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2014/11/03

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  • 筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)

    以下は以前投稿した論とかなり重なっていますが、その後多少内容が深まったので再度投稿するものです。筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について「庚午年籍」については『続日本紀』に「筑紫諸国」の「庚午年籍」に官印を押したという記事が出てきます。「(神龜)四年(七二七年)…秋七月丁酉。筑紫諸國。庚午籍七百七十卷。以官印印之。」この段階でそのような記事が出てくるというのは、「大宰府」にその「写し」あるいは「原本」がなかったたため、広く捜索した結果発見(入手)されたものと思われます。しかし後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は「太政官」つまり朝廷に提出するとされています。(戸令造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里...筑紫諸国の「庚午年籍七百七十巻」について(再度)

  • 「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

    ②「改暦」の有無ところで、「天智紀」において、倭国と「唐」が直接戦った「白村江の戦い」の年次が『旧唐書』などと食い違っているのがわかります。『旧唐書』などの中国側史料ではこの年次が「六六二年」であるのに対し『書紀』では「六六三年」となっており、一年ずれているのです。西暦現暦干支異暦干支記事・出典六六二壬戌癸亥白村江の戦い『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』六六三癸亥甲子白村江の戦い『日本書紀』この東アジア全体の共通点とも言うべき事柄が一年「日中」の記録で食い違っているのは、不審ですが、それが「構造的」なものであると言うことも考えられ、その場合その他の記事にも食い違いがあるのではないか、と云う強い疑いを生じます。これに関してはすでに「正木氏」の論(「亡国の天子薩夜麻」)において「半島」への出兵が『書紀』の年次よ...「天智」と「受命改制」―改暦と年次のずれについて

  • 「天智」と「受命改制」

    中国では「天子が『天命』により交替した場合は国家の制度も変わる」という考え方があり、これを「受命改制」と言いました。ですから、単なる親と子の間の継承ではない場合など、通常の形態ではない王朝交替があったときは「受命」があった(天命を受けた)と解釈することになります。一種の言い訳として使用されているわけですが、この際「前王朝」の各種制度は基本的に改変されます。「受命」があった場合「改制」されるものとしては以下のものがあります。①「国号変更」まず第一に「国号」(王朝名)が変更されます。「国号」はその天子の理想を反映したものであるべきであり、天命により天子が替わったのですから、国号も変更されて当然です。「王朝」交替で国号が変更されなかったことはありません。②「改暦」続いて「改暦」が行われます。天体の運行は「天帝」...「天智」と「受命改制」

  • 「壬申の乱」の際の「符」について

    「壬申の乱」の前に近江朝廷から各地に「興兵」つまり「軍事行動」を起こすようにという指示が出されています。「…夜則以韋那公磐鍬。書直藥。忍坂直大摩侶遣于東國。以穗積臣百足。及弟百枝。物部首日向遣于倭京。且遣佐伯連男於筑紫。遣樟使主盤磐手於吉備國。並悉令興兵。仍謂男與磐手曰。其筑紫大宰栗隅王與吉備國守當摩公廣嶋二人。元有隷大皇弟。疑有反歟。若有不服色即殺之。於是。磐手到吉備國『授苻』之日。紿廣嶋令解刀。磐手乃拔刀以殺也。男至筑紫。時栗隈王『承苻』對曰。筑紫國者元戍邊賊之難也。其峻城。深隍臨海守者。豈爲内賊耶。今畏命而發軍。則國空矣。若不意之外有倉卒之事。頓社稷傾之。然後雖百殺臣。何益焉。豈敢背徳耶。輙不動兵者。其是縁也。時栗隈王之二子三野王。武家王。佩劔立于側而無退。於是男按劔欲進。還恐見亡。故不能成事而空還...「壬申の乱」の際の「符」について

  • 「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

    「(斉明)六年(六六〇年)冬十月…詔曰…而百流國遥頼天皇護念。更鳩集以成邦。方今謹願。迎百濟國遣侍天朝王子豐璋將爲國主云云。詔曰乞師請救聞之古昔。扶危繼絶著自恒典。百濟國窮來歸我以本邦喪亂靡依靡告。枕戈甞膽。必存■救。遠來表啓。志有難奪可分命將軍百道倶前。雲會雷動倶集沙喙翦其鯨鯢。■彼倒懸。宜有司具爲與之。以禮發遣云云。…」この斉明の詔からは「新羅」を攻めるという予定であったと思われることとなります。「詔」の中に現れる「沙喙」というのが「新羅」の地名であり、現在の「慶尚北道」に位置し、日本海に面した土地と推定されていることを考えると、「斉明」の軍は「新羅」を直接攻めることを考えていたと受け取ることができます。確かに「新羅」の城を制圧した記事もありますが、しかし「持統」の「大伴部博麻」に与えた「詔」の中では...「薩夜麻」達が「唐」の捕虜となっていた理由

  • 倭王権と「飛鳥」

    以前(2021年3月)投稿した論を再度提示します。現在考慮中の案件との関係でやや関係があると思われるものです。評木簡には数種類ありますがこれは「時期の違い」と考えられます。一つは「評」から始まるもので「国」も「年次」も書かれないものです。その中でも「五十戸」表記があるものと「里」表記のものがあります。「評」から始まるもので「五十戸」制三方評耳五十戸土師安倍→?031荷札集成-132(木研5-8藤原宮跡北辺地区湯評大井五十戸凡人部己夫011飛鳥藤原京1-109(荷札飛鳥池遺跡南地区「評」から始まるもので「里」制三方評竹田部里人粟田戸世万呂塩二斗?031荷札集成-135(飛20-26藤原宮跡北面中門地区板野評津屋里猪脯032荷札集成-232(藤原宮1藤原宮跡北面中門地区二つ目は「国名」が「前置」されるものです...倭王権と「飛鳥」

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