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古田史学とMe
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古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)
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36回 / 365日(平均0.7回/週)

ブログ村参加:2014/11/03

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J.W.Mccallister,jrさんの新着記事

1件〜30件

  • 『隋書』における「俀」表記に関する議論について

    『隋書俀国伝』について古田史学の会では(会報で)議論がおこなわれています。(「岡下氏」「日野氏」などの議論)いずれも「俀」という表記についての解釈が中心ですが、公定された『隋書』の前に「王劭」が記した『隋書』があることを想定に入れていません。さらに「大業年間」に「皇帝」(煬帝)の言動を記した「起居注」という根本史料が『隋書』編纂時すでに失われていたという点も見落とされています。『俀国伝』に記された「阿毎多利思北孤」からの国書に対する「皇帝」の反応はまさに「起居注」にしか記録され得ないものであり、この記事が何に拠ったかを検討していないのは「手落ち」というべきです。「起居注」が入手できなかったとすると、この「俀国」からの「国書」記事は別の資料によったことは明らかであり、候補の筆頭に上がるのは「隋の高祖」時代の「秘書...『隋書』における「俀」表記に関する議論について

  • 「伊都国」の位置についての新理解

    最近『倭人伝』に出てくる「伊都国」について新しい理解に到達したので、以下に記します。『倭人伝』には以下の記述があります。「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。」この『倭人伝』の記事からわかるように「郡使」の常に「駐」(とどまる)ところとされる「一大率」の本拠地が「博多湾」に面しているとして、そこが「首都」防衛に適した拠点であるとすると、『倭人伝』に記された「末盧国」からの方向指示と合わないという問題があります。通常の理解では、後の大津城などがそうであったように、現代の平和台付近に「伊都国」の本拠があったと想定しており、『倭人伝』の「末盧國…東南陸行五百里、到伊都國」という記事の「距離」だけを抜き出して、平和台付近から「五百里」(これを約四十キロ...「伊都国」の位置についての新理解

  • 「言論の自由」の保証と「学術会議」

    「日本学術会議」への会員任命拒否問題では2つのことが世上議論されているようです。ひとつは「任命拒否」と「憲法」の関連、一つは「日本学術会議」という団体の性格と現状です。そして「学術会議」の現状に批判的な人々は、その現状と「任命拒否」を関連させて考えているようですが、私見ではこの2つを関連させるのは明らかな間違いとみます。そもそも「憲法には「言論の自由はこれを保証する」という条項(「集会,結社及び言論,出版その他一切の表現の自由は,これを保障する」(21条))がありますが、憲法の性格上、それは国家に課した制約であると同時に強制とみるべきです。この条項を遵守するとすれば実際に「言論の自由を保証している」ことを行動として明かす必要が出てきます。そのような行動の一環として「学術会議」への資金の提供があるとみるべきでしょ...「言論の自由」の保証と「学術会議」

  • 「都督」と現地人について

    「都督」と「都督府」について考えてみます。唐はその領域拡大政策の元、周辺国に従属を強い、それに逆らったり抵抗すると軍を送りこれを制圧し、その後の統治については、「都護府」を置きまたその下に「都督府」を置くことでその「版図」を拡大していました。そして「都護」には「唐」側から適材を送り、「都督」は現地の人間を充てるというのが常套でした。半島の場合「高句麗」制圧後「平壌」に「(安東)都護府」が置かれ、その下に「都督府」が六カ所置かれたとされます。その一つが「熊津都督府」であるというわけです。『書紀』に出てくる「都督府」記事はこの「熊津都督府」と、同じ文章中に出てくる「筑紫都督府」が見えるのがただ唯一の例です。この「筑紫都督府」について「唐」が設置した、さらに『書紀』に出てくる「筑紫君薩夜麻」についてその帰国は「都督」...「都督」と現地人について

  • 「壬寅年」木簡について

    久しぶりに投稿します。四月以降仕事量が急増して全く時間がとれなくなってしまっていました。(現時点においてもあまり変わりはないのですが)古田史学の会の古賀氏のブログで「壬寅年」木簡についての記事が出ていました。それによれば滋賀県の「西河原宮ノ内遺跡」から「壬寅年」と書かれた木簡が出ており、それは氏の解釈では「大宝二年」と表記されるべきはずのものが「近江朝廷」の存在が影響して「古制」のままの表記となったとされています。「・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉」西河原宮ノ内遺跡滋賀県教育委員会・(財)滋賀県文化財保護協会確かに他の地域の木簡からは「大宝」が紀年に使用されたものが出ており、その意味ではこの「壬寅年」木簡は異例です。しかし「大宝二...「壬寅年」木簡について

