは七世紀半ば以降「難波日本国」と「筑紫日本国」の二つの「日本国」が存在していたという最近の見解です。この視点を導入し再度考察してみます。『書紀』の「斉明紀」に「伊吉博徳」という人物の「遣唐使」として派遣された際の「日記風」の記録が引用されています。そこに「東京」という表現が出てきます。「(斉明)五年(六五九年)…秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以...「天子在東京」について

  • 「伊吉博徳」の官位について(改訂版)

    以前「伊吉博徳」の冠位の停滞について書きました。その記事を訂正して改めて提示します。訂正の主な点は「伊吉博徳」の政治的立場についての見解の変更です。以前は彼を旧倭国の関係者と看做していましたが、今回改めて検討した結果「難波日本国」の関係者であったが故に「天武(つまり薩夜麻王権)の元では冷遇されていたことが理由で昇進がなかったと見解を変更することとします。それは「難波日本国」(これは「唐」から見て「日本国」とされていた)と「筑紫日本国」(これが「唐」から見て「倭国」とされていたもの)という二つの「日本国」が存在していたという最近の研究成果を反映したものです。以前「貧窮問答歌」について考察しました。そこで「山上憶良」が「遣唐使」段階で「无位」であったのは「旧王権」に忠誠を示した結果であるとしました。その際「比...「伊吉博徳」の官位について(改訂版)

  • いわゆる「唐」による「驥尾政策」の有無について

    今回の講演でもいくつかの論者は「唐」による「驥尾政策」つまり「筑紫」他に「都督府」が置かれ、「唐」による政治が行われたと考えていることを表明していました。特に「中村修也」先生は「近畿にも都督府が置かれた」ということを表明されていました。講演の際には当方はこの件について深く考えたことがなく、意見表明しませんでしたが、おぼろげに「驥尾政策」はなかったと考えていたものです。今回もう少し検討を加えた結果、その感覚は強化され、明確に「驥尾政策」はなかったと考えるようになっています。彼らは「筑紫都督府」という『書紀』に書かれた存在がそれを表すものだと考えているようですが、私はそうは思いません。確かに「都督府」や「都護府」が置かれるのは「戦争当事国」の首都である例がほとんどです。その意味で「筑紫」が「倭国」の首都である...いわゆる「唐」による「驥尾政策」の有無について

  • 「倭国」の中心が「筑紫」であることについて(補論)

    すでに「倭国」の領域について『隋書』の記述や『和名抄』の記事、あるいは「高麗」への援軍として参戦し捕虜となった人たちの出身地などの情報から「倭国」との範囲として「筑紫」を中心として「北部九州」と「四国」「中国地方」の半分程度がそうであったと考えたわけですが、そもそも「倭国」というのがどの領域を示すのか、その統治領域の範囲はどれほどかについてはそれを論証したものが見当たらないように思います。これについては先の「講演」において「中村修也先生」から「九州王朝」があると先に決めた論は納得できない旨の発言がありました。当方は「倭国」とは「筑紫」を中心とした領域であり、だからこそ「倭国」とは「九州王朝」に他ならないと考えているわけですが、それを積極的に論証することはなかなか面倒です。ただしいくつかの状況証拠的なものを...「倭国」の中心が「筑紫」であることについて(補論)

  • 「薩夜麻」と「天智」

    『天智紀』の「天智三年」(六六四年)には「熊津都督府」から「使者」として「郭務悰」等が来倭したことが記されています。「「天智三年」(六六四年)夏五月戊申朔甲子百濟鎮將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物冬十月乙亥朔宣發遣郭務悰等敕是日中臣内臣遣沙門智祥賜物於郭務悰。戊寅饗賜郭務悰等」この時の来倭記事とおぼしきものが『善隣国宝記』に引用する『海外国記』に出ています。『善隣国宝記』は京都相国寺の僧侶「瑞渓周鳳」によって室町時代(15世紀の終わりごろ)書かれたもので、歴代の王権の外交に関する史料を時系列で並べたものです。「海外国記曰、天智三年四月、大唐客来朝。大使朝散大夫上柱国郭務悰等三十人・百済佐平禰軍等百余人、到対馬島。遣大山中采女通信侶・僧智弁等来。喚客於別館。於是智弁問曰、有表書并献物以不。使人答曰、有...「薩夜麻」と「天智」

  • 薩夜麻と大海人

    「薩夜麻」と「大海人」の関係について考察しています。「壬申の乱」についても、その分析により主要勢力は「西海道」にあったと考えられ、たとえば『書紀』によれば「高市皇子」が参戦していますが、彼は「宗像の君」の孫であり、「宗像氏」の全面的バックアップがあったと考えられるものです。他にも「大分の君」などの西海道勢力が中心であったと考えられますから、「筑紫の君」である「薩夜麻」がこれに参加していないはずがないと思われます。(当然「阿曇」勢力も加わったとみるべきでしょう)彼らの一族は「百済を救う役」でも軍に編成されており、その意味でそもそも「薩夜麻」の軍であったという可能性があります。また「壬申の乱」の際には「唐」関係者、と言うより「唐軍」が関与しているとする考えもありますが、そうであれば「郭務悰」達と共に帰国したと...薩夜麻と大海人

  • 『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか

    『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。『書紀』では以下のように「日本」は「やまと」と読むようにという指定がありますが(神武紀)、(これは「新日本王権」のイデオロギーによるものと思われるわけですが)、「倭」についてはそのような指示が文中にありません。「…於是陰陽始遘合爲夫婦。...『書紀』で「倭」について「読み」が指定されていないのはなぜか

  • 「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

    『書紀』によれば「六七一年」になって「捕囚」の身となっていた「薩夜麻」が帰国します。すでに述べたように「薩夜麻」は「筑紫日本国王朝」の「王」であり、「筑紫君」である彼の直接統治領域に軍を徴発して「高麗」に救援軍を率いて遠征していたものであり、その戦いの中で捕われていたものです。彼がそのような「権威」と「力」を身に着けていたとすると、彼の帰国は政治的、軍事的変動を列島内にもたらしたことは疑えません。特に「天智」率いる「難波日本国朝廷」にとって「激震」をもたらしたのは間違いないと思われます。『書紀』では「天智十年十一月」に「薩夜麻帰国」の記事があります。天智十年(六七〇年)十一月甲午朔癸卯。對馬國司遣使於筑紫太宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩夜麻。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人...「薩夜麻」の帰国と「大海人」の動向(一)

