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古田史学とMe
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古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
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53回 / 344日(平均1.1回/週)

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J.W.Mccallister,jrさんの新着記事

1件〜30件

  • 「聖武」の詔報と年号使用について

    「公文」には「年号」を使用するべしというルールが「大宝」以前にはなかったと推察したわけですが、それと関係していると思えるのが「白鳳・朱雀」という年号について「聖武天皇」が「詔」の中で「年代玄遠」としていることです。(神龜元年(七二四年))冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸國僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相當。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公驗。不知處分。伏聽天裁。詔報日。白鳳以來。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公驗。これを見ると担当官僚の奏上には「綱帳にはあるが、官籍にはない」という言い方がされています。その「官籍」については『書紀』(「天武紀」)に「寺院」が「国家」の管理下に入ったことを示す記事があります。「(天武)八年(六七九年...「聖武」の詔報と年号使用について

  • 「年号」の不存在と「暦」

    『令集解』「公式令」の「儀制令」には「公文」には「日付」を記すようにという規定があり、またその「年」の表記には「年号」を使用するように、という決まりが書かれています。これに対する注釈の中の問答(「穴記」による)では「庚午年籍」という表記はいかなる「法」に拠ったか、つまり「年号」ではなく「干支」で表記しているのはなぜかという問いかけに対し、まだ「年号」を使用するようにという決まりができていなかったからと答えています。この問答は明らかに「年号」の存在を前提としていると思われ、「年号」はあったが単に決まりがなかったからと理解せざるを得ません。(この「公文条」は「年号」を日付として採用するようにということを「ルール」として決めたというのですから、「未制」とはこの「ルール」がまだなかったと理解するのが相当でしょう。)そも...「年号」の不存在と「暦」

  • 「律令」名称と年号

    中国では『泰始律令』を初めとして『開皇律令』『武徳律令』等「律令」の名称には「年号」が冠せられています。八世紀以降の日本国においても「大宝」「養老」というように「律令」の名称に「年号」が使用されている例があるのに対して(『延喜式』『弘仁格式』などもそれに準ずるものでしょう)、それ以前の『飛鳥浄御原律令』には(その存在が不確かな『近江令』でも)「年号」が使用されず「朝廷」の名称が使用されています。『続日本紀』では「大略以淨御原朝庭爲准正」と書かれていますが、これは「武徳律令」制定の際の「大略以開皇爲准正」の筆法を真似たものであり、その「開皇」とは「開皇律令」を指すものですから「浄御原朝廷」の所には本来「年号」+「律令」という形で律令名が書かれて然るべきこととなります。また「浄御原朝廷之制」という回りくどい言い方が...「律令」名称と年号

  • 「磐井」の墓と「国数」

    「磐井」に関する『風土記』の記事では「豪風暴虐」という語が使用されており、この意味については「継体天皇」から派遣された「近江毛野」に対して従わなかったことを示すというのが通説ですが、それには異議があります。「…古老傳云當雄大迹天皇之世筑紫君磐井豪強暴虐生平之時預造此墓…」(『釋日本紀』卷十三に引用された逸文)この文章のつながりから考えて彼がなぜ「不偃皇風」とされるのかは、その次に書かれた「生平之時預造此墓」つまり、生前に墓を造ったことと関係があるように感じられます。この記事は、亡くなる前に墓を造るということが限られた層の人々にだけ許されていた可能性が高いことを示すものですが、確かに中国では本来「寿陵」と称され、「皇帝」にだけ許されたものであったわけです。また少なくともその配下の高位の官にだけ許されたものと思われ...「磐井」の墓と「国数」

  • 「杖刀人」と「呪禁」

    「稲荷山鉄剣」の「杖刀人」は「呪禁」を職掌とする立場の人物(医官)という「田ノ井貞治氏」の説に賛意を表したわけですが、この「鉄剣」の「杖刀人」と「倭の五王」の最後の王である「武」が南朝皇帝に提出した上表文とはリンクしている、あるいは共鳴しているといえます。(以下「武」の上表文の一部)「宋書」「順帝昇明二年(四七八年)遣使上表曰、…臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、『歸崇天極』、道遥百濟、裝治船舫。…是以偃息未捷、至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、『白刃交前、亦所不顧。』若以帝徳覆載摧、此彊敵克、靖方難無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸假授、以勸忠節。詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」ここにみるように「武」の上表文には「歸崇天極」とあり、また「白刃交前、亦所不顧」ともあり...「杖刀人」と「呪禁」