  • 「持衰」と「瀚海」について

    『魏志倭人伝』には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。「魏志東夷伝倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去蟣蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其生口財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」ここでは「恆使一人…爲持衰」とされていますから、その「一人」とは「船」に乗り組んでいる人員のうちの「一人」と解釈すべきであり、使者のうちの一人であることは確実です。この「持衰」についての理解の中には、彼は航海の間陸上(出発地)にいるもので、乗船していなかったとするものもあるようですが、それでは「疾病や「暴害」などに遭遇したかは帰国しなければ判らないわけですから、「持衰」に対する対応としては後手に回るでしょう。当然彼は同乗していると考えざるを得ないものです。こ...「持衰」と「瀚海」について

  • 「持統」の王権の本質

    以前拙論「「天朝」と「本朝」-「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析」(「古田史学会報一一九号及び一二〇号」)で指摘しましたが「持統」はその「大伴部博麻」へ「詔」の中で「大伴部博麻」の行動について「本朝」に「還向」くために「身を売る」提案後それが実行され、「富杼等」が「天朝」に「通じた」と表現しており、そのことからの帰結として「筑紫國上陽郡」の軍丁である「大伴部博麻」の所属する「本朝」とは「筑紫君」である「薩夜麻」の「朝廷」であること、「持統」が言う「天朝」と「博麻」の言う「本朝」は一致するはずなので、「本朝」と同様「薩夜麻」の「朝廷」を指す言葉として使用されていると考えられ、その朝廷を「持統」が「天朝」と表現していることになることから、「持統」の朝廷は「薩夜麻」の「朝廷」を「天朝」と仰ぐ「諸国...「持統」の王権の本質

  • 「倭姫」と「筑紫」

    「天王寺」の鐘について以前考察しました。そこでは「浄金剛院」と並び「黄鐘調」の音階であることが判明していますが、その「黄鐘調」という音階は「古律」によれば「無常」を表すものであると同時に各種資料には「黄鍾」は「宮」であり、その「宮」は音の君とされていることなど「五行説」に基づいて「梵鐘」の音髙は「黄鍾調」でなければならないとしていたと推察しました。このことから「鐘」の構造は「規格化」されていたと考えられ、その意味で「鐘」の製造は同一工房で同じ鋳型から行われていたという可能性が考えられるとしました。「浄金剛院」の鐘(これはその後「妙心寺」に入ったものです)が「黄鐘調」であること及びその「銘」から「筑紫」(糟屋)で作られたことが推定されていますが、さらに「天武紀」には「筑紫」から「大鐘」が献上されたという記事があり...「倭姫」と「筑紫」

  • 「根子」について

    『書紀』を見ると、天皇の称号として「根子」というものが現れます。この「根子」という称号についての理解として最も適当なのは「支配者」「統治者」ではないでしょうか。その意味で「最高権力者」だけが名乗れるというものではなかったと思われます。実際『書紀』によれば「山背根子」「難波根子」と称される人物が出てきます。かれらはあくまでも「山背」「難波」という小領域の権力者であり、また統治者であったと思われ、その意味から類推すると「倭根子」とは「倭」の地域の権力者であることとなるでしょう。「倭」については元々ある特定地域「小領域」を指す用語であったと思われますが、「権力」が強くなるに随い、その範囲も広くなっていったものと思われ、最終的には「列島」の広い範囲を指す用語として使用されていたと思われます。『書紀』では以下のように「日...「根子」について

  • 「難波津」について

    『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。いくつか例を挙げてみます。山陽道播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自与等津運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪卌束。水手三十束。自余准播磨国。南海道紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三十束。但挾...「難波津」について

  • 石田泉城氏の論に対する反論

    少々前になりますが石田泉城氏のブログ(https://ameblo.jp/furutashigaku-tokai/entry-12579995137.html)で「投馬国」の位置について私が書いた論(これは「水行」したからそこが「島」であるという氏の論に対する反論)(https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/5150f760a16329178983ad792739ed94)に対する再反論が書かれていました。詳しくは氏のブログをご覧いただくことして、韓半島の移動ルートについては以前ブログに以下のような文章を書いています。「…ここで半島全体を水行していないのは、「済州島」近辺の海域については小島が多く海流が複雑でありまた水深が浅い場所があるなど座礁の危険などのリスクを伴うからと思われます...石田泉城氏の論に対する反論

