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2014/11/03

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  • 「評」と「都督」の関係

    「九州倭国王権」は「六世紀末」という時期に「近畿」へ勢力を進出させ、「難波」に仮宮を設けたと思われますが、その際に「評制」を全面的に施行し、「評督」や「助督」(あるいは評造)という「制度」(職掌)を定めたと見られます。そしてこれらの「制度」の「トップ」と言うべき存在は「都督」であったと思料されます。『書紀』の『天智紀』には「熊津都督府」から「筑紫都督府」への人員送還記事があります。「百濟鎭將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等送大山下境部連石積等於筑紫都督府」「(天智)六年(六六七年)十一月丁巳朔乙丑条」これによれば「六六七年」という段階で「都督府」が存在していることとなりますから、(当然)「筑紫」には「都督」がいたことと考えざるを得ません。そして、この「都督」が「評督」と深く関係している制度である...「評」と「都督」の関係

  • 猪と家畜

    ところで、なぜ「磐井」は自らの業績を誇るために設置した石像などで、特に「猪窃盗犯」の裁判風景を描写したのでしょう。他の物品でも良さそうなものではないか思われるわけですが、ここで「猪」が特に登場しているのには、「意味」があるのではないかと考えられるのです。それは「当時」「猪」が最高級品であったからではないでしょうか。一番高価なものを盗んだ事に対して行なわれた「審判」の情景を「例」としてそのまま「陳列」し「展示」すると言うこととなったのではないかと推察されるものです。後に『天武紀』で「肉食禁止令」が出されますが、そこでは「且莫食牛馬犬猿鶏之完」とされ、「猪」が含まれていません。このことは「以前」から「猪」は食べて良いという事になっていたことを示すと考えられますが、その肉は「高級品」であり、「庶民」はなかなか口...猪と家畜

  • 「評」と「防人」の関係

    『書紀』では『天武紀』に「諸国限分」を行った記事があります。「(天武)十二年(六八三年)十二月甲寅朔丙寅。遣諸王五位伊勢王。大錦下羽田公八國。小錦下多臣品治。小錦下中臣連大嶋并判官。録史。工匠者等巡行天下而限分諸國之境堺。然是年不堪限分。」この記事によれば「諸国」とありますが、実際には「限分」されたのは全て「東国」です。それは以下の記事が証明しています。「詔曰。東山道美濃以東。東海道伊勢以東諸國有位人等。並免課役。」「(天武)十四年(六八五年)秋七月乙巳朔辛未条」この中の「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国」という言葉からは、「分限」されたのが「東国」諸国であったことを示しています。これは「評制」施行のために「境界画定」作業を行なったことを意味するものであり、その労苦に報いて「課役」を免除すると...「評」と「防人」の関係

  • 「屯倉」と「駅家」

    『崇峻紀』に「猪」が献上された記事があります。「有獻山猪。天皇指猪詔曰。何時如斷此猪之頚。斷朕所嫌之人。…」「(崇峻)五年(五九二年)冬十月癸酉朔丙子条」これを見ると「猪」が献上されたと書かれていますが、それは「生きたまま」であったものであり、それを食用にする直前に屠殺するものだったのでしょう。(記事からは「頚(くび)」を切断して屠殺したらしいことが推察されます)現代のように「冷凍」「冷蔵」が出来なかったとすると「猪」は食べる直前まで解体されなかったものと思われますが、それまでの間はどこかで生きた状態で「飼育」されており、「王権」の元へ送られるのを待っていたと思われます。それは「屯倉」においてであったと思われるわけです。ところで「磐井」について書かれた『風土記』の記事の中に「解部」記事があります。そこでは...「屯倉」と「駅家」

  • 「屯倉」と「評」

    「改新の詔」の中に「公地公民」制に関する部分があり、そこに「屯倉」に関する事が書かれています。「罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘。」これは「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」という意味であり、一種の国有化政策です。(というより「倭国王一元化」政策と言うべきでしょうか)しかし、「評制施行」が書かれていた『皇太神宮儀式帳』の中にはその「評」の施行と共に「屯倉」の設置記事が含まれているのです。(『皇太神宮儀式帳』)「難波朝廷天下立評給時、以十郷分、度会山田原立屯倉、新家連珂久多督領、磯連牟良助督仕奉。以十郷分竹村立屯倉、麻績連広背督領、磯部真夜手助督仕奉。(中略)近江大津朝廷天命開別天...「屯倉」と「評」

  • 「評制」と半島の制度

    戦後、日本の古代史で有名になった論争があります。それは「大化改新の詔勅」に関するもので、そこでは「郡」という用語が使用されていますが、「那須国造碑」などの金石文(石碑などに書かれた文)には「郡」ではなく、「評」という用語が使用されていて、「実際には」どちらが使用されていたのか、というものです。この論争は「藤原宮」跡地(奈良県)から「評」と書かれた木簡と「郡」が使用された木簡がともに出土して終結しました。それは、地層の重なりなどから判断して「七世紀の終わりまで『評』」で、「八世紀の初めからは『郡』」というように、行政制度に「切替わり」があったことが明白になったからです。明らかに「評」という制度が「郡」に先立って実際に各地で施行されていたものと考えざるを得なくなりました。しかし、これについては従来からの学者の...「評制」と半島の制度

  • 「遣隋使」問題について投稿の際に添付した文章

    以前「遣隋使」についての投稿を行いましたが、その投稿は同内容で古田史学会報にも投稿していたものですが、未採用となっているものです。その理由は定かではありませんが一つの理由として「長すぎる」というものがあったように思います。それに関して当時投稿の際に付した文章を掲載します。これはいわば「長くなる」ことについての説明、というより「言い訳」ですが、本音も入っています。(以下当時の添付文)「遣隋使」問題についての投稿は従前の理解にかなり強い疑いを突きつけるものであり、影響はそれなりに重大であると考えています。従来一般的にはこの『隋書』と『書紀』の記述の「違い」について「年代」としては同一ではあるものの「裴世清」と対応した「倭国王」の立場を慮ってもっぱら『書紀』の側が脚色されているというような議論が行われているよう...「遣隋使」問題について投稿の際に添付した文章

  • 「難波朝」の「軍制」について -「五十戸制」との関連において-

    以下は会報に投稿したもの未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年七月十六日)「難波朝」の「軍制」について-「五十戸制」との関連において-「要旨」「難波朝」期に「軍制」を含む制度改定が行なわれたものであり、後の「軍防令」の原型とも言えるものがこの時点で作られたものと思料されること。それは「行政制度」と連係したものと考えられ、「評制」と「五十戸制」は、「軍制」との関連で改定された制度と考えられること。『養老令』の軍制と「戸制」の人数には関係があるという議論があります。(注一)つまり、『養老令』(軍防令)では「軍」の基本構成単位である「隊」の編成人数が五十人とされており、またその下層単位として「伍」(五人)と「火」(十人)というものがあるとされています。これらの兵員数の体系が戸籍に見る里(さと)の「五...「難波朝」の「軍制」について-「五十戸制」との関連において-

  • 前方後円墳の築造停止と薄葬令

    以下は以前会報に投稿したものですが「未採用」となっているものです。(投稿日付は二〇一二年十一月八日。)「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」「要旨」「前方後円墳」は「六世紀末」と「七世紀初め」の二段階でその築造が停止されているが、これは「停止」に関する「詔」が出されたためと考えられ、『孝徳紀』の「薄葬令」が、その内容分析から、「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。以上について述べるものです。(Ⅰ)前方後円墳の築造停止について「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉に「前方後円墳」の築造が停止されます。正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始めという時期に「前方後円墳」の築造が停止され、終焉を迎えます。この「前方後円墳」の「築造停止」とい...前方後円墳の築造停止と薄葬令

  • 「殯」と「寿陵」(磐井以降)

    前王が死去した後の「殯(もがり)」の期間は通常「蘇生」を願う「魂ふり」が行われ、その後「蘇生」が適わないとなった時点で「魂鎮め」へと移行するとされますが、本質的には「次代」の王を選定する期間でもあります。つまり前王の生前には次代の王は予定されておらず、前王の死後決定されることとなるわけです。「倭の五王」の時代「済」の死後、後継者として「世子」である「興」が選ばれたようですが、それが生前から決めてあったことなのかは疑問です。つまり「直系相続」というスタイルが既に決まっていたのかというとそうではないと思われるわけです。それはその直前の「讃」から「珍」への交替において「兄」から「弟」へと継承されたらしいことからも推測できます。(ただし「珍」と「済」の関係は不明)つまり「興」の場合のように「世子」とされることとな...「殯」と「寿陵」(磐井以降)

  • 冬景色と月面

    札幌はまだまだ真冬のど真ん中でまだ降るんかい、というぐらい降っています。ちなみに記憶では札幌の平年累計降雪量は5mぐらいあったと思います。現時点ではまだ4m50cmぐらいじゃないでしょうか。先ほどの南九条通りはこんな感じです。(現在マイナス4℃ぐらい)除排雪が終わったばかりぐらいかな?道が広くなっており、一時とは見違えるほど良くなっています。ちゃんとした観測施設が整っている方はよろしいでしょうけど、当方は車で移動してセッティングするやり方なので、この時期はかなりつらいです。体力と気力がそろそろ尽きかかっているので冬季はまあ冬眠のようなものです。ということで、割と温かい時期に撮った月の写真を載せておきます。いずれの写真も20cmシュミカセに25mmアイピースで拡大したものにスマホという組み合わせで撮影したも...冬景色と月面

  • 「法円坂遺跡群」について(再度)

    大阪の中心部、大阪城やその前身である石山本願寺などがあった「上町台地」上に「法円坂遺跡群」と称される遺跡が存在しています。これは「前期難波京」のさらに下層に存在しているものであり、総床面積が1500平米にもなろうという東西計16棟の建物群です。またこれらの建物群の存在時期として「五世紀後半」と考えられており、そのような時代にこれらの巨大な建物群が整然とした形で存在していたのです。この遺跡の大きさと配列については「短里系」の基準尺の存在が推定されています。その復元された寸法は「南朝尺」である「24.4センチメートル」付近の値が措定されており(東側列倉庫群)、また「正方位」が既に指向されていることから、「倭の五王」の時代に先進的「南朝文化」が導入されたものと思われることと重なっており、「倭国王権」が主体となっ...「法円坂遺跡群」について(再度)

  • 「難波津」について(再度)

    『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。いくつか例を挙げてみます。山陽道播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自『与等津』運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把。挾杪?束。水手三十束。自余准播磨国。南海道紀伊国陸路。駄別稲十二束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束。挾杪十二束。水手十束。自余准播磨国。土佐国陸路。百五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別二束。挾杪五十束。水手三...「難波津」について(再度)