  • 「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

    『日本書紀』(あるいは『日本紀』)はその史書名に「日本」という名称(国号)がついているのが注目されます。これら『日本書紀』『日本紀』とも「歴代」の「中国」の史書の例に漏れず「前史」として書かれたものと思料されます。「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志(魏志)』は「晋(西晋)」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本紀』が書かれるに至った理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。その場合「前王朝」であるところの「日本国」と、新王朝であるところ「日本国」が存在していたこととなり、共に「日本...「日本」は「やまと」になったが、その前の「日本」は「ひのもと」である。

  • 高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

    確かに「倭国」が「高麗」に援軍を送っていたことは『書紀』からも明らかです。(六六一年)七年七月丁巳崩。皇太子素服稱制。是月。蘇將軍與突厥王子契■加力等。水陸二路至于高麗城下。皇太子遷居于長津宮。稍聽水表之軍政。八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖五穀。…是歳。播磨國司岸田臣麿等獻寶劔言。於狹夜郡人禾田穴内獲焉。又『日本救高麗軍將等』。泊于百濟加巴利濱而燃火焉。灰變爲孔有細響。如鳴鏑。或曰。高麗。百濟終亡之徴乎。ここには「日本救高麗軍將」と書かれており、「高麗」に援軍を派遣していることは明らかです。「大系」の注でも「日本が高句麗にも救援軍を分遣しようとしたことは、海外資料には見えないが、下文元年・二年の関係記...高麗への援軍と「薩夜麻」の捕囚

  • 「百済を救う役」と筑紫王権(一)

    「唐」は「麗済同盟」に対抗するため「新羅」との間に「唐羅同盟」を結び、「百済」や「高句麗」の動きに神経をとがらせていました。そして「六五九年正月」になると新羅王「金春秋」から「麗済同盟」による攻撃を受けた連絡があり、唐は「程名振」「蘇定方」らを遣わして「高句麗」を攻撃させたものです。この時点で「倭国」が「高句麗」や「百済」と結託しているという疑いが「唐」側にあり、「倭国」からの使者が「質」にとられる事態となったものと思われるわけです。つまり唐は高句麗を攻める前提で百済をまず攻めたものであり、主たる目的は高句麗であったものです。このように朝鮮半島では「唐」と連係した「新羅」の勢力が非常に強くなり、「六六〇年」には「唐」「新羅」連合軍により実質的に「百済」という国は滅んでしまいます。「百済」の遺臣から救援要請...「百済を救う役」と筑紫王権(一)

  • 「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

    『斉明紀』に見られる「伊吉博徳」が参加した遣唐使は「六五九年の七月」に「難波」を出発し「九月」の終わりには「餘姚縣(会稽郡)」に到着しています。そこから首都「長安」に向かったものの、「皇帝」(高宗)が「洛陽」に行幸していたため、その後を追い彼等も「洛陽」に向かい「十月二十九日」に到着し、「翌三十日」に皇帝に謁見しています。(これらの日付は既に指摘したように一日の錯誤があります)(以下関係部分の『伊吉博徳書』の抜粋)「秋七月丙子朔戊寅。遣小錦下坂合部連石布。大仙下津守連吉祥。使於唐國。仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子。伊吉連博徳書曰。同天皇之世。小錦下坂合部石布連。大山下津守吉祥連等二船。奉使呉唐之路。以己未年七月三日發自難波三津之浦。八月十一日。發自筑紫六津之浦。九月十三日。行到百濟南畔之嶋。々名毋分明。以...「伊吉博徳」の遣唐使と日本国の関係

  • 「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

    『新唐書』によれば「唐」の三代皇帝「高宗」は倭国からの遣唐使(六五三年)に対して「璽書」(璽を捺印した書状)を下して、「新羅」を救援するようにと指示しています。「永徽初其王孝德即位改元曰白雉獻虎魄大如斗碼碯若五升器時新羅爲高麗百濟所暴高宗賜璽書令出兵援新羅未幾孝德死…」倭国年号「白雉」の改元は六五二年とされていますから、その翌年の遣使が改元を伝えるものであったとして不自然ではありません。ただし『唐会要』では「六五五年」のことととされており食い違いがありますが、より原初的なものは『新唐書』の方の記述と思われます。(『倭国王』としての「孝徳」が即位してすぐと考えると『書紀』と整合するのは「六五三年」の方でもあるため)この時代柵封された諸国にとり「唐」の皇帝という存在は「絶対」であり、その「唐」皇帝からの「璽書...「伊吉博徳」達の遣唐使と日本国

  • 「日本」という国号の変更時期の推定

    「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。さらに、現地での裁...「日本」という国号の変更時期の推定

  • 「日本」という国号の変更時期の推定

    「倭国」はそれまでの「宗主国」と「附庸国」という一種封建体制的なものから「倭国王」による「直接統治」体制を築こうとしたように思えます。それを「難波朝廷」という副都から「東方諸国」をその直接統治体制に組み込もうという政治的手法を実行しようとしたものと考えられます。それを示すように「改新の詔」と前後して「東国国司詔」が出されますが、その中では「今始めて萬國を治める(修める)」という表現がされています。これはそれ以前には「萬国」を「統治範囲には入れていなかった」ということを意味視しているように見える文言です。「…隨天神之所奉寄方今始將修萬國…」つまり、これはそれまでなかった「中央集権国家」というものを樹立したという宣言と考えるべきでしょう。このときに「日本」という国号へ変更したものと考えます。さらに、現地での裁...「日本」という国号の変更時期の推定