  • 「杖刀」について

    棟上寅七氏(中村通敏氏)のブログ(https://ameblo.jp/torashichi/)に非常に興味深いことが書かれていました。それは「稲荷山鉄剣」の銘文中にある「杖刀人」についてです。氏のブログによれば「平野雅曠氏」のエッセイに引用された「田ノ井貞治氏」(医師、「飛鳥古京を守る会」会員)が「朝日新聞」(昭和55年5月5日付け「研究ノート」欄)に書かれた「杖刀人は古代の医官」という題の文の中で「杖刀」について検討されており、それが「正倉院」にある「杖刀」(「呉竹鞘杖刀」及び「漆塗鞘杖刀」)と同種のものであり、「咒禁」を業とする人が使用する「儀礼用の刀と考えられ、「杖刀人」とはそのような職種の人間を指すというものです。今一度この「稲荷山鉄剣」の」銘文」を掲示します。(表)「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比...「杖刀」について

  • 30万ページビューを迎えて

    当サイトの閲覧数が30万(PV)を超えました。熱心に見ていただいている方もおられるようで、大変ありがたいと思います。ブログの内容はなかなか一般の方にすぐ解るようなものではないかもしれませんし、ページ数もかなり多いので読まれる方はなかなか大変と思いますが、時々で結構ですから、あちらこちら目を通して頂けたら幸いです。「検索」窓がありますのでご活用頂くと便利と思います。これからも特に古代史を中心に考えたこと、気がついたことを時々になるとは思いますが書いていきますので、皆様ご笑覧頂ければと思います。30万ページビューを迎えて

  • 『筑後国正税帳』の記事から見える事

    最近中村明蔵氏の『鑑真幻影』(南方新社)の一部を読む機会があり、そこに興味あることが書かれているのを確認しました。以下は一部それに依拠しています。天平十年の『筑後国正税帳』によれば「種子島」(多禰)の「僧侶」二人についてその帰路の食料として二十五日分が支給されています。「得度者還帰本嶋多褹僧貳躯《廿五日》単五拾人食稲貳拾束《人別四把》」(『筑後国正税帳』より)他にも同様に「多褹」の人間「二十八人」にその帰国の途中食料として二十五日分を支給した記事が見えますから、この時「太宰府」から「多褹」への帰国は二十五日を必要としていたことが窺えますが、これはそのルートとして「陸路」を想定していないことを示すと思われます。陸路を行く場合は途中の国「肥後」「薩摩」を経過する際それぞれの国庁から食料が支給されるはずであり、これだ...『筑後国正税帳』の記事から見える事

  • 「漢音」と「呉音」―「古田史学の会」の会報記事の訂正について

    今般「古田史学の会」のホームページに「会報」がアップデートされていました。その中の第一二八号(二〇一五年六月六日)に当方の論文『「漢音」と「呉音」―皇帝の国の発音』が掲載されています。これに関しては投稿後内容に誤認がある事を確認しており、直接問い合わせが来ていた多元的古代研究会の安藤氏への返答にも書かせていただきましたが、以下の内容に差し替えさせていただいています。(関係各位にはご迷惑をおかけしました。)「漢音」と「呉音」-「皇帝の国の発音」-(改)「要旨」「漢音」と「呉音」は元々「唐王朝」において使用が始められたものであること。それは「言語学的」なものというより「政治的」なものであること。「玄宗皇帝」の時代の「盛唐」において確立された思想であり、それに基づく用語であること。「日本国王権」においてもそれを全面的...「漢音」と「呉音」―「古田史学の会」の会報記事の訂正について