  • 「不改常典」とは ―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

    さらに前回から続きます。前稿では「十七条憲法」というものの性格がまさに「不改常典」たるにふさわしいことを述べたわけですが、問題となるのは「近江(淡海)大津宮御宇天皇」という表記と「聖徳太子」という存在の「食い違い」です。つまり『書紀』の中では「聖徳太子」は「近江(淡海)大津宮御宇天皇」とは呼称されていないわけです。彼はそもそも「即位」していません。その意味でも食い違うわけですが、その『書紀』の記述に疑問を突きつけているのが漢詩集『懐風藻』です。『懐風藻』の「序文」には以下のことが書かれています。(読み下しは「江口孝夫全訳注『懐風藻』(講談社学術文庫)」によります。)「…聖德太子に逮(およ)んで,爵を設け官を分ち,肇(はじ)めて禮義を制す。然れども專(もっぱ)ら釋教を崇(あが)めて,未だ篇章に遑あらず。淡海...「不改常典」とは―『懐風藻』の「淡海先帝」との関連

  • 「不改常典」とは ―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

    以下前回からの続きとなります。『書紀』によれば「持統」は三月三日に「伊勢」へ行幸したというわけですが、この時「三輪(大神)高市麻呂」は「冠」を脱ぎ捨ててそれを止めようとしたとされています。なぜ彼は「冠位」を捨ててまで「持統」の伊勢行幸を止めようとしたのでしょうか。それは「高市麻呂」の奏上の中に「農時」には民を使役するべきではないという意味のことが言われていることが(当然ながら)重要です。「(六九二年)六年二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。宜知此意備諸衣物。賜陰陽博士沙門法藏。道基銀人廿兩。乙卯。…是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。三月丙寅朔戊辰。以淨廣肆廣瀬王。直廣參當麻眞人智徳。直廣肆紀朝臣弓張等爲留守官。於是。中繩言三輪朝臣高市麿脱其冠位。■上於朝。重諌...「不改常典」とは―「三輪高市麻呂」の諫言の意味(再度)

  • 「不改常典」とは ―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

    以下さらに続きます。「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「統治する側」の立場の人間に対して、国家統治の「心構え」「行なうべき事」「守るべき事」などを列挙したものです。また、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として存在していたものでもあります。また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。このような画期的なものが、その後「顧みられない」とか「無視」されたと言うことは考えられず、歴代の「王権」はこれを重視せざるを...「不改常典」とは―「十七条憲法」と維摩経と「天智」

  • 「不改常典」とは ―古田氏の見解について(再度)

    以下前回の続きです。この「不改常典」に対する理解について、古田武彦氏はその著書(『よみがえる卑弥呼』所収「日本国の創建」)の中で、「皇位継承法」とは認めがたいとして、以下のように言及されています。「…いわば、歴代の天皇中、天智ほど「己が皇位継承に関する意思」、その本意が無残に裏切られた天皇は、他にこれを発見することがほとんど困難なのである。このような「万人周知の事実」をかえりみず、いきなり、何の屈折もなく、「天智天皇の初め賜い、定め賜うた皇位継承法によって、わたし(新天皇)は即位する」などと、公的の即位の場において宣言しうるであろうか。わたしには、考えがたい。…」このように述べられ、「皇位継承法」の類ではないことを強調されたあと更に「不改常典」の正体について考える場合には「三つの条件」があるとされました。...「不改常典」とは―古田氏の見解について(再度)

  • 「不改常典」とは ―「十七条憲法」とは

    さらに続きです。「聖徳太子」が書いたとされる「十七条憲法」は、「憲法」という用語でも分かるように「最高法規」として作られました。また、この「憲法」の内容は「統治」の側である「王侯貴族及び官僚」に対する「心得」的条項がほとんどであり、「統治の根本」を記したものです。これはまさに「食国法」というべきものでしょう。また、これは「倭国」で(我が国で)始めて作られたものであり、後の「弘仁格式」の「序」にも「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」と書かれており、「国家制法」つまり、国が「法」を定めることがこの時から始まったとされる記念碑的なものであったことが読み取れます。またそれは「憲法」という用語でも分かるように「法」であり、しかも「容易に」「変...「不改常典」とは―「十七条憲法」とは

  • 「不改常典」とは(再度)

    以下は以前会報に投稿したものですが、古賀会長から『続日本紀』の記述と整合しないというコメントがあり、そのまま没となったものです。しかし当方は『続日本紀』記事を絶対不可侵のものとは考えておりませんので、現時点でも変わらず論旨を有効と考えています。ここに改めて掲載いたします。「文武朝廷」以降の八世紀の「日本国」朝廷では「即位」の儀の際に「詔」を出し、その中で「不改常典」というものが持ち出され、それを遵守するということが「宣命」として出されています。たとえば「元明即位」の際の詔には、「持統」から「文武」への「譲位」の際に「天智」が定めた「『不改常典』を「受け」「行なう」として即位したように書かれており、自分もその「天智」の定めた「法」を同様に「傾けず」「動かさず」行なうというように宣言しているのです。「元明の即...「不改常典」とは(再度)

  • 「シリウス」の謎(二) ―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

    前稿に続き以前の投稿のアップデート版となります。「シリウス」の謎(二)―「弥生時代への移行」と「シリウス」―「要旨」「ローマ」に伝わる伝承から「シリウス」がかなり増光していたと見られること。「縄文時代」から「弥生時代」への移行は全地球的気候変動にその原因があると考えられること、その時期として紀元前八世紀が措定できること。その原因は「シリウス」の新星爆発に伴う「宇宙線」の増加である可能性が考えられること。同様の理由によりこの時期に放射性炭素(C14)が増加したと見られること。以上を考察します。Ⅰ.「シリウス」は「昼間」見えていた?「シリウス」には「白色矮星」の伴星(連星系で質量の小さい星をいう)を持っています。この「白色矮星」はその前身は「赤色巨星」であったとされます。(註一)シリウスが赤かったという記録と...「シリウス」の謎(二)―「弥生時代への移行」と「シリウス」―

  • 「シリウスの謎」(一) ―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

    以前会報へ投稿した(二〇一六年四月一日送付)もののアップデート版です。「シリウスの謎」(一)―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―「要旨」「天孫降臨神話」の解析から「猿田彦」等の「登場人物」と「天空の星座」(星)との対応が考えられる事。その場合「天孫降臨神話」の主役である「瓊瓊杵尊」に対応する「星」も存在するものと見られ、「おおいぬ座」のα星「シリウス」が最も措定できること。ただし、「火」や「瓊瓊杵」という表現が「赤い色」を示すことと「シリウス」の色が「白い」ことと整合していないとみられること、過去において「シリウス」が「赤かった」という記録があること。以上を考察します。Ⅰ.「星座」と「神話」の対応について『日本書紀』(以下『書紀』と記す)の神話の中に「天鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調...「シリウスの謎」(一)―「瓊瓊杵尊」と「シリウス」―

  • 鎮懐石の寸法と重量(続き)

    以下は前回からの続きです。この「基準尺」については、『万葉集』の他『風土記』にも現れています。(以下の読み下しは『秋本吉郎校注「日本古典文学大系風土記」岩波書店』によります)「筑紫の風土記に曰く、逸覩(いと)の縣、子饗(こふ)の原に石兩顆(りょうか)あり。一は片長一尺二寸、周は一尺八寸、一は長一尺一寸、周一尺八寸。色白くして、圓(まろ)きこと磨(みがき)成せるが如し。俗傳へて云う、息長足比賣命、新羅を伐(う)たんと欲し、軍を閲(けみ)するの際、懷娠(かいしん)漸(ようや)く動く。時に兩石を取りて裙腰(もこし)に插(さ)し著(つ)け、遂に新羅を襲う。凱旋の日、芋?野に至りて、太子誕生す。此の因縁有りて芋?野と曰う。産(うむ)を謂いて芋?野と為すは、風俗の言詞のみ。俗間の婦人、忽然(こつぜん)として娠動(しん...鎮懐石の寸法と重量(続き)

  • 「鎮懐石」の寸法と重量について

    この記事の中心部分は会報に2013年2月に投稿したもので(未採用です)、それを増補したものを改めて以下に書きます。「鎮懐石」の寸法と重量について以下は『万葉集』の中の「八一七番歌」で言及している「鎮懐石」の大きさの形容に使用されている基準尺が、「周以前」の「古制」によるという可能性について述べるものです。『万葉集』の中に「短里」が存在しているという指摘が、「古田氏」の研究(※)によってなされています。(以下「万葉集八一七番歌」を示します。ただし読み下しは『伊藤博校注『万葉集』「新編国歌大観」準拠版』によります)「筑前国(つくしのみちのくに)怡土(いと)郡深江村子負(こふ)の原に、海に臨(のぞ)める丘の上に二つの石有り。大きなるは長(たけ)一尺二寸六分、囲(かく)み一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長一...「鎮懐石」の寸法と重量について

  • 「日本神話」と星の世界

    これかなり以前会報へ投稿したものですが、未採用となっているものです。(投稿日付は二〇一二年十一月八日)「日本神話」と星の世界今回は「記紀」の神話の中に「星」や「星座」が表されているという説についてご紹介します。この研究はかなり以前に出ているのですが、管見する限り「引用」等されておらず、おおかた「星」など縁のない人たちには「実感」のない説なのではないかと思われます。ここで、改めてご紹介して、また違った観点からの「神話解釈」を提供したいと思います。「記紀」の神話の中に「天の鈿女」と「猿田彦」の話が出てきます。天下りの前に地上界を調べに来た「雨の鈿女」の前に「猿田彦」が立ちふさがり問答する場面があります。この場面は従来解釈が難解な場面でした。それは話の展開と関係ない描写があるように思えるからです。たとえば、「雨...「日本神話」と星の世界

  • 「厳島神社」と「神功皇后」の「妹」(再度)

    前稿からの関連として以下も再度アップします。「伊豫三島神社」や「厳島神社」などの創建の社伝によれば、いずれも九州から「八幡大菩薩」が垂迹した、とされています。「厳島神社」はその社伝で、創建について「推古天皇」の時(端正五年、五九三)に「宗像三女神」を祭ったと書かれていますが、また『聖徳太子伝』にも「端正五年十一月十二日ニ厳島大明神始テ顕玉ヘリ」とあります。さらに、『平家物語』等にも「厳島神社」については「娑竭羅龍王の娘」と「神功皇后」と結びつけられた中で創建が語られており、その内容は仏教との関連が強いものです。さらに「謡曲」の「白楽天」をみると以下のようにあります。「住吉現じ給へば/\。伊勢石清水賀茂春日。鹿島三島諏訪熱田。安芸の厳島の明神は。娑竭羅竜王の第三の姫宮にて。海上に浮んで海青楽を舞ひ給へば。八...「厳島神社」と「神功皇后」の「妹」(再度)

  • 「大国主」と薬師信仰(再度)