  • 「倭国」からの遣唐使と「日本国」からの遣唐使

    日本国からの使者の前年にも使者が送られたことが『書紀』にあります。「發遣大唐大使小山上吉士長丹・副使小乙上吉士駒〈駒更名絲〉・學問僧道嚴・道通・道光・惠施・覺勝・弁正・惠照・僧忍・知聡・道昭・定惠〈定惠内大臣之長子也〉・安達〈安達中臣渠毎連之子〉・道觀〈道觀春日粟田臣百濟之子〉・學生巨?臣藥〈藥豐足臣之子〉・氷連老人〈老人眞玉之子。或本以學問僧知辨・義德・學生坂合部連磐積而増焉〉并一百二十一人倶乘一舩。以室原首御田爲送使。又大使大山下高田首根麻呂〈更名八掬脛〉・副使小乙上掃守連小麻呂・學問僧道福・義向并一百二十人倶乘一舩。以土師連八手爲送使。」「白雉四年(六五三)五月壬戌条」「遣大唐押使大錦上高向史玄理〈或本云夏五月遣大唐押使大華下高向玄理〉・大使小錦下河邊臣麻呂・副使大山下藥師惠日・判官大乙上書直麻呂・...「倭国」からの遣唐使と「日本国」からの遣唐使

  • 『旧唐書』日本国伝に対する「白雉五年記事」

    先日八王子大学セミナーハウスで行われた古代史セミナーに行ってきました。私が行った講演は意を尽くさないうちに時間切れとなってしまい、ちょっと不本意なものではありましたが、重要だと思えるポイントは指摘しておきました。今回のテーマが「七世紀の倭国の外交」というものでしたが、私が選んだ講演テーマは「倭国から日本国への転換の詳細」というもので、七世紀の倭国の外交が日本国誕生と密接に関係していると考えたからです。特に今回強調したのは「日本国」と「倭国」の関係でした。それで『旧唐書』の「日本国」記事に注目したものです。『旧唐書』では「倭国」記事と連続して「日本国」記事が書かれています。「貞觀五年、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十二年...『旧唐書』日本国伝に対する「白雉五年記事」

  • 古代史セミナーのこと

    古代史セミナーが近づいてきました。11月9日、10日。私の担当は10日の午前のトップバッターのようです。当方はそのまとめでまだ悩んでいるところです。新たな発見があり、それをどう今まで考えたことと整合させていくのか、問題の焦点はそこです。講演で発表後このブログでも詳細を述べたいと思います。では。古代史セミナーのこと

  • 筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)

    以下は以前投稿した論とかなり重なっていますが、その後多少内容が深まったので再度投稿するものです。筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について「庚午年籍」については『続日本紀』に「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したという記事が出てきます。「(神龜)四年(七二七年)…秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」この段階でそのような記事が出てくるというのは、「大宰府」にその「写し」あるいは「原本」がなかったたため、広く捜索した結果発見(入手)されたものと思われます。しかし後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は「太政官」つまり朝廷に提出するとされています。(戸令造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里...筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)

  • 「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

    ②「改暦」の有無ところで、「天智紀」において、倭国と「唐」が直接戦った「白村江の戦い」の年次が『旧唐書』などと食い違っているのがわかります。『旧唐書』などの中国側史料ではこの年次が「六六二年」であるのに対し『書紀』では「六六三年」となっており、一年ずれているのです。西暦現暦干支異暦干支記事・出典六六二壬戌癸亥白村江の戦い『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』六六三癸亥甲子白村江の戦い『日本書紀』この東アジア全体の共通点とも言うべき事柄が一年「日中」の記録で食い違っているのは、不審ですが、それが「構造的」なものであると言うことも考えられ、その場合その他の記事にも食い違いがあるのではないか、と云う強い疑いを生じます。これに関してはすでに「正木氏」の論(「亡国の天子薩夜麻」)において「半島」への出兵が『書紀』の年次よ...「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

  • 「天智」と「受命改制」

    中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。一種の言い訳として使用されているわけですが、この際「前王朝」の各種制度は基本的に改変されます。「受命」があった場合「改制」されるものとしては以下のものがあります。①「国号変更」まず第一に「国号」(王朝名)が変更されます。「国号」はその天子の理想を反映したものであるべきであり、天命により天子が替わったのですから、国号も変更されて当然です。「王朝」交替で国号が変更されなかったことはありません。②「改暦」続いて「改暦」が行われます。天体の運行は「天帝」...「天智」と「受命改制」

  • 「壬申の乱」の際の「符」について

    「壬申の乱」の前に近江朝廷から各地に「興兵」つまり「軍事行動」を起こすようにという指示が出されています。「…夜則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國『授苻』之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王『承苻』對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還...「壬申の乱」の際の「符」について

  • 「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

    「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主云云。詔曰乞師請救聞之古昔。扶危繼絶著自恒典。百濟國窮來歸我以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」この斉明の詔からは「新羅」を攻めるという予定であったと思われることとなります。「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では...「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

  • 倭王権と「飛鳥」

    以前(2021年3月)投稿した論を再度提示します。現在考慮中の案件との関係でやや関係があると思われるものです。評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。「評」から始まるもので「五十戸」制三方評耳五十戸土師安倍→?031荷札集成-132(木研5-8藤原宮跡北辺地区湯評大井五十戸凡人部己夫011飛鳥藤原京1-109(荷札飛鳥池遺跡南地区「評」から始まるもので「里」制三方評竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗?031荷札集成-135(飛20-26藤原宮跡北面中門地区板野評津屋里猪脯032荷札集成-232(藤原宮1藤原宮跡北面中門地区二つ目は「国名」が「前置」されるものです...倭王権と「飛鳥」

  • 「都督歴」と「年代歴」

    ところで、「三善為康」は『二中歴』を書く際に当然かなり古い資料を参照したと思われますが、この「都督歴」について言うと、この「藤原元名」付近で一旦まとめられた資料があり、そこまでの分を「省略」し、その以降の未整理の分について自ら書き継いだと言う事ではないでしょうか。この『二中歴』は「百科事典」のようなものと言われ「有識故実」について書かれているとされますが、今で言う「現代用語事典」的あるいは「広辞苑」的なものではなかったかと考えられ、それらと同様にその時点における最新の知識が随時追加されていたのではないかと思われます。「故・中村氏」はまた『…二中歴は八十二の「歴」により構成され、各歴毎に原記(書き継ぎではない)と推定される記事に年代の異同があり、八十二歴全体が一挙に編集されたものではなく、各歴により成立年代...「都督歴」と「年代歴」