  • 「かった」と「から」と- フェイクな情報について

    トランプ大統領がよく「フェイクニュース」というものを問題としています。彼の場合は自分に不利益な情報を「フェイクニュース」としているわけでありそれ自体が「フェイク」といえそうですが、先日社内資料として某市役所の職員に対するトレーニングマニュアルを見る機会があり、そこにやはり「フェイク」といえそうなものがあるのに気づいたというか驚いた一件がありました。そこには「ダメな応対例」として注文や指示を受けた際の確認で「~でよろしかったでしょうか」という言い方がダメな例として書かれていたのです。理由は「過去形」は必要ないとのことでした。「現在形」で表現しなさいと言うことのようですが、これがネットにある根拠不明な記事ならともかく公的な立場である某市役所の職員教育の資料にあったことは驚きです。このような「フェイク」としかいいよう...「かった」と「から」と-フェイクな情報について

  • 「狗邪韓国」について(及び「到」と「至」について)

    『倭人伝』を見ると「狗邪韓国」までは「官」の有無を始め詳細情報が記されませんが、「對馬国」以降はそれが書かれるようになります。そのことから「倭王権」の統治範囲は「對馬国」までであったと見られ、ここに「境界線」が存在していたと見たわけですが、それを裏付ける(と私見では見られる)ものが『魏志韓伝』から伺えます。『魏志韓伝』には以下のような記述があります。「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。有巳柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離弥凍國弁辰古資彌弥凍國弁辰古淳是國冉奚...「狗邪韓国」について(及び「到」と「至」について)

  • 勝俣氏の名前が小惑星の名称となった件

    情報によれば小惑星の名称に長崎大学名誉教授の勝俣隆氏の名前が使用されるとのこと。それを提案したのは藤井旭さんらしい。藤井旭という人は僕ぐらいの年齢の天文マニアで知らない人はいないと言うぐらいの人であり、誰でも天体写真を撮れる様な時代にした事に多大な貢献をした人です。当方のライブラリにも天体観測のための資料とともに彼の書いた「天体写真の写し方」が最近までありました。(同様に興味があるという友人に譲渡しましたが)また彼の撮った天体写真の美しさは特筆すべきものであり、どうやればあんなにきれいに撮れるのか、機材はそれほど高価でもないものの、できあがった写真は誰もまねできないレベルであったのです。ため息をつきながら彼の天体写真を見ていた記憶があります。また彼とその周囲の人達で造りまた運営していた福島の白河天体観測所も東日...勝俣氏の名前が小惑星の名称となった件

  • 『倭人伝』の各争点について―山田様の批判を承けて

    山田様のブログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-8fef.html)において前の当方の記事について批判が行われています。つまり全体として「推定」以上のものでないとされているのです。確かに先の論は、言うまでもないことですが、徹頭徹尾、私の「推定」で構成されています。それは間違いありません。立論が「推定」で構成されているのは確かではあるものの、問題はその「推定」がどの程度確からしいかではないでしょうか。そのためにはその「推定」の根拠となったものについて当否を判断する必要があるでしょう。その根拠が怪しいとすれば「推定」も怪しいこととなります。もし当方の論について異論を唱えるのであればそこに焦点を当てるべきですが、しかし山田様の論にはその部分がとても少...『倭人伝』の各争点について―山田様の批判を承けて

  • 「投馬国」に関する事

    Sanmao様(山田様)のブログはいつも刺激を受ける記事であふれていますが、今回は石田泉城氏(「古田史学の会」の友好団体である「古田史学の会・東海」の関係者)の論について書かれており(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/03/post-88d7.html)、そこでは『魏志倭人伝』に書かれた「投馬国」の位置に関して書かれていました。しかしその内容にやや異議があったことから以下のようなコメントをさせていただきました。『「石田氏は「そもそも朝鮮半島は斜めに陸行してきた」とし、また「陸行できる場所であれば陸行するはず」としていますが、そうとは決められないと思います。石田氏の論理は半島が「全陸行」であった場合有効と思いますが、実際には一部「水行」です。石田氏及びこれに賛意を...「投馬国」に関する事