    これもまた以前の投稿の再アップです。(会報へ投稿したものではありません)「薬師」信仰は非常に新しいものであり、中国では「薬師」信仰も「薬師」仏も見られません。特に「日本列島」で盛んになったものです。「法隆寺」の「金堂」には「薬師如来」像が存在しますが、その「光背」には「用明天皇の時に病気になった天皇の治癒祈願のため」に「薬師如来像」が造られたとされ、この時点付近で「薬師信仰」が始まったように書かれていますが、この「仏像」も「光背」も実はかなり新しい、と考えられており、「光背」に書かれたことは「事実」ではないと考えられています。ただし、巷間言われるような「七世紀後半」の事であったとは考えられません。実際には「薬師寺」の創建とほぼ同時であって、「七世紀半ば」のことではなかったかと推察されます。しかし「光背」で...「大国主」と薬師信仰(再度)

  • 「天王寺」の「施薬院」について ―「出雲」との関連において ―(再度)

    これも以前アップしたもので、また会報に投稿も未採用となっているものです。「天王寺」の「施薬院」について―「出雲」との関連において―「要旨」「阿毎多利思北孤」は「天王寺」を創建すると共に「施薬院」など医療施設を建て、そこで彼の近親の女性達により「医薬」「医療」などを提供していたと推定できること。その「医」に関する知識と技術は「六世紀後半」以降に「出雲」から導入したと推定できること。これらについて述べます。一.「施薬院」と「勝鬘院」「聖武天皇」の皇后である「光明皇后」は「東大寺」に「四箇院」(「施薬院」「療病院」「悲田院」「敬田院」)を作り、貧しい人や病気の方達を献身的に介護したことが伝承として残っています。例えば「元亨釈書」によると「千人」の人の「垢」を取ることを祈願して、湯屋を建てそこで自ら多くの人たちの...「天王寺」の「施薬院」について―「出雲」との関連において―(再度)

  • 廣瀬大忌神と龍田風神(再度)

    さらに前回からの続きです廣瀬大忌神と龍田風神『推古紀』には四月(八日)と七月(十五日)にそれぞれ「灌仏会」と「盂蘭盆会」を始めたという記事があり、それ以来「毎年行なう」とその時点では決められたとされます。「(推古)十四年(六〇六年)夏四月乙酉朔壬辰。銅繍丈六佛像並造竟。是日也。丈六銅像坐於元興寺金堂。時佛像高於金堂戸。以不得納堂。於是。諸工人等議曰。破堂戸而納之。然鞍作鳥之秀工。以不壌戸得入堂。即日設斎。於是。會集人衆不可勝數。『自是年初毎寺。四月八日。七月十五日設齊。』」しかし、それ以降これらに関する記事はありませんでしたが、『孝徳紀』に「冠位改定」の記事の最後に「四月七月齋時」に(その「冠」を)着用すると書かれています。「六四七年」大化三年…是歳。制七色一十三階之冠一曰。…此冠者大會饗客。四月七月齋時...廣瀬大忌神と龍田風神(再度)

  • 「伊勢」と「倭姫」(再度)

    さらに前回からの続きです「伊勢」と「倭姫」「伊勢神宮」に強く関連しているとされる「倭姫」という人物は、「垂仁紀」では皇后である「日葉酢媛命」から生まれた第四子とされています。この「日葉酢媛命」は、その死に際して「垂仁天皇」が「出雲」の「野見宿禰」の提言を取り入れ、「殉葬」をやめて「埴輪」に変えさせたというエピソードがある人物であり、これが「近畿」の実態とは整合しないというのは有名な話であり、いわゆる『書紀』不信論の代表とされています。「垂仁卅二年秋七月甲戌朔己卯条」「皇后日葉酢媛命一云。日葉酢根命也。薨。臨葬有日焉。天皇詔群卿曰。從死之道。前知不可。今此行之葬奈之爲何。於是。野見宿禰進曰。夫君王陵墓。埋立生人。是不良也。豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。則遣使者。喚上出雲國之土部壹佰人。自領土部等。取埴以...「伊勢」と「倭姫」(再度)

  • 「伊勢」と「神風」(再度)

    前回からの続きです「伊勢」と「神風」「難波副都」の時代(白雉年間)に(特に東国に)「神社」が創建されている例が多く確認されています。たとえば、茨城県、福島県、埼玉県、千葉県、愛知県、東京都、富山県、福井県、長野県等々の神社の由来や縁起を記した文書にこの時代の創建が書かれている例が散見されます。このように「難波朝」の「白雉」年間の創建と伝える「神社」「仏閣」が多数に上るわけですが、その「神社」の「祭神」とされているものを見ると「保食神」あるいは「宇迦之御魂神」つまり「稲荷大神」としている場合が相当数あります。「保食神」と「宇迦之御魂神」は『古事記』に出てくるか『書紀』に出てくるかの違いであり、ほぼ同一神格と考えられます。「古田史学の会」のホームページ資料による「白雉年号」を記す社伝などを有する神社の中で、①...「伊勢」と「神風」(再度)

  • 「伊勢王」とは(2)(再度)

    前の投稿で「伊勢王」に関する考察を行いましたが、改めて考えてみます。『孝徳紀』によると「白雉改元」儀式の際に「執輿後頭置於御座之前」、つまり、「白雉」が入った籠が乗った御輿を担いで「天皇」と「皇太子」の前に置く、と言う重要な役どころで「伊勢王」という人物が登場します。(以下白雉献上の儀式)「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」輿は担ぐ際には左右対称な人数が担がなければ安定しないわけ...「伊勢王」とは(2)(再度)

  • 「伊勢王」とは(再度)

    続いて「伊勢」に関する検討です。「伊勢王」とは『書紀』には「伊勢王」という人物が出てきます。彼についてはその出自が明らかではなく、さらに『書紀』の記述に明白な矛盾があるのが判ります。以下「伊勢王」に関する記事を『書紀』の出現順に並べてみます。「白雉元年(六五〇年)…二月庚午朔…甲寅。朝庭隊仗如元會儀。左右大臣。百官人等。爲四列於紫門外。以粟田臣飯中等四人使執雉輿。而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋。其弟塞城忠勝。高麗侍醫毛治。新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂。猪名公高見。三輪君甕穗。紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時左右大臣就執輿前頭。『伊勢王』。三國公麻呂。倉臣小屎。執輿後頭置於御座之前。」「(斉明)七年(六六一年)…六月。伊勢王薨。」「(天智)七年(六六八年)…六月。伊勢王與其弟王接日而薨。...「伊勢王」とは(再度)

  • 「弥勒仏」と太子像(再度)

    さらに前回からの続きです「弥勒仏」と太子像「野中寺」の「弥勒菩薩像」について考えると、この台座銘には確かに「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時請願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也」とあり、この「知識」達がこの「像」を「弥勒」であると認識していたと思われるわけですが、これに関しては、初期「弥勒仏」が、本来は「太子像」であり「釈迦」の出家前の姿を写したものとされていることが関係しているのではないかと推察されます。つまり「弥勒」といえば「半伽思惟像」というわけですが、この「半伽思惟像」というものは本来「太子」時代の「釈迦」の姿を写したものであり、人々を救済する方法について思索を巡らせ悩んでいる姿を現す姿勢であったとされます。「弥勒」信仰は北朝で早くに興ったも...「弥勒仏」と太子像(再度)

  • 「弥勒信仰」について

    さらに前回からの続きです「弥勒信仰」について「天智」の「無名指切断」のエピソードについては、その多くが「弥勒」との関連で語られていることは注意を要します。「弥勒信仰」は明らかに「後代的」であり、「六世紀末」から「七世紀初め」という時期には「倭国内」にはほとんど浸透していなかったと考えられ、それは「遣唐使」として派遣された「僧」が「経義」を学んで帰国した後に隆盛したものと考えられます。特に「法相宗」では「弥勒」が主尊であり、三蔵法師「玄奘」が信仰していたものが「弥勒」であったとされ、彼に師事した「道昭」「智通」「智達」等の帰国後「弥勒信仰」が起きたものと考えられます。その「道昭」の帰国年次としては「六六一年」という説が有力です。このことから、一見この説話の時代もそのような「弥勒信仰」の高揚した時期と考えられ...「弥勒信仰」について

  • 近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

    さらに前回からの続きです近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-「桓武」「嵯峨」両帝の時代に「崇福寺」に関する「勅」が出され、そこでは「先帝」が(「崇福寺」を)創建したと言うことが語られています。「日本後紀卷十一逸文(『類聚國史』一八〇諸寺・『日本紀略』)」「延暦二十二年(八〇三)十月丙午【廿九】丙午。制。崇福寺者、『先帝』之所建也。宜令梵釋寺別當大法師常騰、兼加検校。」「日本後紀卷廿七逸文(『日本紀略』)」「弘仁十年(八一九)九月乙酉【十】》乙酉。勅。崇福寺者、『先帝』所建、禪侶之窟也。今聞。頃年之間、濫吹者多。云々。宜加沙汰、勿汚禪庭、所住之僧、不過廿人。但有死闕、言官乃捕之。」本来「先帝」とはその字義通り「先代」の「帝」を指す言葉であったものです。例えば『聖武紀』には「文武」を「先帝」と称する例があ...近江崇福寺について(5)-「先帝」とは-(再度)

  • 「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

    さらに前回からの続きです近江崇福寺について(4)-菩提遷那について-このように「行基」が「崇福寺」の創建に関わっているとみるのは「菩提遷那」(「婆羅門僧正」)という人物との関連からも推定できます。この人物は「遣唐使」であった「多治比広成」「学問僧理鏡」「中臣名代」らの要請により「天平六年」(七三六年)に「唐」より来日した「インド人僧」であり、彼が来日した際には「行基」が出迎えをするなど歓迎を受けています。そして彼は「東大寺」の大仏開眼の際には「導師」として「大仏の目に墨を入れる」という大任を果たしており、「聖武天皇」以下王権内部から強力な支持を受けていた事が解ります。その理由としてはやや不明な点はありますが、「大仏」つまり「毘盧舍那佛」そのものが「華厳経」に関連しているものであり、「菩提遷那」はその「華厳...「近江崇福寺について」(4)-菩提遷那について-(再度)

  • 「近江崇福寺について」(2)(再度)

    さらに前回からの続きです「近江崇福寺について」(2)「天智」が左手無名指を切り落としたという伝承についてすでに述べましたが、それらを記した各種史料には「天智」が創建したとされる「崇福寺」について、その創建が「天智七年」あるいは「戊辰」の年と記され、これは通常「六六八年」の事と理解されています。しかし、それは以下の記事等から疑問と考えられます。(『日本帝皇年代記(上)』より)「戊辰(白鳳)八」「行基並誕生、姓高志氏、泉州大鳥郡人、百済国王後胤也、(改行)志賀郡建福寺、建百済寺安丈六釈迦像」(二行書きになっています)この『日本帝皇年代記』の特徴として、「寺院」の建立創建記事がある場合は、必ずその「主体」が書かれています。これに従えば上の「(崇)福寺」と「百済寺」の主体は「行基」と判断せざるを得ません。そうであ...「近江崇福寺について」(2)(再度)