  • 「年代歴」の冒頭の「年始」について

    『二中歴』の「年代歴」の冒頭には「年始五百六十九年内、三十九年無号不記支干、其間結縄刻木、以成政」とあります。それに続いて「継体五年元丁酉」から始まり、「大化六年乙未」に終る年譜が記されています。ここで「無号」といっているのは「年号」のことと思われますが、「年始」の「年」は「年号」ではありません。つまり、「年始」を「年号が始まった年」と解釈するのは正しくないわけです。(論理上も成立しません)これは、ある時点から「年」を数え始めた、ということであり、その最初の三十九年間は「年号」はなく「干支」もなかった、ただ「結縄刻木」していただけだった、というわけです。(この事から「結縄」あるいは「刻木」のいずれかが「暦」の役割をしていたことが窺えます。)そして、その後に「継体元丁酉」から始まる「年代歴」が接続されるわけ...「年代歴」の冒頭の「年始」について

  • 「都督」「太宰」と「倭国」

    以下に「都督歴」に対応する「大宰府」に派遣されていた人物たちの記録を書出します。藤原元名大宰大弐天徳二年条参議従四位上藤元名七十四仁和元年生。/三木従三位清経三男。延木五二十七兵庫助。十四年正七従五下(陽成院御給)。十七年九月玄蕃頭。廿一年八十一能登守。延長五正十二備後守。三月廿六日従五上(治国)。承平二正廿七伊與守。同六八十五大和守。同七正七正五下。天慶四正九従四下。同五三廿九美乃権守。同十二一丹波守。天暦六正八従四上。同十一日民部大輔。同七正廿九山城守。同八三十四大宰大弐。天徳二閏七廿八三木(大弐如元)。天徳三年条参議従四位上藤元名七十五月日去大弐。藤國風記録なし小野好古大宰大弐天徳四年条参議正四位下野好古七十七左大弁。弾正大弼。正月廿四日兼備中守。四月廿三日任大宰大弐。止弁弼等藤佐忠記録なし橘好古大...「都督」「太宰」と「倭国」

  • 「舞遊始」とは

    引き続き『二中歴』の「年代歴」について年次移動を想定して考察します。「教倒」の項に書かれた「教倒五元辛亥舞遊始」という記事についても、これを通常「五三一年~五三五年」と理解するより六十年遡上した年次である「四七一年」と見る方が妥当ではないかと思われることを以下に示します。この「教倒」年間は年次移動を想定すると「四七一年~四七五年」のこととなり、この「年次」はすでに見たように「斉」と「興」が共に亡くなり「武」が跡を継いだとされる時期に相当します。「武」が「四七八年」に提出した上表文では「奄喪父兄」と書かれ、「父」(斉)と「兄」(興)の両者を「同時」に失ったように書かれていますが、実際には「四六二年」の「興」の遣使の時点では「斉」は死去しているとされ、また「興」自身も彼は「将軍号」を授号されていますから、当然...「舞遊始」とは

  • 『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について

    前稿までの推論は『二中歴』の記事について「干支一巡」の移動を考慮することが必要であることを示すものですが、さらに他の例で検討してみます。たとえば『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次についての混乱も『二中歴』と同様「六十年」ずれているという可能性を示唆します。『継体紀』には以下のように書かれています。「(継体)廿五年歳次辛亥(五三一年)崩者。取百濟本記爲文。其文云。大歳辛亥三月。師進至于安羅營乞。是月。高麗弑其王安。又聞。日本天皇及太子皇子倶崩薨。由此而。辛亥之歳當廿五年矣。後勘校者知之也。」つまり、『百濟本記』には「日本天皇及太子皇子倶崩薨」という記事があり、こちらのほうを信用して『書紀』もこれにならったというわけです。しかし、近畿王権の国内伝承にはこの時点でそのような「王の一家の主要な人物...『継体紀』に書かれている「継体天皇」の死去した年次について

  • 「万葉仮名」の成立

    「百済」から「五世紀初め」に仏法が入ってきて以来、倭国内ではその支持を徐々に広げていた(と思われる)仏教は、「武」の時代になり、「武」ないしはその後継者である「磐井」により積極的に受容されるようになった結果、その「教典」を自分たちだけではなく、一般民衆に理解させようとすることとなったものと推察されます。そこで「仏典」を「日本語」に「訳す」必要が出て来たものであり、「日本語」を表記するのに必要な「文字」を生み出すことになったものです。つまり、「普通の人」でも「日本語」を書いたり読んだりできるようにするために「文字」(「仮名」)が発明されたと考えられるのです。逆に言うと「王権」の上層部などでは「漢文」で事が足りていたという可能性が考えられるでしょう。必要な文章は「漢文」として書けばよいと言うわけです。(このこ...「万葉仮名」の成立

  • 「年代歴」の真の年次

    既に考察したように仏教の伝来が常識とは違って「五世紀の初め」である可能性が高いことが明らかとなったわけですが、そう考えると以下の『二中歴』の記事(年代歴)の内容に疑義が生じます。それは推定される仏教の伝来時期との「食い違い」です。『明要十一元辛酉「文書始出来結縄刻木止了」』この「明要」の元年干支である「辛酉」は通常は「五四一年」とされているわけですが、この記事を信憑すると仏教伝来から「結縄刻木」が止められ「文書始出来」まで「一二〇年」ほどかかったこととなります。これは時間がかかり過ぎではないでしょうか。『隋書俀国伝』を見ても「百済」からの「仏法伝来」と「文字習得」の間には深い関係があるかのように書かれており、(「…無文字、唯刻木結繩。敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。…」)この表記からは「仏教伝来」から「...「年代歴」の真の年次