  • 「筑紫大宰」としての「天智」

    ところでこの時点での「唐使」との対応は「津守連吉祥」と「伊岐史博徳」が主に担当しているようですが、この時点での「筑紫大宰」は『書紀』では不明です。たとえば『続日本紀』の記事からは「阿部比羅夫」が「斉明」の時代に「筑紫大宰帥」であったという記事があります。(養老)四年(七二〇年)春正月甲寅朔…庚辰。始置授刀舍人寮醫師一人。大納言正三位阿倍朝臣宿奈麻呂薨。後岡本朝筑紫大宰帥大錦上比羅夫之子也。このように「後岡本朝」つまり「斉明」の時に「筑紫大宰帥」であったとされています。しかし彼は斉明四年段階では「越国守」とされていますし、翌年も「粛慎」との戦闘に出陣しています。ただし「斉明末年」は「筑紫」の「朝倉」に移動しており、この時「筑紫大宰」であったという可能性はありますが、「天智称制」期間には「百済を救う役」に出征してい...「筑紫大宰」としての「天智」

  • 「鎮将」と「都督」

    すでに「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「日本国」となった後いったん「倭王権」に戻り、その後再度「日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定しました。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった「百済を救う役」であり「白村江の戦い」です。この戦いでは「倭国側」の全面的敗北となったものですが、それは「高句麗」「新羅」の敗北とつながっています。それに関連して「百済鎮将」という名称が『書紀』に見えます。「(六六七年)六年…十一月丁巳朔乙丑。『百濟鎭將』劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等。送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」この「鎮将」については通常「占領軍司令官」という通称的なとらえ方がされているようですが、「鎮」とは「隋」の高祖の時代に制定された「鎮―防―戍」と...「鎮将」と「都督」

  • 「評督」と「国造」

    『常陸国風土記』には「地名」を改めたという記事があります。『常陸国風土記』「久慈郡の条」自此艮二十里助川駅家昔号遇鹿古老曰倭武天皇至於此時皇后参遇因名矣至国宰久米大夫之時為河取鮭改名助川俗語謂鮭祖為須介この記事を見ると倭武天皇時につけられた地名を「国宰」が変更しているようです。ここでは「国宰」の権威が倭武天皇を上回るものであることを示しており、またその権威は今に通じているようです。つまり「国宰」は地名変更の権利を有しており、倭武天皇の「権威」を犯しているということとなります。倭武天皇が関東王朝の象徴的人物と理解できることを踏まえると、この時点で倭国の権威が関東に及び「国宰」が倭王権を代表して関東王権に優越的立場に立ったことがうかがえます。ところで関東の前方後円墳の消長を見ると七世紀前半という時点で「一斉に」途絶...「評督」と「国造」

  • 「釈奠」について

    「釈奠」は「唐代」にはその祭祀を行う対象として「先聖先師」がありましたが、初代皇帝「李淵」(高祖)の時代には「周公」と「孔子」が選ばれていました。しかし、「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔回」(孔子の弟子)となりました。これは「隋代」以前の「北斉(後斉)」と同じであったので「旧に復した」こととなります。これは「国士博士」である「朱子奢」と「房玄齢」の奏上によるものです。そこでは「大学の設置は孔子に始まるものであり、大学の復活を考えるなら孔子を先聖とすべき」とする論法が展開されました。それが『永徽律令』になるとまたもや「周公」と「孔子」という組み合わせとなりました。いわば「唐」の「高祖」の時代への揺り戻しといえます。さらにそれが「顕慶二年」になると再度「先聖を孔...「釈奠」について

  • 「解部」の増減と「新日本王権」

    『書紀』の「持統三年」記事に「解部」に関するものがあります。「(持統)四年春正月戊寅朔。(中略)丁酉。以解部一百人拜刑部省。」ここに見える「解部」とは言ってみれば、現在の警察と検察とを兼ねたような存在であり、取り調べや訴訟の裁定などを行なう職掌でした。このような職掌の人員を増加させているということは、実態として「犯罪」が多い、という背景があることを推定させます。それはその数年前に起きた「南海大地震」とそれに伴う大津波により被災した人々の生活が破綻したまま回復していないことを示します。『二中歴』に書かれた「倭国年号」の「朱雀」の項には「兵乱」があり、また「海賊」が起きたということが書かれています。「朱雀二甲申兵乱海賊/始起又安居始行」『二中歴』の記事は(たぶん各地で)「戦乱」が起き、また「海上」では「津波」により...「解部」の増減と「新日本王権」