  • 「近江崇福寺について」(1)(再度)

    さらに前回からの続きです「近江崇福寺について」(1)『二中歴』によれば「白鳳年間」(六六一年から六八四年)に「観世音寺」は創建されたことになっています。また『日本帝皇年代記』によれば「庚午年」(六七〇年)の創建とされています。しかし『続日本紀』によれば「七〇九年」になって「元明天皇」の「詔」が出ており、それによれば「『観世音寺』は『天智天皇』の誓願により『斉明天皇』の菩提を弔うために建てられることとなったが進捗しておらずまだできていない」とされています。つまり「七〇九年」の時点で「未完成」というわけです。(以下『続日本紀』に書かれた「元明天皇の詔」)「七〇九年」「慶雲六年」「二月戊子朔。詔曰。筑紫觀世音寺淡海大津宮御宇天皇奉爲後岡本宮御宇天皇誓願所基也。雖累年代迄今未了。宜大宰商量充駈使丁五十許人。及逐閑...「近江崇福寺について」(1)(再度)

  • 「第四指」と「魔法」(再度)

    前回からの続きです「第四指」と「魔法」すでに述べたように説話の中では「天智」は「崇福寺」建立に際して、「寶鐸」や「白石」が掘り出されたこと、またそれが「夜光る」ということを「奇瑞」であるとして、喜んでおり、ためらわずその「左手無名指」を「燃やし」また「切り落として」、供えています。これはやはり、この「第四指」に「供える」にふさわしい「霊力」があるとその当時考えられていたこと、少なくとも「天智」自身がそう考えていたことを示していると思われます。確かに『法華経』の「薬王菩薩本事品」には「手指」を燃やして「供養佛塔」することを勧めていますが、その「指」の中でも「左手無名指」を選んでいるというところに「仏教」以前の世界の雰囲気が感じられます。つまりこの行為は仏教の教義に則ったものというより、「仏教以前」に行われて...「第四指」と「魔法」(再度)

  • 「天智」と「左手無名指」(再度)

    今回もかなり以前に「投稿」していたものを再度アップします。どうしても以前のものが「埋もれてしまう」という問題があり、「検索」窓はあるものの自然な流れで目に入るというものでもないため、時折リマインドする必要があるのかなと思って改めて投稿しているものの一環です。「天智」と「左手無名指」『今昔物語集』など複数の資料に「天智」が「左手無名指」を切り落としたという記述があります。「『今昔物語』巻十一天智天皇、建志賀寺語第二十九」「…其時ニ、天皇□(底本の破損による欠字)□召テ宣(のたま)ハク、翁、然々(しかしか)」ナム云テ失ヌル。定(さだめ)テ知ヌ、此ノ所ハ止事無(やむごとな)キ霊所也ケリ。此ニ寺ヲ可建(たつべ)シト宣(のりたまひ)テ、宮ニ返ラセ給ヒヌ。其明ル年ノ正月ニ、始メテ大ナル寺ヲ被起(たてら)レテ、丈六(じ...「天智」と「左手無名指」(再度)

  • 「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」

    「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」すでに述べたように「岩船」によれば「百済」「高麗」「唐」から高価な品々を「購入」して倭国に持ってきたようですが、この際相手側に支払った代価についてはどのようなものだったでしょうか。「通常」はこれを「絹」や「玉石」類など「倭国」の名産と言えるものを提供したものと推測するわけですが、「貨幣」の代わりをするにはこれらの物品は「場所」を取る、「価格」が変動するなどの欠点があります。まして、それが価値としてどの程度ののものなのか「定量化」がされていたものかは不明ですし、また「船」に積んでいくことを考慮すると「荷物」はかさばらない方がいいわけであり、「銭貨」であればコンパクトになるという利点もあり、この時点で「唐」などから「財宝」を入手するのに「貨幣」を使用したとしても不思議ではありませ...「利歌彌多仏利」と「無文銀銭」

  • 謡曲「岩船」と「利歌彌多仏利」

    これもかなり以前に書いたものですが、これもまた若干のアップデートをしたものを投稿します。「謡曲」「岩船」と「利歌彌多仏利」「謡曲」(能)に「岩船」という作品があります。この作品は「めでたさ」を詠ったものであり、通常の評価としては「ストーリー」らしいものもなく、「前半」と「後半」のつながりもやや唐突であり、作品としての完成度はそれほど高くないが、正月など「嘉祥」としては詠われるもののようです。この作品の舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、話の展開としては「天の探女(さぐめ)」が「如意寶珠」を「君」に捧げる為にやってきます。その後「龍神」が「宝船」を守護して「難波」の岸に乗り付けるというものです。以下「岩船」の主要な部分を抜き出しました。「(中略)不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。...謡曲「岩船」と「利歌彌多仏利」

  • 「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

    この記事はかなり以前に書いたものですが、内容を若干アップデートして再度投稿します。「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について『書紀』の「神代紀」には「山幸彦」と「海幸彦」の「弓矢」と「釣り針」の交換に関する話に引き続き「山幸彦」が「海神」の「宮」に行って歓待され、その後帰還する際に「潮の満ち干」を自在にコントロールすることが出来る「瓊」を、「海神」(の娘)からもらう場面が描かれています。(本文及び「一書の二」及び「三」)以下『書紀』当該部分を示します。「…已而彦火火出見尊因娶海神女豐玉姫。仍留住海宮。已經三年。彼處雖復安樂。猶有憶郷之情。故時復太息。豐玉姫聞之謂其父曰。天孫悽然數歎。蓋懷土之憂乎。海神乃延彦火火出見尊從容語曰。天孫若欲還郷者。吾當奉送。便授所得釣鈎。因誨之曰。以此鈎與汝兄時。則陰呼此鈎曰貧鈎...「潮満瓊及潮干瓊」と「如意宝珠」について

  • 『倭人伝』(21)

    さらに「戸」と「家」から「軍事」について検討します。「戸」と「家」について(3)以前「古田氏」は「一大率」に対する理解について、「一大国」の「軍」を示すものという見解が示されていました。その当否を考える上で重要であると考えられるのは、「一大国」が「家」表記であることです。『倭人伝』の中では「不彌国」と共に「家」表記がされており、この意味を考える必要があると思われます。「倭王権」による民衆の支配と把握については、各国ごとにやや強度が異なるものであったという可能性はありますが、少なくともこの「邪馬壹国」への「主線行程」とも云える国々についてはそのような差はなかったのではないかと思われます。なぜならこれらには「官」が派遣されているからです。「派遣」された「官」の第一の仕事は「戸籍」の作成ではなかったかと思われま...『倭人伝』(21)

  • 『倭人伝』(20)

    引き続き「戸と家」について考察します。「戸」と「家」(2)「韓伝」においては「総数」が「戸」で示されているにもかかわらず、その内訳として「家」で表されています。しかも、その「戸数」と「家数」の総数が合いません。この「韓伝」の数字についてはいろいろ議論されていますが、よく言われるのは「戸」と「家」の「換算」が可能というような理解があることです。そこでそれが事実か実際に計算してみます。(以下「魏志東夷伝」から)「韓伝」「(馬韓)…凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸。」ここでは、「凡五十餘國」とされており、その総戸数として「十萬餘戸」とされています。「余」というのは文字通り「余り」であり、「五十餘」という場合は「五十一-五十九」の範囲に入ります。同様に「十萬餘」という場合は「十万千から十万九千」を云...『倭人伝』(20)

  • 「倭人伝』シリーズ(19)

    ここでは『倭人伝』に出てくる「戸」と「家」について分析します。「戸」と「家」(1)「古田氏」は『…「戸」というのは、その国に属して税を取る単位あるいは軍事力を徴収する単位で、国家支配制度の下部単位」とされています。そして「…つまりそこに倭人だけでなく、韓人がいたり、楽浪人がいたり、と多種族がかなりの分量を占めている場合は、そうした人々までふくめて「戸」とはいわない。その場合は「家」という。』(※)と理解されているようです。また「魏志」の中では「戸」と「家」とが両方見えており、「戸」と「家」の意味が異なるとすると「なぜ」倭人伝の中には「同居」しているのか、その意味の違いが問題になります。『倭人伝』の中では「對馬國」では「戸」と書かれ、次の「一大国」では「家」と書かれています。「末盧國」「伊都國」「奴國」と「...「倭人伝』シリーズ(19)

  • 『倭人伝』シリーズ(17)

    「卑弥呼」の年齢について分析します。ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年...『倭人伝』シリーズ(17)

  • 『倭人伝』シリーズ(16)

    「卑弥呼」についての分析を続けます。既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われ...『倭人伝』シリーズ(16)

  • 『魏志倭人伝』シリーズ(15)

    前回に引き続き「卑弥呼」本人について分析します。後でも述べますが、この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては「社会不安」があったとみられ、それはその時点まではそれほどのものではなかったものが急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものであり、そのため新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとなったものと思われます。その「社会不安」については後ほど触れますが、「祭祀」が重要な要素を占めることとなった時点で「卑弥呼」でなければならないとなったものですが、その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人伝』の表現に現れています。このように古代において「霊的能力」の高...『魏志倭人伝』シリーズ(15)

  • 『倭人伝』シリーズ(16)

    さらにさらに「卑弥呼」本人についての分析です。『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」この「歴年」については『三国志』中に多数の使用例がありますが、いずれも複数年に亘ることを示す表現ではあるものの具体的な年数はその後に示すのが普通であり、それがない場合はせいぜい数年間を示す用語と思われます。具体的な年数を示す場合を以下に示します。「遷光祿勳。帝愈增崇宮殿,彫飾觀閣,鑿太行之石英,采穀城之文石,起景陽山於芳林之園,建昭陽殿於太極之北,鑄作?龍鳳皇奇偉之獸,飾金?、陵雲臺、陵霄闕。百役繁興,作者萬數,公卿以下至于學生,莫不展力,帝乃躬自掘土以率之。而遼東...『倭人伝』シリーズ(16)

  • 『魏志倭人伝』シリーズ(14)

    『魏志倭人伝』シリーズの続きです。ここでは「卑弥呼」本人について分析します。弥生時代の祭器と思われる「銅鐸」は墓域(古墳など)には決して埋納されず、出土する場合は単体であり、遺骨などと共伴することはありません。そのことはいわゆる葬送儀礼には用いられないものであったことを示していると思われます。これはいわゆる「ハレ」の儀式だけに使用されたものと考えられる訳です。それに対し銅鏡は弥生時代の王墓である「平原」や「須玖岡本」などの遺跡から出土しますし、後の「古墳時代」にも「三角縁神獣鏡」などは「古墳」から出土します。しかもそれらは「石室」や「棺」の中にさえ入れられていることがあります。逆に単独で埋納されている例が見られません。また「漢鏡」は「弥生中期」ぐらいまでの「甕棺」などから出土します。しかも当初の鏡は全て「...『魏志倭人伝』シリーズ(14)