  • 『百済』からの仏教伝来の真の年次

    前回までと同様再投稿となります。『書紀』による仏教伝来記事は以下の通りです。「欽明十三年(五三八年)冬十月。百濟聖明王更名聖王。遣西部姫氏達率怒■斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。是法於諸法中最爲殊勝。難解難入。周公。孔子尚不能知。此法能生無量無邊福徳果報。乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶。逐所須用。盡依情。此妙法寶亦復然。祈願依情無所乏。且夫遠自天竺。爰■三韓。依教奉持。無不尊敬。由是百濟王臣明謹遣陪臣怒■斯致契。奉傳帝國。流通畿内。果佛所記我法東流。是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。乃歴問群臣曰。西蕃獻佛相貌端嚴。全未曾看。可禮以不。蘇我大臣稻目宿禰奏曰。西蕃諸國一皆禮之。豐秋日本豈獨背也。物部大連尾輿。中臣連鎌子同奏曰...『百済』からの仏教伝来の真の年次

  • 『百済僧』『觀勤』の上表

    以下も前回までと同様以前の投稿の再提出です。以下は古賀達也氏の研究(※)に依拠します。仏教の伝来に関係したこととして、『書紀』の『推古紀』の中に興味深い記事があります。「(推古)卅二年(六二四年)夏四月丙午朔戊申。三有一僧。執斧毆祖父。時天皇聞之。召大臣詔之曰。夫出家者頓歸三寶具懐戒法。何無懺忌輙犯惡逆。今朕聞。有僧以毆祖父。故悉聚諸寺僧尼以推問之。若事實者重罪之。於是集諸僧尼而推之。則惡逆僧及諸尼並將罪。於是百濟觀勤僧表上以言。『夫佛法自西國至于漢經三百歳。乃傳之至於百濟國。而僅一百年矣。然我王聞日本天皇之賢哲。而貢上佛像及内典未滿百歳。』故當今時。以僧尼未習法律。輙犯惡逆。是以諸僧尼惶懼以不知所如。仰願其除悪逆者以外僧尼。悉赦而勿罪。是大功徳也。天皇乃聽之。」この記事の解釈の代表的なものは「大系」の注...『百済僧』『觀勤』の上表

  • 「結縄刻木」について

    前回と同様以前の投稿の再提出となります。『二中歴』の「年代歴」の冒頭部分に「結縄刻木」というものが出てきます。「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」これについては以前「縄の結び目のバリエーションで意志を伝え合い、年数は木に刻み目をつけて数を表す」というものと理解していましたが、その後検討した結果、これは「逆」であり、「縄の結び目で数を表し、木に文様を刻みつけて意志をを伝え合う」ものというように理解を変更します。「結縄」により「数字」を表すのは世界の各地で見られた習慣であり、ある意味普遍的なものでした。また「数字」を表すことができれば「日付」の表記には有効であるのは確かです。また「刻木」は「漢籍」を探ると以下のように中国の周辺の諸国(いわゆる夷蛮の国)において「メッセージ」(指示や伝達な...「結縄刻木」について

  • 「常識」としての「仏教伝来」

    以下は以前すでに投稿したものですが、改めて記して仏教の伝来についての常識を疑ってみます。仏教の伝来については「高句麗」は「前秦」から四世紀前半に伝わったとされ(『三国史記』による)、また「百済」には四世紀後半に「東晋」から伝わったとされます。『三国史紀』によればそれは「三八四年」の記事とされています。「沈流王元年」(三八四年)「九月胡僧摩羅難自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此。」(『三国史記』百済本紀)しかし、「倭国」(と「新羅」)には六世紀になってやっと伝わったものと従来考えられています。この時間差は何を意味するのでしょうか。「倭国」への仏教の伝来については従来二つの代表的な説があるようです。「五五二年」説と「五三八年」説です。「五五二年」説の根拠は『書紀』に「欽明天皇十三年」とあるところからです。「欽...「常識」としての「仏教伝来」

  • 「唐軍の捕虜」という意味

    前回から続きます。「斉明」の詔からは新羅を攻めるという予定であったと思われます。紓拯(六六〇年)六年「冬十月。…詔曰。乞師請救聞之古昔。扶危繼絶。著自恒典。百濟國窮來歸我。以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存拯救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動。倶集沙喙翦其鯨鯢。紓彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。」ここに出てくる「沙喙」という地名は新羅の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と考えられていることを踏まえると、この時の派遣される軍は新羅を直接叩くという予定であったと思われます。そのことはこの「詔」とは別の記事においても同様のことが書かれていることで裏付けられます。同年是歳条「是年。欲爲百濟將伐新羅。乃勅駿河國。造船。…」ここでもやはり百済を救うために新羅を「伐」とされ...「唐軍の捕虜」という意味

  • 「大伴部博麻」達の捕囚について

    以下は「大伴部博麻」の捕囚についての現時点での認識です。『書紀』には「持統四年(六九〇年)九月条として「三十年間」「唐」軍の捕虜になっていた「軍丁筑紫国上陽羊郡大伴部博麻」が「新羅」からの使節に随行して帰還した記事があります。咩「(持統)四年(六九〇)九月丁酉。大唐學問僧智宗。義徳。淨願。軍丁筑紫國上陽咩郡大伴部博麻。從新羅送使大奈末金高訓等。還至筑紫。」そしてその「直後」にその「大伴部博麻」を顕彰する記事があり、その内容は、彼が「百済を救う役」で捕虜になった際に、同じく捕虜になっていた「筑紫君薩夜麻等」を解放するために、自分の身を売って金に代え旅費とした、というものであり、「持統」の詔ではこの行為を「激賞」しています。「(持統)四年(六九〇)冬十月乙丑。詔軍丁筑紫國上陽郡人大伴部博麻曰。於天豐財重日足姫...「大伴部博麻」達の捕囚について

  • 【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件

    本年11月9―10日の日程で開催予定の標記【古田武彦記念古代史セミナー】で当方が講演をすることとなりました。現在そこでお話する内容を詰めていますが、正直ちっともまとまりません。5月17日までに講演タイトルと概要を提出することとなっているのですが、現時点ではいずれも悩んでいる最中です。与えられたテーマが七世紀の倭国の外交というものであり、日本国と倭国の存在状況について述べよというわけですが、当ブログをお読みの方はわかっていらっしゃると思いますが、そのあたりの論をあまり手掛けていないのが現状です。そのため急ごしらえで(!)論を練っているというわけですが、この時代の列島の状況はかなり混沌としており、そのせいか海外資料もそこそこ混乱しているなど信頼できる依拠資料にも事欠く有様です。そういうこともあってあまり深く考...【古田武彦記念古代史セミナー2024】での講演の件