  • 「医薬」と「銅鐸」と「出雲」

    『周禮』という古典があります。そこには「周王朝」の第二代の王である「成王」の摂政であった「周公」が死んだ際に、死後も祀りを絶やさぬよう、「天子の礼楽」を以ってせよ、という「成王」の指示が書かれている部分があります。そしてその「礼楽」とは「夷蛮の楽」を大廟に納める意であることが示されています。つまり「四夷」の中で特に「夷」(東)と「蛮」(南)の二方向だけが、奉納するべき天子の楽とされているわけですが、その理由は、「後漢」の「王充」が表した書「論衡」に書かれています。「周の時(紀元前十二世紀)、天下太平、越裳白雉を献じ、倭人鬯草を貢す」(「論衡」巻八、儒増篇)「成王の時、越常、雉を献じ、倭人、暢を貢す」(「論衡」巻十九、恢国篇)この故事にちなみ、「夷」「蛮」の領域には「周公」の治政の正しさが伝わったもので、そこから...「医薬」と「銅鐸」と「出雲」

  • 「天体写真」2

    月や惑星は都会の明るい夜空でも撮れますので20cmクラスの望遠鏡でかなりの高画質の写真が撮れます。木星の四大衛星(ガリレオ衛星)は動きが速いのでそれを見てるだけで面白いです。下の写真は時間をおいて再度撮影したものを重ねたものです。時間差はせいぜい30分程度ですが、僅かに移動しているのがわかると思います。木星本体の模様はなかなか明瞭に捉えられません。土星は肉眼では環の構造もそこそこ見えますが写真となると、なかなかシャープな映像になりません。「修行」?がまだまだ不足のようです。「肥沼様」も狙ってみませんか?「天体写真」2

  • 天体写真

    肥沼様のブログでこのところ月の写真がアップされています。私も以前月の写真を撮るのが好きで、よく車に天体望遠鏡を乗せて光害の少ないところへ行って夜な夜な写真を撮っていたものです。近所の公園でも撮影したことありますが、物珍しげに近づいてくる人が多く、説明に忙しかったもので、近郊へ移動して撮影していました。久しぶりに自分の撮った写真を見て懐かしく思っていました。(ちなみに今でも車には天体望遠鏡や双眼鏡やバッテリー電源などのセットが積んだままになっています)その頃撮った写真の一枚が上のものです。(これは写真というより動画を撮ってそこから静止画として切り出したものを複数枚コンポジットしたものです。)ちなみに撮影機材はセレストロン社製の20cmシュミットカセグレン望遠鏡にビクターのデジタルムービーを接続したものです。今は公...天体写真

  • 「荒神」信仰と「津波」

    「出雲」で「銅剣」が大量に発見された「荒神谷」という地名は近くに「荒神」の社があったことから命名されたといいます。その「荒神」信仰は神道や仏教というような区分とは異なり、かなり「土着」的信仰であったと思われています。その「荒神社」はほとんど「瀬戸内沿岸」に集中しており、「岡山」を筆頭に「広島」「島根」「兵庫」「愛媛」「香川」「徳島」「山口」などの他「島根」など日本海側にも一部数えられます。その祭神としては「道祖神」の他「奥津彦命」「奥津姫命」「軻遇突智神」といういわゆる「火の神」に類する神が選ばれており、「竈神」として俗間の信仰が深かったものです。また、その他「牛頭天王」との関係も深いとされています。これらを見て感じることはそもそもその信仰されている地域として「弥生中期」に発生したと思われる「大地震」「大津波」...「荒神」信仰と「津波」

  • 「松帆銅鐸」の埋納時期と「津波」の関係

    今回通りすがりの素人様より「銅鐸」の埋納と大津波及び「高地性集落」の形成等に関連して考察した拙論に対し「松帆銅鐸」の存在の指摘があり、埋納時期と津波の関係にやや見直しが必要と考えられる事となりました。以前の記事で「弥生中期」あるいは「弥生後期」というような表現がありましたが、これについて(今更のようですが)検討してみます。「弥生時代」の実年代については以前は「弥生早期~前期初」が紀元前四〇〇~三〇〇年ごろ/弥生前期末が紀元前二〇〇~一七〇年ごろ/弥生中期末は紀元後一~五十年ごろ/弥生後期末は紀元後二五〇年ごろとされていましたが、「歴博」の「弥生時代」の始まりを五百年早めるという説の登場以来、大方の理解は「弥生早期と前期」を「紀元前七五〇年頃から紀元前四〇〇年付近、弥生中期をそれ以降紀元前後付近まで、それ以降二五...「松帆銅鐸」の埋納時期と「津波」の関係