  • JAXAの「SLIM」による月面への着陸のこと

    JAXAの月着陸船「SLIM」がなんとか月面に着陸したようです。もともと半分回転しながらランディングする予定であったようですが、逆噴射用のスラスターが脱落してしまって速度が落ちなかったようで結構きつい着陸となったようです。まあ激突し破壊してしまった例も過去に(最近も)あったようですから、その轍を踏まずに済んだことでまあ良しとするべきでしょうか。小惑星へのランディングも超困難ですが、月ほどの重力があると推力がかなりなければ激突してしまうのでそこの制御と信頼性が重要となるようです。ちなみに今回着陸した場所は「神酒の海」の「近く」とされていて、てっきり「海」地域かと思っていたらその至近にある「キルリス」クレーターの内部に降りたらしく、これは「神酒の海」というくくりでは誤解があるでしょう。場所の写真を以下に示しま...JAXAの「SLIM」による月面への着陸のこと

  • 『倭人伝』シリーズ(13)

    「春耕秋収」と「出挙」(貸稲)『倭人伝』によれば「邪馬壹国」には「邸閣」があるとされ、「租賦」が収められているとされます。「三国志東夷伝」より『倭人伝』「…收租賦、有邸閣。…」ここでいう「租賦」とはいわゆる「税」の主たる部分を構成するものですが、その内容としては一般に「主食」となる穀物を指す場合が多く(それは緊急食料になる場合を想定するが為もありますが)、「米」(稲)ないし「粟」であることがほとんどであり、「倭」においてもこれらの主要穀物を対象として「租賦」が設定され「邸閣」に運搬し収めていたことを示すものです。この『倭人伝』の記事の中では他に見られるような「刺史の如く」のように「似ている」という意義の表現ではなく、「租賦」と言い「邸閣」と言い切っていることが重要でしょう。これは「陳寿」や「魏」からの使者...『倭人伝』シリーズ(13)

  • 『倭人伝』シリーズ(12)

    「卑弥呼」の年齢ところで、「卑弥呼」は『倭人伝』では「年已長大」と有り、これは古田氏が四十歳程度の年令を示す例を提示して以来「四十歳代」を指す用語という理解が一般的になりましたが、それがどの時点のことであるかが問題となるでしょう。「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。事鬼道、能惑衆。年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。自爲王以來、少有見者、以婢千人自侍。唯有男子一人給飮食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。」この『倭人伝』の記述を見ると、「本亦以男子爲王」という表現の最初の「男王」が誰なのかが問題となるでしょう。これを『後漢書』にいう「倭国王」とされる「帥升」とみて、彼を含め「七~八十年」と表記しているとした場合、「歴年」を数年間として考えると「卑...『倭人伝』シリーズ(12)

  • 『倭人伝』シリーズ(11)

    「卑弥呼」の身体能力この時点で「卑弥呼」の鬼道が熱烈な支持を得た背景としては「社会不安」があったとみられ、それはその時点まではそれほどのものではなかったものが急激に社会の中で大きなウェイトを占めることとなったものであり、そのため新たに立った「男王」を民衆は支持しないということとなったものと思われます。その「社会不安」については後ほど触れますが、「祭祀」が重要な要素を占めることとなった時点で「卑弥呼」でなければならないとなったものですが、その理由はいくつかあると思われますが、当然ですがその時点で彼女の「霊的能力」が突出して優れていたと大衆が認めていたからと思われ、それは「能く衆を惑わす」という『倭人他』の表現に表れています。このように古代において「霊的能力」の高い存在は、現実世界ではえてして「役に立たない」...『倭人伝』シリーズ(11)

  • 『倭人伝』シリーズ(11)

    「大疫」と「倭王権」既にみたように「後漢」の末期には天変地異の他、「大疫」(疫癘)と称される強い伝染病の蔓延があった可能性が高く、そのため一般の人々(特に農民)にとっては彼等を取り巻く環境が大きく悪化したものと思われるわけですが、その時「後漢王朝」とそれを支えていた人達は自己の権益を優先したため、事態の悪化を招いたものです。「王権」を支えていた将軍達は自家の領域における権益の確保を優先したため「王権」を支える意識が低下したものであり、それは即座に「民衆」に対する視点の欠落となったため、「反乱」を起こすものや、他国領域へ「難民」となる人々が多数に上ったものです。「黄巾の乱」も彼等に対する救済が遂に「太平道」しかなくなったと思われたからこそ、「後漢王朝」に対して打倒の意識が集まったものと思われます。そのような...『倭人伝』シリーズ(11)

  • 『倭人伝』シリーズ(10)

    「後漢滅亡と邪馬壹国」『魏志倭人伝』によれば「倭」における政治状況について「住七八十年」とあり、その後「歴年」という表現が続きます。「其國本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼。…」この「歴年」については『三国志』中に多数の使用例がありますが、いずれも複数年に亘ることを示す表現ではあるものの具体的な年数はその後に示すのが普通であり、それがない場合はせいぜい数年間を示す用語と思われます。具体的な年数を示す場合を以下に示します。「遷光祿勳。帝愈增崇宮殿,彫飾觀閣,鑿太行之石英,采穀城之文石,起景陽山於芳林之園,建昭陽殿於太極之北,鑄作?龍鳳皇奇偉之獸,飾金?、陵雲臺、陵霄闕。百役繁興,作者萬數,公卿以下至于學生,莫不展力,帝乃躬自掘土以率之。而遼東不朝。悼皇后崩。天作淫雨...『倭人伝』シリーズ(10)

  • 『倭人伝』シリーズ(9)

    「持衰」と「瀚海」について『倭人伝』には「持衰」という特徴ある風習について書かれています。「魏志東夷伝倭人伝」「…其行來渡海詣中國、恆使一人、不梳頭、不去〓蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰。若行者吉善、共顧其『生口』財物。若有疾病、遭暴害、便欲殺之。謂其持衰不謹。」ここには「生口」が関連して書かれています。この「生口」については、以前から解釈が複数あり、この船の中に「皇帝」に献上すべき「生口」がいるという前提で、それを指すというような解釈がありましたが、それは大きな読み違えと思われます。生口は確かに「持参」することもありましたが、それも必ずというわけでもなかったわけです。しかしこの文章からは「いつもそうしている」というニュアンスを感じます。つまりここでいう「生口」は、「皇帝」に献上すべく...『倭人伝』シリーズ(9)

  • 『倭人伝』シリーズ(8)

    「投馬国」の位置として「邪馬壹国」の北にあるという主張があります。その根拠としては、「邪馬壹国」の前に「南至る」と有り、それが「郡治」からの方向であるとして、その構文と同一である「投馬国」も同様であるというものです。しかしそもそも『倭人伝』の冒頭は「倭人在帯方東南大海之中」という大方向指示があり、そこには「東南」とありますから「南」が「郡治」からの方向とすると食い違ってしまいます。あくまでも「南」が「郡治」からの方向であるとすると「東南」は「邪馬壹国」の方向ではないこととなりますが、「常識的に考えて」それはいかがなものと思われます。「倭人」の代表として「邪馬壹国」の「卑弥呼」を「倭王」としたからには、「倭人」のいる方向としてはやはり「邪馬壹国」の方向を示して当然です。そうであれば「南至」という「邪馬壹国」...『倭人伝』シリーズ(8)

  • 『倭人伝』シリーズ(7)

    すでに述べましたが「一大率」が「魏使」の案内役であったこと、「魏使」(あるいは「郡使」)が「卑弥呼」と面会するなどの際に全てを「一大率」がサポートしていたであろうことを推定しています。さらにこれに加え「一大率」が「常治」していたという「伊都国」の重要性を指摘することができます。「伊都国」は「郡使往來常所駐」という書き方から見ていわば「ベースキャンプ」とでもいうべき位置にあったと思われ、ここは列島内各国へと移動・往来する際の拠点となっていたと考えられますが、それを示すのが以下の記事であり、この記事はいわば「道路」の「方向・距離表示板」の如く「行程」記事が書かれていると考えます。つまり以下は全て「伊都国」からの方向と距離を示していると考えるものです。(但し「邪馬壹国」の「水行十日陸行一月」は「郡より倭に至る」...『倭人伝』シリーズ(7)

  • 『倭人伝』シリーズ(6)

    「伊都国」と「一大率」の拠点としての博多湾岸について考察したわけですが、それは必然的に「邪馬壹国」の領域としてやや南方に下がった位置を措定することとなります。古田氏をはじめとする多元史観論者の多くは「邪馬壹国」の領域として「博多湾」に面した「筑前中域」と称する領域を措定していますから、上に展開した私見とは異なります。古田氏は「卑弥呼」が「魏」の皇帝から下賜された宝物類に良く似たもの(構成)が「須久・岡本遺跡」の遺跡群から出土するとしてこれが「卑弥呼」の「墓」と理解しているようですが二つの点で疑問があります。一つは「薄葬令」です。「魏」の「曹操」とその息子の「曹丕」は共に「薄葬」を指示し、墓には華美な宝玉類を入れないようにと遺言しています。「卑弥呼」が(あるいは「倭王権」が)これを守ったなら墓からはそのよう...『倭人伝』シリーズ(6)

  • 『倭人伝』シリーズ(5)

    『倭人伝』の記述によれば「郡使」あるいは「皇帝」からの「勅使」は「いつも」「對馬国」を経て「一大国(壱岐)」~「末廬国」へと行くコースを使っていたと理解されます。「始度一海、千餘里至對馬國。…又南渡一海千餘里、名曰瀚海。至一大國。…又渡一海、千餘里至末盧國。…東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。…自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。」これによれば「一大国」を経て「郡使の往来」に「常所駐」とされる「伊都国」へという行程には途中「末廬国」を経由するというコースが常用されていたものと考えられ、いいかえればこのような往来...『倭人伝』シリーズ(5)

  • 『魏志倭人伝』シリーズ(4)

    『魏志韓伝』には以下のような記述があります。「…辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。有巳柢國不斯國弁辰彌離彌凍國弁辰接塗國勤耆國難彌離弥凍國弁辰古資彌弥凍國弁辰古淳是國冉奚國弁辰半路國弁楽奴國軍彌國弁軍彌國弁辰彌烏邪馬國如湛國弁辰甘路國戸路國州鮮國馬延國『弁辰狗邪國』弁辰走漕馬國弁辰安邪國馬延國『弁辰涜盧國』斯盧國優由國弁辰韓合二十四國大國四五千家小國六七百家惣四五萬戸其十二國属辰王辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立為王。土地肥美冝種五穀及稲暁蠶桑作?布乗駕牛馬。嫁...『魏志倭人伝』シリーズ(4)