  • 「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

    「改新の詔」に先立って「東国国司詔」が出されています。「大化元年(六四五年)八月丙申朔庚子条」「拜東國等國司。仍詔國司等曰。隨天神之所奉寄。方今始將修萬國。凡國家所有公民。大小所領人衆。汝等之任。皆作戸籍。及校田畝。其薗池水陸之利。」この「詔」では「万民」は全て公民(国家所有)という前提(大義名分)が謳われていると思われ、それは諸豪族に対する「牽制」の意義が強いと思われます。それが顕著に表れるのが「土地兼併禁止詔」と云われる「大化元年九月」の「詔」です。「大化元年(六四五年)九月丙寅朔甲申条」「遣使者於諸國。録民元數。仍詔曰。自古以降。毎天皇時。置標代民。垂名於後。其臣連等。伴造。國造各置己民。恣情駈使。又株國縣山海林野池田。以爲己財。爭戰不已。或者■并數萬頃田。或者全無容針少地。及進調賦時。其臣連。伴造...「改新の詔」と「部民」と「奴婢」

  • 標準語と札幌

    以前何かで見たんですけど(すでに古いことなのでソースがわからない)。全国都道府県で「あなたの県の県庁所在地の言葉と東京の言葉とどちらが標準語に近いですか」という設問に対して、ある1か所を除いて全て「東京の言葉の方が標準語に近い」と答えたとのことで、その例外の1か所というのが「北海道」だったそうです。つまり北海道の人は「東京の言葉よりも札幌の言葉の方が標準語に近い」と考えていることとなります。この結果を以前知ったときは「北海道の人にとって札幌の持つ意味が他の県の人がその県の県庁所在地に対する感情と全く違うんだな」と思っただけでしたが、その後考えてみるとそれだけではないことに気が付きました。それは「標準語」の必要性が高かったのは北海道で特別であったということに気が付いたからです。ご存じのように北海道は国策で開...標準語と札幌

  • 「薬獵(藥狩り)」について

    今日は「5月5日」「こどもの日」ですが、もともとは「端午の節句」であり、「薬獵(薬狩り)」の日でした。それにちなんで以前書いたものを再度投稿します。「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば『元亨釈書』によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの「垢こすり」をしたとされ、「全身」が「炎症」を起こし、あちこちが「膿んでいる」ような病気の方については、その傷口の「膿」を口で吸い取ったという逸話まであります。これほどの「献身」が、単に「光明皇后」という一人の女性の「思いつき」でできるものでしょうか。つまり、彼女には「啓発」されるよ...「薬獵(藥狩り)」について

  • 「評」と「都督」の関係

    「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度である...「評」と「都督」の関係

  • 猪と家畜

    ところで、なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために設置した石像などで、特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されるものです。後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口...猪と家畜

  • 「評」と「防人」の関係

    『書紀』では『天武紀』に「諸国限分」を行った記事があります。「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除すると...「評」と「防人」の関係

  • 「屯倉」と「駅家」

    『崇峻紀』に「猪」が献上された記事があります。「有獻山猪。天皇指猪詔曰。何時如斷此猪之頚。斷朕所嫌之人。…」「(崇峻)五年(五九二年)冬十月癸酉朔丙子条」これを見ると「猪」が献上されたと書かれていますが、それは「生きたまま」であったものであり、それを食用にする直前に屠殺するものだったのでしょう。(記事からは「頚(くび)」を切断して屠殺したらしいことが推察されます)現代のように「冷凍」「冷蔵」が出来なかったとすると「猪」は食べる直前まで解体されなかったものと思われますが、それまでの間はどこかで生きた状態で「飼育」されており、「王権」の元へ送られるのを待っていたと思われます。それは「屯倉」においてであったと思われるわけです。ところで「磐井」について書かれた『風土記』の記事の中に「解部」記事があります。そこでは...「屯倉」と「駅家」

  • 「屯倉」と「評」

    「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)しかし、「評制施行」が書かれていた『皇太神宮儀式帳』の中にはその「評」の施行と共に「屯倉」の設置記事が含まれているのです。(『皇太神宮儀式帳』)「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天...「屯倉」と「評」

  • 「評制」と半島の制度

    戦後、日本の古代史で有名になった論争があります。それは「大化改新の詔勅」に関するもので、そこでは「郡」という用語が使用されていますが、「那須国造碑」などの金石文(石碑などに書かれた文)には「郡」ではなく、「評」という用語が使用されていて、「実際には」どちらが使用されていたのか、というものです。この論争は「藤原宮」跡地(奈良県)から「評」と書かれた木簡と「郡」が使用された木簡がともに出土して終結しました。それは、地層の重なりなどから判断して「七世紀の終わりまで『評』」で、「八世紀の初めからは『郡』」というように、行政制度に「切替わり」があったことが明白になったからです。明らかに「評」という制度が「郡」に先立って実際に各地で施行されていたものと考えざるを得なくなりました。しかし、これについては従来からの学者の...「評制」と半島の制度

  • 「遣隋使」問題について投稿の際に添付した文章

    以前「遣隋使」についての投稿を行いましたが、その投稿は同内容で古田史学会報にも投稿していたものですが、未採用となっているものです。その理由は定かではありませんが一つの理由として「長すぎる」というものがあったように思います。それに関して当時投稿の際に付した文章を掲載します。これはいわば「長くなる」ことについての説明、というより「言い訳」ですが、本音も入っています。(以下当時の添付文)「遣隋使」問題についての投稿は従前の理解にかなり強い疑いを突きつけるものであり、影響はそれなりに重大であると考えています。従来一般的にはこの『隋書』と『書紀』の記述の「違い」について「年代」としては同一ではあるものの「裴世清」と対応した「倭国王」の立場を慮ってもっぱら『書紀』の側が脚色されているというような議論が行われているよう...「遣隋使」問題について投稿の際に添付した文章