  • 「瀚海」について(その後)

    山田様のブログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-af54.html、http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-aa39.htmlなど)で引き続き「瀚海」についての議論が行われています。その議論を見ていて考えたことを以下に書きます。「瀚海」は(想定によれば)「邪馬壹国」からの使者がその帰途「魏」の使者を同行した際に説明を受けた中にあったと見られ、そう考えた場合「瀚海」は「邪馬壹国」という内陸にあった王権に属する人達の命名であり、九州島から見た視点で述べられていると思います。これを「対馬」に住む人達から聞いたとするなら彼らの感覚では「壱岐」との間も「半島」との間もさほど広さに変わりはないわけ...「瀚海」について(その後)

  • 「瀚海」について

    山田氏のブログで『倭人伝』の中に出てくる「瀚海」について書かれています。そこでは「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれている事について述べられています。(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/post-6cf2.html)そこで述べられていることについて肥沼氏から「古田氏」の解釈にもとづく意見があり、それに対して山田氏が反論をしています。私見では山田氏の考え方が正しいと思われ、基本的に同意します。「瀚海」は確かに指摘されているように「対海国」(対馬)と「一大国」(壱岐)の間の海峡の名称と考えるのが相当でしょう。またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみるのもまた正しいと思います。またそれらを含めて古田氏の言説をその...「瀚海」について

  • 「銅鐸」「銅剣」の廃絶と「出雲王権」

    以前「高地性集落」について書いた中で「銅鐸」について触れました。(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/989208bbf7e02bc3fb583caf49a681f8)その後「筑紫」に先行する「出雲」という視点を基礎として新たに考察したところ、「銅鐸」と「銅剣」の「廃絶」と「埋納」について「弥生中期」と分類されるものは「筑紫」の勢力による「権力」の委譲・交替を示すものという知見を得ましたので、ここで改めて考察してみます。「銅鐸」はそのほぼ全てが「宅地造成」など土地開発中に出土するものとして知られています。遺跡発掘中に出土した例がほとんどありません。また「古墳」などからの「副葬」例が皆無です。またその出土分布の中心は「古墳」の分布中心とは異なっています。これらのことは「古墳」時代...「銅鐸」「銅剣」の廃絶と「出雲王権」

  • 「隋皇帝」による「訓令」とそれに対する「倭国」の反応

    『隋書俀国伝』を見ると「大業三年」(六〇七年)とされる遣隋使が提出した国書において倭国王「阿毎多利思北孤」は「隋皇帝」に対し「海西菩薩天子」「重興仏法」という言葉を並べ、「沙門」を修行のためと称して派遣しており、これは一見「自発的」なもののように思われますが、それ以前の遣隋使の発言が影響していると思われます。その様な行動の元となったものは、それ以前に派遣された「隋使」(「裴世清」と思われる)により「訓令」を受けたことと推測できます。前回の「遣隋使」の説明により、倭国におけるそれまでの統治のスタイルである「天を兄とし日を弟とする」というものについて「古典的」(と言うより「前近代的」)であり、それを「無義理」であると皇帝が断を下したものです。この時の「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という正式な外交官として「倭国」に赴き、...「隋皇帝」による「訓令」とそれに対する「倭国」の反応

  • 太陽系外から飛来する小惑星(あるいは彗星)について

    かなり以前にも記事として書きましたが(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/ad1b3e623e590d937a24d52d3c36f3ba)、6500万年前に大絶滅をもたらしたとされる小惑星との衝突という破滅的イベントは「木星」と「火星」の間にある小惑星帯にあった小惑星同士の衝突によって発生した多数の破片がその飛来源として推測されています。この場合はその多くが現在も黄道平面の近くに収まっており、その意味で観測には都合がよいと思われますが、他方黄道からかなり離れた平面を軌道とするものも存在しており、この場合観測がかなり困難となります。それは即座にその軌道予測も困難となることとなり、対策が後手に回ることとなります。現在はそこも観測対象として全地球的に観測網が整備されつつありますが、中...太陽系外から飛来する小惑星(あるいは彗星)について

