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2014/11/03

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  • 「軍制」と「百済を救う役」

    「冠位制」が「冠位令」のもとのものである可能性があることを踏まえると、軍隊組織においても同様のことが考えられます。つまり「軍防令」的なものが存在していた可能性です。既に指摘していますが「百済を救う役」における軍隊構成において「軍防令」的なものの存在が推定されます。そもそも軍隊への兵を徴発しようとした場合、最も合理的で確実な方法は一つの集落や一つの地域から必要な人員を徴発することです。それは一定の人数が確保できるという点で優れています。任意にあちこち徴発して回るより下部組織に向けて徴発指示を出し、その指令により各地域で必要な人員を選出し供出するのが最も確実と言えるでしょう。これら一つの地域から選抜した人員により一つの部隊を構成すると各人共通の意識形成が容易であり、また言葉の問題も解決しやすいと思われます。つ...「軍制」と「百済を救う役」

  • 「鎮将」と「都督」(改)

    以下はかなり前に書いたものですが、現時点での理解している内容にバージョンアップした内容として書き換えを行いましたので投稿します。改めて列島支配の権力の推移を概観すると、「新日本王権」に至る経過として当初「倭王権」であったものが「東方直接統治」の失敗により「日本国」が「「難波日本国」と「筑紫日本国」に分かれる形となって、その後「百済」を巡る戦いで「筑紫日本国」が一度滅びる形となって以降、「難波日本国」による列島支配があり、その後帰国した「薩夜麻」を中心とした旧「筑紫日本国」勢力によりいったん「倭王権」に戻り、その後それも「大地震」と「大津波」の影響などにより崩壊することとなった結果再度「難波日本王権」が復活する形で「新日本王権」となったと推定ています。この流れに深く関係しているのが「唐・新羅」と戦いとなった...「鎮将」と「都督」(改)

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