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2014/11/03

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  • 郡制などの制度と近畿王権

    以前投稿したように「倭国王権」の「東国直接統治」の開始とその破綻という事象の中で「倭国」が「東国支配」の実施時点で「日本国」と改称していたことを捉えて「近畿王権」による「遣唐使」派遣され、彼等が行った「日本国」自称が「唐」から「倭国」とは別の国にとして認定されるという事態になり、結果として「筑紫日本国」(旧倭国)と「難波日本国」(近畿王権)の両王権の並立ということが起きたと推定したものです。(「唐」からはその後も「倭国」と「日本国」は別という認識が継続したと推定)その際「冠位制」について近畿王権にも元々あっただろうという別の推論を得たわけですが、それはさらに「郡」についても元々近畿王権の支配下で行われていたものではなかったかという推論に至りました。つまり「大宝令」について「近畿王権」の「日本国」が「近江令...郡制などの制度と近畿王権

  • 「評」と「郡」について

    「評木簡」つまり「評」が制度として行われた期間に「評」が記載された木簡の多くは「五十戸」という制度も併せて書かれています。(以下例を示す)①三形評三形五十戸生部乎知◇調田比煮一斗五升?031荷札集成-134(木研18-飛鳥京跡)②丁丑年(677)十二月三野国刀支評次米恵奈五十戸造阿利麻舂人服部枚布五斗俵032飛鳥藤原京1-721(荷札飛鳥池遺跡北地区)③丁丑年(677)十二月次米三野国加尓評久々利五十戸人物部古麻里?031飛鳥藤原京1-193(荷札飛鳥池遺跡北地区)④知夫利評由羅五十戸加毛部乎加伊加鮓斗031荷札集成-169(飛20-28藤原宮西方官衙南地区)⑤尾張海評堤田五十戸032飛鳥藤原京1-191(荷札飛鳥池遺跡北地区)この「評」という制度は『書紀』では決して記載されていません。明らかに隠蔽されて...「評」と「郡」について

  • 「大宝令」と「浄御原令」(再度)

    以前「釈奠」について書きました。そのとき「その後の『永徽律令』では「釈奠」として祀る対象が変更となっているのですから、よく言われるように『大宝令』が『永徽律令』に準拠しているとかその内容に即しているというのは正しくないという可能性が高いと思われる」と書きました。改めて言うと「釈奠」とは儒教の祭祀儀式の一つであり、その祭祀を行う対象として「先聖先師」というものがありました。「唐」の時代、初代皇帝「李淵」(高祖)のはこの「先聖先師」として「周公」と「孔子」が選んでいます。「高祖」は「周王朝」を立てた「周公」を尊崇してたと思われ、自身を「周公」に見立てた結果「祭祀」の対象をそれまでの「孔子」から変更したものと思われます。しかし「貞観二年」(六二八年)「太宗」の時代になると、「先聖」が「孔子」となり「先師」は「顔...「大宝令」と「浄御原令」(再度)

  • 近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

    以前日本国としての初めての遣唐使は白雉五年(六五四年)の高向玄理たちのものであると書きました。この時の遣唐使達が唐の都長安で「東宮監門郭丈挙」から国の名や地理について全員に問いかけがあったことが『書紀』に書かれており、それが「日本国」についての問いかけであったことから、これが「日本国」としての最初の遣使であることを示すものとみたものです。ただしこの年次としては『旧唐書』には何も書かれておらず、その意味で『書紀』の年次を信頼して述べたものですが、セミナーでもこの点について疑念が出されておりました。それは『書紀』の記事の中で「押使」である「高向玄理」らの「冠位」の表記が2種類書かれており、その一つがこの年次より後に制定されたと考えられているものだからです。「(六五四年)白雉五年…二月。遣大唐押使『大錦上』高向...近畿王権の冠位制と倭国の冠位制

  • 「諱字」と『書紀』編纂(改)

    以下は以前投稿したものを微修正したものです。趣旨は変わりありません。唐の二代皇帝太宗の諱「李世民」は「六四九年」に死去しましたが、生前は「世民」と二字連続するようなもの以外は「諱字」ではありませんでした。しかし、「高宗」即位以降、「世」「民」とも「諱字」となり、「官名」「氏名」などから避けるべきこととされました。そのため「隋代」から存在していた「民部」はこの時点(六四九年)以降「戸部」と改められたものです。『…尚書省,事無不總。置令、左右僕射各一人,總吏部、禮部、兵部、都官、度支、工部等六曹事,是為八座。屬官左、右丞各一人,都事八人,分司管轄。吏部尚書統吏部侍郎二人,主爵侍郎一人,司勳侍郎二人,考功侍郎一人。禮部尚書統禮部、祠部侍郎各一人,主客、膳部侍郎各二人。兵部尚書統兵部、職方侍郎各二人,駕部、庫部侍...「諱字」と『書紀』編纂(改)

  • 「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)

    以下は以前投稿した記事を微修正したものです。趣旨は変わりありません。『旧唐書』等中国側史料によれば「六三二年」に唐皇帝「太宗」(二代皇帝)が倭国に使節「高表仁」を派遣したとされます。(これは私見では実際には「六四一年」ではなかったかと考えていますが)この時「倭国王」あるいは同席した「王子」と「高表仁」が「礼」を争い、それに気分を害した「高表仁」が「朝命」を果たさず帰国する、という事件があったとされます。この「高表仁」という人物は『旧唐書』という史書の中では、以下のようにかなり明確に「けなされて」います。(「遠方の国を安んずる才能がない」という言い方をされています)「貞觀五年(六三一年)、遣使獻方物。大宗矜其道遠、勅所司無令歳貢、又遺新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才、與王子爭禮、不宣朝命而還。至二十...「高表仁」の来倭と「不宣朝命」について(改)

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