  • 「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

    以下は会報に投稿したもの未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年七月十六日)「難波朝」の「軍制」について-「五十戸制」との関連において-「要旨」「難波朝」期に「軍制」を含む制度改定が行なわれたものであり、後の「軍防令」の原型とも言えるものがこの時点で作られたものと思料されること。それは「行政制度」と連係したものと考えられ、「評制」と「五十戸制」は、「軍制」との関連で改定された制度と考えられること。『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。(注一)つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五...「難波朝」の「軍制」について-「五十戸制」との関連において-

  • 前方後円墳の築造停止と薄葬令

    以下は以前会報に投稿したものですが「未採用」となっているものです。(投稿日付は二〇一二年十一月八日。)「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」「要旨」「前方後円墳」は「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階でその築造が停止されているが、これは「停止」に関する「詔」が出されたためと考えられ、『孝徳紀』の「薄葬令」が、その内容分析から、「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。以上について述べるものです。(Ⅰ)前方後円墳の築造停止について「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。この「前方後円墳」の「築造停止」とい...前方後円墳の築造停止と薄葬令

  • 「殯」と「寿陵」(磐井以降)

    前王が死去した後の「殯(もがり)」の期間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)つまり「興」の場合のように「世子」とされることとな...「殯」と「寿陵」(磐井以降)

  • 冬景色と月面

    札幌はまだまだ真冬のど真ん中でまだ降るんかい、というぐらい降っています。ちなみに記憶では札幌の平年累計降雪量は5mぐらいあったと思います。現時点ではまだ4m50cmぐらいじゃないでしょうか。先ほどの南九条通りはこんな感じです。(現在マイナス4℃ぐらい)除排雪が終わったばかりぐらいかな?道が広くなっており、一時とは見違えるほど良くなっています。ちゃんとした観測施設が整っている方はよろしいでしょうけど、当方は車で移動してセッティングするやり方なので、この時期はかなりつらいです。体力と気力がそろそろ尽きかかっているので冬季はまあ冬眠のようなものです。ということで、割と温かい時期に撮った月の写真を載せておきます。いずれの写真も20cmシュミカセに25mmアイピースで拡大したものにスマホという組み合わせで撮影したも...冬景色と月面

  • 「法円坂遺跡群」について(再度)

    大阪の中心部、大阪城やその前身である石山本願寺などがあった「上町台地」上に「法円坂遺跡群」と称される遺跡が存在しています。これは「前期難波京」のさらに下層に存在しているものであり、総床面積が1500平米にもなろうという東西計16棟の建物群です。またこれらの建物群の存在時期として「五世紀後半」と考えられており、そのような時代にこれらの巨大な建物群が整然とした形で存在していたのです。この遺跡の大きさと配列については「短里系」の基準尺の存在が推定されています。その復元された寸法は「南朝尺」である「24.4センチメートル」付近の値が措定されており(東側列倉庫群)、また「正方位」が既に指向されていることから、「倭の五王」の時代に先進的「南朝文化」が導入されたものと思われることと重なっており、「倭国王権」が主体となっ...「法円坂遺跡群」について(再度)

  • 「難波津」について(再度)

    『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。いくつか例を挙げてみます。山陽道播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自『与等津』運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪?束。水手三十束。自余准播磨国。南海道紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三...「難波津」について(再度)

  • 「不改常典」とは ―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

    さらに前回から続きます。前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)「…聖德太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海...「不改常典」とは―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

  • 「不改常典」とは ―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

    以下前回からの続きとなります。『書紀』によれば「持統」は三月三日に「伊勢」へ行幸したというわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたとされています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌...「不改常典」とは―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

  • 「不改常典」とは ―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

    以下さらに続きます。「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものです。また、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として存在していたものでもあります。また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを...「不改常典」とは―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

  • 「不改常典」とは ―古田氏の見解について(再度)

    以下前回の続きです。この「不改常典」に対する理解について、古田武彦氏はその著書(『よみがえる卑弥呼』所収「日本国の創建」)の中で、「皇位継承法」とは認めがたいとして、以下のように言及されています。「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。...「不改常典」とは―古田氏の見解について(再度)

  • 「不改常典」とは ―「十七条憲法」とは

    さらに続きです。「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。また、この「憲法」の内容は「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項がほとんどであり、「統治の根本」を記したものです。これはまさに「食国法」というべきものでしょう。また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変...「不改常典」とは―「十七条憲法」とは

  • 「不改常典」とは(再度)

    以下は以前会報に投稿したものですが、古賀会長から『続日本紀』の記述と整合しないというコメントがあり、そのまま没となったものです。しかし当方は『続日本紀』記事を絶対不可侵のものとは考えておりませんので、現時点でも変わらず論旨を有効と考えています。ここに改めて掲載いたします。「文武朝廷」以降の八世紀の「日本国」朝廷では「即位」の儀の際に「詔」を出し、その中で「不改常典」というものが持ち出され、それを遵守するということが「宣命」として出されています。たとえば「元明即位」の際の詔には、「持統」から「文武」への「譲位」の際に「天智」が定めた「『不改常典』を「受け」「行なう」として即位したように書かれており、自分もその「天智」の定めた「法」を同様に「傾けず」「動かさず」行なうというように宣言しているのです。「元明の即...「不改常典」とは(再度)

  • 「シリウス」の謎(二) ―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

    前稿に続き以前の投稿のアップデート版となります。「シリウス」の謎(二)―「弥生時代への移行」と「シリウス」―「要旨」「ローマ」に伝わる伝承から「シリウス」がかなり増光していたと見られること。「縄文時代」から「弥生時代」への移行は全地球的気候変動にその原因があると考えられること、その時期として紀元前八世紀が措定できること。その原因は「シリウス」の新星爆発に伴う「宇宙線」の増加である可能性が考えられること。同様の理由によりこの時期に放射性炭素(C14)が増加したと見られること。以上を考察します。Ⅰ.「シリウス」は「昼間」見えていた?「シリウス」には「白色矮星」の伴星(連星系で質量の小さい星をいう)を持っています。この「白色矮星」はその前身は「赤色巨星」であったとされます。(註一)シリウスが赤かったという記録と...「シリウス」の謎(二)―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