  • 「町段歩制」施行と「畿内」について

    「改新の詔」では「町段歩」制を施行を宣言しています。「…凡田長卅歩。廣十二歩爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。…」しかし「岸俊男」氏によれば、「藤原宮」などから出土した木簡のうち「浄御原令施行期間」に属すると見られるものは、地積の表示に「代」を用いて「町段歩」ではないこと、特にその一つには「五百代」と記されていて「一町」とは記されていないことなどから、「町段歩制」が成立したのは「大宝令」においてである、と論証しています。(※)ところで『書紀』には「班田」に関する以下の記事があります。「持統六年九月癸巳朔辛丑。遣班田大夫等於四畿内。」(持統紀)このように「四畿内」に「班田」に関する「官人」が派遣され、実務を行っているようです。それに関連すると思われるのが『二中歴』「年代歴」の「朱鳥」年号の「細注」です...「町段歩制」施行と「畿内」について

  • 「干支」と命名法

    「大宝二年戸籍」には子供の名前に生まれた年の干支を取り入れている場合が見受けられます。たとえば、寅年生まれだと「刀良」や「刀良売」、卯年生まれだから「宇提」「宇提売」「宇麻呂」などと名づけるのがそうです。このような命名法は「庚寅年」以前には見られません。(つまり干支と人名に対応が見出せない)ここれについては一般には理由は不明とされていますが、「庚寅」年に「戸籍」(いわゆる「庚寅戸籍」)が造られたことと深く関係していることは明確であり、その時点で「班田制」が施行されたらしいことと関係しているように思われます。「班田」の支給は「戸籍」の作成と関連しており、戸籍が「六年に一度」造られるとすれば「班田」は「六歳以上」について支給されることとなります。生年を名前につけておけば「干支」(といっても「十二支」の方ですが)が使...「干支」と命名法

  • 「筑紫」と「内外文武官」

    『令集解』を見ると「内外文武官」という条文についての解釈が書かれています。「考課令内外官条」「凡内外文武官。…。古記云。問。内外文武官若為別。答。公式令云。在京諸司為京官。是此内官。其監司在外。及国郡軍団皆為外官。是此外官。又条。五衛府。軍団及諸帯仗者為武。唯内舎人及竺志不在武之例。自余並為文。…」ここでは「竺志」(大宰府)(武器を持っていたとしても)(及び内舎人)は「武官」の例には入れないとされています。しかし明らかにある時期までは「武官」が存在していたはずです。それは「天武紀」に「筑紫太宰」として「栗隈王」がいたことからも明らかです。かれは「壬申の乱」の時点では「筑紫大宰」として強い軍事力を行使できる立場にあったことは確実です。「近江朝廷」からの「出兵」の指示を断っており、その際に「筑紫」を防衛するために自...「筑紫」と「内外文武官」

  • 「大赦」と年次移動

    『続日本紀』の「慶雲元年」の項に「大赦」記事があります。「慶雲元年…五月甲午。備前國獻神馬。西樓上慶雲見。詔。大赦天下。改元爲慶雲元年。高年老疾並加賑恤。『又免壬寅年以往大税。』及出神馬郡當年調。又親王諸王百官使部已上。賜祿有差。獻神馬國司。守正五位下猪名眞人石前進位一階。初見慶雲人式部少丞從七位上小野朝臣馬養三階。並賜絁十疋。絲廿絇。布卅端。鍬卌口。…」「慶雲」に改元する際にあわせて「大赦」したということですが、その一環として「大税」について(貸し付けた税の元本について)免除するということが書かれていますが、その「年次」の表記が「大宝二年」ではなく「壬寅年」と「干支」で書かれています。このような場合年次の表記には「年号」を使用するということが「大宝令」で決められていたにもかかわらず、この「詔」では「干支」表記...「大赦」と年次移動