  • 『倭人伝』シリーズ(2)

    前回から続く『倭人伝』では「半島」と「対馬」の間ではなく「対馬」と「壱岐」の間に「瀚海」という名称が書かれています。そのことは「対馬」と「半島」(狗邪韓国)との間に「国境」があることが推定でき、またこの「名称」(漢語)は「倭人側」の命名とみることができるでしょう。つまりここだけに特に名称がついている理由として「対馬」までが「邪馬壹国」率いる「倭王権」の範囲とみられるからです。もし「半島」にも「倭王権」の統治が及んでいるのなら「半島」と「対馬」間の「朝鮮水道」にも名前がついていて当然と思われます。「対馬」に至って初めて「倭王権」の統治範囲に入ったと考えれば(逆に言うと「対馬」までが倭王権の統治範囲であるとすれば)、その向こう側の海域には「倭王権」による命名がないのは当然といえます。「対馬」から「壱岐」までの...『倭人伝』シリーズ(2)

  • 『倭人伝』シリーズ(3)

    さらに前回から続く『三國志』の『高句麗伝』をみると以下のことが書かれています。「…又有小水貊。句麗作國、依大水而居。『西安平縣北有小水。南流入海。』句麗別種依小水作國。因名之爲小水貊。…」(『高句麗伝』より)ここには「西安平縣」の「北」に「小水」があると書かれています。この「小水」は「西安平縣」の中にあるのでしょうか。そうではないことは同じく『高句麗伝』の中の次の記事から判ります。「漢光武帝八年、高句麗王遣使朝貢。始見稱王。…宮死子伯固立。順、桓之間、復犯遼東、寇新安、居郷。又攻『西安平』、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」(『高句麗伝』より)また『漢書』をみても「西安平縣」は確かに「遼東郡」に属しています。「遼東郡,秦置。屬幽州。?五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平,有牧師官。...『倭人伝』シリーズ(3)

  • 『倭人伝』シリーズ(1)

    以下は以前投稿したものをやや改変したものです。『魏志倭人伝』に現れる「国名」と「官名」については、「邪馬壹国」率いる体制の中での「国名」であり、「官名」であると考えられます。つまり、「倭王」たる女王(卑弥呼)がいて、彼女の元に一種の「官僚体制」が存在しており、その体制の中で各国に「官」が派遣、ないし任命されていたものと考えられます。このような権力集中体制は「東夷伝」による限り「倭」だけであったと思料され、先進的な国家体制が構築されていたと見られます。このことはこの時の「邪馬壹国」とその統治範囲の「諸国」が「部族連合」であるというような評価が妥当しないことを示します。部族連合ならば「中央」から「官」が派遣されていることはあり得ないといえるからです。その点から考えると、この『魏志倭人伝』の行程を記す記述の中に...『倭人伝』シリーズ(1)

  • 「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―

    リバイバルシリーズ第3弾です。「倭」と「倭国」―「金印」の読み方との関連で―「要旨」『後漢書』に出てくる「委奴国王」はその授けられた金印には「倭国王」とも「倭王」ともされていないこと。「帥升」は「倭国王」と呼称されているものの「金印」を授与されていないこと。そのことからこの『後漢書』の「倭国王」という称号には疑いがあること。「卑弥呼」も「魏」の皇帝からは「倭国王」ではなく「倭王」という称号を授与されていること。それは「倭地」内に「狗奴国」という反対勢力があったためと思われること。「倭」は一種の「地方名」「地域名」に過ぎないものであり、その時点では「国家」としての体裁を整えていたとは思われないこと。『後漢書』の性格から「倭国」「倭国王」という呼称は「五世紀」の実情を古代に延長したものであると考えられること。...「倭」と「倭国」―金印の読み方との関連で―

  • 「鞠智城」について ―「北緯三十三度」の地とは(再度)

    リバイバルシリーズの第2弾です。(第1弾は「遣隋使」関連のもの)以下の論はかなり以前に投稿したものですが、このままでは採用されずその後前半部分を割愛した形で再編集したものが「古田史学会報一五五号」に採用・掲載されています。「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは「要旨」『延喜式』に残る「日の出・日の入り時刻」データから「平安京」以外の場所である「北緯三十三度」の地点が「都」であった時代があると推察され、その場所としては「鞠智城」付近が想定されこと。その「天文観測データ」の収集開始時期は「倭の五王」の最後の王である「武」の時代付近ではなかったかと考えられること。そのことなどから「肥後」が「倭国王権」の中心であった時代があったと見られること及び「難波京」のプロトタイプとして「鞠智城」が存在していたと推察さ...「鞠智城」について―「北緯三十三度」の地とは(再度)

  • 隋皇帝からの「訓令」とは-2

    「隋」の高祖「文帝」は「皇帝」に即位した後すぐにそれまで抑圧されていた仏教を解放し、仏教に依拠して統治の体制を造り上げたとされており、『隋書』の中では「菩薩天子」と称され、また「重興仏法」つまり一度「廃仏」の憂き目にあった仏教を再度盛んにした人物として書かれているわけです。彼はそれまでの「北周」による宗教弾圧から回復させたわけですが、「学校」における教育の中身が「儒教」が中心であったことから文帝はその「学校」を縮小したことが知られています。それは仏教重視のあまりであった事がその理由の一つであったものと思われ、そのように仏教に傾倒し、仏教を国教の地位にまで昇らせた彼が「夷蛮」の国において「未開」な土着信仰とそれを元にした政治体制の中にいると考えられた「倭国王」に対して、やはり仏教(特に「南朝」からもたらされ...隋皇帝からの「訓令」とは-2

  • 「釆女」と「兵衛」-2

    「釆女」と「兵衛」について引き続き検討します。「裴世清」の来倭記事を『書紀』に見ると以下のような流れとなっています。「(六〇八年)十六年夏四月。小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世清。下客十二人。從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成。召大唐客裴世清等。爲唐客更造新舘於難波高麗舘之上。六月壬寅朔丙辰。客等泊于難波津。是日。以餝船卅艘迎客等于江口。安置新舘。於是。以中臣宮地連摩呂。大河内直糠手船史王平爲掌客。爰妹子臣奏之曰。臣參還之時。唐帝以書授臣。然經過百濟國之日。百濟人探以掠取。是以不得上。於是羣臣議之曰。夫使人雖死之不失旨。是使矣。何怠之失大國之書哉。則坐流刑。時天皇勅之曰。妹子雖有失書之罪。輙不可罪。其大國客等聞之亦不良。乃赦之不坐也。秋八月辛丑朔癸卯。唐客入京。是日。遺餝騎七十五疋而...「釆女」と「兵衛」-2

  • 隋皇帝からの「訓令」について-1

    以前として再投稿の論となります。従来あまり重要視されていないと思われることに、「兄弟統治」と思われる政治体制を「遣隋使」が紹介したところ、「高祖」から「無義理」とされ「訓令」によりこれを「改めさせた」という一件(『隋書俀国伝』における「開皇二十年記事」)があります。「…使者言俀王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:此太無義理。於是『訓令』改之。」ここで言う「義理」については以下の『隋書』の使用例から帰納して、現在でいう「道理」にほぼ等しいものと思われます。「劉曠,不知何許人也。性謹厚,?以誠恕應物。開皇初,為平?令,單騎之官。人有諍訟者,輒丁寧曉以『義理』,不加繩劾,各自引咎而去。…」(「隋書/列傳第三十八/循吏/劉曠」)「元善,河南洛陽人也。…開皇初,拜?史侍郎,...隋皇帝からの「訓令」について-1

  • 采女と兵衛

    以下もまた以前投稿したものの再提出です。『隋書俀国伝』では後宮に「多数の女性がいる」とされます。「王妻號■彌,後宮有女六七百人。」これについては、これを「妃」や「妾」とする考え方もあるようですが、中国の例から考えてもさすがに多すぎると思われ、実際にはその多くが「釆女」であったと見るべきでしょう。この人数が「王妻」記事に続けて書かれている事からも、平安時代の「女御」「更衣」などと同様の職務を含むことが推定され、彼女たちについては「釆女」と見るのが相当と思われます。つまり「後宮」は平安時代などと同様に男王であるか否かに関わらず存在していたであろうと考えられますから、これら全てを「妃」などと考える必要はないと思われるわけです。またその数から考えて『隋書』の記事において全部で一二〇〇人いるとされる「伊尼翼」のおよ...采女と兵衛

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)

    以下前回からの続きとなります。「観世音寺」の鐘と「妙心寺」の鐘には「銘文」の有無のほか微妙な違いがあり、若干「観世音寺」の鐘のほうがその製造時期として先行すると見方もあり、その意味では明らかな「同時期」とは言えない可能性もありますが、それがどの程度の時間差を伴うものかは不明とされ、同一の「木型」を使用しているとすると大きな時間差(年次差)は想定するのは困難ではないかと思われます。(同一の「鋳物師」によるとする説(※1)もあるようです。)(現在「観世音寺」では頒布資料などで「六八一年」製作としているようですが、これはその根拠となる事実関係が不明であるため、確定したものとは言えないと思われます。)さらに、この「筑紫尼寺」については『続日本紀』の誤記とする説が支配的であり、その理由のひとつとして資料から明確に「...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも-4)

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3

    (以下さらに前回からの続き)ところでこの「壇林寺」は「皇后の御願である」という事からも推察できるように、「尼寺」であるとされます。『文徳実録』「嘉祥三年(八五〇)五月壬午五…后自明泡幻。篤信佛理。建一仁祠。名檀林寺。遣比丘尼持律者。入住寺家。仁明天皇助其功徳。施捨五百戸封。以充供養。…」ここで「比丘尼」を「持律者」として遣わしたとされており、これは明らかに「尼寺」として創建されたことを示します。(後には唐から招来した僧「義空」が常住するようになったとされますが、唐初は「尼寺」であったものと思われ、「義空」が唐に帰国した後も「尼寺」として存在し続けたらしいことが推察されます。)そうであれば「鐘」がもたらされることとなった元の寺院も同様に「尼寺」であったという可能性が考えられるでしょう。その意味では『続日本紀...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-3

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2

    (以下前回からの続き)ところで「徒然草」には「天王寺」の楽について書かれた段があり、その末尾に「浄金剛院」の鐘について述べられ、それが「黄鐘調」の音階であることが述べられています。(徒然草第二百二十段)「何事も邊土は賤しく,かたくなゝれども,天王寺の舞樂のみ,都に恥ずといへば,天王寺の伶人の申侍りしは,當寺の樂はよく圖をしらべあはせて,ものゝ音のめでたくとゝのほり侍る事,外よりもすぐれたり。故は,太子の御時の圖今に侍るをはかせとす。いはゆる六時堂の前の鐘なり。其聲黄鐘調のもなかなり。寒暑に随ひてあがりさがり有べき故に,二月涅槃會より聖靈會までの中間を指南とす。秘蔵の事也。此一調子をもちていつれの聲をもとゝのへ侍るなりと申き。凡鐘の聲は黄鐘調なるべし。是無常の調子,祇園精舎の無常院の聲なり。西園寺の鐘黄鐘調...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-2