  • 古代オリンピックについて

    日本において「縄文」から「弥生」へという時代の変化の根底に一大気候変動があったという論を以前投稿していますが、それは当然全世界的な現象であり、全地球的に時代の転換を迫られたものとみられるわけです。それは文化や制度などにも表れているものであり、この時代に起源を持つものがいくつか見られます。その一つが「オリンピック」です。雪の降る日々が続きますが、昨年の冬「韓国」の「平昌」で冬季オリンピックが行われたのはまだ記憶に新しいところであり、私の住んでいる北海道からも多くの選手が出場し、彼ら、彼女らの日頃の鍛錬の成果により多くの感動的シーンが見られたものです。この「オリンピック」という「競技会」はその始原が「古代ギリシャ」にあり、「ヘラクレス」が「紀元前八世紀半ば」に始めたとする伝承があります。(これはほぼ無批判に「事実で...古代オリンピックについて

  • 「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現)について

    以前に書いたこと(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/0feee359f389173107af6f8307b488c8『隋書俀国伝』にある「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現)について、追加の論を下に記します。ここでいう「附庸」とは「宗主国」(言い換えれば「直接統治領域」)に対する対語であり、「従属国」であることを示します。またここでは「竹斯国」が「附庸国」とされているように見えます。これについて以前「直轄領域」として「壱岐」「対馬」があると見たわけですが、それは外交上・国防上の問題から国境を接している場所は直轄地域のはずという意味でした。この場合中心領域について「肥の国」という推測をしたわけですが(もちろん「以東」という表現から考えて「近畿」に中心権力があるとは見なせないわけ...「自竹斯國以東皆附庸於倭」という表現)について

  • 山田様のブログ記事へのコメントに対するご批判について

    山田様のブログ記事(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2019/01/2019-5704.html)について当方が「コメント」として記したこと(「志賀島の金印」と『後漢書』『倭人伝』等に書かれた「倭」等に対する考察(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/f4ea963d0ceb1ab8a00b3ac63168e230につづく一連のもの、是非皆様にも読み返していただければ幸いです)について、首肯できることできない事を具体的に挙げてご批判いただきました。ありがとうございます。以下にご批判のうち一部ですが気になる点について回答のようなものを書いてみます。といっても論として同じことを繰り返し書くこととなりそうですが。「帥升」と「倭国王」について「帥...山田様のブログ記事へのコメントに対するご批判について

  • 新年を迎えるに当たって

    当ブログを御覧頂いている皆様。本年も拙い論をみていただき、ありがとうございます。家庭の事情がかなり変化し、古代史に割く時間がかなり減少することとなった1年でした。来年も余り状況は変わらないと思われますが、細々ではあっても何とか研究を続けていこうと思います。来たる年が御覧頂いている皆様にとりよりよき1年でありますよう祈念致します。新年を迎えるに当たって

  • 「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の謀反事件と「長屋王」

    『続日本紀』の「養老六年」(七二二年)の記事に「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の「謀反」事件が書かれています。ここで「誣告」をしたとされる「多治比真人三宅麻呂」は「大宝三年」(七〇三年)に「藤原房前」等とともに「各諸国」(諸道)に対して派遣された「巡察使」様の使者派遣のために人選された中に入っており、「東山道」の「各国司・郡司」などの「治績」の記録と判定を任されるという栄誉ある仕事に就いています。彼はその後も官位の加増を受け、「慶雲四年」(七〇七年)「元明天皇」即位の際の「御装司」にも選ばれており、またその後も「催鋳銭司」という当時発見された「和銅」との関連で発行されることとなった貨幣の鋳造の管理者というかなり栄誉ある地位に就いています。(ただし前の記事にも書きましたが、この「和銅」発見はいわば「フェイク...「多治比真人三宅麻呂」と「穂積朝臣老」の謀反事件と「長屋王」

  • 「和銅」出土と「不比等」

    「多胡碑」がある場所からほど遠くないところに「和銅」出土の地があります。『続日本紀』によれば、この地から「和銅」(純度の高い自然銅)が出土し、それが朝廷に献上され、これを契機に「催鋳銭司」を設置したと書かれており、そのトップとして「丹比真人三宅麻呂」が任命されています。「(七〇八年)和銅元年春正月乙巳。武藏國秩父郡獻和銅。詔曰。現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻■尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而...「和銅」出土と「不比等」

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