  • 「シリウスの謎」(一) ―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

    以前会報へ投稿した(二〇一六年四月一日送付)もののアップデート版です。「シリウスの謎」(一)―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―「要旨」「天孫降臨神話」の解析から「猿田彦」等の「登場人物」と「天空の星座」(星)との対応が考えられる事。その場合「天孫降臨神話」の主役である「瓊瓊杵尊」に対応する「星」も存在するものと見られ、「おおいぬ座」のα星「シリウス」が最も措定できること。ただし、「火」や「瓊瓊杵」という表現が「赤い色」を示すことと「シリウス」の色が「白い」ことと整合していないとみられること、過去において「シリウス」が「赤かった」という記録があること。以上を考察します。Ⅰ.「星座」と「神話」の対応について『日本書紀』(以下『書紀』と記す)の神話の中に「天鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調...「シリウスの謎」(一)―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

  • 鎮懐石の寸法と重量(続き)

    以下は前回からの続きです。この「基準尺」については、『万葉集』の他『風土記』にも現れています。(以下の読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系風土記」岩波書店』によります)「筑紫の風土記に曰く、逸覩(いと)の縣、子饗(こふ)の原に石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸。色白くして、圓(まろ)きこと磨(みがき)成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲(けみ)するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋?野に至りて、太子誕生す。此の因縁有りて芋?野と曰う。産(うむ)を謂いて芋?野と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しん...鎮懐石の寸法と重量(続き)

  • 「鎮懐石」の寸法と重量について

    この記事の中心部分は会報に2013年2月に投稿したもので(未採用です)、それを増補したものを改めて以下に書きます。「鎮懐石」の寸法と重量について以下は『万葉集』の中の「八一七番歌」で言及している「鎮懐石」の大きさの形容に使用されている基準尺が、「周以前」の「古制」によるという可能性について述べるものです。『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(※)によってなされています。(以下「万葉集八一七番歌」を示します。ただし読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります)「筑前国(つくしのみちのくに)怡土(いと)郡深江村子負(こふ)の原に、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長一...「鎮懐石」の寸法と重量について

  • 「日本神話」と星の世界

    これかなり以前会報へ投稿したものですが、未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年十一月八日)「日本神話」と星の世界今回は「記紀」の神話の中に「星」や「星座」が表されているという説についてご紹介します。この研究はかなり以前に出ているのですが、管見する限り「引用」等されておらず、おおかた「星」など縁のない人たちには「実感」のない説なのではないかと思われます。ここで、改めてご紹介して、また違った観点からの「神話解釈」を提供したいと思います。「記紀」の神話の中に「天の鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「雨の鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面があります。この場面は従来解釈が難解な場面でした。それは話の展開と関係ない描写があるように思えるからです。たとえば、「雨...「日本神話」と星の世界

  • 「厳島神社」と「神功皇后」の「妹」(再度)

    前稿からの関連として以下も再度アップします。「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八...「厳島神社」と「神功皇后」の「妹」(再度)

  • 「大国主」と薬師信仰(再度)

    これもまた以前の投稿の再アップです。(会報へ投稿したものではありません)「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれていますが、この「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられています。ただし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。しかし「光背」で...「大国主」と薬師信仰(再度)

  • 「天王寺」の「施薬院」について ―「出雲」との関連において ―(再度)

    これも以前アップしたもので、また会報に投稿も未採用となっているものです。「天王寺」の「施薬院」について―「出雲」との関連において―「要旨」「阿毎多利思北孤」は「天王寺」を創建すると共に「施薬院」など医療施設を建て、そこで彼の近親の女性達により「医薬」「医療」などを提供していたと推定できること。その「医」に関する知識と技術は「六世紀後半」以降に「出雲」から導入したと推定できること。これらについて述べます。一.「施薬院」と「勝鬘院」「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば「元亨釈書」によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの...「天王寺」の「施薬院」について―「出雲」との関連において―(再度)

  • 廣瀬大忌神と龍田風神(再度)

    さらに前回からの続きです廣瀬大忌神と龍田風神『推古紀』には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。「六四七年」大化三年…是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時...廣瀬大忌神と龍田風神(再度)

  • 「伊勢」と「倭姫」(再度)

    さらに前回からの続きです「伊勢」と「倭姫」「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。この「日葉酢媛命」は、その死に際して「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以...「伊勢」と「倭姫」(再度)

  • 「伊勢」と「神風」(再度)

    前回からの続きです「伊勢」と「神風」「難波副都」の時代(白雉年間)に(特に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が散見されます。このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、①...「伊勢」と「神風」(再度)

  • 「伊勢王」とは(2)(再度)

    前の投稿で「伊勢王」に関する考察を行いましたが、改めて考えてみます。『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。(以下白雉献上の儀式)「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけ...「伊勢王」とは(2)(再度)

  • 「伊勢王」とは(再度)

    続いて「伊勢」に関する検討です。「伊勢王」とは『書紀』には「伊勢王」という人物が出てきます。彼についてはその出自が明らかではなく、さらに『書紀』の記述に明白な矛盾があるのが判ります。以下「伊勢王」に関する記事を『書紀』の出現順に並べてみます。「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」「(斉明)七年(六六一年)…六月。伊勢王薨。」「(天智)七年(六六八年)…六月。伊勢王與其弟王接日而薨。...「伊勢王」とは(再度)

  • 「弥勒仏」と太子像(再度)

    さらに前回からの続きです「弥勒仏」と太子像「野中寺」の「弥勒菩薩像」について考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係しているのではないかと推察されます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったも...「弥勒仏」と太子像(再度)

  • 「弥勒信仰」について

    さらに前回からの続きです「弥勒信仰」について「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられ...「弥勒信仰」について

  • 近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

    さらに前回からの続きです近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があ...近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

  • 「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

    さらに前回からの続きです近江崇福寺について(4)-菩提遷那について-このように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド人僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「毘盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳...「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

  • 「近江崇福寺について」(2)(再度)

    さらに前回からの続きです「近江崇福寺について」(2)「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであ...「近江崇福寺について」(2)(再度)

  • 「近江崇福寺について」(1)(再度)

    さらに前回からの続きです「近江崇福寺について」(1)『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』によれば「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑...「近江崇福寺について」(1)(再度)

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