  • 「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1

    下記の論はやや迂遠ではありますが、間接的に「遣隋使」による仏教奨励策の一環として「寺院」に必須の「鐘」が「隋皇帝」(文帝)から「下賜」されたという論の一部を形成しています。「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について鎌倉時代に「後深草院二条」という「後深草院」の「女房」であった人物が書き残した「とはずがたり」という随筆様の文学があります。その巻三の中に以下のような記述があります。「…れいの御しやくにめされてまいる一院御ひわ新院御ふえとう院こと大宮の院姫宮御こと春宮大夫ひわきんひらしやうのふえかね行ひちりき夜ふけゆくまゝに嵐の山の松風雲井にひゝくおとすごきにしやうこんかう院のかねこゝもとにきこゆるおりふし一院とふろうはをのつからとかやおほせいたされたりしによろつの事みなつきておもしろくあはれなるに…」ここでは天皇以...「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について(これもまた再再度かも)-1

  • 「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)

    以前投稿したものですが、これもまた「遣隋使」に関連する論となります。「七弦琴」―「帝王の琴」と倭国要旨「隋書俀国伝」中には「五弦琴」が確認でき、まだ倭国には「七弦琴」が渡来していないと考えられること、「源氏物語」には「七弦琴」が(当時廃れていたにもかかわらず)「帝王」の楽として琴(きん(きむ))が現れ、これが「七弦琴」と考えられること、「五行」に音階をつけた「納音」が「七弦琴」とともに渡来したと思われること、また「尺八」も同時に渡ったものと思われ、いずれも「隋皇帝」からの下賜によると思われ、仏教治国策の一環としての供与であったと思われること、以上について述べます。Ⅰ.「隋書」における「五弦琴」倭国の「琴」としては古墳その他に出土する「琴」と思われる遺物及び「琴」を演奏している状態を示していると考えられる「...「七弦琴」について(再再度ぐらいかな)

  • 「遣隋使」関連論考として

    以下も「遣隋使」論考の一端に位置するものです。「高麗大興王」とは誰か「趣旨」ここでは『推古紀』と『元興寺伽起』に登場する「高麗大興王」について検討し、それが「高麗王」の誰かを指すものとは考えにくいこと、他の「高麗王」に「大興王」のような称号を冠したものが見られないこと、「隋」の「高祖」(文帝)と「大興」という地名には特別な関係があること、「文帝」と「仏教」にも特別なつながりがあり、「倭国」において「仏像」を造る際に助成することは当時の情勢からもありうること、以上を述べるものです。Ⅰ.「高麗」の「大興王」とは『推古紀』と『元興寺縁起』の双方に「高麗」の「大興王」という人物が出てきます。それによれば彼は「仏像」を造るに際して「黄金三百両」ないし「三百二十両」を「助成」したとされています。「(推古)十三年(六〇...「遣隋使」関連論考として

  • 「訓令」と「薄葬令」について

    「前方後円墳」の築造停止と「薄葬令」「要旨」「六世紀末」に(特に西日本で)「前方後円墳」の築造が停止されたのは「王権」から「停止」に関する「詔」(命令)が出されたと考えられること。『孝徳紀』の「薄葬令」の内容分析から、これが「前方後円墳」の築造停止に関する「詔」であると考えられること。その内容から実際には「六世紀末」時点で出されたものと考えて整合すると思われること。それは「隋」の「文帝」から「訓令」されたことと関係していると思われること。等々を考察します。Ⅰ.「前方後円墳」の築造停止各地の墳墓の変遷についての研究から「前方後円墳」は「六世紀後半」という時期に「全国」で一斉にその築造が停止されるとされています。(註一)正確に言うと「西日本」全体としては「六世紀」の終わり、「東国」はやや遅れて「七世紀」の始め...「訓令」と「薄葬令」について

  • 別の論考として

    前回までと同趣旨ですが、別の論考を示します。「大業三年記事」の「隋帝」の正体―「大業起居注」の欠如と「重興仏法」という用語―「趣旨」『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次の信憑性に疑いがあること。その「大業年間」記事中の「倭国王」の言葉として表れる「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(文帝)に向けて使用されたものとしか考えられず、他の文言(「大国維新之化」「大隋禮義之国」等)も「隋代」特に「隋初」の「文帝」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当である...別の論考として

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)

    今回が表記シリーズの最後となります。「『遣隋使』はなかった」か?(六)「要旨」『隋書』の「開皇二十年」記事についてその内容が国交開始時点のものであると見られること。「隋代七部楽」の制定との関連から「隋初」に「遣隋使」が「倭国」の国楽を「隋」に献納したらしいこと。「伊吉博徳」の記録に「洛陽」を「東京」と称している部分があることから、大業年間の「遣隋使」が本当にあったか不審であること。記事の整合性から考えて、『隋書』と『書紀』双方に記事移動があったらしいことが推定できること。以上を検討します。Ⅰ.「開皇二十年」記事について先に行った「大業三年記事」についての疑いはそのまま「開皇二十年記事」にもつながるものと思われます。この「開皇二十年」記事を正視すると、「国交開始」記事であると推測できます。(確かにそれ以前に...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-6)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)

    以下も前回からの続きとなります。「『遣隋使』はなかった」か?(五)―「重興仏法」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは『隋書』の「大業三年記事」にある「重興仏法」という用語に注目し、それがまさに「隋」の「高祖」(高祖)に向けて使用されたものとしか考えられないこと、さらに「大国維新之化」「大隋禮義之国」等の用語も「隋代」特に「隋初」の「高祖」の治世期間に向けて使用されたと見るのが相当であること、「裴世清」の昇進スピードについての解析も「大業三年」記事に疑いがあることを示すこと、以上を考察します。Ⅰ.「菩薩天子」と「重興仏法」という用語について前稿で述べた『隋書』の「大業年間記事」について信憑性に問題があるということについては、『隋書?国伝』の「大業三年」記事の中に「倭国王」の言葉として「聞海西菩薩天子重興...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-5)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

    さらに前回からの続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(四)―『隋書』の成立に関する事情の考察から―「要旨」前項では古田氏の指摘した部分について検討し、『推古紀』記事が「唐初」とはいえない可能性を指摘し、実際には「隋初」のことではなかったかという点について考察したわけですが、ここでは『隋書』の編纂においては「大業起居注」が利用できなかったとみられること。そのため「唐」の高祖時代には完成できなかったこと。「太宗」時代においても事情はさほど変わらず「起居注」がないまま「貞観修史事業」が完成していること。そのことから『隋書』の「大業年間記事」にはその年次に疑いがあること。以上について考察します。Ⅰ.『隋書』に対する疑い-大業年間の「起居注」の亡失について-『隋書俀国伝』には「大業三年」の事として「隋皇帝」が「文...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-4)

  • 「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

    以下前回の続きです。「『遣隋使』はなかった」か?(二)―「寶命」問題を中心に―「要旨」ここでは「寶命」問題について検討し、「寶命」が「初代」にだけ使用されるあるいは特異な即位の際に使用されるという古田氏の意見は成立しがたいこと、「寶命」は「前皇帝」との関連で使用されるものであり、「二代目」でも、あるいは通常の即位であっても使用される用語であること、「南北朝」以降は「禅譲」された「新王朝」の「初代皇帝」において(「前皇帝」の関係として)多く使用された実績のある用語であり、「天命」とは明らかに異なる意味として使用されていること、国書中の他の文言についても「唐」の「高祖」の使用例と合致しない語が多数に上ること、そのことから国書そのものの年代として「隋代」が想定されること、以上を考察します。Ⅰ.「寶命」問題につい...「『遣隋使』はなかった」か?再々再度かな-2

  • 「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)

    前回からの続きです「『遣隋使』はなかった」か?(三)―古田氏の指摘した事項についての検討―「要旨」前稿では「寶命」問題を中心に考察しましたが、ここでは氏が「遣隋使」ではなく「遣唐使」であると推論した部分についてさらに考察し、『書紀』編者の「唐」への傾倒はかなり強く、「唐」「大唐」という表記に統一することにより「隋」王朝はなかったこととされてしまったらしいこと、「豊章」(扶余豊)の来倭の年次については確かに「ずれて」いるという可能性はあるものの、『隋書』の範囲を超えた年次まで同様に年次移動が行われたとは考えられず、「遣隋使」記事に直結しないと考えられること、「呉国」表記は「南朝」を表すと見るべきであり、「隋初」の時期が真の時期として推定できること、『推古紀』記事の国書には「国交開始」を示す文言が存在するもの...「『遣隋使』はなかった」か?(再々再度かな-3)

  • 「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

    この頃研究も進まず、過去の論を見ているだけではありますが、やはり、何度でも言わずにいられないという気分になり、いくつか並べてみることとします。「『遣隋使』はなかった」か?(一)―「宣諭」という語の解釈を中心に―「要旨」ここでは「宣諭」という用語の意義から考えて「無礼」な国書を咎める内容の指示、あるいは強い指導とでも言うべきものが「倭国」に施されたと見られること、それは「隋」から見ると「許されない」性質のものであったために行なわれたものであり、国書の持つ本来の意義から考えて、このような「無礼」な国に対して「友好的な」内容の国書などは出されるはずがないこと、さらに「文林郎」という職掌は国書提出の任にないこと、以上から『推古紀』の「国書記事」と『隋書俀国伝』の「大業三年」記事とは大きく齟齬するものであり、同一の...「遣隋使はなかった」か?(再々再度かな)

  • 「伊都国」の位置についての新理解(再度)

    以下は以前投稿したものですが、最近「古田史学の会東海」で同様の思惟進行の論(「東海古代研究会」の会報「東海の古代」第277号、田沢正晴氏の「伊都国は吉野ヶ里だった」)を見たので、同意する意味で再度投稿するものです。また氏の論の中に「上陸地点」も「伊都国」もどちらも「肥」の国としてとらえることができるという指摘は強く示唆的であり、その後「倭王権」が「肥後」方向に移動したと見る立場からすると、それもまた同一統治領域の中の移動としてとらえることが可能となり、移動に関わる政治的理由もわかりやすくなります。『倭人伝』に出てくる「伊都国」について新しい理解に到達したので、以下に記します。『倭人伝』には以下の記述があります。「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往...「伊都国」の位置についての新理解(再度)