  • 「元明」即位と「庚午年籍」

    先日の記事で「庚午年籍」が「大宰府」にはなかったたため捜索した結果発見(入手)されたとしましたが、後の「養老令」(戸令)によれば本来戸籍は「三通」作り、一通は国元に置くものの、残り二通は太政官つまり朝廷に提出するとされています。(戸令造戸籍条)「…凡戸籍六年一造。起十一月上旬。依式勘造。里別為巻。惣写三通。其縫皆注其国其郡其里其年籍。五月卅日内訖。二通申送太政官。一通留国〈其雑戸陵戸籍。則更写一通。各送本司〉。」上の規定はそれ以前の「庚午年籍」でも同様の取り扱いであったことが推定され、「庚午年籍」においても「国府」だけにあったはずがなく、さらに「筑紫諸国」の「庚午年籍」についてのみ言及があるところを見ると欠落していたのは「筑紫諸国」の分だけであったものと思われ、「筑紫」にだけあって「聖武」の朝廷に残っていない理...「元明」即位と「庚午年籍」

  • 「延喜式」と「持統王権」

    以前「新日本王権」は禅譲された王権である「持統朝」について「否定的」な立場にいると見ました。一つには「平城京」への遷都が「難波京」からとする史料があり、「藤原京」が無視されていること、その「藤原京」は「平城京」を作る際に解体され跡形もなくなってしまったことや、「文武」の即位日について『書紀』と『続日本紀』で使用する暦の違いから「干支」が異なっているにもかかわらず、それを隠そうともしていないことなどがあり、それらは「新日本王権」の「持統王権」に対する立場の表明と思われ、「新日本王権」は「持統」の王権から「禅譲」はされたものの「継承」はしていないことを意味すると推察したものであり「持統王権」を「新日本王権」にはつながらない「他の王権」とする立場ではなかったかと推察したものです。その考えを補強すると思われるのが以下に...「延喜式」と「持統王権」

  • 内田樹氏の『サル化する世界』と紀元前八世紀

    内田樹氏の『サル化する世界』という書籍について、その概要について本人が語っているのをネットで見ることができますが(文春オンライン)、その内容にとても興味を引かれました。氏はそこで、「時間意識」の形成が行われ、「ある程度長い時間を俯瞰する視座」というものを人類が取得、形成可能となり、一神教が成立し始めるのが「春秋戦国時代」であり、「紀元前1000年から500年くらいのこと」とされていて、それが「人類史的な特異点(シンギュラリティ)」形成の時期とされています。その時代以降「刹那的」な生活様式が否定あるいは衰退し、ある程度ロングスパンで生活や人生を考える立場が肯定されるようになったと見られるわけです。この論を見て「紀元前八世紀」の全地球的大規模気候変動が、人類の意識の変化に直結していることが改めて感じられることとなり...内田樹氏の『サル化する世界』と紀元前八世紀

  • 「聖武」の「詔報」と「庚午年籍」

    「聖武」への治部省からの奏上に「官籍」という語が出てきます。この「官籍」は王権側で作成保有している「戸籍」を指すと思われますが、これに対する「聖武」の詔報の中では「白鳳以来」「朱雀以前」という表現がされています。このこととの関連で考えるとここでいう「官籍」は六七〇年成立とされる「庚午年籍」そのものであるという可能性が高いと思料します。「白鳳」が天智即位との関連のものと見れば「六六二年」であり、また「朱雀」は「六八四年」と考えられていますから、この両方に関わる戸籍といえば「庚午年籍」ではないでしょうか。これであれば「白鳳以来」も「朱雀以前」もともに該当します。「庚午年籍」は「律令」で「永久保存」とされ、「氏姓の根本」とされていますから、ここに「ない」とするといくら「綱帳」にあっても判断できないということではなかっ...「聖武」の「詔報」と「庚午年籍」

  • 「裴世清」の肩書問題

    すでに考察したように「大業三年記事」はそれをかなり遡上する時期の記事を移動して書いていると考えられることとなったわけですが、それは「鴻臚寺掌客」としての「裴世清」が、実態としては「隋」の高祖からの使者であると理解しなくてはならないこととなったわけですが、その場合「裴世清」の肩書きの問題を解く必要が出てきます。『書紀』の「遣隋使」記事では「肩書き」(「隋皇帝」から「推古天皇」に送られたという詔書の記載による)では「鴻廬寺掌客」となっており、『隋書』の記載の「文林郎」とは食い違いを見せています。「文林郎」は「大業年間」の「煬帝」の時代に「散官」ではなく「実務」を担当する者として現れます。また「隋」の「高祖」の時代には、当初なかった「文林郎」が「開皇年間」に新設されたことが『隋書百官志』に書かれています。「…六年,尚...「裴世清」の肩書問題