  • 昨年の木星「第2弾」

    昨年の木星第2弾です以下は木星の衛星が木星の前を通過していくにつれ、その影が木星表面に落ちて移動する映像です。(昨年12月3日20時16分から21時10分まで)最初の画像で「輝点」が右側に見えますが、これは衛星「エウロパ」と思われます。その後この「輝点」が左側に移動していくと今度はその影が「右端」に表れます。(衛星本体が「木星」表面に埋もれてしまい見にくくなりますが)この移動に要する時間はわずか54分間であり、まさにあっという間です。木星を見る楽しみの一つがこの早い動きです。一晩中快晴ならほぼ木星全体が見えてしまいます。(自転周期が10時間ほどのため)この日も曇りがちでしたが、この直後全面的に曇ってしまい、店じまいとなりました。(大気の乱れがあると木星表面の前に屈折率の違うレンズがあるような状態となってピ...昨年の木星「第2弾」

  • 昨年の木星

    昨年撮影した木星をいくつかアップします。撮影機材は昨年入手したセレストロンの28cmシュミカセに2022年同様CMOSカメラの「NeptuneCⅡ」及び3倍バーローレンズという組み合わせです。以下の1-6まで画像は1時間15分ほどの間の木星の自転と衛星(確か「イオ」だと思う)の運動が記録されており、見ているとあっという間に動いているという感じでとても面白いものです。(「イオ」は後ろから現れたと思われます)撮影日は2023年10月8日22時01分から23時17分までです。共通撮影データはアナログゲインが「237」、露出時間「13.0860ms」、フレーム数は1000です。(最高画質から95%範囲をコンポジットしており、ステライメージで編集しています)この日は曇りがち(というか雲の合間に木星が見えるという程度...昨年の木星

  • 「庚午年籍」と「国印」

    当ブログをご覧の皆様遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって良き年になりますよう祈念いたします。このブログも開設して10年を半年ほど経過しました。これからも折々記事を投稿していこうと思います。ということで以下が本年第一号投稿となります。といっても単に思い付きの域を出ないものですが…。『続日本紀』に「筑紫諸国の庚午年籍」に「官印を押した」という記事が出てくるのは知られていますが、この「庚午年籍」は元々どこにあったものなのでしょうか。当方は以前からこれが「大宰府」にあったはずのものでそれがいずこかに持ち出されていたものを新日本王権が探索し、それが入手された時点がこの「七二七年」であったと考えていますが(今でもそうは思いますが)、この「庚午年籍」にはもとも何が押されていたのでしょうか...「庚午年籍」と「国印」

  • 「隼人」征討記事について

    以前以下の記事を投稿しました。改めて再度投稿することとします。下の「文武四年」記事には『続紀』で初めて「評」が現れています。「(文武四年)(七〇〇年)六月庚辰。薩末比賣。久賣。波豆。衣評督衣君縣。助督衣君弖自美。又肝衝難波。從肥人等持兵。剽劫覓國使刑部眞木等。於是勅竺志惣領。准犯决罸」「(大宝二年)(七〇二年)八月丙申朔。薩摩多■。隔化逆命。於是發兵征討。遂校戸置吏焉。…。」「同年」九月乙丑朔…戊寅。…。討薩摩隼人軍士。授勲各有差。」確かに「評制」が「郡制」に移行するのは「七〇一年」以降と理解されていますから、この「七〇〇年」という年次に「評」による職掌を名乗る人物がいても不思議ではないように思えます。またこの記事については「没落」した「九州王権」の残党と「近畿王権」との軋轢というようなとらえ方がされるこ...「隼人」征討記事について

  • 新年を迎えて

    当プログをご覧の皆様、明けましておめでとうございます。本年が皆様にとって良い一年となりますよう祈念申し上げます。前年は月や木星など天体に興味と時間を注いだ1年でした。しかも、この歳になってまだ仕事があり、そこそこ忙しく、他に振り向けるエネルギー(時間的リソースも含め)も限られていたたため、他のことは全くしていませんでした。年末にはコロナにも感染し、体調をやや崩しましたが、持病のめまいも治まっている状態でもあり、本年もそのあたり気をつけながら過ごしたいと思います。子供の頃小望遠鏡で見て以来木星に惹かれていますが、木星は公転周期が12年で(これが暦が12ヶ月である理由とも言われますが)、そのため地球と最接近する時期は一月ずつずれていきます。(地球が一回りして戻ってきたときには360度の12分の1だけ木星が先に...新年を迎えて

  • CMOSカメラで木星を撮る

    札幌は本格的な冬となり、辺り一面白づくめの世界ですが、まだ雪が降らないうちに木星の写真を撮ったので示します。以前は家庭用ムービーで撮ってコンポジット(写りのいいカットを切り出して重ねる)していたのですが、眼視つまり望遠鏡をのぞいて見える以上には、というよりそのレベルさえも届かない程度の絵しか撮れず、こんなもんなのかなと思っていたのですが、新兵器(といってもかなり以前からその存在は知っていたのですが)CMOSカメラを入手したので、それを使って撮ってみたというわけです。それが以下のものです。ただしどれもシュミカセの光軸あわせが弱点でとても「ゆるい」画像となっていて、20cmならもう少し写るよね?とは思いますが、まあ現時点ではこんなもののようです。このシュミカセとステライメージは2005頃年頃買ったものですが、...CMOSカメラで木星を撮る

  • 久しぶりの「月」…本年(第二弾)

    7月から8月現在まで札幌はなかなか好天に恵まれず、昨年のような猛暑でないのはいいとして曇天あるいは雨天の日が多く、またたまに晴れても「シーイング」(大気の揺らぎ)が大きく星や月を見るには不向きの日が続いています。6月(と7月)にたまたまシーイングのいい日(瞬間というか時間帯)があった際に撮った月の写真を載せます。以上いずれもいつもと同じスペックで、20cmシュミットカセグレン(セレストロン製)+25mmアイピース(一部は+2倍バーローレンズ)にスマホ(4800万画素)装着です。またシーイングのいい日が来ることを願いつつ。久しぶりの「月」…本年(第二弾)

  • 石井公成氏のブログ記事について

    石井公成氏は駒澤大学の現名誉教授ですが、そのブログで以下のような記事を書かれていました。https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/3d463d60c2daa60bff6018a6f0ac7b9b私は氏のブログをかなり以前からフォローしており、それは氏の論が基本的に有用なものと考えているからです。しかし最近の記事で(といってもこの記事は昨年の9月のものでありかなり前になってしまいましたが)、古賀氏を批判した中でついでのように当方の論について以下のような書き方をされていて違和感を感じました。以下抜粋「…会員の一人が、「勝鬘」とあるのでこの文書の筆者は女性だろうと述べ、古賀氏も、また古賀氏同様に聖徳太子についてトンデモ説を書き散らしている他の会員も、その意見に賛成だそうです。...石井公成氏のブログ記事について

  • 久しぶりの「月」…本年

    暖かくなって天体(といっても現時点では月だけですが)の写真を撮るのにやっと適した環境になってきました。少しずつ、ほんとに少しずつ…。風景が変わり始めています。写真データは今年の6月7日、8日に、9日に撮影したもので、いつものように20cmシュミットカセグレンにスマホを接続したものです。(アイピースは複数種類を使用しており、またバーローレンズ入れて強拡大しているものもあります)久しぶりの「月」…本年

  • 平城京と藤原京及び難波京の関係について

    以下は以前書いたもの(「平城京遷都の実態と藤原遷都との比較」2018年12月11日)の書き直しですが、「難波津」に関する部分を書き足して再構成したものです。『扶桑略記』には「和銅三年」(庚戌)の条に「三月従難波遷都奈良」とあります。「和銅三年庚戌三月辛酉。始遷都于平城。従難波宮。移御奈良京。定左右京條坊。…」(『扶桑略記』より)『日本帝皇年代記』にも同様に「奈良」(平城京)への遷都記事に「難波」からという表現が見られます。「庚戊三〈三月不比等興福寺建立、丈六釋迦像大織冠誅入/鹿時所誓刻像也、三月従難波遷都於奈良〉」(『日本帝皇年代記』(上)より)これらの記事はあたかも「平城京」の前の「都」は「難波」にあったかのようです。これらは『書紀』『続日本紀』とは明らかに異なるものですが、それらの記述を絶対視しないのであれ...平城京と藤原京及び難波京の関係について

  • 那須評督意堤の石碑について

    山田氏のブログを久方ぶりに訪れて意外な記事を見つけて驚きました。そこには当方が書いた「那須直韋提評督」に関する論が掲載(引用され)一度はそれに従うものの、服部氏からのコメントに応じて全面撤回しているように見える記事がありました。しかしその根拠というのが「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されないというものでした。この記事及び服部氏のコメントには失礼ながら全く従えません。『「賜」の用法は『書紀』では「官職」には使用されない』という一文には二重の意味において疑問があります。一つは「評督」が「官職」であると断定していること。一つは「碑文」という第一級資料よりも『書紀』を優先しているように見えることです。そもそも「評督」が「官職」であるというのは何に拠ったのでしょうか。『書紀』には「評督」は全く現れませんから、『...那須評督意堤の石碑について

  • 「鈴」と「熊」

    この頃札幌でも頻繁に「熊」が出没し油断も隙もないというのが実際ですが、それを見ていて、『魏志倭人伝』には「熊」がいるとは書かれていないことが気になりました。「其地無牛馬虎豹羊鵲」記事の中では上に見るように人畜に害を及ぼす可能性のある動物として「虎」「豹」が挙げられており、それらはいないと書かれていますが「熊」がいないとは書かれていません。このことから当時の「倭」の領域にも「熊」がいるという解釈もありますが、この動物表記は「大陸」や「半島」にいる動物との比較という説もあり、そもそも「半島」では以前から南半分つまり旧「新羅・百済」領域という古代の帯方郡以南には「熊」が少ないという研究もあり、そのことから考えて「熊」が比較対象の範囲に入っていなかったということが考えられます。つまり「熊」はいたはずだが「魏使」の視野に...「鈴」と「熊」

  • 「シリウス」と「桜井天体」

    つい最近「桜井天体」というものがあるのを知りました。これは一九九六年に日本のアマチュア天文家桜井幸夫氏によって発見されたもので、通常非常に暗い天体がゆっくり明るくなったものです。これが変光星や新星現象と異なるのは元になった星が「白色矮星」であり、増光時「赤色巨星」になっていたことです。これは以前に「白色矮星」となっていた天体が、後期熱パルス(ヘリウム殻フラッシュ)という現象の結果、膨張して「赤色巨星」になったと考えられているものです。「白色矮星」は「赤色巨星」の進化の先にある天体であり、この場合いわぱ「後戻り」したことになります。「赤色巨星」が「白色矮星」へと「進化」する過程においては、中心部で核融合反応の主役である「水素」が枯渇してくると「反応」そのものが低下し、発生するエネルギーが減少することとなりますが、...「シリウス」と「桜井天体」

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