  • 『新唐書日本伝』と遣隋使派遣時期

    以上見てきた見地については『新唐書日本伝』にある「王代紀」部分の記述とも矛盾しないものです。『新唐書』日本伝には「倭国」以来の各代の倭国王の「諡号」が累々と書き連ねてある部分があります。この部分は「北宋」の時代に「日本」から訪れた「東大寺」の僧「凋然」が持参した「王代紀」を参考にしているとされています。そこでは、各代の天皇名の合間に「隋」や「唐」側で保有していた「倭国」との交渉の記録が挟み込まれるように書かれています。この「挿入」される位置は、常識的に考えるとその「交渉」が行われた時期の「倭国王」の記事中であると考えられます。(「編年体」の史書類は基本的にそのような体裁で書かれているはずですから。)しかし、記事を見るとその位置が『書紀』に書かれた天皇の代と食い違っているように見えるのが多くあるのが確認できます。...『新唐書日本伝』と遣隋使派遣時期

  • 隋代七部楽と遣隋使

    「開皇二十年」記事の中に「倭国」の「国楽」について書かれた部分があります。(再掲)「…其王朝會、必陳設儀仗、奏其國樂。…」この「国楽」との関連が考えられるのが、「隋代七部楽」の制定です。その中には「雑楽」の中の一部として「倭国」の楽も入っています。「…始『開皇初』定令置七部樂。一曰國伎、二曰淸商伎、三曰高麗伎、四曰天竺伎、五曰安國伎、六曰龜茲伎、七曰文康伎。又雜有疏勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・『倭國』等伎。…。」(『隋書卷十五志第十/音樂下/隋二/皇后房内歌辭』より)この「七部楽」はここに見るように「開皇の始め」に初めて制定されたというわけです。『隋書』を見ると「開皇九年」に以下の記事があるのが確認できます。「十二月甲子,詔曰:「朕祗承天命,清蕩萬方。百王衰敝之後,兆庶澆浮之日,聖人遺訓,掃地?盡,制禮作...隋代七部楽と遣隋使

  • 「大業三年記事」への疑い

    前の投稿で述べた「疑い」について以下にその徴証といえるものを示します。『隋書俀国伝』に書かれた「倭国王」の言葉に「聞海西菩薩天子重興仏法」というのがあります。「大業三年,其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。…」(『隋書/列傳第四十六/東夷/俀国』より)ここで言う「菩薩天子」とは「菩薩戒」を受けた「天子」を言うと思われます。中国の天子には「菩薩戒」を受けた人物が複数おりますが、ここで該当するのは「隋」の「高祖」(文帝)ではないでしょうか。彼は「開皇五年」に「菩薩戒」を受けています。これに対し「煬帝」も「天台智顗」から「授戒」はしていますが、それは「即位」以前の「楊広」としてのものでしたから、厳密には「文帝」とは同じレベルでは語れないと思われます。さらに、「文帝」で...「大業三年記事」への疑い

  • 「大業起居注」の亡失

    以下は以前同内容で投稿したことがありますが、古田史学会報でこのところいくつか「遣隋使」関連の問題が議論されているのを見て別の視座もあるのではという思いから再度投稿するものです。『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文林郎裴世清」を派遣したことが書かれています。この記事は、その年次が『書紀』の「遣隋使」記事と一致しているため、従来から疑われたことがありません。「遣隋使」に関わる議論の立脚点として「史実」であるという認定がされていたようです。『推古紀』記事についてそれが「大業三年」記事と同一ではないという指摘をされた「古田氏」においても、その「大業三年」記事そのものについては言ってみれば「ノーマーク」であったわけです。おなじ『隋書』中にある「開皇二十年」記事は該当すると思われる記事が『書紀』にないこ...「大業起居注」の亡失

  • 「倭の五王」の統治領域

    以下は以前書いたものを再度考察し、若干変更したものです。倭の五王(この場合「武」)は南朝劉宋に宛てた上表文の中で、以下のように言っています。「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国。王道融泰にして、土を廓(ひら)き畿を遐(はるか)にす。」この中の「東」と「西」については説が各種あるようですが、明らかに「南朝皇帝」の目から見てのものではありません。この中で「南朝皇帝」の視点からの記述(用語)として使用されているのは「衆夷」と「毛人」という用語だけです。ここでいう「衆夷」とは主に「西海道」の領域を指すと考えられ、「毛人」は中国地方及び四国の半分程度の領域を指すと思われます。近畿以東(関東までを含む)の地域を指すとは考えにくいと思われることとなりました。そう考える理...「倭の五王」の統治領域

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